とりがら時事放談『コラム新喜劇』

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ミャンマーレポート2007(7)

2007年07月22日 13時32分13秒 | ミャンマー旅行記・集

乾燥地帯に位置するモンユワ市。
地球の歩き方06-07年版にも4ページに渡って紹介されているこの街は見どころが溢れた魅力的なところだった。
実際、街そのものもかなりの規模で、大通りは人や車で活気がある。
市場周辺にはお寺もあって人通りが途切れることはない。

身長170メートルの大仏様も印象的だったが、その他にとりわけ印象的だったのはこれも郊外にあるタウンボッデー寺院。
針の山が密集したような金色と赤の派手なコントラストの本堂は参拝者に強烈な印象を与える。
内部に入ると無数の仏像が鎮座しており、無数のカメオ大の小さな石仏が壁面や天井、柱や出入り口に埋め込まれたり飾られていたりし圧巻だ。
天窓から差し込む明かりがそれら仏たちを浮かび上がらせ幻想的かつ厳粛なムードを漂わせる。
外観は仏教とはなんの関係もないように見える建物も内部は仏教的なエッセンスに溢れているのだ。
来訪者名簿を見ると西欧人の名前が圧倒的に多いが日本人の名前も散見される。

堂内では様々なサイズの仏像が販売されており、それを買い求めて堂内に飾ることができる。
堂内に飾られている無数の仏たちは参拝者によって寄進されたものだったのだ。
記念に私も三体の仏像を買い求め、壁面の空いている空間に埋め込んだ。

ちょっと変わった仏教関連施設があるところを除くとモンユワ市とその周辺はすべてに於いてミャンマー的であり、北部のミッチーナのように中国の影響が強烈に表れているということはなかった。
マンダレーの景気も中国によって支えられているという感があったが、ここではそういう中華臭がほとんどしなかったのだ。
宿泊したホテルはバンガロー風のこ洒落た客室が並ぶリゾートホテル。
宿泊客も多くはヨーロッパからの旅行客だった。

しかし、このあたりに中国の影響は少ないと感じた私のイメージは間違いであった。

モンユワ市から郊外の石窟寺院ポーウィン山へ向かう途中、チャーターしていたタクシーがまたまた脇道に入った。
「ここを通るとかなり短縮できるんですって」
とガイドのTさんは説明してくれた。
彼女にとっても初めての道だったようだ。

脇道といっても狭くガタガタの道ではない。
巾は広く舗装はされていなかったがデコボコもほとんどない産業道路だった。
そう、ここは産業道路だったのだ。

しばらく土煙をあげながらこの道を走ると雄大な景色が眼前に広がってきた。
人工的で広大な大地が広がり、その上を数台のダンプカーが走っている姿が遠望できる。
ダンプカーはオーストラリアの鉱山の映像などにでてくる家ほどもある超巨大なダンプカーだ。
「銅の鉱山ですって」
タクシーの運転手の解説によると、あの草木一本生えていない大地は銅の鉱山で政府と民会会社のジョイントベンチャーなのだという。
ほとんど露天掘りともいえる鉱山にミャンマーの富を感じた。

ミャンマーは天然資源に恵まれているが政治体制が欧米の気に入る形態ではないがため必要以上の制裁にさらされている。
スーチー女史をタネに政治体制をゆする背景では、豊富な天然資源に触手を伸ばす腹黒い国際政治の駆け引きが展開されているのだ。

その鉱山の手前に広がる平坦な大地には無数の小さな池が掘られている。
「これも銅をとっているところなんですって」
私たちは道路の近くの木陰に小屋を建て、作業をしている人々はいるところで車を停めた。

彼らの話によると、この無数の池は政府が銅を採掘したあとのいわば残りかす部分を掘り返し、わずかに残された銅を採掘する採掘場だという。
個々の小さな池はジュースなどのスチール缶を使って銅を集めていのだという。
私は化学には弱いのでその仕組みはよく分らなかったが、かれらの背後にいる業者の存在は十分に理解できた。

彼らを使って銅を集めていたのは中国の業者だった。

中国の業者はミャンマー政府が採掘し終った鉱山を格安(または無料だろうか)で借り受け地元のミャンマー人を超低賃金で雇用して残りかすから銅を集めそれを本国へ輸出して莫大な利益を上げているのだ。

ここでの銅の買い取り価格は1キロあたり12000チャット。日本円で1200円。
ここで働くミャンマー人たちの賃金は男が日当1000チャット(100円)で、女が800チャット(80円)。
労働者たちはそういう低賃金でも喜んで働く現金収入を渇望している農家などからやってきた人たちだ。
ここに家族と住み込み働いている。
小さな子供たちもたくさんいるが学校へは行っていない。
銅の採掘場での生活なので日本人の私からすると環境問題が深刻に映る。
こんなところで生活をして彼らは大丈夫なのだろうか。病気の心配はないのだろうか、と。

モンユワ市の郊外でも着実に中国はその足場を建設していた。
偶然にではあったものの、この鉱山の目撃は中国の力を直に体験する機会なった。

採掘場を後にするとき大きく手を振ってくれた女性たちや子供たちの日に焼けた笑顔を忘れることができない。

つづく

ミャンマーレポート2007(6)

2007年07月16日 16時03分59秒 | ミャンマー旅行記・集
写真:広大な聖地「シュエターリャウン」


モンユウという街は未だ観光地として開発の進んでいるところではない。
まず、その地理的位置が辺鄙なことが災いしている。
距離的にはミャンマー第二の都市、旧都マンダレーと世界三大仏教遺跡の一つバガンの街の中間に位置しているのだが、道路事情が良くないためにメインのコースから外れてしまっている。

それに暑い。
ミャンマー中部の乾燥地帯を代表するこの地方は、最高気温が40度を越えることも少なくなく、エアコンを搭載している観光用のチャーター車でも、時折休憩をとってやらないとオーバーヒートしてしまう恐れもある。

このような過酷な環境の街にどうして私が行こうと思ったのか。
その理由は「地球の歩き方」のページの隅に載っていた小さな写真だ。

それは建設中の巨大な仏像の写真で、このような「辺鄙」なところに、こんな「凄い」仏像があるとはなかなか想像できなかったからなのだ。
ミャンマーの大地に、その仏像はどのように建ち、どのようなお姿をしているのか。

見てみたい。

それがモンユウという街に心を魅かれた最大の理由だった。

サガイン市で昼食をとり、約二時間ほどデコボコの国道を走ると、運転手は標識も何もない所で脇道に入った。
脇道はデコボコのアスファルト舗装もない土ぼこりの舞う未舗装の道路だった。
この未舗装の道路をしばらく走ると右手前方に巨大なお釈迦様の立像が見えてきた。
目標としていた仏像であった。
シュエターリャウンという仏教系新興宗派団体が管理する広大な敷地に、その仏像は聳えていた。

思わず立ちすくんでしまうのは建設中の高さ176メートルの仏像だけではない。
この仏像の周囲には数々の巨大な仏像やモニュメントが作られていた。
全長数百メートルの寝釈迦像。
鎌倉の大仏様の10倍はありそうな座像。
そしてこれらを取り巻く無数の修行僧像。
西欧のエッセンスが加えられたとおぼしき僧院の建造物。

木々も乏しい痩せた丘陵地帯。
そこに点在する新たに造成された聖地、シュエターリャウンは大々的に日本に紹介されることがほとんどない。
テレビの紀行番組で採上げると、有名なゴールデンロックと並ぶミャンマーの有名観光地として人々の心に触れることは間違いない。

それにしても理解に苦しむほど奇っ怪な景観なのだった。
そう。
聖地とは言え、なにか清らかなものが漲っているというよりも奇っ怪な光景だったのだ。

しかし、酷暑の中を汗を流しながら歩いているとこの場所に、このような広大な仏教聖地を切り開いた僧侶の心も分るような気がしてきた。

私たちがここに到着してから土産物を売る売り子の子供や女性が十人近く束になって付いてきたのだ。
彼女たちは近隣の村の人たちで、ここを訪ねてくる観光客や参拝者に土産物を売り、生計の足しにしているのだ。
つまり、この聖地がなければ、彼女たちはモンユウ近郊の痩せたこの土地を耕し、想像以上の苦労をして家族を養って行かなければならない。

見るからに豊かとは思えない彼女たちの姿を見ていると新興宗派とはいえ、このミャンマーという国での上座部仏教の役割はどこへ行っても変わらないことを痛烈に感じたのだった。

つづく

ミャンマーレポート2007(5)

2007年07月06日 21時12分13秒 | ミャンマー旅行記・集
二年前、マンダレーを訪れサガインヒルに登った時、インワ鉄橋を渡った。
インワ鉄橋はエヤワディ川に架かる数少ない鉄橋で、橋の中央に鉄道も通っていたのが印象的だった。
今回ここを再訪すると、ちょうどその横で建設中であった新インワ鉄橋が建設をほぼ終え、開通を間近にひかえている様子だった。
(二年前の旅行については当ブログで「ミャンマー大冒険」として掲載しているので、是非そちらをご覧ください。)

私たちは前回も渡った鉄道併設橋であるインワ鉄橋を渡ってサガイン州へと入った。
目指すモンユウはここから自動車で約3時間ほどの距離にある。
日本で3時間というと距離にして200~300kmほどであるが、ミャンマーで3時間は距離にして約100km程度だ。

3時間で100キロメートル。
時間の割に距離が短いという原因には道路事情の劣悪さがある。
この国ではどこの道路も大抵そうだが、穴ぼこだらけでスピードを上げて自動車を走らせることはできない。
また、幹線道路であってもアスファルト舗装されていないことが多く、これもまたスピードを出して走ることのできない原因でもある。
さらに、川にかかる橋は多くの場合木造で、一車線しかなく交互通行しなければならないところも多い。
おまけに国情からか、橋や州境、街境には必ず検問所があり一旦停止を余儀なくされるのだ。

乗合いバスなどで移動していると、州境や大都市入口で検査官がバスに乗り込んできて乗客一人一人をチェックする光景を見ることになる。
ミャンマー人は基本的に写真入りの身分証明書を携帯することを義務づけられているので、出生地の役所が発行した身分証明書を検査官に提示する。
私のような外国人はパスポートを見せなければならない。
パスポートは一旦取り上げられて事務所で名前とパスポートナンバー、国籍などが記録される。

私は普段ミャンマーでは私専用の自動車をチャーターしているので、このような面倒なことは少ないのだが、これまで数回路線バスを利用して移動したときには検問を体験し、冷や冷やしたことが少なくなかった。

冷や冷やすると言っても「軍事政権だから危害を加えられるのだ」などという物騒なことはまったくなく、一旦パスポートを事務所までもって行かれるので心配なのだ。
心配性の私はそのまま返してもらえないのではないか、と思ってしまうことがある。
でも、実際は、心配とは裏腹に笑ってしまうことが少なくない。
というのも、何度もこのブログで記している通り、私は日本人に見えないことがあり、タイでもミャンマーでもジモティと誤認されることが少なくない。
当然検査官も当初は私をミャンマー人と思っており、私が日本のパスポートを提示すると、それまで難しそうな表情をしていたのがクスッと笑って、パスポートを持って行くことが毎回なのだ。

「ミャンマー人だと思ったんですって」

というのはガイドのTさんの弁であるが、嬉しいような嬉しくないような。
これも旅の楽しみなのであった。

ただ断っておくと、ミャンマーのような国をバックパッカーよろしく低予算で旅行しようとする若者は、こういうことには十分に注意を払う必要がある。
沢木耕太郎の「深夜特急」などに憧れて途上国を一人で旅する若者が行方不明になって大騒ぎになることも少なくないが、要は相手の国の行政システムや文化を十分に理解しないまま旅をするので、身を危険にさらすというトラブルに巻き込まれてしまうことがあるのだと思う。

普段はとっても安全なここミャンマーでも危険な場合があるのだ。

私が現在勤めている会社の若い社員が大学の卒業旅行で数年前にミャンマーを訪れた。
友人との二人旅だった。
もちろん貧乏旅行なのでガイドさんは雇っていない。
とある検問所にさしかかったところ、銃を突きつけられて100USドルを巻き上げられたという。
何が原因なのか。
言葉がまるっきり通用しなかったので今もって謎のようだが、検問所に勤めるのは低い身分の役人である。
月給6ドル(当時)相当の収入しかない役人なので、時として賄賂が重要な生活費に充てられていることもある。

途上国での旅行は色々な発見があって面白くかつ楽しいのだが、予算をケチり過ぎると危険に遭う可能性が格段に高くなることを忘れてはならないのだ。

という具合に、まったく話がそれてしまったが、私たちはサガインの街で昼食をとり、モンユウへと道をさらに北にとり、砂煙を上げながら走り出したのであった。

つづく

ミャンマーレポート2007(4)

2007年07月01日 12時41分23秒 | ミャンマー旅行記・集
写真:ちょっと見、日本みたいだが、ミャンマーのマンダレー国際空港で撮影。

ミャンマーのヤンゴン国際空港の新国際線ターミナルが全館完成した、らしい。
ゴールデンウィーク中に訪問したときは到着ロビーのみの完成だったが、6月から出発ロビーも新館に代わったのだという。
このヤンゴン国際空港は第2次大戦中に日本軍が陸軍のミンガラドン飛行場として建設して現在に至っている。
今ではA300やB737、DHC-8といった旅客機や中国製のオンボロ戦闘機などが離着陸しているが、かつては凛々しい日の丸を頂いた中島航空機社製(現富士重工)の隼戦闘機が離着陸していたのだ。
そのためかどうか知らないが、今回の新しいターミナルは日本政府が提供した45億円で建設されている。
どういう方法を日本政府は駆使したのか知らないが、米英というヤクザののような同盟国から文句を言われないようにあの手この手を軍政ミャンマーへ援助しているのだ。

ヤンゴン国際空港が近代化される前に、ミャンマーの空港では旧都マンダレーの空港が新造されていた。
ミッチーナの訪問を終えた私は、失礼ながらこのミャンマーには似つかわしくない美しいマンダレー新空港に降り立った。
モンユウという乾燥地帯にある街を訪れるためであった。

マンダレー新空港は空港そのものが美しく、ターミナルビルだけではなく駐車場や周辺道路も新しく先進国の空港とほとんど変りはなかった。
ただ、国際空港でありながら国際線は週何便か飛んでいるタイのチェンマイとを結ぶ路線しかないこともあり、さらに電力不足であることも変わりないので、館内は薄暗く、かつ動かすためには電気の要るボーディングブリッジは使われていなかったのであった。
したがって、ハードすべては新しいがソフト面の運用はヤンゴン国際空港と変わりないのであった。

飛行機から下りた乗客は「市営」と書かれた日本の中古乗り合いバスに乗ってターミナルに向い、飛行機から降ろされた荷物は台車に載せられクボタの耕耘機で引っ張って運ぶのであった。

「去年の雨期は大変だったんですよ」
とガイドのTさんは言った。
「大変だったって、何が大変だったんですか?」
「洪水で、空港の周りが湖になってしまったんです。」
「湖?」

なんでも昨年(2006年)の雨期はとびきり酷く、集中豪雨のために空港の周りが水深数メートルの湖状態になり、アクセス道路は使用不能。
嵩上げして作られている空港は「連絡橋のない関西空港状態」になってしまったのだという。
空港そのものは機能していたのでヤンゴンからの飛行機は飛んでくる。
しかし、空港と街とのアクセスは遮断されているので誰も飛行機に乗れないという事態に悪化した。
ガイドさんのお客さんは幸運にも地元の協力会社がボートをチャーター。
マンダレー市内から空港までボートで移動して無事に飛行機に乗れたのだという。

ここミャンマーやタイ北部の洪水騒動はここ数年の間にますます酷くなってきているようだ。
これも地球温暖化が及ぼした結果の一つかも知れない。
その原因を作り出している中国とインドという二大国に挟まれているこの地域の深刻さは尋常ではない。
だから軍政ミャンマーも中国などというならず者の力を借りずに上手に西側諸国と付き合うことをオススメしたいのだが、スーチーさん問題を中心に「自分のこと中心」の権力者が国政を牛耳っているので半ば国民は諦観してしまっているようにも見えるのだ。

で、ちょっと話はそれてしまったが、私の訪問した今年のゴールデンウィーク中は、洪水の心配などどこ吹く風。
空港から一歩外に出ると、太陽は大地をギンギンに照りつけ、灼熱の地獄が待ち受けていたのであった。

つづく

エヤワディ川源流

2007年06月22日 22時12分48秒 | ミャンマー旅行記・集
ミッチーナ市から車で約1時間半。
ミャンマーの大河エヤワディの源流がここ。
プーターオの街付近から流れてくるマリカ川とチベット高原から流れてくるマイカ川が合流してエヤワディ川となるのだ。

河口のヤンゴン付近では黄土色に濁っているこの川も、河口から1000km以上のここでは、まだ水が澄んでいる。
なお、お盆休みにここへ行ってみようという人は、諦めた方がいいかも。
なんせ雨期ですから。

ミャンマーレポート2007(3)

2007年06月21日 20時57分19秒 | ミャンマー旅行記・集
駅前から真直ぐに延びる通りの両側に広がる市場。
市場の大きさは両側とも一ブロックづつあってかなり大きい。
旅行ガイドブックではかなり辺境扱いであったこの街も、その実像はほかの街と同じのようだ。

通りに沿った市場の表緬には雑貨屋や電気店が並んでいた。
電器店にはソニーやサンヨーといった日本製品やサムソン、LGといった韓国製品の看板が並ぶ。
店頭に積み上げられたテレビのパッケージに書かれたサンヨーのロゴが目にとまった。
どことなく不自然でおかしな感じがする。
ロゴの縦横比がちょっと変なのだ。

「本物だろうか?」
というのが率直な感想。
日本企業は自社のロゴにかかわる管理も徹底していて、少しでも基準と異なると訂正を要求される。
だから、本物に似ていてもどことなく違うものは偽物が多い。

東南アジアではどこの市場でもみかけるように、到ることろで日本製の違法コピー製品が出回っている。
デザインはもちろんのことブランド名も遠慮なくコピーしている。
そういうコピー商品の出所が中国であることは周知の事実で、この国は2001年に世界貿易機構に加盟した際「知的所有権に抵触するものに関しては徹底して摘発、指導します」という約束を交わしたにも関わらずまったく実行していないのだ。

どれが日本メーカーの本物なのか判別のできない偽物もタチが悪いが、「SAKURA」だとか「FUJI」といった日本製品を彷彿させる「偽日本製品」もタチが悪い。
日本語の単語の品位を貶める効果が多分に含まれているからだ。
もちろん、相対的に高価な日本製品を購入することは一般のミャンマー人たちには難しいことかも知れない。
だからといって無断でコピーした製品を販売しても良いと言う倫理は世界では通用しない。
少なくとも、中国以外の国ではそうなっている。
日本企業も東南アジアでは現地生産に力を入れて現地価格のものも出荷している。
中国からのコピー商品はそういう現地向けの製品に対する大きな脅威なのだ。

もちろんコピー製品は電気製品だけではない。
食品では味の素。
偽のパッケージに入れられた白い粉が大量に売られている。
衣料品なら、日本出身のキャラクター達が「copyright」認可のタグもなく、そこここに印刷されている。
これも50キロ先の中国との国境から流れ込んでくるのだ。

市場は手軽にこの地域の「中国による」繁栄を確認できる場所であったが、ミッチーナから北へ20キロほど行ったエヤワディ川の源流に至る途中にも中国の姿を確かめられる場所があった。

マリカ川、マイカ川。
この二つの川が合流するミッソンという村がエヤワディ川の源流だ。
ミッチーナからミッソンへ到る道路はミッチーナの郊外までは舗装もされ道路幅も広い。
しかし、途中から道路は未舗装になり、巾も狭くなり、所によっては橋が壊れていたりして、急場に造成した迂回路を通らなければならないところもある。
「雨期には通行ができなくなることもあるんですって」
とはガイドのTさんの話。

この凸凹道を走っていると、お祭りのように賑やかな飾り付けを施した一画が前方に現れた。
多くの紅い幟が立ち並び、これも赤い色をした三角の小旗が無数に結びつけられたモールが電柱から電柱に飾られていた。
初めて目にした瞬間、なにか新興宗教の寺院かなにかか思った。
ミャンマーにも上座部仏教やキリスト教を元にした新興宗教はある。
しかし、よくよく見てみると漢字で書かれた立て看板があり、宿舎や重機などがおかれていたので、ここは中国の支援で建設されている工事関係者の飯場であることがわかった。
労働者の多くは中国からの出稼ぎの労働者が詰めているのだ。

この凸凹道はミャンマー最北の街プーターオに通じる幹線道路で、この道が水害などで閉ざされるとミッチーナとプーターオの連絡は航空機だけということになってしまう。
そういう幹線道路であっても先進諸国の経済制裁を受け続けているミャンマーにとっては拡幅はもちろん修理さえ十分に行うことができない財政状態であるわけで、中国からの「善意」はそれが多分に「下心」を含んでいるものであっても現状では有り難いということなのだ。

ミッチーナ市内の舗装された美しい道路も多くは中国政府の援助のもと、中国の土木会社が中国人作業者を使って整備敷設したものだと言う。
街のあちこちには中国人出稼ぎ労働者の宿舎があり、件の市場にも漢字の看板を時々目にすることができる。

以前、ここに書いたようにお祭りで多くの人々が集まったお寺を参拝すると、私の姿を認めた子供たちが「ニーハオ」「ニーハオ」と寄ってきたのは、いかに中国人がこの地域に溢れているかの証左でもあるのだ。

英国植民地時代、ミャンマー人を支配するために英国人たちが利用したのは印僑と華僑であった。
独立後、その印僑と華僑を追い払うために様々な方法をミャンマー政府は取ってきた。
70年代の鎖国政策も国家の主権と経済を自らの手に取り戻すための苦肉の策であったことは、現在では周知されている。
ベトナムはベトナム戦争終結後、もっと露骨に華僑を追い払い、それがボートピープルとなって世界の注目を集めたわけだが、消極的な性格を持つミャンマー人たちにはそんな大胆な行動はできなかったというわけだろう。

なんとかして追い払おうとした華僑たち。
その華僑の本国、中国の力を借りなければならない状況に追いやっている先進諸国の経済制裁はミャンマーはもちろん、この地域と密接な関係を持ち続けてる日本にとっても好ましい状態ではない。

ミッチーナ駅前の市場の横に、キリスト教の教会とイスラム教のモスクが通りを挟んで向かい合っているところがあった。
市場の向こうには金色に輝くパゴダがある。
そして中国の影。

この国の危うさと、中国という国の胡散臭さとしたたかさを同時に学ぶことのできる街。
ミッチーナは現代アジアの縮図でもあった。

ミャンマーレポート2007(2)

2007年06月18日 20時19分38秒 | ミャンマー旅行記・集
このカチン州を訪れてみる気になったのは昨年のことであった。

昨年11月にミャンマーのシャン州を訪れた帰りにバンコクに数日滞在してから日本へ帰国した私は、夕食を食べるため居間のテーブルに座りテレビのスイッチを入れた。
ニュース番組を見ようとチェンネルを合わせたNHK-BSでは偶然にもミャンマーの風景が映し出されていた。

バンコク滞在の女性特派員がレポートするのはエヤワディ川源流域。
その懐しい感じのする光景に私はしばし目が釘付けになった。
特派員は、この場所が紛争地域であったことや、かつて日本軍が駐留し「悪いこと」をやったようなことを滔々とレポートしたのであった。

「果たしてこの姿は本当なのか」
常日ごろNHKのニュース番組をよく見るくせに「NHKなんてクソッタレのウソつきだ!」なんて声高に叫んでいる私である。
適当に編集して妙な演出をしているのではあるまいな、と思ったのは言うまでもない。
しかし、思うまでなら誰でもできるが、驚くことに私は実際に行ってみることにしたのだった。

「なんでそんなところに行ってみたいんですか?」
と旅行手配中、Tさんは電子メールで私に訊いてきた。
「NHKがちゃんとホントのことを報道しているか調べたいんです」
などと言ってもTさんに分る筈もない。
だいたい、日本人でも分る人はいないだろう。
もしいたとしても、きっと「そこまでして、そんな遠いところに行かんでもエエやろが」と言われ、変人扱いされるのが関の山だ。

ともかくミャンマーについてはウソの報道が多いので私もチェックしたくなっていたのだった。

鉄道沿いを走るミッチーナ市のメインストリート一つには、確かに日本の足跡があった。
二つの通りが交差するラウンドアバウトの中央に、シチズン社の時計を先端に頂いた慰霊塔が建っていたのだ。
「第十八師団(菊兵団)」「第五十六師団(龍兵団)」と記されたその慰霊塔が、街の真ん中にあることを考えると、確かに非難される要素もあったかも知れないが、戦中の日本軍に対するミャンマー人(この場合はカチン人か)の対日感情はいたって良いものであったと思われる。

道路とほぼ平行に走る鉄道は単線で、これも他のミャンマーの路線と同じくレールがガタガタにひん曲がった保線のほとんどなされていない鉄路だった。
しかし、この鉄路を走る列車の本数は決して少なくなかったのだ。

ミッチーナ市はミャンマーの鉄道網ではもっとも北に位置するターミナルだ。
ここから北へ行くには道路を走るしかないが、南へはマンダレーを経由し、旧都ヤンゴンやさらに南にある泰緬鉄道の起点として有名なモーリャメンまで続いている。
これら大都市への所要時間は途方もなく長いのだが、鉄道は人や物を運ぶ最も信頼のおける手段でもある。
ちなみに、ミッチーナからマンダレーまで飛行機だと70分ぐらいだが、鉄道の場合、運が良くて36時間ほどかかるのだという。

なぜ、本数が少なくないと感じたのかと言うと、汽笛がひっきりなしに聞え、踏み切りが頻繁に開け閉めされていたからであった。
ほとんどの列車は客車と貨車を同時に連結しており、人と物を同時に運んでいることをうかがわせた。

マンダレー行きのバスもあるということだが、道路の状況は劣悪だ。
私のような外国人旅行者は恐らくバスでの移動は許可されないだろう。
鉄道での移動も事前の申請がいる筈で、ミッチーナから西に100キロほど行ったところにあるインドーチー湖というびわ湖ほどの大きさの湖は観光地として開発されようとしているところだが、入域には政府の許可が必要なのだ。

駅のすぐ北側には大きな市場が広がっていた。
駅に近い一画は生活雑貨や衣料品を扱った二階建てのコンクリート作りの市場で、その先のエヤワディ川に面した場所に生鮮野菜や肉、魚などを扱った食品市場が広がっていた。
駅の前の通り沿いには三階建てのオフィスビルが並んでいた。
一階は商店になっていて、電器店や化粧品店、薬局、オモチャ屋などがある。
駅に近い場所にある美容院はヤンゴンにある美容院よりもモダンで、外国人でも安心して利用することにできそうな清潔でオシャレな店構えだった。
通り側のウィンドウには日本や韓国の人気女優や男優の写真が貼り出され、ファッションの最先端を追いかけていることが分る。

市場には商品が溢れ、人の往来が頻繁だ。
通りを渡る時も自動車やバイクを避けて通るのが困難なくらい混雑していた。

この驚くほどの繁栄はいったいなんなのか。
その答えは「中国」であった。

つづく

ミャンマー・レポート2007(1)

2007年06月17日 20時59分54秒 | ミャンマー旅行記・集
しばらく「旅ネタ」から離れていると、なんとなくブログのノリが悪いことに気がついた。
もちろんノリと言ってもドラゴンズの中村のことではない。
つまり、旅ネタでないときは文章が少しばかし堅くなって「ちょっぴり、つまんなく」なっているという意味だ。

さて、本来ならここで旅行記「ミャンマー大冒険Part2」の続きを書かなければならないところだが、気分がまだ熟していないので、この連休に訪問したミャンマー北部のことについてレポートしてみたい。

題して、今週は「ミャンマーウィーク」。
私が見てきたミャンマーの今をたっぷりとご紹介しよう、と思うのである。
(なお、私は政治活動でミャンマーを訪れたのではなく、ノホホ~ンとした観光旅行で訪れたので、軍事政権の横暴報告やスーチーさんインタビューなどと云った、NHKや朝日新聞、週刊金曜日が喜びそうなブログではない。したがってそういう筋の人は期待せんように)

で、今日はその第1回「ミャンマー北部の今」をお届けしよう。

旧首都のヤンゴンから飛行機で3時間。
カチン州の州都「ミッチーナ」へ到着した。
このミッチーナはほんの10年ほど前まで、ミャンマー政府軍どカチン州の独立を訴える勢力が内戦を繰り広げていた地域で、とても外国人の私が立ち入ることのできるような場所ではなかった。
しかし10年という歳月はこのミャンマー北方の地にも平和をもたらし、私のようなノホホ~ン旅行者でも訪れることのできる街になっていたのだ。

このカチン州の特徴はミャンマーなのに仏教徒が少ないということろにある。
マンダレーを経由して着陸態勢に入っていた飛行機から眺めたミッチーナ近郊の景色を見て私は驚いた。
というのも、普通ならミャンマーの街はその大きさの大小に関わらずパゴダ、つまり上座部仏教のお寺を中心に寺内街を構成しているのが一般的なのだが、ミッチーナではお寺の姿をほとんど見かけなかったのだ。
その代わり、目についたのは屋根に白い十字架を頂いた教会の建物であった。

ミッチーナ空港はミャンマーの地方空港の典型のようなところで、空港の周りは軍の施設を除いて何にもなし。
土産物屋やレストランなどもあるが、それすら写真に納めることが憚れるような堅苦しいところなのであった。

私はいつものようにガイドのTさんを伴い、パスポートチェックを通り抜けた。
便所なのか事務所なのか、はたまた物置なのか判別のできないような事務所を出ると、すでにホテルの支配人と、タクシーの運転手が私たちを待ち受けていた。
ホテルの支配人は私の名前が書かれたプレートを持って待ってくれていた。
しかしプレートの文字のスペルが間違えていた。
だが私はこの失礼なミスを指摘することはなかった。
単に面倒くさかったのだ。

空港から市内へ向かう道は綺麗に整備されていた。
ミャンマーでは当たり前の凸凹道ではなかった。
空港から市内へは10分程度の距離であった。
途中、綺麗な仏教のお寺が二つほどあり、上空から見た景色とはいささか趣を異にした。
しかし、お寺もその二軒ぐらいで、市の中心部に近づくにしたがって、通りの両側にはキリスト教関係の建物が目立ちはじめた。

敬虔な上座部仏教徒であるTさんは沈黙を守っている。
守ってはいるが、いつもは饒舌なTさんが黙っていると言うことは心中複雑なのだろうか。
ミャンマー民族であるTさんにとってはミャンマーは仏教の国。
キリスト教は少々異端ではある。

ここカチン州でキリスト教が広まっているのは自然の力では、もちろんない。
半世紀前に終焉した筈のイギリスによる植民地政策の影響が色濃く反映されているのだ。
だからミャンマー人にとってカチン州の複雑な政治情勢は冷静に眺めることのできない風景ではある。

さて、そういった複雑な政治状況は横に置いておいて、なぜ私がここミッチーナを訪れたのかとい理由を読者の皆さんには述べなければならない。

もちろんここミッチーナは北方の街、そしてミャンマーの大河エヤワディの源流の街としても知られており、私の目的のひとつはエヤワディ川の「はじまり」を自分自身の目で確認することにあった。

しかし、そんな物見遊山な理由よりももっと大きな目的があった。
それはこの地域に中華人民共和国の影響がどれくらい強く繁栄されているのかと言うのを、自分自身の目で確かめることが、最大の理由なのであった。
なんと言ってもミッチーナは大きな街だが、中緬国境までわずか60kmほどしかない。
いわば国境の街である。
我が国からODAなどと称して金を巻き上げ、その金で軍事力を増強するわ、偽もんのコピー商品を大量に生産して経済を混乱させるわ、といった「ならず者国家」中国が、本来は「中国大嫌い」で「日本大好き」なミャンマーにどのような影響を及ぼしているのか。
私は自分の目で確かめなければならないほど、この地域に対する興味が高まっていたのであった。

づづく

ミャンマー大冒険Part2(12)

2007年04月22日 20時19分11秒 | ミャンマー旅行記・集
私が大学を卒業した頃、ソニーのウォークマンのCMで、ヘッドフォンを耳に当て直立不動の姿勢で流れているであろう音楽に陶酔している「ニホンザル」の姿が話題になったことがある。
なんでもこのサルは「反省猿」で一世を風靡した猿回しのサルなのだそうだが(先日死去)、ウォークマンに聞きほれる人間じみたサルの哲学的な表情は忘れられないものがあった。

この映像を思い出すたびに、ことCMではiPodもウォークマンの敵ではないと思うのだが、時代は流れた。

ところで、猿に限らず動物を擬人化して楽しむというのは、鳥獣戯画の時代から人間不変のエンタテイメントでもある。
ウォーパールーパーにしろ、エリマキトカゲにしろ、クリオネにしろ、ナメ猫にしろ、その姿には自然不自然の違いはあるものの、擬人化された面白さがある。
動物も人間と同じ地球上の生物なので、共通点を見いだすのはたやすいが、人間は彼らのその「人間に似た」仕草や、行動を楽しんでしまうという、妙な性格を持っているのだ。

例えば。犬が人間のマネをしていることを人間は「ハハハハ」なんて笑って見ることができるが、人間が犬の物まねをしたところで犬は「ワンワンワン」と喜ばないのだ。

ということで、なんのことを言いたいのかというと、ここミャンマーのヤンゴン動物園には、人間に極めてよく似た仕草をしている熊がいたことを私は言いたいのだ。

熊というのは不思議な動物で、四つ足で歩いているかと思うと、シャケなどを捕まえて食べる時は二本の前足を手のように使って器用にむしゃむしゃとがぶり付くのだ。
その姿ははるか太古から金太郎さんのおとぎ話にもあるように、またアイヌの彫り物などにも見られるように人々に愛されてきている。

私が目撃し、衝撃を受け、しばし見とれてしまったヤンゴン動物園の熊は、金太郎さんの家来の熊さんビックリの擬人化されつくしたリアルな熊さんなのであった。
その姿があまりにリアルであったため、私は
「もしかして、人、入ってんのかいな」
と、
「動物園」
という落語を思い出したぐらいだった。

とはいえ、熊さんがシャケを捕まえて前足を器用に使ってシャケの薫製作りを実演販売したり、デカイ熊と小さな熊と園長さんが出て来て、滝口順平と名古屋弁の南利明がセリフをあてていたわけではない。(古くて分かりにくいネタであるが、分る人は分るであろう)
そんなハンナ・バーバラのアニメーションではない。

ヤンゴン動物園のクマは、熊舎にある二メートル角ぐらいの浴槽に浸かり、気持ち良さそうに入浴していたのだった。
「なに?そんなのどこが面白いの?」
とおっしゃるアナタ。
アナタには是非ともヤンゴン動物園を訪れていただきたいと思うのである。(バンコク経由でタイ航空の格安航空券が往復?60000くらいからあります=とりがらご案内)

「ウァー、見て見て」
と叫んだのは、そう、Tさんなのであった。
「なんですか」
とTさんの指さした方向を見て、私はひっくり返りそうになった。
熊が浴槽に浸かり、顔を洗ったり、持って入っている棒を持って温度を調節するかのように、かき回したりしているのだ。
しかも肩までしっかりと浸かってあたり眺める姿は、まさに「オヤジ」そのものなのだ。
浴槽に浸かっているだけの熊ならば珍しくないが、顔を洗うとは。
それに顔を洗ってはため息をつき、後ろのカベにもたれかかり、
「う~~~」
と唸っているところも、銭湯につかりに来た仕事帰りの大工の棟梁てな感じなのだ。

浴槽を独り占めしているこの熊はこの熊舎のリーダーらしく、棟梁という喚び方にいささかの間違いもないように思えた。

カバと戯れ、象と遊び、そして「ひょっとして、着ぐるみ?」と思えそうな熊を観察できたことに、私は200パーセント満足していた。
さすが開園100周年のヤンゴン動物園なのであった。

つづく