Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

時が満ちて、天主は聖父は、御子を私たちに送られた。それは、私たちが養子となる事ができる為である。

2016年01月13日 | お説教・霊的講話
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 2015年12月27日(主日)に東京で聖伝のミサを捧げました。その時のお説教をご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

2015年12月27日 御降誕の大祝日の八日間中の主日
小野田神父 説教


 聖なる日本の殉教者巡回教会にようこそ。今日は2015年12月27日、主の御降誕の八日間の間の主日のミサをしております。

 このミサの前のお知らせの前に、皆さんの主の御降誕のお祝いを心から申し上げます。今年2015年の間、会長を始め、聖歌隊の方々や侍者の方々、またこの聖ピオ十世会の教会のミサの運営を助けて下さった全ての皆さんに心から感謝します。この皆さんのお祈りと、ご支援と、全てのご協力に、百倍の、千倍のお恵みで、イエズス様が報いて下さいますように、心からお祈り申し上げます。

 今日のこの御ミサの後に、ミサの後の祈りと御聖体拝領後の祈り、またお告げの祈り、いつもの祈りのようにやった後に、恒例のイエズス様の御足の接吻を、ローマの習慣に従って、私たちもする事に致しましょう。14時30分から、公教要理があります。前回は、「公教会の掟」をみましたから、次は「徳」について。16時からは第2晩課、主日の第2晩課があります。

 来年は、1月3日と1月10日に、ここで主日のミサがあります。1月3日、第1主日と、10日、第3主日です。

 
“Venit plenitudo temporis Deus Filium suum misit ut adoptionem filiorum reciperemus.”

 聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

 愛する兄弟の皆さん、今日私たちは、クリスマスの八日の、八日間の間の主日で、私たちの主の御降誕を祝ったばかりですから、私たちの主が、一体どなたであって、私たちの為に生まれて下さった幼子イエズス様が、一体どなたであって、一体何の為に、どのような形でお生まれになったか、という事を黙想して、それから、私たちはこのクリスマスに、イエズス様から受けたお恵みを感謝する為に、どんな事をしなければならないか、その遷善の決心を立てる事に致しましょう。

 今日、聖パウロの書簡では、聖パウロははっきりと言います、「約束の、予言の時が満ちて、この世の最初、アダムとエヴァの時から、救い主が送られるという約束があって、その内に多くの預言者を通して、色々な時に色々な場所を通して、色々な形で予言された救い主が、その来るその時が満ちて、天主聖父は、その御一人子を、真の天主の御一人子をこの世に遣わされた。この世に送った。天主御子は人となってお生まれになった。それは、私たちが天主の子として養子となる為である。」と。

 ですから、このパウロの言葉を見ると、私たちの為にお生まれになった、この幼きイエズス・キリストは、過去の全ての予言を全て成就してお生まれになった、御生涯の後にも、お生まれになった後にも、2000年後の後にも、全て予言を成就しておられる真の救い主、人となった真の天主、この世の創造主がお生まれになった、という事が分かります。

 では、「天主」というのは、どういう方なのでしょうか?私たちは、「天主が人となった」という事のあまりにも素晴らしい事に、その事をよく理解する為に、その偉大さを理解する為に、「天主が一体どのような方であるか」という事を、もう一度みる必要があります。

 天主というのは、この全ての宇宙を創った方です。何万年、何十万光年の距離のある巨大なはかり知れない大宇宙を、御自分の望みのままに御創りになった。無限の可能性のある中から、この私たちの今生きている世界を自由に御創りになって、私たちを在らしめている、その天主です。

 新聞によりますと、日本はものすごい事を達成した。元素の113番を遂に作って、もう自然には存在しないのだけれども、もう、きっとこの元素には、「ジャポニウム」という名前が付けられるかもしれない。私たちは、高度な技術と科学を使って、この全宇宙の神秘を解明しようとして、その一体この宇宙がどうやって作られているのか、その元となっているものは何か、その周期は何か、などと研究していますが、それら全ての法則を創り、宇宙を創り、元素を創り、今在らしめて維持している、それが天主様です。

 この目に見える自然界を創っただけではありません。私たちの見る、また生きている動植物に命を与えるだけではありません。万軍の天使たち、大天使ケルビム、セラフィム、織天使、智天使、座天使、9つの階級の天使の全てを創り、号令を与え、その天使たちは、何億何兆という大群が、その天主様の御旨のままに動いておられる。

 この全宇宙を支配しておられる天主が、この大宇宙でさえも、抱え包み込む事ができない、無限の天主が、無限に幸せで、無限に完成されていて、無限の永遠の、私たちの知性でははかり知ることのできない、全知全能のこの天主様が、2015年前のクリスマスに、私たちの間に、子供として、赤ちゃんとして、お生まれになりました。一体何の為に?

 聖パウロは言います、「これは、私たちが天主の子供となる為だ。」

 考えてもみて下さい。私たちが一体天主様の目から見ると、一体何なのでしょうか?一体どんな良い事があったのでしょうか?どんな、何かそれほどのものがあったのでしょうか?

 天主様は、ただひたすらに私たちをあわれんで、その良さの為に、私たちを子供として、養子としてなさろうと、御子を送られたのでした。

 そればかりではありません。私たちは実は、天主に対して罪を犯した放蕩息子でした。天主の命令に逆らって、逆らい続けて、それにもかかわらず、主は私たちの為に御子を送ってくださいました。

 聖パウロは、「罪が、悪が溢れる所には、お恵みが、聖寵は更にもっと溢れる。」と、言いますが、まさに、イエズス様が私たちの為になさろうとした事は、天地を創造するよりも、更にものすごい事でした。私たちが罪によって失ったものものよりも、更にもっともっと大きなものが私たちに与えられました。復活の徹夜祭に、聖土曜日に、カトリック教会はこう歌います、「O felix culpa“このかくも偉大な贖い主を、私たちが受ける事になった原罪は、何という幸せな罪であったか”」と。私たちには、本当はそのように救い主を受けるにふさわしくなかったにもかかわらず、私たちをあわれんだが為に、救い主を送って下さった天主。私たちを養子にしようとして贖った天主。

 考えてみてください。もしも私たちが不治の病で、「もうこのまま、あと数ヶ月の命だ。」と、お医者さんに宣告されたとします。それも世界で最高のお医者さんで、もう助からない、どんな事をやっても助からない、ただ助かる道は一つある。誰かが、あなたの為に貴重な臓器を提供して、それを受けて、血液を全部入れ替えて、もしかしたらその人は、それを提供したが為に、一生不自由な目を、思いをするかもしれない、危険な手術を冒さなければならないかもしれない、そうしたら、でもそうしたらあなたの命は助かる。

 もしもどなたかが、それが例え、私たちがもしかしたら、「何だこのような人、」というような、軽蔑するような人かもしれませんが、誰かがやって来て、「私はあなたの事が好きです。だから私の内臓を、私の体の一部を使って下さい。」「お医者さんによれば、私の体は合うそうです。私の血も使って下さい。私はその為に手術を受けます、この生涯どんな痛い思いをしても。どうぞ、長く生きて下さい。」という人がやって来たら、もしかしたらその人が、私たちの学校の友達であったり、或いは会社の同僚で、部下だったりするかもしれません。

 すると、「でも、もしもそうしたら君、一生困るよ?一生痛い思いをしなければならないよ?もしかしたら、走る事もできなくなっちゃうかもしれないよ?大丈夫ですか?」「あとちょっと、『もしもこうすれば、あと20年、30年生きる、命が延びる。』と先生が言っていますから、どうぞ使って下さい。」と、もしもこの方が私にそうやって提供して下さったら、私は何と感謝して、一生その人が生きている間、本当にもう頭が上がらないで何とお礼をして良いか分からないほどです。

 私たちの主イエズス様は、天主であるにもかかわらず、この全能の、この世界の創造主であるにもかかわらず、私たちを生きさせる為に、永遠の命を与える為に、御自分の養子として迎える為に、自分の命を私たちに与える為に、十字架に釘付けにされて、生贄となって屠られる為に、血潮を全て流して、私たちの罪を洗う為に、こうお生まれになって下さいました。

 そればかりではありません。私たちに秘跡や、御聖体やミサやお祈り等によって更に、力を強め、光を与え、その御教えを以って、私たちを助けてくれます。

 今日、聖福音の中で、二人の義人の話をみました。一人はシメオンで、「主のキリストを見るまで、絶対に死なない。」と、聖霊から言われて、「あぁ、キリストは早く来たか。」或いは、「来ないか。」と言って、神殿で祈り、祈り、祈り、待ちに待ち続けていた老人がいました。或いは、アンナという老人は84歳まで、いつも断食と祈りを以って、神殿で日中メシアを待っていました。アブラハム、太祖、預言者、多くの義人が4000年の間、救世主が来るのを待ちに待ち焦がれて、祈りを捧げ、犠牲を捧げて、「さあ、早く主よ、天から露を降ろして下さい。早く義人を送って下さい。さあ、早く、私たちを救ってください。私たちは救い主がなければ、もうどうすることもできません。天の国を開いて下さい、私たちはこのままではもうだめです。」と、熱烈な祈りと、溜息と、願望を、天にガンガンと上げていました。でも、そうしているにもかかわらず、旧約の義人たちは、私たちの主を見る事も、触る事も、その教えを聞く事もできませんでした。

 でも私たちは、2015年12月27日に生まれている私たちは、何と幸せな事でしょうか。イエズス様がどうやってお生まれになったのか、どうやってどのような御生涯だったのか、私たちの為に、どのように苦しい状態でお生まれになったのか。マリア様の元で、ヨゼフ様の元で、ナザレトで30年間従順に、御謙遜に、隠れてお過しになったのか、或いは、どのように労働に、額に汗して、貧しい口に糊をしたのか、と知る事ができます。

 また、私たちを愛するがあまり、御自身の御血を全て流した事、7つ秘跡、最後の晩餐によって制定されたミサ聖祭と、新約の司祭職、聖霊の賜物、そのイエズス様の立てた教会、カトリック教会を知り、その御教えを知る事ができて、どれほど私たちは幸福でしょうか。

 イエズス様が、このように小さくなって、もう福音によると、「布によって包まれて」もう身動きもできないほど包まれていたのは、私たちを自由にする為でした、罪から解放する為でした、悪魔の奴隷から解放する為でした。私たちの為にこんなに貧しくなったのは、私たちを天に於いて豊かにする為でした、天の遺産を私たちに与える為でした。こんなに弱くなったのも、私たちが悪魔の誘惑や、罪の誘惑から強く抵抗する事ができる為でした。涙を流しているのも、その涙によって私たちの罪をきれいに洗い浄めるためでした。

 このようなイエズス様を見て、私たちは最後にどのような遷善の決心を立てなければならないでしょうか?

 私たちは、イエズス様に対して、感謝と賛美と礼拝とを尽くさなければなりません。

 何か昨日、インターネットのニュースによると、残念な事ですけれども、「アメリカのオクラホマ州では、クリスマスのイブに、州の知事の、州知事の許可を以って、マリア様の像が冒涜された。」という話を、ニュースを見ました。日本では、アンネ・フランクの本を、ちょっと破っただけで、ものすごいニュースになりました。もしもコーランに火を点けた等となれば、もうその人は、このまま生きて一生どうなっているか分かりません。ところが、マリア様やイエズス様に対しては、州知事が、「あぁ、いいよ。」と言ったそうです。

 人類の大部分は、イエズス様がお生まれになった時から、「お前はいらない。」と言って、「お前の住む場所はない。さあ、さあ、」と言って、イエズス様を追いやって来ました。イエズス様は馬小屋の中で、動物の中でお生まれになりました。私たちの為に救い主がこうやって、「さあ、私の臓器を使って下さい。私の命を与えますから、さあ、永遠の命を受けて下さい。」と言っているにもかかわらず、人類は、「来るな!邪魔だ、さあ、あっちへ行け!」と言いました。

 「イエズス様が生まれた」という事を聞くとヘロデは、「あぁ、メシアが生まれるのはどこだ。」「預言によれば、それはベトレヘムです。」「殺せ。」と、言いました。

 イエズス様は、真の救い主は、生まれたその直後から、死の迫害を受けて、逃亡生活をしなければなりませんでした。エジプトまで、ヨゼフ様は、マリア様は、イエズス様を抱えて、言葉も分からなければ、場所も分からずに逃げなければなりませんでした。

 皆さん考えてみて下さい、私たちが、「さあ、今から中国に逃げろ。」と。言葉も分からなければ、知る人も知らなければ、一体どうやって。

 ところで私たちは、イエズス様はそうやって、そのように排斥されているのですから、私たちはますますイエズス様を賛美して、感謝しなければなりません。

 私たちの過去は、実はヘロデにも似た、或いはオクラホマ州知事のようだったかもしれません。何故かというと、せっかく洗礼の御恵みを受けて、御聖体を受けて、天主の子となって、養子となって、天主の血を私たちの体の中に流す身となって、永遠の命を受けた、永遠の命に生きる者となった、イエズス様の兄弟となった、聖霊の神殿となったにもかかわらず、罪を犯す事によって、イエズス様よりも被造物を、イエズス様よりも、ほんのちょっとした自分の情念の方が良い、ほんのちょっとした好奇心の方が良い、この嘘の方が良い、と、イエズス様の命と、どれほど引き換えにしてきた事でしょうか。その為に私たちは、イエズス様の御像を心の中で破壊して、イエズス様に涙を流させてきてしまったのではないでしょうか。私はイエズス様に、多くの罪によってイエズス様を、「嫌だ。イエズス様よりも、他のものが良い、自分が大切だ。」と、何度言ってきた事でしょうか。

 このイエズス様を、私たちはお喜ばせするように致しましょう。第1の決心は、この御降誕祭に於いて、イエズス様の眠っておられる秣桶(まぐさおけ)に、馬小屋に近付き、イエズス様に、痛悔と、愛と、感謝の祈りと、接吻と念を起こす事に致しましょう、「イエズス様、どうぞ金輪際、イエズス様を泣かせる事がないように、イエズス様をいつも離す事がないように、イエズス様をいつも私の心に留めておく事ができるようにして下さい。」それを、クリスマスの特別の捧げものとしてお捧げいたしましょう。

 また第2に、最後に、イエズス様は、私たちがイエズス様のようになる事を望んでおられます。イエズス様のように謙遜に、柔和に清らかになる事を望んでおられます。また、私たちがイエズス様にますます近付く事がなるように望んでおられます。だからイエズス様の真似をする事にしましょう。イエズス様の真似をする最高の方法は、それは、「マリア様を愛する事」です。イエズス様は、マリア様の傍を決して離れませんでした。死ぬまで離れませんでした。マリア様を喜ばせようとだけしていました。マリア様は、イエズス様を喜ばせる事だけをしていました。決して悲しませる事はありませんでした。マリア様に、私たちがイエズス様を良く頂く事ができるように、お祈り致しましょう。

 “時が満ちて、天主は聖父は、御子を私たちに送られた。
それは、私たちが養子となる事ができる為である。”

 聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

2016年1月10日 聖ピオ十世会レネー神父様による聖伝ミサ(大阪): 私達の究極の幸せとは何であるか

2016年01月12日 | お説教・霊的講話
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

こんにちは!

 聖ピオ十世会のレネー神父様が、一昨日の主日と昨日の月曜日に大阪で聖伝のミサを捧げてくださいました。次のようなご報告をいただきましたので愛する兄弟姉妹の皆様にご紹介します。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

【報告】
1月の大阪での主日の御ミサの報告をお送りいたします。
1月10日 聖家族の祝日(御公現後第一主日)のミサには19名が、
1月11日 御公現の随意ミサには15名の方々が御ミサに与る御恵みを頂きました。
 デオ・グラチアス!

今年はレネー神父は、「十戒」についてシリーズでお説教をしてくださるそうで、10日はまず「十戒」について、11日には「第一戒」(第一部)をお聞きしました。

10日のお説教では、私達の究極の幸せとは何であるかをよく考察した後、それは「無限の善」を所有する事、つまり唯一の無限の善であられる天主を所有する事であると理解いたしました。

そして、天主を所有するために見いだし、永遠の生命に至る唯一の道こそがイエズス・キリストであり、その愛の掟を守るためには祈りと秘跡によってイエズス様からの恩寵をうける必要がある。決して自分の力では出来ない事を忘れないよう、年頭にあたり、マリア様の模範によって天主様をお喜ばせする決心をたてました。

11日のお説教では、まず天主がどのような方であられるかを美しく述べられ、私達が「天主を何にもまして一番にする」という必要性を説明して頂きました。また、「第一戒」にはどんな罪があるのか、信仰、希望、愛徳に反する罪とは何かを例をあげてわかりやすく教えてくだいました。私達の霊魂を養うためご自身を私達にお与えになる天主に感謝しきれない思いで胸がいっぱいになりました。御聖体、イエズス様こそが私達の命の掟そのものなのですから、御聖体にましますイエズス様に恩寵を願い、ますますイエズス様と一致し、イエズス様を御愛しできるよう最も忠実に天主の掟を守られたマリア様にお取次ぎを願います。

お説教の途中でちいさなハプニングがありました。
レネー神父様のお説教の日本語訳を読んでくださっていた兄弟姉妹の方が、『イエズス様が御聖体としてご自分をお与えになる』というところで感極まって声が出なくなってしまいました。涙ながらにひと言、ひと言、続けて読まれるのを聞いて私達も感動せずにいられませんでした。


私たちにとって本当の自由とは何かー御降誕の神秘

2016年01月11日 | お説教・霊的講話
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 12月26日、最初の殉教者聖ステファノの祝日に大阪で行った聖伝のミサのお説教をご紹介いたします。


天主様の祝福が豊かにありますように!

2015年12月26日 最初の殉教者聖ステファノの祝日のミサ
小野田神父 説教



 聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

 聖母の汚れ無き御心巡回教会にようこそ。今日は2015年12月26日の聖ステファノ、最初の殉教者のミサをしています。今日のこのミサの後、聖体拝領の後の祈りの後に、イエズス様の、幼きイエズス様の礼拝を、ローマの習慣に従って致しましょう。
それから、いつものように、土曜日の公教要理があります。今日は、イエズス・キリストについて、その続きを致しましょう。
12月31日にも御ミサがあります。午後の6時30分からです。

 
 聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

 愛する兄弟の皆さん、クリスマスの翌日ですから、私たちはイエズス様の御降誕の神秘を続けて黙想する事に致しましょう。

 昨日は、一体何故、イエズス様が幼子の姿をとってお生まれになったのか、それは私たちからの愛を求める為だった。そして私たちを赦す為に、赦そうとするが為に、この世にやって来た、という事を黙想しました。

 この私たちを赦そうとする為にやって来た天主は、幼子の姿をとったばかりではありませんでした。奴隷の姿をも私たちに見せて、あたかもしもべであるかのように、あたかも奴隷であるかのように、従う者であるかのように、幼子になられました。そしてその事を黙想して、今日は聖ステファノと、そしてマリア様の土曜日ですから、2つの遷善の決心を立てる事に致しましょう。

 昨日、クリスマスの終わってから、病気の人の方のお見舞いに行きました。そのお見舞いの帰りに、中国の漢字の話が出て、そして占いを古代中国の人が、占いをする為に多くの人が、占いをする度に生贄となって捧げられた、という話を聞きました。確かに思ってみると、世界各地で悪魔は、大体恐ろしい形相をした像を作らせて、或いは火の燃えている赤い顔、全身が赤い、怒ったような物凄い形相の恐ろしい姿の神々の姿をとって、或いは恐ろしい獣であるかのような、ライオンと虎と豹とものすごい形相の怒った顔。或いは象の様な、或いは猿の様なおかしい恰好をした、或いは恐ろしい、或いはおどろおどろしい姿をして、人々に自分の命令に従うようにと、或いは自分に犠牲を捧げるように、人身御供を捧げるように、さもなければ恐ろしい呪いがかかるぞ、と言って脅したり、或いはメキシコのアステカのように、人の心臓を捧げなければ太陽が止まってしまうぞ、と脅したり、多くの人々の命と、生きている人々の血をすすって、そして人々は恐怖と恐ろしさのあまりに生きていました。

 でも真の天主様はそうではありませんでした。私たちに、私たちから恐れを、恐怖を、のではなく、呼び起こすのではなく、「むしろ私は、仕えられる為ではなく、仕える為にやって来た。」

 お生まれになったその当時、その時、イエズス様は真の天主様は、くるまれて、布に包まれて、手足を動かせる事もできずに、「それがしるしである。」と、天使から言われた通り、くるまって布に包まれて、身動きもできない形でお生まれになりました。

 イエズス様は、被造物であるマリア様とヨゼフ様の元に、30年間従順に過ごしました。

 この全地宇宙を創った天主。天使たちが従順に従うこの天主様。王の王である天主。何もすることのない、何も幸せに欠ける所が無い、無限に幸福である天主。もうその喜びにこれ以上の喜びはない、という、そして全てのものはその元に従っているという天主。

 この全知全能の永遠の無限の至福の天主が、ヨゼフ様の元に、お掃除をしたり、水を汲んだり、働いたり、額に汗を流して重い物を持ったり、労働をして、そして貧しい賃金でようやく口に糊して、そしてお腹を空かせて、寒い冬、暑い夏、そして人からは、「貧乏人だ」或いは、「薄汚い」などと言われながら生活した天主。

 最後には、しもべの最も極悪人なしもべとして、十字架に付けられて、私たちの為に、自分の御血を流されて、そして私たちに全てを与え尽くした、しもべとして、天主でありながら奴隷の姿を、天主であるという事を固守せず、奴隷の姿をとって、十字架に至るまで、十字架の死に至るまで従順でおられた、従う者でおられたイエズス様。そういう形で、そういう奴隷として、従う者としてお生まれになりました。

 これを見ると、「私たちにとって本当の自由とは何か」とよく理解させてくれます。本当の自由というのは、「天主を愛する自由」であって、「真理を信じる自由で」あって、「善を選ぶ自由」であって、何でも悪でも、悪い事でも好き勝手するのが自由ではありません。本当の自由というのは、「この世からの、被造物への愛着からの自由で」あって、「天主に対して従順である自由」である。天主以外のものに愛着を持つ者は、本当の自由ではなくて、これは隷属状態への始めだ。悪魔と自分に対する隷属の始まりだ、という事を教えてくれます。

 このイエズス様は私たちに、そこまで王の王であるにもかかわらず、このようなしもべの状態で、私たちにお生まれになった。一体私たちが、私たちの一体どこを、そんなに大切に思って下さったのでしょうか?私たちにとって、何か主のお目に適う良い事があったのでしょうか?どうして、主はそこまでも私たちの為にやって下さるのでしょうか?

 主は、天主は、私たちをただ無償に愛するが為に、全てをなげうって、私たちの愛を勝ち取ろう、としもべの姿さえもとられるのでした。それにもかかわらず私たちは、天主のしもべとなろうとせずに、悪魔からの要求には、「はい。はい。」とよく従い、そして天主からの命令にはどれほど多く、「嫌だ。嫌いだ。」と言ってきた事でしょうか。イエズス様は、私を愛するが為に、このようにしもべになって下さったのに、私たちはイエズス様のしもべになる事を、何度嫌がった事でしょうか。

 では、今日どのような決心を取ったら良いでしょうか。

 まず、マリア様は、私たちに良い模範を見せて下さっています。天使がやって来て、「あなたは苦しみますよ、あなたは選ばれました。世の救いに協力して下さい、天主の御母となって下さい。」と言われた時に、「我は主のしもべなり。仰せの如く我になれかし。」「私は天主様の奴隷、婢女であります。どうぞ私を自由に使って下さい。私を道具として使って下さい。」と、答えられました。

 私たちもマリア様の御取次ぎによって、今後は、今からマリア様のように、マリア様の御取次ぎによって、天主様のしもべとして、良き道具となりますように、天主の御旨をいつも果たす事ができますように、天主の、イエズス様の真似をする事ができますように、イエズス様にますます似通った者となる事ができますように。イエズス様は、十字架の死に至るまで従順であられました。ですから私たちも十字架を、私たちの日々に与えられる十字架を、よく担う事ができますようにお祈り致しましょう。


 第二に、聖ステファノはこの神秘をよく理解していました。イエズス様の御降誕の後に、すぐその直後に、天国に生まれた聖ステファノは、その死の直前、聖書によれば、「聖霊に満ちていた」と書かれています。そして死の直後には、イエズス様が聖父の御右に立っておられるのを、天が開けて見ています。そこで、「イエズス様が真の救い主である」という事を述べて、誰もそのステファノに反論する事ができる者はいませんでした。そして遂に、「イエズス様が真の天主だ。天主の右に立っておられる、というのは、本当の天主だ。」という事を言ったので、「このようなステファノは生かしておく事はできない。」石殺しにしようとしました。そして人々は自分の服を、邪魔になるので、サウロの、将来回心するパウロの足下に置いて、ステファノに石を投げます。石を打たれながら、「彼らに罪を負わせないで下さい。」イエズス様と全く同じ許しの言葉を述べて、そして彼らの罪の為に、イエズス様のしもべとして殉教していきました。

 願わくは、私たちも聖ステファノのように、私たちに悪をするような人、或いは悪口を言うような人々の為にお祈り致しましょう。そしてその方々の回心の為にお祈りしましょう、「天主よ、彼らに罪を負わせないで下さい。どうぞ、彼らをお赦し下さい。」ひたすらに、イエズス様に倣うしもべとなる事ができますように。聖ステファノの祈りによって、この祈りによって、パウロは、サウロは回心する恵みを受けた、と言われています。

 願わくは、私たちの祈りによって、或いは許しによって、或いは私たちの拙い犠牲が嘉せられて、マリア様の御取次ぎによって嘉せられて、願わくは、多くの方々が、イエズス・キリスト様を信じる御恵みが与えられますように、回心の御恵みが与えられますように。そして、イエズス様をますます多くの人々が愛して、そしてイエズス様のようになりますように。そして天国に、イエズス様の御恵みによって、天主の子となり、天国の永遠の福楽を得る事ができますように。

 マリア様と、聖ステファノの御取次ぎを以ってお祈り致しましょう。

 聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

なぜ、イエズス様は幼子の姿をとってお生まれになったのか?

2016年01月10日 | お説教・霊的講話
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 12月25日、主の御降誕の大祝日に大阪で行った聖伝のミサ(日中のミサ)のお説教をご紹介いたします。


天主様の祝福が豊かにありますように!

2015年12月25日 主の御降誕【日中のミサ】
小野田神父 説教



 聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

 今日の、クリスマスの、主の御降誕のお祝いを申し上げます。このミサの直後に、感謝のミサの後の祈りをした後に、ローマの習慣に従って、イエズス様の御足に接吻をする儀式を行いたいと思います。どうぞ皆さん、1日何度も接吻をなさって下さい。イエズス様に、愛と感謝で迎え入れるようになさって下さい。それから、今日はクリスマスの大祝日ですので、公教要理はお休みで、簡単なスナックなどが用意されております。また明日、10時30分から土曜日のミサがあります。大晦日の12月31日には、夕方18時30分から。お正月、新年1月1日には、新年のミサが10時30分から、朝の10時30分から。土曜日には、2日の土曜日には10時30分からミサがあります。どうぞいらして下さい。

 
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

 今日、入祭誦では、“Puer natus est”“filius datus est nobis”と、歌いました。幼子が私たちの為に生まれ、御子が私たちに与えられた。では、今日御ミサでは、一体何の為に、幼子が私たちの為に生まれ、御子が私たちに与えられたのか、その何故かを黙想し、第2に、この幼子、御子をお喜ばせする為にはどうしたら良いのかを黙想し、最後に遷善の決心を立てる事に致しましょう。

 一体、幼子は何故、私たちの為に生まれたのでしょうか。それは、私たちを愛して、私たちに永遠の命を与える為でした。私たちに真の平和を与える為でした。私たちを天主の子とする為でした。私たちを、私たちの罪を赦す為でした。私たちにはどうしても償いを果たす事の出来ない、その罪を全て償って、全く赦し、私たちを御父の元に連れて行く為でした。幼子は私たちを、ただ単に赦す為に、お生まれになったのでした。

 私たちは天主に対して、一体どんな良い事をしたのでしょうか?何か良い功徳を積んだのでしょうか?何かその赦しを得るに相応しい何かがあったのでしょうか?

 いえ、全くありませんでした。しかし、天主の御あわれみと、その良さによって、ただ単に天主が良い御方であるので、私たちを赦そう、私たちをひたすらに赦そうと思って、御子を与えて下さいました。私たちに命を、永遠の命を与える為に、赦す為に、人となり給うたのでした。幼子となったのでした。

 考えてもみて下さい。私たちがもう不治の病で、もう命が無い、どうしても、どうしても助からない。ただし、唯一、助かる方法がある。それは、誰かが、健康な、病気を一つもした事がないようなとても健康な人が、その臓器を、体の一部を、それを取って私に与えて、その血液もほとんど皆私にくださったら、輸血をしたら、私の命は助かるかもしれない、助かる。でもそれは非常に危険な手術で、その臓器を提供したり、献血をする人は、とても痛い思いをしなければならないし、苦しい思いをしなければならないし、命は、死ぬ事はないけれども、しかし一生、不便な思いをして生きて行かなければならない、という人がいたら、でも、でも私の所にやって来て、「あぁ、あなたの事を愛しています。どうぞ私の体の一部を使って下さい。私の血をあげます。」という人がいたら、本当に私は感謝して、どうやってお礼を言ったら良いでしょうか。本当にもうこの人の為に、一生お礼を言って、何をどうやって恩返しをしたら良いか分からないほどです。

 イエズス・キリストは、真の天主の御子は、単なる人間であったとしても、それほどの感謝をするべきなのに、真の天主の御一人子は、私たちに永遠の命を与える為に、私たちを生かす為に、御自分を、御自分の御血を全く流して、私たちを御自分の御体で養う為に、子供となって、幼子となって、今日、お生まれになりました。

 何という私たちにとって、愛と喜びと平和の日であるでしょうか。私たちはこのイエズス様に、何と感謝と愛を捧げなければならないでしょうか。しかし、そのような事実を知りながら、天主御子イエズス・キリストが、私たちの為に人となって、「我らの救いの為に人となり、」と、例えば使徒信経で言ったとしても、一体私はその意味をどれほど深く考えたでしょうか。イエズス様から与えられたその永遠の命を、どれほど粗末に扱った事でしょうか。永遠の命と引き換えに、天主の御聖寵と引き換えに、つまらない地上での楽しみや、ほんの瞬間の罪、或いは嘘、或いはほんのちょっとした利益の為に、それを取り換えてしまった事が、どれほど多かった事でしょうか。

 考えてもみて下さい。その私に輸血をして、臓器を与えて、「さぁ、健康になって下さい。」と言った人に対して、私が、「あぁ、もうあなたなんかいりません。邪魔です。」と言ったとしたら、その人はどれほど傷付く事でしょうか。或いはせっかく頂いた臓器も、乱暴に、また健康を壊すような事をして粗末にしたら、一体誰がもう1回、そのような大切な臓器を私たちに下さる方がいるでしょうか。誰が一体献血して、「さあ、もう1回血を受けて下さい。さあ、もう1回手術をして下さい。」と言う方がいるでしょうか。

 イエズス様は、何度も何度も、私から冷たい思いをされながらも、その度に、私たちにあわれみと、赦しと、慈悲を、何度も何度も下さり続けました。御血を、御血によって私の罪を赦し、また赦し、また赦し、それを何度も何度もして下さいました。その為に、イエズス様は幼子となられました。

 一体、このイエズス様にどうやって、どうやって感謝したら良いでしょうか?どうやってお喜ばせしたら良いでしょうか?

 第2のポイントです。この幼子イエズス様を、私たちはもはや悲しませたくない、お喜ばせしたい、と思います。ではどうしたら良いでしょうか?「幼子は、幼子のやり方がある。」と聖人たちは言います。イエズス様は大人となって、この権威ある王として、私たちを処罰する、裁く、或いは、「こうだ、こうだ」と言う者として、お生まれになったのではなく、何もする事のできない、小さな、か弱い赤子となって生まれて下さいました。この赤子は怒る事を知りません。知っているのは、泣く事と、笑う事です。赤ちゃんに、こうちょっとだけこう笑顔を見せると、「いない、いない、ばあ」を見せると、赤ちゃんはニコニコとして、けらけらと笑います。イエズス様をどうしてお喜ばせしたら良いでしょうか?

 イエズス様をお喜ばせするのはいとも簡単です。それは、私たちが過去の罪を悔い憎んで、悔い改めて、イエズス様に、痛悔の涙と痛悔の念を捧げる事で、イエズス様はニコリと満足致します。

 昔、中国でのことです。周の王であった幽王という王様の所で、非常に美しい褒姒(ほうじ)というお姫様がいたそうです。そのお姫様は、とても絶世の美女で、とても美しかったのですけれども、ニコリともしなかったそうです。王様が何を、色々な事をして笑わせよう、喜ばせようとするのですけれども、ぶすっとしていて、何も笑おうとしない。するとある時に、何かの間違いで、敵が来たという事で警報を鳴らして、王様の軍隊が大勢集まって来て、「さあ、敵が来た!」という事で、整列を揃えて、戦いに備えているのですけれども、実はそれが間違いで、誤報だった、という事が分かると、皆が兵隊たちが、「あぁ、何だ。」と言って、引き返して行きます。

 それを見て、その王様のお姫様は何か笑ったそうです。王様はその笑ったのを見て、「あぁ、これだ。」と言って、何度も何度もそのような誤報を出して、兵隊を集めて、お姫様を笑わせようとしたそうです。しかし、あまりやってるうちに、兵隊も、「何だ、また。あぁ、嘘だよ、また。練習だよ、また。これ、何でもないよ。」と言って、本物の敵が来た時に、準備ができなくて、この国は滅びてしまったそうです。

 イエズス様をニコリと笑わせるには、このように大変ではありません。イエズス様をニコリと笑わせるには、私たちは愛の言葉を、愛の礼拝を、愛の感謝を申し上げれば、それでイエズス様はとても満足です。イエズス様は過去の事などすっかりコロリと忘れて、非常に満足されます。何故ならばイエズス様は、私たちを赦す為に来られたからです。

 では、私たちは今日、このクリスマスに、一体どのような決心をしなければならないでしょうか。

 ひたすらに、イエズス様をお喜ばせする為に、決してもう今後イエズス様を悲しませることのないように、私たちの大恩人であるイエズス様の心を傷付ける事がないように、私たちは、遷善の決心を立てる事に致しましょう。罪の機会と罪から遠ざかり、イエズス様を、イエズス様をお喜ばせする事をのみする事ができるように、イエズス様に御助けを乞い求めましょう。

 第2に、イエズス様は私たちを赦す為に、このすすんで、自らすすんで人となりました。ですから、私たちもイエズス様に倣って、幼子のようになり、私たちの受ける侮辱や屈辱、或いは嫌がらせなどを、心から赦す御恵みを乞い求めましょう。もしかしたら皆さんは、「あぁ、何故、」ちょうど3人の博士たちが言われたように、「何故、そんな遠い所まで、聖伝のミサを与りに行くのか。」「あぁ、そんな救い主は、綺麗な立派な王宮で生まれるのではないか。何故そんな貧しい、みそぼらしい馬小屋なんかで生まれるはずがない。」「ミサはきれいな教会で立てられなければならない。」或いは、色々な悪口や誤解や、悪口を言われるかもしれません。どうぞそのような方々の為にお祈りをなさって、私たちは、罪を、そのような方々の事を、心から寛大に対応するように致しましょう。

 或いは、もしかしたら私たちは、本当はこれほど良い事をしたのに、これほど親切をしたのに、これほど相手の為にしたのに、それに対して却ってけなされたり、悪い評価を受けたり、或いは嫌がらせをされたりするかもしれません。それも、イエズス様が受けたその辛い悲しみを思って、お捧げする事に致しましょう。

 もしかしたら私たちは、天主様の御摂理によって、本当なら受けて当然の様な事を受けなかったり、或いは辛い境遇にあったり、或いは病気になったり、或いは事故に遭ったり、痛い思いをしたり、損をしたりするかもしれません。それもしかも悪意をもってされるかもしれません。それもイエズス様に、イエズス様の為に赦す御恵みを乞い求めましょう。

 第3には、イエズス様はいつもマリア様の元に来られようとしました。マリア様の、マリア様を通してお生まれになり、マリア様の元に30年間従順でいる事によって、最大の栄光を、天主に栄光を帰す事を知っていました。ですから私たちも、イエズス様に倣って、イエズス様のように幼くなり、小さくなり、マリア様の良き子供として生きる事ができるように、お祈り致しましょう。

 聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

聖なる夜、天主の無限の愛が私たちに現れた

2016年01月09日 | お説教・霊的講話
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 12月25日、主の御降誕の大祝日に大阪で行った聖伝のミサ(真夜中のミサ)のお説教をご紹介いたします。


天主様の祝福が豊かにありますように!

2015年12月25日 主の御降誕【真夜中のミサ】
小野田神父 説教



 聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

 愛する兄弟の皆さん、私たちの主イエズス・キリストの御降誕のお喜びを申し上げます。今日のこの御ミサの直後に、幼きイエズス様の御足の接吻をする、というローマの伝統に従った儀式を行いたいと思います。御ミサの直後に、御聖体拝領の感謝の祈りの後に、またこの前に跪いて、イエズス様に礼拝を捧げて下さい。その後、簡単な御降誕のお祝いの小さなパーティーがあります。

 愛する兄弟の皆さん、日本でもこのクリスマスは、聖夜と呼ばれ、多くの人たちが、この夜をイルミネーションで飾り、クリスマスのプレゼントを交換する、クリスマスギフトを送るという事をしています。では、このクリスマスの聖なる夜、一体何が起こったのか、一体誰が、誰の為に何をなさったのかを黙想して、それを受けた私たちがどのような反応をしたのかを黙想して、何か私たちの取るべき決心を立てる事にしましょう。

 今日、2015年前の今日、クリスマスに、牧場にいた羊飼いたちが、羊たちの群れの番をしていると、天使が、天使の光が彼らを包みました。その光があまりにも畏れ多く、威光に満ちて、この世を離れた、とても神々しいものであったので、この眩しい光を見て、「一体これは何なんだろう。」羊飼いたちは恐れました。すると、光に輝く美しい天使が、一位の天使が彼らに現れて、「恐れるな。私はお前たちに大きな喜びを伝える。お前たちの為に、ダヴィドの村に救い主が生まれた。それがキリストである。」と、喜びのメッセージを伝えました、「大きな喜びをお前たちに告げる。」と。

 そのメッセージを伝えると、一位の天使と共に、天軍の、天の軍隊の天使たちが、数千、数万、数億と、数え切れないほどの天使たちが光輝いて、天を覆って、大きな声で主を賛美しながら、「天のいと高き所には天主に栄光あれ。この地上には、善意の人々に平和あれ。」と歌を歌って、その天上の美しい歌を、光に満ちて歌って、それを羊飼いたちは目を大きくして、驚きと喜びに満たされて、「救い主が生まれた!その天も地も喜んでいる。」という事を見て、「さあ、では私たちはその救い主を拝みに行こう!」と、その救い主を探して、羊飼いたちは、そのそこに救い主を、イエズス様を探して、そこに目指して行った、という事が起こったのです。

 ですから、このクリスマスの夜は、本当に聖なる夜であって、光に満ちた、歌に満ちた夜なのです。天主様が人間に最高の贈り物をした夜です。何故最高の贈り物かというと、天主が私たちに下さったのは、単なる金や銀や、或いはダイヤモンドや、或いは食べ物など、朽ちる被造物ではなく、天主様が私たちの為に与えて下さったのは、天主の御一人子、永遠の天主の御言葉、聖父と全き栄光と、全能と、全知を持つ、天主三位一体の第2のペルソナが人となって、私たちの為に与えられた、私たちの為に生まれた、私たちの救い主として与えられたからです。

 「天主が人となった」という事を考えてみて下さい。天皇陛下が、地震にあった被害者をお見舞いに行って、「どうですか。大変でしたね。」と言って、膝をついて、顔と顔を合わせて、目線を低くして、「大変でしたね。」と、慰労して慰めるのを見ると、「あぁ、天皇陛下は本当に優しい方だ。天皇陛下はご謙遜な方だ。」と思いますが、天主様が、永遠無限の全能の天主が、天使たちもその言葉一つによって全地を駆け巡る天主が、この全宇宙でさえもそれを抱えきる事ができないほどの天主様が、何万光年、何光年、光の速さで行っても行っても行っても、何万年行っても、その端が見えないほどの、それをその宇宙を大宇宙を創った天主が、小さな子供となって、赤ちゃんとなって、私たちの為に生まれた、というのみで、私たちはどれほど、その御謙遜と優しさに感謝しなければならないでしょうか。

 聖パウロは今日の書簡で、「天主の、私たちの主、天主の御恵みが、私たちに現われた。」と言います。天主様の目に見えない愛が、目に見える形となって現れました。この聖なる夜は、天主様が私たちに示す愛の夜でもあります。

 天主様は一体、誰の為に人となったのでしょうか。それは、私たち人類の、私たちの為、皆さんと私の為でした。私たちは、ちょうど天主様の大きな大海の海の中に泳ぐ小さな魚のような、本当にもう僅かな、ゴミだか塵だか分からないようなものですが、その私たちの為に、私たちの救いの為に、私たちが天主の命を得る事ができるように、私たちが天主と共に、永遠の喜びに入る事ができるように、永遠の命に入る事ができるように、死ぬべき命をとって生まれて来ました。

 私たちが、か弱い私たちが天主様の力を得る事ができるように、救いの力を得る事ができるように、か弱い姿をとられ、今日お生まれになりました。私たちが天に昇る事ができるように、地上に降りて来られました。

 つい最近、私の記憶が正しければ、金星の惑星に、衛星が軌道にのるかのらないか、失敗するか、失敗しないか、それが成功した、「金星の惑星についた」と、「その軌道にのった」というような記事を読んだのですけれども、しかし天主様は、天からこの地上に降りて、人間として、私たちの救いの為に降りて来られました。私たちの為に。

 何故、ではこのような幼子の姿をとられたのでしょうか?何故かというと、私たちがこの天主に近寄る事ができるように、天主が私たちをどれほど愛しているか、という事を私たちが見る事ができるように、私たちの愛を引き寄せる事ができるように、わざと、大人ではなく、王様の帝王の姿ではなく、か弱い、私たちの一番弱い、何もすることのできない、一番弱い状態の姿でお生まれになりました。この姿を見せる事によって、私たちもイエズス様を愛する事ができるように。

 私の知っているお友達は、とても動物が好きで、猫が好きで、猫を側にいつも居て、「あぁ、この猫は死んでしまうんではないか。猫を看取りたい。猫から離れると、猫からちょっと悪く思われるんじゃないか。」と思って、猫を大切にしているお友達がいます、とても心の優しいお友達です。私たちは、小さなか弱い動物や、か弱い赤ちゃんや、小さなものを見ると、「あぁ、可愛いなぁ。」と思って、それを「大切にしたい。」と思います。それが人情ではないでしょうか。イエズス様も、私たちからの愛を受けようと、私たちへの愛を見せると同時に、私たちからの愛を受けようと、このような姿をとりました。

 では、この世の人たちは、どのような態度を取ったでしょうか。確かに羊飼いのように、その光を見て、「あぁ、さぁじゃあ私たちも行こう!」と「その救い主を見に、礼拝しに行こう!」と、言う人々もいました。東の博士のように、はるばる遠くから旅行をして、イエズス様のこの御降誕に合わせて、この星に導かれて来られた方もいました。しかし、人類の大部分は、ほとんどの人々は、イエズス様を認めませんでした。イエズス様を受け入れませんでした。イエズス様を受け入れる場所がありませんでした。イエズス様がお生まれようとしたのに、それを拒みました。イエズス様が天主であるにもかかわらず、人となって、幼くなって、か弱くなって、「さあ、私を愛して下さい。」と言って生まれて来たにもかかわらず、人々は、「嫌だ」「断る」「入って来るな」「邪魔だ」と言って、イエズス様を、イエズス様に入る隙間も与えませんでした。

 考えてもみて下さい。もしも天皇陛下が、「さあ、聖ピオ十世会の皆さん、お友達になりたいと思います。さあ、お友達になって下さい。」と言ったら、「あぁ、もちろん陛下、何という名誉でしょうか。お友達になります。そのようなお言葉を聞いて本当に名誉です。」と、私たちは言うではないでしょうか。「あぁ、私は有名な作家の何とか何とかが、私は友達なんだよ。」「映画俳優の何とかは、僕の友達なんだ」と、「高校の同級生なんだ。あぁ、何とか大臣の、総理大臣は私の同級生でね、」「この政治家の市長様は私はいつも電話をしているんだ。」と、お友達がいるというのを大切に思うではないですか。動物でさえも、友達にしたいと思うではないですか。

 でも、イエズス様の場合にはそうではありませんでした。イエズス様だけは友達になりたくない、イエズス様だけは受け入れない、と、多くの人はイエズス様を認めませんでした。イエズス様を救い主として、救世主として、真の天主として、礼拝する事を拒んだのです。拒みつつあります。イエズス様がこうやって御謙遜に幼子になっているにもかかわらず、「イエズス・キリストの前に跪いてはいけない。」と、言う人さえいます。

 聖書によれば、イエズス様の前で、羊飼いも、3人の博士たちも、「礼拝した“adoraverunt”」と書かれています。つまり、この「礼拝した」というのは、天主として認めて、自分が被造物である、と言う事を認めて、最も低い態度をとった、という事です。それをさえ、「してはいけない」と、言われています。

 イエズス様は、イエズス様は2000年前、生まれる場所がありませんでしたが、イエズス様が私たちの心に入ろうとする時に、それを拒む人がいます。例えお生まれになったとしても、生まれた直後であったとしても、ヘロデのように、イエズス様を亡き者にしようと、「あぁ、そうか、博士よ、救い主は生まれたか。でも救い主に私の地位を譲る事はできない。救い主よりも私の方が大切だ。救い主の前に膝をかがめるよりも、救い主は邪魔者だ。救い主イエズス・キリストは亡き者でなければならない。私が、私の思い通りの事をする為に、キリストに道を譲る事はできない。」と。イエズス様を死に追いやろうとした王もあります。

 ヘロデは私たちの、憐れな罪人である私たちのかたどりでもあります。私たちはどれほどイエズス様を受け取りつつも、イエズス様を、罪の赦しを受けてイエズス様を私たちの心に受け取りつつも、イエズス様よりも大罪を好む事によって、「あぁ、イエズス様、やっぱりもういりません。私は自分の思い通りの事をします。イエズス・キリスト、あなたは邪魔です、邪魔者です。」と、言って、大罪を以って、私たちの中に住む天主の聖寵を殺し、イエズス様を追い出し、「イエズス様の住む、イエズス様の場所はもう無い。」と、何度言ってきた事でしょうか。そし罪を犯すたびに、このヘロデの虐殺と同じような事を私たちは繰り返してきました。ベトレヘムの住民たちが聖家族にした事と同じような事を繰り返して来ました。私はイエズス様をどれほど心から、霊魂から追い出してきた事でしょうか。イエズス様に冷たい態度を取った事でしょうか。イエズス様に、「あなたの場所はありません。さあ、さあ!」と、追い払った事でしょうか。

 では、私たちは今日このクリスマスに、この聖なる光に満ちた天主様からの贈り物のクリスマスに、一体どのような決心をしなければならないでしょうか。

 愛する兄弟の皆さん、この2015年のクリスマスに、この今日この年は、私にとってとても、とても特別な聖なる年です。何故かというと初めて、司祭となって初めて、日本でクリスマスの真夜中のミサをする事ができているからです。

 今年、聖ピオ十世会は、日本で初めて主の御降誕の真夜中のミサをしています。

 もう金輪際、イエズス様を、この今年のクリスマスから、もう絶対に悲しませることのないように、もうイエズス様を泣かせる事がないように、私たちの為に生まれたイエズス様に、もう「どっかに行け。」と、言ってしまう事がないように、「イエズス様、私の心を温めて下さい。私の心をきれいにして下さい。」「私がいつもイエズス様を迎えて、イエズス様が私の心を叩く為に、どうぞイエズス様、思召しの通りになさって下さい。」「私の小さな住処にいらして下さい。どうぞイエズス様、私の全てとなって下さい。イエズス様、私の心に来て下さい。もうイエズス様を追い出してしまう事がないように。」遷善の決心を立てる事に致しましょう。「もしもイエズス様と被造物、イエズス様と私のどっちを取るか、という時には、イエズス様どうぞ、御あわれみによって、常にイエズス様の御旨とイエズス様を取る事ができるように、例えそれが私にとって犠牲を払わなければならない事であったとしても、聖家族を私の胸に迎える事ができるように助けて下さい。」と、お祈り致しましょう。

 第2には、イエズス様は、イエズス様は私たちの心に入りたい、入りたい、行きたい、私たちの心に生まれたい、と思いつつも、多くの心はイエズス様を閉ざしています。その心が開かれるように、私たちが代わりにお祈りして、犠牲を捧げて、私たちがイエズス様に代わりにその礼拝を捧げて、愛を捧げて、「どうぞそのような人々の心を開いて下さい。イエズス様、この彼らの心に生まれる事ができるように助けて下さい。」とお祈り致しましょう。

 ファチマの天使は、ポルトガルの守護の天使は、イエズス様、御聖体の前で跪いて、額ずいて礼拝して、「私は御身を信じ、御身を礼拝し、御身に希望し、御身を愛し奉る。私は御身を信じない人々の為に、礼拝しない人々の為に、希望しない人々の為、愛さない人々に代わって、愛し、礼拝し、希望し、信じます。」と、何度も何度も繰り返して礼拝していました。子供たちもそれを真似して礼拝していました。私たちもそれを真似する事ができますように、このクリスマスから真似する事ができますように。

 この、今日、イエズス様がお生まれになった、私たちの為に、救い主がお生まれになった、という事を聞いて、天使の喜びの声を聞いて、光に満ちた、その天軍の声を聞いて、私たちもイエズス様の元に駆け走る、参ずる事に致しましょう。イエズス様の元に近付いて、「イエズス様、私はこうやってイエズス様の前に近付き、馳せ参じ、跪いて、額を地に付けて、御身を礼拝致します。御身を愛し奉ります。御身を信じ、御身に希望します。」と、礼拝を捧げる事にしましょう。

 最後に、羊飼いたちは、マリア様を見て、マリア様と共に居るイエズス様を見ました。ですから私たちも、イエズス様が与えられますように、私たちの心にイエズス様が生まれますように、いつも、この生まれたイエズス様を離す事が無いように、マリア様に御取り次ぎを乞い求めましょう。マリア様は汚れの無い御方で、無原罪の御宿りで、汚れ無い御心で、決して天主を悲しませたり、イエズス様を追いやったり、聖霊を追い払ったりする事はありませんでした。マリア様の御取り次ぎによって、私たちが相応しく主を礼拝して、讃美して、感謝して、愛して、良き御降誕節とする事ができますように、お祈り致しましょう。

 聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

クリスマスの夜にお生まれになるこの方は、一体どなたなのか

2016年01月08日 | お説教・霊的講話
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 12月24日、御降誕の前日に大阪で行った聖伝のミサのお説教をご紹介いたします。


天主様の祝福が豊かにありますように!

2015年12月24日 主の御降誕の前日のミサ
小野田神父 説教



 聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

 愛する兄弟の皆さん、聖母の汚れ無き御心巡回教会にようこそ。今日は2015年12月24日、クリスマスイブ、御降誕の前日のミサをしています。あと数時間で、真夜中に、クリスマスの深夜のミサがあります。その御ミサに、もしかしたら小さな友達が来る事ができないかもしれないので、一緒に今日、クリスマスの夜にお生まれになるこの方は、一体どなたなのか、一体どうやってお生まれになったのか、それを一緒に黙想しましょう。それから、では私たちは、その今日お生まれになった方に、どのように何をしたら良いか、その遷善の決心を立てる事に致しましょう。

 クリスマスの、今から2015年前のこのクリスマスの夜にお生まれになった方は、この全世界を創った、この大宇宙を創った、太陽と、星と、お月さまと、銀河を創った、真の天主、人間と動植物を創った天主様です。天使たちに命令をかければ、何千何万何億という天使たちが、その通りに動いて、その通りに働く、全知全能永遠の、無限の幸せの中にいる天主、それがその天主様が、私たちの為に小さな幼子となって、お生まれになった、それがクリスマスです。

 一体何故この天主様が、このお生まれになった方が、本当の天主である、この創り主である、私たちの為にお生まれになった救世主であると知る事ができるのかというと、それは旧約時代、イエズス様がお生まれになる前に、何千年もの間、色々な所で、色々な予言者が、救世主がお生まれになる、天主様がそう予言された、そう約束された、という事を全て、このお生まれになったイエズス・キリスト様において、その予言が全て成就しているからです。1つや2つ3つではありません。旧約の救世主に関する予言がピタリ、ピタリ、ピタリと、全てがイエズス様によって起こっているからです。

 ではこの天主様、人となった天主様は、一体どうやってお生まれになったのでしょうか?イエズス様のお父様であるヨゼフ様と、お母様であるマリア様は、ナザレトという村に住んでいました。イエズス様の養父である、イエズス様を養い育てて下さった、マリア様と結婚していたヨゼフは、ダヴィドの王家の子孫で、ベトレヘムがその本籍地でした。ちょうど今から4日前に、ローマの皇帝から勅令が出て、「人口調査をするので、人々は、自分の本籍地に行かなければならない、名前を登録しなければならない。」という勅令が出ました。

 その勅令が出て、マリア様は、もう赤ちゃんがお腹にいて、イエズス様をお腹にいて、とても旅行がするのが大変だったにもかかわらず、イエズス様を、このヨゼフ様とマリア様はベトレヘムまで旅をします。4日の間、ホテルもなければ、交通機関もない、貧しい2人は、辛い旅路を行かなければなりませんでした。今のように安全でもなければ、電気もなければ、山の道を険しい道を通って行かなければなりません。おそらく野宿をしなければならなかったと思います。体を休める所も無かったはずです。冬だったので、とても寒くて凍えたに違いありません。しかしヨゼフ様とマリア様は、互いに助け合いながら、かばい合いながら、ベトレヘムへと旅路を急ぎました。

 ベトレヘムに着いてみると、宿屋は泊まる所はもう人でいっぱいで、貧しいマリア様とヨゼフ様の為に部屋は1つもありませんでした。いくら友達に親戚に頼んでも、受けたのは拒否ばかりでした。もう何日も歩いて旅を続けて疲れきっているマリア様、ヨゼフ様、特にマリア様は体が重かったので、もう赤ちゃんがもう生まれるばかりだったので、さぞかし辛い思いをしたに違いありません。

 一体考えても見て下さい。私たちが聖伝のミサに与りに来たい、真夜中のミサだ。でもホテルがもう満席だ、ホテルがない、泊る所が無い、一体今晩はどうしたら良いのだろうか。友達の家もダメだ、他もダメだ、どうしたら良いんだろうか、でももう、もうここに来ている、一体生まれる救世主はどうなるのだ。マリア様も、ヨゼフ様も、自分の事はともかく、救世主の事を、イエズス様の事をひたすらに心配したに違いありません。

 考えても見て下さい。もしも私たちが、いくら謙遜になって、誰かに道を譲った、他の人に何かを譲ってあげた。本当ならば長い行列を並ばなければならないのだけれども、他の人に誰か譲って、代わりにまた別の後ろの方に並んだ。或いは、等々、色んな謙遜の行為をしたとします。それでも、私が私たちが、もしも虫ケラになる、という事から比べれば、私たちがしたのは一体何でしょうか。例え、私たちが虫ケラになったとしても、人から踏まれるようなアリンコになったとしても、例えそれが大天使が、或いは諸聖人が、立派な聖人が虫ケラになったとしても、天主様が人間になった、という事から比べれば、はるかに限りのあるものです。何故かというと、私たちと虫ケラの間では、限りのある被造物の関係ですから、程度があります。しかし、無限の全知全能、永遠の無限の天主の、永遠に無限に幸せな天主が、人間になった、という事から比べると何でもありません。

 マリア様はおそらく、その事を考えていたに違いありません。無限の天主様が人となって、私たちを救う為に人となって生まれているのに、そのイエズス様の為に、宿屋が無い、暖かい部屋が無い、寒い冬の凍える風しかない。イエズス様の為に、相応しい場所さえも見つける事ができなかった、という事を、マリア様はどれほど残念に思ったことでしょうか。しかし、ヨゼフ様もマリア様も、何とかしてイエズス様の為に場所はないか、と探し回ったあげく、ベトレヘムの村の隅に、宿屋の代わりに洞窟を見つけます。動物のいる小屋でした。

 そこにヨゼフ様はマリア様に、「ここでどうだろうか。」マリア様は、「ここにしましょう。」ヨゼフ様は、一生懸命その洞窟を、馬小屋を、動物のいる所をきれいにして、何とか準備をします、マリア様も何とかそれを、イエズス様の為に準備します。寒い風のビュービューなる所を、何とかして風が当たらないようにしたかもしれません。もしかしたら、唯一の暖房というのは、動物の体温と、或いは、動物の息から出る、「ハッハッ。」という、この息だけだったかもしれません。もしかしたらちょっとした火をくべたかんもしれません。その凍えるような寒い所で、誰からも受け入れられずに、私たちの為に、私たちを救う為に、私たちに永遠の命を与える為に、私たちに永遠の宝物を与える為に、私たちを永遠に幸せにするために、私たちに天主の命を与える為にお生まれになってくださった方が、この幼き赤ちゃんが、私たちの救い主、イエズス・キリスト様です。

 イエズス様は、私たちから愛を受けようと、私たちをどれほど愛しているか、という事を知らせようと、こうやってお生まれになって下さいました。

 このイエズス様に、私たちはどうしたら良いでしょうか?私たちはイエズス様の前に、このように小さくなって下さったイエズス様に跪いて、心から礼拝と感謝と賛美をお捧げいたしましょう。イエズス様に、愛の接吻をお捧げいたしましょう。今までイエズス様に、罪を犯す事によって辛い思いをさせてきた事を痛悔して、金輪際、イエズス様を辛い思いをさせる事のないように、その遷善の決心を立てる事に致しましょう。

 聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

2016年の聖伝のミサ(トリエント・ミサ、ラテン語ミサ)の予定【日本聖ピオ十世会】

2016年01月07日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 2016年の聖伝のミサの予定をご紹介します。今年はより多くの聖伝のミサが日本で捧げられるので大変うれしく思います。【2016年1月6日現在の予定です。やむを得ない事情により予定が変更される場合があるかもしれませんが、その場合はご容赦を願います。】

天主様の祝福が愛する兄弟姉妹の皆様の上に豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

Dearest Friends of the SSPX Japan and of the Traditional Latin Mass,

We are very happy to announce the following Traditional Latin Mass Schedule for the whole year of 2016. We are glad to have more Masses in Japan for your sanctification. [This is a schedule as of Jan 6th, 2016. In case of necessity, and unforeseen circumstances, this MAY be subject of change. In this event, we would like to ask your kind understanding.]


Jan 01, 2016 Osaka 10:30
Jan 02, 2016 Osaka 10:30
Jan 03, 2016 Tokyo 10:30
Jan 04, 2016 Tokyo 07:00
Jan 10, 2016 Osaka 18:00
Jan 11, 2016 Osaka 08:00
Jan 15, 2016 Osaka 17:30
Jan 16, 2016 Osaka 10:30
Jan 17, 2016 Tokyo 10:30
Jan 18, 2016 Tokyo 07:00

Feb 07, 2016 Tokyo 10:30
Feb 08, 2016 Tokyo 07:00
Feb 10, 2016 Osaka 17:30
Feb 11, 2016 Osaka 10:30
Feb 21, 2016 Tokyo 10:30
Feb 22, 2016 Tokyo 07:00

Mar 04, 2016 Osaka 17:30
Mar 05, 2016 Osaka 10:30
Mar 06, 2016 Tokyo 10:30
Mar 07, 2016 Tokyo 07:00
Mar 13, 2016 Osaka 18:00
Mar 14, 2016 Osaka 06:30
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無原罪の聖母の騎士への手紙 第9号―アジア ”騎士",その4つの重要な意味

2016年01月06日 | M.I.(無原罪の聖...
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 シュテーリン神父様からの「無原罪の聖母の騎士への手紙 第9号―アジア」の日本語訳をご紹介いたします。

 神父様は、「無原罪の聖母の騎士」という名前を私たちに黙想することを提案しています。
聖マキシミリアノ・コルベ神父様はなぜ「騎士」と呼ぶのでしょうか?

 私たちが普通に考えている以上に、それはずっと大きな意味を持っています。

 朝目覚めたなら自問してください。「私は何者か?」。私は完全に無原罪の聖母のものであり、聖母の子どもであり、聖母の奴隷であり、聖母の兵士であり、さらに重要なのは、聖母の騎士であるということです!

 シュテーリン神父様は、最後に、再来年の2017年“ファチマ100周年”の準備のために、聖母マリア様がなさったのと同じ準備をさせようとお考えです。この第2回目は「天使の出現」について黙想させ、「あふれんばかりの天主の現存」と「天主の御稜威(みいつ)」を学ぶことを。

 どうぞお読み下さい。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


無原罪の聖母の騎士への手紙 第9号―アジア


親愛なる無原罪の聖母の騎士の皆さん、

聖マキシミリアノ・コルベが無原罪の聖母の道具を「騎士」と呼んだのには、重要なわけがあります。聖母が、この世でのご自分の道具となるよう私たちに呼びかけられるのは、死の闇と影の中に座したままの愛する子どもたちを救われるためです。聖母はその霊魂たちに改心と聖化の恩寵という大量の光を差し込ませたいと望まれており、私たちはその光を伝える橋または経路となるべきなのです。しかしながら、隣人を愛するということを、マリア様を通じてまことに行うことは、単に義務を果たしたり霊操や苦行を行ったりすることではありません。これは戦争であり、絶え間のない戦いなのです。それゆえに、聖マキシミリアノは、まさに軍隊の用語を使ったのです。恩寵が霊魂に出会うときはいつでも、聖母は不倶戴天の永遠の敵に出会うのです。この敵、悪魔は、原罪を通してこの世の支配者なのです。無原罪の聖母の役割は、再び征服することです。霊魂を贖って、サタンの暴政の国から私たちの主イエズス・キリストの永遠の国へと向かわせることです。

私たちはこの「騎士」という称号を軽々しく考えるべきではありません。私たちが普通に考えている以上に、それはずっと大きな意味を持っているのです。

第一に、この称号は、私たちが戦闘の教会に属しており、この地上で生きるということは不倶戴天の敵同士の絶え間のない戦いであることを思い出させてくれます。

私たちの主は言われます。「誰も二人の主人に仕えることはできない。…破滅に至る道はいかに広く、救いに至る道はいかに狭く通りにくいことか」。主についてはこう言われています。「彼が立てられたのは、イスラエルの多くの人の堕落と復活、そして逆らいのしるしとなるためである」。「私と共にいない者は、私に逆らう者である」。聖ヨハネは言います。「彼は世にあった。…世は彼を知らなかった。彼はご自分の家に来られたが、その人々は受け入れなかった。…この世があなたたちを憎むとしても、あなたたちより先にわたしを憎んだことを忘れてはならぬ。あなたたちがこの世のものなら、この世はあなたたちを自分のものとして愛するだろう。…私があなたたちを選んでこの世から取り去った」。さらにその第一の手紙の中で、ヨハネは基本原理を明確に述べます。「世と世にあるものを愛するな。世を愛するなら御父の愛はその人の中にはない。世にあるもの、すなわち肉の欲、目の欲、生活のおごりなどはすべて御父から出るのではなく世から出る」(ヨハネ第一2章15-16節)。

聖パウロと教会の教父たちは、これ以外の教理を知りませんでした。聖アウグスティヌスは特に、救いの歴史のことを、天主の国と悪魔の国の終わりなき戦いであると要約しました。キリスト教のこの基本的考えは、例外なくすべての聖人に見られます。

天主を否定するフリーメーソンの扇動行為を目撃した聖マキシミリアノはこう書いています。「では、私たちは何をすべきなのだろうか、無原罪の聖母の騎士である私たちは…今日、私たちは、どちらの側に立つのかを断固として、また毅然として宣言しなければならない。無原罪の御母の連隊の兵士としてキリストの旗の下に立つのか、サタンの旗の下に、天主を憎むという反乱と背教の旗の下に立つのかを。私たちの主イエズス・キリストご自身が『私の味方でない人は私に背き、私とともに集めぬ人は散らしてしまう』と言われるように、ここには和解や妥協はありえない」。

私たち無原罪の聖母の騎士は、すでに決定を下しているのです。

さて、私たちは皆、現代の時代精神によって影響を受けています。今日、平和主義が教会内を支配しています。私たちはみな兄弟姉妹だ、敵はもはやいない、と教会内の人々は言います。平和、それが第一にして主要な標語なのです。彼らは言います、天主は戦争をお望みではなく、平和を望んでおられる、と。それに続いて、私たちは異なる信仰を持つ人々を理解するようにし、彼らを受け入れ、彼らの価値を知り、彼らと一緒に活動するべきだと言います。いずれにしても、人はすべて善意の人であり、それが、私たちが平和と幸福の新しい世界を建設している理由なのだ、と。そんなスローガンは教会の不倶戴天の敵によって何世紀もの間使われてきたという事実はさておき、そんな「宣言」は霊魂に対して犯すことのできる最悪の罪です。戦争は継続中であり、敵は攻撃し続けています。しかし、私たちの軍隊の将軍たちは武器を捨てるだけでなく、この敵を友と呼んで抱きしめさえし、非常に練りに練られた方法で誰かが背後から自分たちを傷つけていることに気がつきません。これが教会の危機なのです。ほとんど抵抗することなく、教会は霊魂たちを渡して、サタンの奴隷の状態にしているのです。

それゆえに、騎士は「一人ですべての異端をことごとく滅ぼし給うた」女の方の旗の下に立たなければなりません。この方はまた、現代の無神論という怪物ヒドラと戦う私たちを助けることがおできになります。カトリック信者は今日、戦いの精神で満ちていなければなりません。そうでなければ滅びてしまうでしょう。この敵は確かに大変危険です。なぜなら、目に見えず、形のない影響力として動員されてきているからです。人々をやさしい風のように包み、最強の壁を通り抜ける波長のように包みます。素敵でもっともらしく思えるフレーズに満ち、「バランスがとれ」、友好的で、親しみがあり、魅力的で楽しさに満ち、共感を呼ぶ感情があります。これが、敵が今日使っている毒なのです。このどこにでもいる死をもたらす敵との戦いを宣言することは、危険だと知られている明白な攻撃者に対処しなければならないことに比べれば、比較にならないほど困難です。この戦いはどのようなものか、敵の戦術はどんなものか、どんな武器やどんな戦略を使うべきなのか、といったことを考える前に、今が戦闘状態、実際、生死をかけた絶え間のない戦闘状態にあることを確信しなければなりません。「兄弟たちよ、節制し警戒せよ。敵の悪魔は吠えるししのように、食い荒らすものを探して、あなたたちのまわりを回っている。信仰を固めて彼に抵抗せよ」(ペトロ第一5章8-9節)。無原罪の聖母の騎士会会則の第一条は、この戦いを強調しています。「彼女はおまえの頭を砕くであろう」(創世3章15節)。もちろん、これは天国の地獄に対する戦争の宣言の最初にして唯一のものであり、無原罪の聖母の騎士の生き方を決定づけるべきものです。

第二に、終わりのとき、この戦いが激しさを増すことと、「できるなら選ばれた人たちをさえ迷わすほど」(マテオ24章24節)悪魔が勝利に次ぐ勝利を収めるという事実について完全に意見の一致があることもまた重要です。

ですから、天主の御母が主なご出現、特にラ・サレットとファチマにおいて、この戦いの最終段階のことを述べられ、忠実な子どもたちに対して聖母が私たちにお与えくださった強力な武器を手に取るように呼びかけられているのは驚くに当たりません。結局、聖母がご出現になったのは、正確に言えば、この戦いにおいて私たちのそばにいて、勝利へ至る最も確実な方法を教えられるためだったのです。天主の御母がシスター・ルチアに話されたときに使われた表現である「決定的戦い」の時代である現代において、若きダヴィドが怪力のゴリアテに相対したように、無原罪の聖母の旗の下、敵に対して真っ向から戦いを挑む小さな軍隊を招集することは、これまで天を喜ばせてきています。この戦いはさらに激しくなりつつあるため、主はしもべたちを高めて、この戦いについて知るだけでなく、戦いの前線において、細心の注意を払ってしもべたちの心と姿勢を兵士の理想の状態に保ち、敵の目を真っすぐに見て、敵の仮面をはぎ、敵と戦うようにさせてくださいます。これが無原罪の聖母の騎士です!

第三に、騎士とは普通の歩兵ではなく、いわゆるエリートに属しています。

再び聖マキシミリアノの言葉を聞きましょう。「天主の教会の敵たちによってなされたそのような強力な行為に直面して、私たちは無駄に時間を過ごすことが許されるか? ただ単に不平を言ったり涙を流したりすることが許されるか? 否! 考えてもみよ。最後の審判の時、私たちは自分のしたことを説明するだけでなく、天主は、私たちができたであろうにもかかわらずなさなかったよい行いすべてを数え上げられる。私たち一人一人には、最前線に立って敵の攻撃をかわすという重大な義務が課せられている。よくこんな言葉を聞く。『でも、私に何ができるだろうか。敵は十分組織化されており、大きな力と富を持っている…』。そんな人は、聖パウロがこう言ったことを確かに忘れてしまっている。『私は、私を強めてくださる天主においてすべてができる』」。

ですから創立者の著作においては次のような言葉が繰り返し使われています。騎士の身分、戦い、攻撃、霊魂を勝ち取る、敵を打ち滅ぼす、弾薬、正しい武器を配備する、など。それは、彼が、キリスト教が眠りに落ち、悪魔との平和が宣言されてきているこの私たちの時代の危険を予見していたかのようです。「騎士、騎士の身分、戦い。すべてまさに戦争のように聞こえる。なぜなら、実際に戦争なのだから! ライフルや爆弾、戦車、毒ガスが使われる戦争ではないが、本当の戦争だ。私たちの戦略は何か? なによりも、祈りなのだ」、「私たちは自分の頑迷さに勝ち、この防衛的な態度から脱しなければならない。フリーメーソンや自由思想は天主と信仰に対して戦いを仕掛けており、人を聖なるものを破壊する卑しい動物や野蛮人にしてしまおうとしている。だから私たちも戦おう。もちろん許された手段をもって。私たちと隣人たちが異教徒になるのを防ぐだけでなく、マリア様がすべての人の心を統治し、それによって彼らにキリストの国がやって来るようにするために」。

第四に、しかしながらこの戦いを、私たちの人生における冒険的な段階、感傷的な映画、コンピューターゲームのように理解してはなりません。この戦いには、私たちの持てる限りの強さが求められます。戦いは地上における私たちの滞留のあらゆる面に影響を与え、敵を打ち負かすまでは、限界を知らず、終わりがありません。言い換えれば、この戦いには中途半端なものはありません。騎士は最高の理想によって絶えず霊感を与えられなければなりません。「このお方、無原罪の聖母が、可能な限り早く全世界の元后、すべての人の霊魂の元后、世界のすべての国々の元后になってくださるために、すべての心が例外なしに聖母への愛で満たされるために、それが私たちの最高の理想である」。

騎士にとって、凡庸、怠惰、無関心は無縁です。「だから、騎士は悪が広がることに無関心でなく、心を挙げてそれを嫌い、機会があるならば、どこであれいつであれ、霊魂に毒を与える悪なら何であっても追い詰めるのだ」。

ですから再び言います。朝目覚めたなら自問してください。「私は何者か?」。私は完全に無原罪の聖母のものであり、聖母の子どもであり、聖母の奴隷であり、聖母の兵士であり、さらに重要なのは、聖母の騎士であるということです!

2015年10月27日、マニラにて。
カール・シュテーリン神父


ファチマ2017に向けて(2)


1916年春 ― ルチアに対する天使の第一の出現

フランシスコとヤシンタ

ファチマの偉大なるドラマは1916年、天使の三回の出現によって始まりました。私たちの人生において特別な出来事が起こるならば、特にその始まりと終わりについて考察しなければなりません。始まりは、私たちの人生に重要な変化をスタートさせ(たとえば、勉強の始まり、信仰への回心、将来の配偶者との最初の出会い、召命の最初のしるしなどです)、終わりは、その出来事を通じて私たちに起きたことすべての頂点、まとめのようなものです(司祭叙階、婚姻の秘跡、長い間の勉強の後の最終試験などです)。天主の現れにおいても同様で、始まりと終わりに特別な注意を払わなければなりません。その始まりは、その上にビル全体が建てられる土台にたとえられ、終わりはビルの完成に似ています。

1916年以来、フランシスコとヤシンタは、従妹のルチアを手伝って、自分たちの家とルチアの家の羊の群れの世話をする許可を両親から得ていました。ルチアは9歳、フランシスコはちょうど8歳、ヤシンタは6歳でした。

1916年の春のある日、子どもたちは羊たちと共に、生まれ育った村アルジュストレル近くのオリーブ園にいました。いつものように、正午のころロザリオを祈り、軽い昼食を取ったあと遊び始めました。

「私たちはしばらくの間、ゲームを楽しんでいましたが、そのとき、強い風が木々を揺らし始めました。何が起きたのか見ようとして、見上げて驚きました。その日は通常と違って静かだったからです。すると、オリーブの木の上に、私たちの方にやって来る人物が見えました。私が前に話をした人でした。ヤシンタとフランシスコは以前まったく見ていなかったし、私もそのことを彼らに言っていませんでした。その人が近づいてくると、私たちはその容貌を識別することができました。若い男性で、14歳か15歳ぐらいでした。雪より白く、太陽の光が通り抜けたとき水晶のように透明で、大変美しい姿でした。

私たちは驚き、心を奪われ、びっくりしてしゃべることができませんでした。

私たちのところに来ると、その人は言いました。 『恐れるな! 私は平和の天使である。私と共に祈れ!』

天使は地面にひざまずいて、ひたいが地面につくまで頭を下げました。

超自然の力に導かれて、私たちも同じようにし、天使が言う言葉を聞いて、その言葉を繰り返しました。

『わが天主よ、われ御身を信じ、御身を礼拝し、御身に希望し、御身を愛し奉る! われ、御身を信ぜず、御身を礼拝せず、御身に希望せず、御身を愛さぬ人々のために、御身に赦しを請い願い奉る!』

これらの言葉を三回繰り返してから、天使は立ち上がって言いました。
『このように祈れ。イエズスとマリアの聖心は、汝らの願い求める声をお聞きになる。』そして天使は姿を消しました」。

私たちも、この最初の天の介入について黙想しましょう。

1.いつもと違う強い風

聖書の中にある天主の現れを黙想すれば、突然吹く神秘的な風と関係あることがしばしばあることが分かります。例えば、ホレブ山の預言者エリア、聖霊降臨の日の高間の家での使徒たちです。また、ルルドで最初に無原罪の聖母がご出現になったとき、聖ベルナデッタは「突風のような音」に驚きました。

詩篇103章は言います。「あなたは風を使いとし、あなたは風の翼に乗って進まれる」。霊に当たるヘブライ語は「強い風」と訳すことができます。この最初の事実は、ファチマ(の出来事)をこの世での天主の出現に近いものとします。この風によって、天主は超自然の雰囲気をおつくりになり、それがあらゆる闇と悪を吹き払い、光と天国のような平和をもたらすのです。

2.最初の言葉「恐れるな! 私は平和の天使である」

この言葉は福音書にあるものとそっくりです。天使が神殿でザカリアに現れ、洗者聖ヨハネの懐胎を告げたときです。あるいは、お告げの日の後に聖母にあいさつしたとき、天使は言いました。「恐れるな、マリア」。天使が聖ヨゼフに現れたとき、あるいは、ご復活の日の朝にイエズスの墓にやって来た女たちに現れたとき、天使は言いました。「恐れるな!」

3.天使の出現

天使の出現について聞かれたとき、ルチアはしばしば「Era de luz―天使は光のようでした!」と言っていました。これもまた、福音書の言葉とそっくりです。主のご復活を告げた天使は稲妻のような外見を持ち、その服は雪のように白かったのです(マテオ28章3節)。また、この福音記者は、ご変容の主についてこう述べています。「主の顔は太陽のように輝き、服は雪のように白くなった」(マテオ17章2節)。「天主は光であって、少しの闇もない」(ヨハネ第一1章5節)。天主がご自身を(天使や聖母を通じて)人間にお見せくださるときはいつでも、輝きと光をまとっておられます。光に関するこの神秘は、ファチマのご出現全体を通して、本当にしばしば言われています。

4.あふれんばかりの天主の現存

ルチアは天使の出現について述べています。「私たちを包んだ超自然の雰囲気が非常に強かったため、長い間われを忘れてしまい、天使が去っていっても同じ姿勢のままで、同じ祈りを続けて繰り返していました。天主の現存を、本当に心の底から強く感じたため、私たちは互いに話をしようなどとは思いもよりませんでした」。天主の現存は途方もないことであって、私たちの弱い人間の力にとっては、粉砕されてしまうほどのものでした。しかし、この「天主の現存の前での無力」は、この三人の子どもたちにとって、まず第一に天主が無限に聖であることと被造物が無であることをよく知るという、まことの謙遜を学ぶ上での最高の場となったのです。

私たちへの教訓


1.私たちの中の天使

ファチマは天使の出現によって始まります。天主は私たちに、「目に見えない世界」が存在することと、私たちにとってそれがどれほど重要かをよく考えて理解させようと望まれます。純粋な霊としての天使が私たちに思い出させてくれるのは、私たちが永遠のために創られたということです。天使は、天主の超越性、御稜威、聖性を反映しています。私たちの住むこの物質的な世界においては、五感で感じるものだけしか理解できませんが、天使の存在は(五感で感じられないものがあると分からせる)重要な治療薬です。天使は、物質に対する霊の優位性、一時的なものに対する永遠の優位性を明らかにしています。

天使はまた、天主の無限の美しさを反映しています。歴史上の天使の出現においてはいつも、彼らの輝きと光に満ちた信じられないほどの美しさが見られています。聖トマス・アクィナスによれば、「美は、真理と善を輝きと栄光によって表しているもの」ですから、天使は私たちに真理と善であるものを愛させ、崇めさせ、それと同時に、醜いあらゆるもの、偽りと悪であるあらゆるものに対する健全な嫌悪を私たちに与えるのです。

最後に、天使は天主の全能の力と強さの反映です。

大天使聖ミカエルはルシフェルとその追随者を天国から地獄へと投げ落としました。
ガブリエルという名の訳は、「天主の力」です。
ラファエルはトビアを導き、最も大きな悪から彼を守る大変な力を持っています。

特に私たちの時代においては、私たちは自分の極端な弱さと力不足を感じています。第一に、良心を調べればいつも、力強い世代だった先祖たちに比べ、私たちは自分が完全に退化していることが分かります。また、どこであれ「闇の力」の支配があるがゆえに、私たちの生きる限り、天使の現存と保護の下にいれば、私たちはあらゆる誘惑に簡単に勝つのです。

天主が天使を送ってくださったのは、私たちを守るため、私たちの世話をするため、私たちの守護天使とするためであることを忘れないようにしましょう。一般的に言って、私たちが生きているあらゆる状況の中で、天使たちに私たちを助けようとする力と望みがあることを私たちは過小評価しています。ファチマでは、天使が子どもたちに祈ることを教え、一緒に祈りました。一回一回のミサには天使がいて、ご聖櫃の前で絶え間なく讃美と礼拝をし、天の元后に対して大きな崇敬と愛を捧げていることを私たちが思い起こすなら、私たちの霊的生活はたちまち変わることでしょう。なぜなら、天使たちは、私たちの霊魂が天主に対して開かれるために適した雰囲気をつくり出すからです。

2.天主の御稜威(みいつ)

この大変高貴な天使、彼が子どもたちに何を言い、どのような動作をするのでしょうか? 天使は天主に祈るために、地にひざまずいて、ひたいを地面につけます。一位の天使がすでに、子どもたちがその前でほとんど息をすることができないほど高貴な存在であるのなら、数十億もの天使が天主の御稜威のまえで地にひれ伏しているというのなら、いったいなんと言えばいいのでしょうか?! 「天使たちはみな、玉座…の周りに立ち、玉座の前にひれ伏して天主を礼拝した」(黙示録7章11節)。

ファチマの偉大なる始まりは何ですか? 一つの祈りです。

その祈りはどう始まりますか? 「ああ、わが天主よ」

・天主の無限の御稜威と偉大さについての失われた真理。無限の大海。創造物は天主の前では無。

・私たちにとって、これが意味することは、始めであって終わりであり、必要なただ一つのこと、世と私たちの生活の中心、それは私たちではなく天主であるということです。ああ、わが天主よ。

・あらゆる被造物は天主の前ではちりです。ですから、ひれ伏すこと、ひざまずくこと、これらは、私たちが真理を認め、天主の支配と天主に服従することを理解することの目に見えるしるしなのです。(天主よ、)あなたは始めであって終わりであり、本源であって目的であり、土台であって頂上です。私はまったくの無です。私は、あなたのおかげで、あなたにおいて、あなたのためにのみ存在することができるのです。

3.本質的な徳:信仰、希望、愛―私たちのいのちの本質

この祈りは絶えず、私たちを天主と関係づけてくれます。天主がすべてであるなら、最も重要なことは、私たちが天主に対して正しい態度を取ることです。するとこうなります。「われ御身を信じ、御身を礼拝し、御身に希望し、御身を愛し奉る」。

われ信じ奉る、われ天主の目に見えない世界を認め奉る、われ、わが周りの目に見える世界以上に、御身がわれに啓示し給うたことを確信し奉る。われ信じ奉る、われ天主の実在を認め奉る、われ、わが目を真理とただ一つのまことのいのち、天主の存在と活動に開き奉る。

礼拝は、天主の啓示に対して素早くお応えすることです。信仰によって、天主が私のすべてであり、私が天主に完全に依存していることを理解するなら、私はそれを行動で示さなければなりません。

礼拝は、天主が私の本源でありかつ最終の目的であること、つまり私のすべてであることを承認することです。そして自分自身を本当に理解することです。私は完全にあなたに依存しており、私はあなたのものです。

希望は天主のご意思を成就させたいという望み、天主のところに到達したいという望みです。

天主の偉大さ、幸い、愛を見た者なら誰でも、限りない喜びへ憧れを持つ以外のことはできません。しかし、希望はまた、天主の御約束への信頼です。私たちは至福を希望し、望むことしかできません。なぜなら、天主は私たちをそのようないのちへと招いて天主の子どもとしてくださるからであり、私たちに天国での居場所を用意してくださっているからです。

愛は心が一致することです。私たちを創り、救う天主の愛へ、私たちを天主ご自身のいのちに参与させようと望む天主の愛へ完璧にお応えすることです。私たちのいのちの頂点であり、私たちがすることのできることのうちで最も高貴で最も良いこと、実際に私たちの人生の中で唯一の価値あることなのです。

「私たちの人生の終わりに、私たちはどれほど愛したかについて裁かれるでしょう」と幼きイエズスの聖テレジアと十字架の聖ヨハネは言っています。

4.罪という神秘―償いの必要性

「われ、御身を信ぜ…ぬ人々のために、御身に赦しを請い願い奉る」。大変興味深く重要なことは、私たちの人生の本質(私たちの天主との関係)を述べたあとで、天使は子どもたちにまったく反対のこと、天主の実在を否定すること、つまり罪について教えるのです。

ですから、ファチマの一番最初から、今日では完全に忘れられているもう一つのテーマが現れるのです。世界と人間の歴史は、二つの対立する力、天の国と悪魔の暴政の国、天主への「はい」と天主への「いいえ」(信じない、礼拝しない、希望しない、愛さない)との間の戦いです。

「素晴らしい新世界、地上の楽園」での生活を想像し、普遍的な友情と愛で皆が結ばれるであろうと想像するならば、それは最悪の幻想となってしまうでしょう。

いいえ―まことの天主への「はい」と「いいえ」の間の戦争があり、主ご自身の明白な宣言によれば、最後まで「はい」の態度でいる人々だけが救われるのです。

しかし、天主の敵を信じる人々に対して、ルシフェルの「私は仕えない」に従う人々に対して、私たちはどんな態度を取ればいいでしょうか? 憎しみでしょうか? 無関心でしょうか? 怒りでしょうか? 不幸なことにそれが、私たちの周りにいる悪に対して、しばしば私たちが起こす反応です。

天使は違う言葉を教えています。「われ、…人々のために、御身に赦しを請い願い奉る」。この小さな一文を何度も何度も黙想しなければなりません。

第一に、これは痛悔の祈り、悔悛の祈りです。赦しを請い願うことです。
罪びとが行う第一の愛のわざは罪を悔やみ、赦しを請い願うことです。私たちはみな罪びとですから、私たちはみな赦しを請い願わなければなりません。

「信じない人々」とは誰ですか?
他の人々だけでなく、この私も「信じない人々」の一人なのです。人生において、いったい幾度、信仰や従順(礼拝)、天主への信頼、まことの望み、天主と隣人への愛に欠けていたでしょうか! 自分がいま「光」の中にいるという事実は、私の技能や寛大さのゆえではなく、天主の無限の御あわれみのゆえなのです。

それゆえ私は、現在信じない人々、私も含めてかつて(それはそれほど以前ではないかもしれません)信じない人であったすべての人々と一致して、赦しを請い願います! この連帯は、隣人へのまことの愛のわざなのです。まことの愛は私たちの隣人に「全ての最善のもの」を求めます。全ての最善のもののなかで一番のものは、それがなければ救いが得られない「罪の赦し」です。

第二に、この祈りは、本当の最高の善と、本当の究極の悪が何であるかを分からせてくれます。
ファチマの一番最初に、「われ赦しを請い願い奉る」の言葉があるのなら、私たちは「天主を信ぜず、…天主を愛さぬ…」ことはいかに恐るべきことかを理解します。ですから、私たちの人生において最も重要な任務の一つはこのことについて思いをめぐらすことです。これは次回述べる天使の出現によって確認されることになるでしょう。


*** 非常に重要 ***


新しいウェブサイト www.militia-immaculatae.asia があります。

私たちは喜んで皆さんにお知らせします。「アジアの無原罪の聖母の騎士会」の新しいウェブサイトがもうすぐ開設されます。
アジアのすべての国々の騎士が、その国々に無原罪の聖母のことを知らせるために、私たちと協力してこの使徒職を行っています。

このウェブサイトを自分のためにだけ使うのではなく、できるだけ広めてください。これは、無原罪の聖母の道具としての皆さんの聖なる義務であって、聖母のことを知らせ、可能な限り多くの霊魂が聖母を愛するようにさせるためです。

しかしながら、誰かに文章を読んでもらったり、黙想してもらったりするために、皆さんがこのウェブサイトへのリンクをその人に送信するのなら、
その前に無原罪の聖母の射祷を唱え、皆さんがそのリンクを送信する人の心に聖母が触れることがおできになるようにお祈りください。

でも、第一に皆さんにお願いするのは、聖母にノベナ(聖母の連祷)を唱えることです。この重要な使徒職に対する聖母の祝福と恩寵を請い求めるのです。

どうぞ、皆さんの知り合いに、誰もが次のEメール「 info@militia-immaculatae.asia 」を使って無原罪の聖母の騎士会の管理者に連絡できることを知らせてあげてください。
(了)


聖伝のM.I.(Militia Immaculatae 無原罪の聖母の騎士会)についてのまとめ

2016年が天主様の祝福と恵みに満ちた年となりますように!新年の聖伝のミサ 聖ピオ十世会日本

2016年01月05日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 新年のお喜びを申し上げます。2016年が天主様の祝福と恵みに満ちた年となりますように心よりお祈り申し上げます。

 新年の元旦のミサを日本で捧げることができたことを天主様に感謝します。
 12月31日には大坂で大みそかの感謝のミサを捧げることができました。子供たちも与ることができ、初めて聖伝のミサに与る方々がいらっしゃって大変うれしく思います。
 ミサの直後には聖体降福式をおこない、一年のすべてのお恵みをご聖体のうちに真にましまし給うイエズス・キリストに感謝を捧げました。

 新年元旦と二日にも、大阪で聖伝のミサを捧げました。初金と初土曜のミサでした。久しぶりにミサに来られた方々もいらして喜ばしいミサとなりました。
 1月1日には、ローマの伝統にしたがって、Veni Creator Spiritus を歌いました。ミサの直後には、初金の信心としてご聖体の前で聖時間を過ごし、新年の豊かな恵みを乞い求めました。
 1月2日には、初土曜日の信心のミサを捧げることができました。ただし、恒例の公教要理はお正月休みとしました。新潟から車を運転して大阪までクリスマスと年末年始の聖伝のミサに与りにこられた方もおられました!

 東京では、1月3日の主日にミサの前に成人の洗礼式がありました。天主の子供がまた一人生まれたことに感謝します。また聖伝のミサには多くの方々新しく来られ、ミサに来る小さな子供たちも多くなり、天主様に深く感謝します。

 年末年始(12月31日、1月1~3日)の4回の聖伝のミサは、これらを愛する兄弟姉妹の皆様の意向で捧げました。

 1月3日に洗礼を受け、初聖体を受けたこの方は、ミサが終わった後お弁当を食べている間に私にこう感想を述べてくれました。ご聖体がミルクのように感じた、と。

 実は、これと同じことを、幼きイエズスの聖テレジアも詩で歌っていました。

Cette rosée, elle est au sanctuaire,
L'Ange voudrait s'en abreuver aussi ;
Offrant à Dieu sa sublime prière,
Comme saint Jean il redit : « Le Voici ! »
Oui, le voici ce Verbe fait Hostie,
Prêtre éternel, Agneau sacerdotal !
Le Fils de Dieu, c'est le Fils de Marie...
Le Pain de l'Ange est le lait virginal!

Le Séraphin se nourrit de la gloire,
Du pur amour et du bonheur parfait;
Moi, faible enfant, je ne vois au ciboire
Que la couleur, la figure du lait.
Mais c'est le lait qui convient à l'enfance,
Du Coeur divin, l'amour est sans égal...
O tendre amour, insondable puissance !
Ma blanche Hostie est le lait virginal !

(La Rosée divine ou le Lait virginal de Marie より)

 幼きイエズスの聖テレジアは、聖母がイエズスを私たちに与え、私たちをイエズス・キリストに与えるという事実を見つめながら黙想します。聖母と幼きイエズスとの関係を、ご聖体拝領にまで適用します。聖母が幼きイエズスに与えた童貞の母乳は、イエズスのいと尊き御血と御体となり、この御血を十字架の上で私たちの贖いのために流し、御体は御聖体として私たちに与えられます。幼きイエズスの聖テレジアは、自分は幼い子供だから、チボリウムにあるホスチアの色を見て、白いホスチアは自分を養う童貞の乳であると言うのです。このことを受洗した方に申し上げますと、洗礼のお恵みをしみじみ感じておられること、をお返事にいただきました。

 願わくは2016年において、より多くの方々が、聖母を通してイエズス・キリストを知り、信じ、愛し、礼拝ことができますように。

 確かに、聖母は、天主との比べれば、無に等しい何でもないものです。
 しかし、天主は、聖母を、永遠の昔から自由意思によって選びました。
 三位一体は、聖母を通してのみ、イエズス・キリストを私たちに与えることを望みました。
 聖母への真の信心は、私たちをしてイエズス・キリストへとますます近寄せます。

 聖母の心を私たちにもいただくことができますように。私たちが聖母の心でイエズスを愛し、礼拝することができますように。

 また、イエズスの聖心を私たちがいただいて、その心で私たちが聖母を愛することができますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

日本でのミッション、ほんとうにありがとうございました。 年末年始の御ミサの報告をお送りいたします。

年末年始、御ミサとご聖体降福式、小野田神父様と楽しいひと時を過ごすことができて大変幸福でした。
小野田神父様の多くの犠牲と愛徳に天主様が何百倍もに報いてくださいますように!

12月31日(木)ご降誕後七日目のミサ と聖体降福式には20名の方々が、

年が明けて2016年
1月1日(初金) ご降誕後8日目のミサ と聖体降福式には17名、
1月2日(初土) 聖母の汚れなき御心の随意ミサには15名の方々が御ミサに与る御恵みを頂きました。デオ・グラチアス!

年末には、初めて御ミサに与られた未信者の男性の方々が2名おられ、久しぶりに来られたちいさな子供達も最後まで大変行儀よく御ミサに与っておられました。ちいさな子供がご聖体に対して敬虔な態度でひれ伏すのを見てこのような子供達が聖堂に溢れる日が来ることを切に祈りました。
きっと幼きイエズス様も年末の忙しいときに集まった人たちのことをとても喜んでくださったに違いないと思います。
御ミサが終わって、御聖体降福式で「テ・デウム」を歌い2015年、1年 を通して天主様に頂いた多くの御恵みに感謝し、御聖体にましますイエズス様に愛をお捧げする事が出来ました。

元旦にも御ミサが日本で捧げられた事に大変感謝いたします。
2016年も、余すところなくマリア様を通して、マリア様によって、マリア様と共にイエズス様にお捧げする決心をたてることが出来ました。
3日間のお説教を通して、イエズス様とマリア様の聖心がひとつであり、イエズス様をお愛しするためにマリア様の聖心を頂き、マリア様を御愛してお喜ばせするためにイエズス様の聖心を頂くことをイエズス様は大変喜ばれる事を知りました。

ミサの後にはローマの古い習慣に従って、幼きイエズス様の御足に接吻する式がありました。美しいイエズス様の御像を眺めながら、人類の為に小さく、低くなられた天主の神秘の偉大さに感激いたしました。可愛らしい御足に接吻したとき、イエズス様が微笑んで下さっているような気がしました。

その他の報告

●初詣に出向く人々の雑踏を見て、これらの方々の為に償いのためにミサに与り、天主様にこれらの方々の回心を祈りました。
●年の最後と始めに御ミサと御聖体降福式に与れた大きなお恵みに天主様の憐れみと愛を感ぜずにはいられませんでした。マリア様が、日本を特別愛してくださっていることにも深く感謝申し上げます。
●元旦に聖歌隊が歌っておられたチマッチ神父様作曲の「アヴェマリア」がとても日本的で美しく、正月にふさわしいと思いました。
●馬小屋と幼きイエズス様がとても美しかったです。


【報告】
Dear Fr Onoda:

今日の東京でのミサの参列者数は下記の通りです。

ミサの参列者数
男: 17人(内、子供2人)
女: 28人(内、子供2人)
計: 45人(内、子供4人)


--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様をお待ちしております
【最新情報はこちら、年間予定一覧はこちらをご覧ください。】