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とりがら時事放談『コラム新喜劇』




お正月なのでいきなりボヤクのは良くないと考え、今日ものほほ~んとミャンマー旅行に思いを馳せましょう。

昨年のGWに古都マンダレーから自動車をチャーターしてモンユワへ。
でこぼこの道を進むこと約三時間でモンユワへ到着。
ここで一泊した後、翌日に向かったのがポーウィン山という山にある石窟寺院。

石窟寺院といえば中国の敦煌のような超有名で壮大なものや、大阪府と奈良県の県境二上山の中腹にある鹿谷寺遺跡のような、あんまり知られていないしょぼ~いものまで様々。
このポーウィン山の石窟寺院はあまり知られていないけれども観光地としての価値は十分にある見ごたえのあるところ。
規模のそこそこ大きくてミャンマーらしい和洋折衷ならぬ緬洋折衷の雰囲気がかもされ独特のムードが漂っていました。

ただし..............めちゃ暑い。

訪問した4月末は一年でも最も暑い季節。
とりわけモンユワあたりのサガイン管区は乾燥地帯として知られており、暑さも中途半端ではなく、たとえば駐車場で自動車を降りてお寺の入り口にむかって歩いていく僅か10メートルほどの距離の間にビッショリと汗をかくくらい、暑い。
気温はきっと摂氏40度ぐらい。
自動車は途中でエンジンルームを冷やすために休憩しなければならないようなところ。

見ごたえはありますが、興味のある方は体力を整えて訪問してください。
はい。

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写真:ヤンゴンのナイトバザールのアトラクション「観覧車」(但し人力) 11/25撮影

ミャンマーでの恐怖体験なんてタイトルを付けたら「ついに『とりがら時事放談』も目覚めたか」なんていうサヨった人たちから歓迎を受けそうだが、そんなこととはまったくない。
「軍事政権」だとか「人権弾圧」だとか「スーチーさん」なんてマスコミやアメリカ、イギリス主導の国際社会が宣伝する脚色内容にはまったく動じないのが当ブログの特徴だ。
で、何が恐怖体験かというと、先週末、ヤンゴンでそれはそれは恐ろし~い「観覧車」を目撃してしまったことだった。

ヤンゴンのナイトバザール。
もう何度もミャンマーに行っているのにそんなものがあるなんててんで知らなかったら、見つけたときはびっくりした。
昨日TBしてくださった地球浪漫紀行さんによると、つい最近始まったお祭りなのだという。
尤も、敬けんな仏教徒の多い保守的文化のミャンマーのこと。
タイのパッポン通りの如何わしげで怪しげなナイトバザールと異なり、いたって健康的。
たとえて言えばナイトバザールというよりも「縁日」。

輪投げありの、くじ引きありの、わたあめ屋さんありの、お好み焼き屋さんありの、本当に縁日。
もともとの電力不足でロウソクの明かりが唯一の光源というところも少なくないので薄暗いのが欠点だが、
「シャチョ~、イイオンナノコイルヨ、ミルダケタダ」
などというようなヤツがいるお隣の国のようなことは皆無だから親子連れで楽しめたりなんかする雰囲気だ。
現に、ナイトバザールは親子連れでごった返していた。
だから、まさに縁日。
私はここで日本人代表として「金魚すくい」か「ヨーヨー釣り」でもやってみたいくらいの雰囲気だ。

この「縁日」でひときわ目を引いたのが移動遊園地。
メリーゴーラウンド、
回転する宇宙船、
そして観覧車。
いずれもむか~し日本のデパートの屋上にあったような遊技施設なのだが、これが全部「人力」で動くのだから恐ろしい。

とりわけ見るだけで恐ろしく、そして面白く、人だかりができていたのが観覧車だった。

お客さんがゴンドラに乗ってグルグル回るのは他の観覧車と同じなのだが、それを回しているのは4人ほどの男のスタッフ。
お客がゴンドラに乗り終わると、4人の男達はやにわに観覧車によじ登り、自らの体重で観覧車を回し始める。
その回るスピードの速いこと、速いこと。
ゴンドラは遠心力で振り回され、乗っているお客は笑いながら悲鳴を上げている。
「うぉおおおおおおおおお~」
見ている者も絶叫だ!

この高速回転を止めるのも人力で、乗ってみたいと思ったけれど、
「邦人、またもやヤンゴンで死亡。原因は観覧車からの転落か?」
なんて新聞に載ったりしたら恥じかきそうだから止めにした。

ある意味、ミャンマーでの恐怖体験の一つなのであった。

ところで、ミャンマーで最も恐怖に感じたのは西部のミャウーという街からチン族の村をボートで訪れたときであった。

日本から三日がかりでたどり着いたこの村。
川沿いにありノ~ンビリした少数民族の村で、顔面いっぱいにに入れ墨を施した女性がいることでロンプラなどにも載っている地方なのであった。
現地ガイドの案内で岸のがけをゆっくり上がると、ニッパヤシで立てられた家々が建ち並ぶ村の入り口にさしかかった。

ふと右手を見ると、4歳ぐらいの子供が一人で粘土遊びに興じていた。
一生懸命、こね繰り回し、丸くしたり、地面に叩きつけたりして喜々として遊んでいるのだ。
「子供はかわいいな~」
などと思って近寄りよくよく見ると、その子の遊んでいるものは粘土ではなく、牛の糞なのであった。

糞=粘土。

近づいた私にその子が気付いた。
こちらを振り向き私の顔を見て「ニコッ」と微笑んだ。
そしてやにわに立ち上がり、こちらに歩み寄ってくるのであった。

私は子供が大好きで、とりわけミャンマーへ行くと外国人が珍しいのか、すぐ遊び相手になってしまう。
しかし、このとき私は言い知れぬ恐怖を感じたのであった。

「あああ、牛の糞で遊んだ手でワシの服にさわるんやない!こら、寄って来るな」
と微笑みながらも、引きつっていたのだった。

今になって考えてみれば、これがミャンマーで経験した最大の恐怖だったかも分からない。

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これがゴールデンロックへ向かう「登山用豪華バス」。
運賃は片道1300チャット(11月26日現在 日本円で130円)。

爽やかな風が頬をなでるが、客席は極めて狭く足がメチャ痛。
慣れない「オープンカー」の「ダンプ式ショックアブソーバー」に加え探偵ナイトスクープ!で採り上げてもらいたいぐらいの急傾斜をアップダウンするので、まるで「ジェットコースター」。

正直言って、実際にチャイティーヨーパゴダのゴールデンロックへ行って帰っての最大の土産話は「ゴールデンロック」ではなくて「この豪華バス」。

是非一度ご体験ください!(笑)

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写真:チャイティーヨーパゴダのゴールデンロック(11/26撮影)

「ミャンマーへ行こう!」
なんて誘っておきながら、どこへ行くのかプランも示さないのはサイテイ。
と言われかねないので、「とりがら時事放談」がお勧めするお笑いプラン第一弾。

まずは超有名なゴールデンロックへの旅。

A.年末年始に旅する豪華版の場合

(第一日)バンコクを経由してタイ航空のビジネスクラスでヤンゴン入り。関空からなら深夜便で翌朝到着可。成田からは夜到着。途上国とばかりの先入観でヤンゴンに到着すると完成したばかりの国際線ターミナルがミャンマーの印象を一変。しかしこのターミナルが私たち日本人の血税で作られていることを知る日本人は、少ない。

朝到着の関西人はそのままヤンゴン市内観光。シェダゴンパゴダやアウンサン将軍記念館を観光。なお、お寺の境内は履物厳禁、靴下厳禁で全て素足なので犬のウ○コを素足で踏まないよう注意を要する。(筆者は踏んでしまった経験あり)
天候は快晴。
気温は28度前後。朝夕は寒いくらいのさわやかさ。
宿泊はヤンゴン中心に位置するトレーダーズホテル。

(第二日)早朝5時頃ホテルを出発(車チャータ)。途中シッタン市の日本人墓地を訪問し、異国の地で非業に倒れた兵隊さんたちを追悼。チャイト市近くのリゾートホテルで昼食ののち、キンプン村キャンプから専用チャーター登坂用バスで楽々登山。中腹のヤテタウンでチャーター車を下車し四人の男が担ぐカゴでチャイティーヨーパゴダへ。
ゴールデンロック参拝。
遥か地上に夕日に輝くシッタン川を眺める。
チャイトホテルの見晴らしの良い崖っぷちの部屋へ宿泊。

(第三日)早朝5時に起床し夜明けのゴールデンロックを参拝。旭日奉拝。
朝食後、四人の男が担ぐカゴでヤテタウンへ下山。そこからは専用チャーター下山用バスでキンプン村へ。
キンプン村で土産物購入後、専用車でバゴー市内観光を経てヤンゴンへ。

(第四日)ヤンゴン市内のマッサージ店でリフレッシュマッサージ2時間の後、ホテルのプールで疲れを癒す。夕刻のタイ航空ビジネスクラスで帰国の途に。

B.6~8月頃に旅する貧乏版の場合

(第一日)成田からのインド航空でバンコク入り。カオサンのドミトリーで一泊した後エアアジアのエコノミーでヤンゴンへ(往復80ドル)。
ヤンゴン国際空港へ到着もターミナルのボーディングブリッジが故障でバスに乗車。バスの中の「つぎとまります」表示や「降車の時はこのボタンを押してください」などの「日本語表示」にがく然とする。
入管で手続きに手間取ったうえ10ドルの賄賂を請求される。
ほとほとの入国に続いて手荷物が出てくるまで1時間。
やっとのことでロビーへ出ると、どれが乗り合いタクシーなのかさっぱり分からず途方にくれる。
外へ出てみるとモワ~とした空気が漂い、蒸し暑い。
雨がシトシトと降っている。
ヤンゴン市内では一泊10ドルのクイーンズ・パークホテルへ宿泊。夜中は外からの音がやかましいは、停電でエアコンは止まるは熟睡できず朝を迎える。

(第二日)朝から時間潰しのためシェダゴンパゴダを訪問するも「外国人は拝観料5ドル」に憤慨し屋台でミャンマービールをたらふく飲み、飲酒を卑しむこの国の文化で人々から眉をそばめられる。
夕刻、乗り合いバスのゴールデンロック行きに乗車。
季節外れにも関わらず車内は満席。
運転席後ろのテレビからはミャンマーの音楽が大音量で流れ続ける。なお、バスは聞いたこともないような日本の観光バスの中古車両。窓枠は壊れていて閉まらず、雨粒が頬を伝う。

(第三日)未明、キンプン村へ到着。登山用バスが運行し始めるのを宿屋兼食堂で仮眠して待つ。
始発のバスに乗り込もうとバス乗り場へ行くとバスとは名ばかりの「日本の中古ダンプカーに腰掛け用板を渡したもの」であることを知りがく然とする。
超満員に詰め込まれ足を腰かけ板に挟まれ苦痛のまま「日通北関東支店」と書かれたバスで登坂開始。
ジェットコースターのような運転に悲鳴を上げながら「オープンカー」の乗客席で早く目的地へ着くことを祈る。
なお、雨合羽を着てみたが雨期の雨に効力はなくパンツまでびしょ濡れになる。
ヤテタウンで下車の後、自力で登山。
途中、坂道の石段部分で足を滑らせひっくり返りミャンマー人の参拝客の笑いものになる。
チャイティーヨーに到着するも雨のため10メートル先も見えず、ゴールデンロックの輪郭だけ見て帰る。
宿泊はチャイトホテルのビニール窓がガタガタうるさいドミトリー。

(第四日)雨は降り止まず朝日を期待してゴールデンロックに参拝するも、ライトアップの電球だけを拝んで下山。
恐怖のダンプカーバスでびしょ濡れになりながら下山。
乗り合いバスに乗り込もうにもびしょ濡れのためキンプン村の売店でロンジーを買い求め、
「よく似合うよ。ミャンマー人みたいだ」
とミャンマー人に褒められて初めて感動する(なぜ感動するのか分析は不能)。
シッタン川を渡っている途中何気なく「奇麗な景色だな~」とカメラのシャッターを切ったら同乗していた軍人の客から思いっきり叱責を食らう。
途中バゴーでバス故障。修理3時間の後、深夜ヤンゴン着。

(第5日)昨晩屋台で食べたモヒンガーで腹を壊し下痢。不安を抱えたままヤンゴン国際空港へ。
エアアジアのエコノミークラスで帰国の途へ。


と言う具合に金額に関係なく結構おもしろい旅プランが作成できます。

ま、実際はもっと普通なんですけどね。


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写真:大勢の参拝者で賑わう夕刻のシェダゴンパゴダ(ヤンゴン)。欧州系外国人観光客の姿も多く見られた。(11月18日撮影)


ということで、皆様の予想通りミャンマーへ行って参りました。
本来なら、オモ~イ雰囲気で「ミャンマーの今」なんてレポートを書くのが一般的なのでしょうが、そこは左巻きの人たちとは異なる意見の「とりがら時事放談」。
そんなことは書きませんからね~っと(←桂小枝の口調で読んでください)。

外務省の海外安全情報をチェックするとミャンマーは「渡航の是非を検討してください」とか書いてあった。
なんじゃ、こりゃ?

これはお隣の観光大国「タイ」への旅行と比べて費用がかかるので「予算の是非を検討してください」という意味ではまったくない。
ご存知のように日本人カメラマン(←ジャーナリストなんて呼びたくない)がデモの取材中に射殺されるなんていう事故(←事件なんてことも言いたくない)が発生したので、事なかれ主義の外務省というお役所が「もめ事はたくさんだ」というご立派な精神のもとに発令している邦人への警告なのに違いない。(ちょうど駐ミャンマー大使も代わったところみたいだし)

で、その事件について現地ヤンゴンではどんな噂がささやかれているのか、という皆さんが関心あることについては明日以降にお伝えするとして、まず今日は私から皆さんにお願いがあります。
それは.......

ミャンマー旅行に出かけよう!

ってこと。

ミャンマーの旧都ヤンゴン(英国名ラングーン)はタイのバンコクから空路僅か85分。
成田や関空、中部空港からはタイ行きチケットに往復で2~3万円もプラスすればヤンゴンまで行くことができる。
ビザ取るのが面倒だけど、それだけの価値は間違いなくあり!と断言。

有名なゴールデンロックまではヤンゴンから強行日帰りもできる。
シェダゴンパゴダをはじめとする数々の寺院も魅力的。
そしてなんといっても超親日的な対日感情と、超穏やかで人懐っこいミャンマーの人々が魅力的。
治安も抜群。
これは軍政による弾圧があるから、なんていうバカな話ではなくって、かつての日本人にとてもよく似た国民性によるもの。
タイのスコータイで発生したような悲しい事件は極めて起こりにくい国と言っても過言じゃない。

もし、年末年始に海外旅行を計画し「東南アジア方面に出かけよう!」なんて思っている方々がいらっしゃったら是非ともミャンマーを訪問していただきたい、というのが「とりがら時事放談」管理人の私からのお願いです。

で、なぜ私がこんな余計なお世話なことを書いているかというと、例の事件でひるんでしまって現地を訪れる日本人が激減していることを知ったからです。
これ、当たり前ですが現地の一般の人々には非常に困ることなのです。

ミャンマーには日本語を学習して数少ない国内の日本企業で働くことを夢見ている若者大勢います。
日本語を習うことはある意味チャンス。
ミャンマーの劣悪な経済状態から抜け出すための一つのチャンスと言えます。
まして日本人は彼らの尊敬するアウンサン将軍らを中心として先の大戦で一緒に戦った身近な民族。
日本人として気恥ずかしい話ですが、彼らの希望に少しでも応えてあげる立場にいることが日本人とアメリカ人やイギリス人とも違いです。

で、その日本語を駆使して生計を立てている代表が観光やビジネスツアーを支える日本語ガイドさんたち。
日本人が「ビビって」訪れなくなるだけで、普段でも苦しい彼らの生活がさらに苦しいものになってしまうのです。

「経済制裁は当たり前じゃ!それで国民が苦しんで何が悪い!」
なんて思っている人は日本人ではありません。
アメリカかイギリスにでも移民してください。
自分の目で確かめもせず、また自分の人生の中で苦労などしたことのない人間の戯言です。

このメチャクチャ厳しくなってしまった今このときに彼らは何をしているのか。
考えたことがありますか?

例えば日本語ガイドさんたちが今何をしているのかというと、
「日本語力のブラッシュアップ」
「グループを組んで観光地を訪れ日本人に紹介するための集団合宿学習」
「ミャンマー文化の日本語紹介のための勉強」
などなど。
そういう地道な努力をしているのです。

経済の都合で田舎へ送金をしないといけない人たちや、残念ながら一時帰郷してしまった人たちもいるようですが、この厳しい時期に地道に立ち向かっているミャンマーの人たちの姿があります。

だから「とりがら時事放談」管理人の私はお願いしたいのです。

年末年始の東南アジア旅行なら。
みんな話題のミャンマーへ行ってみよう!



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写真:ヤンゴン中心部「サクラタワー」の最上階から撮影

一カ月ほどブランクができてしまいましたがミャンマーレポートの続きです。
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一昨日(8/23)、ミャンマーの前首都ヤンゴンで小規模のデモ行進があったことを各メディアはそこそこの大きさで報道した。
スーチー女史率いるNLDのメンバーも参加した今回のデモ行進は軍事政権に対する民主化要求のデモではなく物価高騰を何とかしろというデモだった。

実際ミャンマーの物価上昇はかなりのもので、このGWに訪れた時、バス代などは私が初めてこの国を訪れた2003年と比較すると倍になっていたのだ。
倍といっても日本人の私にはドトールコーヒー一杯分より遥かに安いのだが、平均所得が日本人の20~100分の1程度のミャンマーの人々にとってはただ事ではない。

物価の上昇は昨年公務員の給与が引き上げられたのがきっかけとなって始まった。

「公務員の月給は6ドルなんです」

初めてミャンマーを訪れた時にガイドさんの説明にビックリしたのを今も思い出す。
生活に必要な米や豆類などは現物支給されるし官舎も提供されるということなので、6ドルでもやっていけないことはない。
ことはないが、やはり現金収入が乏しいので現金収入を考える。それが悪しき賄賂や恐喝に繋がってしまうのだ。
空港などで時々目に低級役人による理不尽な外国人旅行客やそのガイドさんたちへの現金要求がそれなのだ。

そんな低給与の公務員の給料が月額12ドルかなんかに引き上げられた。

「首都をネピドー(旧名ピンマナ)に移したからなんです。あんなところに行きたいって思う人なんかいませんよ。」

というのは昨年末の話。
公務員の不平を逸らすための昇給で物価も吊られて上昇するのもわからないこともない。
食品が上がり、衣類が上がり、そして折からの石油価格の世界的な上昇にともなって燃料費が高騰した。

ヤンゴン市内を運行するバス会社は多数あり、その車両の多くが日本からの中古車であることは度々このブログで紹介している。
例えばヤンゴン国際空港の空港内のバスも日本の中古。
車内には「つぎとまります」の表示も「降車ボタン」も「広告」もそのまま残されており、何も知らない日本人旅行客がここへやって来ると、まず最初に驚く場所にもなっている。
もちろん市内は当然、地方へ行っても日本の中古バスが普通に走っていて、ヤンゴン市内には「南海バス」「銀バス」「京都市営交通」「神戸市営交通」「東急バス」などのが縦横無尽に走り回っている。
遺跡の街、バガンへ行った時には「志摩スペイン村へ」の看板を付けた元近鉄バスが走っていたので「なんじゃこりゃ?」と思ったことを昨日のことのように記憶している。

鉄道は環状線が走っているだけ。
地下鉄もモノレールもないヤンゴン市内の一番の足がこのバスなのだが、このバスの燃料は配給制。
一日に配給される燃料の量は政府によって定められている。
当然のことながらそんな配給燃料ですべてを賄えるわけが無く、とどのつまりは営業をするためにバス会社は「闇燃料」に走ることになる。
闇燃料は路上や町外れで販売されていて、18リットル缶や三角形のポリ製オイル漏斗で現金取引。
使う通貨はチャットも使うがドルも使う。
外国人客たる私ができることと言えば、その闇燃料取引の場所にいても、見て見ぬふりをしてあげること。
公定燃料が値上げされると、それ以上に闇燃料が値上げされるのは当然の成り行きだ。

燃料値上げが物価高に繋がり市民の生活を圧迫する。
結局、最近は政府との打開点を探し始めているというスーチー女史率いるNLDも身近な「経済問題」を放置しておくことはできなかった、というのが今回のデモになったのだろう。

ところで、燃料費高騰に苦しむミャンマーだが、ここが豊富な天然資源に恵まれた国であることを私たち日本人はあまり知らない。
知らない証拠がいつものその脳天気さに現れている。
「ミャンマーの人権問題は米英と歩調を合わせなければ」
なんてのがその代表的な意見だ。
ホントは人権なんかどうでも良いというのが米英の本音なのに、日本人はバカ(正直)なので気付かない。

この国の地底には石油、鉄鋼、ウラン、銅などの希少金属、ルビー、サファイアといった宝石類が掘り出されるのを今か今かと待っている。
数種類の鉱物を除きほとんどの天然資源を本来であれば自国内ですべて賄える国、それがミャンマー。
その金になる天然資源がことごとく未開発となれば利に聡くて腹黒い米英が放っておくはずはない。
これら二つの国がその利権を手に入れるためなら戦争も厭わないことはイラク戦争を見てもイスラエル擁護の体質を見てもよく分る。
ここミャンマーでもスーチー女史を利用しての人権問題は「民衆を煽り立て、あわよくば軍事政権を倒して親英親米の政権を作ろうよ」というのが真相だ。

インド洋の東の端アンダマン海。そのマレー半島沿いに延びるミャンマー南部の島々の地下に巨大な油田が眠ると言われている。
数年前にはドイツの企業が調査団を滞在させていた。
余談だがここは1987年に北朝鮮工作員が仕掛けた爆弾が炸裂して大韓航空機が墜落した場所でもある。
で、ドイツならば良いのかどうかは知らないが、日本政府がミャンマーへ投資することを快く思わない米中はアムネスティだとか国連だとかを駆使して、日本の対緬支援を妨害しているというのが国際政治のパワーバランスだ。
なんせ日本は歴史的にも親緬だし、ミャンマーは世界三大親日国の一つ。
そんな二つが意気投合したらますます東南アジアでの日本の影響が強くなって「好ましくない」と言いたいところなのだろう。

この米英の資源獲得戦略に最近登場したのが、ご存知無法国家の中国で、こっちは米英に遠慮することなくミャンマーに経済援助に軍事援助。
道路を作り、首都を移させ、国境を越えてどんどん中国製品を買わせる。
目的は昔の援蒋ルートの経済動脈化と資源の乏しい自国のエネルギー源確保。
あわよくばミャンマーの国土もちょこっといただければベストかな、と言いたい所か。

ということで、米英という敵に加えて中国という腹黒い友好(に見えるだけの)国が物価高騰の背後にいることをマスメディアは同時に報道すべきだろう。

なお、ミャンマーでのデモ行進は違法だが、今回拘束されたのは数人で、よくよく考えてみるとNLDも公に活動している。
これを中国の北京で法輪功あたりがデモ行進したらどうなるか。
考えてみると、なかなか面白いと思うのは私だけか。

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写真:客待ちしているサイカーのオッチャンら(シットウェー市内にて)((C)2006 Torigara Entertainments)


アキャブことシットウェーの街は大変賑やかなところだった。
大通りには多くのサイカーやバイクが走り、サイカーの客席には傘を差したお坊さんや、買い物帰りのオバサンが乗っている。
また人を載せなくとも市場で買ったものや商売で仕入れられたと思われるようなズタ袋に入った荷物などが載せられ運ばれたりしているのだ。
もちろんサイカーといってもバイクのサイドカーではなく自転車のサイドカーなので運転手は漕がなければならない。
したがって、運転手は痩身な人がほとんどで私のようなデブはいない。

その大通りの両側には平屋の商店が並んでいた。
雑貨店。
薬局。
衣料品店。
CDやテープを売っている店。
散髪屋。
日本人の目からは何を売っているのか判別できない店など。
色々な店が私の好奇心を誘ってくれるのだ。
それにしても本当に活気がある。

家並の向こう側には時計塔が見える。
なんでも19世紀にイギリス人によって建設され時計台なのだという。
大戦中はあの時計塔を目印に我が日本軍とビルマ独立義勇軍が英印軍と闘っていたという歴史ある時計塔なのだ。

「なにか食べ物を買っておきましょう」
とガイドのTさんは言った。
「食べ物........が要るんですか?」
と私。
「船には食べ物や飲み物が無いと思うんですよね」
なんのことやらサッパリ分らない。
船に乗るのに食べ物が要るのか?
これからどんな航海をするのだ?
食べ物を購入しなければならないほどの長旅なのか。

いやいや。
これから始まる移動は海ではなく川を遡って行く旅なので航海ではない。

実は今日ヤンゴンからフライトしてきた私の目的地はここシットウェーではない。
このシットウェーの北北東約70キロメートル彼方にあるミャウーという町が最終目的地なのだ。
そのミャウーへ行くためには、ここシットウェー市の西を流れるカラダン川を船で遡って行かなければならないのだ。

そう、目的地のミャウーはかなり辺境の地にあるのだった。
そんな辺境の地「ミャウー」へなぜ行くのかというと、そこがあまり一般的に知られていない遺跡の町だったからだ。
かといって、ショーモナイ遺跡の町ではない。
ミャンマーにある世界三大仏教遺跡バガンに匹敵するような、凄い遺跡が点在している町なのだ。

どうしてそんな大規模な遺跡を抱えるミャウーが有名でないかというと、この地域は長年外国人の立ち入りを禁止してきたからという。
私たち外国人旅行者に開放されたのはつい最近。
したがって旅行ガイドブックにも小さくしか掲載されていないし、交通の便もメチャクチャ悪いので知られていないというのが実情だ。

ミャウーへは船の他に路線バスで行く陸路がある。
しかし陸路は、
「政府の許可が要るんです」
とTさんが言う通り、外国人には開放されていない経路なのだ。
したがってミャウーへは船で行くしかない。

しかも船便についても定期船はあるものの運航は毎日ではない。
丁度この日はシットウェーからミャウーへ向かう船の便がなかったのだ。
そのため私が手配していたTさんの勤める旅行会社は私のために船を一艘チャーターしてくれていた。
そのチェーター船には食料はないので、長い船旅になるから食べ物を買いましょう、ということらしい。

ということで、私たちは大通りの中ほどにある駄菓子屋のような店に立ち寄った。

つづく

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写真:シットウェー空港にて撮影。.......ミャンマーではホントは空港で写真を写しちゃいけないんですけどね.......。


シットウェー市はミャンマー西部ヤカイン州の州都だ。
有名なビーチリゾート「ガバリビーチ」はこの州の中ほどにあり、シットウェー市は西よりのインド洋岸に位置している。
州の西隣はバングラディッシュだ。

「なんか親しそうにしてましたね。知り合いですか?」

と私はガイドのTさんに訊ねた。
ヤンゴンからのヒコーキの中でTさんは隣に座ったちょっと恰幅のよい上品な女性と親しそうに話をしていた。
私はその女性はTさんの知り合いだと思っていたのだ。

「彼女は女医さんなんですよ。」

なんでもTさんの隣に座っていた女性はヤンゴンへ出張で出かけて帰る途中の女医さんなのだった。
彼女はここシットウェーの病院に勤務しているのだという。
誰とでも気さくにすぐ友達になってしまうTさんなので、初対面の女医さんともすぐに親しくなったようだ。

飛行機の乗客は八分の乗りであったが、外国人とおぼしき乗客は私の他に白人が二人ほど。
あとは女医さんのような地元ミャンマーの人々であった。
空港ターミナル、といっても鉄筋コンクリート平屋建ての小さな建物は、到着した乗客でごった返した。
壁を挟んで向こう側には私たちが乗ってきたヒコーキに乗ってヤンゴンへ向かう乗客たちが搭乗の始まるのを待っている。
白人たちと一緒に入域手続きを終えると私とTさんは待っていたタクシーに乗り込んだ。
陽射しが熱い。
あの白人たちはいったいどこへ行くんだろう、と彼らの行く先を眺めているとなんとドアの部分に「UN」と大書きされたトヨタのSUV車が空港玄関に回り込んできた。
そして彼らはそれに乗り込んだのだ。
私と一緒のヒコーキに乗ってきたあの人たちは国連の関係者なのであった。

「国連の職員ぐらいしか来ないところではあるまいな」
一瞬私はこれまでの人生において今まで自分が来たこともないような辺境の地へやってきてるのではないか、という感覚に囚われた。
しかし、これは誤りであった。
このシットウェーという街は今や日本ではまったく有名ではないが、その日本人にとって、とても繋がりのある街であったことを帰国後私は知ったのである。

ミャンマーはここ20年ほどの間に多くの地名が変わっている。
いや、地名どころか国名もビルマからミャンマーに変わっているのだ。
なんでもこの地名の変更には、植民地時代の呼び名からミャンマー人自身が使っていた呼び名へ変更された例と、外国人が使っていた呼び名を自分たちの呼び名へ変更した例があるそうだ。

国名のビルマからミャンマーへの変更は、日本の一部メディアや人権活動家と呼ばれる奇人変人の方々には「自国の民衆を愚弄した軍事政権の勝手な仕業」と言われたりしている。
しかし私自身が耳にしたところによるとビルマとミャンマーの違いは、ジャパンとニッポンの違いのようなものなのだそうだ。
そういえばビルマと漢字と書くと緬甸となりミャンマーと読んだほうが自然のような気もする。
きっとミャンマーの方が本来の呼び名なのだろう。

国の名前が変われば町の名前が変わるのも尤もな話で、2年前まで首都だったヤンゴンはラングーンからヤンゴンになり、映画「ビルマの竪琴」のロケ地で有名なバゴーはペグーからバゴーになった。
で、かなり話が遠回りしたが、ここシットウェーはアキャブという名前からシットウェーになったのであった。

アキャブと聞いて「ああ、そうか」と思い出した人は年配の人か、それともかなりの歴史通であろう。
アキャブは第2次世界大戦中のイギリス軍に備える日本の前哨基地であり、同時に有名な加藤隼戦闘機隊が活躍した場所でもあったのだ。
つまりシットウェーは僻地どころか、日本の近代史に於て忘れてはならない東南アジアの都市名でもあった。
しかも、今さっき私が乗ってきたヒコーキが着陸したのが元日本軍基地のアキャブ飛行場。
空の軍神と呼ばれた加藤隼戦闘機隊の加藤建夫中佐がイギリス軍との空中戦で非業にも戦死されたのがここシットウェー沖のベンガル湾なのであった。

「おぉ、沖縄の海より綺麗や」
なんて呑気に眺めていたエメラルドグリーンに輝く海はかつて日英の戦闘機が空中戦を演じ、加藤隼戦闘機隊の隊長が散華した場所なのであった。

「日本人のお墓に行きたいですか?」
というTさんの問いに、
「ここシットウェーにもあるんですね。日本人のお墓。..........でも面倒だからやめときます」
と答えてしまった無知な私は帰国後大きく後悔し、かつ果てしなく反省をするのだった。

つづく

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写真:シットウェー市の時計台(ミャンマー)

久々の連載です!
前回:ミャンマー大冒険Part2(12)

ヤンゴンを離陸してから1時間以上が経過した。
眼下に霞んだエメラルドグリーンの海と海岸線が広がっている。
エメラルドグリーンの海が霞んでいるのではなく、霞んだエメラルドグリーンの海なのだ。
霞んでいる原因は雲でも霞でもなんでもなかった。
私の乗っているヒコーキの窓がすりガラスになっていて、あらゆる景色が霞んでいるのであった。
ついでながらさらに説明を補足するとヒコーキの窓はもともとがすりガラスなのではなく、ヒコーキがお歳を召していてすりガラスになっているのであった。

霞んだエメラルドグリーンの海は午前中に訪れたヤンゴン動物園のことなどすっかり忘れさせてしまうほど美しかった。
これほど美しい海を見るのは沖縄以外では初めてであった。

旅慣れた人ならご存じかも知れないが、沖縄の海は世界でも屈指の美しさを持つ海である。
首都圏や関西圏の海を見ると同じ日本だなどとは信じられないくらいに美しい。

もちろん那覇港やその周辺は決して美しいとは言えないが、沖縄本島でも北へ行けば行くほど美しくなり、米軍嘉手納基地の向こうに広がる海などは美しさの一等地でもある。
嘉手納基地へ行くたびに「ヤンキーゴーホーム!」と叫びたくなるのは私だけではないだろう。
(注意:私は米軍撤退を叫びに嘉手納へ行っているサヨク活動家ではおまへん。嘉手納基地へは商いでお邪魔させていただいている商人でおます=括弧内は大阪弁でお読みください)
さらに離島へ行くと当然のことながら海の色と空の色が溶け合って、「え、ここって、ホントに日本なの?」と言いたくなるくらい美しいのだ。

私が海外で訪問するところにも問題があるのかも知れないが、未だ海外で沖縄の海より美しい海を見たことがなかった。
しかし、間もなくシットウェーという街に着陸しようとしているヒコーキの眼下に広がる景色は明らかに沖縄の海に匹敵する、いや、それ以上の美しさを放っていたのだ。

海の美しさで忘れさせられたのはヤンゴン動物園訪問の時のカバの餌やりの楽しさだけではなかった。
今搭乗しているヒコーキの足元の壁に、でっかい凹みがあることも忘れさせてくれたのであった。

ベルト着用のサイン点灯した。
そしてヒコーキは次第に高度を落としはじめた。
エメラルドグリーンの海がキラキラ輝き、私の乗っているDHC-8型機の影が海面に投影されている。
「なんて綺麗なんだ。」

次第に陸地の面積が増えてきた。
陸地は大陸の一部ではなく、島のようだ。
その島をグルッと見渡してみても橋などはない。
それでも島の中には小さな村が点在し、ホントこういうのを地上の楽園というのかも分らない、と思った。
?村の人たちはどのような生活を営んでいるのだろうか。
街にでるにはどうするのだろう。
平和な、まるでゴーギャンの絵のような世界が広がっているのだろう。
とイメージしたが、ゴーギャンはタヒチの風景を描いたのであり、ここミャンマーとは1万キロ以上離れていることに気付き、
「なんてイマジネーションに乏しいんだろう」
と大阪芸大出身者としてちょっぴり反省したのだった。

で、よくよく考えてみると、
「ん~、生活は結構大変なのかもしれないな」
と現実的な感慨に落ち着いてしまった。
それでも旅の時間に余裕があれば、こういう不便な島に渡って数日を過ごしてみたいと思ったのであった。

さらにヒコーキは高度を落とした。
海面がすぐ近くに見え出すと、やがて陸地が見えてきた。
多くの建物が見える。
あれ?
なんと、高い壁に丸く囲まれた刑務所らしいところも見えるではないか。

刑務所らしき建物を眼下に臨みながらヒコーキはシットウェー空港にドドドドドと着陸したのであった。

つづく



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ミャンマーの旧都マンダレーから自動車で約二時間。
高原の街メイミョウ。
漢字で表記すると明妙。
英国植民地であったころマンダレーのあまりの暑さに辟易としたイギリス人将校が探し出した避暑地だという。

標高1000メートルのメイミョウは確かに涼しい。
下界のマンダレーが40℃近い気温であっても、ここは朝夕寒いくらいに温度が下がり別天地。

街も美しい。
植民地時代の建物があちこちに残り、現在もミャンマー陸軍の陸軍学校があるからか小奇麗で落ち着いた街だった。

このメイミョウの一番の観光地は植物園。
もともと国営だったものが最近民間に売却され公園そのものが整備されたということだが、ミャンマーとも思えないくらいゴミ一つ落ちていない美しく整備された公園であった。

ちょうど訪問したの週末ということもあり、多くの観光客や市民が訪れていた。

こういう日常の風景は日本とちっとも変わらない。
近くの農園では日本のNPO による農業指導でイチゴの栽培が行われているのだという。

平和でノンビリ過ごせるメイミョウは将来性豊かな高原リゾートだった。


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