人生の目的は音楽だ!toraのブログ

クラシック・コンサートを聴いた感想、映画を観た感想、お薦め本等について毎日、その翌日朝に書き綴っています。

ツェムリンスキー「人魚姫」他を聴く~読売日響サントリー定期演奏会

2016年01月15日 07時55分22秒 | 日記

15日(金)その2。よい子は「その1」から見てね モコタロはそっちに出ています

昨夕、サントリーホールで読売日響第554回 定期演奏家会を聴きました プログラムは①リヒャルト・シュトラウス「交響詩”ドン・ファン”」、②リスト「ピアノ協奏曲第2番イ長調」、③ツェムリンスキー「交響詩”人魚姫”」で、②のピアノ独奏は1983年スイス生まれのフランチェスコ・ピエモンテージ、指揮はミヒャエル・ボーダーです ボーダーは巨匠ミヒャエル・ギーレンのアシスタント指揮者としてフランクフルト歌劇場で研鑽を積み、現在はデンマーク王立歌劇場首席指揮者兼アーティスティック・アドヴァイザーを務めています

 

          

 

オケがスタンバイします。この日のコンマスは長原幸太、すぐ隣には小森谷巧が控えます ロマンス・グレイのミヒャエル・ボーダーが登場、1曲目のリヒャルト・シュトラウスの交響詩「ドン・ファン」の演奏に入ります。極めてキビキビした指揮で、オケをグングン煽り立てます このコンビによる小手調べといったところでしょう

グランド・ピアノがステージ左サイドからセンターに移動し、2曲目のリスト「ピアノ協奏曲第2番イ長調」の演奏に備えます。長身でガッチリした体格のソリスト、フランチェスコ・ピエモンテージが指揮者とともに登場します

この曲は2度の改訂を経て1857年に初演されましたが、その際にリストはソリストではなく指揮者として参画したそうです。曲は実質的に3つの部分から成りますが、曲の切れ目のない単一楽章です 聴いていて思うのは、ヴィルトゥオーゾ・ピアニストであるリストが、自分の超絶技巧の実力を披歴するために書かれた曲であるということです というのは、バックを務めるオーケストラの演奏を見ると、例えば弦楽器だけを取り上げてみても、ヴァイオリンも、ヴィオラも、チェロも、同じパートの楽譜を弾いているのではないかと思うほど、弓使いがほとんど一致しているからです ピアノ・パートの超絶技巧に比べて、あまりにも大雑把なオーケストレーションに思えます

そうしたピアノに関しては超絶技巧曲を、ピエモンテージは何の困難さも感じさせず、ダイナミックに演奏しました 彼はアンコールを演奏しましたが、私は最初の数小節を聴いて、リストには違いないけれど「コンソレーション」の何番か、あるいは、まさかの「巡礼の年」のどれかか、と思いながら聴いていましたが、結局分かりませんでした すごく静かで感動的な曲でした。休憩時間にロビーの掲示を見ると、その まさか の「巡礼の年第1年」から「スイス」でした  まさかと思ったのは、今読んでいる本の中にその曲名が出てきたからです CDで持っているかどうか、探さなければ、と思いました それと同時に、アンコール曲として、彼が何故リストの作品の中から「巡礼の年第1年」から「スイス」を選んだのかが分かりました。もちろん、彼がスイス出身だからです

 

          

 

休憩後はツェムリンスキーの交響詩「人魚姫」です。私が疑問に思ったのは、ドイツ出身のミヒャエル・ボーダーが、なぜツェムリンスキーの「人魚姫」を演奏しようと思ったのか、ということです それは彼の現在の肩書を見て分かりました

「人魚姫」はデンマーク生まれのアンデルセンの作った童話です。それに基づいてツェムリンスキーが作曲したのですが、それを演奏するボーダーは現在、デンマーク王立歌劇場の首席指揮者を務めています そう、デンマーク繋がりだった訳です。多分、彼は地元デンマークでも、この曲を演奏しているのでしょう

この曲は、一言でいえば、アンデルセンの「人魚姫」に基づくオーケストラのためのファンタジーで、物語をほぼ忠実に音楽によって描いています 第1楽章では首席ヴァイオリン奏者が人魚姫の主題を奏でますが、長原幸太の独奏は、人魚姫の悲しさを表現しているようで素晴らしいものがありました

ツェムリンスキーはシェーンベルクの作曲の師であることから、果たしてどんな とんでもない曲 を作ったのだろうか、と懸念していたのですが、実際に聴いてみると、非常に分かり易い音楽でした なお、彼の妹マティルデはシェーンベルクと結婚したので、姻戚関係になったとのことです

最後に指揮者ボーダーに注文するとすれば、演奏後、全員を立たせる前に、素晴らしいソロを演奏したコンマスの長原幸太を一人で立たせてほしかった、ということです

 

          

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イタリアン・ネオレアリズモの代表作「自転車泥棒」「鉄道員」を観る~新文芸坐

2016年01月15日 07時09分19秒 | 日記

15日(金)その1。昨日は、まず池袋の新文芸坐まで徒歩で(初めて)往復し、帰ってきて夕食を作ってからサントリーホールまで(地下鉄と徒歩で)行ったので、万歩計は12,994歩を記録しました ということで、わが家に来てから474日目を迎え、ゲージに引きこもりを決め込んだモコタロです

 

          

             ハンガーストライキはやらないよ 腹へるから 

 

  閑話休題  

 

昨日は、夕食に「チンジャオロウスー」とサラダを作りました ソースを作ろうと思ったら非常に大変なようだったので、市販のものを使いました。無理しない無理しない

 

          

 

昨日、池袋の新文芸坐で「自転車泥棒」と「鉄道員」の2本立てを観ました 「自転車泥棒」は1948年、ヴィットリオ・デ・シーカ監督による88分のイタリア映画です

 

          

 

第二次世界大戦後の混乱の中、アントニオ(ランベルト・マッジォラーニ)は長い失業の末、やっとポスター貼りの仕事にありついた。しかし自転車を持っていることが条件だったため、シーツを質に入れて、預けてあった自転車を請け出した。しかし仕事の最中、ちょっとした隙に見知らぬ若者に盗まれてしまう 彼は必死に追いかけるが見失ってしまう。6歳の息子ブルーノ(エンツォ・スタヨーラ)とともに街中を探し回る。偶然泥棒を発見するが、彼を庇う仲間にやられそうになる 機転を利かせたブルーノが警官を呼んできて何とか切り抜ける。どうしても自転車が手に入らないアントニオは、やけになってついに競技場の外にあった自転車を盗んでしまうが、すぐに捕まってしまう ブルーノの嘆願によって放免されるが、アントニオは恥ずかしさのあまり泣き出してしまう。そんな父の手を取ってブルーノはローマの道に姿を消す

この映画の主人公であるアントニオとブルーノ役は ともに素人だということです  撮影場所もすべてセットではなく現実のもので、芝居らしくない芝居がイタリアのネオレアリズモの代表作として世界に知れ渡りました この作品を最後に観たのは何年も前のことなので、「ああ、そういえばこういうストーリーだったんだな」という場面が少なくなかったのですが、ブルーノ少年の顔だけは良く覚えています。子供らしいのと同時に賢さを秘めていました

戦後の混乱期には実際にこういう小さな事件は山ほどあったのではないか、と想像しますが、ヴィットリオ・デ・シーカ監督は、そうした日常的な庶民の出来事を88分の作品の中に、言いようのない感動とともに表現しました 観終わった後、何となくやるせなくなる映画です

2本目は1956年、ピエトロ・ジェルミ監督が自ら主演した116分のイタリア映画「鉄道員」です

 

          

 

50歳の鉄道機関士アンドレア・マルコッチ(ピエトロ・ジェルミ)は頑固一徹で、末っ子サンドロ(エドアルド・ネヴォラ)以外の家族からは疎まれていた ある日、彼の運転する電気機関車に一人の若者が身を投げた。そのショックで赤信号を見過ごし、列車の正面衝突を起こしかけた そのため、月給も下げられ、役割も格下げされた。そのころ鉄道ではゼネストが決行され労働組合員は働かなくなった。マルコッチは久しぶりに電気機関車を運転したが、それはスト破りと非難された その結果 友人たちから孤立し、酒におぼれるようになり家にも帰らなくなった。サンドロは父を探し、父がよく通っていた酒場に連れ出すことに成功した しかし、彼の身体はすっかり弱っており、床に倒れ込んだ。それから3か月が経った。クリスマスを迎え、家族が揃って大パーティーを開いた。宴のあと、マルコッチはギターを弾きながら息を引き取った。安らかな顔だった

この作品もイタリアのネオレアリズモの代表作と言われています どこの家庭でもありそうな親子の対立や、仲間の温かさなどを描いています。意外かも知れませんが、この作品の要になっているのはアンドレアの妻サラ(ルイザ・デラ・ノーチェ)です 一時バラバラになってしまった家族を再び元に戻したのは母としての彼女の力です

さて、この作品ではクラシック音楽が3曲使われています 最初は、映画の冒頭で、家の中でマルコッチらが会話をしている時にラジオから流れてきたシューベルトの「楽興の時」です 次は同じく家の中で長男が母親のネックレスを黙って持ち出そうとするときにラジオから流れていたチャイコフスキーのバレエ音楽「くるみ割り人形」の中の「行進曲」です それに続いて3曲目がラジオから流れます。ウェーバーの「舞踏への勧誘」です

残念ながら3曲ともイタリアの作曲家による音楽ではありませんが、この3曲に共通しているのは”楽しい音楽”だということです。これらの曲は、この物語の最後のシーンを暗示しているのでしょうか

最後に「自転車泥棒」と「鉄道員」という代表的なイタリアン・ネオレアリズモ作品を観て「おやおや」と思ったことがあります。それは、両作品とも父親がわが子に「ワインを飲め」と奨めるシーンがあったことです。当時のイタリアでは、あるいは現在のイタリアでも、子どもにアルコールを奨めることは悪いことではない、というのがリアリズムなんだろうか、ということです 最もお国柄というのがあるでしょうから、あり得ないことではないとは思いますが

お酒に関するお国柄ということで思い出すのは、1991年1月(東西ドイツ統一の翌年、湾岸戦争勃発の直前)にドイツ、フランス、イギリスの新聞社を仕事で訪問した際、南ドイツ新聞社の印刷工場を見学した時に、輪転機が回っているすぐ外のベランダに、何とビールの自動販売機が設置されていたのです 例えば、日本の新聞社の印刷工場で休憩時間に自販機のビールを飲んで仕事をして、もし事故があったら”労災問題”になる、というのが日本の視察団の一致した意見でした つまり事故があった場合は、自販機を設置した会社側の責任となるので、日本では”あり得ない”ことなのです しかし、日本側の質問に対するドイツ側の回答は「ドイツではビールは水と同じです」という唖然とするものでした。これがドイツのリアリズムだったのです これと同じ理屈で、「イタリアではワインは水と同じです」というのがイタリアのレアリズモなのでしょうか

コメント (4)
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