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とりがら時事放談『コラム新喜劇』



写真:嵐電大宮駅((c)2007 Torigara Entertainments)

四条大宮で市バスを下車。
阪急電車に乗り換えて河原町へ向かおうと地下改札への階段へ向かって歩きはじめてすぐに気が変わった。

「そうだ、嵐山へ行こう」

祇園行きのバスを降りて、わざわざ電車に乗り換えバスと同じ目的地へ行くのもつまらない。
なんだか電車賃が勿体ないような気もする。
それに四条大宮といえば阪急電車に乗ることもできるが、嵐電の始発駅でもある。

そこで私は急きょ目的地を変更し、嵐山へ行くことにした。
祇園に行かずとも嵐山でも十分に「オノボリサンたち」を観察できると予想したからだ。
いや、もしかすると嵐山では祇園よりももっと典型的なオノボリサンを観察できるかもしれない。
なんといっても場所は「嵯峨野」だ。

「SAGANO」という地名には独特のブランドイメージがある
それだけに絵に描いたようなオノボリサンに出会えるチャンスがあるのだ。
例えば「嵯峨野、京都女ひとり旅」なんていうロマンチックな妄想の世界に浸っているオバハン、もといお姉さま方から、「嵯峨野殺人事件」なんていうショーモナイ二時間物の安物の推理ドラマのような想像の貧困の象徴みたいなものまで。
嵯峨野という地名から受ける印象は多岐に渡っている。

その嵯峨野、嵐山へは、ここ四条大宮から「嵐電」に乗車すると行くことができるのだ。

ここで「嵐電」と聞いてもなんのことやらわからない地方の人に説明が必要だと思われる。
まず「嵐電」と書いてなんと読むかが地方の人にはまず問題だ。
「あらでん」でもなし、
「あらしでん」でもない。
正しくは「らんでん」なのだ。
「嵐電」と書いて「らんでん」と読める人は少なく、「嵐」の文字があるので「ああ、きっと嵐山へ行く電車なんね」と納得するのがだいたいのところか。
もともと京福電気鉄道という京都のローカル私鉄の嵐山本線なのだが、その愛称を込めて「嵐電」と正式に呼ぶようになったのがつい最近なのだという。
京福電車は名前の通り、もともとは京都と福井県を結ぶという壮大な計画のもとに設立された鉄道会社なのだが、ついに鞍馬の山を越えることができずに約70年。
福井県側の営業路線は他社に譲渡か廃線となり、京都の本部も大阪の京阪電鉄の傘下となってしまった。
少しばかし気の毒な中小私鉄なのである。
嵐山本線を「嵐電」としたセンスも親会社京阪電鉄の「ひらかたパーク」を「ひらパー」としたのと同種のセンスなのかもわからない。

嵐電は一回の乗車につき200円。
どこからどこまで乗っても同じ料金である。
私はICOCAもPiTaPaもSuicaもPASMOも役に立たない京都という街の独自性に感心した。
強烈な個性を持つのは関西の主要都市では当たり前。
首都圏のように千葉も埼玉も横浜も、どれもこれもミニ東京になっているのとは違って、関西では大阪も神戸も奈良も和歌山も、そしてここ京都も一つとして「隣の街に合わせよう」なんて気がさらさらないのが特徴だ。
京都から山一つ越えてすぐにある大津(滋賀県)でさえそうなのだから、関西がまとまらないのも頷ける。
その中でもやはり京都は特別だ。
大阪人の私がいうのだから間違いない。
東京では「親子三代住まないと江戸っ子なんて読んでくれないよ」といわれるが、京都では「親子三代」程度では話にならず「うちは代々、応仁の乱頃から京の町に住んでます」といわなければ市民権はない。
やはりそういう意味で、ここはまだ日本の首都なのかもわらない。

話があっちこっち飛んでしまったが、ともかく私は200円の乗車券を買い求め、無人の改札口を通ってプラットホームへ上がった。
嵐電はワンマン運転。
システムはバスと一緒で乗車券は降車するときに運転席横の運賃箱に投げ込むようになっている。
従って改札口は無意味なのだ。

つづく

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