Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

【再掲】預言者シメオンの役を勤めた福者ヘンリコ・スソー

2016年02月02日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、
預言者シメオンの役を勤めた福者ヘンリコ・スソー(Blessed Henry Suso, Heinrich Seuse, (Henricus Suso) [1295-1366]の話を再掲します。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

 驚くべき苦業とセラフィン的愛によって有名なドミニコ会員福者ヘンリコ・スソーは、聖母の潔めを次の方法で頌栄(しょうえい)していた。

 潔めの祝日の前三日間は、霊的に三本のロウソクを準備した。つまり(1)聖母の童貞としての汚れなき清さ、(2)聖母の底の無き深き謙遜、(3)聖母の母としての尊厳を尊敬し、毎日三回「マグニフィカト(Magnificat)」を唱え、これをロウソクとした。その祝日の夜明けに、信者等が聖堂に集まる前に、中央祭壇の前に跪いて聖母の御生涯を黙想し、聖母が幼きイエズスを抱き聖殿に奉献するのを観想した。

 聖母がエルサレムの外門に来られると、ヘンリコは立ちあがって、天主を愛する多くの霊魂たちと共に聖母を迎えに行った。聖堂の入り口へ行き、丁度そこに聖母が御子を携えて聖堂に入ろうとするのに出会ったかのようにして、聖母の名誉のために歌うので暫く停ってそれを聞いて下さいとお願いし、心の中で霊的に「インヴィオラタ」の讃辞を歌って申し上げ「ただ御身のみ汚れなき者としてとどまり給えり(Quae sola inviolata permansisti)」と云う句に達すると聖母に向って「哀れな罪に満ちた者(自分のこと)を憐れんで下さい」と願った。それから立上って、霊的に灯ったロウソクを手にして聖母のお伴をして祭壇の方へ進んだ。

Inviolata, integra et casta es, Maria,
Quae es effecta fulgida coeli porta.
O Mater alma Christi carissima:
Suscipe pia laudum praeconia.
Te nunc flagitant devota corda et ora:
Nostra ut pura pectora sint et corpora,
Tua per precata dulcisona:
Nobis concedas veniam per saecula.
O benigna! O Regina! O Maria!
Quae sola inviolata permansisti.

マリアよ、御身は汚れなき者、終生童貞、そして操正しき方なり:
御身は輝く天の門とされ給うた。
おお、いとも愛すべきキリストの慈悲深き御母:
われらの敬虔なる賛美の称讃を受け給え。
今われらの熱心な心と舌は御身を求め奉る:
われらの心と身体が純潔であらんことを。
御身の甘美なる響きの祈りによりて
とこしえにわれらに赦しを与え給え。
おお、愛すべき御者よ、おお、元后よ、おお、マリアよ。
ただ御身のみ汚れなき者としてとどまり給えり。


 聖母が自分の心にともされた天主の光と愛のこの炎が決して消されることがないように願いつつ、この神秘的行列にお伴する諸聖人に向って、自分と一緒に「アドルナ・タラムム(Adorna thalamum tuum)」を歌った。この「アドルナ・タラムム」は、御浄めの祝日にミサの前に、ロウソクの行列をしながら歌うグレゴリオ聖歌である。

Adorna thalamum tuum, Sion, et suscipe Regem Christum:
amplectere Mariam, quae est coelestis porta:
ipsa enim portat Regem gloriae novi luminis.
Subsistit Virgo adducens manibus Filium ante luciferum genitum:
quem accipiens Simeon in ulnas suas praedicavit populis Dominum eum,
esse vitae et mortis, et Salvatorem mundi.

シオンよ、汝の花嫁の部屋を飾れ、しかして王たるキリストを迎え入れよ:
天の門なるマリアを抱擁せよ。
マリアは実に、新しき光の栄光の王を運び給い、
明けの明星の上る前に生み給いし御子を手にしつつおとめにとどまり給う。
その御子をシメオンは両腕の抱え人々に予告せり、
この聖子は生と死の主にして、世の救い主なり、と。

 祭壇に到着して、マリアが御子をシメオンに渡す時、ヘンリコは聖母の前に跪き、その美しい御子を自分にも見せて頂き、そして彼を抱き、その御手足に接吻し、暫く自分の欲しい儘にする事を許されるよう願った。聖母はそれを許されるので、ヘンリコは愛と悦びに心躍り、イエズスを抱いて自分の心に押し当て幾度も抱擁するのであった。そして万物の創造主が、天上に於いて美しく大いなる光栄に満ち給うのに、地上に於いては弱く貧しくあり給う玄義を考えて恍惚とするのであった。最後に、讃辞と嘆声と感謝の中に御子を御母に返し、その祝日中、御子からも御母からも眼を放さないようにしていた。


【これは、渡辺 吉徳 (著)「ロザリオの信心 」(1980年)に掲載されている記事に、加筆編集したものです。】




聖ピオ十世会総長による、家庭に関するシノドの最終報告書に関する宣言 2015年10月27日

2016年02月02日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 すこし遅れてしまいましたが、「家庭に関するシノドの最終報告書に関する宣言」について、ご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

家庭に関するシノドの最終報告書に関する宣言


原文はこちら


2015年10月28日

 家庭に関するシノドの第二総会の最終報告書は、2015年10月24日に発表され、シノドの教父たちの同意を見せることからかけ離れており、互いに大きく異なる立場の間での妥協を表現している。その中に結婚とカトリック家庭について一部教義を思い起こさせる文章をもちろん読むことができるが、悲しむべき曖昧さと省略にも気づく。そして、相対主義的な司牧的「あわれみ」の名のもと、最も重大な違反が規律の中に顔をのぞかせている。この文書が与える一般的な印象は混乱を生み出しており、この混乱は教会の絶えざる教えに反する意味で利用されないはずはない。

 このため、教皇と司教の役割、そして結婚と家庭に関するキリストから受け取った真理を再確認する必要がある、と私たちには思われる。シノドの第二総会開始前に、私たちは教皇フランシスコに同じ精神において嘆願書を送ろうとの思いに促され、これを実行している。

1 – 教皇と司教の役割 [1]

 カトリック教会の霊的息子として、私たちはローマの司教、聖ペトロの後継者はキリストの代理者であり、同時に全教会のかしらであると信じる。彼の権力とは、固有の意味における裁治権である。この権力に関して、牧者たちは、個別の教会の信者たちも、単独であろうと、団体としてであろうと、公会議においてさえも、シノドにおいても、あるいは司教会議においても、位階制度的な秩序づけ(hierarchical subordination)とまことの従順の義務を負っている。

 ローマの司教との交わりの一致を維持し、同じ信仰を告白するという方法で、キリストの教会は一人の牧者のもとの一つの群れであるように天主は計画された。天主の聖会は、天主によって位階制度をもつ社会として構成されており、この教会において信者を統治する権威は、教皇と教皇のもとにある司教を通して、天主より由来する。[2]

 教皇の最高の教導職が、教義的に関すること及び規律に関することにおいて、啓示された真理の真性の表現を発布する時、それに修正を導入するようなことは、教皇よりも低い段階の権威を授かった教会組織の管轄──司教会議のような──の範囲内にあるのではない。

 永久に保存されなければならない聖なる教義の意味は、教皇と司教の教導職が決定的に教え続けてきたもので、そこから逸れることは決して合法的ではない。従って教会の職務は、あわれみを実践をする場合、無知という貧困を治療し、霊魂たちを救う真理の表現を与えることから始めなければならない。

 従って、啓示された真理は、天主によって制定されたヒエラルキーにおいて、信仰と教導職の教えにおいて、使徒たちとその後継者である教皇及び司教らに「聖なる遺産」として委ねられた。彼らがそれを忠実に守り、権威をもって教えることができるようにである。この「遺産」を包み込む源泉は、聖書と口伝による聖伝である。聖伝はキリストご自身より使徒たちに受け継がれ、聖霊の息吹のもと使徒たちに手渡され、私たちに伝えられた。

 教導教会が聖書と聖伝に含まれたこれらの真理の意味を宣言する時、天主によって啓示されたままに信者が信じられるよう、彼らに対し権威をもってそれを明らかにする。教皇と司教の職務は、信仰のセンス(信仰の感覚、sensus fidei)や「天主の民」の共通の体験が教皇らに提案するものを承認することだ、というのは間違いである。

 私たちがすでに教皇聖下への嘆願書において次のように書いた通りである。「私たちの不安は、聖ピオ十世が回勅「パッシェンディ」で、いわゆる現代世界の要求に順応させようとするドグマの修正を排斥したという事実に由来しています。教皇聖下、ピオ十世とあなたのお二方は、すべての時代、すべての時代のかしらにして牧者、教皇がこの地上において忠実な代理者とならなければならないお方、キリストへの従順のうちに、教え、聖化し、統治するための権威の充満を受け取りました。厳粛な排斥のもとにあるこの事実は、時間の経過によって、司牧上の実践が承認されるようにはなり得ないのです」

 これこそ、マルセル・ルフェーブル大司教が1974年11月21日の宣言において書き記そうと促されたことである。「たとえ位階制度の最も高い地位に上げられたものであれ、いかなる権威といえども、19世紀もの長きにわたって教会の教導職によって明らかに表明され、宣言された私たちのカトリック信仰を棄てる、あるいは減少させるように強制することは出来ない。
 聖パウロはこう言っている。「私たち自身であるにせよ、天からの天使であるにせよ、私たちがあなたたちに伝えたのとはちがう福音を告げる者にはのろいあれ。」(ガラチア1:8)[3]


2 – 結婚とカトリック家庭

 結婚に関しては、天主は人類の繁栄のために、一人の男と一人の女の堅固かつ永久の絆である結婚の設定によってそれを準備された。[4] キリストが結婚を秘蹟の尊厳にまで高めたがゆえに、洗礼を受けた人々の結婚は秘跡である。結婚と家庭は、それゆえに、神聖かつ自然的の両方を併せ持つ制定である。

 結婚の第一目的は子どもの出産と教育であり、人間的意向がそれに反して行動し、阻むべきではない。結婚の第二の目的は、情欲を抑えるのと同様、伴侶が互いを捧げあう相互扶助である。

 キリストは、結婚の絆がキリスト者と全人類の両方にとって決定的なものとなるよう制定された。この絆は不解消的性質を有しており、婚姻の絆は両性の意志によっても、いかなる人間的権威によっても決して破られることはないものである。「人は天主がお合わせになったものを離してはならない」[5] 洗礼を受けた人々の結婚の秘跡の場合、この絆と不解消性は、キリストとその花嫁なる教会の一致のしるしという事実によって、より明確に説明されている。

 人間が結婚の絆と不解消性に反する宣言をし、実行するすべての事柄は、自然の要求や人間社会の善に一致していない。さらに、忠実なカトリック信者には、教会によって規定された宗教的結婚を考慮せずに民事的結婚の絆にのみ加わってはならないという重大な義務がある。

 聖体拝領(聖体の秘蹟を拝領すること)のためには、成聖の恩寵の状態と、愛徳によるキリストとの一致が必要である。聖体拝領はこの愛徳を増すと同時に、キリストの唯一の浄配として彼と一致している教会への愛を示している。その結果、意図的に同棲、あるいは姦淫の一致のうちに同居する人々は天主の掟と教会法に反しており、彼らが正義と愛徳の重大な欠如という悪い模範を示し、明らかな罪人であると見なされるがゆえに聖体拝領は許されない。「妻を去らせて、ほかの人と結婚すると、その人は姦通者である」[6]

 告解の秘跡において確実な罪のゆるしを得るためには、もはや罪を犯さないという決意を持つことが不可欠である。そのため、自分たちの不適切な状況を終わらせることを拒否する人々は、有効なゆるしを得ることはできない。[7]

 自然法に一致して、人間は自分の性を行使する権利を持つのは、道徳によって定められている制限を尊重しながらの、合法的結婚の範囲内のみである。このため、同性愛は自然法及び天主の掟に矛盾している。婚姻からほど遠いところにある結合(同棲、重婚、同性愛の結合)に入ることは、自然法・神法の要求することに反対する不秩序であり、従って、罪である。そこに置いていかなる道徳的善も、たとえ減少した善であっても、認めることができない。


 結婚の聖性と道徳の純潔性に反する現代の誤謬と法律制定がなされているが、自然法にはいかなる例外もない。なぜなら天主はご自身の法を与えられた時、人間の法律制定とは異なり、その無限の叡智においてすべての事柄とすべての状況を予見されていたからである。従って、さまざまな文化からの、めまぐるしく変化する状況に対し、自然法による指導倫理を採るよう一部の人々が提案する、いわゆる「状況倫理」は認められない。道徳秩序の問題解決は、夫婦や司牧者の良心によってのみ決定されてはならず、自然法は行動規範としての良心上に義務を負わせるものである。

 罪人への善きサマリア人的配慮は、罪には妥協しない一種のあわれみとして明らかになる。ちょうど医者が病人を病から助け、効果的に健康を回復させたい望み、その病に妥協せず、それを取り除くことと同じである。「主観主義的な司牧的アプローチ」という、一般的には福音の教えを想起させるが、個々のケースでは福音を破棄するようなアプローチの名のもとに、福音の教えから自らを解放することはできない。福音の教えを弱める危険を冒すことなく、教会の権威を破砕することなく、結婚の不解消性の掟を停止できる能力を、誰も司教に与えることはできない。というのは、この誤ったものの見方においては、教義的に断言されたことが司牧的に否定されうるからであり、法において禁止されていることが事実上正当化されうるからである。

 この大混乱の中で、常に変わらず、至るところで、皆によって、伝えられてきた(quod semper, quod ubique, quod ab omnibus) [8] カトリックの真理を、明確かつ堅固に教皇が再度明言すること、そして局部的に実際上否定されていることがないようにこの普遍の真理を保持すること──教皇の責任を果たしつつ、キリストによって定められた範囲内において──それは今や教皇に委ねられている。

 キリストのおん勧めに従い,警戒して、祈れ(vigilate et orate)。私たちは教皇のために祈る──oremus pro pontifice nostro Francisco 我らの教皇フランシスコのために祈らん。そして私たちは警戒を怠らない──non tradat eum in manus inimicorum ejus[9] 願わくは天主が彼を敵の手に渡したまわざらんことを。私たちは教会のおん母なるマリアに、教皇が天主なるおん子の宝の忠実なしもべとなる恩寵を得てくださることを嘆願する。


2015年10月27日、メンツィンゲンにて
+ ベルナール・フェレー
聖ピオ十世会総長


[1] Council of Trent, Session 4; Vatican Council I, Constitution Dei Filius; Decree Lamentabili, 6.
[2] Mt. 16:18-19; Jn. 21:15-17; Vatican I, Constitution Pastor Aeternus.
[3] Gal. 1:8.
[4] Gen. 2:18-25.
[5] Mt. 19:6.
[6] Mt. 19:9.
[7] Leo XIII, Arcanum Divinae Sapientiae; Pius XI, Casti Connubii.
[8] 「常に変わらず、至るところで、皆によって、宣言されてきたこと」; Vincent of Lerins, Commonitorium.
[9] Oratio pro summo Pontifice.

ローマにおけるシノド(司教会議)の最終報告書:シノドは分裂を深めた教会の印象をもたらしている

2016年02月01日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 すこし遅れてしまいましたが、「ローマにおけるシノド(司教会議)の最終報告書」について、ご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

ローマにおけるシノド(司教会議)の最終報告書



2015年12月4日

シノドは分裂を深めた教会の印象をもたらしている

 聖ピオ十世会会員、マチアス・ガオドロン神父は1990年、ティシエ・ド・マルレ司教により司祭叙階された。12年間に渡ってツァイツコーヘン(バイエルン)のイエズスの聖心神学校の校長を務めた。現在ではザンクトガレン県(スイス)のInstitut Sainte-Marieで教授を務めている。「教会内における危機についてのカテキズム」(アンジェルス・プレス)の著者である彼は、今回の記事で家庭に関するシノドの最終報告書を分析している。これは最初にドイツ管区の月刊ニュースレター Mitteilungsblatt誌(2015年12月)と、同管区のウェブサイトに掲載された。

 DICI編集部は、フランス語訳と英訳の掲載許可の快諾を得られたことを彼に感謝する。



 希望と不安を同等に引き起こしたローマでのシノドは、2015年10月25日に閉会した。このシノドでは、多くの進歩主義カトリックたちと司教たちが期待したような、離婚して再婚した人々への聖体拝領の実施を勧めることもせず、同性愛者たちにもっと好意的な態度をとろうと呼びかけることもなかった。しかし、シノドは明確な言い回しでカトリックの真理を擁護することもなかった。教皇庁のKurt Koch枢機卿が次のように述べたように、次のことは残念ながら事実である。すなわち「閉じられたドアは一つもない」ということだ。結局、秘跡の新しい実践がいずれ導入されるかどうかという問題は、以前として開かれたままである。

 同性愛に関する限り、シノドはそのno.76において、同性愛の絆は結婚に関する天主のご計画と両立しないと宣言した時、充分に明確な言葉を使用した。この文書はこうも述べている。国際組織が貧困国に財政援助をする引き替え条件として、同性愛者たちの「結婚」を合法化せよと圧力をかけることは断じて受け入れられない、と。

 だが、さらにこの先、離婚して再婚したカトリック信者の問題について、no.84は受け入れ難い声明を含んでいる。実際のところ「聖霊はすべての人々の善のために、彼ら[離婚して再婚したカトリック信者たち]の上にその贈り物と賜物を注がれる」というのは事実だろうか? 厳密に言ってこの文章を受け入れられる人がいるとしても、この「贈り物と賜物」は聖寵の状態にあることを前提としないので、次に続く文章、「彼らは破門されたと感じるべきではない。その反対に、教会の生ける成員として成長できることが彼らにとって不可欠なのだ」という場合と意味がつながらない。離婚して再婚した人々が、みずからを教会から切り離したり、信仰を否定しない限り破門されないというのは事実である。彼らは教会の成員のまま留まる。ということは、しかし、彼らはもはや教会の「生ける」成員ではなく「死せる」成員ということになる。神学用語での生ける成員とは、聖寵の状態にあるカトリック信者のことである。あらゆる大罪が原因となって、成員は失われる。その結果、罪人はキリストとその教会に結びついたままであるが、天的生命の循環をやめた死せる成員としてなのである。離婚して再婚した人々は永久的大罪の状態のうちに生きている。彼らが天主の意志に反する婚姻の状態に終止符を打つつもりがない限り、ちょうど大罪を犯した人々がするように告解してもゆるしは与えられない。ゆるしが有効に与えられるのは、痛悔と生き方を変えるというしっかりした目的がある場合のみである、という単純な理由のゆえにである。このような状態においてこそ彼らは本当の意味で「前進」せざるを得ず、最大限に教会の生命に参与することで、彼らの罪深い状況から離れるために必要な恩寵と強さを乞い求めるのである。

 no.86においては曖昧さも見出される。離婚して再婚した人々と司祭との対話は「内輪で語らうことで、彼らが教会の生命にもっと完全にあずかる可能性と、それを育み、成長させる段階を阻止するものを正しく判断する方法に貢献する」これはどういうことか? このようなカトリック信者たち──じっくりと内省したのち、良心に顧みて決意した──が秘跡に近づくことを許すために、ドアは少しばかり開かれているように見える。離婚して再婚したカトリック信者は、ある意味主要な神学上の問題を何も突きつけていない。彼らは罪の生活を捨てればすぐに、再び告解に行くことができるし聖体拝領できるのだ。だがそうしない限り、キリストと教会の教えを尊重する司祭は誰も彼らに聖体拝領を許可できない。このバラグラフこそがシノドで最も物議を醸した。これは、ようやくのことではあったが、178票という可決のために必要な3分の2票を得てしまった。

 教皇フランシスコは他の場所でも、すでにこの「問題」を解決できる別の道を切り開いた。彼個人の権威で行動することで、また教会の掟を修正するいかなる機関の設立も回避するため、教皇フランシスコは結婚無効の事例手続きを平易にした。つまり、あやふやな結婚無効宣言が将来的に大量発生するということ、また、教会でではなく民法的に再婚した夫婦が、教会において彼らの結婚が合法化されるということを恐れる重大な理由が存在する。従って、教会の教えの領域においては結婚は不解消的なままであるが、実際にはある種の「カトリック信者の離婚」が日の目を見る可能性がある。

 今回のシノドは分裂を深めた教会の印象をもたらしている。福音の伝統的教えを公に破ろうとはしない大勢の司教たちがいた一方、他方では、この教義を明確に、曖昧さを残さずに明記する少数派の司教たちがいた。カトリック教会内と二回のシノドにおいて二つのアンケートがなされた後、妥協した文書と離婚して再婚したカトリック信者たちを「教会の生ける成員」と認めるという結果だけが残された。もちろん彼らに聖体拝領は許されていないが明確にそれを禁じてもいない。シノドは、ほんのちょっとで、さらに悪い方法で幕を閉じていたかもしれない。保守派の司教たちが、教義からあからさまに離れることを拒否したかもしれなかったが、結婚の不解消性に影響はなかったがためにほっとした。進歩派の司教たちは、彼らが望むすべてを得られなかったとはいえ、教義と規則の緩和化の道をさらに歩み続けることができる。

マチアス・ガオドロン神父

--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
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