Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

アジアの無原罪の聖母の騎士への手紙 第10号 ― 無原罪の御宿りといつくしみ(あわれみ)の年

2016年02月05日 | M.I.(無原罪の聖...
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 シュテーリン神父様からの「アジアの無原罪の聖母の騎士への手紙 第10号」の日本語訳をご紹介いたします。

「あわれみの聖年」は2015年12月8日の「無原罪の御宿り」から荘厳に始まりました。
神父様は、「天主の御あわれみ」を私たちに黙想することを提案しています。
「無原罪の御宿り」こそ、「天主の御あわれみ」の神秘を表し、
「無原罪の御宿り」において、天主は、ご自身が被造物に対してまずどのような存在でいらっしゃるのかを世にお示しになられること。
「あわれみの年」は、その深奥においては、被造物に対する天主の呼びかけであり、この天主の呼びかけに、私たちが何をしなければならないか?を教えてくださいます。

 どうぞお読み下さい。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

アジアの無原罪の聖母の騎士への手紙 第10号

*** 無原罪の御宿りといつくしみ(あわれみ)の年 ***


親愛なる無原罪の聖母の騎士の皆さん!

毎年、無原罪の御宿りの祝日が近づくと、聖マキシミリアノ・コルベはあふれんばかりの霊的な喜びで満たされ、修道士たちにその喜びを伝えていました。この偉大なる教義は聖母ご自身だけに関係するのではなく、私たちに対しても優れて実践的な結果をもたらす、と聖マキシミリアノは、しばしば彼らに説明していました。12月8日が近づきますから、彼と共にこの神秘に入り、それについて黙想しましょう。その日は、騎士全員が無原罪の聖母への奉献を確実に更新すべき日なのです。

今年、教皇様は「天主のいつくしみ(あわれみ)の年」を宣言しました。12月8日に荘厳に始まります。広く説明されてきていることは、不幸にも天主の御あわれみの理解そのものについても、その私たちの生活への影響についても、多くの霊魂を大変な災厄に導くことになるような全くの誤った解釈がおこなわれているということです。彼らを回心させて回心と聖化というあわれみ深い恩寵を受けさせる代わりに、この偽りのあわれみは、彼らに自らの罪を続ける決意を固めさせ、「天に向かって復讐を叫ぶ」忌まわしい行為さえも寛容に扱い、また正当化するのです。さらに、「光であり、その中に闇は一切ありえない」という天主の本質そのものについての完全に誤った理解を示しているのです。

それにもかかわらず、私たちは、教皇の意向すなわち教皇の個人的な考え方と、最高の権威者による行為とを区別しなければなりません。つまり、最高の権威者が、「聖年」を定めることによって、天からのあふれんばかりの恩寵が来るよう天を開いてくださったのであり、私たちがその恩寵に対して自分の心を開くなら、それを受けることができるのですから。エルザレムでの枝の主日の出来事のあとの大司祭の言葉を思い出しましょう。彼は言いました。「民のために一人の人が死ぬ方がよい」。カヤファの意向は確かに悪しきものでしたが、大司祭としての職務において彼が述べたその言葉は、預言的であり正しいものでした。同様に、「今年の大司祭」の意向にもかかわらず、最高の大司祭イエズス・キリストはご自分の代理者による客観的かつ法的に正当な決定を尊重され、そのため主は、世界と教会にかつて見られたうちで最悪のこの危機の時において、その無限の御あわれみをあわれな人類に注ごうと望んでおられるのだ、と私たちは結論できるのです。天主だけが、悪をより高い善へと変えることがおできになり、そのため、天主は多くの高位聖職者の心にあるあわれみについての誤った考えさえもお使いになり、この一年の間に、まことの御あわれみをお示しになることができるのです。

しかしながら、この地上にいる司祭一人一人の任務は、教会の教導権、教父たち、教会博士たち、まことの聖人たちによって明らかにされ、教えられた天主のまことの御あわれみを信者に提示することです。そうすれば、あわれみの年は、よい心構えをもって天主の愛の泉に近づく全ての人々にとり、大きな恩寵の源となるでしょう

「偶然によって」は何も起こりません。それゆえに私たちは、どこでも常に天主の御摂理の道を見いだすべきです。私たちの主が、無原罪の御宿りの祝日にあわれみの年を開始するよう、教皇様に霊感をお与えになったのは、「偶然によって」ではありません。事実、天主の御あわれみの神秘を表すのに、すべての被造物の中でただお一人だけ汚れなく、原罪を免れておられた聖母の御宿り、聖母の存在のまさに始まり、それ以上の時はありません。無原罪の御宿りにおいて、天主は、ご自身が被造物に対してまずどのような存在でいらっしゃるのか、そして、天主とのこの根本的な関係が無限の御あわれみであるよう望んでおられることを世にお示しになるのです。

天主の御あわれみは、無でしかない者への天主のまったくあわれみ深い謙遜の御業です。天主は、まったく見返りをうけることなく、無償の愛をくださいます。さらに、これは私たちに対する天主のまさに最初の御業なのであり、私たちの側からでき得るどのようなお応えよりも先にあるのです。天主は、その全能と上智をお使いになり、無条件であふれるほど豊かに、ご自身の愛、光、幸福、内的な喜びを与えてくださいます。天主は、私たちがこの永遠のあふれるほどの賜物の基礎の上に存在することを望んでおられます。天主は、その命で私たちを豊かに満たそうと望んでおられます。

しかし、私たちが、天主の賜物に対して、それを喜んで受け入れ、それに対して完全に心を開く場合にのみ、天主はこれを行うことがおできになります。罪を通して、私たちはこの天主の愛の流れを妨げており、天主に私たちへ御あわれみを与えていただく代わりに、私たちがこれらの賜物を受ける権利を持っていたかのように、私たちが自分自身でその賜物を得ることができるかのように思ってしまうのです。これは傲慢な態度であり、私たちの心の奥の本質はもちろん、天主の心の奥の本質まで否定しているだけでなく、それらを逆転させてしまうのです。天主が人類のしもべとしてとらえられているのです。人間は天主のようになりたいのです。

しかし、天主は、私たちの邪悪さと罪深さを使ってでも、さらに多くの御あわれみを示すことがおできになるのでした。天主は、半死半生の人類である私たちに、「良きサマリア人」である御独り子を送られ、私たちに赦しと浄めを与えてくださいます。この良き羊飼いは、迷える羊をあわれみ深く探し出し、御父の家へと戻してくださいます。イエズスが十字架に掛かり、私たちのために亡くなられたことは、天主の御あわれみの最大の現れです。「最後に至るまで」、主はご自分が持っておられるものすべてを、血のまさに最後の一滴まで、私たちにお与えになったのです。

しかし、人間の最大の悲劇は、多かれ少なかれ、その傲慢と自己満足の中に自らを閉じ込め、この至高のあわれみ深い天主の愛を受け入れないことにあるのです。天主の恩寵に自ら心を開いている人でさえ、天主がその御あわれみを完全にお見せになることを許しませんでした。なぜなら、「わが(天主の)心の計り知れないほどの愛に対する怠慢、無関心、忘却」があったからです。

では、天主の御あわれみを完全に受け入れ、天主のあふれるほどの恩寵に対する障害物を何も置かなかった人間がいるでしょうか? 実際に天主によって運命づけられ、天主がそうあるように計画なさったような人間を、私たちは見つけることができるでしょうか?

はい、その人こそが、インマクラータ、無原罪の聖母です! 聖母という存在はそのすべての点において、天主の御あわれみを反映したものです。聖母は天主からのものをすべて受け取り、受け入れられます。まさしくその結果、この天主の特性は、ある意味で、聖母においてご托身されているのです。聖母だけが、永遠の御父のすべての賜物を受け取られました。聖母は、天主がお下しになった善さに完全に心を開かれました。愛は、持っているすべてのものを与えることを望みます。天主は、被造物が受けることができるすべてのものを与えることを望まれます。そして、被造物の中で唯一聖母が、まことに天主の恩寵のすべてを受けたのです。なぜなら、聖母は、天主の愛に対して、いかなる障害物も置かれなかったからです。いつでも、どこでも、完全に、天主のご意志に対して「はい」と言われたのです。聖母は、絶対的に忠実に、天主の愛に応えられたのです。ためらいもなく、疑問もなく、疑いもなく! 天主ご自身が地上に来られるにあたって、聖母以上に良い道具と神殿はありえませんでした。それゆえに、最も善き御父の御摂理は、その汚れなき娘が、ほんの少しの悪に染まることをもお許しにならず、悪魔が聖母の霊魂へ触れることもお許しになりませんでした。これが聖母の無原罪のお宿りなのです。

無原罪のお宿りにおいて、私たちは、天主の御あわれみがまことに及ぶ範囲を発見するのです。まったく信じられないことであり、驚くべきことであるのは、天主が無でしかない被造物に対してどれほど多くを与えようと望まれるのか、天主の聖心が私たちの惨めさ(misery)に対してどれほど多く気にかけておられるのか、です。あわれみのラテン語である「ミゼリコルディア(Misericordia)」が示す通りです!

「見よ、わが最愛の子どもたちよ、われに造られし『無』よ、われに贖われし罪びとよ!
われは、わがあわれみを汝らに与えるに際して、無限の寛大さを示したい。汝らには無原罪の聖母が見えるか? 聖母がどれほど純粋か、どれほど美しいか、信じられないほどあらゆる徳にどれほど充ち満ちて、わが愛で燃える心を持っているかを? 最高の知恵、浸透する知性、わが永遠の命に満ち、聖霊の浄配、わが子の母、わが無限の力に参与するわが娘を? 汝らは、今までこのような被造物を見たことがあるか? これこそ、わがあわれみである!

しかし、さらに次の段階があるのです。聖母は天主の御あわれみを完全に受けられたため、今度は聖母がその子どもたちすべてに対するあわれみの源となるよう、天主は望まれたのです。イエズスが十字架の上で聖母に対して「あなたの子を見よ」と言われたとき、聖母は私たちの霊的な母となられました。それは、聖母が私たちのためにすべての恩寵の母なる源、すべての恩寵の仲介者、あわれみの御母―「マーテル・ミゼリコルディエ(mater misericordiae)」になられたことを意味しているのです! このゆえに私たちは理解するのです、人々が聖母の助けを請い求めるところがどこであれ、子どもが愛情深い母親について知っているように、聖母は「あわれみ深く」、常にあわれみ深く、母としてのあわれみに満ちておられるということを。

天主は、私たちの救いと私たちの永遠の幸福を大変望まれています。天主が、地上における天主の御あわれみの目に見えるしるしとして、御子の人間としての聖心を造られただけでなく、私たちに「あわれみの御母」を、私たちを非常に愛してくださるその御母のあわれみ深く汚れなき御心とともに与えてくださったほどに!

あわれみの年は、その深奥においては、被造物に対する天主の呼びかけなのです。「われは慈悲を示そう! 汝らにわが賜物を、わが光を、わが宝を、わが愛を与えよう!」。私たちがしなければならない唯一のことは、心の扉を広く開けて、自分を本当に天主の方に向け、インマクラータ、無原罪の聖母に倣うことです。私たちが、すべてを受け入れるという聖母の態度をもちさえすれば、私たちは、 天主の御あわれみをもう一度受け入れ、私たちの罪の浄めという天主からの驚くべき御業に始まるあふれんばかりに豊かな賜物を天主からいただくことができるのです。なぜなら、天主は何度も何度も私たちをお赦しになるのにお疲れになることは決してなく、私たちの強情さや不忠実をご覧になるのではなく、私たちの最も小さな悔い改めのしるしさえもお使いになって私たちを無限の愛の賜物に再び浸してくださるからです。

では、「無原罪の聖母の騎士」とは何でしょうか? 人間の霊魂に天主の御あわれみを注ぐための聖母の道具なのです。私たちのすべての祈り、犠牲、使徒的活動には、唯一の目標があります。汚れなきあわれみの御母を、罪と誤謬というあわれみのない闇に座したままの愛する子どもたちに近づけさせ、聖母が彼らの心に触れて、天主の無限の御あわれみに向かわせ、天主が彼らを救い、聖人にするのを可能にさせることなのです。

2015年12月3日、聖フランシスコ・ザビエルの祝日、ニゴンボ(スリランカ)にて。
カール・シュテーリン神父


聖伝のM.I.(Militia Immaculatae 無原罪の聖母の騎士会)についてのまとめ

クラウス・ガンバー神父:新しい典礼改革は、伝統的なローマ式典礼の真の破壊だった。

2016年02月05日 | カトリック・ニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 クラウス・ガンバー神父(Klaus Gamber, レーゲンスブルグの典礼研究所の創立者所長、ローマの教皇庁立典礼アカデミーの名誉会員)の言葉を聞いてください。

 ガンバー師の「ローマ典礼の改革」のフランス語版に対して、ベネディクト十六世(ラッツィンガー枢機卿)は「序言」を書いて、彼の功績を讃えてこう言っています。

第二バチカン公会議後に起こったことは、全く違うことだった。発展の実りとしての典礼の場所に、捏造された典礼が来た。私たちは、数世紀にわたる成長と発展のオーガニックな生きている過程を捨て去り、その代わりに、丁度制作過程で起こるかのように、作り上げられたものを、平凡でその場しのぎの産物を置いた。ガンバーは、真の預言者の警戒と真の証人の勇気とを持って、この捏造に反対した。そして、彼の信じられないほど豊かな知識をもって、疲れを知らずに私たちに真の典礼の生きる充満性について教えてくれた。」

 ガンバー神父は「ローマ典礼の改革」の中でこう断言しています。

「パウロ六世がそうするまで、教皇たちは固有の意味におけるミサ式次第(Ordo Missae)には一切変化を加えたことがない、ただし、特にトリエント公会議以後は、教皇たちは新しい祝日のために新しい固有文を導入しただけだ。」

「教会諸改革を導入することは聖座の機能ではないということは最も確実なことである。教皇の第一の義務は教会の諸々の伝統 - その教義、道徳、典礼の諸々の伝統 - を見守るために、第一位の司教として行動することである。」

新しい典礼改革は「伝統的なミサの、一千年以上もの歴史をもった伝統的なローマ式典礼の真の破壊」であった。(p. 102.)

「混乱は大きい! この暗闇のなかでまだ明らかに見ることができる人が誰かまだいるのだろうか? 私たちに正しい道を示すことのできる指導者が私たちの教会のどこにいるのだろうか? 自己増殖をし続け最も聖なる神秘のまっただ中でさえも汚染し続けている近代主義神学の癌のような増殖を、この癌が広がってより大きな損害を及ぼす前に切り取り捨てるだけの勇気のある司教たちはいったいどこにいるのか? 私たちにとって現代必要とされているのは新しいアタナシウスであり、新しいバジリオであり、四世紀にキリスト教世界がほとんど全てアリウスの異端に陥ってしまっていた時にこれに対して立ち上がって闘ったような司教たちである。今日、私たちには、信仰の残っている人々を一致団結させてくれるような聖人が必要である。それは私たちが誤謬に対して戦い、弱い者とフラフラしている者たちをその無力感から立ち上がらせることができるためである。」(p. 113.)

「(聖伝のミサは)もう一度、私たちの信仰の規範となり、全世界においてカトリックの一致のシンボル、大変動と終わることのない変化の時代における安定の巌とならなければならない。」

現代の教会は、新しいミサの必要が全くない。教会に必要なのは霊的生活を充足させることだ。これこそが信仰の危機を乗り越えうる。この危機は権威の危機でもある。少なくとも部分的には、権威の危機の責任は、ローマに起因されなければならない。」 (p. 68)

 聖伝の「ローマ典礼様式」と「現代典礼様式」と二つの典礼様式が存在する。

「パウロ六世の典礼形式は事実上新しい典礼様式を作り上げた。」(p. 39)

今日、私たちは、教会の聖伝ほぼ二〇〇〇年の廃墟を前にして立っている。私たちはこう思わざるを得ない。多くの改革は教会の聖伝に損害を与え、それはそれを元に戻すのが難しいほどだ。今日、かくも酷い破壊の後に、聖伝の秩序を再建築するのが可能なのかと疑問にさえ思う。しかし、私たちは希望を諦めてはならない。」(p. 95)


「私たちは東方教会にも、西方教会にも、会衆と対面する儀式などというものは存在していなかったことと言うことができるし充分に証明することもできる。むしろ存在していたのは、祈る時に東方を向くということだけであった。」 (p. 77)

「初代教会において、そして中世において、祭壇の位置を決定したのは東方を向くと言うことである。聖アウグスティヌスを引用すると、『私たちが立って祈る時、天が始まる東を向く。天主が東におられるからという理由で(あたかも天主が東から西に移動されるかのように)そうするのではない。そうではなく、私たちの心を高い秩序に、つまり天主へと向けることを思い出させてくれるためである』」

「典礼の歴史においても神学においても社会学的にもいかなる根拠もないが故に、会衆と対面したミサの儀式というのは徐々に姿を消すべきである。」 (p. 92)

「『司牧者』誌において、第二バチカン公会議のすぐ後に発表された『荘厳ミサ』という著名な本の著者であるユングマンを引用したいと思う。ユングマンはこう書いている。『初代教会の祭壇が、常に会衆と対面して儀式をするように作られていたと、しばしば繰り返し主張されるが、それはおとぎ話以外の何ものでもないことが分かった』と。」

「焦点は常に天主に向かっていなければならない。人間にではない。このことは、司祭が会衆の方に顔を向けるのではなく、祈る時に皆が天主に向かっていなければならないということを常に意味した。従って、対面式の儀式は、事実上、間違っていると結論付けなければならない。結局、対面式の儀式は、天主から離れさせ、人間に向かわせるものである。」


--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様をお待ちしております
【最新情報はこちら、年間予定一覧はこちらをご覧ください。】