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Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

聖ピオ十世会 カトリック聖伝のミサの報告【東京】【大坂】Traditional Latin Mass in Japan SSPX Japan

2023年05月18日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

今日は主の昇天の祝日でした!おめでとうございます!

2023年5月14日主日、東京のミサに来られた方は、子供達も入れて合計114人でした。大阪では38人でした。

明日から九日間、聖霊降臨の主日まで、聖霊の降臨を祈ってノベナ(九日間の祈り)を行い、毎日、Veni Creator Spiritus を歌いましょう。聖霊の賜物が私たちには特に必要です。

聖霊、来たり給え!Veni Creator Spiritus ! - Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

【LGBT法案】

ところで日本政府は、G7広島サミットのために、LGBT法案の成立を急いで行っていると報道されています。外国からのイデオロギー押し付けによる法案を強行採決しようとしています。もしもこの法案が通れば、普通の女性の方々が、安全と人権が守られなくなくと抗議の声をあげています。

日本の性的少数者の四つの団体は、「LGBT法は不要」と公式に発表しています。性同一性障害者らでつくる「性別不合当事者の会」や、女性の権利保護を目指す「女性スペースを守る会」など4団体は1日、東京都内の日本記者クラブで記者会見し、自らの性を自身で決めるという「性自認」を法令化する現状のLGBTなど性的少数者への理解増進を図る法案について反対の立場を強調しました。

記者会見で、性的少数者でつくる「白百合の会」の千石杏香氏は、法案について「女性だと言い張る男性を女性として認め、女子トイレが使えるように解釈される可能性が高い。このような法律は不要だ」と強調しました。
当事者の会の所属で、女性に性転換した美山みどり氏は「生活者の立場で、医療機関や金融機関、行政で差別を受けたことはなかった」と述べ、法案の必要性を否定しています。
白百合の会の森奈津子代表は、会見で「LGBT活動家は当事者の代表ではない。一部の活動家だけではなく、当事者のリアルな声も報道してほしい」と訴えました。

しかし、もっとも大きな犠牲者は子供たちです。この法律が制定されると、幼稚園の時から性への「権利」があるとされ、性教育を受けることになるからです。静岡県菊川市では、“ドラァグクイーン”が小6生に特別授業を行いました。法律が制定されると、このような学校の活動に対して父兄は抗議することができなくなります。

ガブリエラ・クビー女史著『グローバル性革命ー自由という名における自由の破壊』に関する Kinuko さんの日本語レポートをお勧めいたします。
 

ガブリエラ・クビー女史はこう言います:
性規範の規制撤廃は、文化の破壊をもたらします。家族というのが社会の基本単位だからです。

今日、性強調社会(hyper-sexualized society)で育った子どもたちは、娯楽産業、メディア、義務教育を通して、異常な性的方向付けをされています。そういった子どもたちは結婚をする責任能力、責任ある父親、母親としての義務を行なう、成熟した大人になることができなくなっています。

人々が、自己犠牲的な愛を見失った文化の中に生き、相手に自分を与える愛ではなく、性的満足のためにお互いを「利用」するのだとしたら、人々は、自分のニーズを満たすためならどんなことでも他の人を利用するようになっていくでしょう。

そのような性規制撤廃によって、次に起こってくるのは社会的混沌状態です。最終的に国家による統制を促すことになります。オルダス・ハクスリー著『すばらしい新世界(Brave New World)』の子どもたちはといえば、他の誰もと同じように、セックスの快楽にふけり、すべては「フォード」という独裁者に支配されているのです。

グローバル性革命は今やパワーエリートによって遂行されようとしています。具体的にいうなら、それは国連やヨーロッパ連合のような国際機関、傘下機関のウェブ、アマゾン、グーグル、マイクロソフトといったグローバル企業、ロックフェラー、グーゲンハイムといった大きな財団、ビル&メリンダ・ゲイツ、テッド・ターナー、ジョージ・ソロス、ワレン・ブフェットといった個々の億万長者たち、そして国際家族計画連盟や International Lesbian and Gay AssociationといったNGOなどを含みます。こういった役者たちは、巨額の財源でもって、最高レベルの権力を行使しています。

そして彼らは皆、同じ利害を共有しています。つまり、この地球上での人口増加を減らそうというのです。中絶、避妊、LGBT(レズビアン、ゲイ、バイ・セクシュアル、トランス・ジェンダー)のアジェンダ、家族の崩壊、、、これら全ては、上に述べたただ一つの目的を成就するために仕えています。

聖母よ、我らを憐れみ給え!

【報告】【東京】
Dear Fathers:
Shown below are the number of attendees at today's Sunday masses in Tokyo. The total number of attendees at today's Sunday masses in Tokyo was 114 including children.

09:00 mass
M: 31 (incl. 6 children)
F: 29 (incl. 7 children)
Total: 60 (incl. 13 children)

11:30 mass
M: 26 (incl. 3 children)
F: 32 (incl. 4 children)
Total: 58 (incl. 7 children)

Total of 2 masses (excl. 4 persons who participated in multiple masses)
M: 55 (incl. 9 children)
F: 59 (incl. 11 children)
Total: 114 (incl. 20 children)


世の救いが開始したのはマリアを通してであり、それが完成されるべきはマリアを通してである。

2023年05月17日 | お説教・霊的講話

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、2023年5月14日は復活後第五主日です。

「テレワーク」方式ではありますが、皆様にYouTubeで「復活後第五主日の説教」の動画をご紹介いたします。

この動画が気に入ったら、お友達にもご紹介くださいね。

SSPX JAPAN聖ピオ十世会日本にチャンネル登録もお願いいたします。

天主様の祝福が豊にありますように!

トマス小野田圭志神父


【参考文献:Z神父のブログ(Fr. Z's)より】新しく壮大な聖ピオ十世会の教会、司教たち、そして概念実証(コンセプトの証明)

2023年05月13日 | カトリック・ニュースなど

【参考文献】新しく壮大な聖ピオ十世会の教会、司教たち、そして概念実証(コンセプトの証明)

普通の人なら、何かをやろうとしてうまくいかなかったとき、他の人が成功するのを見れば、彼らはどうやったのだろうかと考え始めるものだ。彼らは何か違うことをしているのだろうか? 彼らの成功の鍵は何なのだろうか? さらには、普通の人なら、何度も失敗すると変えてみるものだ。この格言はご存じだろう。

Z神父のブログ(Fr. Z's)より

New, grand SSPX church, Bishops, and Proof of Concept

投稿日:2023年5月8日 投稿者:ジョン・ズールスドーフ神父

「クライシス・マガジン」(Crisis Magazine)に、エリック・サモンズによる「関心を持たない司教たち」(Our Incurious Bishops)というタイトルの文章がある。

その考えはこうだ。聖ピオ十世会は、カンザス州にある巨大で美しい教会の献堂式を行ったばかりである。その教会には、敬虔な人、若い人、大家族など、まさに司教たちが見たいと思うような人たちが集まっていた。その翌日には、本当に多くの受堅者の堅振があった。

「カトリック・ワールド・リポート」(Catholic World Report)には、司祭の召命がどのように減少しているのか、そしてなぜ減少しているのか、について書かれている。ミラノでは、解決策を見つけようと急いでいるが、その中には良いものもあれば、本当に悪いものもある。しかし、この問題は、これやそれやの司祭養成教育を何年ぐらいにするのかとか、神学生が聖職者の服を着るべきかどうかということよりも、もっと深いものである。この筆者は、昔から言われているように、問題は頭にあるのではないかと考えているのだ。

普通の人なら、何かをやろうとしてうまくいかなかったとき、他の人が成功するのを見れば、彼らはどうやったのだろうかと考え始めるものだ。彼らは何か違うことをしているのだろうか? 彼らの成功の鍵は何なのだろうか? さらには、普通の人なら、何度も失敗すると変えてみるものだ。この格言はご存じだろう。

私は、メル・ギブソン主演の映画「パトリオット」のシーンを思い浮かべる。冒頭で、メル・ギブソンが非常に軽いロッキングチェアを作ろうとするシーンがある。揺らしていると、2回目でその危なっかしいロッキングチェアが壊れ、彼は破片が飛び散った床に叩きつけられた。怒った彼は、そのロッキングチェアを、以前の実験的に作ったものが山積みになっている隅に投げ捨てる。映画の後半で、彼は戦っている相手の英国人将軍の家にいる。将軍が現れるのを待つ部屋には、彼が作ろうとしていたのと同じようなロッキングチェアがある。彼が座って揺らすと、いい出来栄えだ。彼はブツブツ言っている。シーンが進むと、彼が床に伏せてその椅子の裏側を近くで見ているのを将軍に見られてしまう。

「クライシス・マガジン」の記事には、聖ピオ十世会が成長しており、各教区がいろいろな形で衰退していると書かれている。なぜなのか? 聖ピオ十世会は何をやって信者を惹きつけているのか? なぜ彼らはバージニア州に巨大な新しい神学校を、カンザス州に巨大な新しい教会を建設することができるのか?

「カトリック・ワールド・リポート」の記事は、枢機卿会が教会の将来について真剣に考え直す必要があると示唆している。今の状況は、うまくいっていない。もう一度やってみたいのか?

サモンズは「クライシス・マガジン」にこう書いている。

悲しいことに、われわれの司教たちはこのような疑問を抱いていないようだ。実際、司教たちは、このような並存状態について、全く無関心で、時には敵対的でさえあるようだ。(…)

司教たち…枢機卿たち… どちらでもいい。

聖ピオ十世会による無原罪聖母教会の建設が、米国や他の司教たちの目覚めのアラームや転機となるかどうかを見るには、まだ少し早すぎる。そうなるべきだ。しかし… まあ、われわれは司教たちのことを話しているんだよね。

枢機卿たちについては…、そう、彼らには時間はあったんだよ、もうないけれど。

しかし、聖ピオ十世会と無原罪聖母教会に話をもどそう。

しかし、聖ピオ十世会の「無原罪聖母教会」の献堂式の本当の重要性は、単にそれが人で混んでいて、献堂式を見ている人が非常に多かったということではない。

司教閣下の皆さん全員が理解する必要があるのは、こうだ。

無原罪聖母教会の建設と献堂式とは、

概念実証(Proof of Concept)【コンセプトの証明】だったのだ。

概念実証とは、大まかに言うと、ある考えを具体的にテストして成功させることで、さらに大きなことができるということを実証することだと言える。ある考えの実現可能性を最初の試みで検証するのである。成功すれば、特に試行から学んだことを使って、「さらに大きな」規模で、実行に移すのだ。

みんな、カンザス州のこのちっぽけな小聖堂の写真を見ながら、このことを心に留めておいてくれ。

ちっちゃいね

「これで十分だ」とほうり出された、たんなる地味で小さくて実用的な場所。

概念実証。

ね、司教様たち!

彼らはそれをやったんだ。彼らはそれを建てた。考えだけのことでもない、図面でもない、夢でもない。具現化して、オープンして、機能している。

彼らは、自分たちがそれを建てることができると証明した以上、他のものも建てるだろう。彼らの支持者たちもそのことを知っている。人々は具体的なプロジェクトに寄付をしたがるものだし、今彼らは記録を一つ作ったのだ。

概念実証。

「カトリック・ワールド・リポート」の記事には、別の概念実証の例がある。ただし、これほど劇的でもなく、あるいは長期的な意味合いで重みがあるのでもない(私にはそう思われる)が。それは、一つの「ノブス・オルド」の小教区が、ノブス・オルド的なことを正しく行うと"成功"を収めるということだ。言いたいポイントは、カトリック的なことを常識的にやれば、分かるよね、物事がうまくいくらしいということだ。このことは、われわれに何を教えてくれるのだろうか。

あのロッキングチェアは、ギブソンの登場人物が持っていた概念実証だった。彼が思い描いた椅子は作ることが可能だという証明だった。

無原罪聖母教会。

次がもっと続くのだろうか?

あ、それから、新たな受堅者たち…。これは言ってみただけ…。

ジョン・ズールスドルフ神父について
Z神父はこのブログを運営している人であるo{]:¬)

【訳者注:ジョン・ズールスドルフ神父は、ルター派からカトリックに改宗し、1991年にローマでヨハネ・パウロ二世教皇によって叙階された。アメリカで司牧しているアメリカ人司祭。聖ピオ十世会司祭ではない。】


アメリカのカンザスにある聖ピオ十世会の教会「インマクラータ」の献堂式

2023年05月13日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

いかがお過ごしでしょうか。さる5月3日、アメリカのカンザスにある聖ピオ十世会の教会「インマクラータ」の献堂式が行われました。

フェレー司教様が献堂式を行い、120人の修道者・神学生・司祭たちと、十数名の修道女たち、約3000人の信徒たちが参列しました。直接参加することができなかった人々はライブでそれに与り、2800人が同時にそれを視聴していました。

新しいミサを捧げる教会は、閉鎖され、売却され、取り壊されていますが、聖伝のミサを捧げる教会は世界中で建設され、献堂され、ますます増加しています。信仰のなす業です。天主に栄光を帰したいという信徒たちの愛の現れです。アメリカのカトリック教会の将来の希望は、ここにあります。Terribilis est locus iste: hic domus Dei est et porta caeli: et vocabitur aula Dei!「この場所は恐るべきところだ、ここは天主の家、天の門だ、天主の宮廷と呼ばれるだろう!」

読者の方からいただいたお便りをご紹介いたします。

【お便り】
+Ave Maria !
トマス小野田神父様
いつも、御ミサやお祈りに加え、ブログもどうもありがとうございます。
秋田巡礼の荘厳ミサや神父様の講話を動画でも拝見しました。或る巡礼者さんからもお話を伺いましたが、その素晴らしさが伝わってまいります。

さて、ブログにありました我那覇真子さんが動画で紹介しておられるLGBTQI+イデオロギーの問題に続き、更に先を行く薬物合法化にまで至る内容の報告書が国連から出されていると友人に教えてもらいました。彼女はLGBTQI+の行きつく先はこちらではないかと思っていたそうです。私などは想像もできませんでしたが。  

次の動画で説明されています。4.19 ド左翼活動家のような国連報告書

この動画で紹介されている国連報告書は次のもので、動画に出てくる報告書の各PRINCIPLEは、この報告書の7ページの目次に示されています

https://icj2.wpenginepowered.com/wp-content/uploads/2023/03/8-MARCH-Principles-FINAL-printer-version-1-MARCH-2023.pdf

心配な事の一つは、日本は政治家も含め国連信仰の強い人が多い事です。ブログでも、これまで度々、国連の実態をご紹介されているのを改めて思い起こしております。ご参考までにお送りさせて頂きます。
聖母とともに


聖アグネス童貞殉教者:聖霊によって、命さえも惜しまないほど愛によって強められた童貞女

2023年05月11日 | お説教・霊的講話

2023年1月21日修道院のミサでの説教

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

今日ミサで祝っている聖アグネス童貞殉教者とは、どのような方だったのでしょうか。少し垣間見ることにします。

私たちは一週間後、1月29日には、堅振の秘跡を受けます。堅振を受けることによって、聖霊の賜物の充満が与えられます。特に聖霊の愛が私たちを強めて固めて、イエズス・キリストへの信仰のために、イエズス・キリストを愛するために、私たちが命さえも惜しまないほど、愛によって強めてくださいます。その最も良い例が今日の聖殉教者童貞聖アグネスです。

アグネスはローマのある高貴な家に生まれたうら若い少女でした。13歳でした、殉教の時。そのあまりにも可愛らしい美しい才能ある彼女に心を奪われたローマ長官(Praefectus)のシンフロニウス(Symphronius)という青年は、アグネスと結婚したいと申し出ました。

しかし、アグネスはすでに自分の生涯をイエズス・キリストのために捧げると決めていたのでした。自分の持ち物も身体も貞潔も意志も心もすべて主イエズス様のものとして捧げたいと。だから、シンフロニウスには、それはできないと丁重に断りました。なぜかというと、イエズス・キリストに自分は身を捧げているから、イエズス・キリストよりも素晴らしい相手はいないから、と。

しかし、シンフロニウスは彼女のことをどうしても諦めることができませんでした。そこでアグネスと結婚するためにお父さんの力を借りようと、ローマ長官の最高の権威と権力を使ってアグネスを脅しました。しかしアグネスはその心を全く動かすことがありませんでした。怒った長官は、彼女を口にするのも恥ずかしい不潔なところの家に押し込みます。するとアグネスの体からは光が輝いて、そして誰もアグネスに手を付けることができませんでした。それを聞いて怒った長官はアグネスを焼き殺そうとして、そしてついに聖女はイエズス・キリストへの愛のために聖霊の愛に燃やされて殉教します。

殉教した一週間後、両親たちや家族の人々に小さな子羊を手に持って現れました。典礼でもこのことの記念を行います。アグネスというのは、ギリシャ語ではアグネ、純潔な者、女性、またラテン語ではアニュス(子羊)の女性形(アグネス)とその二つの意味を持ち合わせている聖人でした。天主の子羊であるイエズス・キリストに捧げられた純潔な子羊となる女性でした。これは聖霊の愛の作った作品であって、まさに堅振の秘跡を準備している私たちにとって、模範となる方です。

聖アグネスのようなイエズス・キリストへの愛に燃えた信仰・純潔そして剛毅を、私たちもいただくことができますように、聖アグネスの御取次ぎまた聖母マリア様の御取次ぎを請い願いましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

【再掲】聖アグネスの祝日「私はこの方に許嫁となった。この方だけに契りを守っている。この方だけに心を全て与えている。」 - Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

「5名の賢い乙女たち」の携えていた「油」とは何か? - Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

このブログ Credidimus Caritati は、2006年01月21日、聖女アグネスの祝日に生まれました。


堅振の秘跡の効果の内の最も大きな効果である、聖霊の七つの賜物: 上智、聡明、賢慮、剛毅、知識、孝愛、主への敬畏

2023年05月11日 | お説教・霊的講話

2023年1月15日 東京の主日ミサでの説教

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

今日は、特に堅振の秘跡の効果の内の最も大きな効果である、聖霊の七つの賜物について、一緒に黙想いたしましょう。
上智、聡明、賢慮、剛毅、知識、孝愛、そして主への敬畏、この七つの賜物を、よく理解してください。

聖霊の七つの賜物を黙想する前に、聖霊とは何かということを復習する必要があります。なぜかというと七つの賜物は聖霊の特別な働きの一環であるからです。

【1】聖霊とはいったい何か。

聖霊とは、万物の創造者かつ私たちの主である三位一体の第三のペルソナです。御父と御子のペルソナと同じように、永遠で、無限で、全能の天主です。聖霊は、御父と御子を一つの源として、そこから意志と愛とによって出てきます。これを神学用語で「発出する」と言います。そのお方です。御父は御子を永遠からお生みになって、そして聖霊は御父と御子から、永遠の昔から発出しておられます。

聖霊は、私たちのうちにどのように働きかけるのでしょうか?聖霊は、聖霊降臨の日に、使徒たちに降りました。十二使徒たちはたしかに洗礼を受けて、三年の間イエズス・キリストに従って、常に主のみ教えを聞いて、主と共に生活していましたけれども、しかし主の御心を悟りませんでした。その心は鈍くて弱いものでした。ですからイエズス様の御受難の時には、すぐに皆一緒になって逃げてしまいました。しかし、聖霊の御降臨によって、使徒たちは、すっかり抜け替わったように勇気を得て、教えの為にどこまでも力を尽して苦しみを甘んじ辱めを喜び生命を惜しまいほどの強い信仰者となりました。

聖霊は、堅振の秘跡を通して全教会と主の教えを信ずる全ての人々のために、送られます。堅振の秘跡は、ですから私たちのなかに聖霊の現存を豊かにますます増加させます。ちょうど使徒たちに起こったことと同じようなことが、私たちにおこるのです。つまり霊的な弱々しい子供の状態から、霊的な大人に変えてくれます。霊的な生命が完成されるようになるのです。ですから、ある意味で堅振の秘跡は、私たちにとっての「聖霊降臨」の日となります。聖霊は、十二使徒の上には火のような舌で炎の形で現れました。ところが堅振の秘跡では、私たちの霊魂に恩寵とそして七つの賜物を一層ますます与えて、そして私たちの超自然の生命を完成してくれるのです。私たちがまちがいなく天国に導かれるように助けてくれるのです。教皇聖グレゴリオは、こう言いました。引用初めます、「天主は教会という神秘体に、キリストという頭を与え、聖霊という心臓を与えた。キリストは真理を知らせ、聖霊は愛を実践させる。」

【2】聖霊の愛の働きであるその最も大きなものが聖霊の賜物。

堅振の秘跡は、私たちの霊魂において聖霊の現存を非常にたくさん、豊かに増加させます。私たちは霊的な子どもの状態から、霊的な大人にかわるからです。たしかに洗礼の秘跡によって私たちは超自然の命に生まれます。聖霊の働きを受け始めて「成聖の恩寵の状態」になります。しかし、堅振の秘跡によって聖霊の力がますますはたらくようになり、超自然の命が完成されるのです。

ちょうど子供だった子が成長すると髭も生やしたり声も変わったり筋肉が隆々としてきたり、これで一人前の男の子になったということができるように、堅信の秘跡を受けるとキリスト者の霊魂にいっそう多くの恵みが豊かに与えられてますます豊かに与えられてキリスト者をキリストの兵士としてそしてキリストの王国である教会の発展と拡張の為に救霊の敵天主の敵に対して戦うことができるようにしてくれます。

そのために必要な霊的な武器を与えてくれます。この武器のことを、聖霊の賜物と言います。特別なはたらきによって、私たちの知性を助けて、私たちの意志を強めてくれます。それが賜物です。

【3】七つの賜物

第一は主への敬畏、主を畏れるという賜物です。
七つの賜物のうちで、最も上位のものは上智です。しかしこの上智の賜物を最高度に受けるためには、主への畏れ、主への敬畏が必要です。ちょうど、大きな建物を建てるためには、しっかりとした土台がなければならないように、また大きな高い大木の下には深い根があるように、まず主の敬畏が必要です。智恵の書にはこうあります。「智恵の根は、主を畏れることである(智書1:25)」

なぜでしょうか、なぜかというと主に仕えるための最初の邪魔者、妨害物は傲慢であるからです。ルチフェルはすばらしいものを受けていたにもかかわらず傲慢のために罪を犯し、地獄に落ちてしまいました。アダムとエワも傲慢によって罪を犯しました。聖霊は私たちが謙遜にとどまることができるように、主への敬畏・主への畏れを与えてくれます。

聖霊は、私たちに主への愛を注いでくださって、罪によって主を悲しませたり、主から離れたりすることがないように、それを畏れさせてくれます。聖パウロはこういっています、「私たちに与えられた聖霊によって、この心に天主の愛が注がれた」(ローマ5:5)と。天主を愛するがゆえに、主の御稜威(みいつ)のその栄光を敬うのです。ですから主への畏れがあればあるほど、主がいったいどのような御方であるのか、主は有りて在る方、始めもなく終わりもない方、目に見えるものと目に見えないものすべてをお創りになった御方、全能の御方、無限に聖なる御方、この方に比べれば私たちは全く無に等しいということ、弱々しい存在であるということを教えてくれます。アシジの聖フランシスコがその最も良い模範でした。

第二は孝愛です。孝愛というのは子どもがお父さんに持つその愛のことです。
天主に仕える第二の障害は利己主義です。自分のことしか考えないこと。しかし聖霊は、私たちに、養子として愛を与えます。聖ヨハネはこう言います。「御父がどれほどの愛を私たちにお注ぎになったかを考えよ。私たちは天主の子供と呼ばれ、また実にそのとおりだからである」と。この天主からの愛によって、聖霊は、私たちが主を父親として父として認識して、そして私たちは天主の子どもとして振舞うようにとさせてくれます。
ですから孝愛の賜物によって、主を「我らの父よ」と祈らせてくれるのです。そして父なる天主に関する全ての人々を大切にするように動かしてくれます。聖人たちを敬うことも孝愛の賜物に属しています。また、私たちすべて信者は、洗礼を受けたものは、同じ父のもとの天主の子供ですから、兄弟姉妹です。ですから孝愛の賜物は私たちを兄弟姉妹として愛させるようにしてくれます。イエズス様は私たちにこう言いました。「あなたたちは皆兄弟であり、またあなたたちの父はただ一人、天におられる御父だけである」と。
幼きイエズスの聖テレジアは、1886年のクリスマスの夜に、大きな天主の愛を受けて、聖霊の、孝愛の働きで霊魂を救うために自分をすべて忘れなければならないと突然理解したと書いています。

第三の賜物は知識です。
人間は、目に見える物を通して、目に見えない天主を知るように造られています。私たちが天主に忠実に留まって、救霊を果たすことができるように、被造物をどのように使って天主へ行くべきか、ということを知識の賜物が教えてくれます。
被造物というのは天主へと至る手段であって目的ではありません。ですから「知識の賜物」は、被造物が時にして罪の機会となるということを教えてくれます。また「知識の賜物」は、自分の過去の過ちをも理解させてくれて、自分が涙の谷に生きていることを教えてくれます
聖フランシスコ・ボルジアという聖人は、スペイン王国の宰相でした。王様の次の方です。当時、女王イサベラという方が統治していましたが若くして亡くなりました。突然亡くなります。そして宰相として、棺桶に眠る女王の死体を見る義務がありました。女王の崩れた顔と汚臭は見るに耐えないものでした。その時、フランシスコ・ボルジアは被造物のはかなさを深く理解しました。聖霊の賜物の働きで、徹夜して祈り、この地上の全ての名誉を捨てて後にイエズス会に入会しました。

第四の賜物は剛毅です。
知識の賜物によって、被造物が、罪の機会となる危険があると理解するだけではたりません。聖霊は、誘惑や私たちの苦しさ、弱さに打ち勝つ力を与えてくれます。私たちの心を動かして、全ての危険を耐え忍ぶ、これを乗り越える、もしも必要ならば命さえも与えることができるようにしてくれます。特に剛毅の賜物は私たちの心に、永遠の命への信頼をもそそぎこんでくれ、恐怖を追い払ってくれます。聖霊のこのような働きが剛毅の賜物です。
日本における数多くの何千何万という殉教者たちが、聖霊が死に至るまで私たちを強めてくださっているということを証しています。

第五の賜物は賢慮です。
私たちが天国に至る道を歩みながら、もっとも必要なものを私たちに示してくださり導いてくださるのが賢慮の賜物です。
疑いや不確かさというこの現代世界の中で永遠の命という目的に向かうすべてのことについて、何が必要かということを教えてくれるのが賢慮の賜物です。ちょうど人は病気の時、お医者さんのアドバイスが必要です。人間は困難な時、たとえば霊的に病を負っているとき、罪の病を患っている時には、永遠の救いのためには何が必要なのか罪から癒されるためには何が必要なのかという聖霊からの賢慮の賜物が特に必要です。
アルスの聖司祭は、多くの霊魂たちをこの賢慮の賜物で天国に導きました。
聖ノルベルトは、貴族出身の聖人です。若いころは宮殿に仕えていました。ある時狩に出かけました。その時すぐ近くに雷が落ちて、乗っていた馬は聖ノルベルトを地面に振り落としてしまいました。気絶から意識を取り戻すと、聖霊の働きで、聖ノルベルトは自分の命が救われたことを感謝し、自分は今裁きの座に出る前に償いを果さなければならないことが余りにも多くあった、ということを深く理解しました。そしてその償いの時が与えられたことを感謝します。賢慮の賜物によって、のちに司祭となり修道会を創立し大司教にもなり、聖なる一生を送りました。

その次は聡明の賜物です。
私たちが天国に行くために天国の神秘を少し垣間見せてくれます。すべてがわかるのは天国に行ってからなのですけど、地上でもそれがわかるようにしてくださいます。信仰の神秘を理解する特別の光が私たちに与えられます。これが「聡明の賜物」です。聡明の賜物は、ラテン語では intellectus と言います。これは intus legere つまり「中を読む」という意味で、緊密に深く知るということを意味します。

人間は、超自然の至福を得るという目的のために今ここで生活していますが、でも人間は、自然を超えるものを理解するためには自分の知性だけでは力が足りません。限界があります。自然の光によっては知り得ない天主の神秘を深く知ることができるために、特別の超自然の光りが必要です。これが聡明の賜物です。
聖ヨハネ・ボスコは、この聡明の賜物を通して、多くの若い青少年たちを天国の神秘を望むように導くことができました。

最後は上智です。
上智というのは、聖霊からくる天上の智恵という意味です。全てのことの根源でありそして最高の善である天主を究極の目的として判断させる、それが上智の賜物です。それを味わわせてくれる賜物です。ただ上智の賜物は天主の言葉をよく見極めて味わわせてくれるだけではありません。さらに私たちの行動をも定めてくれます。どのように定めるかというと、天主の方に定めてくれます。そして上智に智慧に反するすべての悪を取り除くようにしてくれます。では上智に反する智慧に反する悪というのは何なのでしょうか。それは主に対して罪を犯すことです。ですから罪を懼れる主を畏れることは智慧の始まりであると言われています。
ソロモン王は上智の人でした。何故かというと富や被造物よりも天主からの真理を深く愛していたからです。

七つの賜物を全てみると、この聖霊の賜物を受けている人と受けていない人の違いは、ちょうど、マストに大きな帆がついて風を受けて進むヨットか、あるいは手でオールをかいて進むボートか、の違いに譬えることができます。主の洗礼を受けた霊魂は、天国という目的に向かって一生懸命オールを漕いでゴールに向かって進むことができます。しかし堅振の秘跡を受けて、聖霊の賜物を充満に受けて、そして聖霊の息吹を受けることができるように大きな帆をつけた船は、もっと簡単に目的地まであっという間に到着することができるようになります。ここに聖霊の賜物の素晴らしさがあります。

【4:遷善の決心】
では最後に遷善の決心を立てましょう。
堅振の秘跡をよく受けるために、どうぞ続けてよくお祈りなさってください。
主の御昇天の後、使徒たちとともにマリア様は祈りに入りました。聖霊降臨を九日間祈りで準備していました。ですから堅振を受けるその日まで毎日祈り続けてください。特にマリア様に、マリア様と共に聖霊に祈ってください。マリア様は聖霊の浄配であるからです。堅振の秘跡を受ける直前の19日から27日までの九日間は、一緒にノヴェナをお祈りすることを提案します。また聖霊によく祈り、マリア様によく祈り、よい告解を受けてください。私たちがよい準備をすればするほど聖霊はより多くの祝福を与えてくださいます。

来週の主日には、堅振の秘跡の聖伝の儀式について説明したいと思います。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


ある行為に善の結果と悪の結果の両方がある場合、その行為をすることが合法的か否かをどのように識別するか

2023年05月10日 | お説教・霊的講話

間接的自発性についての説教

ドモルネ神父 2023年5月7日

はじめに

今日は、私たちが何かをすることが合法的かそうでないかを識別するための重要な道徳的原則についてお話しします。私たちはこれを、間接的自発性の原則と呼んでいます。

私たちの行為にはしばしば、結果がいくつかついて回ります。例えば、ある家庭の父親が仕事に行き、一生懸命その仕事をすると、給料がもらえ、通常周りの人たち、特に妻や子どもたちから感謝され、たぶん昇進することもあるでしょう。逆に、一家の父親がアルコールに溺れると、一家は経済的に破綻して、口論になり、子どもたちの教育にも悪い影響が出るでしょう。

ある行為の結果がすべて善であるとき、それを行うのが合法的だということを私たちが知るのは難しくありません。ある行為の結果がすべて罪深いものであるとき、それを行うのが合法的でないということを私たちが知るのも難しくありません。しかし、ある行為に、善の結果と悪の結果の両方がある場合はどうでしょうか。そのような行為をすることが合法的かそうでないかを、私たちはどのように識別することができるのでしょうか。

1. 道徳的原則

このような状況は、決してまれなことではありません。私がアパートを持っていて、収入を得るために、それを貸したいと思っているのですが、それを借りたいと思っているのが同棲している人たちだと想像してみてください。私は彼らにアパートを貸してもいいのでしょうか。別の例です。私は印刷業者ですが、あるプロテスタントの牧師が私の店に入ってきて、彼のプロテスタントの説教を印刷するように頼んできました。この説教には信仰に反する誤謬が含まれていると知っていながら、私がそれをすることは許されるのでしょうか。さらに別の例です。私はレストランの経営者ですが、私が販売するアルコールのせいで、いつも何人かの客が酔っぱらってしまいます。私は彼らに酒を売り続けてもいいのでしょうか。こういった例をいくつも挙げることができるでしょう。

その答えを見つけるには、私たちは間接的自発性の原則に従わなければなりません。私たちが、善の結果と悪の結果の両方がある行為をすることが許されるのは、次の条件が満たされるときです。

・私が行うつもりの行為は、それ自体が善であるか、少なくとも中立、つまり善でも悪でもないものでなければなりません。
・私の行為の最初の結果は、善いものでなければなりません。
・その行為を行う私の意向が正しいものでなければなりません。
・私の行為によって何らかの悪い結果が生じることを予見していれば、その行為を行うための善い理由、つまりその悪い影響に釣り合った理由が必要です。

これらの点について、一つずつ説明していきましょう。

2.私たちの行為自体が善であるか、中立でなければならない

第一の条件は、私が行うつもりの行為が善であるか、少なくとも中立でなければならないということです。行為の中には、天主の法に反する、ひどく罪深いものがあり、これらの行為を善とすることができるものはありえません。例えば、嘘とは、人をだますために偽りを言うことです。このような行為は、それ自体が悪いものであり、この世には、これを合法的にすることができるものはありえません。なぜそうなのでしょうか。なぜなら、天主は、私たちが自分の考えを表現できるように、私たちに言語という能力を与えてくださったからです。ですから、自分の考えに反することを表現するために言語の能力を使うことは、私たちの能力の悪用であり、天主が創造にあたって定められた秩序に完全に反しています。天主を冒涜したり、姦淫をしたり、妊娠中絶をしたり、避妊具を使用したりするといった行為についても、同じことが言えます。

その反対に、それ自体が善である行為もあります。例えば、祈ること、困っている人を助けること、食べること、飲むこと、眠ること、家庭や職場で身分に応じた義務を果たすことなどです。これらの行為が善であるのは、天主がこの世に定められた秩序に従っているからです。私たちは、天主の秩序に従って、食べたり、飲んだり、眠ったり、働いたりする必要があります。

最後に、行為の中には道徳的に中立なものがあります。それは、それ自体は善いものでも悪いものでもなく、状況に応じて善いものにも悪いものにもなる、という意味です。例えば、山でのハイキングは、それ自体では善いことでも悪いことでもありません。リラックスしたり、健康を維持したり、その後自分の義務をよく果たすことができるようになるためにするのであれば、それは善いことです。しかし、天主の掟を破るような行為であれば、同じハイキングでも罪深いことになります。例えば、主日にミサにあずからずにハイキングをすることは罪深いことです。もう一つの例です。人を殺すことは中立であり、良いことでも悪いことでもありません。もし私が兵士で、祖国を守るために戦っているのなら、敵を殺すのは正しいことです。しかし、怒りや復讐心から人を殺すのは悪いことです。

ですから、まず考えるべきことは、私たちが行うつもりの行為それ自体が善いものであるか、少なくとも中立なものであるかということです。

3.私たちの行為の直接的な結果は善いものでなければならない

第二の条件は、私たちの行為の直接的な結果が善いものでなければならないということです。聖パウロは、このルールをこう表現しています。「私たちは善をひき出すために悪をしてはならない」(ローマ3章8節)。例えば、私たちは、貧しい人に与えるために金持ちから盗むことは決してできません。なぜなら、盗みの直接的な結果は、人からその人のものを不当に奪うことだからです。私たちは、母親の命を守るために中絶をすることは決してできません。なぜなら、中絶の直接的な結果は、罪のない人を殺すことだからです。

私が行おうとする行為の第一の結果は、善でなければなりません。例えば、誰かがアパートを貸そうとする場合、その行為の第一にして直接的な結果は、収入を得ることでしょう。それは問題ありません。誰かがレストランの経営者だとすると、その人の仕事の第一にして直接的な結果は、人々に食事を提供することです。それは問題ありません。ある妊婦が重い病気にかかり、医者がその病気に対する強い薬を与えます。その薬の第一にして直接的な結果は、妊婦の痛みを和らげることです。それは問題ありません。

4.私の意向は正しくなければならない

第三の条件は、善い意向を持っていることです。善い意向があれば、悪い手段を使うことが正当化されるわけではないと述べました。例えば、貧しい人を助けたいという善い意向は、金持ちから盗むことを正当化するわけではありません。しかし、悪い意向は、その意向を実現するために行うすべての行為を悪いものとします。例えば、ある人が女性を誘惑する意向を持っていて、その目的を達成するために、この女性にさまざまな方法で親切にし、助けてあげたとしたら、その人のすべての愛徳の行為は、見かけ上は善ですが、実際には、その罪深い意向によって台無しにされているため、悪となります。

ですから、私たちが、善の結果と悪の結果の両方がある行為を行おうとするときは、自分の良心を調べ、真摯にこう自問しなければなりません。「本当は、私は何を望んでいるのだろうか。この行為による善い結果なのだろうか、それとも悪の結果なのだろうか」。私たちは、自分に正直にならなければなりません。心の底を見通しておられる天主をだますことなどできないのですから。

5.釣り合いの取れた理由を持つこと

第四の条件は、悪い結果に対して釣り合いの取れた善い理由があることです。私たちの行為が何らかの悪い結果をもたらすと分かっている場合、その行為を行うためには、その悪い結果を補うだけの、重大な、善い、理由が必要です。そのような釣り合いの取れた善い理由がなければ、私たちはその行為を行うことはできません。例えば、ある人が自分のアパートを貸したいと思っていて、自分の家族を養うための収入がとても必要であって、そのアパートを借りたい人は同性愛者だけしかいないとします。その人は、経済的な苦境を脱するまで、自分のアパートをこれらの人々に貸すことが許されます。別の例です。ある人がある場所で働いていますが、その場所で深刻な誘惑にさらされているとします。その人は、その仕事を辞めなければならないのでしょうか。いいえ、もしその人が自分の生活を保障するための他の選択肢がない場合には、辞めなくてもよいのです。

釣り合いの取れた理由があるかどうかを評価することは、識別のなかでも、おそらく最も困難なところです。私たちは、賢明の徳を実践する必要があります。

結論

親愛なる信者の皆さん、私たちの生活においては、本当にしばしば、善い結果と悪い結果の両方があるような決定を下さなければなりません。そのとき私たちは、何をすべきかを知るために、間接的自発性のルールを適用しなければなりません。

聖霊が常に私たちの心を照らし、天主の御旨に従って私たちを導いてくださいますように。


信仰がいかにして清さの実践につながるのか、清さがいかにして信仰を守るのか、清さの喪失がいかにして信仰の喪失につながるのか

2023年05月09日 | お説教・霊的講話

信仰と清さの関係についての説教

ドモルネ神父 2023年4月30日

はじめに

数日前、聖ピオ十世会の総長であるパリアラーニ神父は、聖ピオ十世会の友人と恩人の皆さんに向けた手紙を書きました。総長は、司祭たちに対して、この手紙の内容を説教に反映させるよう求めました。そこで今日は、その手紙のテーマ、すなわち、信仰と清さの徳のつながり、つまり、信仰がいかにして清さの実践につながるのか、また他方、清さがいかにして信仰を守るのか、そしてその結果として、清さの喪失がいかにして信仰の喪失につながるのかについてお話しします。

不可欠な基盤である信仰

信仰とは、天主が私たちに与えてくださった、天主ご自身についての知識です。信仰を持つということは、天主がご自分について啓示されたいと望まれた範囲内において、私たちが天主をありのままに知ることです。天主は私たちよりも無限に偉大なお方ですから、私たちの信仰の中には、私たちには理解できない神秘があります。しかし、私たちがすべてのことを理解することはできないという事実にもかかわらず、信仰は私たちに、天主についての確かな知識を与えてくれます。なぜなら、天主は変化されることもなく、また、ご自身も私たちも欺くことがおできにならないからです。

信仰の全ては、私たちの主イエズス・キリストによって、私たちに与えられました。聖ヨハネが「天主を見た人は一人もいない。御父のふところにまします御独り子の天主がこれを示された」(ヨハネ1章18節)と言うように、私たちに天主を知らしめるのは主であり、主だけです。私たちの主は、カトリック教会に対して、世の終わりまで、あらゆる場所に信仰を広め、それを完全に伝達することを保障する使命を託されました。この使命は極めて重要です。なぜ、それほど重要なのでしょうか? なぜなら、人は天主を知らなければ、言い換えれば、まず信仰を持たなければ、天主を愛し、天主に仕えることはできないからです。

聖ピオ十世会は、ローマ・カトリック教会の一修道会です。カトリック教会の持つ目的以外の目的は持っていません。教会を揺るがしている現在の危機において、聖ピオ十世会は、近代主義の異端に直面して、信仰を広め、信仰の完全な伝達を擁護することに努めています。信仰の全体を完全に守ることは、個人的な好みの問題ではなく、霊的な生と死の問題です。霊魂が私たちの主を知り、主を中心に人生を築き、いつか主とともに天国の幸福にあずかることができるのは、信仰によってです。

清さの源泉である信仰

私たちの信仰は、単なる知的な知識であってはならず、むしろ私たちの行動を形作るものでなければなりません。そうでなければ、それは死んだ信仰です。聖パウロは、私たちは信仰によって生きなければならない(ローマ1章17節)と述べています。信仰によって生きるということは、天主を不快にさせるすべてのものから距離を置き、自分の精神と心を私たちの主イエズスと一致させ、主の教えを実践するよう努力することです。イエズスとの一致により、またイエズスのおかげで、信仰に生きる人は天主への愛とすべての徳の実践において成長し、その人の心は清められ、その行動はますます徳の高いものになっていくのです。その人の信仰は、天主の美しさと私たちの主によって与えられた聖性の理想に向かって、その人を上へ上へと引き上げます。「あなたたちの天の父が完全であるように、あなたたちも完全な者になれ」(マテオ5章48節)。逆に、その人の信仰は、その人をこの世的な精神、すなわち、この世が提供することのできる富、名誉、快楽を求める乱れた愛から遠ざけます。

生きた信仰は清さを生み出します。信仰は、天主を誤りなく、ありのままに知らしめることによって、知性を清めます。信仰は、私たちの主イエズス・キリストとの完全な一致を妨げるすべての乱れた愛着を打ち砕いてしまうため、心を清めます。信仰によって生きる人は、寛大に自分自身を清めます。その結果、天主の存在と美が、その人を通してますます輝き、他人を惹きつける力を発揮するのです。それは、ダイアモンドが、磨けば磨くほど光をよく通し、人々の目にますます輝いて映るのと似ています。このような信仰の輝きは、貞潔の徳、特に完全な貞潔という極めてキリスト教的な徳を通して、特に感じられるのです。この徳は、天主を求める善意の霊魂を啓発し、惹きつけますが、一方では逆に、この世的な人々の信仰の欠如とこの世への乱れた愛を浮き彫りにしますから、彼らを激怒させるのです。

信仰の保護である清さの徳

信仰と心の清さの間にある直接的なつながりを見てください。信仰は、心の清さ、特に貞潔を生み出します。しかしまた、心の清さ、特に貞潔は、信仰を守るものです。私たちの主は、こううまく言っておられます。「心の清い人は幸せである、彼らは天主を見るであろうから」(マテオ5章8節)。信仰を持つということは、天主をありのままに見るということです。ですから、私たちの主の御言葉を、次のように訳すことができるでしょう。「心の清い人は幸せである、彼らは信仰を守るであろうから」。つまり、信仰を守るための最善の保証は、清さへの愛と、それを培うための絶え間ない努力に見いだされる、ということになります。

その反対に、悪魔の戦術は、まず私たちに心の清さを失わせ、次に信仰を失わせるか、あるいは少なくとも信仰を不毛なものにし、霊魂を変容させることができないようなものにすることです。悪魔は、キリスト教徒を追い込んで、この世と妥協するように、つまり、大罪の限界にまでこの世の快楽と富を求めるように、わざと小罪を犯すように、キリスト教的生活の犠牲から逃れるか、あるいは、それを相対化するように、天主の掟に反する法律や流行に順応するようにさせます…こうしてキリスト教徒はぬるま湯状態になり、外的にはキリスト教的生活を送っていても、内的にはキリスト教的精神をなくしてしまうのです。このことは、いくつかのキリスト教国全体が、突然、しかも急激にカトリックの信仰を失ってしまう、ということが起こりえたことの説明です。ヘンリー八世の時代の英国、ルターの時代のドイツ、第二バチカン公会議後の欧州諸国のことを考えてみてください。

キリスト教徒をこの世との妥協に追い込むために、悪魔が最も多く使う武器は情欲です。つまり、悪魔はまずキリスト教徒に貞潔への愛を失わせ、そこから不純の罪へと追い込んでいきます。いったんキリスト教徒が情欲という悪徳にはまると、悪魔は祈りや秘跡、そして最終的にはキリスト教生活全般を放棄させるように追い込むのです。不純の悪徳が、知性と意志に影響を及ぼすことはよく知られています。不純は知性を鈍らせるため、人格が不安定になり、反省することができなくなり、軽率な行動を取るようになります。不純は、霊的なものすべてに対する嫌悪感、天主とカトリックの宗教への憎しみ、そして永遠の命への絶望を引き起こすことによって、心を腐敗させます。多くのキリスト教徒にとって、情欲という悪徳が、信仰を失ってしまった道となってきたのです。

結論:信仰を擁護するために清さをめぐる戦いを戦う

上記からの結論は明白です。信仰を擁護するには、寛大に貞潔を実践することが必要です。原罪以来、私たちは肉の快楽に無秩序な形で惹きつけられており、これは、私たちが肉の欲望と呼んでいるものです。貞潔とは、この肉の欲望を抑えることであり、それは困難で生涯続く戦いです。聖職者であれ信者であれ、すべての教育者は、子どもや青少年をこの戦いにそなえて訓練するよう、細心の注意を払わなければなりません。

貞潔の徳は、子どもや青少年にとって、特に彼らが成聖の恩寵の状態にある場合、非常に強い魅力があります。しかし、この魅力はそれだけでは十分ではありません。子どもやティーンエイジャーには、彼らが清さの理想を構築し、それを達成することができるような知識、指導、模範を与えなければなりません。このような教育は、彼らの年齢にふさわしい言葉で、しかし世間知らずではない方法で、行わなければなりません。今日の世界では、子どもたちは早くから道徳的な腐敗に直面しています。したがって、幼いときから、清さを愛し、この徳を害するすべてのものを直ちに拒絶し、この徳を強めるために自然および超自然の手段を用いるように教育する必要があります。

童貞の保護者である聖ヨゼフが、私たちの身分に状態に応じた貞潔への愛を保つことができるよう助けてくださいますように。これこそ、明日の聖ヨゼフの祝日に願い求めるべき恩寵です。アーメン。


聖ピオ十世会 カトリック聖伝のミサの報告【東京】【大坂】【秋田巡礼】 Traditional Latin Mass in Japan SSPX Japan

2023年05月08日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

今日、復活後第四主日の東京のミサに来られた方は、子供達も入れて合計110人でした。大阪では38人でした。

東京ではゴミス神父様が9時の歌ミサを捧げてくださいました。お説教では、永遠について黙想をしました。私たちが永遠のために生まれてきたこと、終わりのない永遠のために創造されたこと、です。そこから導き出される論理的結論の第一は、この世それ自体のはかなさと虚しさです。永遠のために生まれてきたということから結論される第二は、永遠はこの世をいかに生活するかに依存していること、永遠のためには、この世がいかに大切であるか、この世の重要さです。

今年の秋田巡礼(第17回目)は90人の巡礼者が参加しました。秋田巡礼がとても良いものであったことをイエズス様とマリア様に感謝いたします。巡礼の準備をしてくださった方々、子供たちの公教要理の世話をしてくださったカテキスタの方々、侍者の方々、聖歌隊の方々、霊的講和をしてくださった神父様がたに感謝申し上げます。私たちを毎年歓迎してくださるホテル・クリプトンのスタッフの皆様に感謝いたします。

今年は子供たちがさらにもっと多く参加しました。秋田巡礼に参加された女性の方が、多くの子供たちのいる家庭の喜びと幸せがどれほど大きなものであるか、カトリックの家庭観の素晴らしさについてとても喜んでおられたのを伺いました。

秋田巡礼でのマリア様のもとから、日常生活に戻ると、次のニュースを知らされました。それは、元シカゴ市長で、在日アメリカ大使となったラーム・エマニュエルが、日本にLGBTイデオロギーを押し付けようとしていることです。日本の破壊のアジェンダの法制化を、米国大使の地位を使って、推し進めていることです。見かけは男性でも、女性であると「性自認」するなら、女性専用の施設を使う権利と自由が与えられる法律です。日本人のLGBTQI+の当事者でさえ、そのような法律に反対しています。

その法制化も次には、LGBTQI+についての子供たちへの強制的な教育がまっています。幼稚園から始まって、性転換(Trans-gender)の洗脳教育が子供たちになされます。性転換の次は人間改造(トランスヒューマニズム)です。子供の性別を自由に変えるのが問題ないことになれば、次は、人間が怪物に改造される時代が到来してしまいます。

我那覇真子という女性のジャーナリストが立ち上がって、良識ある警告の声をあげています。彼女は、日本の銭湯では、LGBTQの人々が、体を洗うという目的以外のために、ふさわしくない猥褻な行動を行うために銭湯を利用するようになっているという事実を取材しています。

LGBTQI+イデオロギーがどれほど私たちを不幸にする危険なものであるかを、本来ならば司教たちが声を上げなければならないはずです。LGBTQI+イデオロギーは、キリスト教の聖伝に反し、聖書の教えに反し、カトリックの実践に反しています。残念なことに、LGBTQI+イデオロギーに声をあげて賛同する司教さえいます。反対の声を上げた司祭に対して、「カトリック新聞」は非難さえしています。狂っています。

LGBTQI+イデオロギーが、法律化されてしまうと、犠牲者は女性です。最大の犠牲者は子供たちです。日本人の絶滅です。日本の消滅です。特に日本のカトリック信徒の方々、目を覚ましてください。子供たちを守ってください。天主は存在しています。天主を馬鹿にしては、ただではすみません。

【報告】
Dear Fathers:

Shown below are the number of attendees at today's Sunday masses in Tokyo. The total number of attendees at today's Sunday masses in Tokyo was 110 including children.

09:00 mass
M: 32 (incl. 6 children)
F: 34 (incl. 5 children)
Total: 66 (incl. 11 children)

11:30 mass
M: 21 (incl. 5 children)
F: 26 (incl. 6 children)
Total: 47 (incl. 11 children)

Total of 2 masses (excl. 3 persons who participated in multiple masses)
M: 51 (incl. 11 children)
F: 59 (incl. 11 children)
Total: 110 (incl. 22 children)









聖母が私たちの母であることをもっと意識するには?私たちが聖母の良き子供として生きるにはどうすればよいでしょうか?

2023年05月07日 | お説教・霊的講話

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、2023年5月7日は復活後第四主日です。

「テレワーク」方式ではありますが、皆様にYouTubeで「復活後第四主日の説教」の動画をご紹介いたします。

この動画が気に入ったら、お友達にもご紹介くださいね。

SSPX JAPAN聖ピオ十世会日本にチャンネル登録もお願いいたします。

天主様の祝福が豊にありますように!

トマス小野田圭志神父

 


2023年5月3日は、五月の初水曜日(月の初めての水曜日)です 聖ヨゼフ!我らのために祈り給え

2023年05月03日 | カトリック・ニュースなど

愛する兄弟姉妹の皆様、

今日、2023年5月3日は初水曜日(月の初めての水曜日)です。聖母の汚れなき御心と聖ヨゼフとの取り次ぎを通して、私たちの主の御聖体に対する冒瀆的な取り扱いに対する償いを捧げましょう。

初水曜日ですからいつものように「聖ヨゼフの七つの御喜びと御悲しみ」について黙想することをご提案します。


聖ヨゼフはこの世で天主イエズス様と浄配なる聖母マリア様を最も良く知り、愛された御方であり、その隠れた徳ゆえに偉大なる御方、イエズス様とマリア様の最大の命の恩人であられました。

また、聖ヨゼフは、この世では、全てを天主の栄光のために、隠れてその生涯をささげられたが故に、天にて聖母の次に最大の栄光をあたえられていらっしゃいます。

聖伝では、水曜日は聖ヨゼフに捧げられた曜日であり、月の最初の水曜日を聖ヨゼフに捧げることで、聖ヨゼフを讃え、その御取次に信頼し、その御徳に倣って、聖ヨゼフを通して、天主イエズス様とマリア様をお愛しすることができますように。

初土曜日の「聖母の汚れ無き御心」への信心にならって、この「聖ヨゼフの七つの御喜びと御悲しみ」のどれかを「15分間黙想」することにいたしましょう。

聖ヨゼフの帯の信心については、下記リンクをごらんください。
聖ヨゼフの帯 cingulum Sancti Joseph

聖ヨゼフの御取次ぎにより、聖母の汚れ無き御心とイエズスの至聖なる聖心ヘの愛をますます与えてくださいますように!
聖ヨゼフの御取次ぎにより豊かな祝福がありますように!

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


聖ヨゼフの7つの苦しみと喜び

1 ああいと潔き御母マリアの浄配、栄えある聖ヨゼフよ、御身のいと清き妻を失なわんと心に思い煩いし時の苦しみはいと大いなるものなりき。
されど天使が御託身の玄義を御身に伝えられし時の喜びは、またひとしお大いなりき。この苦しみ、この喜びにより、今も臨終の時も我らの心を潔き良心の喜びと、イエズス、マリアのうちに自我を滅する尊き御身の心を示し、我らを慰め給え。



2 ああいと幸いなる保護者聖ヨゼフよ、御身は人となり給いし御言葉の潔き養父の位にあげられたれども、御身は幼きイエズスがいと貧しき中に生まれ給うを見て大いに悲しみ給いしが、
天使らのたえなる歌声を聴き、その輝ける夜の栄えを見給うや、その悲しみは天的の喜びと変じたり。御身のこの悲しみ、この喜びによりて、我らもまたこの世の歩みを終えたる後、天使らの賛美の歌声を聴き、天的光栄の輝きを受け得んことを願い奉る。



3 ああ御摂理にいと従順なしもべなる、栄えある聖ヨゼフよ、幼きイエズスが割礼にて流されたる尊き御血は御身の心を苦痛もて貫きたれども、
イエズスと命名されるや御身の心は喜びに満たされたり。御身のこの苦しみ、この喜びにより、我らをこの世の悪徳より離れしめ、イエズスのいと尊き御名を心から唱えつつ心満たされてこの世を去るを得しめ給え。



4 ああいと忠誠なる聖ヨゼフよ、御身は救世の玄義の成就に身をもって大いなる役を果たされしが、シメオンの預言によりイエズスとマリアが受け給うべき苦難を予知せられ苦しみ給いたれど、
数限りなき人々の霊魂がこれによって救わるるとの預言によりて、天的喜びに満たされたり。御身のこの苦しみ、この喜びにより、我らがイエズスの功徳と聖母マリアの御取次ぎにより、終わりなき栄えを得てよみがえる人々のうちに数えられる御恵みをとりなし給わんことを願い奉る。



5 ああ人となり給いし天主の御子のいとも注意深き保護者なる栄えある聖ヨゼフよ、御身はいと高きものの御子を養い給い、これに仕えるために多くの辛酸をなめられたり。わけてもそのエジプトへの逃避はいと苦しきものなりしが、
御身が常に天主御自身と共におられし喜び、またエジプト人らの諸々の偶像が地に落とされしを目の当たりに見られし時の安心はいと大いなりき。この御身の辛酸と喜びとによりて、我らが地獄的暴君より免れて、わけても危険なる機会より逃避する事を得しめ、我らの心のうちに地上的執着が落とされ、ひたすらイエズスとマリアに仕え奉りつつ日々の生活を送り、この世を幸いに終わる事を得しめ給え。



6 ああこの地上の天使なる栄えある聖ヨゼフよ、御身は御身の心を天の王に全く捧げられたり。御身がエジプトより戻られる喜びは、アルケラウスに対する憂慮にて不安の闇となりしが、
天使は再び御身にイエズスとマリアと共にナザレトにて楽しく住み給う事を約束せられたり。御身のこの苦しみ、この喜びによりて、我らの心を深い恐怖より免れしめ、潔き良心の平和を楽しみ、イエズスとマリアと共につつがなく世を送り、臨終においてはイエズスとマリアの御手に我らの霊魂を捧ぐる事を得しめ給え。



7 ああ全ての徳の鑑なる栄えある聖ヨゼフよ、御身は御身の誤りにあらずして幼きイエズスを見失い、三日の間苦しみもて捜し求められたり。
されど神殿の中に博士らに取り巻かれたるイエズスを見出されし時の喜びはいかに大いなりや。御身のこの苦しみ、この喜びにより、我らが大罪を犯しイエズスを失いたりせば、たゆまず彼を捜し求め、遂に再び巡り会えるよう、わけても臨終の時に彼と共にありて天国に至り、御身と共に天主の終わりなき御恵みを賛美し奉るようとりなし給わんことを心から願い奉る。



交唱 イエズスが教えをはじめたりしは三十歳ごろなり、人々、イエズスをヨゼフの子なりと思いたり。(ルカ3:23)

V 聖ヨゼフ、我らの為に祈り給え。
R キリストの御約束に我らをかなわしめ給え。

祈願 天主、御身のかしこき御摂理のうちに祝せられたヨゼフを至聖なるマリアの浄配に選び給いたれば、願わくはこの世の我らの保護者として崇め奉る彼が、我らの天のとりなし手となり給わんことを。 アーメン。

参考リンク
サンタフェ~奇跡の階段 コラレス通り1丁目 この記事に昔の階段の様子の写真があります。

聖ヨゼフの階段(アメリカのニューメキシコ、サンタ・フェにあるロレット・チャペル)



英語ではこちら。
THE SEVEN DOLOURS AND SEVEN JOYS.

i. St. Joseph, pure spouse of most holy Mary, the trouble and anguish of thy heart were great, when, being in sore perplexity, thou wast minded to put away thy stainless spouse: but this joy was inexpressible when the archangel revealed to thee the high mystery of the Incarnation.
By this thy sorrow and thy joy, we pray thee comfort our souls now and in their last pains with the consolation of a well-spent life, and a holy death like unto thine own, with Jesus and Mary at our side.
Pater, Ave, and Gloria.

ii. St. Joseph, Blessed Patriarch, chosen to the office of Father of the Word made Man, the pain was keen that thou didst feel when thou didst see the Infant Jesus born in abject poverty; but thy pain was changed into heavenly joy when thou didst hear the harmony of angel-choirs, and behold the glory of that night when Jesus was born.
By this thy sorrow and thy joy, we pray thee obtain for us, that, when the journey of our life is ended, we too may pass to that blessed land where we shall hear the angel-chants, and rejoice in the bright light of heavenly glory.
Pater, Ave, and Gloria.

iii. St. Joseph, who wast ever most obedient in executing the law of God, thy heart was pierced with pain when the Precious Blood of the Infant Saviour was shed at His Circumcision; but with the Name of Jesus new life and heavenly joy returned to thee.
By this thy sorrow and thy joy, obtain for us, that, being freed in our life from every vice, we too may cheerfully die, with the sweet Name of Jesus in our hearts and on our lips.
Pater, Ave, and Gloria.

iv. St. Joseph, faithful Saint, who wast admitted to take part in the redemption of man; the prophecy of Simeon foretelling the sufferings of Jesus and Mary caused thee a pang like that of death; but at the same time his prediction of the salvation and glorious resurrection of innumerable souls filled thee with a blessed joy.
By this thy sorrow and thy joy, help us with thy prayers to be of the number of those who, by the merits of Jesus and his Virgin Mother, shall be partakers of the resurrection to glory.
Pater, Ave, and Gloria.

v. St. Joseph, watchful Guardian, friend of the Incarnate Son of God, truly thou didst greatly toil to nurture and to serve the Son of the Most High, especially in the flight thou madest with Him unto Egypt; yet didst thou rejoice to have God Himself always with thee, and to see the overthrow of the idols of Egypt.
By this thy sorrow and thy joy, obtain for us grace to keep far out of the reach of the enemy of our souls, by quitting all dangerous occasions, that so no idol of earthly affection may any longer occupy a place in our hearts, but that, being entirely devoted to the service of Jesus and Mary, we may live and die for them alone.
Pater, Ave, and Gloria.

vi. St. Joseph, angel on earth, who didst so wonder to see the King of heaven obedient to thy bidding, the consolation thou hadst at His return was disturbed by the fear of Archelaus, but nevertheless, being reassured by the angel, thou didst go back and dwell happily at Nazareth, in the company of Jesus and of Mary.
By this thy sorrow and thy joy, obtain for us, that, having our hearts freed from idle fears, we may enjoy the peace of a tranquil conscience, dwelling safely with Jesus and Mary, and dying at last between them.
Pater, Ave, and Gloria.

vii. St. Joseph, example of all holy living, when, though without blame, thou didst lose Jesus, the Holy Child, thou didst search for Him for three long days in great sorrow, until with joy unspeakable thou didst find him, who was as thy life to thee, amidst the doctors in this Temple.
By this thy sorrow and thy joy, we pray thee with our whole heart so to interpose always in our behalf, that we may never lose Jesus by mortal sin; and if (which God avert) we are at any time so wretched as to do so, that we pray thee to aid us to seek Him with such ceaseless sorrow until we find Him, particularly in the hour of our death, that we may pass from this life to enjoy Him for ever in heaven, there to sing with thee His divine mercies without end.
Pater, Ave, and Gloria.

Ant. Jesus Himself was about thirty years old, being, as was supposed, the son of Joseph.

V. Pray for us, holy Joseph.
R. That we may be made worthy of the promises of Christ.

Let us pray.
O God, who in Thine ineffable providence didst vouchsafe to choose blessed Joseph to be the husband of Thy most holy Mother; grant, we beseech Thee, that we may have him for our intercessor in heaven, whom on earth we venerate as our holy protector. Who livest and reignest world without end. Amen.


--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

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