アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様、
2015年12月27日(主日)に東京で聖伝のミサを捧げました。その時のお説教をご紹介いたします。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
2015年12月27日 御降誕の大祝日の八日間中の主日
小野田神父 説教
聖なる日本の殉教者巡回教会にようこそ。今日は2015年12月27日、主の御降誕の八日間の間の主日のミサをしております。
このミサの前のお知らせの前に、皆さんの主の御降誕のお祝いを心から申し上げます。今年2015年の間、会長を始め、聖歌隊の方々や侍者の方々、またこの聖ピオ十世会の教会のミサの運営を助けて下さった全ての皆さんに心から感謝します。この皆さんのお祈りと、ご支援と、全てのご協力に、百倍の、千倍のお恵みで、イエズス様が報いて下さいますように、心からお祈り申し上げます。
今日のこの御ミサの後に、ミサの後の祈りと御聖体拝領後の祈り、またお告げの祈り、いつもの祈りのようにやった後に、恒例のイエズス様の御足の接吻を、ローマの習慣に従って、私たちもする事に致しましょう。14時30分から、公教要理があります。前回は、「公教会の掟」をみましたから、次は「徳」について。16時からは第2晩課、主日の第2晩課があります。
来年は、1月3日と1月10日に、ここで主日のミサがあります。1月3日、第1主日と、10日、第3主日です。
“Venit plenitudo temporis Deus Filium suum misit ut adoptionem filiorum reciperemus.”
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄弟の皆さん、今日私たちは、クリスマスの八日の、八日間の間の主日で、私たちの主の御降誕を祝ったばかりですから、私たちの主が、一体どなたであって、私たちの為に生まれて下さった幼子イエズス様が、一体どなたであって、一体何の為に、どのような形でお生まれになったか、という事を黙想して、それから、私たちはこのクリスマスに、イエズス様から受けたお恵みを感謝する為に、どんな事をしなければならないか、その遷善の決心を立てる事に致しましょう。
今日、聖パウロの書簡では、聖パウロははっきりと言います、「約束の、予言の時が満ちて、この世の最初、アダムとエヴァの時から、救い主が送られるという約束があって、その内に多くの預言者を通して、色々な時に色々な場所を通して、色々な形で予言された救い主が、その来るその時が満ちて、天主聖父は、その御一人子を、真の天主の御一人子をこの世に遣わされた。この世に送った。天主御子は人となってお生まれになった。それは、私たちが天主の子として養子となる為である。」と。
ですから、このパウロの言葉を見ると、私たちの為にお生まれになった、この幼きイエズス・キリストは、過去の全ての予言を全て成就してお生まれになった、御生涯の後にも、お生まれになった後にも、2000年後の後にも、全て予言を成就しておられる真の救い主、人となった真の天主、この世の創造主がお生まれになった、という事が分かります。
では、「天主」というのは、どういう方なのでしょうか?私たちは、「天主が人となった」という事のあまりにも素晴らしい事に、その事をよく理解する為に、その偉大さを理解する為に、「天主が一体どのような方であるか」という事を、もう一度みる必要があります。
天主というのは、この全ての宇宙を創った方です。何万年、何十万光年の距離のある巨大なはかり知れない大宇宙を、御自分の望みのままに御創りになった。無限の可能性のある中から、この私たちの今生きている世界を自由に御創りになって、私たちを在らしめている、その天主です。
新聞によりますと、日本はものすごい事を達成した。元素の113番を遂に作って、もう自然には存在しないのだけれども、もう、きっとこの元素には、「ジャポニウム」という名前が付けられるかもしれない。私たちは、高度な技術と科学を使って、この全宇宙の神秘を解明しようとして、その一体この宇宙がどうやって作られているのか、その元となっているものは何か、その周期は何か、などと研究していますが、それら全ての法則を創り、宇宙を創り、元素を創り、今在らしめて維持している、それが天主様です。
この目に見える自然界を創っただけではありません。私たちの見る、また生きている動植物に命を与えるだけではありません。万軍の天使たち、大天使ケルビム、セラフィム、織天使、智天使、座天使、9つの階級の天使の全てを創り、号令を与え、その天使たちは、何億何兆という大群が、その天主様の御旨のままに動いておられる。
この全宇宙を支配しておられる天主が、この大宇宙でさえも、抱え包み込む事ができない、無限の天主が、無限に幸せで、無限に完成されていて、無限の永遠の、私たちの知性でははかり知ることのできない、全知全能のこの天主様が、2015年前のクリスマスに、私たちの間に、子供として、赤ちゃんとして、お生まれになりました。一体何の為に?
聖パウロは言います、「これは、私たちが天主の子供となる為だ。」
考えてもみて下さい。私たちが一体天主様の目から見ると、一体何なのでしょうか?一体どんな良い事があったのでしょうか?どんな、何かそれほどのものがあったのでしょうか?
天主様は、ただひたすらに私たちをあわれんで、その良さの為に、私たちを子供として、養子としてなさろうと、御子を送られたのでした。
そればかりではありません。私たちは実は、天主に対して罪を犯した放蕩息子でした。天主の命令に逆らって、逆らい続けて、それにもかかわらず、主は私たちの為に御子を送ってくださいました。
聖パウロは、「罪が、悪が溢れる所には、お恵みが、聖寵は更にもっと溢れる。」と、言いますが、まさに、イエズス様が私たちの為になさろうとした事は、天地を創造するよりも、更にものすごい事でした。私たちが罪によって失ったものものよりも、更にもっともっと大きなものが私たちに与えられました。復活の徹夜祭に、聖土曜日に、カトリック教会はこう歌います、「O felix culpa“このかくも偉大な贖い主を、私たちが受ける事になった原罪は、何という幸せな罪であったか”」と。私たちには、本当はそのように救い主を受けるにふさわしくなかったにもかかわらず、私たちをあわれんだが為に、救い主を送って下さった天主。私たちを養子にしようとして贖った天主。
考えてみてください。もしも私たちが不治の病で、「もうこのまま、あと数ヶ月の命だ。」と、お医者さんに宣告されたとします。それも世界で最高のお医者さんで、もう助からない、どんな事をやっても助からない、ただ助かる道は一つある。誰かが、あなたの為に貴重な臓器を提供して、それを受けて、血液を全部入れ替えて、もしかしたらその人は、それを提供したが為に、一生不自由な目を、思いをするかもしれない、危険な手術を冒さなければならないかもしれない、そうしたら、でもそうしたらあなたの命は助かる。
もしもどなたかが、それが例え、私たちがもしかしたら、「何だこのような人、」というような、軽蔑するような人かもしれませんが、誰かがやって来て、「私はあなたの事が好きです。だから私の内臓を、私の体の一部を使って下さい。」「お医者さんによれば、私の体は合うそうです。私の血も使って下さい。私はその為に手術を受けます、この生涯どんな痛い思いをしても。どうぞ、長く生きて下さい。」という人がやって来たら、もしかしたらその人が、私たちの学校の友達であったり、或いは会社の同僚で、部下だったりするかもしれません。
すると、「でも、もしもそうしたら君、一生困るよ?一生痛い思いをしなければならないよ?もしかしたら、走る事もできなくなっちゃうかもしれないよ?大丈夫ですか?」「あとちょっと、『もしもこうすれば、あと20年、30年生きる、命が延びる。』と先生が言っていますから、どうぞ使って下さい。」と、もしもこの方が私にそうやって提供して下さったら、私は何と感謝して、一生その人が生きている間、本当にもう頭が上がらないで何とお礼をして良いか分からないほどです。
私たちの主イエズス様は、天主であるにもかかわらず、この全能の、この世界の創造主であるにもかかわらず、私たちを生きさせる為に、永遠の命を与える為に、御自分の養子として迎える為に、自分の命を私たちに与える為に、十字架に釘付けにされて、生贄となって屠られる為に、血潮を全て流して、私たちの罪を洗う為に、こうお生まれになって下さいました。
そればかりではありません。私たちに秘跡や、御聖体やミサやお祈り等によって更に、力を強め、光を与え、その御教えを以って、私たちを助けてくれます。
今日、聖福音の中で、二人の義人の話をみました。一人はシメオンで、「主のキリストを見るまで、絶対に死なない。」と、聖霊から言われて、「あぁ、キリストは早く来たか。」或いは、「来ないか。」と言って、神殿で祈り、祈り、祈り、待ちに待ち続けていた老人がいました。或いは、アンナという老人は84歳まで、いつも断食と祈りを以って、神殿で日中メシアを待っていました。アブラハム、太祖、預言者、多くの義人が4000年の間、救世主が来るのを待ちに待ち焦がれて、祈りを捧げ、犠牲を捧げて、「さあ、早く主よ、天から露を降ろして下さい。早く義人を送って下さい。さあ、早く、私たちを救ってください。私たちは救い主がなければ、もうどうすることもできません。天の国を開いて下さい、私たちはこのままではもうだめです。」と、熱烈な祈りと、溜息と、願望を、天にガンガンと上げていました。でも、そうしているにもかかわらず、旧約の義人たちは、私たちの主を見る事も、触る事も、その教えを聞く事もできませんでした。
でも私たちは、2015年12月27日に生まれている私たちは、何と幸せな事でしょうか。イエズス様がどうやってお生まれになったのか、どうやってどのような御生涯だったのか、私たちの為に、どのように苦しい状態でお生まれになったのか。マリア様の元で、ヨゼフ様の元で、ナザレトで30年間従順に、御謙遜に、隠れてお過しになったのか、或いは、どのように労働に、額に汗して、貧しい口に糊をしたのか、と知る事ができます。
また、私たちを愛するがあまり、御自身の御血を全て流した事、7つ秘跡、最後の晩餐によって制定されたミサ聖祭と、新約の司祭職、聖霊の賜物、そのイエズス様の立てた教会、カトリック教会を知り、その御教えを知る事ができて、どれほど私たちは幸福でしょうか。
イエズス様が、このように小さくなって、もう福音によると、「布によって包まれて」もう身動きもできないほど包まれていたのは、私たちを自由にする為でした、罪から解放する為でした、悪魔の奴隷から解放する為でした。私たちの為にこんなに貧しくなったのは、私たちを天に於いて豊かにする為でした、天の遺産を私たちに与える為でした。こんなに弱くなったのも、私たちが悪魔の誘惑や、罪の誘惑から強く抵抗する事ができる為でした。涙を流しているのも、その涙によって私たちの罪をきれいに洗い浄めるためでした。
このようなイエズス様を見て、私たちは最後にどのような遷善の決心を立てなければならないでしょうか?
私たちは、イエズス様に対して、感謝と賛美と礼拝とを尽くさなければなりません。
何か昨日、インターネットのニュースによると、残念な事ですけれども、「アメリカのオクラホマ州では、クリスマスのイブに、州の知事の、州知事の許可を以って、マリア様の像が冒涜された。」という話を、ニュースを見ました。日本では、アンネ・フランクの本を、ちょっと破っただけで、ものすごいニュースになりました。もしもコーランに火を点けた等となれば、もうその人は、このまま生きて一生どうなっているか分かりません。ところが、マリア様やイエズス様に対しては、州知事が、「あぁ、いいよ。」と言ったそうです。
人類の大部分は、イエズス様がお生まれになった時から、「お前はいらない。」と言って、「お前の住む場所はない。さあ、さあ、」と言って、イエズス様を追いやって来ました。イエズス様は馬小屋の中で、動物の中でお生まれになりました。私たちの為に救い主がこうやって、「さあ、私の臓器を使って下さい。私の命を与えますから、さあ、永遠の命を受けて下さい。」と言っているにもかかわらず、人類は、「来るな!邪魔だ、さあ、あっちへ行け!」と言いました。
「イエズス様が生まれた」という事を聞くとヘロデは、「あぁ、メシアが生まれるのはどこだ。」「預言によれば、それはベトレヘムです。」「殺せ。」と、言いました。
イエズス様は、真の救い主は、生まれたその直後から、死の迫害を受けて、逃亡生活をしなければなりませんでした。エジプトまで、ヨゼフ様は、マリア様は、イエズス様を抱えて、言葉も分からなければ、場所も分からずに逃げなければなりませんでした。
皆さん考えてみて下さい、私たちが、「さあ、今から中国に逃げろ。」と。言葉も分からなければ、知る人も知らなければ、一体どうやって。
ところで私たちは、イエズス様はそうやって、そのように排斥されているのですから、私たちはますますイエズス様を賛美して、感謝しなければなりません。
私たちの過去は、実はヘロデにも似た、或いはオクラホマ州知事のようだったかもしれません。何故かというと、せっかく洗礼の御恵みを受けて、御聖体を受けて、天主の子となって、養子となって、天主の血を私たちの体の中に流す身となって、永遠の命を受けた、永遠の命に生きる者となった、イエズス様の兄弟となった、聖霊の神殿となったにもかかわらず、罪を犯す事によって、イエズス様よりも被造物を、イエズス様よりも、ほんのちょっとした自分の情念の方が良い、ほんのちょっとした好奇心の方が良い、この嘘の方が良い、と、イエズス様の命と、どれほど引き換えにしてきた事でしょうか。その為に私たちは、イエズス様の御像を心の中で破壊して、イエズス様に涙を流させてきてしまったのではないでしょうか。私はイエズス様に、多くの罪によってイエズス様を、「嫌だ。イエズス様よりも、他のものが良い、自分が大切だ。」と、何度言ってきた事でしょうか。
このイエズス様を、私たちはお喜ばせするように致しましょう。第1の決心は、この御降誕祭に於いて、イエズス様の眠っておられる秣桶(まぐさおけ)に、馬小屋に近付き、イエズス様に、痛悔と、愛と、感謝の祈りと、接吻と念を起こす事に致しましょう、「イエズス様、どうぞ金輪際、イエズス様を泣かせる事がないように、イエズス様をいつも離す事がないように、イエズス様をいつも私の心に留めておく事ができるようにして下さい。」それを、クリスマスの特別の捧げものとしてお捧げいたしましょう。
また第2に、最後に、イエズス様は、私たちがイエズス様のようになる事を望んでおられます。イエズス様のように謙遜に、柔和に清らかになる事を望んでおられます。また、私たちがイエズス様にますます近付く事がなるように望んでおられます。だからイエズス様の真似をする事にしましょう。イエズス様の真似をする最高の方法は、それは、「マリア様を愛する事」です。イエズス様は、マリア様の傍を決して離れませんでした。死ぬまで離れませんでした。マリア様を喜ばせようとだけしていました。マリア様は、イエズス様を喜ばせる事だけをしていました。決して悲しませる事はありませんでした。マリア様に、私たちがイエズス様を良く頂く事ができるように、お祈り致しましょう。
“時が満ちて、天主は聖父は、御子を私たちに送られた。
それは、私たちが養子となる事ができる為である。”
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄弟姉妹の皆様、
2015年12月27日(主日)に東京で聖伝のミサを捧げました。その時のお説教をご紹介いたします。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
小野田神父 説教
聖なる日本の殉教者巡回教会にようこそ。今日は2015年12月27日、主の御降誕の八日間の間の主日のミサをしております。
このミサの前のお知らせの前に、皆さんの主の御降誕のお祝いを心から申し上げます。今年2015年の間、会長を始め、聖歌隊の方々や侍者の方々、またこの聖ピオ十世会の教会のミサの運営を助けて下さった全ての皆さんに心から感謝します。この皆さんのお祈りと、ご支援と、全てのご協力に、百倍の、千倍のお恵みで、イエズス様が報いて下さいますように、心からお祈り申し上げます。
今日のこの御ミサの後に、ミサの後の祈りと御聖体拝領後の祈り、またお告げの祈り、いつもの祈りのようにやった後に、恒例のイエズス様の御足の接吻を、ローマの習慣に従って、私たちもする事に致しましょう。14時30分から、公教要理があります。前回は、「公教会の掟」をみましたから、次は「徳」について。16時からは第2晩課、主日の第2晩課があります。
来年は、1月3日と1月10日に、ここで主日のミサがあります。1月3日、第1主日と、10日、第3主日です。
“Venit plenitudo temporis Deus Filium suum misit ut adoptionem filiorum reciperemus.”
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄弟の皆さん、今日私たちは、クリスマスの八日の、八日間の間の主日で、私たちの主の御降誕を祝ったばかりですから、私たちの主が、一体どなたであって、私たちの為に生まれて下さった幼子イエズス様が、一体どなたであって、一体何の為に、どのような形でお生まれになったか、という事を黙想して、それから、私たちはこのクリスマスに、イエズス様から受けたお恵みを感謝する為に、どんな事をしなければならないか、その遷善の決心を立てる事に致しましょう。
今日、聖パウロの書簡では、聖パウロははっきりと言います、「約束の、予言の時が満ちて、この世の最初、アダムとエヴァの時から、救い主が送られるという約束があって、その内に多くの預言者を通して、色々な時に色々な場所を通して、色々な形で予言された救い主が、その来るその時が満ちて、天主聖父は、その御一人子を、真の天主の御一人子をこの世に遣わされた。この世に送った。天主御子は人となってお生まれになった。それは、私たちが天主の子として養子となる為である。」と。
ですから、このパウロの言葉を見ると、私たちの為にお生まれになった、この幼きイエズス・キリストは、過去の全ての予言を全て成就してお生まれになった、御生涯の後にも、お生まれになった後にも、2000年後の後にも、全て予言を成就しておられる真の救い主、人となった真の天主、この世の創造主がお生まれになった、という事が分かります。
では、「天主」というのは、どういう方なのでしょうか?私たちは、「天主が人となった」という事のあまりにも素晴らしい事に、その事をよく理解する為に、その偉大さを理解する為に、「天主が一体どのような方であるか」という事を、もう一度みる必要があります。
天主というのは、この全ての宇宙を創った方です。何万年、何十万光年の距離のある巨大なはかり知れない大宇宙を、御自分の望みのままに御創りになった。無限の可能性のある中から、この私たちの今生きている世界を自由に御創りになって、私たちを在らしめている、その天主です。
新聞によりますと、日本はものすごい事を達成した。元素の113番を遂に作って、もう自然には存在しないのだけれども、もう、きっとこの元素には、「ジャポニウム」という名前が付けられるかもしれない。私たちは、高度な技術と科学を使って、この全宇宙の神秘を解明しようとして、その一体この宇宙がどうやって作られているのか、その元となっているものは何か、その周期は何か、などと研究していますが、それら全ての法則を創り、宇宙を創り、元素を創り、今在らしめて維持している、それが天主様です。
この目に見える自然界を創っただけではありません。私たちの見る、また生きている動植物に命を与えるだけではありません。万軍の天使たち、大天使ケルビム、セラフィム、織天使、智天使、座天使、9つの階級の天使の全てを創り、号令を与え、その天使たちは、何億何兆という大群が、その天主様の御旨のままに動いておられる。
この全宇宙を支配しておられる天主が、この大宇宙でさえも、抱え包み込む事ができない、無限の天主が、無限に幸せで、無限に完成されていて、無限の永遠の、私たちの知性でははかり知ることのできない、全知全能のこの天主様が、2015年前のクリスマスに、私たちの間に、子供として、赤ちゃんとして、お生まれになりました。一体何の為に?
聖パウロは言います、「これは、私たちが天主の子供となる為だ。」
考えてもみて下さい。私たちが一体天主様の目から見ると、一体何なのでしょうか?一体どんな良い事があったのでしょうか?どんな、何かそれほどのものがあったのでしょうか?
天主様は、ただひたすらに私たちをあわれんで、その良さの為に、私たちを子供として、養子としてなさろうと、御子を送られたのでした。
そればかりではありません。私たちは実は、天主に対して罪を犯した放蕩息子でした。天主の命令に逆らって、逆らい続けて、それにもかかわらず、主は私たちの為に御子を送ってくださいました。
聖パウロは、「罪が、悪が溢れる所には、お恵みが、聖寵は更にもっと溢れる。」と、言いますが、まさに、イエズス様が私たちの為になさろうとした事は、天地を創造するよりも、更にものすごい事でした。私たちが罪によって失ったものものよりも、更にもっともっと大きなものが私たちに与えられました。復活の徹夜祭に、聖土曜日に、カトリック教会はこう歌います、「O felix culpa“このかくも偉大な贖い主を、私たちが受ける事になった原罪は、何という幸せな罪であったか”」と。私たちには、本当はそのように救い主を受けるにふさわしくなかったにもかかわらず、私たちをあわれんだが為に、救い主を送って下さった天主。私たちを養子にしようとして贖った天主。
考えてみてください。もしも私たちが不治の病で、「もうこのまま、あと数ヶ月の命だ。」と、お医者さんに宣告されたとします。それも世界で最高のお医者さんで、もう助からない、どんな事をやっても助からない、ただ助かる道は一つある。誰かが、あなたの為に貴重な臓器を提供して、それを受けて、血液を全部入れ替えて、もしかしたらその人は、それを提供したが為に、一生不自由な目を、思いをするかもしれない、危険な手術を冒さなければならないかもしれない、そうしたら、でもそうしたらあなたの命は助かる。
もしもどなたかが、それが例え、私たちがもしかしたら、「何だこのような人、」というような、軽蔑するような人かもしれませんが、誰かがやって来て、「私はあなたの事が好きです。だから私の内臓を、私の体の一部を使って下さい。」「お医者さんによれば、私の体は合うそうです。私の血も使って下さい。私はその為に手術を受けます、この生涯どんな痛い思いをしても。どうぞ、長く生きて下さい。」という人がやって来たら、もしかしたらその人が、私たちの学校の友達であったり、或いは会社の同僚で、部下だったりするかもしれません。
すると、「でも、もしもそうしたら君、一生困るよ?一生痛い思いをしなければならないよ?もしかしたら、走る事もできなくなっちゃうかもしれないよ?大丈夫ですか?」「あとちょっと、『もしもこうすれば、あと20年、30年生きる、命が延びる。』と先生が言っていますから、どうぞ使って下さい。」と、もしもこの方が私にそうやって提供して下さったら、私は何と感謝して、一生その人が生きている間、本当にもう頭が上がらないで何とお礼をして良いか分からないほどです。
私たちの主イエズス様は、天主であるにもかかわらず、この全能の、この世界の創造主であるにもかかわらず、私たちを生きさせる為に、永遠の命を与える為に、御自分の養子として迎える為に、自分の命を私たちに与える為に、十字架に釘付けにされて、生贄となって屠られる為に、血潮を全て流して、私たちの罪を洗う為に、こうお生まれになって下さいました。
そればかりではありません。私たちに秘跡や、御聖体やミサやお祈り等によって更に、力を強め、光を与え、その御教えを以って、私たちを助けてくれます。
今日、聖福音の中で、二人の義人の話をみました。一人はシメオンで、「主のキリストを見るまで、絶対に死なない。」と、聖霊から言われて、「あぁ、キリストは早く来たか。」或いは、「来ないか。」と言って、神殿で祈り、祈り、祈り、待ちに待ち続けていた老人がいました。或いは、アンナという老人は84歳まで、いつも断食と祈りを以って、神殿で日中メシアを待っていました。アブラハム、太祖、預言者、多くの義人が4000年の間、救世主が来るのを待ちに待ち焦がれて、祈りを捧げ、犠牲を捧げて、「さあ、早く主よ、天から露を降ろして下さい。早く義人を送って下さい。さあ、早く、私たちを救ってください。私たちは救い主がなければ、もうどうすることもできません。天の国を開いて下さい、私たちはこのままではもうだめです。」と、熱烈な祈りと、溜息と、願望を、天にガンガンと上げていました。でも、そうしているにもかかわらず、旧約の義人たちは、私たちの主を見る事も、触る事も、その教えを聞く事もできませんでした。
でも私たちは、2015年12月27日に生まれている私たちは、何と幸せな事でしょうか。イエズス様がどうやってお生まれになったのか、どうやってどのような御生涯だったのか、私たちの為に、どのように苦しい状態でお生まれになったのか。マリア様の元で、ヨゼフ様の元で、ナザレトで30年間従順に、御謙遜に、隠れてお過しになったのか、或いは、どのように労働に、額に汗して、貧しい口に糊をしたのか、と知る事ができます。
また、私たちを愛するがあまり、御自身の御血を全て流した事、7つ秘跡、最後の晩餐によって制定されたミサ聖祭と、新約の司祭職、聖霊の賜物、そのイエズス様の立てた教会、カトリック教会を知り、その御教えを知る事ができて、どれほど私たちは幸福でしょうか。
イエズス様が、このように小さくなって、もう福音によると、「布によって包まれて」もう身動きもできないほど包まれていたのは、私たちを自由にする為でした、罪から解放する為でした、悪魔の奴隷から解放する為でした。私たちの為にこんなに貧しくなったのは、私たちを天に於いて豊かにする為でした、天の遺産を私たちに与える為でした。こんなに弱くなったのも、私たちが悪魔の誘惑や、罪の誘惑から強く抵抗する事ができる為でした。涙を流しているのも、その涙によって私たちの罪をきれいに洗い浄めるためでした。
このようなイエズス様を見て、私たちは最後にどのような遷善の決心を立てなければならないでしょうか?
私たちは、イエズス様に対して、感謝と賛美と礼拝とを尽くさなければなりません。
何か昨日、インターネットのニュースによると、残念な事ですけれども、「アメリカのオクラホマ州では、クリスマスのイブに、州の知事の、州知事の許可を以って、マリア様の像が冒涜された。」という話を、ニュースを見ました。日本では、アンネ・フランクの本を、ちょっと破っただけで、ものすごいニュースになりました。もしもコーランに火を点けた等となれば、もうその人は、このまま生きて一生どうなっているか分かりません。ところが、マリア様やイエズス様に対しては、州知事が、「あぁ、いいよ。」と言ったそうです。
人類の大部分は、イエズス様がお生まれになった時から、「お前はいらない。」と言って、「お前の住む場所はない。さあ、さあ、」と言って、イエズス様を追いやって来ました。イエズス様は馬小屋の中で、動物の中でお生まれになりました。私たちの為に救い主がこうやって、「さあ、私の臓器を使って下さい。私の命を与えますから、さあ、永遠の命を受けて下さい。」と言っているにもかかわらず、人類は、「来るな!邪魔だ、さあ、あっちへ行け!」と言いました。
「イエズス様が生まれた」という事を聞くとヘロデは、「あぁ、メシアが生まれるのはどこだ。」「預言によれば、それはベトレヘムです。」「殺せ。」と、言いました。
イエズス様は、真の救い主は、生まれたその直後から、死の迫害を受けて、逃亡生活をしなければなりませんでした。エジプトまで、ヨゼフ様は、マリア様は、イエズス様を抱えて、言葉も分からなければ、場所も分からずに逃げなければなりませんでした。
皆さん考えてみて下さい、私たちが、「さあ、今から中国に逃げろ。」と。言葉も分からなければ、知る人も知らなければ、一体どうやって。
ところで私たちは、イエズス様はそうやって、そのように排斥されているのですから、私たちはますますイエズス様を賛美して、感謝しなければなりません。
私たちの過去は、実はヘロデにも似た、或いはオクラホマ州知事のようだったかもしれません。何故かというと、せっかく洗礼の御恵みを受けて、御聖体を受けて、天主の子となって、養子となって、天主の血を私たちの体の中に流す身となって、永遠の命を受けた、永遠の命に生きる者となった、イエズス様の兄弟となった、聖霊の神殿となったにもかかわらず、罪を犯す事によって、イエズス様よりも被造物を、イエズス様よりも、ほんのちょっとした自分の情念の方が良い、ほんのちょっとした好奇心の方が良い、この嘘の方が良い、と、イエズス様の命と、どれほど引き換えにしてきた事でしょうか。その為に私たちは、イエズス様の御像を心の中で破壊して、イエズス様に涙を流させてきてしまったのではないでしょうか。私はイエズス様に、多くの罪によってイエズス様を、「嫌だ。イエズス様よりも、他のものが良い、自分が大切だ。」と、何度言ってきた事でしょうか。
このイエズス様を、私たちはお喜ばせするように致しましょう。第1の決心は、この御降誕祭に於いて、イエズス様の眠っておられる秣桶(まぐさおけ)に、馬小屋に近付き、イエズス様に、痛悔と、愛と、感謝の祈りと、接吻と念を起こす事に致しましょう、「イエズス様、どうぞ金輪際、イエズス様を泣かせる事がないように、イエズス様をいつも離す事がないように、イエズス様をいつも私の心に留めておく事ができるようにして下さい。」それを、クリスマスの特別の捧げものとしてお捧げいたしましょう。
また第2に、最後に、イエズス様は、私たちがイエズス様のようになる事を望んでおられます。イエズス様のように謙遜に、柔和に清らかになる事を望んでおられます。また、私たちがイエズス様にますます近付く事がなるように望んでおられます。だからイエズス様の真似をする事にしましょう。イエズス様の真似をする最高の方法は、それは、「マリア様を愛する事」です。イエズス様は、マリア様の傍を決して離れませんでした。死ぬまで離れませんでした。マリア様を喜ばせようとだけしていました。マリア様は、イエズス様を喜ばせる事だけをしていました。決して悲しませる事はありませんでした。マリア様に、私たちがイエズス様を良く頂く事ができるように、お祈り致しましょう。
“時が満ちて、天主は聖父は、御子を私たちに送られた。
それは、私たちが養子となる事ができる為である。”
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。