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2019年2月1日(初金) 至聖なるイエズスの聖心の随意ミサ説教 「互いに愛し合う」とはどういうことか

2019年03月14日 | お説教・霊的講話
2019年2月1日(初金)至聖なるイエズスの聖心の随意ミサ
小野田神父 説教


聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。
今日は2019年2月1日、2月の初金曜日で、アンティオキアの聖イグナチオ殉教者司教の祝日でもあります。

今日は初金曜日です。ミサが終わった後に、いつもの通り聖時間を行ないましょう。
御聖体の前で、イエズス様に対して犯される罪を償いましょう。そして多くの霊魂がイエズス様を知り、愛する事ができますように、特別の御恵みを乞い求めましょう。

明日は、聖母の御浄めの祝日であります。10時半からミサがあります。

2月10日と11日にもミサがあります。


「願わくは、キリストが私たちの心に、信仰を通して、そして愛徳において根付いて、そしてそこに基礎を置いて住まわれるように。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、今日は初金曜日で、いつものように聖パウロの美しい書簡を読みました、「イエズス様が私たちの心に、一人一人の心に住まわれますように。それは信仰を通して、また愛徳に根付いて、そしてそこに基礎を置いて住まわれますように。」

「信仰という真理において、また天主への愛というものに深く根付いて、そこに深い基礎を置いて、イエズス様が私たちの心一人一人に住み、生き、私たちを導かれますように。そして願わくは、そのイエズス様のその愛の深さと、広さと、幅広さと、その深さと、高さと、その長さを、私たちが把握する事ができるように」と書いています。聖パウロは夢中になって、イエズス様への愛に夢中になっているので、もう文法の事など忘れているかのようです。

ところで、このイエズス様への愛に熱烈に燃え立ったのは、聖パウロだけではありません。初代のキリスト教信者がそうでした。使徒行録によると、「初代のキリスト教信者たちは、心も、そして霊魂も一つになって、一つの共同体となって住んでいた」と言います。「そして特にアンティオキアでは、彼らはキリスト者と呼ばれた。クリスティアナと呼ばれていた」と、「キリストに従う者と呼ばれていた」と書かれています。

アンティオキアでは、聖ペトロがローマに行く前に司教座を作って、聖ペトロの使徒座を作りました。ですからローマとアンティオキアは非常に重要な使徒座で、今では残念ながらトルコ、イスラムの手に落ちていますが、昔からアンティオキアはローマに次ぐ、聖ペトロの座として非常に大切なものでした。

その聖ペトロの3代目の、聖ペトロ、それからもう一人おいて、もう一人が、今日祝日の聖イグナチオです、アンティオキアの司教。そしてアンティオキアの司教として素晴らしく、愛徳に満ちて統治した後に、慕われつつ、多くの司教、周りの司教様たち、あるいは司祭、信徒たちから、助祭たちから慕われつつ、しかしトライアノローマ皇帝のもとにおいて、ローマに連行されて、そしてローマで野獣の、獰猛な動物たち、ライオンの餌食となる為に、コロセウムで見世物となる為に、ローマに連れて行かれました。

聖イグナチオはローマに行くのは、はたから見ると、十字架の道行きでした。しかし聖イグナチオにとってこれは、婚宴に、結婚式に与る花嫁の旅でした。

ローマに行く道まで、アンティオキアからローマに行く道のりは長く、10人のローマの兵士たちが、非常に乱暴に、残酷に扱っていました。聖イグナチオは7ヶ所、おそらくそれ以上の所で立ち留まったと思いますけれども、その留まった所で手紙を書いています。ローマに行く途中でも、イエズス様の事を説教していました。そして手紙の中で、自分のこの手紙をその送るその相手に、「どれほど、イエズス様の愛に自分が燃えているか」という事を書き示しています。

私たちにとって、その7ヶ所の手紙を書いた場所は、十字架の道行きの7つの、第1留から第7留かもしれませんが、しかし聖イグナチオにとってはそれは、結婚式に与る為に、イエズス様に対して書くラブレターのようなものでした。

その7つの手紙は、初代のキリスト教の非常に大切な聖伝の文献として、私たちにまで残っています。イエズス様について、「イエズス様は真に、本当に、童貞から生まれた。童貞なる母から生まれた。」また、「本当に、私たちの為に十字架に釘付けられた。」そして「私たちの為に、私たちを愛するが為に復活された」と証言しています。

その手紙の一つ一つは、愛に、イエズス様への愛に満ちて、「私は早く、イエズス様の元に行きたい。死んでイエズス様の元に行く、という事だけを考えている。その事は、この全地を支配するよりも、もっと私にとって良い事だ。イエズス様が私の為に釘付けにされ、そして私の為に復活された。その愛を思うと、私はイエズス様の事を愛して、その愛に燃え立っている」という事を書いています。

そしてローマの信徒たちには、「私はこれから、獰猛な動物たちの餌になって、食いちぎられる。そして私は一粒の麦となって地に落ちるけれども、私がイエズス様の元に行くのをどうぞ、どうぞ引き止めないでほしい。他の殉教者たちは不思議な事に、動物たちが、あれほど獰猛で空腹だった動物たちが、殉教者たちの前にきょとんとして何も近付こうとしなかった、危害を与えようとしなかったけれども、そのような奇跡を私の為に祈らないでほしい。私はイエズス様の元に行きたい。一粒の麦となって地に落ちたい。そしてイエズス様の為の清いパンとなりたい」という事を、愛に満ちて、感動的に書き綴っています。

実際、107年ローマで、コロセウムで、ライオンたちの牙に食い潰されて、一粒の綺麗な麦として地に落ちて、そしてイエズス様のパンとして、聖イグナチオは自分の肉体と血を流して、イエズス様に愛を込めて捧げて、一生を終えました、殉教をしました。これは純粋に、イエズス様を愛するが為のものでした。

では、聖イグナチオはその書簡の中で既に、「イエズス様の元に与るこの私たちは、カトリック教会だ」という、「カトリック」という言葉を書いています。たとえ新約聖書の中には無かったとしても、既に聖イグナチオはそれを使っています。もちろん使徒信経の中にも私たちは使っています。

私たちにとって、この初金を祝う、初金のミサをしている私たちにとって、一体今日、どのような事を、イエズス様は聖イグナチオと共に教えようとしているのでしょうか?

聖パウロの言葉が耳に響きます、「信仰を通して、そして愛徳に根付いて、深く基礎を固められて、私たち一人一人の心に、イエズス様が住まわれますように。」

イエズス様は言われました、「もしも私を愛するならば、私は聖父と共に、聖霊と共に、お前たちの心にやって来て、住まうだろう。」

最後の晩餐の時に、イエズス様は言われました、「互いに愛し合え。そうすれば、この世の人たちは、お前たちが私の弟子であるという事を知るだろう。」

イエズス様の教えが真理であるという事は、あまりにも深くて、この世の人がすぐに理解する事ができないかもしれません。しかし、私たちがイエズス様を愛し、イエズス様を愛するが為に互いに愛し合う、という事をすると、これについては人々はすぐに理解できます。

「互いに愛し合う」というのは、これは世俗の流行歌が歌うような事ではありません。世俗の、あるいはこの現代の世界が言っているような、天主の無いイエズス・キリストの無い愛ではありません。あるいは感傷的なフィーリングだけのものではありません。第二バチカン公会議が言うような、「この世での地上での平和の為なら、どんなものも犠牲にして良い。真理でも、イエズス・キリストを隠してでも、この地上でのいわゆるフリーメイソン的な兄弟愛があれば良い」のではありません。

イエズス・キリストの仰る「互いに愛し合え」というのは、聖イグナチオが実践した愛徳であって、イエズス・キリストを愛するが為に、私たちも天主の贈る十字架を愛徳を以って担う、私たちの家族、あるいは隣人、友人、同僚から受ける、あるいは嫌がらせや、あるいは過失、あるいは失敗などを、寛大に許してあげる、あるいは理解してあげる。
そしてあるいは、その相手の利益を、心から親身になって考えてあげる。時にはその為に自分の事を忘れるほど、相手の為に立場になってあげる。あるいは「何でこの人はこんなに反応するのだろうか?何でこう怒っているのだろうか?何を悲しんでいるのだろうか?なぜこうなのだろうか?」と思いやってあげる、配慮してあげる。あるいは家族であれば家庭であれば、一緒に時を過ごして、そして自分のこのやりたい事も、それを家族と共に過ごす為にお捧げする。あるいは微笑みや、あるいはちょっとした忍耐、愛徳を実行するという、いわば聖イグナチオが、アンティオキアの聖イグナチオがローマへの道すがら、その警護の軍人から残酷に扱われたにもかかわらず、それを愛徳を以って忍んだように、私たちもイエズス様への愛の為に、隣人に愛徳を実践する、イエズス・キリストを愛するが為に。

これこそ、初代から伝わった、そして初代の使徒たちが実践して、今でも私たちが実践しようとする、イエズス・キリストの聖心への愛であり、カトリック教会の生き方です。これこそ、第二バチカン公会議が教えない、聖伝の、イエズス様の聖心への信仰と愛に深く根付いて築かれた生き方であって、イエズス様が私たちの心に、イエズス・キリストが生き生きと生きられる、生活される、住まわれる生き方です。これこそ、私たちの信じているカトリック教会の教えであって、イエズス・キリストの教えたキリスト教の教えであって、そしてイエズス様の聖心の愛の教えです。

では、今日の聖イグナチオの模範を見つつ、私たちもこのイエズス様への愛に燃えて、聖イグナチオの模範とはまだ遠く離れていますけれども、イエズス様に捧げられる一粒の麦となり、そして清いパンとなる事ができますように、私たちの心にイエズス様への愛がますます燃え立ちますように、最後にマリア様に汚れなき御心にお祈り致しましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


サマーズ神父様の霊的講話「召命について」召命は「少数の人たちだけのものでも、結婚を避けるためでも、厭世的なものでもない。召命とは、天主の勧めに従い完徳を目指すこと

2019年03月14日 | お説教・霊的講話
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

2019年3月2日(初土)に東京でサマーズ神父様がなさった霊的講話「召命について」をご紹介いたします。(同時通訳:東京信徒会長)

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)



今日、皆さんわざわざいらして下さって大変ありがとうございます。
昨日ちょっと旅行から日本に着いたばかりなので疲れていますけれども、ちゃんとした内容でやろうと思いますのでよろしくお願いします。(先週、神父様の8人兄弟の一番下の妹さんが結婚されるという事で、アメリカのデトロイトまで結婚式に行ってらっしゃったという事で、お帰りの途中の日本という事です。)

それで今、結婚の話が出ましたけれども、結婚と召命はもちろん結び付いています。今日は「召命」の方の話をしたいと思います。

私たち皆が同意する事は、「召命を奨励する、というのは非常に大事な事だ」と、これは皆さん異論が無い事だと思います。修道士・修道女の方がいない限り、司祭も含めてですけれども、私たちの信仰を立て直すという事は不可能です。

今日、召命という話をしますけれども、召命というのは、全ての種類の召命の話をします。いわゆる秘跡として叙階された司祭も含みますし、例えば修道士・修道女、ブラザー・シスターですとか、いわゆる他の修道士も含みます。全ての召命についてお話をします。

世の中には色んな修道会というのがあって、違いはあると思いますけれども、召命という事で言えば1つ、今日はそれらへの召命という事で、合わせて話ができると思います。

召命というのは、世の中の事を離れて、修道の宗教の生活に入るという人たちの事を言います。

【召命というのは、何でないか】
ではまず最初に、召命の事について、「召命というのは、何ではないか」という否定的な事から始めさせて頂きます。私たちが何かを理解する時に、「これが何であるか」というのを理解するのが特に難しそうな時には、「これは、これではない」という方から見た方が簡単な事があります。そちらから見る事にします。

色々な聖人とか過去の宗教人がこの召命について書いている時は、その中によくありますのが、「召命というものを、間違って定義してはいけない」というのがよく書いてあります。彼らの言うには、「召命というのを、何か神秘的なものだ、という風に定義してはいけない」という風に言います。召命というのは神秘ではあるのですけれども、それから召命を受ける、同意するのも神秘ではあるのですが、召命自体というのは特に神秘ではありません。

天主様が皆さん私たち全員を、いわゆる3つの福音的勧告(貞潔・清貧・従順)で、「完全になりなさい」という風に明らかに呼ばれております。これは聖書にもありますし、聖伝にもある通りですので、そこには天主様はいつもこうされてるので、特に神秘というものがあるわけではありません。

カトリックでない方にとって、そのカトリックの召命というのが何か神秘的なものである、というのはまぁ理解できます。私たちの住んでいるこの今の社会というのは、非カトリック的な世界の中に住んでいますし、異教的な文化の中に住んでいますので、そういう事も理解はできます。ですから言ってみれば、カトリックではない方、異教の方にとっては、カトリックの召命というのは、「これは何か神秘的なものだなぁ」と思われるという事はそうでしょう。彼ら(私たちもですけれども)の住んでいるこの世俗の世界というのは私たちに、「肉の欲望を掴みなさい、探しなさい」というように命令してきます。私たちに、「もっと物質を集めなさい」「物を集めなさい」という風に命令してきます。そして「私たち、自分だけの意思に従って、私たちの自己実現をしなさい」という風に言ってきます。

そしてこういう異教とかカトリックでない方に対して、「いや、カトリックの召命というのは、『貞潔』とか『清貧』とか『従順』に従っているんです」という事になります、私たちの説明は。

ですからカトリックでない方にとっては、一方にはその「世の中の自己満足」だとか、「物質的な欲望」だとか、「自分の意志で勝手に決めて良い」とか、「自己実現をするのだ」というのと、「カトリックの召命」というの聞いてみたら、「貞潔だ」「清貧だ」「従順だ」というのを2つ比べてみると、「これは何か、何かどこかこの人は狂ってるんじゃないか」と思われるのは分かります。ですから、カトリックでない方とか他の宗教に従っている方が、このカトリックの召命を見て、若い男性とか女性が修道生活に入るというの見て、「何でこんな事をするんだろう?全然分からない」と思われる事は、まぁ理解できます。

【召命というのは、何か神秘的でよく分からないものではない】
ですが私たちカトリックにとっては、カトリックの若者、男性女性にとっては、これは神秘であるはずがありません。カトリックの目から見ますと、この「貞潔」「清貧」「従順」というのは、目的ではなくて、目的に達する為の「手段だ」という事が分かっています。ですからこの3つの福音的勧告、貞潔にしなさいというのは、貞潔である為に貞潔なのではなくて、貧しい為に清貧になるのではなくて、誰かの言う事を聞く為に従順になるのではなくて、目的はもっと高い所にあります。

ですから普通の世俗の世界でも、例えばスポーツ選手だとか、ビジネスマンの何かトップの方だとか、すごい学者の方とかは、英雄的な犠牲を払って、その一番になる為にものすごい犠牲を払った生活をしていらっしゃいます。ですから若い男性女性の方が、カトリックの召命を受けて修道生活に入るという時は、それよりももっと大変な努力をしなければいけない、という事が分かります。

ですから召命というのは、何か神秘的でよく分からないもの、ではありません。ですからここでよくある危険というのは、この召命というのを何か私的啓示のような、「何か、天主様から何かメッセージが来た」というようなものだと思ってはいけません。


【召命は、「選ばれた本当に数の少ない人たちだけのものでもなければ、結婚を避けるためでもなければ、厭世的なものでもない】
また、「選ばれた本当に数の少ない人たちが、天主様から何か命を受けてなれるんだ」という風に考えてはいけません。そうではありません。もしそうであるとすると、その若い男性女性の修道生活に入る方が、何か人間と天主の間の子のようなものでなくてはいけない、というような変な事になってしまいます。そうではありません。

またあるいは、その若い男性女性の方が、「世の中でこう他の人と競争するのは嫌だ。だから修道生活に入る」という変な考えになってしまいます。あるいは「結婚すると難しい」とか「私の生活が制限される」と思って、「修道生活に入ろう」という変な事になってしまいます。

こういうように、召命というものに間違った考えがあります。

あるいは別の方は、「召命というのは、こう何かすごい出来事があって、その恐るべき出来事がないと召命に至らないんだ」というような間違った考えを持つ人もいます。そういう方は、例えば「友人が亡くなってしまったとか、何か奇跡的な事が自分に起こった、という事が起こらないと召命に至らないんだ」という間違った考えを持ってしまいます。

この世において修道生活というのは、何か特別な選ばれた出来事なのではありません。何か選ばれた、例外的なすごい方が選ぶ珍しい道というわけではありません。そうではなくて、修道生活というのは非常に単純な事で、「教会の使徒的な働きと、霊魂の救いの為に、単に必要な生き方の1つである」という事です。

ですから私たちが気を付けなければいけないのは、「皆さんの心の奥底を見たらどうですか?」とか「何か燃え盛っていませんか?」とか「召命を求めて何か飢えていませんか?」というような質問をしてはいけません。この理由で、教会というのは昔から、こういう若者に何年かを与えて、そういうようなこの気持ちが高ぶっているのが治まった頃に、本当に召命があるか、というのを調べる為に何年か与えることになります。

あともう1つの危険というのは、人によっては、「いや、この召命というのはすごく珍しい事だ」と、「大変な珍しい事なので、私みたいな者がそんな呼ばれるとか、そんなおこがましい、そんな者ではない」と思ってしまう危険があります。ですからもしそういうような、こう天使的な選ばれた数少ない人しかなれないというのでしたら、私はその一員にはなれません。ですからその方がもし将来、本当にその修道生活という栄光のある道に進むはずだったのが、その前に終わってしまう事があります。

【召命というのは、天主様の勧めに従って、完徳を目指すこと】
召命というのは、その本質においては、「天主様の勧めに従って、完全を目指す」という事です。先ほどの3つの福音的勧告に従って、「貞潔・清貧・従順に従って、完徳を目指していく」ただそれだけの単純な事です。

この3つの誓願、誓いというのは、何故こういうのを使うかと言いますと、主がこの3つを私たちに下さったからです。

まず「貞潔」については、これはマテオ(19章10節)からの引用ですけれども、弟子たちがイエズスに、「妻に対する夫の立場が仰せの通りであるならば、男は妻を娶らない方がましです」と言いました。そこでイエズスは弟子たちにこう言われました、「皆にこの言葉が分かるとは限らない。ただそれを分かる恵みを受けた者だけに分かる。つまり母の胎から去勢者として生まれた人もあれば、他人の手で去勢した人もあって、また天の国の為に自ら去勢した人もある。これを理解できる者は理解せよ。」こう仰いました。

「清貧」については、主はこのように仰いました。これもマテオ(19章21節)からですけれども、主は、「もしも完全になりたいのならば、持ち物を売りに行って、貧しい人に施しをしなさい。そうすれば天に宝を積む」と仰いました。

そして「従順」については、同じ節の所で、「そして私に付いて来なさい」と仰いました。

ですからこの3つの勧告というものに対して、修道者の場合は「特別な」義務があると言いますけれども、それはなぜかといいますと、私たち全員、カトリックとしては、この3つの精神に従う義務があるからです。

例えば「清貧」について言いますと、私たち修道生活をしていない者は、清貧の誓願をするわけでは、誓いをするわけでありませんけれども、しかし、「物に執着するという事はしてはいけない」というのは同じです。

誤解して頂きたくないのは、召命という中には神秘は確かにあります。しかし神秘というのは、私たちの世の中で色んなものにあります。例えばロザリオを祈る時に、「第一の玄義」と言っていますけれども、その「玄義」というのは「神秘」の事です。「婚姻の秘跡」というのは、この修道生活と同じほど神秘的なものです。それでこの「秘跡」というのはなぜそう言うかと言いますと、昔のギリシャ語の元の言葉で“Μυστήριονミステリオン”と言いましたが、要するに「神秘である」というのが「秘跡」の元の言葉です。

ですからよく言いますのは、10代後半とか20代前半の方にアドバイスしますのは、「結婚したら生活が楽になる、とは思わないように」という事を言います。

もしも皆さんが結婚されていて、配偶者の方とか家族の方の霊魂の救いを考えている、あるいは神父・修道者としてたくさんの人の霊魂の救いを考えている、どちらのケースにおいてもやはり、十字架を担わなくてはいけません。両方とも、その修道生活も例えば結婚生活も、「天主様の御恵みを頂いて、成聖の御恵みを頂いて、自分の周りの者に与えていく」という事で全く同じ事です。

【召命の奨励や促進は、なぜ重要なのか】
ではちょっと次の話題に入りますけれども、ではこの「召命を奨励したり、促進したりする」というのはなぜ重要なのでしょうか?

非常にこれは簡単な答えがあります。世の中にいる人たちの為、その人たちの霊魂の救いの為に働くのは一体誰でしょうか?自分で犠牲をしない人の為に代わって犠牲をする人というのは一体誰でしょうか?ですから、イエズス様が創られた教会の組織というもの自体が、この修道生活にいる男性と女性に基づくものになるのです。

皆さん思い出して頂きたいのは、最初の聖霊降臨の時に、「何千人が洗礼を受けた」と書いてありますけれども、これはもちろん召命の為です。主は教会を作って、教会の使徒たちに、「行って、諸国の民に教えなさい」と命じられました。「諸国の民に教えて、聖父と聖子と聖霊との御名によって洗礼を授けなさい」というように命じられました。そして「諸国の民に行って教えなさい」と言っていたのは、例えば結婚している家族に、「全世界中に行きなさい」と言われた訳ではなくて、その教える役目を持った司祭であるとか、修道士であるとか、修道女に、「世界に行って教えなさい」と命じられたのです。ですから、「教会というものが機能する為に、召命というものが必要だ」というのは非常に明らかです。

しかしこの「召命が必要だ」というのに、もう1つ理由があります。

そのもう1つの理由というのは、「恩寵に満ちた生活」それから「寛大さ」というものを、「世の中に示す」という役割です。

修道生活をしている人というのは、世の中の人、それはカトリックもカトリックじゃない人も全部含めて、その方々に、「この世というのは、最後のここしかない場所ではない」という事を教える事になっています。「我々の完全な幸福というのは、この涙の谷にあるのではない」という事です。ですから主が私たちに、「完全になりなさい」と仰ったその事を証明しているのが、この宗教の服(修道服)を着て歩いている修道士だ、という事です。その他にもちろん、独身の方とか結婚されている方も同じように、この主の招きを示す事はできます。

もちろんこの普通の道を、神父とか修道士・修道女が、その宗教の服を着て歩いているという事は、彼らが世の中の、例えばファッションだとか流行だとかに囚われていない、という事をそれによって示しています。皆さん街を歩いている方は、「この何かジャガイモの袋のような黒い服を着て歩いている人は、一体何なのだろう?」と思われるかもしれませんけれども、同時に考えるのは、「何でこんな服を着ているんだろう?」という事を皆さん考えられます。「この黒い服を着ている人は、人がどう思っているか考えていないのだろうか?ファッションもどうでもいいのだろうか?何か馬鹿みたいに見えるけれども本当に良いのだろうか?」と思われるかもしれません。

アシジの聖フランシスコの有名な話があります。仲間の修道士に、「ちょっと街に行って御説教しなきゃいけないから」と言った話があります。それでこの修道士は聖フランシスコに付いて行ったのですけれども、街の中の道をずっと黙ったまま歩いて行って、街の中の道をずっと下向きに歩いて行ったら、修道院に帰って来てしまいました。それでこの修道士は聖フランシスコに向かって、「すいません、御説教をするのを忘れたんじゃないですか?」と言ったら、聖フランシスコは、「いや、御説教をしてきたのだ」と言いました。聖フランシスコが言ったのは、「街の中を歩いて行って、この宗教の服を着ていて、世の中の事に興味がないまま歩いて行った」と「これ自体がもう御説教になっている」と言いました。

ですから世の中の物に執着していなかったり、世の中の物に無関心である、というこの態度自体が、「この世の中が全て一番大事な事ではない」というメッセージを人々に与えています。

ですから、「召命というのは今、非常に大事な事である」という事をまず見ました。それで、「召命がそんなに大事な事であるのならば、それを増やす為にはどうしたら良いですか?」という質問が出てくると思います。

もし、聖ヨハネ・ボスコがある時言った事があるのですけれども、彼が言ったのは、彼が面倒を見ていた中で「男の子4人の内に1人は召命がある」と彼は言っていました。もしそうであるならば、私たちはもっと大きな問題があります、4人に1人が召命を受けているわけではありませんから。もしもこれがそうなのであれば、もし100人いるとしたら25人が修道生活に入っていないとおかしいという事になります。

例えばこの日本の事を考えて下さい。カトリックの人口というのは1%にも満ちていません。ところが、もしその過去日本の100年、1900年から2000年までの間に4人に1人が修道生活に入ったと思ってみて下さい。もしそういう事が起こっていたのであれば、この日本人の改宗の為にすごく進んだ事ができたという事です。しかし現実というのは、主日の朝に1時間神父様に会って、それであるいはシスターに会って終わり。これでは増えるわけがありません。ですから、召命というのを増やす、では実際的な方法をいくつかお話したいと思います。

聖トマス・アクィナスによると、「召命の為に非常に、一番重要なものがある」と言いました。トマス・アクィナスによると、「一番この大事なものというのは、『正しい意向であるか』」と言いました。

そして、これで彼が「意向」と言ったのは、「天主様の声にお応えする」という非常に善意を持ったその意向です。それは感情的なもの(まぁ感情が起こっても良いのですけれども)、感情的な答えではありません。それでもし正しい意向さえあれば、その他にこういうああいう性質がある、というのは、それは学んで獲得する事が可能です。そしてこの良い意向を持った人の若い男性女性であれば、自分の家族とか、持ち物とか、自分の自由意志だとか、弱みとか、全部そういうものを捨てて、修道生活の方に行く事ができます。

そこで例えば、サレジオの聖フランシスコというジュネーブの聖人が言った事があるのですけれども、このサレジオの聖フランシスコが言った事は、「真の召命というのは、『天主がお呼びになるやり方と、その場所で、天主にお仕えしたい』という固い意志である」という風に言いました。

【召命を育てるために何をすべきか】
それで具体的にどういう事をするかという事を提案したいのです。

【寛大さを育てる】
その提案というのは、「子供たちの中に、寛大さを育ててほしい」という事です。

例えば家族の中には、この本当の聖伝のミサに来るのに非常に苦労して犠牲を払って来てらっしゃる方がいらっしゃいます。また、子供たちを教育するのに経済的に苦しい方もいらっしゃいます。そういう時に例えばお父さんとお母さんがする事は、子供に対して、この「信仰を広めるというのが、いかに重要であるか」という事を子供に説明して下さい。ですから子供の時から、こういう苦労をしてミサに行っているとか、犠牲を払っているお父さんお母さんを見ると、子供の方も「あぁ、そうか」と、「こういう犠牲を払うというのは、私が子供の時からやっているのとほとんど同じなのだから、修道生活に入るのも同じだな」という風に考えが出てきます。

ですからここの危険というのは、子供が、「いや、結婚生活というのは簡単でしょう」と「修道生活というものは何か難しいものだ」と「じゃあ簡単の方の結婚生活に行きましょう」と思わないように、という事です。ですから子供に分かってもらわないといけないのは、「結婚生活というのも犠牲を色々払うのだけれども、修道生活も犠牲を払う」と「どっちもどっちだな」という事を分かってほしいという事です。

あと結婚生活と同じなのですけれども、修道生活というのも非常にチャレンジで難しい事があって、大きな責任が付いてくるものです。結婚生活でよく「困った事が起こってしまった」という問題を見てみますと、そのご主人か奥さんかどちらか分かりませんが、「自分の責任を取りたくない」という時に結婚が危機に陥ってしまいます。ですから結婚生活をするにせよ、修道生活をするにせよ、大事なのは、「子供に責任感を持たせる」という事です。

【子供に仕事を任せる】
ですから、子供に何かやる事を頼む時に、「家族全体の為にもなるし、本人の成長にもなる」という事で、何か仕事を頼んで下さい。ですから子供が家庭にいる時に、「いや、家族全体の為に私が犠牲を払わなきゃいけないんだ」という事をやっておりますと、大きくなってきますと、「いや、教会の為に、色んな人の為に犠牲を払わないといけない」という、「修道生活が同じものである」という事が分かります。

ですから、このように子供を育てる事ができれば、子供たちの、原罪からつい来てしまうこの自己中心主義というものを消す事ができます。ですから先ほど申しましたが、子供の時に、「家族全体の為には、こういう犠牲を払って、これをやるんだ」という事に慣れていますと、大きくなってきた時に、「いや、教会の皆さんの為にこれを、こういう犠牲を払うんだ」という事が繋がるようになります。

【敬虔な家庭】
あと次のアドバイスとしましては、家庭の中で、「敬虔であるか、世俗的であるか」という事です。例えば両親の方は非常に熱心の方で、「宗教的な義務がある」と一生懸命なさる方かもしれません。ですが世俗的な何かが来ると、非常に元気になって力が出てしまう、という方がいらっしゃる事でしょう。そういう時には、子供はスポンジのようによく両親の雰囲気を吸い取りますので、「宗教的な事はしなければいけないのだけれども、本当に楽しくてエキサイティングなのは、この世俗的な事だ」というように思ってしまいます。私たちの主は、「あなたの宝のあるところに、あなたの心があるんだ」という風に仰いました。

【規則正しい家庭生活】
あともう1つ別のアドバイスとしましては、「家庭生活の中で、ちゃんと規律を持って、スケジュールを持った生活」をして下さい。前にも皆さんにお話したかもしれませんが、私の父が非常に規律の正しい人だったので、非常に助かりました。父が私の部屋に来て、朝早く来て、「起きろ」と言われたら起きるしかありませんでした。もう7歳か8歳の頃ですけれども、もし起きなかったら父親に足を引っ張って、下の階に引きずり下ろされました。それでそういう事が何回かあったので、その後はすぐ起きるようになりました。ですから修道院でも神学校でも入りますと、365日非常に朝早い時間に起きなくてはなりません。それで他の若い青年たちにこれは大変な問題だったみたいですけれども、私には全然問題はありませんでした。ちゃんと早く寝て、ちゃんと早く起きるというのは、修道生活どこでも必要ですから、子供の時からやっている事に損はありません。

ルフェーブル大司教もこれを仰ったのですけれども、「現代の問題の一つというのは、人々がちゃんとした時間に寝て、ちゃんとした時間に起きていないという事である」と仰いました。ですから家庭でちゃんと、正しい時刻に従った生活をする、規則的な生活をする、というのが非常に良い事です。

【笑顔のある家庭、謙遜な家庭】
それからあともう1つアドバイスとしては、「家庭でよく笑う事」それから「謙遜である事」という事が非常に重要です。例えば何か失敗をした時に、自分が弱いところがあるのですけれども、それを笑って次に進める、というのは非常に大事な事です。恩寵が来る事の妨げになるという非常に大きな理由は、エゴイズムだとか、傲慢だとか、そういう事です。ですからお父さん、お母さん、子供の中でも、たとえばこんな馬鹿な事をしてしまった、こんな失敗をしてしまった、というのを皆で笑えるというのは、非常に良い事です。

【男は男らしく、女性は女性らしく】
もう1つアドバイスがありますけれども、それは非常に明らかなものだと思いますが、「男性的・女性的な性質を持っている」という事です。もし男らしい男でなければ、神父になったり修道士になったりする事はできません。修道女も、女らしい性質を持っていなければ修道女にはなれません。男性と女性に従って、その特徴的な性質というものがありますから、それを持っていないとうまくいきません。

【祈ること】
まずそれで結論としましては、まず第一は、「まずお祈りをしなくてはいけない」これは召命の為のお祈りをするというのは当然重要な事です。それでその目標というのは、ある人が結婚しようか結婚生活に入ろうか、いや修道士か修道女か神父になろうか、というのが、「どちらも、変わった事ではないようになるように」という事が目標です。

一つ、ただ一つ間違いないのは、天主様は毎日このような方を呼んでいらして、それで、「寛大な心を持った人、勇気を持った人、いらっしゃい」という風に呼んでいらっしゃるという事です。

【聖職の隠れた、世の人が知らない幸福】
最後に、聖ラウレンティウスが仰った言葉でまとめたいと思います。彼が言ったのは、「天主は、聖職の幸せを、わざとお隠しになられたのである。なぜなら、もしそれが知られるような事になると、世の中の全ての人がこの世を捨てて、聖職に飛び込んでしまうからである」と言います。

お祈り致します。


2019年3月10日 四旬節第一主日のミサ説教 ワリエ神父様「私たちの主 対 悪魔」

2019年03月13日 | お説教・霊的講話
四旬節第一主日―「私たちの主 対 悪魔」
ブノワ・ワリエ神父(聖ピオ十世会)


四十日間の断食の終わりに、キリストは、サタンの悪を明らかにするために、試みに遭うことを望まれました。聖書がサタンについて述べている節を引用させて下さい。
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1.罪:「悪魔は初めから罪を犯している」(ヨハネ第一書3章8節)

2.傲慢:「ルチフェルよ、おまえはどうして天から落ちたのか。・・・おまえは心の中で言った、『私は天に昇り、天主の星たちより上に玉座を立てよう、・・・いと高きもののごとくなろう』」(イザヤ14章12-15節)

3.ねたみ:悪魔のねたみによって、死がこの世に入った」(知恵2章24節)

4.殺人:「彼は初めから人殺しだった」(ヨハネ8章44節)

5.嘘、悪しき計画:「試みる者」(マテオ4章1節)
「彼は真理において固まっていなかった。彼の中に真理がないからである。・・・彼は嘘つきで、嘘の父だからである」(ヨハネ8章44節)
「彼の謀略」(コリント後書2章11節)
「彼は全世界を迷わす」(黙示録12章9節)


6.この世のかしら:この世のかしら」(ヨハネ14章30節)
空中の勢力のかしら」(エフェゾ2章2節)
この世の闇の支配者・・・天界の悪霊」(エフェゾ6章12節)


7.光の天使:「サタン自身でさえ光の天使を装う」(コリント後書11章14節)

8.他の「称号」
」(マテオ13章28節)
悪者」(エフェゾ6章16節)
「大きな、・・・悪魔またはサタンと呼ばれるあのいにしえのへび」(黙示録12章9節)


9.怒り
「悪魔は大いに怒って、私たちに向けて下った」(黙示録12章12節)
悪者の火矢」(エフェゾ6章16節)


10.攻撃
の悪魔は、吠える獅子のように、食い荒らすものを探して、あなたたちのまわりを回っている」(ペトロ前書5章8節)

 11.信仰を奪う者―私たちの永遠の滅びを求めている
「悪魔が、信じて救われることのないように、彼らの心から[天主の]み言葉を奪うのである」(ルカ8章12節)

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悪魔と闘い、打ち負かし給うた私たちの主は、こう言うことがおできになりました。「この世のかしらは・・・私に対して何もできぬ」(ヨハネ14章30節)
「悪魔に場所を与えるな」(エフェゾ4章27節)と聖パウロは言っています。
四旬節の初めに、キリストが私たちを、悪魔の罠から離してキリストのご復活の栄光へと導いてくださるよう、キリストに私たちの心の中の第一の場所をお捧げしましょう。





トリエント公会議による公教要理第四部「主祷文」の「御国の来たらんことを」の箇所の説明(本邦初の日本語訳)をご紹介します

2019年03月13日 | カトリックとは
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、いかがお過ごしでいらっしゃいますか?

四旬節です。人間となった天主イエズス・キリストが私たちのために祈りと償いの模範をしめしてくださっています。よりよく祈るために、トリエント公会議による公教要理第四部「主祷文」の「御国の来たらんことを」の箇所の説明(本邦初の日本語訳)をご紹介します。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

トリエント公会議 公教要理 

第2の願い「御国の来たらんことを」

§ I. 天主の御国

51.この第2の願いの対象となっている「御国」とは、実に福音宣教全体の目的かつ終極を成すものです。洗者聖ヨハネが「悔い改めよ、天の国は近づいた1 」と述べて悔悛を説いたのも、実にこれを端緒としてでした。人類の救い主も、この同じ言葉をもって、福音の宣布をお始めになりました2 。山上で至福の道を弟子たちにお示しになった、かの尊い垂訓においても、「心の貧しい者は幸いである。天の国は彼らのものだからである3 」と、まず仰って、「天の御国」をみ教えの主題として提示されました。また、群衆が主を引きとどめようとした際も、「私は他の街々にも、天主の御国のよい便りを告げ知らさねばならない。私は、そのために遣わされたからである」と述べて、当地を発たねばならぬ理由とされました。後に、使徒たちに宣布するようお命じになったのも、同じくこの御国に他なりません。また、まず父親を葬りに行く許しを願った者に主は、「行って主の御国を告げ知らせよ4 」とお答えになりました。そして、死者の中から甦られた後、使徒らに40日の間お現れった際も同様に、天主の御国について語られたのです。

52.したがって、司牧者は、この第2の願いの意味するところ、又当の願いがどれほど重要かつ必要なものであるかを、聴衆がよく理解するよう、全力を傾けねばなりません。

53.しかるに、このために司牧者が用い得る最良の手段は、たとえ主祷文において、この願いが他の祈願と合わさっているとは言え、主はこの願いを他の願いから切りはなして、単独で為すようお命じになったという事実を浮き彫りにすることです。実に主は、「まず天主の御国、そしてその正義とを求めよ。しかる後、他の一切はあなたたちに与えられるであろう」と仰り、当の祈願をとおして願うことを、何ものにも優る熱意をもって祈り求めるべきことをお教えになりました。

§ II. この願いに含まれる事柄

54.事実、この願いに含まれる天的賜はかくも大きく、数多いのであり、身体および霊魂の生命を維持するのに必要なもの一切を包含しています。しかるに、自分の王国の利善に関わる事物をなおざりにし、省みることのない者は、およそ王の名に値するとは言えません。さて、人が自らの治める地上的国家について、かくも大きな配慮をなすのであれば、王の王たる天主は、どれほどの摂理と心尽くしとをもって人々の生命と、救霊を始めとした全ての利善をお守りになることでしょうか。

55.したがって、主の御国を求める当祈願の内に、この世での流浪遍歴において私たちに必要となる一切のものが含まれていますが、主はすぐ後に「そしてこれら全てのものは、あなたたちに加えて与えられる」と優しく仰せになって、それらをお与えになることをお約束になります。

56.このように述べて、主は人類の上にあらゆる善をあふれるほど豊かに、かつ寛大にお注ぎになることをお明かしになったのです。ダビドが「主よ、あなたは私の王5 。私に欠くものは何もない6 」と歌うのも、かかる天主の限りない仁愛に思いを馳せてのことに他なりません。

57.しかるに天主の御国を熱心に祈り求めることは、もしそれと同時に、当の御国がそれをとおして探求され、かつ見出されるところの、いわば「道具」とでも言うべきものをことごとく用いるのでなければ、全く不充分です。実際、5人の愚かな乙女も「主よ、主よ、私たちのために扉を開けてください7 」と、しきりに願ったのでしたが、当の願いに伴うべきものが欠けていたために、中に迎え入れられませんでした。しかるにこれは、およそ当然のことであると言わねばなりません。なぜなら主ご自身、「主よ、主よと言う者が皆天の国に入るのではない8 」旨仰せになっているからです。

§ III. 現世が惨苦に満ちたものであること

58.したがって、司牧者は、聖書のかぎりなく豊かな泉から、信徒を天の御国を望み、これをかち得るべく駆り立てるところのものを汲み取る必要があります。

59.この同じ泉から、司祭はまた、信徒にこの世の惨めな境遇に目を開き、かくして我に立ち帰った彼らが、父なる天主の永久(とわ)の住居(すまい)に満ちみてる至福と、筆舌に尽くせぬ数多(あまた)の賜とを思い起こすのに適した章句を、汲み出すことができます。

59.事実、私たちは流刑の地、かつ決して止むことのない憎悪にかられた悪魔のたむろする所に生きる身であり、加えて身体と霊魂、肉と霊との間でたゆまず繰り返される戦いから一時も自由になることがありません。実際、もし天主が、その御腕で私たちをお守りにならなかったならば、即座に倒れてしまうことが必定です。使徒パウロが「私はなんと不幸な人間であろう!この死の体から私を解き放つのは誰であろう!9 」と漏らしたのも、かくも惨めな境遇に耐えかねてのことに他なりません。

60.人類に押しかかるこれほど不幸な境地は、それ自体ですでに明らかですが、他の被造物、自然の事物と比較することによって、一層明白となります。理性、さらには感覚をも欠くこれらの事物の中で、あるものが固有のはたらき、知覚、ないしは動きを為さず、かくして(創造主によって)自らに割り当てられ、定められた目的を逸すると言うことは、およそ稀です。この事実は、地上の動物、および魚、鳥類においてかくも明白であるため、これについてあえて説明するにはおよびません。しかるに、天を仰ぎ見るならば、ダビドの、「主よ、み言葉は永遠のもの、天の如く不変のもの10 」という言葉がいかに当を得たものであるかが分かります。実に、天界は、たゆまぬ運動と果てることのない回転をつづけるものですが、天主によって定められた法則から、片時も外れることはありません。地球および全宇宙を考察するならば、不足をきたすものがどこにも見あたらないか、もしくはたとえあるとしても、甚だ希有であることを認めざるを得ません。

61.しかるに、惨めな人類は、きわめて頻繁に過失を犯し、正道から外れてしまうものです。なぜなら、為すべきことを正しく見てとった際も、これを首尾よく実行に移すことは稀であり、また、手をつけた善業も、往々にしてすぐに嫌気がさし、なおざりにしてしまうからです。さらには、つい今し方まで最良のものと思われた企図も、すぐに気に入らなくなり、これをうち捨てたあげく、恥ずべき、また自らにとって甚だ害となる思惑へと引きずられてしまうことも日常茶飯事です。

62.人の心がかくも変わりやすく惨めなものである理由は何でしょうか。それは天主の霊感に対する軽蔑に他なりません。私たちは天主の警告に耳を閉じ、天主が我々に投じてくださる光に目を上げようとせず、私たちの救いに導く掟をお命じになる天の父の越えに耳を貸そうともしません。

63.したがって、司牧者は信徒の目にかかる人類の惨めな境遇とその原因とを明示し、加えてその治癒策となるべきものを示さねばなりませんが、聖ヨハネ・クリゾストモと聖アウグスチヌスの著作、とりわけ使徒信経の解説中で先に引用したことを参照することによって、容易にこれを果たすことができます。

§ IV. 第2の願いにおいて祈り求めるもの

64.以上の説明をとおして信徒にこの祈願の実り多きことを示した後、司牧者は「御国の来たらんことを」というこの言葉をとおして天主に願うところのものが、何であるかを解き明かす必要があります。事実、「御国」という言葉は多くの意味を含み、これらの意味を説明することは、聖書の当の章句ならびにその他の箇所の正しい理解のために有益、かつ必須であるからです。

さて、「天の御国」という言葉が通常、かつ聖書中しばしば意味するところは、天主が人間および宇宙万物に対して有される権勢ないしは支配権のみならず、同じ天主が全ての被造物を治め律される御摂理(みせつり)をも含みます。

預言者[ダビド]が述べているように、「地の果ては主の御手の中にある11 」のですが、ここで言う「地の果て」とは、地中深く隠れた、あるいは至る所に散在する諸々の事物を指しています。そしてこの意味でこそ、マルドケオは主に向かって「主よ、全能の王である主よ、万物は御身の支配下にあり、なにものも御身の御旨に逆らい得ません。御身は、すべてのものの主であられ、なに一つ御稜威(みいつ)にたてつくことはできません。12 」

「天主の御国」という言葉は又、天主がこれをもって敬虔かつ聖なる者たちを守り、御配慮を注がれるところのきわめて特別な御摂理(みせつり)をも意味します。天主のかかる並外れた別格の御配慮について、ダビドは、「主は私の牧者、私に乏しいものはない13 」と、またイザヤは「我等の王たる主は、おん自ら我等を救い給(たも)う14 」と述べています。

65.先に述べたように、王としての天主の権能は、すでにこの地上において聖(きよ)く敬虔なる者らの上に、特別なかたちで行使されるものです。しかるに、主御自ら、ピラトに、ご自分の王国(みくに)はこの世のものでないこと、すなわち[天主により]創られ、いつの日か滅びるべきこの世に、いささかも由来するものでないことを、諭(さと)しておられます。なぜなら主は、諸々の君主、共和国、ないしは首長がするように、あるいは人民による要請又は選出を受けて地方、国家を治める者のように、あるいは武力によって力ずく主権を奪取する者が為すような仕方で統治されるのではないからです。

66.しかるに主キリストは、預言者ダビドが著しているように、天主御自らによって王と定められたのであり15 、又使徒パウロが教えるように、その統治は正義に他なりません16 。「天主の御国は正義と平和、聖霊による喜び17 」であるからです。

67.しかるにキリストは私たちの中(うち)に、信仰、希望、愛徳という内的な徳をとおして統治されます。これらの諸徳をとおしてこそ私たちは、ある意味で御国の一部を成すもの、天主に特別な仕方で従属するもの、かつその礼拝と崇敬とに奉献されるものとなるのです。かくして、使徒パウロが「私は生きているが、もう私ではなく、キリストが私の中に生きておられる18 」と述べているように、私たちも「私は統治するが、もはや私ではなく、私の中におられるキリストが統治されるのである」と言うことができるのです。

68.しかるにこの統治は正義と呼ばれるのですが、これはかかる統治が主キリストの正義を基盤として存立するものだからです。その意味でこそ、主は聖ルカによる福音において「天主の御国はあなたたちの中に在る19 」と仰せられたのです。

なぜなら、たとえ主イエズス・キリストは信仰をとおして、いと聖き母なる教会の懐中にある者皆において統治されるとは言え、しかるに秀でた信仰、希望、愛徳を有して、自らをいわば清い、生きた肢体として天主に捧げる者らを、特別なかたちで統治されるのであり、このような者たちにおいてこそ、天主の恩寵の御国が存すると言われるのです。

しかるに「天主の御国」は、栄光の御国でもあります。主が聖マタイによる福音書で、「私の父に祝せられた者よ、来て、世の始めからあなたたちのために準備されていた御国を受けよ20 」、と仰せられた際、「御国」という言葉で示しておられるのは、この意味での御国に他なりません。又、聖ルカによる福音書中で、[善い]盗賊が自らの罪を真摯(しんし)に認め、「主よ、御国に至られるとき、私のことを思い起こしてください 21」と願ったとき、さらには聖ヨハネが福音書中で、「もし人が水と霊とによって生まれなければ、天主の御国に入ることはできない22 」という主のみ言葉を記す際も、同様に栄光の御国が問題となっています。使徒パウロも又、エフェゾ人への書簡中で、この意味での御国を念頭に置いて「淫行を為す者、汚れた者、吝嗇(りんしょく)の者は皆―これは偶像崇拝者と同じであるが―、キリストと天主との御国を嗣(つ)がない23 」と述べています。最後に、主が「天の御国」について語られたたとえのいくつかも、この意味での御国に該当します24 。

69.しかるに、まず第一に恩寵の御国が私たちの中(うち)に築かれることが必要です。なぜなら天主の恩寵がまず統治しない者において、同じ天主の栄光が統治するということはあり得ないからです。

70.さて恩寵とは、主ご自身の御言葉によると、永遠の生命にわき出る水の泉に他なりません。25

71.しかるに栄光について言えば、これが、完全かつその究極に達した恩寵でなければ何でしょうか。

72.事実、私たちがこの脆(もろ)く死すべき身体をまとい、この流滴(るたく)の地で、か弱く、天主から遠く隔たりつつも、薄暗い[天の祖国への]道をさまよい歩く間、私たちを支える恩寵の御国の助力を拒むために、しばつまずき倒れてしまうのです。しかるに[天において]、完全な御国である栄光の御国の光明が私たちの目に輝くとき、そのとき私たちは、[善と完徳との中(うち)に]堅く揺るがず、永久(とわ)にふみ止(とど)まるのです。かくしてあらゆる悪徳、不便、厄難(やくなん)は消え去り、脆弱(ぜいじゃく)なるもの全ては、減じ得ない力に取って代わられ、天主は私たちの霊魂と身体の中に統治されるのですが、この点については、使徒信経中の肉体の復活について述べた際、すでに詳しく説明しました。

73.以上、「天主の御国」という言葉の通常の意味を説明した後、「御国の来たらんことを」という祈願が特に意味するところを解説する必要があります。

しかるに、この祈願で私たちは、キリストの御国、すなわち教会が広がり、異教徒とユダヤ教徒が主キリストへの信仰に立ち帰って真の天主を認め、かつ離教者ならびに異端者が正気に返って、袂(たもと)を分かっていた天主の教会の交わりに戻るよう祈るのですが、これは、預言者イザヤの口をとおして主が述べられた次の言葉の実現・成就を祈り求めることに他なりません。「汝の幕屋の内陣を広げ、惜しみなく住まいのはり布を張り、[敷地を囲う]綱を伸ばし、杭をしっかりと打ち込め。汝は右と左とに押し進む。汝の造り主が汝の主となられるからである。26 」又、「民々は汝の光明(ひかり)の下に歩み、全ての王は汝より出づるかがやきに往かん。目を上げて見回せ。彼らは皆集いて汝に来たれり。汝の子らは遠くより来たり、汝の娘らは傍(かたわ)らより起きん。27 」しかるに教会には、口で天主[の名]を公言しつつも、行いによってこれを否み28、不全な信仰を持ち示す者たちが見出されます。悪魔は、罪の結果として、これらの者の中にあたかも己(おの)が住居(すまい)であるかのように住みつき、支配するにいたります。したがって私たちは、彼らにも天主の御国が訪れて罪の暗闇を押し払い、かつ神的な光明によって照らし、天主の子らの原初(はじめ)の尊厳に立ち戻すよう求めるのです。さらに、天の御父がその御国から、あらゆる異端者、離教者を駆逐し、かつ一切のつまずきならびに罪悪の元となるものを除き去って、教会という麦打場(むぎうちば)を浄められ、かくして当の教会が敬虔かつ聖なる礼拝を天主に捧げつつ、安寧で静寂な平和を享受する恵みを願うのです。

最後に、天主が私たちの中に、唯独り生き、かつ支配され、もはや死がその権利を再び求めることなく、却(かえ)って私たちの主キリストの勝利によって打ち滅ぼされること、又主があらゆる敵対者の主権、支配、勢力をく覆(くつがえ)して、全てをご自分の支配下に置かれることを祈ります。

§V.この祈願を為す際に持つべき心境

74.さて司牧者は、信徒がこの祈願を唱える際、いかなる思いと心構えとをもって、当の祈りを敬虔に天主に為すべきかを教示せねばなりません。そのためまず、救い主がお示しになった次のたとえの意味と含蓄とを推し量るよう促すべきです。「天の御国は畑にかくされている宝のようである。宝を見出す人は、それをかくして大喜びで去り、持っている物を全部売って、その畑を買う。29 」

75.このように、主キリストの富を知る者は、かかる宝のために一切を疎(うと)んじ、その目には、財産、所有物、権力などことごとく、価値のないものと化します。事実、この至上の宝に比較し得るもの、その傍(そば)に置くにさえ値するものは何一つありません。したがって、当の宝を知った者たちは、使徒パウロと声を合わせて叫ぶのです。「実に、イエズス・キリストを知るというすぐれたことに比べれば、[その他のことは]何によらず損だと思う。私はキリストを得るために、一切のものを捨て、これを芥(あくた)にすぎぬものと見なす30 」。これこそ福音の語る貴い真珠に他なりません31 。これを見出し、所持品一切を売り払ってこれを買う人は、たえることのない至福に与るのです。

76.もし主イエズス・キリストが、かかる天主の恩寵の真珠を見出し得るよう、私たちの心を照らしてくださったならなんと幸いなことでしょう。実に、この真珠によって主はご自分に属する者らの中に統治されるのです。この真珠を買い、これを保つために、私たちの持てるもの一切を売り払い、また私たち自身をも捧げ尽くすことを辞すべきではありません。このような気構えを持ってこそ、始めて私たちは、ためらいなく、「誰がキリストの愛から私たちを離すことができるだろう 」と言うことができるのです。しかるに、栄光の御国がいかに並外れて卓越したものであるかを知りたければ、預言者と使徒パウロが声を合わせて言っている言葉に耳を傾けましょう。「天主が、ご自分を愛する者たちのために準備されたことを、目はまだ見ず、耳はまだ聞かず、人の心にまだ思い浮かばない」のです33 。

77.また、願うことを得るために、私たち自身がいかなる者であるかを思いなすことも、たいへん有益です。すなわち我々は、アダムの子孫、かつ正義に即して楽園から追い出され、流刑(るけい)の地にある者、その卑賤(ひせん)で邪(よこしま)な性(さが)は、天主にこの上なく忌み嫌われ、永遠の罰を受けるに値する者であります。

78.このことを思えば、私たちは謙虚で恐縮しきった心持ちになり、私たちの祈りはキリスト教的謙遜に満ちたものとなるでしょう。

こうして私たちは、一切の自負をふり捨てて、福音書の徴税人の如く、天主のおん憐れみに寄りすがるのです。

そして、その仁愛に一切[の善]を帰して、私たちに「アッバ、父よ」とあえて叫ぶことを得しめる、ご自分の霊をお与えくださった天主に、永久(とわ)の感謝を捧げましょう。

しかる後、天の御国に至るために何を為すべきか、また何を避けるべきかを知るための配慮と心遣いとを抱かねばなりません。なぜなら天主は怠惰で無為な生活に私たちをお呼びになったのではないからです。反対に、主は、「天の御国は暴力で攻められ、暴力の者がそれを奪う34 」ことを示され、また「もし命に入りたければ、掟を守れ35 」とお命じになっておられます。

79.したがって、もし人が熱意(おもい)と努力(ちから)を尽くすことなく、ただ天主の御国を祈り求めるならば、これは全く充分ではありません。天国へと至る道程における天主の恩寵の使役者かつ協力者となるべきだからです。

天主は、私たちと共にたえず留(とど)まられることをお約束になった以上、けっして私たちをお見捨てになることがありません。したがって、ただ私たちが恐れるべきなのは唯一つ、すなわち天主をすて去ること、そしてそのことをとおして、私たち自身を見放してしまうことです。 

80.事実、天主の教会というこの御国にこそ、人間の生活を守り、永遠の救いを全うするために必要なもの全てが含まれます。すなわち目に見えぬ天使たちの大群、および天的な力に満ち満ちた諸秘蹟の賜です。天主が私たちのために定め置かれたこれらの助力はかくも強大であるため、これによって私たちは、きわめて凶暴な敵の支配から免れるのみならず、当の暴君36 ならびに彼の忌まわしい手先の者皆を打ち倒し、踏みにじることができるのです。

81.したがって天主の霊に、一切をその御旨に即して果たすことを私たちに命じ給うよう、またサタンの支配を打ち砕き、殊に臨終の際に私たちの上にいかなる権勢をも有しないよう、きわめて深い熱意をもって祈り求めましょう。又、主キリストが何処(いずこ)にても勝利を収め、その法と則(のり)とが全地で守られ、誰一人これを裏切り、あるいはその軍陣から離れ去る者のないことを、却(かえ)って皆が王たる天主の御前(みまえ)にためらいなく進み出、彼らのために永遠の昔から定められた天の御国を受け、彼処(かしこ)にて主と共に永久(とわ)の至福に与ることができるよう心から願い求めましょう。


1 マタイ 3章2節
2 マタイ 4章17節
3 マタイ 5章3節
4 ルカ  9章60節
5 詩編のこの一節は、ふつう「(主は私の)牧者」と訳されるが、ギリシャ語原文で用いられている語は、「牧者」のみならず「王」ないしは「(牧者のように)民を統治する者」一般を指す言葉であり、当要理が「王」と訳するのは、これをふまえてのことである。
6 詩編22 1節
7 マタイ 25章11節
8 マタイ 7章21節
9 フィリピ人への手紙 3章8節
10 詩編18 8節
11 詩編94 4節
12 エステル4章17節
13 詩編22 1節
14 イザヤ書 32章22節
15 詩編2 6節
16 訳者注 すなわち完全なる正義の具現に他ならないということ。
17 ローマ人への手紙14章15節
18 ガラツィア人への手紙 2章20節
19 ルカ 17章21節
20 マタイ 25章34節
21 ルカ 23章42節
22 ヨハネ 3章5節
23 エフェゾ人への手紙5章5節
24 マタイ 13章
25 ヨハネ 4章14節
26 イザヤ書 54章2節以下
27 イザヤ書 60章3-4節
28 ティトへの手紙1章16節
29 マタイ 13章44節
30 フィリピ人への手紙 3章8節
31 マタイ13章45節
32 ローマ人への手紙 8章35節
33 イザヤ書 53章3節/イェレミア 3章16節/コリント人への前の手紙 2章9節
34 マタイ 11章12節
35 マタイ 19章17節
36 サタンのこと。

聖ピオ十世教皇「公教要理詳解 カトリックの教えとその主な部分」の秘蹟の部分  ミサ聖祭

2019年03月13日 | カトリックとは
CAPO V. Del santo sacrificio della Messa. Chapitre 5 : Le saint sacrifice de la Messe. The Holy Sacrifice of the Mass 第五章 ミサ聖祭
§ 1. - Della essenza, della istituzione e dei fini del santo sacrificio della Messa. § 1. L’essence, l’institution et les fins du saint sacrifice de la Messe. The Essence, Institution and Ends of the Holy Sacrifice of the Mass Ⅰ ミサ聖祭の本質・制定・目的
651 D. L'Eucaristia si deve considerare solamente come sacramento? L’Eucharistie doit-elle être considérée seulement comme un sacrement ? 1 Q. Should the Holy Eucharist be considered only as a sacrament? 652 御聖体は単に秘跡であるだけだと考えるべきですか。
R. L'Eucaristia, oltre essere sacramento, è anche il sacrificio permanente della nuova legge, che Gesù Cristo lascio alla sua Chiesa, da offrirsi a Dio per mano de' suoi sacerdoti. L’Eucharistie n’est pas seulement un sacrement ; elle est aussi le sacrifice permanent de la nouvelle loi, que Jésus-Christ a laissé à son Église, afin de s’offrir à Dieu par les mains de ses prêtres. A. The Holy Eucharist, besides being a sacrament, is also the permanent Sacrifice of the New Law, which Jesus Christ left to His Church to be offered to God by the hands of His priests. 御聖体は、秘跡であると同時に、新約の永遠の犠牲です。イエズス・キリストは、司祭の手を通して天主に捧げるためにこの犠牲を教会にお残しになりました。
652 D. In che consiste, in generale, il sacrificio? En quoi consiste, en général, le sacrifice ? 2 Q. In what in general does a sacrifice consist? 653一般に犠牲とは何ですか。
R. Il sacrificio, in generale, consiste nell' offerire una cosa sensibile a Dio, e distruggerla in qualche maniera per riconoscere il supremo dominio di lui sopra di noi e sopra tutte le cose. Le sacrifice, en général, consiste à offrir à Dieu une chose sensible et à la détruire en quelque manière pour reconnaître son souverain domaine sur nous et sur toutes choses. A. In general a sacrifice consists in the offering of some sensible thing to God and in some way destroying it as an acknowledgment of His Supreme Dominion over us and over all things. 一般に犠牲とは、目に見える供え物を天主にささげ、あるやり方によって破壊し、天主が人間をはじめ全ての物の上に持っておられる最高の支配権を認めることです。
653 D. Come si chiama questo sacrificio della nuova legge? Comment s’appelle ce sacrifice de la nouvelle loi ? 3 Q. What is this Sacrifice of the New Law called? 654 新約の犠牲は何と呼ばれますか。
R. Questo sacrificio della nuova legge si chiama la santa Messa. Ce sacrifice de la nouvelle loi s’appelle la sainte Messe. A. This Sacrifice of the New Law is called the Holy Mass. 新約の犠牲は、ミサ聖祭と呼ばれます。
654 D. Che cosa è dunque la santa Messa? Qu’est-ce donc que la sainte Messe ? 4 Q. What, then, is the Holy Mass? 655 ミサ聖祭とは何ですか。
R. La santa Messa è il sacrificio del Corpo e del Sangue di Gesù Cristo offerto sui nostri altari sotto le specie del pane e del vino, in memoria del sacrificio della Croce. La sainte Messe est le sacrifice du Corps et du Sang de Jésus-Christ, offert sur nos autels sous les espèces du pain et du vin en souvenir du sacrifice de la Croix. A. The Holy Mass is the Sacrifice of the Body and Blood of Jesus Christ offered on our altars under the appearances of bread and wine, in commemoration of the Sacrifice of the Cross. ミサ聖祭とは、十字架上の犠牲を記念して、パンとぶどう酒の外観のもとに、私たちの祭壇上でささげられる、イエズス・キリストの御体と御血の犠牲です。
655 D. il sacrificio della Messa è il medesimo della Croce? Le sacrifice de la Messe est-il le même que celui de la Croix ? 5 Q. Is the Sacrifice of the Mass the same as that of the Cross? 656 十字架上の犠牲とミサ聖祭とは同じものですか。
R. Il sacrificio della Messa è sostanzialmente il medesimo della Croce in quanto lo stesso Gesù Cristo, che si è offerto sopra la Croce, è quello che si offerisce per mano dei sacerdoti, suoi mi­nistri, sui nostri altari; ma in quanto al modo con cui viene offerto il sacrificio della Messa differisce dal sacrificio della Croce, pur ritenendo con questo la più intima ed essenziale relazione. Le sacrifice de la Messe est substantiellement le même que celui de la Croix en ce que c’est le même Jésus-Christ qui s’est offert sur la Croix et qui s’offre par les mains des prêtres, ses ministres, sur nos autels ; mais dans la manière dont il est offert, le sacrifice de la Messe diffère du sacrifice de la Croix, tout en gardant avec celui-ci la plus intime et la plus essentielle relation. A. The Sacrifice of the Mass is substantially the same as that of the Cross, for the same Jesus Christ, Who offered Himself on the Cross, it is Who offers Himself by the hands of the priests, His ministers, on our altars; but as regards the way in which He is offered, the Sacrifice of the Mass differs from the Sacrifice of the Cross, though retaining the most intimate and essential relation to it. ミサ聖祭は、十字架上の犠牲と、その実体においては同じものです。何故なら、十字架上で御自分をささげられたイエズス・キリスト御自身が、私たちの祭壇上で聖務者である司祭の手を通して御自分をささげられるからです。しかし、ミサ聖祭は、十字架の犠牲との間に密接で本質的な関係を保っているとは言え、イエズス・キリストが捧げられるそのやり方については違いがあります。
656 D. Quale differenza dunque e relazione vi è tra il sacrificio della Messa e quello della Croce? Quelle différence et quelle relation y a-t-il entre le sacrifice de la Messe et le sacrifice de la Croix ? 6 Q. What difference and relation then is there between the Sacrifice of the Mass and that of the Cross? 657 十字架上の犠牲とミサ聖祭との間にはどのような関係と相違がありますか。
R. Tra il sacrificio della Messa e quello della Croce vi è questa differenza e relazione; che Gesù Cristo sulla Croce si offri spargendo il suo sangue e meritando per noi; invece sugli altari Egli si sacrifica senza spargimento di sangue e ci applica i frutti della sua Passione e Morte. Entre le sacrifice de la Messe et le sacrifice de la Croix il y a cette différence et cette relation que, sur la Croix, Jésus-Christ s’est offert en répandant son Sang et en méritant pour nous ; tandis que sur les autels, il se sacrifie sans effusion de sang et nous applique les fruits de sa Passion et de sa Mort. A. Between the Sacrifice of the Mass and that of the Cross there is this difference and relation, that on the Cross Jesus Christ offered Himself by shedding His Blood and meriting for us; whereas on our altars He sacrifices Himself without the shedding of His Blood, and applies to us the fruits of His passion and death. 十字架上の犠牲とミサ聖祭との間には次のような関係と相違があります。すなわち、十字架上では、イエズス・キリストは実際に御血を流して御自分をささげられ私たちのために功徳を積まれましたが、祭壇においては御血を流すことなく御自分を犠牲し、私たちに御受難と御死去の実りを適用して下さいます。
657 D. Quale altra relazione ha il sacrificio della Messa con quello della Croce? Quelle autre relation le sacrifice de la Messe a-t-il avec celui de la Croix ? 7 Q. What other relation has the Sacrifice of the Mass to that of the Cross? 658 ミサ聖祭と十字架上の犠牲との間には、他にどのような関係がありますか。
R. Un'altra relazione del sacrificio della Messa con quello della Croce è che il sacrificio della Messa rappresenta in modo sensibile lo spargimento del sangue di Gesù Cristo sulla Croce; perché in virtù delle parole della consacrazione si rende presente sotto le specie del pane il solo Corpo, e sotto le specie del vino il solo Sangue del nostro Salvatore; sebbene per naturale concomitanza e per l'unione ipostatica sia presente sotto ciascuna delle specie Gesù Cristo vivo e vero. Une autre relation du sacrifice de la Messe avec celui de la Croix est que le sacrifice de la Messe représente d’une manière sensible l’effusion du sang de Jésus-Christ sur la Croix ; car en vertu des paroles de la consécration, le Corps seul de notre Sauveur devient présent sous l’espèce du pain et son Sang seul sous l’espèce du vin ; et ce n’est que par concomitance naturelle et à cause de l’union hypostatique que Jésus-Christ vivant et véritable est présent sous chacune des espèces. A. Another relation of the Sacrifice of the Mass to that of the Cross is, that the Sacrifice of the Mass represents in a sensible way the shedding of the Blood of Jesus Christ on the Cross, because, in virtue of the words of consecration, only the Body of our Saviour is made present under the species of the bread and only His Blood under the species of the wine; although by natural concomitance and by the hypostatic union, the living And real Jesus Christ is present under each of the species. ミサ聖祭と十字架上の犠牲との間にある他の関係は、ミサ聖祭はイエズス・キリストが十字架上で御血を流されたことを目に見える形で表現していることです。なぜなら、聖変化のことばの力によるならば、パンの外観のもとに私たちの救い主の御体だけが、そして、ぶどう酒の外観のもとにその御血だけが現存するからです。ただし、自然のつながり(concomitance)と位格的結合とによっては、それぞれの外観のもとに本当の生けるイエズス・キリストが現存しておられます。
658 D. Non è forse il sacrificio della Croce l'unico sacrificio della nuova legge? Peut-être le sacrifice de la Croix n’est il pas l’unique sacrifice de la nouvelle loi ? 8 Q. Is not the Sacrifice of the Cross the one only Sacrifice of the New Law? 659 十字架上の犠牲は、新約唯一の犠牲ですか。
R. Il sacrificio della Croce è l'unico sacrificio della nuova legge, inquantoché per esso il Signore placo la Divina Giustizia, acquisto tutti i meriti necessari a salvarci, e cosi compiè da parte sua la nostra redenzione. Questi meriti pero Egli ci applica pei mezzi da lui istituiti nella sua Chiesa, tra i quali è il santo sacrificio della Messa. Le sacrifice de la Croix est l’unique sacrifice de la loi nouvelle, car par lui Notre Seigneur a apaisé la justice Divine, acquis tous les mérites nécessaires pour nous sauver et accompli ainsi de son côté notre Rédemption. Ce sont ces mérites qu’il nous applique par les moyens qu’il a institués dans son Église, au nombre desquels est le saint sacrifice de la Messe. A. The Sacrifice of the Cross is the one only Sacrifice of the New Law, inasmuch as through it Our Lord satisfied Divine Justice, acquired all the merits necessary to save us, and thus, on His part, fully accomplished our redemption. These merits, however, He applies to us through the means instituted by Him in His Church, among which is the Holy Sacrifice of the Mass. 十字架の犠牲によって私たちの主が天主の正義をおなだめになり、私たちを救うため必要な功徳をすべて得られ、こうしてイエズス・キリストの側では私たちのあがないを全く成就して下さった限りでは、十字架上の犠牲は新約の唯一の犠牲です。これらの功徳は、主が御自分の教会の中に制定された手段を通して、私たちに適用されるのであり、ミサ聖祭もこの手段のひとつです。
659 D. Per quali fini dunque si offre il sacrificio della santa Messa. Pour quelles fins offre-t-on le sacrifice de la sainte Messe ? 9 Q. For what ends then is the Holy Sacrifice of the Mass offered? 660 ミサ聖祭をささげる目的は何ですか。
R. Il sacrificio della santa Messa si offerisce a Dio per quattro fini: 1.° per onorarlo come si conviene, e per questo si chiama latreutico; 2.° per ringraziarlo dei suoi benefizi, e per questo si chiama eucaristico; 3.° per placarlo, per dargli la dovuta soddisfazione dei nostri peccati e per suffragare le anime del purgatorio; e per questo si chiama propiziatorio; 4.° per ottenere tutte le grazie che ci sono necessarie, e per questo si chiama impetratorio. On offre à Dieu le sacrifice de la sainte Messe pour quatre fins : 1 pour lui rendre l’honneur qui lui est dû, et à ce point de vue le sacrifice est latreutique ; 2 pour le remercier de ses bienfaits, et à ce point de vue le sacrifice est eucharistique ; 3 pour l’apaiser, lui donner la satisfaction due pour nos péchés, soulager les âmes du purgatoire, et à ce point de vue le sacrifice est propitiatoire ; 4 pour obtenir toutes les grâces qui nous sont nécessaires, et à ce point de vue le sacrifice est impétratoire. A. The Sacrifice of the Mass is offered to God for four ends: (1) To honour Him properly, and hence it is called Latreutical; (2) To thank Him for His favours, and hence it is called Eucharistical; (3) To appease Him, make Him due satisfaction for our sins, and to help the souls in Purgatory, and hence it is called Propitiatory; (4) To obtain all the graces necessary for us, and hence it is called Impetratory. ミサ聖祭をささげる目的は、① ふさわしい方法で天主を崇拝し(礼拝)、② そのご恩に感謝し(感謝)、③ 天主をなだめるために私たちの罪のつぐないをし、練獄の霊魂のために代願し(贖罪)、④ 必要とする恩恵を乞い求める(懇願)ことです。
660 D. Chi è che offre a Dio il sacrificio della santa Messa? Qui est-ce qui offre à Dieu le sacrifice de la sainte Messe ? 10 Q. Who is it that offers to God the Sacrifice of the Holy Mass? 661 ミサ聖祭の犠牲を天主にささげるのはどなたですか。
R. Il primo e principale offerente del sacrificio della santa Messa è Gesù Cristo, e il sacerdote è il ministro che in nome di Gesù Cristo offre lo stesso sacrificio all'Eterno Padre. Le premier et le principal dans l’oblation du sacrifice de la sainte Messe est Jésus-Christ, et le prêtre est le ministre qui, au nom de Jésus-Christ, offre ce sacrifice au Père Éternel A. The first and principal Offeror of the Sacrifice of the Holy Mass is Jesus Christ, while the priest is the minister who in the Name of Jesus Christ offers the same Sacrifice to the Eternal Father. ミサ聖祭の第一の主たる奉献者はイエズス・キリストです。司祭は、イエズス・キリストの名においてこの犠牲を永遠の父なる天主にささげる聖務者です。
661 D. Chi ha istituito il sacrificio della santa Messa? Qui a institué le sacrifice de la sainte Messe ? 11 Q. Who instituted the Sacrifice of the Holy Mass? 662 どなたがミサ聖祭を制定なさいましたか。
R. Il sacrificio della santa Messa lo istitui Gesù Cristo medesimo quando istitui il sacramento dell' Eucaristia; e disse che si facesse in memoria della sua Passione. C’est Jésus-Christ lui-même qui a institué le sacrifice de la sainte Messe quand il a institué le sacrement d’Eucharistie, et il dit qu’on le fit en souvenir de sa Passion. A. Jesus Christ Himself instituted the Sacrifice of the Holy Mass when He instituted the Sacrament of the Blessed Eucharist and said that this should be done in memory of His passion. 御聖体の秘跡をお定めになり、御受難の記念としてこれを行なえとおおせられたとき、イエズス・キリスト御自身がミサ聖祭を制定なさいました。
662 D. A chi si offre la santa Messa? A qui offre-t-on la sainte Messe ? 12 Q. To whom is the Holy Mass offered? 663 ミサ聖祭はだれにささげられますか。
R. La santa Messa si offre a Dio solo. On offre la sainte Messe à Dieu seul. A. The Holy Mass is offered to God alone. ミサ聖祭は、天主にだけささげられます。
663 D. Se la santa Messa si offre a Dio solo, perché si celebrano tante Messe in onore della santissima Vergine e dei Santi? Si on offre la sainte Messe à Dieu seul, pourquoi célèbre-t-on tant de messes en l’honneur de la très sainte Vierge et des Saints ? 13 Q. If the Holy Mass is offered to God alone why are so many Masses celebrated in honour of the Blessed Virgin And the Saints? 664 ミサ聖祭は天主にだけささげられるのに、なぜ、聖母マリアや聖人たちを記念するためにたくさんの御ミサをたてるのですか。
R. La Messa celebrata in onore della Vergine e dei Santi è sempre un sacrificio offerto a Dio solo: si dice pero celebrata in onore della santissima Vergine e dei Santi per ringraziare Dio dei doni che loro ha fatti e ottenere da Lui con la loro intercessione più abbondantemente le grazie di cui abbiamo bisogno. La Messe célébrée en l’honneur de la sainte Vierge et des Saints est toujours un sacrifice offert à Dieu seul ; aussi, on dit qu’elle est célébrée en l’honneur de la très sainte Vierge et des Saints, pour remercier Dieu des dons qu’il leur a faits et obtenir de lui plus abondamment par leur intercession les grâces dont nous avons besoin. A. Mass celebrated in honour of the Blessed Virgin and the Saints is always a sacrifice offered to God alone; it is said to be celebrated in honour of the Blessed Virgin and the Saints to thank God for the gifts He has given them, and through their intercession to obtain from Him more abundantly the graces of which we have need. 聖母や聖人たちを記念する御ミサも天主にだけささげられる犠牲です。しかし、聖母や聖人たちを記念するためにミサ聖祭をささげるというのは、かれらにお与えになった御恵みを天主に感謝するとともに、そのとりなしによって私たちに必要な御恵みを豊かに下さるよう願うためです。
664 D. Chi è partecipe dei frutti della Messa? Qui participe aux fruits de la sainte Messe ? 14 Q. Who shares in the fruits of the Mass? 665 ミサ聖祭の効果はだれにおよびますか。
R. Tutta la Chiesa partecipa dei frutti della Messa, ma particolarmente: 1.° il sacerdote e quelli che assistono alla Messa, i quali si considerano uniti al sacerdote; 2.° quelli per cui si applica la Messa, che possono essere si vivi che defunti. Toute l’Église participe aux fruits de la sainte Messe, mais particulièrement : 1 le prêtre et ceux qui assistent à la Messe et qui sont considérés comme unis au prêtre ; 2 ceux pour qui la Messe est appliquée et ils peuvent être des vivants ou des défunts. A. The entire Church shares in the fruits of the Mass, but more particularly: (1) The priest and those who assist at Mass, the latter being united with the priest; (2) Those for whom the Mass is applied, both living and dead. ミサ聖祭の効果は、教会全体、特に、① ミサ聖祭をささげる司祭とそれにあずかる人たち、つまり、司祭と一体となっている人たち、② 死者であれ生きている人であれ、司祭が特定の人にささげるときには、その人たちにおよびます。
§ 2. - Del modo di assistere alla santa Messa. § 2. La manière d’assister à la Messe. The Way to Assist at Mass Ⅱ  ミサ聖祭にあずかる態度
665 D. Quali cose sono necessarie per ascoltare bene e con frutto la santa Messa? Combien de choses sont nécessaires pour entendre bien et avec fruit la sainte Messe ? 15 Q. What is required in order to assist at Holy Mass well and profitably? 666 ミサ聖祭にふさわしい心構えをもってあずかり、実りあるようにするには何が必要ですか。
R. Per ascoltare bene e con frutto la santa Messa sono necessarie due cose: 1.° la modestia della persona; 2.° la divozione del cuore. Pour entendre bien et avec fruit la sainte Messe deux choses sont nécessaires : 1 la modestie extérieure ; 2 la dévotion du cœur A. To assist at Holy Mass well and profitably two things are necessary: (1) Modesty of person and (2) Devotion of heart. ミサ聖祭にふさわしい心構えをもってあずかり、実りあるようにするには、① 外的には慎みを保ち、② 心で信心を持つことが必要です。
666 D. Zn che consiste la modestia della persona? En quoi consiste la modestie extérieure ? 16 Q. In what does modesty of person consist? 667 外的には慎みを保つとはどういうことですか。
R. La modestia della persona consiste in modo speciale nell'essere modestamente vestito; nell'osservare silenzio e raccoglimento, e nello stare, per quanto si puo, ginocchioni, eccettuato il tempo dei due vangeli, che si ascoltano stando in piedi. La modestie extérieure consiste spécialement à être modestement vêtu, à observer le silence et le recueillement, et à se tenir autant que possible à genoux, excepté pendant les deux évangiles qu’on entend debout. A. Modesty of person consists especially in being modestly dressed, in observing silence and recollection and, as far as possible, in remaining kneeling, except during the time of the two Gospels which are heard standing. 外的には慎みを保つとは、特に、慎みのある服装をし、沈黙を守り、潜心し、起立して聞く二つの福音を除いて、できる限り跪いていることです。
667 D. Nell' ascoltare la santa Messa qual'è il miglior modo di praticare la divozione del cuore? En entendant la sainte Messe, quelle est la meilleure manière de pratiquer la dévotion du cœur ? 17 Q. In hearing Holy Mass which is the best way to practise true devotion? 668 心で信心を持ってミサ聖祭にあずかるにはどうすべきですか。
R. Il miglior modo di praticare la divozione del cuore nell'ascoltare la santa Messa è il seguente: 1.° Unire da principio la propria intenzione a quella del sacerdote, offerendo a Dio il santo sacrificio per i fini pei quali è stato istituito. 2.° Accompagnare il sacerdote in ciascuna preghiera e azione del sacrificio. 3.° Meditare la passione e morte di Gesù Cristo e detestare di cuore i peccati che ne sono stati la cagione. 4.° Fare la Comunione sacramentale, o almeno la spirituale, nel tempo che si comunica il sacerdote. La meilleure manière de pratiquer la dévotion du cœur en entendant la sainte Messe est la suivante : 1 unir dès le commencement son intention à celle du prêtre, offrant à Dieu le saint sacrifice pour les fins pour lesquelles il a été institué ; 2 suivre le prêtre en chacune des prières et des actions du sacrifice ; 3 méditer la passion et la mort de Jésus-Christ et détester de tout son cœur les péchés qui en ont été la cause ; 4 faire la Communion sacramentelle, ou au moins la Communion spirituelle pendant que le prêtre communie. A. In hearing Holy Mass the best way to practise true devotion is the following: (1) From the very beginning to unite our intention with that of the priest, offering the Holy Sacrifice to God for the ends for which it was instituted. (2) To accompany the priest in each prayer and action of the Sacrifice. (3) To meditate on the passion and death of Jesus Christ And to heartily detest our sins, which have been the cause of them. (4) To go to Communion, or at least to make a spiritual Communion while the priest communicates. 心で信心を持ってミサ聖祭にあずかるに最良の方法は、次の通りです。① 初めから私たちの意向を司祭の意向に合わせ、ミサ聖祭を(それが)制定された目的のために天主にささげる。② 司祭のする祈りと動作に心をあわせる。③ イエズス・キリストの御受難と御死去を黙想し、その原因となった罪を心から忌みきらう。④ 御聖体を拝領するか、少なくとも、司祭の聖体拝領のときに、霊的に聖体拝領をする。
668 D. Che cosa è la Comunione spirituale? Qu’est-ce que la Communion spirituelle ? 18 Q. What is spiritual Communion? 669 霊的聖体拝領とは何ですか。
R. La Comunione spirituale é un gran desiderio di unirsi sacramentalmente a Gesù Cristo dicendo, per esempio: Signore mio Gesù Cristo, io desidero con tutto il cuore di unirmi a Voi adesso e per tutta l'eternità; e facendo i medesimi atti che si fanno avanti, e dopo la Comunione sacramentale. La Communion spirituelle est un grand désir de s’unir sacramentellement à Jésus-Christ, en disant, par exemple : " Mon Seigneur Jésus-Christ, je désire de tout mon cœur de m’unir à Vous maintenant et pour toute l’éternité " et en faisant les mêmes actes qu’on fait avant et après la Communion sacramentelle. A. Spiritual Communion is a great desire to be united sacramentally with Jesus Christ. saying, for example: "My Lord Jesus Christ, I desire with my whole heart to be united with Thee now and forever;" and then make the same acts that are to be made before and after sacramental Communion. 霊的聖体拝領とは、秘跡を通してイエズス・キリストと一致したいとの強い望みを表わすことで、たとえば、「主イエズス・キリストよ、今もいつまでも、御身と一致したいと心から望みたてまつる」などと祈って、実際の秘蹟的な聖体拝領の前後にするのと同じように祈ることです。
669 D. La recita del Rosario o di altre orazioni durante la Messa impedisce di ascoltarla con frullo? La récitation du Rosaire ou d’autres prières pendant la sainte Messe empêche-t-elle de l’entendre avec fruit ? 19 Q. Does the recitation of the Rosary or other prayers during Mass prevent us from hearing it with profit? 670 ミサ聖祭中にロザリオやその他の[個人的な]祈りを唱えることは、ミサ聖祭の効果の妨げとなりますか。
R. La recita di queste preghiere non impedisce di ascoltare con frutto la Messa, purché si procuri per quanto si puo di seguire l'azione del santo sacrificio. La récitation de ces prières n’empêche pas d’entendre la Messe avec fruit, pourvu qu’on tâche le plus possible de suivre les cérémonies du saint sacrifice. A. The recitation of the Rosary and other prayers during Mass does not prevent us from hearing it with profit, provided we try as far as possible to follow the parts of the Holy Sacrifice. ミサ聖祭中にロザリオやその他の[個人的な]祈りを唱えることは、ミサ聖祭の儀式に[気を配って]従う限り、御ミサの効果を妨げることにはなりません。
670. D. E cosa ben fatta il pregare anche per gli altri nell'assistere alla santa Messa? Fait-on bien de prier aussi pour les autres en assistant à la sainte Messe ? 20 Q. Is it advisable to pray for others while assisting at Mass? 671 ミサ聖祭中に他の人々のために祈るのはよいことですか。
R. E cosa ben fatta il pregare anche per gli altri nell'assistere alla santa Messa: anzi il tempo della santa Messa è il più opportuno per pregar Dio per i vivi e per i morti. On fait bien de prier aussi pour les autres en assistant à la sainte Messe, et même le temps de la sainte Messe est le meilleur pour prier à l’intention des vivants et des morts. A. Yes it is advisable to pray for others while assisting at Mass; nay more, the time of Holy Mass is the most suitable of all times to pray for the living and the dead. ミサ聖祭中に他の人々のために祈るのはよいことです。そればかりか、ミサ聖祭中こそ、死者や生きている人々のために天主に祈るのに最もふさわしい時です。
671 D. Finita la Messa che cosa si dovrebbe fare? Que faudrait-il faire quand la Messe est finie ? 21 Q. What should we do after Mass? 672 ミサ聖祭が終わってから何をすべきですか。
R. Finita la Messa, si dovrebbe ringraziar Dio della grazia d'averci fatto assistere a questo grande sacrificio, e domandargli perdono delle mancanze che abbiamo commesso nell'assistervi. Quand la Messe est finie, il faudrait remercier Dieu de la grâce qu’il nous a faite en nous donnant d’assister à ce grand sacrifice, et lui demander pardon des fautes que nous avons commises en y assistant. A. After Mass we should give God thanks for having allowed us to assist at this great Sacrifice, and we should ask pardon for All the faults we may have committed while assisting at it. ミサ聖祭が終わってから、この偉大な犠牲にあずからせて下さった天主に感謝をささげ、ミサ聖祭中に犯した誤ちの赦しを願うべきです。

「カトリックの家族とは何か:カトリック両親による子女の教育:教育の目的」サマース神父様霊的講話

2019年03月13日 | カトリックとは
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

2018年12月2日(主日)に東京でなされたサマース神父様霊的講話をご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

「カトリックの家族とは何か:
カトリック両親による子女の教育:
教育の目的」


同時通訳:小野田圭志神父

今日は、主日のお休みの時間のところを遅くまで残って下さって、皆さんの貴重な時間を下さった事を感謝します。

「カトリックの家族とは何か」という事について、話の願いを受けました。それはとても複雑で、しかし大きな話題性を持っています。

100年前は、このカトリックの家族について特に話す必要はなかったかもしれません。しかしこの100年の間に、この「家族」というものが、だんだん有るべき型から離れてきている、という現象が生じてしまいました。「産業革命」、またその前には「フランス革命」などといって、家庭がだんだん崩壊するように向かって来てしまいました。更にもっと行くと、「プロテスタント革命」もあります。
「家族」という自然の中核に、色々な悪い影響が与えるという事は、そのような歴史的な影響を辿る事ができます。

そして歴史が経つにつれて、「カトリックの家族」というものが、だんだん稀なものになってしまいました。それと同時に、「カトリックの司祭職」というものの難しさについても同様の事が言えるようになりました。あるいは「カトリックの召命、修道生活」もそうです。なぜかというと、良いカトリックの家族から普通は、カトリックの司祭、カトリックの修道者が生まれるからです。

「カトリックの司祭職の問題は、カトリックの家族の事にある」と、ルフェーブル大司教様はそこに解決を求めていました。

司祭の養成に関われば関わるほど、カトリックの家族を直さなければならない、という事を理解しました。そして2つには関係があります、相互関係があります。カトリック司祭は良いカトリック家庭を作るし、良いカトリック家庭は良い司祭を生み出す。司祭を弱めてしまうと、カトリックの司祭を薄めてしまうと、カトリックの家族が弱ってしまいます。もしもカトリックの家族が攻撃されてしまうと、今度は良い司祭が生まれなくなってしまいます。


では今の導入の分を終えると、一体、私たちはどうやったら子供たちを聖人に、聖なる人間として育てる事ができるでしょうか?なぜかというと、お父さんとお母さん、あるいは夫婦は、死後の裁きの場所に立った時に、自分の霊魂のみならず、子供の霊魂についても問われるからです。配偶者と、そして天主が送られた子供たちについても裁かれるからです。

もちろん全ての、配偶者や子供たちの全ての行動について裁かれるわけではないですけれども、「どれほど良い影響を与えたのか」とか、あるいは「どれほど悪い影響を与えてしまったのか」等について裁かれます。

では先程も申し上げましたけれども、「子供を育てる」という事の最終の目的は何でしょうか?もしも最終の目的地を知らないならば、その目的地に達する為の行動を起こす事ができません。

私はこの今、子供を育てる事の究極の目的、ゴールを、このようにまとめたいと思います。『子供たちが、あるいは結婚生活において、あるいは修道生活・司祭生活において、自分の霊魂と自分たちに委ねられた霊魂たちを救う事ができるように準備する』これが目的です。

結婚生活と修道生活だけなのでしょうか。一人で独身生活をする、というのは、必ずしもそれだけの為に追求されるものではないからです。もちろんある霊魂については、良い方を天主様が送って下さらなかった、あるいは巡り会う事ができなかったとか、あるいは色々修道生活をしたけれども、結局修道生活への召し出しはなかった、という場合もあります。それもとてもあり得るので、もちろんそれはそれで良い事です。そして自分の選択ではないにも関わらず、天主様の御摂理によって、独身のまま一生を終える方々もいらっしゃいます。それも天主様の御摂理です。

しかし、こう「身分」というのは大体は普通は、修道生活・司祭生活、あるいは結婚生活です。ですから両親は、子供たちがそのどちらかの身分に生活に入るように、子供たちを準備します。ですからこの両親は、お父さんとお母さんは、子供たちが大人になった時に、その自分の生活を決めて、霊魂を救う事ができるようにへと準備させる、この使命があります。

そこである聖人は、両親の役割というのは子供たちの教育というのは、主にこれだけではないのですけれども、主に「子供たちの意志を訓練する事である」と言っています。

この「意志」については、現代において極めて蔑ろにされている危険な問題です。現代の社会では、「子供たちは何をしても、決して悪い事はしていない。だから何も叱るべきものは何もない」という誤謬があります。もちろん子供を皆さん持っている方はご存知ですけれども、これは「そうではない」という事はよく皆さんご存知です。これはジャン=ジャック・ルソーという人が言い出した間違いであって、300年も前からある誤謬です。

私は10年間、イギリスで学校の校長をしていました。多くの両親たちが学校に子供を連れて来て、「この私の子供は、私に決して嘘をついた事はありません」と言います。そしてその両親の言葉を聞くと、あたかも子供が天から、原罪の汚れも無く天使からのように降ってきたかのように、清らかな存在であるかのように描写をしてくれます。そしてもちろん、この子供たちが、自分の子供が何か罪を犯す、何かおかしい事をするというのは、ちょっと恥ずかしい事であるからかもしれません。しかし子供たちは、親御さんたちの謙遜の為に与えられた、という事もあります。ですから聖人たちは、「子供たちの意志を訓練させる事」について話しています。

子供たちの意志を訓練するのは難しいプロセスです。親が子供に「よろしい、いいですか?これが良い事で、こうしなければなりません。なぜならば、これでこうだから、こうだからです。」だからといって、子供がそれをするとは限りません。しかし子供が良い事をするようになるまで、そのような習慣を、良い習慣をつける事ができる為には、何ヶ月も何年もかかります。

それでこの意志を訓練する為には、2つの極端があるので、この2つの極端を避けなければなりません。ラテン語では言い方は、「徳は中庸に有り」と言いますけれども、この2つの両極端のやり過ぎの中庸を取らなければなりません。

1つは、「厳しすぎる事」です。もう1つは、「あまりにも緩慢で、そして優しすぎる事」です。

最初の、この「厳しすぎる、あまりにも厳格すぎる」というのは、あまりよくある事ではないのですけれども、でもあり得る事です。このあまりにも厳格で厳しすぎる親は、この例えば何かの罰のその背後に、愛も、あるいはその合理的な理由もなくて、ただ機械であるかのようにマシーンであるかのように取り扱っている場合です。強い矯正というよりは、あるいは力ずくで、子供にある行動の取り方を押し付ける、というやり方での教え方です。

私たちの見る限りは、この「厳しすぎる」というのは、あまりよくあるケースではありません。よくあるパターンは、「優しすぎる」か、あるいは「緩慢しすぎる」ような教育の仕方です。

司祭は色々な国や色々な民族で、色々な習慣のメンタリティーの人々の間で働いていますけれども、人間の本性というのはどこでも同じです。マリア様を除いて、私たちは皆原罪を持っているので、人間の本性としては同じような欠陥を持っています。では「優しすぎる」とか「緩慢しすぎる」という問題はどこにあるのでしょうか?

問題は、「意志が強くならない」という事です。びっことか片端になってしまう事です。あまりにも厳しすぎると、この子供の意志を壊してしまう危険があります。しかし緩慢しすぎてしまうと、そこには意志の強さが全くないので、意志の強さが見られなくなってしまいます。

「修道生活に入りたい」あるいは「司祭になりたい」と言う若い男女がいたとします。毎日お祈りもするし、主日にはミサも与るし、熱心にやっています。しかし、「罪の習慣を断ち切る」とか、あるいは自分の意志を固くして、修道生活、あるいは「天主様の為に身を捧げる」という決意を取る事ができません。

「なぜその決心を立てる事が難しいのですか?」と聞きます。「子供の時はどんな生活を受けたのですか?」と聞いたとします。

すると子供たちは青年は、その子供の時に受けた教育について、両親に不満で、怒りを持っている場合があります。「私は甘やかされて育ちました。いつでもお菓子や食べ物を食べる事ができたし、もしも望むならば午前中ずっと寝ている事もできたし、家で何の責任もなかったし、手伝いもしなかったし、もしも何か欲しいと言えばすぐにそれを親がくれたし、ですから大人になった時に、私には意志の強さが何もありませんでした。自分を否定して、自分がこれがダメだ、という事ができませんでした。なぜかというと、子供の頃から欲しいものはすぐ手に入れたからです。」

そしてこの「自分が失敗した」という事で、それを大きな心の傷として持っています。

この意志が養成されなかったので、意志が強くならなかったので、結婚生活においても非常に苦しみます。なぜかというと、意志が弱いので、配偶者の為、あるいは子供たちの為に、自分を犠牲にする事ができないからです。

あるいは修道生活に入る事ができません。なぜかというと、自分の個人的な喜びや良いものを放棄する事ができないからです。

ここに、「子供への愛」という事の誤解があります。「子供を愛する」という事は、子供がしたい事をすぐさせてあげるという事ではありません。

私は学校で、ある生徒がいましたが、その生徒は宿題を全くした事がなくて、非常に怠慢な学生でした。7歳の子供だったので、そんなに大した事を要求したわけではなくて、ほんのちょっとした事だけだったのです。私は両親に聞いたのです。
「この子は一体、放課後ほんの10分か15分あればすぐ出来てしまうような宿題を何でしないのですか?」
「あぁ、なぜかというと、うちの子はいつもテレビを見るのが好きで、テレビのショーを見ているのですけれども、その子供に『テレビを見ずに宿題をしなさい』とは言えないのです。なぜかというと、子供を愛しているので、子供が泣いたり、子供に辛い思いをさせたくないのです。」
「そうではありません、親御さん、それはですね、子供を憎んでいる事です。子供が欲しい、やりたい、と言ったこのその時に与えてしまうという事は、子供を壊してしまう事です。」

ですから、本当の良いお父さんとお母さんは、子供を賞賛して、必要ならばそれに矯正を与えて、それを矯めして、これを注意して、そして必要なやり方でそれを行ないます。もちろん子供は、家族は色々違っているので、それらに全て適応するような黄金の規則というものはありません。私たちに与えられた知性と、常識と、それから良い賢明な方々のアドバイスを受けて、それを行ないます。

子供を育てる、良く育てるという事は、難しい仕事です。時々お父さんとお母さんから聞きます、「あぁ神父様、あぁ私、修道者になった方が良かったです。」ちょっとこれは皮肉なように聞こえます。なぜかというと、そのような方々が結婚生活を選んだのは、「修道生活の方が難しいだろう」と思ったからです。「修道生活の犠牲をする事が嫌だ」というような人は、やはり同じく、「家庭生活の犠牲も嫌だ」と思うでしょう。

よく人々が修道生活に対して恐れているのは、「自己否定」とか、あるいは「共同生活」、あるいは「他の人の為の奉仕」、「天主様への奉仕」ですけれども、しかし結婚生活にも同じような犠牲が要求されます。「自分の自己否定」や、あるいは「他者の為の奉仕」という事が要求されます。

「共同生活」や「誓願」も同じです。「家庭生活」という共同生活や、「夫婦の忠実」という誓願も守らなければなりません。

ですからまとめて言うと、修道生活を送ろうが、家庭生活結婚生活を送ろうが、同じく、強い良い意志の養成が、形成が必要です。ですから両親は、子供の意志をよく訓練させてあげて、どのような職業でも、どのような生活でも、身分にも、対応できるようにしてあげなければなりません。

これは大きな中の小さな、子供の養成の一部でした。

では、今からのものが結論です。問題は、よく頻繁に起こるのは、「寛大さの欠如」から問題が生じます。寛大さがない、寛大に与え尽くす事ができないという事は、「自分勝手」があります。この自分勝手、利己主義というのは、近代の色々な誤謬の中に、誤りの中にあります。物質主義、あるいはその他近代の色々な弊害をもたらすような何とか主義は、結局はとどのつまり、利己主義に端を発しています。

若い、まだ年端のいかない子供の時から、「他の人の為に奉仕をさせる、他の人の為に役に立つような事をして、寛大に与える事を覚えさせる」という事はとても良い事です。

そしてこの「他の人の為に自分を与える、寛大に与える」という事こそ、将来の良き夫、良き妻、そして良き司祭、修道者となるものです。

今日私の言いたかったのはその事です。ではご清聴ありがとうございました。
お祈りをします。


2019年3月17日(主日)は四旬節第二主日(一級祝日 紫)です。聖伝のミサの固有文をご紹介いたします。

2019年03月12日 | カトリックとは

アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様、

2019年3月17日(主日)は四旬節第二主日(一級祝日 紫)です。聖伝のミサの固有文をご紹介いたします。  
ミサ聖祭(指定巡礼聖堂。ドムニカの聖マリア聖堂)
 天主は、われらの聖徳を望み給う。その聖徳とは、天主の思し召しに一致することにほかならない。これが、本日の典礼の教えるところである。故に、完徳に至ろうとする者にとって、天主の思し召しを知ることこそ大切である。
 パウロが、天主の思し召しの現われとして、聖徳の手段として、天主の掟を記憶させる。<書簡>天の御父は、キリストを指し示して「彼の言うところを聞け」と仰せられる。キリストはまず、自分の手本と教えとによって天主の思し召しをわれらに示し給うた。
 キリストは、福音と教会とによって、道と真理とを教え続け給う。
 御変容の奇蹟は、われらに、勝つまで戦えと教える。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

Dominica Secunda in Quadragesima 四旬節第二主日
I Classis 一級
Statio ad S. Mariam in Domnica 指定巡礼聖堂。ドムニカの聖マリア聖堂
Ant. ad Introitum. Ps. 24, 6, 3 et 22. 入祭文 詩篇 24ノ6,3,22
Reminíscere miseratiónum tuarum, Dómine, et misericórdiæ tuæ, quæ a sǽculo sunt : ne umquam dominéntur nobis inimíci nostri : líbera nos, Deus Israël, ex ómnibus angústiis nostris. 主よ、御身の慈悲思い出し給え、また、代々にわたる御身の憐れみを。我らの敵がわれらを決して支配せぬように。イスラエルの天主よ、われらの全ての患難より我らを解放し給え。
Ps. ibid., 1-2. 詩篇24ノ1-2
Ad te, Dómine, levávi ánimam meam : Deus meus, in te confído, non erubéscam. 主よ、御身にわが霊魂を上げ奉る。我が天主よ、御身に信頼し奉る。私は恥ずることなからん。
V/.Glória Patri. V/. 願わくは、聖父と・・・(栄誦)。
Reminíscere miseratiónum tuarum, Dómine, et misericórdiæ tuæ, quæ a sǽculo sunt : ne umquam dominéntur nobis inimíci nostri : líbera nos, Deus Israël, ex ómnibus angústiis nostris. 主よ、御身の慈悲思い出し給え、また、代々にわたる御身の憐れみを。我らの敵がわれらを決して支配せぬように。イスラエルの天主よ、われらの全ての患難より我らを解放し給え。
Oratio. 集祷文
Deus, qui cónspicis omni nos virtúte destítui : intérius exteriúsque custódi ; ut ab ómnibus adversitátibus muniámur in córpore, et a pravis cogitatiónibus mundémur in mente. 天主よ、御身は、われらが全ての力を持たぬを見給う。[われらの]内と外とを守り給え。そは、身体においては、すべての逆境から防がれ、精神においては、邪念から我らが浄められんためなり。天主として、(…)。
Léctio Epístolæ beáti Páuli Apóstoli ad Thessalonicénses. 使徒聖パウロの、テサロニケ人への書簡の朗読。
1 Thess. 4, 1-7. テサロニケ前書 4ノ1-7
Fratres : Rogámus vos et obsecrámus in Dómino Iesu : ut, quemádmodum accepístis a nobis, quómodo opórteat vos ambuláre et placére Deo, sic et ambulétis, ut abundétis magis. Scitis enim, quæ præcépta déderim vobis per Dóminum Iesum. Hæc est enim volúntas Dei, sanctificátio vestra : ut abstineátis vos a fornicatióne, ut sciat unusquísque vestrum vas suum possidére in sanctifícatióne et honóre ; non in passióne desidérii, sicut et gentes, quæ ignórant Deum : et ne quis supergrediátur neque circumvéniat in negótio fratrem suum : quóniam vindex est Dóminus de his ómnibus, sicut prædíximus vobis et testificáti sumus. Non enim vocávit nos Deus in immundítiam, sed in sanctificatiónem : in Christo Iesu, Dómino nostro. 兄弟たちよ、私たちは主イエズスにおいて、あなたたちに願い、そして懇願する。あなたたちがどのように歩かなければならないのか、そして天主によみされるべきかを、私たちからあなたたちが学んだ通り、その通りあなたたちも歩くように、あなたたちがさらに溢れるように。私が主イエズスによってあなたたちに与えた掟のことは、あなたたちは正に知っている。実に、天主のみ旨はこれである、あなたたちが聖となること。あなたたちは淫行を避け、あなたたちのおのおのがうつわを神聖に尊く保ち、天主を知らない異邦人のように情欲に溺れてはならない。また、このことについてだれも兄弟を害したり、あざむいたりしてはならない。主がこれら全てのことについて報われることについては、すでに私たちがあなたたちに告げて証認したとおりである。天主が私たちを招かれたのは、不潔のためではなく、私たちの主イエズス・キリストにおいて聖となるためである。
Graduale. Ps. 24,17-18. 昇階誦  詩篇 24ノ17,18
Tribulatiónes cordis mei dilatátæ sunt : de necessitátibus meis éripe me, Dómine. 私の心の憂いは増え広がった。私の必要から私を救い出し給え。
V/. Vide humilitátem meam et labórem meum : et dimítte ómnia peccáta mea. V/. 私のみじめさと私の労苦を見給え、私の全ての罪を赦し給え。
Tractus. Ps. 105, 1-1. 詠誦 詩篇  105ノ1-4
Confitémini Dómino, quóniam bonus : quóniam in sǽculum misericórdia eius. 主をほめたたえよ。主は良き方、その憐れみは代々に至る。
V/. Quis loquétur poténtias Dómini : audítas fáciet omnes laudes eius ? V/. 誰か主の能力を語る人あらんや、主の全ての讃美を聞かせる人あらんや。
V/. Beáti, qui custódiunt iudícium et fáciunt iustítiam in omni témpore. V/. 常に公平を守り、常に正義を行う者は、幸せである。
V/. Meménto nostri, Dómine, in beneplácito pópuli tui : vísita nos in salutári tuo. V/. 主よ、御民への愛において、われらを記憶し、御身の救いおいて我らを訪問し給え。
+ Sequéntia sancti Evangélii secundum Matthǽum. マテオによる聖福音の続誦。
Matth, 17, 1-9. マテオ  17ノ1-9
In illo témpore : Assúmpsit Iesus Petrum, et Iacóbum, et Ioánnem fratrem eius, et duxit illos in montem excélsum seórsum : et transfigurátus est ante eos. Et resplénduit fácies eius sicut sol : vestiménta autem eius facta sunt alba sicut nix. Et ecce, apparuérunt illis Móyses et Elías cum eo loquéntes. Respóndens autem Petrus, dixit ad Iesum : Dómine, bonum est nos hic esse : si vis, faciámus hic tria tabernácula, tibi unum, Móysi unum et Elíæ unum. Adhuc eo loquénte, ecce, nubes lúcida obumbrávit eos. Et ecce vox de nube, dicens : Hic est Fílius meus diléctus, in quo mihi bene complácui : ipsum audíte. Et audiéntes discípuli, cecidérunt in fáciem suam, et timuérunt valde. Et accéssit Iesus, et tétigit eos, dixítque eis : Súrgite, et nolíte timére. Levántes autem óculos suos, néminem vidérunt nisi solum Iesum. Et descendéntibus illis de monte, præcépit eis Iesus, dicens : Némini dixéritis visiónem, donec Fílius hóminis a mórtuis resúrgat. そのとき、イエズスは、ペトロとヤコボとその兄弟ヨハネとをつれて、人里はなれた高い山にお登りになった。そして、かれらの前でお姿がかわり、お顔は日のようにかがやき、お服は光のように白くなった。そのとき、モイゼとエリアとが、かれらにあらわれ、イエズスと語りあった。ペトロが、口をはさんで、「主よ、私たちがここにいるのはよいことです。お望みなら、私はここに三つの幕屋をつくりましょう。一つはあなたのために、一つはモイゼのために、一つはエリアのために」とイエズスにいった。ペトロが、なお話しつづけていると、光る雲があらわれ、雲の中から、「これは私の愛する子、私の心にかなったものである。これに聞け!」とお声があった。弟子たちは、これをきいて、おそれて、たおれ伏した。するとイエズスが近づいて、かれらにふれ、「起きよ、おそれることはない」とおおせられたので、かれらが目をあげてみると、イエズスのほかには、だれも見あたらなかった。山を下るとき、イエズスはかれらに、「人の子が死人の中からよみがえるまでは、見たことをだれにもいうな」とお命じになった。
Credo 信経
Ant. ad Offertorium. Ps. 118,47 et 48. 奉献文  詩篇  118ノ47,48
Meditábor in mandátis tuis, quæ diléxi valde : et levábo manus meas ad mandáta tua, quæ diléxi. 私が熱烈に愛した御身の掟を私は黙想するだろう、私が愛した御身の掟に私の両手を上げるだろう。
Secreta. 密誦
Sacrifíciis præséntibus, Dómine, quǽsumus, inténde placátus : ut et devotióni nostræ profíciant et salúti. Per Dóminum. 主よ、願わくは、御前のいけにえに、嘉されて意を注ぎ給え。これが、われらの信心と救いとに益とならんことを。天主として、(…)。
Præfatio de Quadragesima 四旬節の序誦
Ant. ad Communionem. Ps. 5, 2-4. 聖体拝領誦 詩篇  5ノ2-4
Intéllege clamórem meum : inténde voci oratiónis meæ, Rex meus et Deus meus : quóniam ad te orábo, Dómine. 私の叫びを理解し給え、私の祈りの声に注意を傾け給え。わが王かつわが天主、何故なら主よ、私は御身に祈り奉るだろうから。
Postcommunio. 聖体拝領後の祈
Súpplices te rogámus, omnípotens Deus : ut quos tuis réficis sacraméntis, tibi etiam plácitis móribus dignánter deservíre concédas. Per Dóminum 全能の天主よ、われらはひれ伏して願い奉る。御身の秘蹟によって御身が強め給う人々が、御身に嘉する生活態度によって御身に奉仕しする[恩寵]をも、かたじけなくも与え給わんことを。天主として、(…)。




2019年1月21日(月) ルイ16世の追悼ミサの前のお話 「イエズス様の聖心に奉献できずに滅んだ王国」

2019年03月12日 | お説教・霊的講話
2019年1月21日(月)ルイ16世の追悼ミサ ミサの前のお話
小野田神父



このミサは、今日の祝日である聖アグネスのミサです。このミサを特にフランス王ルイ十六世の霊魂の為に捧げます。

フランス王は自分は国民にとっての父親であると思っていました。ですから、革命家たちに対して王があまりにも優しくてできなかった事です。経済学者が最近研究したところによると、経済的にもフランスはうまく行っていました。政治的にもフランスは最強の国でした。このような中でただ一つだけ、100年前にイエズス様の聖心から依頼されていた、「フランス王国をイエズス様の聖心に奉献する」という事ができていませんでした。そしてフランスの国旗に聖心のしるしを付ける、という事などができていませんでした。

イエズスの聖心からの要求が果たされないままそれから100年後、少数のフリーメーソンらによってフランス革命が起こされました。

しかし国民は王の為に、王室を守るために国民が自ら立ち上がったのです。王を守ろうとしました。特にヴァンデ地方が有名です。ヴァンデ地方の人々は、王の国旗として聖心をその縫い付けて、それを戦旗として戦いました。残念ながら、作戦がほんのちょっとのところで失敗して、ヴァンデ地方だけを守ろうとしていたのですけれども、もしも彼らがパリまで行っていたならば、革命は終わっていただろうと言われています。実は革命軍というのはそれほど多くなかったので、パリまで行っていたら、きっと革命軍は負けていたと思われているのですけれども、しかしそれをしなかった事が歴史を変えてしまいました。

そこで今日は、そのフランスの王ルイ十六世がギロチンで処刑されて亡くなった事を追悼する為にこのミサを御捧げします。


聖ピオ十世教皇「公教要理詳解 カトリックの教えとその主な部分」の秘蹟の部分 第四章 御聖体 : 聖体拝領のしかた

2019年03月12日 | カトリックとは
§ 4. - Della maniera di comunicarsi. § 4. La manière de communier. The Way to Go to Communion Ⅳ 聖体拝領のしかた
642 D. Come bisogna presentarsi nell'atto di ricevere la santa Comunione? Comment faut-il se tenir au moment de recevoir la sainte Communion ? 47 Q. How should we act while receiving Holy Communion? 643 御聖体を拝領するとき私たちはどんな姿勢をすべきですか。
R. Nell'atto di ricevere la santa Comunione bisogna essere inginocchiati, tenere la testa mediocremente alzata, gli occhi modesti e rivolti alla sacra particola, la bocca sufficientemente aperta e la lingua un poco avanzata sulle labbra. Au moment de recevoir la sainte Communion, il faut être à genoux, tenir la tête médiocrement levée, les yeux modestement tournés vers la sainte Hostie, la bouche suffisamment ouverte et la langue un peu avancée sur la lèvre inférieure. A. In the act of receiving Holy Communion we should be kneeling, hold our head slightly raised, our eyes modest and fixed on the sacred Host, our mouth sufficiently open, and the tongue slightly out over the lips. 御聖体を拝領するときには、ひざまづき、頭をこころもちあげ、謙虚に視線をホスチアに向け、口を充分あけて、舌を少し出します。
643 D. Come bisogna tenere la tovaglia o la tavoletta della Comunione? Comment faut-il tenir la nappe ou la tablette de Communion ? 48 Q. How should the Communion cloth be held? 644 聖体拝領用の布あるいはパテナはどう扱うべきですか。
R. La tovaglia o la tavoletta della Comunione bisogna tenerla in modo che raccolga la sacra particola qualora essa venisse a cadere. Il faut tenir la nappe ou la tablette de Communion de telle sorte qu’elle reçoive la sainte Hostie si elle venait à tomber. A. The Communion cloth should be held in such a way as to receive the sacred Host in case it should fall. 聖体拝領用の布あるいは聖体拝領用のパテナは、万一ホステアが落ちた時、受けとめられる位置にもっていなければなりません。
644 D. Quando si deve inghiottire la sacra particola? Quand doit-on avaler la sainte Hostie ? 49 Q. When should the sacred Host be swallowed? 645 いつ聖なるホスチアをのみ込むべきですか。
R. Dobbiamo procurare d'inghiottire la sacra particola più presto che si puo, e per qualche tempo astenerci dallo sputare. Nous devons faire en sorte d’avaler la sainte Hostie le plus tôt possible, et nous abstenir de cracher pendant quelque temps. A. We should try to swallow the sacred Host as soon as possible, and we should avoid spitting for some time. 聖なるホスチアは受けてからすぐにのみ込んでしまうべきです。しばらくの間つばを吐かないようにすべきです。
645 D. Se la sacra particola si attaccasse al palato, che cosa si dovrebbe fare? Si la sainte Hostie s’attachait au palais, que faudrait-il faire ? 50 Q. If the sacred Host should cling to the palate what should be done? 646 聖なるホスチアが口蓋にくっついた時どうしなければなりませんか。
R. Se la sacra particola si attaccasse al palato, la si dovrebbe distaccare con la lingua, e non mai col dito. Si la sainte Hostie s’attachait au palais, il faudrait la détacher avec la langue, et jamais avec le doigt. A. If the sacred Host should cling to the palate it should be removed with the tongue, but never with the finger. 聖なるホステアが口蓋にくっついた時は、舌を使ってとり、決して指を使ってはなりません。
§5. - Del precetto della Comunione. § 5. Le précepte de la communion. The Precept of Holy Communion Ⅴ聖体拝領についてのおきて
646 D. Quando vi è l'obbligo di comunicarsi? Quand y a-t-il obligation de communier ? 51 Q. When are we bound to receive Communion? 647 いつ御聖体を拝領する義務がありますか。
(*) R. Vi è l'obbligo di comunicarsi in ogni anno, alla Pasqua di Risurrezione, ciascuno alla propria parrocchia; e inoltre in pericolo di morte. Il y a obligation de communier tous les ans, à Pâques, chacun dans sa paroisse ; et de plus, quand on est en danger de mort. A. We are bound to go to Communion once a year, at Easter, each one in his own parish; and also when in danger of death. 御聖体を拝領する義務があるのは、少なくとも、年に一度、復活祭の頃のほか、生命の危うい時です。
647 D. In quale età comincia ad obbligare il comandamento della Comunione pasquale? A quel âge commence à obliger le commandement de la Communion pascale ? 52 Q. At what age does the precept of paschal Communion begin to bind? 648 少なくとも毎年一度、復活祭の頃に御聖体を拝領する義務が生ずるのは何才からですか。
R. Il comandamento della Comunione pasquale comincia ad obbligare nell'età in cui il fanciullo è capace di accostarvisi con le dovute disposizioni. Le commandement de la Communion pascale commence à obliger à l’âge où l’enfant est capable de s’en approcher avec les dispositions requises. A. The precept of paschal Communion begins to bind as soon As a child is capable of receiving with the requisite dispositions. 少なくとも毎年一度、復活祭の頃に御聖体を拝領する義務が生ずるのは、物事をわきまえる年令に達した時です。 
648 D. Peccano coloro che hanno l'età capace per essere ammessi alla comunione e non si comunicano? Ceux qui ont l’âge d’être admis à la Communion et qui ne communient pas pèchent-ils ? 53 Q. Do they sin who are old enough to receive Communion And do not? 649 御聖体を拝領できる年令に達しているのに、御聖体の秘跡にあずからない者は罪を犯しますか。
R. Coloro che, avendo l'età capace per essere ammessi alla Comunione, non si comunicano, o perché non vogliono, o perché non sono per loro colpa istruiti, peccano senza dubbio. Peccano altresi i loro genitori, o chi ne fa le veci, se la dilazione della Comunione avviene per loro colpa, e ne dovranno rendere gran conto a Dio. Ceux qui, ayant l’âge d’être admis à la Communion, ne communient pas, ou parce qu’ils ne veulent pas ou parce que, par leur faute, ils ne sont pas instruits, pèchent certainement. Leurs parents ou ceux qui les remplacent pèchent de leur côté si le retard de la Communion arrive par leur faute et ils devront en rendre un grand compte à Dieu. A. They who are old enough to receive Communion and do not either because they are unwilling, or because, through their own fault, they are not instructed, undoubtedly sin. Their parents or guardians also sin if the delay of Communion is owing to their fault, and they shall have to render a strict account to God for it. 御聖体を拝領できる年令に達しているのに、拝領するのを望まないためとか、自己の怠慢から教えを知らないためにこの秘跡にあずからない者は、罪を犯すことになります。さらに両親やその代りをする人も、自分のせいで子供の聖体拝領を遅らせるなら罪を犯すことになり、天主の御前できびしく責任を問われるでしょう。 
649 D. E cosa buona ed utile comunicarsi spesso? Est-il bon et utile de communier souvent ? 54 Q. Is it a good and useful thing to go often to Communion? 650 しばしば御聖体を拝領するのはよいことですか。
R. E cosa ottima il comunicarsi spesso, purché si faccia con le disposizioni dovute. Il est très bon de communier souvent, et même chaque jour, selon le désir de l’Église, pourvu qu’on le fasse avec les dispositions requises. A. It is an excellent thing to go to Communion often, and even daily in accordance with the desire of the Church, provided we do so with the requisite dispositions. ふさわしい準備をしている限り、しばしば御聖体を拝領するのはこの上なくすばらしいことです。  
650 D. Con quale frequenza si puo andare alla Comunione? Avec quelle fréquence peut-on s’approcher de la sainte Table ? 55 Q. How often may we go to Holy Communion? 651 しばしば御聖体拝領をするとはどういうことですか。
R. Ciascuno puo andare alla Comunione con quella maggior frequenza che gli sia consigliata da un pio e dotto confessore. On peut s’approcher de la sainte Table aussi souvent que le conseil en est donné par un pieux et docte confesseur. A. We may go to Holy Communion as often as we are advised to do so by a pious and learned confessor. 信者はたびたび、できれば毎日、御聖体拝領するよう勧められていますが、各自、聴罪司祭に相談の上決めるのが良いでしょう。

聖ピオ十世教皇「公教要理詳解 カトリックの教えとその主な部分」の秘蹟の部分 第四章 御聖体: 御聖体の秘跡の制定と効果

2019年03月12日 | カトリックとは
§ 2. Della istituzione e degli effetti del sacramento dell' Eucaristia. § 2. L’institution et les effets du sacrement de l’Eucharistie. The Institution and Effects of the Sacrament of the Eucharist Ⅱ御聖体の秘跡の制定と効果
622 D. In qual tempo Gesù Cristo ha istituito il sacramento dell'Eucaristia? Quand est-ce que Jésus-Christ a institué le sacrement de l’Eucharistie ? 27 Q. When did Jesus Christ institute the sacrament of the Eucharist? 624 イエズス・キリストはいつ御聖体の秘跡を制定なさいましたか。
R. Gesù Cristo ha istituito il sacramento della Eucaristia nell' ultima cena, che fece co' suoi discepoli la sera avanti la sua passione. Jésus-Christ a institué le sacrement de l’Eucharistie dans la dernière cène qu’il fit avec ses disciples, le soir qui précéda sa passion. A. Jesus Christ instituted the sacrament of the Eucharist at the last supper, which He took with His disciples, the evening before His passion. イエズス・キリストは、御受難の前夜、最後の晩餐のときに、御聖体の秘跡を制定なさいました。
623 D. Perché Gesù Cristo ha istituito la santissima Eucaristia? Pourquoi Jésus-Christ a-t-il institué la très sainte Eucharistie ? 28 Q. Why did Jesus Christ institute the Most Holy Eucharist? 625 なぜ御聖体の秘跡をお定めになりましたか。
R. Gesù Cristo ha istituito la santissima Eucaristia per tre principali ragioni:1.° Perché sia sacrificio della nuova legge. 2.° Perché sia cibo dell'anima nostra. 3.° Perché sia un perpetuo memoriale di sua passione e morte, ed un pegno prezioso dell'amor suo verso di noi, e della vita eterna. Jésus-Christ a institué la très sainte Eucharistie pour trois raisons principales : 1 pour qu’elle soit le sacrifice de la nouvelle loi ; 2 pour qu’elle soit la nourriture de notre âme ; 3 pour qu’elle soit un mémorial perpétuel de sa passion et de sa mort, et un gage précieux de son amour envers nous et de la vie éternelle. A. Jesus Christ instituted the Most Holy Eucharist for three principal reasons: (1) To be the Sacrifice of the New Law; (2) To be the food of our souls; (3) To be a perpetual memorial of His passion and death and a precious pledge both of His love for us and of eternal life. イエズス・キリストが御聖体の秘跡をお定めになった主な目的は次の三つです。①[御聖体が]新約の犠牲となるため、②信者の霊魂の糧となるため、③御受難と御死去の永遠の記念となり、主の私たちへの愛と永遠の生命のすばらしい保証となるためです。
624 D. Perché Gesù Cristo istitui questo sacramento sotto le specie del pane e del vino? Pourquoi Jésus-Christ a-t-il institué ce sacrement sous les espèces du pain et du vin ? 29 Q. Why did Jesus Christ institute this sacrament under the appearances of bread and wine? 626 なぜイエズス・キリストはこの秘跡をパンとぶどう酒との外観のもとにお定めになりましたか。
R. Gesù Cristo istitui questo sacramento sotto le specie del pane e del vino, perché l'Eucaristia doveva essere nostro nutrimento spirituale, ed era percio conveniente che ci venisse data in forma di cibo e di bevanda. Jésus-Christ a institué ce sacrement sous les espèces du pain et du vin, parce que l’Eucharistie devait être notre nourriture spirituelle et qu’il était par suite convenable qu’elle nous fût donnée sous forme d’aliment et de breuvage. A. Jesus Christ instituted this sacrament under the appearances of bread and wine, because, the Eucharist being intended to be our spiritual nourishment, it was therefore fitting that it should be given to us under the form of food and drink. イエズス・キリストがこの秘跡をパンとぶどう酒との外観のもとにお定めになったのは、御聖体は霊的な糧となるはずであり、そのためには、食物と飲物という形で与えられるのがふさわしかったからです。
625 D. Quali effetti produce in noi la santissima Eucaristia? Quels effets produit en nous la très sainte Eucharistie ? 30 Q. What are the effects which the Most Holy Eucharist produces in us? 627 御聖体の効果は何ですか。
R. Gli effetti principali che la santissima Eu­caristia produce in chi la riceve degnamente sono questi: 1.° conserva ed accresce la vita dell'anima che è la grazia, come il cibo materiale sostiene ed accresce la vita del corpo; 2.° rimette i peccati veniali e preserva dai mortali; 3.° produce spirituale consolazione. Voici les principaux effets que produit la très sainte Eucharistie en celui qui la reçoit dignement : l elle conserve et accroît la vie de l’âme qui est la grâce, comme la nourriture matérielle soutient et accroît la vie du corps ; 2 elle remet les péchés véniels et préserve des péchés mortels ; 3 elle produit la consolation spirituelle. A. The principal effects which the Most Holy Eucharist produces in those who worthily receive it are these: (1) It preserves and increases the life of the soul, which is grace, just as natural food sustains and increases the life of the body; (2) It remits venial sins and preserves us from mortal sin; (3) It produces spiritual consolation. 御聖体をふさわしく受ける人には次のような主要な効果があります。①食物が身体を維持し成長させるように、御聖体は、霊魂の生命、すなわち恩寵を保ち、増します②小罪をゆるし、私たちが大罪を犯さないように防ぎます。③霊的な慰めを与えます。
626 D. La santissima Eucaristia non produce in noi altri effetti? La très sainte Eucharistie ne produit-elle pas en nous d’autres effets ? 31 Q. Does not the Most Holy Eucharist produce other effects in us? 628 ほかにも御聖体の効果がありますか。
R. Si, la santissima Eucaristia produce in noi altri tre effetti, cioè: 1.° indebolisce le nostre passioni, ed in ispecie ammorza in noi le fiamme della concupiscenza; 2.° accresce in noi il fervore della carità verso Dio e verso il prossimo e ci aiuta ad operare in uniformità ai desideri di Gesù Cristo; 3.° ci dà un pegno della gloria futura e della stessa risurrezione del nostro corpo. Si, la très sainte Eucharistie produit encore en nous trois autres effets, à savoir : 1 elle affaiblit nos passions et, en particulier, elle amortit en nous le feu de la concupiscence ; 2 elle accroît en nous la ferveur et nous aide à agir en conformité avec les désirs de Jésus-Christ ; 3 elle nous donne un gage de la gloire future et de la résurrection de notre corps. A. Yes; the Most Holy Eucharist produces three other effects in (1) It weakens our passions, and in particular it allays in us the fires of concupiscence; (2) It increases in us the fervour of charity towards God and our neighbour, and aids us to act in conformity with the will of Jesus Christ; (3) It gives us a pledge of future glory and of the resurrection of our body. 御聖体には、このほかにも次のような効果があります。①私たちの情念、特に私たちの中の情欲の炎を抑え、②天主と隣人への愛を増し、イエズス・キリストの御旨にかなうように私たちが行動するように助け、③将来の天国の栄光と私たちの肉体の復活との保証を与えます。
§ 3. - Delle disposizioni necessarie per ben comunicarsi. § 3. Les dispositions nécessaires pour bien communier. The Dispositions necessary to Receive Holy Communion worthily  Ⅲ 聖体拝領の準備
627 D. Il sacramento dell'Eucaristia produce sempre in noi i suoi meravigliosi effetti? Le sacrement de l’Eucharistie produit-il toujours en .nous ses merveilleux effets ? 32 Q. Does the sacrament of the Eucharist always produce its marvellous effects in us? 629 御聖体の秘跡は、いつも私たちにおいてそのすばらしい効果をもたらしますか。
R. Il sacramento dell'Eucaristia produce in noi i suoi meravigliosi effetti, quando si riceve con le dovute disposizioni. Le sacrement de l’Eucharistie produit en nous ses merveilleux effets quand il est reçu avec les dispositions nécessaires. A. The sacrament of the Eucharist produces its marvellous effects in us when it is received with the requisite dispositions 御聖体の秘跡は、しかるべき準備をして受けるかぎり、私たちにおいてそのすばらしい効果をもたらします。
628 D. Quante cose sono necessarie per fare una buona Comunione? Combien de choses sont nécessaires pour faire une bonne Communion ? 33 Q. What conditions are necessary to make a good Communion? 630 よい聖体拝領をするにはどんな準備が必要ですか。
(*) R. Per fare una buona Comunione sono necessarie tre cose; 1.° essere in grazia di Dio; 2.° esser e digiuno dalla mezzanotte fino all'atto della Comunione; 3.° sapere che cosa si va a ricevere e accostarsi alla santa Comunione con divozione. Pour faire une bonne Communion trois choses sont nécessaires : 1 être en état de grâce ; 2 être à jeun depuis minuit jusqu’au moment de la Communion ; 3 savoir ce qu’on va recevoir et s’approcher de la sainte Communion avec dévotion. A. To make a good communion three conditions are necessary: (1) To be in the grace of God (2) To be fasting from midnight until the moment of Holy Communion; (3) To know what we are about to receive, and to approach Holy Communion devoutly.  よい聖体拝領をするには、次の三つの準備が必要です。①成聖の恩寵にあること、②聖体拝領の時まで真夜中から断食をしていること、③私たちが何を拝領しようとしているかをよく自覚し、信心深く御聖体に近づくことです。
* * [The fast from midnight was the old Eucharistic discipline. In view of evening Masses which became more frequent at his time, Pope Pius XII gave permission to reduce the fast to three hours for solid food and alcoholic drink, and to one hour for non-alcoholic drink (Christus Dominus, 6 Jan. 1953). Later, Pope Paul VI reduced the fast to one hour for everything (see 1983 Code #919). This last regulation practically reduces fasting to nothing! Thus the faithful are encouraged to follow the old rules of fast for morning Masses, and Pope Pius XII's regulations for later Masses, keeping the spirit of the Church as Pope Pius XII wrote: "We intend by this Apostolic Letter to confirm the full force of the law and custom concerning the Eucharistic fast; and We also wish to remind those who are able to comply with that law, that they diligently continue to do so, so that only those who need these concessions may make use of them, according to their need.' (Ibid.)] [注:真夜中からの断食は、昔の御聖体に対する断食の規定だった。ピオ十二世は、夕方のミサの為に聖体拝領の断食を、固形の食べ物とアルコール飲料については三時間前まで、アルコール以外の飲料水は一時間前までにすることを許した(Christus Dominus 1953年1月6日付け)。後にパウロ六世はこの断食を一時間前までにした(1983年の教会法919条)。しかしこれでは断食は意味を失ってしまっている。従って、朝のミサに与る信徒たちは古い規定に従い、夕方のミサに与る場合にはピオ十二世の規律に従うように勧められている。こうすることによって教会の精神を守ることが出来る。ピオ十二世が既に指摘したとおり「私はこの使徒的書簡によって、御聖体の断食に関する掟を習慣が効力を持っていることを確認する。私は次のことを思い出させたい。古い掟を守ることが出来る人々は注意深くそうし続けるように、と。それは今回の譲歩を必要とする人々だけが、彼らの必要に従って、この譲歩を使うことが出来る為である。」
629 D. Che cosa vuoi dire essere in grazia di Dio? Qu’est-ce qu’être en état de grâce ? 34 Q. What is meant by being in the grace of God? 631 成聖の恩寵にあるとはどんなことですか。
R. Essere in grazia di Dio vuoi dire: avere la coscienza pura e monda da ogni peccato mortale. Être en état de grâce, c’est avoir la conscience pure de tout péché mortel. A. To be in the grace of God means to have a pure conscience and to be free from every mortal sin. 成聖の恩寵にあるとは、いかなる大罪からも清められた潔白な良心を持っていることです。
630 D. Chi sa di essere in peccato mortale, che cosa deve fare prima di comunicarsi? Que doit faire, avant de communier, celui qui sait être en état de péché mortel ? 35 Q. What should one who knows that he is in mortal sin do before receiving Communion? 632 大罪の状態にいると自覚している人は聖体拝領の前に何をすべきですか。
R. Chi sa di essere in peccato mortale, deve prima di comunicarsi fare una buona confessione; non bastando l'atto di contrizione perfetta, senza la confessione, a chi è in peccato mortale per Comunicarsi come conviene. Celui qui sait être en état de péché mortel, doit, avant de communier, faire une bonne confession ; car l’acte de contrition parfaite, sans la confession, ne suffit pas à celui qui est en état de péché mortel pour communier comme il faut. A. One who knows that he is in mortal sin must make a good confession before going to Holy Communion, for even an act of perfect contrition is not enough without confession to enable one who is in mortal sin to receive Holy Communion properly. 大罪の状態にいると自覚している人は、聖体拝領の前によい告解をしなければなりません。完全な痛悔をしても告解の秘跡を受けない限り、大罪の状態にある人がふさわしいやり方で御聖体を拝領するには充分でないからです。
631 D. Perché non basta neppure l'atto di contrizione perfetta a chi sa di essere in peccato mortale, per potersi comunicare? Pourquoi l’acte de contrition parfaite ne suffit-il pas, quand on est en état de péché mortel, pour pouvoir communier ? 36 Q. Why does not even an act of perfect contrition suffice to enable one who knows he is in mortal sin to go to Communion? 633 大罪を犯したと自覚する人が聖体拝領をするためには、なぜ完全な痛悔だけでは充分でないのですか。
R. Perché la Chiesa ha stabilito, per rispetto a questo sacramento, che chi é colpevole di peccato mortale non ardisca di fare la Comunione se prima non si e confessato. Parce que l’Église a établi, par respect pour ce sacrement, que celui qui est coupable de péché mortel n’aille pas faire la sainte Communion si, auparavant, il ne s’est pas confessé. A. Because the Church, out of respect for this sacrament, has ordained that no one in mortal sin should dare to go to Communion without first going to confession. この秘跡に最高の崇敬を払うために、大罪を犯している人は告解してからでなければこの秘跡にあずかることはできないと教会が定めたからです。
632 D. Chi si comunicasse in peccato mortale riceverebbe Gesù Cristo? Celui qui communierait en état de péché mortel recevrait-il Jésus-Christ ? 37 Q. Does he who goes to Communion in mortal sin receive Jesus Christ? 634 大罪の状態のまま聖体拝領をする人は、イエズス・キリストを受けますか。
R. Chi si comunicasse in peccato mortale, riceverebbe Gesù Cristo, ma non la sua grazia, anzi commetterebbe sacrilegio e si farebbe meritevole della sentenza di dannazione. Celui qui communierait en état de péché mortel recevrait Jésus-Christ, mais il ne recevrait pas sa grâce ; il commettrait même un sacrilège et encourrait la sentence de damnation. A. He who goes to Communion in mortal sin receives Jesus Christ but not His grace; moreover, he commits a sacrilege and renders himself deserving of sentence of damnation. 大罪を犯したまま聖体拝領をする人もイエズス・キリストを受けますが、その恩寵は受けません。そればかりか、汚聖の罪を犯し、永遠の罰に価する者となります。
633. D. Qual'è il digiuno che si richiede prima della Comunione? Quel est le jeûne requis avant la Communion ? 38 Q. What sort of fast is required before Communion? 635 御聖体拝領前の断食とは何ですか。
(*) R. Prima della Comunione si richiede il digiuno naturale, il quale si rompe per ogni piccola cosa che si prenda per modo di cibo o di bevanda. Le jeûne requis avant la Communion est le jeûne naturel, qui est rompu par la moindre chose prise par manière d’aliment ou de breuvage. A. Before communion there is required a natural fast which is broken by taking the least thing by way of food or drink. 御聖体拝領の前には、食べ物や飲み物を少しも取らないという自然な断食を守らねばなりません。 
634 D. Se uno inghiottisce qualche cosa rimasta fra i denti o qualche goccia d'acqua entratagli in bocca, si puo ancora comunicare? Celui qui avale quelque chose resté dans les dents ou quelque goutte d’eau entrée dans la bouche, peut-il encore communier ? 39 Q. If one were to swallow a particle that had remained between the teeth, or a drop of water while washing, might he still go to Communion? (*) もしも歯の間に挟まった食べ滓、口の中に入った水滴を飲み込んでしまっても、御聖体拝領に行くことが許されますか?
(*) R. Chi inghiottisse qualche cosa rimasta fra i denti, o qualche goccia d'acqua nel lavarsi. si puo ancora comunicare; perché allora queste cose o non si prendono per modo di cibo o di bevanda, o ne hanno già perduta la natura. Celui qui avale quelque chose resté dans les dents ou quelque goutte d’eau en faisant sa toilette, peut encore communier ; parce qu’alors, ou bien ces choses ne sont pas prises par manière d’aliment ou de breuvage, ou bien elles en ont perdu la nature. A. If one were to swallow a particle that had remained between the teeth, or a drop of water while washing, he might still go to Communion, because in both cases these things would either not be taken as food or drink, or they would have already lost the nature of either. もしも歯の間に挟まった食べ滓、口の中に入った水滴を飲み込んでしまっても、御聖体拝領に行くことが許されます。何故ならこれらの場合、どちらも食事や飲料として取ったのではない、或いは、食事や飲料としての本性をすでに失っていたからです。
635 D. E mai permesso fare la Comunione senza essere digiuno? N’est-il jamais permis de communier sans être à jeun ? 40 Q. Is it ever allowed to go to Communion after having broken the fast? (*) 聖体拝領の前の断食をしないで聖体拝領をすることは許されていますか?
(*) R. Il fare la Comunione senza essere digiuno. é permesso agli infermi che sono in pericolo di morte e a chi ne ha ottenuta speciale facoltà dal Papa a cagione di prolungata infermità. La Comunione poi fatta dagli infermi in pericolo di morte, si chiama Viatico perché li sostenta nel viaggio che fanno da questa vita all'eternità. Communier sans être à jeun est permis aux malades qui sont en danger de mort, et à ceux qui ont obtenu une permission spéciale du Pape en raison d’une maladie qui se prolonge. La Communion faite par les malades en danger de mort s’appelle Viatique, parce qu’elle les soutient dans le voyage qu’ils font de cette vie à l’éternité. A. To go to Communion after having broken the fast is permitted to the sick, who are in danger of death, and to those who on account of prolonged illness have received a special dispensation from the Pope. Communion given to the sick in danger of death is called viaticum, because it supports them on their way from this life to eternity. 聖体拝領の前の断食をしないで聖体拝領をすることは、死の危険にある病人、そして長い病気のために教皇から特別の許可を得た人々には許されています。死の危険にある病人に与えられる聖体拝領は旅糧(ヴィアティクム)と呼ばれています。何故ならこの聖体拝領は病人が地上の生命から永遠にと旅立つのを支えるからです。
636 D. Che cosa vuoi dire: sapere cio che si va a ricevere? Que veulent dire ces mots : savoir ce qu’on va recevoir ? 41 Q. What is meant by the words: To know what we are about to receive? 637 「何を拝領するのかよく自覚する」とはどういう意味ですか。
R. Sapere cio che si va a ricevere, vuoi dire: conoscere quelle cose che s'insegnano intorno a questo sacramento nella Dottrina cristiana, e crederle fermamente. Savoir ce qu’on va recevoir, veut dire : connaître ce qu’enseigne la Doctrine chrétienne au sujet de ce sacrement et le croire fermement. A. To know what we are about to receive means to know and firmly believe what is taught in Christian doctrine concerning this sacrament. 「何を拝領するのかよく自覚する」とは、この秘跡に関するカトリックの教えをよく知り、固く信じることです。
637 D. Che cosa vuoi dire. comunicarsi con divozione? Que veut dire : communier avec dévotion ? 42 Q. What do the words: To receive Holy Communion with devotion mean? 638 「信心をもって御聖体を拝領する」とはどういう意味ですか。
R. Comunicarsi con divozione, vuol dire ac­costarsi alla santa Comunione con umiltà e modestia, si nella persona, come nei vestito; e fare la preparazione prima e il ringraziamento dopo la santa Comunione. Communier avec dévotion, c’est s’approcher de la sainte Communion avec humilité et modestie, dans sa personne comme dans ses habits, et faire la préparation avant la sainte Communion et l’action de grâces après. A. To receive Holy Communion with devotion means to approach Holy Communion with humility and modesty in person and dress; and to make a preparation before, and an act of thanksgiving after, Holy Communion. 「信心をもって御聖体を拝領する」とは、内的にも服装の上でも謙遜と慎しみをもって御聖体を受けることと、拝領前にはふさわしい準備をし、拝領後には感謝をささげることを意味します。
638 D. In che consiste la preparazione prima della Comunione? En quoi consiste la préparation avant la Communion ? 43 Q. In what does the preparation before Communion consist? 639 聖体拝領前の準備とはどんなことですか。
R. La preparazione prima della Comunione consiste in trattenersi per qualche tempo a considerare chi andiamo a ricevere e chi siamo noi; e in fare atti di fede, di speranza, di carità, di contrizione, di adorazione, di umiltà e di desiderio di ricevere Gesù Cristo. La préparation avant la Communion consiste à s’arrêter quelques instants à considérer qui nous allons recevoir et qui nous sommes ; et à faire des actes de foi, d’espérance, de charité, de contrition, d’adoration, d’humilité et de désir de recevoir Jésus-Christ. A. Preparation before Communion consists in meditating for some time on Whom we are about to receive, and on who we are; and in making acts of faith, hope, charity, contrition, adoration, humility, and desire to receive Jesus Christ. 聖体拝領前の準備とは、これから拝領するものが何であるか、また私たちは何者であるかをしばらくの間黙想し、信徳唱、望徳唱、愛徳唱、痛悔の祈り、「礼拝せん」、「けんそんの心を起こさん」、「望みをおこさん」などの祈りを心から唱えることです。
639 D. In che consiste il ringraziamento dopo la Comunione? En quoi consiste l’action de grâces après la Communion ? 44 Q. In what does the thanksgiving after Communion consist? 640 聖体拝領後の感謝の祈りとは何ですか。
R. Il ringraziamento dopo la Comunione consiste nel trattenerci raccolti ad onorare dentro di noi stessi il Signore; rinnovando gli atti di fede, di speranza, di carità, di adorazione, di ringraziamento, di offerta e di domanda, sopratutto di quelle grazie che maggiormente sono necessarie per noi e per coloro pei quali siamo obbligati a pregare. L’action de grâces après la Communion consiste à rester dans le recueillement, honorant la présence du Seigneur en nous et renouvelant les actes de foi, d’espérance, de charité, d’adoration, de remerciement, d’offrande et de demande, demandant surtout les grâces qui nous sont le plus nécessaires à nous et à ceux pour lesquels nous sommes obligés de prier. A. Thanksgiving after Communion consists in keeping ourselves recollected in order to honour the Lord who is within us; renewing our acts of faith, of hope, of charity, of adoration, of thanksgiving, of offerings, and of requests, especially for those graces which are most necessary for ourselves and for those for whom we are bound to pray. 聖体拝領後の感謝の祈りとは、潜心して、私たちの内においでになる主を礼拝し、信徳唱、望徳唱、愛徳唱、「礼拝せん」、「感謝せん」、「身を献げん」、「御恵みを願わん」などを祈り、自分と特に祈る必要のある人たちのために恩寵を乞い願うことです。
640 D. Che cosa si deve fare nel giorno della Comunione? Que doit-on faire le jour de la Communion ? 45 Q. What should we do during the day on which we have received Communion? 641 御聖体を拝領した日には何をすべきですか。
R. Nel giorno della Comunione si deve stare raccolti per quanto è possibile, occuparsi in opere di pietà e adempiere con maggiore diligenza i doveri del proprio stato. Le jour de la Communion on doit se tenir le plus possible dans le recueillement, s’occuper à des œuvres de piété et remplir avec un plus grand soin les devoirs de son état. A. During the day on which we have received Communion we should remain as recollected as possible, occupy ourselves in works of piety, and discharge the duties of our state with greater diligence. 御聖体を拝領した日には、できるだけ心を平静に保ち、信心のわざにはげみ、自分の本分の務めをよく果すべきです。
641 D. Dopo la santa Comunione quanto tempo resta in noi Gesù Cristo? Combien de temps Jésus-Christ reste-t-il en nous après la sainte Communion ? 46 Q. How long does Jesus Christ abide within us after Holy Communion? 642 御聖体拝領のあと、イエズス・キリストはどのくらい私たちの中に留まっておられますか。
R. Dopo la santa Comunione Gesù Cristo resta in noi con la sua grazia finché non si pecca mortalmente; e con la sua reale presenza resta in noi finché non si sono consumate le specie sacramentali. Après la sainte Communion Jésus-Christ reste en nous par sa grâce aussi longtemps que nous ne péchons pas mortellement ; et par sa présence réelle il reste tant que les espèces sacramentelles ne sont pas consommées. A. After Holy Communion Jesus Christ abides within us by His grace as long as we commit no mortal sin; and He abides within us by His Real Presence until the sacramental species are consumed. 御聖体拝領のあと、大罪を犯さない限り、イエズス・キリストは、その恩寵の働きによって、留まっておられますが、その現存はパンの外観が消えるまでです。

聖ピオ十世教皇「公教要理詳解 カトリックの教えとその主な部分」の秘蹟の部分 第四章 御聖体

2019年03月12日 | カトリックとは
CAPO IV. Dell' Eucaristia. Chapitre 4 : L’Eucharistie. The Blessed Eucharist 第四章 御聖体
§ 1. - Della natura dl questo sacramento e della presenza reale di Gesù Cristo nel medesimo. § 1. La nature de l’Eucharistie et la présence réelle de Jésus-Christ dans ce sacrement. The Nature of This Sacrament — The Real Presence Ⅰ御聖体の秘跡の本質とイエズス・キリストの現存
596 D. Che cosa è il sacramento dell' Eucaristia? Qu’est-ce que le sacrement d’Eucharistie ? 1 Q. What is the sacrament of the Eucharist? 598 御聖体の秘跡とは何ですか。
R. L' Eucaristia è un sacramento nel quale per l'ammirabile conversione di tutta la sostanza del pane nel Corpo di Gesù Cristo e di quella del vino nel suo prezioso Sangue, si contiene veramente, realmente e sostanzialmente il Corpo, il Sangue, l'Anima e la Divinità del medesimo Gesù Cristo Signor Nostro sotto le specie del pane e del vino per essere nostro nutrimento spirituale. L’Eucharistie est un sacrement qui, par l’admirable changement de toute la substance du pain au Corps de Jésus-Christ et de celle du vin en son Sang précieux, contient vraiment, réellement et substantiellement le Corps, le Sang, l’Âme et la Divinité de Jésus-Christ Notre Seigneur, sous les espèces du pain et du vin, pour être notre nourriture spirituelle. A. The Eucharist is a sacrament in which, by the marvellous conversion of the whole substance of bread into the Body of Jesus Christ, and that of wine into His precious Blood, is contained truly, really, and substantially, the Body, the Blood, the Soul and Divinity of the same Lord Jesus Christ, under the appearance of bread and wine as our spiritual food. 御聖体とは、パンの全実体がイエズス・キリストの御体に、そしてぶどう酒の全実体がイエズス・キリストの尊い御血にそれぞれ素晴らしくも変化することによって、私たちの霊的な糧としてパンとぶどう酒の外観のもとに、主イエズス・キリスト御自身の御体・御血・御霊魂・御神性が、真実に、現実に、実体的にまします秘跡です。
597 D. Vi è nell'Eucaristia lo stesso Gesù Cristo che è nel cielo e che nacque in terra dalla san­tissima Vergine? Y a-t-il dans l’Eucharistie le même Jésus-Christ qui est dans le ciel et qui est né de la très Sainte Vierge sur cette terre ? 2 Q. In the Eucharist is there the same Jesus Christ who is in heaven, and who was born on earth of the Blessed Virgin? 599 この地上において聖母マリアからお生まれになり、今は天においでになるイエズス・キリスト御自身が御聖体に現存しておられますか。
R. Si, nell'Eucaristia vi è veramente lo stesso Gesù Cristo che è nel cielo e che nacque in terra dalla santissima Vergine. Oui, dans l’Eucharistie, il y a vraiment le même Jésus-Christ qui est dans le ciel et qui est né de la Très Sainte Vierge sur la terre. A. Yes, in the Eucharist there is truly the same Jesus Christ who is in heaven, and who was born on earth of the Blessed Virgin. はい。御聖体において、今は天においでになり、地上において聖母マリアからお生まれになったイエズス・キリスト御自身が真実に現存しておられます。
598 D. Perché credete voi che nel sacramento della Eucaristia è veramente Gesù Cristo? Pourquoi croyez-vous que dans le sacrement de l’Eucharistie, Jésus-Christ est vraiment présent ? 3 Q. Why do you believe that in the Eucharist Jesus Christ is really present? 600 なぜあなたはイエズス・キリストが真実に御聖体の秘跡に現存しておられることを信じますか。
R. lo credo che nel sacramento dell'Eucaristia è veramente presente Gesù Cristo, perché lo ha detto Egli stesso, e me lo insegna la santa Chiesa. Je crois que, dans le sacrement de l’Eucharistie, Jésus-Christ est vraiment présent, parce que Lui-même l’a dit et que la sainte Église me l’enseigne. A. I believe that in the Eucharist Jesus Christ is truly present, because He Himself has said it, and holy Church teaches it. 私がイエズス・キリストが真実に御聖体の秘跡に現存しておられることを信じるのは、イエズス・キリスト御自身がそうおおせになり、聖なる教会もそう教えているからです。
599 D. Qual'è la materia del sacramento dell'Eucaristia? Quelle est la matière du sacrement de l’Eucharistie ? 4 Q. What is the matter of the sacrament of the Eucharist? 601 御聖体の秘跡の質料は何ですか。
R. La materia del sacramento dell'Eucaristia è quella adoperata da Gesù Cristo, cioè il pane di frumento ed il vino di vite. La matière du sacrement de l’Eucharistie est celle qui fut employée par Jésus-Christ, c’est-à-dire le pain de froment et le vin de la vigne. A. The matter of the sacrament of the Eucharist is that which was used by Jesus Christ Himself, that is, wheaten bread and wine of the vine. 御聖体の秘跡の質料は、イエズス・キリストがお使いになったのと同じもの、すなわち小麦から作ったパンとぶどう酒です。
600 D. Qual'è la forma del sacramento dell'Eucaristia? Quelle est la forme du sacrement de l’Eucharistie ? 5 Q. What is the form of the sacrament of the Eucharist? 602 御聖体の秘跡の形相は何ですか。
R. La forma del sacramento dell'Eucaristia consiste nelle parole usate da Gesù Cristo: questo è il mio Corpo, questo è il mio Sangue. La forme du sacrement de l’Eucharistie consiste dans les paroles employées par Jésus-Christ : " Ceci est mon Corps ; ceci est mon Sang ". A. The form of the sacrament of the Eucharist consists of the words used by Jesus Christ Himself: "This is My Body: This is My Blood." 御聖体の秘跡の形相は、イエズス・キリストがおおせになられた言葉、すなわち、「これは私の体である」と「これは私の血である」です。
601 D. Che cosa é dunque l'ostia prima della consacrazione? Qu’est-ce donc que l’hostie avant la consécration ? 6 Q. What is the host before consecration? 603 聖変化の前のホスチアは何ですか。
R. L'ostia prima della consacrazione è pane. L’hostie, avant la consécration, c’est du pain. A. The host before consecration is bread. 聖変化の前のホスチアは[単なる]パンです。
602 D. Dopo la consacrazione che cosa è l'ostia? Après la consécration qu’est l’hostie ? 7 Q. After consecration what is the host? 604 聖変化のあとのホスチアは何ですか。
R. Dopo la consacrazione l'ostia è il vero Corpo di Nostro Signor Gesù Cristo sotto le specie del pane. Après la consécration, l’hostie est le vrai Corps de Notre Seigneur Jésus-Christ sous les espèces du pain. A. After consecration the host is the true Body of our Lord Jesus Christ under the species of bread 聖変化のあとのホスチアは、パンの外観のもとにまします主イエズス・キリストのまことの御体です。
603 D. Nel calice prima della consacrazione che cosa vi è? Dans le calice avant la consécration, qu’y a-t-il ? 8 Q. What is in the chalice before consecration? 605 聖変化の前のカリス(聖杯)の中味は何ですか。
R. Nel calice prima della consacrazione vi è del vino con alcune gocce d'acqua. Dans le calice, avant la consécration, il y a du vin avec quelques gouttes d’eau. A. In the chalice before consecration there is wine with a few drops of water. 聖変化の前のカリス(聖杯)には、ぶどう酒と数滴の水が入っています。
604 D. Dopo la consacrazione che cosa è nel calice? Après la consécration, qu’y a-t-il dans le calice ? 9 Q. After consecration what is in the chalice? 606 聖変化のあとのカリスには何が入っていますか。
R. Dopo la consacrazione nel calice è il vero Sangue di Nostro Signore Gesù Cristo sotto le specie del vino. Après la consécration, dans le calice, il y a le vrai Sang de Notre Seigneur Jésus-Christ sous les espèces du vin. A. After consecration there is in the chalice the true Blood of our Lord Jesus Christ, under the species of wine. 聖変化のあとのカリスには、ぶどう酒の外観のもとにまします主イエズス・キリストの御血が入っています。
605 D. Quando si fa la conversione del pane nel Corpo, e del vino nel Sangue di Gesù Cristo? Quand se fait le changement du pain au Corps et du vin au Sang de Jésus-Christ ? 10 Q. When does the change of the bread into the Body and of the wine into the Blood of Jesus Christ take place? 607 いつパンがイエズス・キリスト御体に、ぶどう酒が御血に聖変化するのですか。
R. La conversione del pane nel Corpo, e del vino nel Sangue di Gesù Cristo si fa nell'atto stesso in cui il sacerdote, nella santa Messa, pronuncia le parole della consacrazione. Le changement du pain au Corps et du vin au Sang de Jésus-Christ se fait au moment même où le prêtre, pendant la sainte Messe, prononce les paroles de la consécration. A. The change of the bread into the Body and of the wine into the Blood of Jesus Christ is made in the very moment in which the priest pronounces the words of consecration during holy Mass. パンとぶどう酒とがそれぞれイエズス・キリストの御体と御血に聖変化するのは、司祭がミサ聖祭において聖変化のことばを唱えた瞬間です。
606 D. Che cosa è la consacrazione? Qu’est-ce que la consécration ? 11 Q. What is the consecration? 608 聖変化とは何ですか。
R. La consacrazione è la rinnovazione, per mezzo del sacerdote, del miracolo operato da Gesù Cristo nell'ultima cena di mutare il pane ed il vino nel suo Corpo e nel suo Sangue adorabile, dicendo: questo è il mio corpo, questo è il mio sangue. La consécration est le renouvellement, par le ministère du prêtre, du miracle opéré par Jésus-Christ changeant à la dernière Cène le pain et le vin en son Corps et en son Sang adorables par ces mots : " Ceci est mon Corps ; ceci est mon Sang ". A. The consecration is the renewal, by means of the priest, of the miracle wrought by Jesus Christ at the Last Supper, of changing bread and wine into His adorable Body and Blood by saying: "This is My Body: This is My Blood." 聖変化とは、イエズス・キリストが最後の晩餐で、「これは私の体である」、「これは私の血である」とおおせになり、パンとぶどう酒をそれぞれ尊い御体と御血に変えられた奇跡的な行いを司祭を通して再現することです。
607 D. Come è chiamata dalla Chiesa la miracolosa conversione del pane e del vino nel Corpo e nel Sangue di Gesù cristo? Comment l’Église appelle-t-elle le miraculeux changement du pain et du vin au Corps et au Sang de Jésus-Christ ? 12 Q. What does the Church call the miraculous change of bread and of wine into the Body and Blood of Jesus Christ? 609 パンとぶどう酒がイエズス・キリストの御体と御血に奇跡的に変化することを教会は何と呼びますか。
R. La miracolosa conversione, che ogni giorno si opera sui nostri altari, è chiamata dalla Chiesa transustanziazione. Le miraculeux changement qui s’opère chaque jour sur nos autels est appelé par l’Église transsubstantiation. A. The Church calls the miraculous change which is daily wrought upon our altars transubstantiation. 毎日私たちの祭壇で行なわれるこの奇跡的な変化を、教会は全実体変化と呼びます。
608 D. Chi ha dato tanta virtù alle parole della consacrazione? Qui a donné une telle puissance aux paroles de la consécration ? 13 Q. Who gave this great power to the words of consecration? 610 聖変化のことばにこれはどの力をお与えになったのはどなたですか。
R. Ha dato tanta virtù alle parole della consacrazione lo stesso Signor nostro Gesù Cristo, il quale è Dio onnipotente. C’est Notre Seigneur Jésus-Christ Lui-même, Dieu tout-puissant, qui a donné une telle puissance aux paroles de la consécration. A. Our Lord Jesus Christ Himself, who is Almighty God, gave this great power to the words of consecration. 聖変化のことばにこれほどの力をお与えになったのは、全能の天主であるイエズス・キリスト御自身です。
609 D. Dopo la consacrazione non resta niente del pane e del vino? Après la consécration ne reste-t-il rien du pain et du vin ? 14 Q. Is there nothing left of the bread and of the wine after consecration? 611 聖変化のあとにはパンとぶどう酒が何も残らないのですか。
R. Dopo la consacrazione restano soltanto le specie del pane e del vino. Après la consécration il reste seulement les espèces du pain et du vin. A. After consecration the species of the bread and of the wine alone are left. 聖変化のあとには、パンとぶどう酒の外観しか残りません。
610 D. Che cosa sono le specie del pane e del vino? Qu’appelle-t-on espèces du pain et du vin ? 15 Q. What are the species of the bread and of the wine? 612 パンとぶどう酒との外観とは何ですか。
R. Le specie sono la quantità e le qualità sensibili del pane e del vino, come la figura, il colore, il sapore. On appelle espèces la quantité et les qualités sensibles du pain et du vin comme : la forme, la couleur, la saveur. A. The species of the bread and of the wine are the quantity and sensible qualities of the bread and of the wine, such as the form, the colour, and the taste. パンとぶどう酒との外観とは、形や色や味など五感によって感じられるパンとぶどう酒の量や性質のことです。
611 D. In che maniera possono restare le specie del pane e del vino senza la loro sostanza? Comment les espèces du pain et du vin peuvent-elles rester sans leur substance ? 16 Q. How can the species of the bread and of the wine remain without their substance? 613 どのようにしてパンとぶどう酒の外観のみが、その実体なしに残るのですか。
R. Le specie del pane e del vino restano mirabilmente senza la loro sostanza, per virtù di Dio onnipotente. Les espèces du pain et du vin restent merveilleusement sans leur substance par la vertu du Dieu tout-puissant. A. The species of the bread and of the wine remain without their substance in a wonderful way by the power of God Almighty. パンとぶどう酒の外観のみが、その実体なしに残るのはすべて全能の天主の御力によるのです。
612 D. Sotto le specie del pane vi è solo il Corpo di Gesù Cristo, e sotto le specie del vino vi è solo il suo Sangue? Sous les espèces du pain n’y a-t-il que le Corps de Jésus-Christ, et sous les espèces du vin n’y a-t-il que son Sang ? 17 Q. Under the species of the bread is there only the Body of Jesus Christ and under the species of the wine only His Blood? 614 パンの外観のもとにはイエズス・キリストの御体のみ、そしてぶどう酒の外観のもとにはイエズス・キリストの御血のみが現存しますか。
R. Tanto sotto le specie del pane, quanto sotto le specie del vino vi è tutto Gesù Cristo vivente, in Corpo, Sangue, Anima e Divinità. Autant sous les espèces du pain que sous les espèces du vin, Jésus-Christ est vivant et tout entier dans son Corps, son Sang, son Âme et sa Divinité. A. Both under the species of the bread and under the species of the wine the living Jesus Christ is all present, with His Body, His Blood, His Soul and His Divinity. パンとぶどう酒とのいずれの外観のもとにも、生ける主イエズス・キリスト全体が、御体・御血・御霊魂・御神性をもって現存しておられます。
613 D. Mi sapreste dire perché tanto nell'ostia, quanto nel calice, vi è tutto Gesù Cristo? Sauriez-vous me dire pourquoi Jésus-Christ est tout entier aussi bien dans l’hostie que dans le calice ? 18 Q. Can you tell me why Jesus Christ is whole and entire both in the host and in the chalice? 615 なぜホスチアにも、カリスの中にも、イエズス・キリスト全体が現存しておられるのですか。
R. Tanto nell' ostia, quanto nel calice, vi è tutto Gesù Cristo, perché egli è nell'Eu­caristia vivo ed immortale come nel cielo; percio dove è il suo Corpo vi è anche il San­gue, l'Anima e la Divinità, e dove è il San­gue, vi è ancora il Corpo, l'Anima e la Divi­nità, essendo tutto questo inseparabile in Gesù Cristo. Jésus-Christ est tout entier aussi bien dans l’hostie que dans le calice parce que, dans l’Eucharistie, il est vivant et immortel comme dans le ciel. Par conséquent, là où est son Corps, il y a aussi son Sang, son Âme et sa Divinité ; et là où est son Sang, il y a aussi son Corps, son Âme et sa Divinité, car en Jésus-Christ tout cela est inséparable. A. Both in the host and in the chalice Jesus Christ is whole and entire, because He is living and immortal in the Eucharist as He is in heaven; hence where His Body is, there also are His Blood, His Soul, and His Divinity; and where His Blood is, there also are His Body, His Soul and His Divinity, all these being inseparable in Jesus Christ. ホスチアにも、カリスにもイエズス・キリスト全体がおられるのは、御聖体においてイエズス・キリストは、天国におけると同じように、生きておられ不死だからです。そのために、御体のましますところには、御血・御霊魂・御神性が共に、また、御血のいますところには、御体・御霊魂・御神性がともにおられます。イエズス・キリストにおいてはつねに御体・御血・御霊魂・御神性が共においでになります。
614 D. Quando Gesù è nell'ostia, cessa di essere in cielo? Quand Jésus-Christ est dans l’hostie, cesse-t-il d’être au ciel ? 19 Q. When Jesus Christ is in the host does He cease to be in heaven? 616 イエズス・キリストがホスチアに現存しておられるとき、天国にはおいでになりませんか。
R. Quando Gesù è nell' ostia, non cessa di essere in cielo, ma si trova nel medesimo tempo in cielo e nel santissimo Sacramento. Quand Jésus-Christ est dans l’hostie, il ne cesse pas d’être au ciel, mais il se trouve en même temps au ciel et dans le Très Saint Sacrement. A. When Jesus Christ is in the host He does not cease to be in heaven, but is at one and the same time in heaven and in the Blessed Sacrament. イエズス・キリストはホスチアに現存しておられても、同時に天国にもおいでになります。
615 D. Gesù Cristo si trova in tutte le ostie con­sacrate del mondo? Jésus-Christ se trouve-t-il dans toutes les hosties consacrées du monde ? 20 Q. Is Jesus Christ present in all the consecrated hosts in the world? 617 イエズス・キリストは、世界中で聖変化されたすべてのホスチアにおいでになりますか。
R. Si, Gesù Cristo si trova in tutte le ostie consacrate. Oui, Jésus-Christ se trouve dans toutes les hosties consacrées. A. Yes, Jesus Christ is present in all consecrated hosts in the world. はい。イエズス・キリストは聖変化後のすべてのホスチアにおいでになります。
616 D. Come puo essere che Gesù Cristo si trovi in tutte le ostie consacrate? Comment peut-il se faire que Jésus-Christ se trouve dans toutes les hosties consacrées ? 21 Q. How can Jesus Christ be present in all the consecrated hosts in the world? 618 どのようにイエズス・キリストは聖変化後のすべてのホスチアに現存することがおできになるのですか。
R. Gesù Cristo si trova in tutte le ostie consacrate, per onnipotenza di Dio, al quale niente è impossibile. Jésus-Christ se trouve dans toutes les hosties consacrées par la toute-puissance de Dieu à qui rien n’est impossible. A. Jesus Christ is present in all the consecrated hosts in the world by the Omnipotence of God, to whom nothing is impossible. 全能の天主に不可能なことはありません。この全能の力でイエズス・キリストは聖変化後のすべてのホスチアに現存することがおできになるのです。
617 D. Quando si rompe l'ostia, si rompe il Corpo di Gesù Cristo? Quand on divise l’hostie, divise-t-on le Corps de Jésus-Christ ? 22 Q. When the host is broken is the Body of Jesus Christ broken also? 619 ホスチアをさくとき、イエズス・キリストの御体もさかれますか。
R. Quando si rompe l'ostia, non si rompe il Corpo di Gesù Cristo, ma si rompono solamente le specie del pane. Quand on divise l’hostie on ne divise pas le Corps de Jésus-Christ, on divise seulement les espèces du pain. A. When the host is broken, the Body of Jesus Christ is not broken, but only the species of the bread are broken. ホスチアをさくとき、パンの外観が割れるだけで、イエズス・キリストの御体はさかれません。
618 D. In quale parte dell'ostia resta il Corpo di Gesù Cristo? Dans quelle partie de l’hostie reste le Corps de Jésus-Christ ? 23 Q. In which part of the host is the Body of Jesus Christ? 620 さいたホスチアのどの部分にイエズス・キリストがおられますか。
R. Il Corpo di Gesù Cristo, resta intiero in tutte le parti, nelle quali l'ostia è stata divisa. Le Corps de Jésus-Christ reste tout entier dans toutes les parties en lesquelles l’hostie a été divisée. A. The Body of Jesus Christ is entire in all the parts into which the host is broken. イエズス・キリストの御体全体は、さいたホスチアのどの部分にもおいでになります。
619 D. Gesù Cristo è tanto in un'ostia grande, quanto nella particella di un'ostia? Jésus-Christ est-il autant dans la parcelle d’une hostie que dans une grande hostie ? 24 Q. Is Jesus Christ just as much in a particle of a host as in a whole host? 621 イエズス・キリストは、大きなホスチアにも、ホスチアの一片にも同じようにおられますか。
R. Tanto in un'ostia grande, quanto nella particella di un'ostia, vi è il medesimo Gesù Cristo. Dans une grande hostie comme dans la parcelle d’une hostie, c’est toujours le même Jésus-Christ. A. Yes, the same Jesus Christ is just as much in a particle of a host as in a whole host. 大きなホスチアにも、ホスチアの一片にも、同じイエズス・キリストがおられます。
620 D. Per qual motivo si conserva nelle chiese la santissima Eucaristia? Pour quel motif conserve-t-on dans les églises la très sainte Eucharistie ? 25 Q. Why is the Most Blessed Eucharist preserved in our churches? 622 なぜ教会の中に御聖体を安置しますか。
R. La santissima Eucaristia si conserva nelle chiese affinché sia adorata dai fedeli, e portata agli infermi secondo il bisogno. On conserve dans les églises la très sainte Eucharistie pour qu’elle soit adorée par les fidèles et portée aux malades quand ils en ont besoin. A. The Most Blessed Eucharist is preserved in our churches that It may be adored by the faithful, and brought to the sick when necessary. 教会の中に御聖体を安置するのは、信者が礼拝し、必要なときに病人に授けることができるためです。
621 D. Si deve adorare l'Eucaristia? Doit-on adorer l’Eucharistie ? 26 Q. Ought the Eucharist to be adored? 623 御聖体を崇拝しなければなりませんか。
R. L'Eucaristia si deve adorare da tutti, perché contiene veramente, realmente e sostanzialmente lo stesso N. S. Gesù Cristo. L’Eucharistie doit être adorée de tout le monde parce qu’elle contient vraiment, réellement et substantiellement Notre Seigneur Jésus-Christ. A. The Eucharist ought to be adored by all, because it contains really, truly, and substantially, our Lord Jesus Christ Himself. 御聖体には、私たちの主イエズス・キリスト御自身が、真実に、現実に、実体的にましますから、崇拝しなければなりません。

四旬節第一主日の聖伝のミサ(トリエント・ミサ)の固有文をラテン語と日本語でご紹介します

2019年03月11日 | カトリックとは

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、
2019年3月10日は、四旬節第一主日(一級大祝日 紫)でした。聖伝のミサの固有文をラテン語と日本語でご紹介いたします。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

ミサ聖祭(指定巡礼聖堂。ラテラノの聖ヨハネ大聖堂)
四旬節第一主日は、かつては、四旬節の最初の日、第一日目であった。この日の密書はそれを明記している。“Sacrifícium quadragesimális inítii sollémniter immolámus.” (四旬節の最初のいけにえをわれらは荘厳に屠り奉る。)ローマでは、四旬節第一主日は、「至聖なる救い主の大聖堂」に奉献された、ラテラノの聖ヨハネ大聖堂で行われた。これは「至聖なる救い主の大聖堂」ともいわれ、カトリック全聖堂の母といわれている。一年の中でも大祝日の典礼は、この大聖堂で行われていた。復活の徹夜祭も、ここを指定巡礼教会として行われる。
ラテラノの大聖堂には、洗者聖ヨハネに捧げられた洗礼用聖堂があるが、洗者聖ヨハネは生涯、荒野で祈りと断食とで犠牲と苦行の生活を送った預言者であり、四旬節における私たちの模範である。また、私たちの主にして至聖なる救い主は、私たちに模範を示すために、荒野で四十日間厳しい断食を行い、天主の力で四十日間の断食を聖化した。最初のアダムは、エデンの楽園で禁断の木の実を取って食べて荒野に追放された。その時天主から「おまえは塵であり、塵に返ることを覚えよ」と言われた。(初代教会においては、四旬節の最初の日に、司教が公の罪人たちにこの同じ言葉を唱えつつ頭に灰を被せ、教会の外に連れて行った。罪人たちは四十日の厳しい苦行の後、聖木曜日に再び教会の中に入り聖体拝領することが許可された。)第二のアダムであるイエズスは、洗者聖ヨハネから洗礼を受けた直後、公生活の最初に、まず荒れ野に行って祈りと断食の苦行を捧げた。この地上での生活の最後には聖木曜日の夜にゲッセマニの園で祈り、聖母の胎内の実である御自分を十字架の木に付けるだろう。
四旬節第一主日のミサは、天主に対する信頼に満ちあふれている。信頼の典礼である。Qui hábitat in adiutório Altíssimi, in protectióne Dei cæli commorábitur. (いと高き者の助けにおいて住む者は、天の天主の保護において留まるだろう。)という節は、入祭唱、詠唱に繰り返される。また、Scápulis suis obumbrábit tibi Dóminus, et sub pennis eius sperábis : scuto circúmdabit te véritas eius.(主はその肩であなたのために陰をつくり給うだろう、その翼の下であなたは希望するだろう。主の真実は楯としてあなたを囲むだろう。)は、詠唱、奉献文、聖体拝領唱で繰り返される。キリストはサタンに勝利した。キリストとともに私たちも勝利することが出来る。キリストの力によって勝利することが出来る。私たちの復活の勝利は、キリストの勝利である。四旬節は救いの日である。恵みの時である。<書簡>聖霊に導かれ、世俗からはなれ、罪とたたかう決心をとろう。<福音書>この戦いにおいて、われらと共にたたかうのは、主とその天使である。<詠誦>

Dominica Prima in Quadragesima 四旬節第一主日
I Classis 一級
Statio ad S. Ioannem in Laterano 指定巡礼聖堂。ラテラノの聖ヨハネ大聖堂
Ant. ad Introitum. Ps. 90, 15 et 16. 入祭文 詩篇  90ノ15-16
Invocábit me, et ego exáudiam eum : erípiam eum, et glorificábo eum : longitúdine diérum adimplébo eum. 彼は私を呼び求めるだろう、すると私は彼の願いをきき入れるだろう。私は彼をすくい出し、彼に光栄を与えるだろう。日々の長きにおいて彼を満たすであろう。
Ps. ibid., 1. 詩篇  90ノ1
Qui hábitat in adiutório Altíssimi, in protectióne Dei cæli commorábitur. いと高き者の助けにおいて住む者は、天の天主の保護において留まるだろう。
V/.Glória Patri. V/. 願わくは、聖父と・・・(栄誦)。
Invocábit me, et ego exáudiam eum : erípiam eum, et glorificábo eum : longitúdine diérum adimplébo eum. 彼は私を呼び求めるだろう、すると私は彼の願いをきき入れるだろう。私は彼をすくい出し、彼に光栄を与えるだろう。日々の長きにおいて彼を満たすであろう。
Oratio. 集祷文
Deus, qui Ecclésiam tuam ánnua quadragesimáli observatióne puríficas : præsta famíliæ tuæ ; ut, quod a te obtinére abstinéndo nítitur, hoc bonis opéribus exsequátur. Per Dóminum. 天主よ、御身は、年毎の四旬節の勤めにより御身の教会を浄め給う。願わくは、御身の家族にこれを与え給え、断食によりて御身から得ようと努めることを、数々の善業によりて、これが実現せんことを。天主として(…)。
Léctio Epístolæ beáti Páuli Apóstoli ad Corínthios. 使徒聖パウロのコリント人への書簡の朗読
2 Cor. 6, 1-10. コリント後書 6ノ1-10
Fratres : Exhortámur vos, ne in vácuum grátiam Dei recipiátis. Ait enim : Témpore accépto exaudívi te, et in die salútis adiúvi te. Ecce, nunc tempus acceptábile, ecce, nunc dies salútis. Némini dantes ullam offensiónem, ut non vituperétur ministérium nostrum : sed in ómnibus exhibeámus nosmetípsos sicut Dei minístros, in multa patiéntia, in tribulatiónibus, in necessitátibus, in angústiis, in plagis, in carcéribus, in seditiónibus, in labóribus, in vigíliis, in ieiúniis, in castitáte, in sciéntia, in longanimitáte, in suavitáte, in Spíritu Sancto, in caritáte non ficta, in verbo veritátis, in virtúte Dei, per arma iustítiæ a dextris et a sinístris : per glóriam et ignobilitátem : per infámiam et bonam famam : ut seductóres et veráces : sicut qui ignóti et cógniti : quasi moriéntes et ecce, vívimus : ut castigáti et non mortificáti : quasi tristes, semper autem gaudéntes : sicut egéntes, multos autem locupletántes : tamquam nihil habéntes et ómnia possidéntes. 兄弟たちよ、私たちはあなたたちにすすめる、あなたたちが天主の恩寵を無駄に受けないようにと。「私は恵みの時にあなたの祈りを聞き入れた、救いの日にあなたを助けた」と主はいわれる。見よ、今は恵みのときである。見よ、今は救いの日である。いかなる躓きを誰にも与えないようにしつつ、それは、私たちの奉仕が侮辱されず、むしろ、すべてにおいて、私たちは自分を天主のしもべとして示すためだ、多くの忍耐においても、艱難においても、必要の時においても、苦悩においても、傷つけられたときも、牢においても、騒動においても、労働においても、徹夜においても、断食においても、貞潔においても、学識においても、堪忍において、仁慈においても、聖霊においても、いつわりのない愛においても、真理のことばにおいても、天主の力においても、左右にもつ正義の武器によって、名誉のときも、恥辱のときも、悪評のときも、好評のときも[自分を天主のしもべとして示す]。[私たちは]そそのかす者と思われても真実の者であり、無名の人のようであるが人に知られ、死につつある人のようであるが、見よ、生きており、罰をうける者のようであるが、殺されず、悲しむ者のようであるが、しかし常に喜んでおり、貧しい者のようであるが多くの人を富ませており、何ももたない者のようであるが、すべてを所有している。
Graduale. Ps. 90,11-1 2. 昇階誦 詩篇  90ノ11-12
Angelis suis Deus mandávit de te, ut custódiant te in ómnibus viis tuis. 天主は、その天使らに、あなたについて命じ給うた。天使らがあなたのすべての道においてあなたを守れと。
V/. In mánibus portábunt te, ne umquam offéndas ad lápidem pedem tuum. V/. [天使らは]あなたを手で支えるだろう。あなたの足が石につき当らぬように。
Tractus. Ibid., 1-7 et 11-16. 詠誦 詩篇  90ノ1-7, 11-16
Qui hábitat in adiutório Altíssimi, in protectióne Dei cæli commorántur. いと高き者の助けにおいて住む者は、天の天主の保護において留まるだろう。
V/. Dicet Dómino : Suscéptor meus es tu et refúgium meum : Deus meus, sperábo in eum. V/. 彼は主に言うだろう、御身は私の守り手であり、私のひなん所である。我が天主に、私は主に希望するだろう。
V/. Quóniam ipse liberávit me de láqueo venántium et a verbo áspero. V/. なぜなら主は私を、かりうどのわなから、そして悪しき言葉から守り給うたからである。
V/. Scápulis suis obumbrábit tibi, et sub pennis eius sperábis. V/. 主はその肩であなたのために陰をつくり給うだろう、そのつばさの下にあなたは希望するだろう。
V/. Scuto circúmdabit te véritas eius : non timébis a timóre noctúrno. V/. 主の真実は楯としてあなたを囲むだろう。あなたは夜の恐れを怖れないだろう。
V/. A sagítta volánte per diem, a negótio perambulánte in ténebris, a ruína et dæmónio meridiáno. V/. 昼に飛ぶ矢も、暗闇に歩き回る企みも、破壊も、また、昼の悪魔も[あなたは怖れないだろう]。
V/. Cadent a látere tuo mille, et decem mília a dextris tuis : tibi autem non appropinquábit. V/. あなたの[左の]傍らに千人がたおれ、あなたの右に万人がたおれる、しかしあなたには[悪が]近づかないだろう。
V/. Quóniam Angelis suis mandávit de te, ut custódiant te in ómnibus viis tuis. V/. 何故なら、主はその天使らに、あなたのすべての道を守れと命じ給うたからだ。
V/. In mánibus portábunt te, ne umquam offéndas ad lápidem pedem tuum. V/. [天使らは]あなたを手で支えるだろう。あなたの足が石につき当らぬように。
V/. Super áspidem et basilíscum ambulábis, et conculcábis leónem et dracónem. V/. あなたは、へびとまむしとの上を歩くだろう、獅子と龍とをふみくだくだろう。
V/. Quóniam in me sperávit, liberábo eum : prótegam eum, quóniam cognóvit nomen meum. V/. 何故なら彼は私に希望したので、私は彼を解放するだろう。私は保護しよう、彼は私の名前を認めたからだ。
V/. Invocábit me, et ego exáudiam eum : cum ipso sum in tribulatióne. V/. 彼は私を呼び求めるだろう、すると私は彼の願いをきき入れるだろう。艱難においても、私は彼と共にいる。
V/. Erípiam eum et glorificábo eum : longitúdine diérum adimplébo eum, et osténdam illi salutáre meum. V/. 私は彼をすくい出し、彼に光栄を与えるだろう。[人生の]日々の長きにおいて彼を満たすであろう。そして彼に私の救いを見せるだろう。
+ Sequéntia sancti Evangélii secundum Matthǽum. マテオによる聖福音の続誦
Matth. 4, 1-11. マテオ 4ノ1-11
In illo témpore : Ductus est Iesus in desértum a Spíritu, ut tentarétur a diábolo. Et cum ieiunásset quadragínta diébus et quadragínta nóctibus, postea esúriit. Et accédens tentátor, dixit ei : Si Fílius Dei es, dic, ut lápides isti panes fiant. Qui respóndens, dixit : Scriptum est : Non in solo pane vivit homo, sed in omni verbo, quod procédit de ore Dei. Tunc assúmpsit eum diábolus in sanctam civitátem, et státuit eum super pinnáculum templi, et dixit ei : Si Fílius Dei es, mitte te deórsum. Scriptum est enim : Quia Angelis suis mandávit de te, et in mánibus tollent te, ne forte offéndas ad lápidem pedem tuum. Ait illi Iesus : Rursum scriptum est : Non tentábis Dóminum, Deum tuum. Iterum assúmpsit eum diábolus in montem excélsum valde : et ostendit ei ómnia regna mundi et glóriam eórum, et dixit ei : Hæc ómnia tibi dabo, si cadens adoráveris me. Tunc dicit ei Iesus : Vade, Sátana ; scriptum est enim : Dóminum, Deum tuum, adorábis, et illi soli sérvies. Tunc relíquit eum diábolus : et ecce, Angeli accessérunt et ministrábant ei. そのとき、イエズスは、悪魔によって試みられるために、霊によって荒れ野にみちびかれた。四十日、四十夜断食してのち、飢えを感じられた。すると、試みる者が近づいて「あなたが天主の子なら、これらの石がパンになるように命じなさい」といった。主は答えて言った。「"人はパンだけで生きるのではない。天主の口から出る全てのことばによって生きる"と書かれてある」。そこで悪魔はイエズスを聖なる都につれて行き、神殿の頂上に立たせて、「あなたが天主の子なら、下に身を投げなさい。"何故なら主はあなたのためにその天使たちに命じた、天使たちは、あなたの足が石に打ちあたらないように手で支えるだろうから"と書かれている」といった。イエズスは「また"あなたの天主なる主を試みるな"とかかれてある」とお答えになった。悪魔は、また、かれを非常に高い山につれていき、世のすべての国とその栄華とを見せ、「あなたが、ひれ伏して私を礼拝するなら、これらを全てあなたに与えよう」といった。そのときイエズスは、「サタン、しりぞけ!"あなたの天主なる主を礼拝し、ただ天主にだけ仕えねばならない"と書かれてある」とおおせられた。そこで悪魔はイエズスをはなれ去った、すると見よ、天使たちが近づいてきて仕えていた。
Credo 信経
Ant. ad Offertorium. Ps. 90, 4-5. 奉献文 詩篇、90ノ4-5
Scápulis suis obumbrábit tibi Dóminus, et sub pennis eius sperábis : scuto circúmdabit te véritas eius. 主はその肩であなたのために陰をつくり給うだろう、その翼の下であなたは希望するだろう。主の真実は楯としてあなたを囲むだろう。
Secreta. 密誦
Sacrifícium quadragesimális inítii sollémniter immolámus, te, Dómine, deprecántes : ut, cum epulárum restrictióne carnálium, a noxiis quoque voluptátibus temperémus. Per Dóminum. 四旬節の最初のいけにえを、主よ御身に乞い願いつつ、われらは荘厳に屠り奉る、そは肉の食事を制限すると共に、有害な快楽からも我らが自制するためなり。天主として(…)。
Præfatio de Quadragesima. 四旬節の序誦
Ant. ad Communionem. Ps. 90,4-5. 聖体拝領誦 詩篇 90ノ4-5
Scápulis suis obumbrábit tibi Dóminus, et sub pennis eius sperábis : scuto circúmdabit te véritas eius. 主はその肩であなたのために陰をつくり給うだろう、その翼の下であなたは希望するだろう。主の真実は楯としてあなたを囲むだろう。
Postcommunio. 聖体拝領後の祈
Tui nos, Dómine, sacraménti libátio sancta restáuret : et a vetustáte purgátos, in mystérii salutáris fáciat transíre consórtium. Per Dóminum. 主よ、御身の秘蹟への聖なる参与が、我らを[力づけて]回復せんことを、また、古えの[我らの罪の]けがれより浄められ[たわれらを]、救霊の玄義において、共同所有者へと移行させんことを。天主として(…)。

聖ピオ十世教皇「公教要理詳解 カトリックの教えとその主な部分」の秘蹟の部分 第三章 堅振

2019年03月11日 | カトリックとは

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、
聖ピオ十世教皇が1905年に発行した「公教要理詳解 カトリックの教えとその主な部分」の秘蹟の部分をご紹介いたします。
イタリア語の原文は、聖職者聖省(CONGREGAZIONE PER IL CLERO)のウェブ・サイトに掲載されている "Catechismo Maggiore di S. Pio X"を利用しました。
フランス語版は、ブログLe Grand Catéchisme de saint Pie Xを参照しました。
英語は、EWTNのウェブ・サイトに掲載されているCATECHISM OF SAINT PIUS Xを使いました。
日本語は、「聖ピオ十世 公教要理詳解 カトリックの教えとその主な部分」を参考にして、なるべく原文に従って訳し直しました。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

CAPO III. Della Cresima o Confermazione. Chapitre 3 : La Confirmation. Chrism or Confirmation 秘跡について 第三章 堅振
577 D. Che cosa è il sacramento della Cresima? Qu’est-ce que le sacrement de Confirmation ? 1 Q. What is the sacrament of Confirmation? 578 堅振の秘跡とは何ですか。
R. La Cresima é un sacramento che ci dà lo Spirito Santo, imprime nell'anima nostra il carattere di soldato di Gesù Cristo, e ci fa perfetti cristiani. La Confirmation est un sacrement qui nous donne le Saint-Esprit, imprime dans notre âme le caractère de soldats du Christ et nous rend parfaits chrétiens. A. Confirmation is a sacrament which gives us the Holy Ghost, imprints on our souls the mark of a soldier of Jesus Christ, and makes us perfect Christians. 堅振とは、聖霊を授け、私たちの霊魂にイエズス・キリストの兵士としての印章を刻み付け、完全なキリスト信者にする秘跡です。
578 D. In qual maniera il sacramento della Cresima ci fa perfetti cristiani? Comment le sacrement de Confirmation nous rend-il parfaits chrétiens ? 2 Q. How does the sacrament of Confirmation make us perfect Christians? 579 どのようにして堅振の秘蹟は私たちを完全なキリスト信者にするのですか。
R. La Cresima ci fa perfetti cristiani, perché ci conferma nella fede e perfeziona le altre virtù e i doni che abbiamo ricevuti nel santo Battesimo; e percio si chiama Confermazione. La Confirmation nous rend parfaits chrétiens parce qu’elle nous confirme dans la foi et perfectionne les autres vertus et les dons que nous avons reçus dans le saint Baptême et c’est de là que lui vient son nom de Confirmation. A. The sacrament of Confirmation makes us perfect Christians by confirming us in the faith and perfecting the other virtues and gifts received in Baptism; hence it is called Confirmation. 堅振の秘蹟が私たちを完全なキリスト信者にするのは、これが私たちを信仰において固め、洗礼において受けた他の徳と賜物を完成させるからで、ここから堅振と言われています。
579 D. Quali sono i doni dello Spirito Santo, che si ricevono nella Cresima? Quels sont les dons du Saint-Esprit, qu’on reçoit dans la Confirmation ? 3 Q. What gifts of the Holy Ghost are received in Confirmation? 580 堅振において受ける聖霊の賜物とは何ですか。
R. I doni dello Spirito Santo, che si ricevono nella Cresima sono questi sette: Sapienza, Intelletto, Consiglio, Fortezza, Scienza, Pietà e Timor di Dio. Les dons du Saint-Esprit qu’on reçoit dans la Confirmation sont les sept suivants : la Sagesse, l’Intelligence, le Conseil, la Force, la Science, la Piété et la Crainte de Dieu. A. The gifts of the Holy Ghost received in Confirmation are these seven: Wisdom, Understanding, Counsel, Fortitude, Knowledge, Piety, and the Fear of the Lord. 堅振において受ける聖霊の賜物とは、上智、聡明、賢慮、剛毅、知識、孝愛、敬畏です。
580 D. Qual'è la materia di questo sacramento? Quelle est la matière de ce sacrement ? 4 Q. What is the matter of this sacrament? 581 この秘跡の質料は何ですか。
R. La materia di questo sacramento oltre l' imposizione delle mani del Vescovo, é la unzione fatta sulla fronte del battezzato col sacro Crisma; eppercio si chiama anche Cresima, cioè Unzione. La matière de ce sacrement, outre l’imposition des mains de l’Évêque, est l’onction faite sur le front du baptisé avec le saint Chrême : c’est pour cela qu’on l’appelle aussi Onction. A. The matter of this sacrament, besides the imposition of hands by the bishop, is the anointing of the forehead of the baptised with sacred chrism; and for this reason it is also called the sacrament of Chrism, that is Anointing. この秘跡の質料は、司教による接手と受ける人の額にする聖香油の塗油です。このためにクリスマ(塗油)の秘蹟とも言われています。
581 D. Che cosa è il sacro Crisma? Qu’est-ce que le saint Chrême ? 5 Q. What is sacred Chrism? 582 聖香油とは何ですか。
R. Il sacro Crisma è olio mischiato con balsamo, che il Vescovo ha consacrato il giovedi santo. Le saint Chrême est de l’huile d’olive mêlée avec du baume et consacrée par l’Évêque le Jeudi-Saint. A. Sacred Chrism is oil of olive mingled with balsam, and consecrated by the bishop on Holy Thursday. 聖香油とは、司教が聖木曜口に香(バルサム)を混ぜて聖別したオリーブ油のことです。
582 D. Che cosa significano l' olio e il balsamo in questo sacramento? Que signifient l’huile et le baume dans ce sacrement ? 6 Q. What do the oil and balsam in this sacrament signify? 583 この秘跡に用いられる油と香は何を示しますか。
R. In questo sacramento, l'olio che si espande e fortifica, significa la grazia abbondante, che si sparge nell'anima del cristiano per confermarlo nella fede: e il balsamo, che è odoroso e difende dalla corruzione, significa che il cristiano fortificato da questa grazia, è atto a dare buon odore di cristiane virtù e a preservarsi dalla corruzione dei vizi. Dans ce sacrement l’huile qui s’étend et fortifie, signifie l’abondance de la grâce qui se répand dans l’âme du chrétien pour le confirmer dans la foi ; et le baume, qui est odorant et préserve de la corruption, signifie que le chrétien, fortifié par cette grâce, est capable de répandre la bonne odeur des vertus chrétiennes et de se préserver de la corruption des vices. A. In this sacrament the oil, which is unctuous and strengthening, signifies the abounding grace which is diffused over the soul of the Christian to confirm him in his faith; and the balsam, which is fragrant and prevents corruption, signifies that the Christian, strengthened by this grace, is enabled to give forth a good odour of Christian virtue and preserve himself from the corruption of vice. この秘跡で注がれて強める油は、聖霊の恩寵がゆたかに注がれ、信仰をかためることを示します。一方、香り高く、腐敗することのない香は、堅振を受けた人が、恩寵に強められ、キリスト教的な徳の香りを放ち、悪徳による腐敗から逃れることを示します。
583 D. Qual'è la forma del sacramento della Cresima? Quelle est la forme du sacrement de Confirmation ? 7 Q. What is the form of the sacrament of Confirmation? 584 堅振の形相は何ですか。
(*) R. La forma del sacramento della Cresima èquesta: Io ti segno col segno della Croce e ti confermo col crisma della salute in nome del Padre e del Figliuolo e dello Spirito Santo, cosi sia. La forme du sacrement de Confirmation est celle-ci : " Je te signe du signe de la Croix et te confirme avec le Chrême du salut, au nom du Père et du Fils et du Saint-Esprit. Ainsi soit-il ". A. The form of the sacrament of Confirmation is this: "I sign thee with the Sign of the Cross, and I confirm thee with the chrism of salvation, in the Name of the Father, and of the Son, and of the Holy Ghost. Amen." 堅振の形相はこれです。「我は、十字架の印もて汝に印をし、救いの聖香油もて汝を固める、聖父と聖子と聖霊との聖名によりてアーメン。」
584 D. Chi è il ministro del sacramento della Cre­sima? Quel est le ministre du sacrement de Confirmation ? 8 Q. Who is the minister of the sacrament of Confirmation? 585 堅振の秘跡を授けるのはだれですか。
R. Il ministro ordinario del sacramento della Cresima è il solo Vescovo. Le ministre ordinaire du sacrement de Confirmation est l’Évêque seul. A. The ordinary minister of the sacrament of Confirmation is the bishop alone. 堅振の秘蹟の通常の聖務者は司教だけです。
585 D. Con qual rito il Vescovo amministra la Cresima? Avec quelles cérémonies l’Évêque administre-t-il la confirmation ? 9 Q. How does the bishop administer Confirmation? 586 どのようにして司教は堅振の秘跡を授けますか。
(*) R. Il Vescovo per amministrare il sacramento della Cresima, prima stende le mani sopra i cre­simandi, invocando sopra di loro lo Spirito Santo; poi fa un'unzione in forma di croce col sacro Crisma sulla fronte di ciascheduno, dicendo le parole della forma; indi con la sua destra dà un leggiero schiaffo sulla guancia del cresimato dicendogli: la pace sia teco; finalmente benedice solennemente tutti i cresimati. L’Évêque, pour administrer le sacrement de Confirmation, étend d’abord les mains sur les confirmands en invoquant sur eux le Saint-Esprit ; puis il fait une onction en forme de croix avec le saint Chrême sur le front de chacun, en disant les paroles de la forme ; ensuite, de la main droite, il donne un léger soufflet sur la joue du confirmé en lui disant : " La paix soit avec toi " ; enfin il bénit solennellement tous les confirmés. A. In administering the sacrament of Confirmation the bishop first stretches his hands over those to be confirmed, and invokes the Holy Ghost upon them; next, he anoints the forehead of each one with sacred chrism in the form of a cross, saying the words of the form; then he gives each one confirmed a light stroke on the cheek with his right hand, saying: Peace be with you; finally, he solemnly blesses all those he has confirmed. 司教は、堅振の秘蹟を執行しながら、まず、受堅者たちの上に延手し、彼らの上に聖霊を呼び求めます。次に司教はそれぞれの受堅者の額に聖香油を十字架の印に塗りながら、形相のことばを唱えます。そして司教は受堅者一人一人のほほを右手で軽く叩き「汝に平安あれ」と言います。最後に全ての受堅者たちを荘厳に祝福します。
586 D. Perché si fa l'unzione sulla fronte? Pourquoi l’onction est-elle faite sur le front ? 10 Q. Why is the anointing made on the forehead? 587 なぜ額に塗油しますか。
R. Si fa l' unzione sulla fronte, dove appariscono i segni del timore e del rossore, affinché il cresimato intenda che non deve arrossire del nome e della professione di cristiano, né aver paura dei nemici della fede. L’onction est faite sur le front, où apparaissent les signes de la crainte et de la honte, afin que le confirmé comprenne qu’il ne doit pas rougir du nom et de la profession de chrétien, ni avoir peur des ennemis de la foi. A. The anointing is made on the forehead, where signs of fear and shame appear, in order that he who is confirmed may understand that he should not blush at the name and profession of a Christian, nor fear the enemies of his faith. 額は恐れと恥しさのしるしのあらわれる部分ですから、額に塗油するのは、堅振を受ける人がキリスト信者の名と身分を恥じないだけでなく、信仰の敵を恐れることがないようにという意味です。
587 D. Perché si dà un leggiero schiaffo al cresimato? Pourquoi l’Évêque donne-t-il un léger soufflet au confirmé ? 11 Q. Why is a light stroke given to the person confirmed? 588 堅振を受ける人の頬を軽く打つのはなぜですか。
R. Si dà un leggiero schiaffo al cresimato perché sappia che deve esser pronto a soffrire ogni affronto e ogni pena per la fede di Gesù Cristo. L’Évêque donne un léger soufflet au confirmé pour qu’il sache qu’il doit être prêt à souffrir toute sorte d’affront et de peine pour la foi de Jésus-Christ. A. A light stroke is given to the person confirmed to show him that he should be ready to bear all insults and endure all sufferings for the faith of Jesus Christ. 堅振を受ける人の頬を軽く打つのは、イエズス・キリストヘの信仰のために受ける屈辱や労苦をおおしく耐え忍ぶべき覚悟をすることを教えるためです。
588 D. Devono tutti procurare di ricevere il sacramento della Cresima? Tout le monde doit-il faire en sorte de recevoir le sacrement de Confirmation ? 12 Q. Should all endeavour to receive the sacrament of Confirmation? 589 信者はみな堅振の秘跡を受けなければなりませんか。
R. Si, tutti devono procurare di ricevere il sacramento della Cresima e di farlo ricevere ai loro dipendenti. Oui, chacun doit faire en sorte de recevoir le sacrement de Confirmation et de le faire recevoir à ceux qui dépendent de lui. A. Yes, all should endeavour to receive the sacrament of Confirmation and to have those under them receive it. 信者はみな堅振の秘跡を受けなければなりません。また、目下の人にも受けさせるようにしなければなりません。
589 D. In quale età è bene ricevere il sacramento della Cresima? A quel âge est-il bon de recevoir le sacrement de Confirmation ? 13 Q. At what age is it advisable to receive the sacrament of Confirmation? 590 堅振の秘跡は何才のとき受けるのが望ましいですか。
(*) R. L'età, in cui è bene ricevere il sacramento della Cresima, è quella di anni sette circa; perché allora sogliono cominciare le tentazioni, e si puo abbastanza conoscere la grazia di questo sacramento, e ricordarsi d'averlo ricevuto. L’âge où il est bon de recevoir le sacrement de Confirmation est celui de sept ans environ ; parce qu’alors commencent habituellement les tentations et qu’on peut connaître suffisamment la grâce de ce sacrement et se rappeler qu’on l’a reçu. A. The age at which it is advisable to receive the sacrament of Confirmation is about the seventh year, because it is then that temptations usually begin, and the grace of the sacrament can be sufficiently discerned and a recollection be had of having received it.? 堅振の秘跡は七才ぐらいのとき受けるのが望ましいでしょう。それは七才ぐらいになれば、誘惑を感じ始めるのが普通である上に、秘跡の与える恩寵についても充分自覚でき、秘跡を受けたことをあとになっても憶えていることができるからです。
590 D. Quali disposizioni si ricercano per ricevere degnamente il sacramento della Cresima? Quelles dispositions faut-il pour recevoir le sacrement de Confirmation ? 14 Q. What dispositions are required to receive worthily the sacrament of Confirmation? 592 堅振を受けるにはどのような準備が必要ですか。
R. Per ricevere degnamente il sacramento della Cresima, bisogna essere in grazia di Dio, sapere i misteri principali di nostra santa fede e accostarvisi con riverenza e divozione. Pour recevoir dignement le sacrement de Confirmation, il faut être en état de grâce, savoir les principaux mystères de notre sainte foi, et s’en approcher avec respect et dévotion. A. To receive worthily the sacrament of Confirmation it is necessary to be in the grace of God; know the principal mysteries of our holy faith; and approach it with reverence and devotion. 聖振を受けるには、成聖の恩寵をもち、私たちの聖なる信仰の主要な奥義をよく学び、堅振の秘蹟に尊敬と信心をもって近づく必要があります。
591 D. Peccherebbe chi ricevesse la Cresima una seconda volta? Celui qui recevrait la Confirmation une seconde fois pécherait-il ? 15 Q. Would he who received Confirmation a second time be guilty of sin? 593 堅振を二度受けると罪になりますか。
R. Commetterebbe un sacrilegio, perché la Cresima é uno di quei sacramenti, che imprimono il carattere nell'anima, e che percio si possono ricevere una volta sola. Il commettrait un sacrilège, parce que la Confirmation est un de ces sacrements qui impriment un caractère dans l’âme et que, par suite, on ne peut recevoir qu’une fois. A. He would commit a sacrilege; because Confirmation is one of the sacraments that imprint a character on the soul and hence may be received only once. 堅振は霊魂に印章を刻み付ける秘跡の一つですから、一度だけしか受けることはできません。二度受ければ汚聖の罪を犯すことになります。
592 D. Che cosa deve fare il cristiano per conservare la grazia della Cresima? Que doit faire le chrétien., pour conserver la grâce de la Confirmation ? 16 Q. What should a Christian do to preserve the grace of Confirmation? 594 堅振で受けた恩憲を保つために何をすべきですか。
R. Per conservare la grazia della Cresima, il cristiano deve spesso pregare, fare buone opere, e vivere secondo la legge di Gesù Cristo, senza rispetti umani. Pour conserver la grâce de la Confirmation, le chrétien doit prier souvent, faire de bonnes œuvres, et vivre selon la loi de Jésus-Christ, sans respect humain. A. To preserve the grace of Confirmation a Christian should pray often, do good works, and live according to the laws of Jesus Christ, in spite of human respect. 堅振で受けた恩寵を保つためには、頻繁に祈り、善業を行ない、世間体を気にせずにイエズス・キリストの掟に従って生活しなければなりません。
593. D. Perché anche nella Cresima vi sono i padrini e le madrine? Pourquoi y a-t-il aussi des parrains et des marraines dans la Confirmation ? 17 Q. Why are there also godfathers and godmothers in Confirmation? 595 なぜ堅振にも代父母がありますか。
R. Affinché questi indirizzino con le parole e con gli esempi il cresimato nella via della salute e lo aiutino nella milizia spirituale. Afin que, par leurs paroles et leurs exemples, ils guident le confirmé dans la voie du salut et qu’ils le soutiennent dans le combat spirituel. A. In order that, by word and example, they may show the confirmed the way to eternal life and help him in the spiritual combat. それは、代父母がことばと模範によって、堅振を受ける人に救いの道を歩ませ、霊的な闘いにおいても助けるためです。
594 D. Quali condizioni si richiedono nel padrino? Quelles conditions sont requises dans le parrain ? 18 Q. What qualifications are required in sponsors? 596 代父母になる条件は何ですか。
R. Il padrino deve essere di età conveniente; cattolico, cresimato, istruito nelle cose più necessarie della religione, e di buoni costumi. Le parrain doit être d’âge convenable, catholique, confirmé, instruit des choses les plus nécessaires de la religion et de bonnes mœurs A. They should be of proper age, Catholics, confirmed, instructed in the necessary truths of religion, and persons of good life. 代父母は、役目にふさわしい年令に達している堅振を受けたカトリック信者で、キリストの教えを知り、キリスト教的な模範的な生括を送る人でなければなりません。
595 D. Il padrino della Cresima contrae alcuna parentela col cresimato e con i suoi genitori? Le parrain de la Confirmation ne contracte-t-il aucune parenté avec le confirmé et ses parents ? 19 Q. Does a sponsor in Confirmation contract any relationship with the confirmed and the parents of the confirmed? 597 代父母と堅振を受ける人との間に親族関係が生まれますか。
(*) R. Il padrino della Cresima contrae la medesima parentela spirituale di chi tiene a battesimo. Le parrain de la Confirmation contracte la même parenté spirituelle que celui du Baptême. A. The sponsor in Confirmation contracts the same spiritual relationship as is contracted in Baptism. 代父母と堅振を受ける人との間には、洗礼におけると同じ霊的な親族関係が生まれます。[ただし婚姻の障碍は生じない (can. 1079)。]

聖ピオ十世教皇「公教要理詳解 カトリックの教えとその主な部分」の秘蹟の部分  洗礼 Ⅴ 霊名と代父母

2019年03月11日 | カトリックとは

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、
聖ピオ十世教皇が1905年に発行した「公教要理詳解 カトリックの教えとその主な部分」の秘蹟の部分をご紹介いたします。イタリア語の原文は、聖職者聖省(CONGREGAZIONE PER IL CLERO)のウェブ・サイトに掲載されている "Catechismo Maggiore di S. Pio X"を利用しました。フランス語版は、ブログLe Grand Catéchisme de saint Pie Xを参照しました。
英語は、EWTNのウェブ・サイトに掲載されているCATECHISM OF SAINT PIUS Xを使いました。日本語は、「聖ピオ十世 公教要理詳解 カトリックの教えとその主な部分」を参考にして、なるべく原文に従って訳し直しました。

第二章 洗礼の続き Ⅴ   霊名と代父母からです。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

§ 5. - Nome e Padrini. § 5. Le nom et les parrains. Names and Sponsors Ⅴ   霊名と代父母
571 D. Perché s'impone il nome di un Santo a colui che si battezza? Pourquoi impose-t-on le nom d’un Saint à celui qu’on baptise ? 21 Q. Why is the name of a saint given to him who is being baptised? 572 なぜ受洗者は聖人の名をいただきますか。
R. A colui che si battezza s'impone il nome di un Santo per porlo sotto la speciale protezione di un celeste patrono ed animano ad imitarne gli esempi. On impose le nom d’un Saint à celui qu’on baptise pour le mettre sous la protection spéciale d’un patron céleste et pour l’animer à imiter ses exemples. A. To him who is being baptised is given the name of a saint in order to put him under the protection of a heavenly patron and to animate him to imitate that saint's example. 受洗者が聖人の名をいただくのは、天国の聖人の特別の保護のもとに置き、その模範に従うように励ますためです。
572 D. Chi sono i padrini e le madrine del Battesimo? Qu’est-ce que les parrains et marraines du Baptême ? 22 Q. Who are the godfathers and godmothers in Baptism? 573 洗礼の代父や代母とはだれですか。
(*) R. I padrini e le madrine del Battesimo sono quelle persone, che per disposizione della Chiesa tengono al sacro fonte i bambini, rispondono. in vece loro e si rendono garanti in faccia a Dio della loro cristiana educazione, specialmente se vi mancassero i genitori. Les parrains et les marraines du Baptême sont les personnes qui, par une disposition de l’Église, tiennent les enfants sur les fonts baptismaux, répondent pour eux et se rendent garants devant Dieu de leur éducation chrétienne, spécialement si les parents y manquaient. A. The godfathers and godmothers in Baptism are those persons who, in accordance with the decree of the Church, hold the infants at the font, answer for them, and become guarantees in the sight of God for their Christian education, especially in the absence of the parents. 洗礼の代父や代母とは、教会のきまりに従い、子供を洗礼盤に近づけて抱き、子供のかわりに返事をし、特に実の親のないとき、子供にキリスト教的教育を与えることを天主の御前に保証する人のことです。
573 D. Siamo noi obbligati a stare a quelle promesse e rinunzie che hanno fatto per noi i nostri padrini? Sommes-nous obligés de tenir les promesses et renonciations que nos parrains ont faites pour nous ? 23 Q. Are we obliged to keep the promises and renunciations made for us by our sponsors? 574 私たちのかわりに代父母がした約束や決意を守る義務は私たちにありますか。
R. Siamo obbligati senza dubbio a stare alle promesse e alle rinunzie che hanno fatto per noi i nostri padrini, perché Dio non ci ha ricevuti nella sua grazia che a queste condizioni. Nous sommes certainement obligés de tenir les promesses et renonciations que nos parrains ont faites pour nous, parce que Dieu ne nous a reçus dans sa grâce qu’à cette condition. A. We are certainly obliged to observe the promises and renunciations made for us by our sponsors, because it is only on this condition that God has received us into His grace. 私たちには、自分のかわりに代父母がした約束や決意を守る義務があります。それは天主がこの条件をつけて私たちを恩寵の状態に呼んで下さったからです。
574 D. Quali persone si debbono eleggere per padrini e madrine? Quelles personnes doit-on choisir pour parrains et marraines ? 24 Q. What sort of persons should be chosen as godfathers and godmothers? 575 どんな人を代父母に選ぶべきですか。
R. Si debbono eleggere per padrini e madrine persone cattoliche, di buoni costumi e ossequenti alle leggi della Chiesa. On doit choisir pour parrains et marraines des personnes catholiques, de bonnes mœurs et qui obéissent aux lois de l’Église A. There should be chosen as godfathers and godmothers Catholics of good life, and obedient to the laws of the Church. 代父母には、カトリック信者で、正しい生活をし、教会の掟を守る人を選ばなければなりません。
575 D. Quali sono le obbligazioni dei padrini e delle madrine? Quelles sont les obligations des parrains et des marraines ? 25 Q. What are the obligations of godfathers and godmothers?  576 代父母にはどんな義務がありますか。
R. I padrini e le madrine sono obbligati a procurare che i loro figli spirituali siano istruiti nelle verità della fede, e vivano da buoni cristiani, edificandoli col buon esempio. Les parrains et les marraines sont obligés d’avoir soin que leurs fils spirituels soient instruits des vérités de la foi et vivent en bons chrétiens, et de les édifier par leur bon exemple. A. Godfathers and godmothers are bound to see that their spiritual children are instructed in the truths of faith, and live as good Christians and they should edify them by their good example. 代父母は、よい模範を示して、受洗者が信仰の真理をよく知り、よきキリスト信者として生きるように助ける義務があります。
576 D. Quale vincolo contraggono i padrini del Battesimo? Quel lien contractent les parrains dans le Baptême ? 26 Q. What tie do sponsors contract in Baptism? 577 受洗者とその代父母との間には、どんな関係が生まれますか。
R. I padrini contraggono una parentela spirituale col battezzato e coi suoi genitori, la quale cagiona impedimento di matrimonio coi medesimi. Les parrains contractent une parenté spirituelle avec le baptisé et avec ses parents, d’où résulte un empêchement de mariage avec eux. A. Sponsors contract a spiritual relationship with the baptised and with the parents of the baptised, which causes an impediment to marriage with these persons. 受洗者と代父母との間には、霊的を親族関係が生まれます。この関係は両者の間での婚姻の禁止障害になります。

 

 


聖ピオ十世教皇「公教要理詳解 カトリックの教えとその主な部分」の秘蹟の部分  洗礼

2019年03月11日 | カトリックとは

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、
聖ピオ十世教皇が1905年に発行した「公教要理詳解 カトリックの教えとその主な部分」の秘蹟の部分をご紹介いたします。
イタリア語の原文は、聖職者聖省(CONGREGAZIONE PER IL CLERO)のウェブ・サイトに掲載されている "Catechismo Maggiore di S. Pio X"を利用しました。
フランス語版は、ブログLe Grand Catéchisme de saint Pie Xを参照しました。
英語は、EWTNのウェブ・サイトに掲載されているCATECHISM OF SAINT PIUS Xを使いました。
日本語は、「聖ピオ十世 公教要理詳解 カトリックの教えとその主な部分」を参考にして、なるべく原文に従って訳し直しました。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

CAPO II. Del Battesimo. Chapitre 2 : Le Baptême. Baptism 第二章 洗礼
§ 1. - Natura ed effetti del Battesimo. § 1. Nature et effets du baptême. Nature and Effects of Baptism Ⅰ  洗礼の本性と効果
551 D. Che cosa e il sacramento del Battesimo? Qu’est-ce que le sacrement de Baptême ? 1 Q. What is the sacrament of Baptism? 552 洗礼の秘跡とは何ですか。
R. Il Battesimo è il sacramento, pel quale rinasciamo alla grazia di Dio e diventiamo cristiani. Le Baptême est le sacrement par lequel nous renaissons à la grâce de Dieu et nous devenons chrétiens. A. Baptism is a sacrament by which we are born again to the grace of God, and become Christians. 洗礼とは、それによって私たちが天主の恩寵に新たに生まれ、キリスト信者となる秘跡です。
552 D. Quali sono gli effetti del sacramento del Battesimo? Quels sont les effets du sacrement de Baptême ? 2 Q. What are the effects of the sacrament of Baptism? 553 洗礼の秘跡の効果は何ですか。
R. Il sacramento del Battesimo conferisce la prima grazia santificante per la quale si cancella il peccato originale, ed anche l'attuale se vi è; rimette tutta la pena per essi dovuta; imprime il carattere di cristiani; ci fa figliuoli di Dio, membri della Chiesa ed eredi del paradiso, e ci rende capaci di ricevere gli altri sacramenti. Le sacrement de Baptême confère la première grâce sanctifiante qui efface le péché originel et aussi le péché actuel s’il existe. Il remet toute la peine due pour ces péchés, imprime le caractère de chrétien, nous fait enfants de Dieu, membres de l’Église et héritiers du paradis, et nous rend capables de recevoir les autres sacrements. A. The sacrament of Baptism confers first sanctifying grace by which original sin is washed away, as well as all actual sin if any such exists; it remits all punishment due on account of such sins; it imprints the character of a Christian; it makes us children of God, members of the Church, and heirs to Paradise, and enables us to receive the other sacraments. 洗礼の秘跡は、最初の成聖の恩寵を授け、原罪と、もしも存在しているなら自罪とが赦され、その罪によって当然受ける罰が完全に赦され、キリスト信者としての「印章」を刻み付け、私たちを天主の子らとし、教会の一員とし、天国の相続者とし、他の秘跡にあずかることが出来るようにします。
553 D. Qual'é la materia del Battesimo? Quelle est la matière du Baptême ? 3 Q. What is the matter of Baptism? 554 洗礼の秘跡の質料とは何ですか。
R. La materia del Battesimo è l'acqua naturale che si versa sui capo di chi viene bat­tezzato in tanta quantità che scorra. La matière du Baptême est l’eau naturelle qu’on verse sur la tête de celui qu’on baptise, en assez grande quantité pour qu’elle coule. A. The matter of Baptism is natural water which is poured on the head of the person to be baptised in such a quantity as to flow. 洗礼の秘跡の質料とは、受洗者の額に、流れる程度の量そそがれる自然水のことです。
554 D. Qual'è la forma del Battesimo? Quelle est la forme du Baptême ? 4 Q. What is the form of Baptism? 555 洗礼の秘跡の形相とは何ですか。
(*) R. La forma del Battesimo é questa: Io ti battezzo nel nome del Padre e del Figliuolo e dello Spirito Santo. La forme du Baptême est celle-ci : " Je te baptise au nom du Père et du Fils et du Saint-Esprit ". A. The form of Baptism is: "I baptise thee in the name of the Father and of the Son and of the Holy Ghost." 洗礼の秘跡の形相とは、次のことばのことです。「我、聖父と聖子と聖霊との御名によりて、汝を洗す」。
:§ 2. Ministro del Battesimo. § 2. Ministre du baptême. Minister of Baptism Ⅱ   洗礼の授与者
555 D. A chi spetta dare il Battesimo? A qui appartient-il de donner le Baptême ? 5 Q. To whom does it belong to confer Baptism? 556 洗礼の秘跡を授けるのはだれですか。
R. Il dare il Battesimo spetta per diritto ai Vescovi ed ai parrochi; ma, in caso di neces­sità, qualunque persona puo darlo, sia uomo, sia donna, anche un eretico od un infedele, purché eseguisca il rito del Battesimo ed abbia l'intenzione di fare quello che fa la Chiesa. Donner le Baptême appartient de droit aux Évêques et curés, mais en cas de nécessité, toute personne peut le donner, que ce soit un homme ou une femme, même un hérétique ou un infidèle, pourvu qu’il accomplisse le rite du Baptême et qu’il ait l’intention de faire ce que fait l’Église A. To confer Baptism belongs by right to bishops and parish priests, but in case of necessity any person, whether man or woman, even a heretic or an infidel, can administer it, provided he carries out the rite of Baptism, and has the intention of doing what the Church does. 洗礼の秘跡を授けるのは、権能として司教と主任司祭に属します。しかし、緊急の場合には、男女を問わず、また、異端者や未信者であっても、洗礼の儀式に従い、教会が行なうことをする意向があれば、だれでも洗礼を授けることができます。
556 D. Se vi fosse necessità di battezzare una persona, che è in pericolo di morire, e molti si trovassero presenti, chi dovrebbe dare il Battesimo? S’il y avait nécessité de baptiser quelqu’un en danger de mort et qu’il se trouvât plusieurs personnes présentes, laquelle devrait donner le baptême ? 6 Q. If it were necessary to baptise a person in danger of death, and if several people were present, who should administer the sacrament? 557 生命の危ない人に洗礼を授ける必要があり、その場にたくさんの人がいるとき、そのうちのだれが洗礼を授けるべきでしょうか。
R. Se vi fosse necessità di battezzare una persona in pericolo di morte, e molti si trovassero presenti, dovrebbe battezzarla il sacerdote, se vi fosse, e in sua assenza un ecclesiastico di ordine inferiore, e in assenza di questo, l'uomo secolare a preferenza della donna, se pure la maggior perizia della donna, o la decenza, non richiedessero altrimenti. S’il y avait nécessité de baptiser quelqu’un en danger de mort et qu’il se trouvât plusieurs personnes présentes ; s’il y avait un prêtre, c’est lui qui devrait le baptiser ; en son absence un ecclésiastique d’ordre inférieur ; et en l’absence de celui-ci, un homme laïque de préférence à une femme, à moins que celle-ci ne sache mieux faire ou que la décence n’exige que ce soit elle. A. If it were necessary to baptise a person in danger of death, and if several people were present, a priest, if such were at hand, should administer the Sacrament, and, in his absence, one of the inferior clergy; and in the absence of such, a layman in preference to a woman, unless in the case in which the greater skill on the part of the woman, or the claims of propriety, should demand otherwise. 生命の危ない人に洗礼を授ける必要があり、その場にたくさんの人がいるとき、司祭がいるなら司祭が洗礼を授けるべきです。しかし、司祭が不在の場合は、下級の聖職者がこの任にあたります。聖職者が居ないときは、男子信徒が望ましいのですが、女性の方がより経験がある、或いは慎み深いなど事情のあるときは、この限りではありません。
557 D. Quale intenzione deve avere chi battezza? Quelle intention doit avoir celui qui baptise ? 7 Q. What intention should the person baptising have? 558 洗礼を授ける人はどのような意向を持たねばなりませんか。
R. Chi battezza deve avere l'intenzione di fare quello che fa la santa Chiesa nel battezzare. Celui qui baptise doit avoir l’intention de faire ce que fait l’Église dans le Baptême. A. The person baptising should have the intention of doing what Holy Church does in baptising. 洗礼を授ける人は、聖なる教会が洗礼に際して行なうことをするという意向を持たなければなりません。
:§ 3. - Rito del Battesimo e disposizioni di chi lo riceve adulto. § 3. Rite du Baptême et dispositions de celui qui le reçoit à l’âge de raison. The Rite of Baptism and the Disposition of the Adult who Receives It Ⅲ   洗礼の儀式と成人の受洗者の心構え 
558 D. Come si fa a dare il Battesimo? Comment fait-on pour donner le Baptême ? 8 Q. How is Baptism given? 559 どのように洗礼は授けられますか。
R. Si dà il Battesimo versando dell'acqua sul capo del battezzando, e se non si puo sul capo, su qualche altra parte principale del corpo, e dicendo nello stesso tempo: Io ti battezzo nel nome del Padre e del Figliuolo e dello Spirito Santo. On donne le Baptême en versant de l’eau sur la tête de celui qu’on baptise, et si on ne peut pas sur la tête, sur quelque autre partie principale du corps, et en disant en même temps : " Je te baptise au nom du Père et du Fils et du Saint-Esprit ". A. Baptism is given by pouring water on the head of the person to be baptised — and if it cannot be poured on the head, then on some other principal part of the body — saying at the same time: "I baptise thee in the name of the Father, and of the Son, and of the Holy Ghost." 洗礼は、受洗者の額、不可能なときは、身体の他の主要な部分に水を注ぎながら、同時に「我、聖父と聖子と聖霊との御名によりて汝を洗す」と唱えて授けられます。
559 D. Se uno versasse l'acqua e un altro proferisse le parole, la persona resterebbe battezzata? Si l’un versait l’eau et que l’autre prononçât les paroles, la personne serait-elle baptisée ? 9 Q. If one were to pour the water and another to pronounce the words would the person be baptised? 560 一人が水を注ぎ、別の人がことばを言った場合、この人は洗礼を受けたことになりますか。
R. Se uno versasse l'acqua, e un altro proferisse le parole, la persona non resterebbe battezzata; ma é necessario che sia la stessa persona che versi l'acqua e pronunci le parole. Si l’un versait l’eau et que l’autre prononçât les paroles, la personne ne serait pas baptisée : il est nécessaire que ce soit la même personne qui verse l’eau et prononce les paroles. A. If one poured the water and another said the words the person would not be baptised; because it is necessary that the person who pours the water should pronounce the words. 一人が水を注ぎ、別の人がことばを言った場合は洗礼を受けたことにはなりません。そうではなく水を注ぐ人とことばを言う人とは同一人物でなければなりません。
560 D. Quando si dubita se la persona sia morta, si deve tralasciare di battezzarla? Si on a un doute que la personne soit morte, doit-on négliger de la baptiser ? 10 Q. When in doubt whether the person is dead, is it right to omit baptising him? 561 生死がはっきりしないとき、この人に洗礼を授けるのを止めるべきですか。
R. Quando si dubita se la persona sia morta, si deve battezzarla sotto condizione, dicendo: Se tu sei vivo, io ti battezzo nel nome del Padre e del Figliuolo e dello Spirito Santo. Si on a un doute que la personne soit morte, on doit la baptiser sous condition en disant : " Si tu es en vie, je te baptise au nom du Père et du Fils et du Saint-Esprit ". A. When in doubt whether the person is dead, he should be baptised conditionally, saying: "If thou art alive I baptise thee in the name of the Father, and of the Son, and of the Holy Ghost." 生死がはっきりとしないときは、「なんじ、もし生きているなら、我 聖父と聖子と聖霊との御名によりて汝を洗す」と言って、条件付きで洗礼を授けなければなりません。
561 D. Quando si devono portare alla chiesa i bambini perché siano battezzati? Quand doit-on porter les enfants à l’Église pour les faire baptiser ? 11 Q. When should infants be brought to the Church to be baptised? 562 いつ子供たちを教会に連れて行って洗礼を受けさせるべきですか。
R. I bambini si devono portare alla chiesa perché siano battezzati, il più presto possibile. On doit porter les enfants à l’église pour les faire baptiser le plus tôt possible. A. Infants should be brought to the Church to be baptised as soon as possible. 子供たちは一日も早く洗礼を受けるべきです。
562 D. Perché si deve avere tanta premura per far ricevere il Battesimo ai bambini? Pourquoi doit-on mettre tant d’empressement à faire recevoir le baptême aux enfants ? 12 Q. Why such anxiety to have infants receive Baptism? 563 なぜそんなに急いで子供たちが洗礼を受けるようにしなければなりませんか。
R. Si deve avere somma premura per far battezzare i bambini, perché essi per la loro tenera età sono esposti a molti pericoli di morire, e non possono salvarsi senza il Battesimo. On doit mettre tant d’empressement à faire baptiser les enfants parce que, à cause de la fragilité de leur âge, ils sont exposés à bien des dangers de mourir et qu’ils ne peuvent se sauver sans le Baptême. A. There should be the greatest anxiety to have infants baptised because, on account of their tender age, they are exposed to many dangers of death, and cannot be saved without Baptism. 子供たちが洗礼を受けるように非常に急いでしなければならないのは、子供は幼いため死ぬ危険も多く、もし洗礼を受けずに死ねば、救われないからです。
563 D. Peccano adunque i padri e le madri che per la loro negligenza lasciano morire i loro figliuoli senza Battesimo, o lo differiscono? Ils pèchent donc les pères et les mères qui par leur négligence laissent mourir leurs enfants sans Baptême, ou même qui le diffèrent simplement ? 13 Q. Do parents sin, then, who, through negligence, allow their children to die without Baptism, or who defer it? 564 それでは怠慢によって洗礼を受けさせないまま子供を死なせたり、洗礼を遅らせたりする父親と母親は罪を犯しますか。
R. Si, i padri e le madri che per la loro negligenza, lasciano morire i figliuoli senza battesimo, peccano gravemente, perché privano i loro figliuoli dell' eterna vita; e peccano pure gravemente col differirne a lungo il Battesimo, perché li espongono al pericolo di morire, senza averlo ricevuto. Oui, les pères et les mères qui, par leur négligence, laissent mourir leurs enfants sans Baptême pèchent gravement, parce qu’ils privent leurs enfants de la vie éternelle. Ils pèchent même gravement en différant longtemps le Baptême, parce qu’ils les exposent au danger de mourir sans l’avoir reçu. A. Yes, fathers and mothers who, through negligence, allow their children to die without Baptism sin grievously, because they deprive their children of eternal life; and they also sin grievously by putting off Baptism for a long time, because they expose them to danger of dying without having received it. はい。怠慢によって洗礼を受けさせないまま、子供を死なせた父親と母親は、子供から永遠の命を奪うことになりますから大罪を犯します。また、洗礼を遅らせることも、子供が受洗せずに死ぬ危険にさらすことになり、大罪を犯すことになります。
564 D. Quando chi si battezza è adulto quali disposizioni deve avere? Quand celui qui est baptisé a atteint l’âge de raison, quelles dispositions doit-il avoir ? 14 Q. When the person who is being baptised is an adult, what dispositions should he have? 565洗礼を受けるのが成人であるときにはどんな心構えを持たなければなりませんか。
R. L'adulto che si battezza, deve oltre la fede avere il dolore almeno imperfetto dei peccati mortali, che avesse commessi. L’adulte qu’on baptise doit, outre la foi, avoir la douleur au moins imparfaite des péchés mortels qu’il aurait commis. A. An adult who is being baptised, besides faith, should have at least imperfect contrition for the mortal sins he may have committed. 成人が洗礼を受けるときには、信仰の他に、[洗礼を受ける意向と]それまでに犯した大罪を不完全であっても痛悔し[キリスト教の教えを充分に勉強し]ていなければなりません。
565 D. Se un adulto si battezzasse in peccato mortale senza questo dolore che cosa riceverebbe? Si un adulte était baptisé en état de péché mortel sans avoir cette douleur, que recevrait-il ? 15 Q. If an adult in mortal sin was baptised without such sorrow, what would he receive? 566もし成人が大罪をもったまま、そのような罪の痛梅をせずに洗礼を受ければどうなりますか。
R. Se un adulto si battezzasse in peccato mortale senza questo dolore riceverebbe il carattere del Battesimo, ma non la remissione dei peccati, né la grazia santificante. E questi effetti rimarrebbero sospesi, finché non fosse tolto l'impedimento col dolore perfetto de' peccati o col sacramento della Penitenza. Si un adulte était baptisé en état de péché mortel sans avoir cette douleur, il recevrait le caractère du Baptême mais non la rémission des péchés ni la grâce sanctifiante. Et ces effets resteraient suspendus tant que l’empêchement n’aurait pas été levé par la douleur parfaite des péchés ou par le sacrement de Pénitence. A. If an adult was baptised in mortal sin without such sorrow he would receive the character of Baptism, but not the remission of his sins nor sanctifying grace. And these two effects would be suspended, until the obstacle is removed by perfect contrition or by the sacrament of Penance. 成人が大罪をもったままでそのような罪の痛悔をせずに洗礼を受けると、洗礼の「印章」は受けますが、罪のゆるしも成聖の恩寵も受けません。洗礼の二つの効果は、完全な痛悔か、告解の秘跡かによってこの障害が取り除かれるまで保留されます。
4. - Necessità del Battesimo e doveri dei battezzati. § 4. Nécessité du Baptême et devoirs du baptisé Necessity of Baptism and Obligations of the Baptised Ⅳ   洗礼の必要性と受洗者の義務
566 D. Il Battesimo è necessario per salvarsi? Le Baptême est-il nécessaire pour être sauvé ? 16 Q. Is Baptism necessary to salvation? 567 洗礼は救いを得るのに必要ですか。
R. Il Battesimo è assolutamente necessario per salvarsi, avendo detto espressamente il Signore: Chi non rinascerà nell'acqua e nello Spirito Santo non potrà entrare nel regno dei cieli. Le Baptême est absolument nécessaire pour être sauvé, car le Seigneur a dit expressément : " Celui qui ne renaîtra pas dans l’eau et le Saint-Esprit ne pourra entrer dans le royaume des cieux ". A. Baptism is absolutely necessary to salvation, for our Lord has expressly said: "Unless a man be born again of water and the Holy Ghost, he cannot enter into the Kingdom of God." 洗礼は救いを得るのに絶対に必要です。主は「人は水と霊とから新たに生まれなければ、天主の御国に入ることはできない」とはっきり仰せになりました。
567 D. Si puo supplire in qualche modo alla mancanza del Battesimo? Peut-on suppléer en quelque manière au défaut du Baptême ? 17 Q. Can the absence of Baptism be supplied in any other way? 568 洗礼を受けていないとき、何かで補うことはできますか。
R. Alla mancanza del sacramento del Battesimo puo supplire il martirio, che chiamasi Battesimo di sangue, o un atto di perfetto amor di Dio o di contrizione, che sia congiunto col desiderio almeno implicito del Battesimo, e questo si chiama Battesimo di desiderio. Le défaut du sacrement de Baptême peut être suppléé par le martyre qu’on appelle Baptême de sang, ou par un acte de parfait amour de Dieu ou de contrition joint au désir au moins implicite du Baptême, et ceci s’appelle Baptême de désir. A. The absence of Baptism can be supplied by martyrdom, which is called Baptism of Blood, or by an act of perfect love of God, or of contrition, along with the desire, at least implicit, of Baptism, and this is called Baptism of Desire. 洗礼を受けていないとき、これを補うことのできるのは、「血の洗礼」と呼ばれる殉教か、あるいは、天主への完全な愛か完全な痛悔の心を持ち、同時に洗礼を受けたいという、少なくとも暗黙の望みを持つこと、つまり「望みの洗礼」です。
568 D. Chi riceve il Battesimo a che cosa resta obbligato? A quoi s’oblige celui qui reçoit le Baptême ? 18 Q. To what is the person baptised bound? 569 受洗者にはどんな義務がありますか。
R. Chi riceve il Battesimo resta obbligato a professare sempre la fede, e ad osservare la legge di Gesù Cristo e della sua Chiesa. Celui qui reçoit le Baptême s’oblige à professer toujours la foi et à pratiquer la loi de Jésus-Christ et de son Église A. The person baptised is bound to always profess the faith and observe the Law of Jesus Christ and of His Church. 受洗者には、常に信仰をあらわし、イエズス・キリストの掟と教会の掟を守る義務があります。
569 D. A che cosa si rinuncia nel ricevere il santo Battesimo? A quoi renonce-t-on en recevant le saint Baptême ? 19 Q. In receiving holy Baptism what do we renounce? 570 洗礼を受けるとき何を捨てなければなりませんか。
R. Nel ricevere il santo Battesimo, si rinuncia per sempre al demonio, alle sue opere, ed alle sue pompe. En recevant le saint Baptême, on renonce pour toujours au démon, à ses œuvres et à ses pompes. A. In receiving holy Baptism we renounce, for ever, the devil, his works and pomps. 洗礼を受けるとき、悪魔と、そのしわざと、その栄華とを捨てなければなりません。
570 D. Che cosa s'intende per le opere o per le pompe del demonio? Qu’entend-on par les œuvres ou par les pompes du démon ? 20 Q. What is meant by the works and pomps of the devil? 571 悪魔のしわざとその栄華とは何ですか。
R. Per opere e pompe del demonio si intendono i peccati, e le massime del mondo contrarie alle massime del santo Vangelo. Par les œuvres et les pompes du démon, on entend les péchés et les maximes du monde contraires aux maximes du saint Évangile A. By the works and pomps of the devil we mean sin and the maxims of the world that are contrary to the maxims of the Gospel. 悪魔のしわぎとその栄華とは、罪と、聖福音書の教えに反する現世的な教えのことです。

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