Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

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「婚姻の神秘」---真の天主である「御聖体」へのふさわしい態度とは---

2016年01月25日 | お説教・霊的講話
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 2016年1月17日(主日)に東京で聖伝のミサを捧げました。その時のお説教をご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

2016年1月17日(主日) 御公現後の第2主日ミサ
小野田神父 説教


 日本の聖なる殉教者巡回教会にようこそ、今日は2016年1月17日、御公現の後の第2主日ミサです。

 1月は日本では過去250年の間、毎年この時期になると、踏み絵を踏まされてきました。そこで、いつも1月にやっている通り、それの償いの為に、私たちは踏み絵に接吻をする儀式をします。

 明日はここで7時からミサがあります。2月は、2月の最初の主日2月7日、ミサがここであります。2月7日と、そして第3主日の2月21日です。
そして今日午後14時30分頃から、公教要理の勉強と、16時から、御公現後第2主日の第2晩課があります。どうぞいらしてください。

 
“Nuptiae factae sunt in Cana Galilaeae”

 「ガリレアのカナで、婚礼の式があった」

 聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

 愛する兄弟の皆さん、今日カナでの婚礼の式で、イエズス様が、マリア様の介入で、時がまだ来ていないにもかかわらず、水をブドウ酒に変える奇跡を行いました。

 ちょうど今日から4日前、1月13日の主の洗礼の記念の時には御公現の聖務日課をもう一度繰り返しつつ、私たちは朝課と晩課で、「主の洗礼」と、そして「カナでの婚宴の奇跡」と、そして「3人の博士たちの贈り物」の3つ話が、1つになった話がされます。どんなことかというと、「主が洗礼を受けたのは、これは、私たちの霊魂と天主様が結婚する話だ、霊的に結婚して1つとなる話だ。そこで私たちの主は、水で洗礼を受けたけれども、その結婚式に、私たちの主は水をブドウ酒に変えて、婚宴を祝った。その婚宴の式に、3人の博士は贈り物を贈ってきた。」と、言っています。

 そこで、私は今日皆さんを、このカナでの婚宴の式の福音を黙想しつつ、このカナでの婚宴の式にイエズス様が招かれたように、実は私たちも霊的に、ミサに於いて、イエズス・キリストとの婚宴の式に招かれている、という事を一緒に黙想しましょう。

 皆さんが霊的な婚宴の式に与っている、結婚式に与っている、という事を黙想して、それに招待したいと思います。そこで、その結婚式に於いて、婚宴の式に於いて、私たちは、新郎である天主であるイエズス・キリスト様に対してどういう態度を取らなければならないのか、どういう風に接しなければならないのか、という事を黙想して、そして最後に、遷善の決心を取る事に致しましょう。

 第1のポイントは、では、カナでの結婚式とミサというのは、どんな関係があるのか?という事です。カナの結婚式は、もちろん2つの部分があります。1つは結婚式と、婚宴と、そして後は、宴会です。カナでイエズス様は、宴会の式で、水をブドウ酒に変えましたけれども、私たちは、特に婚姻の最も中核な、最もその核心である両性が、2人が一体となる、男と女が一体となる、という1つの体となる、という所に、婚姻の本質がある、という所に注目します。すると、ミサはまさに、そのイエズス・キリスト、真の天主であるイエズス・キリストと、その花嫁である教会との一致を表しているという事ができます。

 何故かというと、ミサというのは、十字架の生贄の再現であるからです。十字架の生贄ではイエズス様は、第2のアダムとして、死の床に着きました。第2のアダムの脇腹から、水と血が流れ出ました。水は、洗礼の象りであって、教会の入り口の象りです。血は、教会の中心、御聖体の象りであって、シンボルであって、これは教会の中心です。つまり、水と血が出た、という事は、キリストの花嫁である教会が、第2のアダムの脇腹から出て来た。そしてこのキリストは、花嫁である教会と一体である。1つの神秘体を司っている、という事です。

 そして、キリストの神秘体というのは、何か具体的な何か抽象的な、宙に浮いた餅の、絵で描いた餅のような、何か食べる事もできない、見る事もできないものではありません。キリストの花嫁、天主の教会カトリック教会は、私たち1人1人がその肢体の、体の一部となっています。イエズス・キリストが教会と1つになっている、1つの体を作っている、という事は、私たちの霊魂とも1つとなっている、という事です。霊的に、キリストは私たちと婚姻状態となる事を望んでいるのです。洗礼を受けた時に、私たちの中には、イエズス様の天主の命が生きる事によって、1つの体となりました。

 このイエズス様は、カナでは招かれた身でした。しかし本当の婚姻では、霊的な私たちとの婚姻では、新郎です、単なる傍観客ではありません。そこでイエズス様は、水をワインに変えるのみならず、ブドウ酒を御血に変えて、私たちに飲ませようと思われました。パンを御自分の体に変えて、私たちをそれを以って養おう、私たちと一致しようと思われました。そして本当に、私たちがイエズス・キリストと一体となる事を、霊的にも、体的に於いても、一体となる事を望まれました。

 婚姻では、両性が1つの体となるので、もしもそれを別ってしまうような、これを分断してしまう様な事があれば、これは罪となります、大きな罪となります。天主がなした事を、人間がそれを壊そうとするからです。

 私たちに於いては、天主様との一致は、罪によって、分断されてしまいます。罪を犯す事によって、天主の命は私たちの中から死んでしまいます。私たちは、霊的な愛の交友、婚姻状態を、罪を避ける事によって、愛徳の業を行う事によって、保たれなければなりません。

 では第2のポイントです。そのような婚姻の席に招かれた特に私たちは、ミサ聖祭に招かれて、イエズス様と教会との、そのキリストの教会、真のキリストの教会カトリック教会とのイエズス様との一致の神秘を私たちが今与っているその時に、どのような態度を取らなければならないのでしょうか。

 御聖体の本来の意味とは、一体何なのでしょうか?

 イエズス様は私たちを愛する、私たちと一体となろうとする新郎であります。私たちは花嫁ですが、単なる花嫁ではなく、被造物の花嫁であって、罪を犯した花嫁です。それに引き換え、イエズス・キリストは真の天主です。私たちを創り、愛し、養い、全てを私たちに下さった大恩人である、創造主である、天主である、新郎です。そしてこのような身分の違いにも、無限に身分の違いがあるにもかかわらず、私たちをあわれんで、私たちと1つになろうとする、愛の無限をご覧ください。無限の愛をご覧ください。

 ですから、私たちのカトリック信仰によれば、「御聖体」というのは、「キリストの真の体」です。シンボルではありません、象徴ではありません、それを意味するだけではありません。例え、目で或いは鼻で、口で、触角で、それでないと思われようとも、イエズス様がそうはっきり仰ったので、御聖体は、本当に、天主の、人となった天主の、イエズス・キリストの御体となります。もはや普通のパンではありません。パンの中にイエズス様がおられるのでもありません。イエズス・キリストの御体と実体が変化します。

 イエズス様は真の天主ですから、御聖体は、真の天主です。御聖体は、私たちを創り、創造し、養い、愛しておられる、新郎であるイエズス・キリスト、真の天主です。

 イエズス様は、愛を与える為に、御聖体を制定したのではありません。「愛を与える」といえば、例えばお花を与えたり、プレゼントをしたり、自分以外のものを何か贈るかもしれません、ラブレターを書いたり。

 イエズス様は、御自身を、自分自身を、「御自分の御体と命と全て」を私たちに与えようとしました。愛のゆえに。

 ですから、そのような私たちとの霊的な結婚を前に、そしてこのミサは、特にミサでの御聖体拝領は、私たちにとってイエズス・キリスト様との愛の一致を意味するものです。「イエズス・キリスト化」する事です。ですから私たちは、それに相応しい態度を取らなければなりません。

 では、どのような態度が相応しいのでしょうか?

 御聖体というのは、神道の御神体のようなものではありません。仏教の秘仏のようなものでもありません。何故かというとそれらは、単なる物であって、剣とか刀とか剣とか鏡とか、勾玉とか、或いはどこかの彫刻とか、或いはそういうシンボルでも、それを表すような偶像ではありません。

 御聖体というのは、そのような神道の御神体、仏教秘仏などのような物ではなくて、シンボルでもなくて、真に私たちを創造された、生きてまします、私たちを在らしめて下さる、私たちの為に命を下さった、十字架で贖いをなさった、そして私たちを永遠の命に導いて下さる、わたしたちと愛の一致を望んでおられる、「真の天主」であるからです。

 ですから、御神体のように、或いは仏像のように拝んではいけません、もっとしなければなりません。跪いて礼拝して、心から愛の礼拝を、イエズス・キリスト様に対する、私たちを全てを捧げる礼拝をしなければなりません。有り難く伏し拝むどころでは足りません。私たち全てを捧げて、私たちをイエズス様へのものとして、イエズス様が私たちの為に罪の生贄となって下さったのですから、私たちも、同じくイエズス様のものとして、与え尽くさなければなりません。夫婦とはそうではないでしょうか。私たちただ平伏して、「ははぁー!」この恐ろしい、おどろおどろしい、「何かおっかない偶像だ。怒ってる何とかの神様だ」というのではなくて、私たちをあわれんで、愛して、私たちに全てを、御自分全てを与えるものとして、私たちは、更に深い、礼拝と感謝と讃美、そして罪の償いを捧げなければなりません。それが、御聖体の本来の意味です。

 天主様は、私たちを創り、全ての美しいものを下さり、そしてその私たちを愛するが為に人となられた、そして私たちの為に苦しまれた、十字架の上で生命を与えられた、全ての血を流されただけではありません。私たちと1つになろうと思って、御自分をパンとして与えて下さろうとするのです。そのような愛の極みに向かって私たちは、どうして冷淡で、どうして冷たい態度で、突っ立ったままいる事ができるでしょうか。

 イエズス・キリスト様が御聖体を下さったのは、聖パウロが言うように、「全てをキリストに於いて1つにまとめる為、復興させる為、“Instaurare omnia in Christo”の為です。“キリスト”というキーワードがなければ、全く意味がありません。全世界を、全人類を1つに一致させる為ではありません。キリストに於いて、全てを統合させる為です。キリストを頭として、その元に集める為。キリストのない一致を求める為ではありませんでした。そしてその為にこそ、御聖体が与えられました。全ての舌が、イエズス・キリストを主として崇める為に、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもの、地獄のものも全て、キリストを、「主である。」と、告白する為です。キリストがいなければ何の意味もありません。全てが、イエズス・キリストを真の天主として、全てこれよりも、天上天下、これよりも高い名前はない、と崇める為です。

 ですから、もしも私たちが相応しい態度でイエズス様を礼拝して、イエズス様を拝領するならば、私たちはますますキリストのようになります。相応しい態度である、というのは、私たちが、イエズス様に対する愛の状態に、成聖の状態にあって、相応しい礼拝を捧げ、罪の償いを捧げる事です。

 今から100年前に、ちょうど100年前の1916年、マリア様はファチマで、ポルトガルの天使を子供たちに3回送りました。ポルトガルの天使は、子供たちに御聖体を持って来て、「見よ」、そしてその御聖体を宙に浮かせたまま、その御聖体からは御血がタラリ、タラリと滴りて落ちています。その天使は、額を地面に付けて、御聖体を宙に浮かせたまま平伏して、「御聖体のうちに真に在し給う、イエズス・キリストの御神性、御人性、霊魂を礼拝致します。御身を礼拝しない人に代わって、私は礼拝します。」と、祈りました。子供たちもそれと同じお祈りをしました。

 これが、相応しいやり方です。天使が私たちに教えて下さったやり方です。これが、私たち全世界の人間が被造物が、日本人であろうと何人であろうと、御聖体に対して、真の天主に対して、なさなければならない態度です。この天が教えたやり方を拒否する事は、私たちにはできません。私たちを愛する新郎、この前に私たちはどうして、愛と感謝と礼拝をする事ができないのでしょうか。禁止されるのでしょうか。

 もしも私たちが、イエズス・キリストの弟子となったのならば、洗礼を受けて、キリストの神秘体の一部となったならば、ますますキリストのようにならなければなりません。第2のキリストとならなければなりません。キリストに真似なければなりません。という事は何かというと、私たちはますます、イエズス様と共に十字架の道を歩かなければなりません。世の罪の贖いの為に協力しなければなりません。多くの方が、イエズス様の御血潮の功徳に与る事ができるように、イエズス様を知り、愛し、そして讃美し、その永遠の命に与る事ができるように、キリストの神秘体の一部となる事ができるように、キリストの下に集められるように、祈らなければなりません。

 御聖体拝領をするという事は、単にご飯を食べる、パンを食べるのではありません。イエズス・キリストの生贄に、私たちも生贄として捧げて、1つの生贄となる事です。第2のキリストとなる事です。そうすると、私たちは徐々に、徐々に変えられて、遂には天国の永遠の婚宴の席に於いて、本当にもう決してイエズス様と離れる事のない、罪を犯す事のない、永遠の神秘的な婚姻が完成するのです。その時に私たちは初めて、「あぁ、キリスト教徒となって、遂にキリストとなった。」と、その時に言う事ができるでしょう。

 そして私たちは、このミサに於いて、その神秘的な婚宴の席に与るように、もっともっと一致するように、と招かれています。

 では、どのような遷善の決心を立てたら良いでしょうか。

 どうぞ、イエズス様に対して、自由に、愛を込めて、心から、心の底から、礼拝と、感謝と、讃美と、罪の償いを捧げて下さい。そしてそれができない、或いはそれをしない多くの人々に代わって、それをなさって下さい。特に御ミサの中で、跪いて、口によって、礼拝をしつつ、御聖体拝領をして下さい。この御聖体拝領が、私たちの永遠の婚姻の秘跡への前兆である、とよく自覚して下さい。イエズス・キリストといつも一致している花嫁である、という事を自覚して下さい。決して、この私たちが、イエズス・キリストと一つの体となった花嫁として、夫である主イエズス・キリスト様を悲しませる事がないように、罪を以って、「イエズス・キリストよ、どっかに行け」などと言ってしまう事がないように、恩人であるイエズス様に対して、冷たい態度や暴力をふるう事がないように、特に御聖体拝領でお祈り致しましょう。御聖体拝領をしつつ、私たちは幾度も過去イエズス様に対して背き、イエズス様の御血を無駄にし、御聖体に対して相応しい態度を取ってこなかったかを辛く思い、決してそういう事がないように、特別の遷善の決心と御恵みを求めましょう。

 マリア様に、「どうぞマリア様、マリア様はイエズス様に対して、いつも相応しい態度を取っておられました。イエズス様を決して悲しませる事がないように、イエズス様と決して離れる事がないように、」その特別の御恵みを求めましょう。

 “Nuptiae factae sunt in Cana Galilaeae”

 聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

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