Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

フェレー司教様が、ジャーナリストのダン・ラザーの「ダン・ラザー・リポート」に出演

2010年12月10日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 フェレー司教様が、ジャーナリストのダン・ラザーの「ダン・ラザー・リポート」に出演したそうです。




 愛する兄弟姉妹の皆様の上に天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

【参考資料】H1N1ワクチンは、700%の流産の増加に関係あり。

2010年12月10日 | カトリック・ニュースなど
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 参考資料です。H1N1ワクチンは、700%の流産の増加に関係あり。

H1N1 vaccine linked to 700 percent increase in miscarriages

Learn more: http://www.naturalnews.com/030657_vaccines_miscarriages.html


According to the report, the rate of miscarriage among pregnant women during the 2009 H1N1 / swine flu pandemic soared by over 700 percent compared to previous years, pointing directly to the vaccine as the culprit -- but the CDC denies the truth and continues to insist nobody has been harmed.

愛する兄弟姉妹の皆様の上に天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

次の安田神父様の著書(新品)を、クリスマスのお祝いに一割引でお譲りいたします

2010年12月10日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア!

 愛する兄弟姉妹の皆様、

 次の安田神父様の著書を新品のまま譲って頂きました。クリスマスのお祝いに一割引でお譲りいたします。

●日本の奇跡 聖母マリア像の涙 秋田のメッセージ 安田貞治著 (一割引にて)
●奇跡と涙 -続・秋田の聖母マリア- 定価1300円(=>一割引で 1170円)
●十字架の神秘 定価1300円 (=>一割引で 1170円)

シスター笹川の句集「薔薇の曙」は非売品で、普通は手に入れることが出来ません。特別に3冊譲って頂きましたので、ご希望の方はお知らせください。

●句集 薔薇の曙 多利田久美


天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

十字架

2010年12月09日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

私たちの主イエズス・キリストは、幼子として貧しい馬屋に産まれました。力なき幼子、か弱い嬰児として。この世にある拝金主義を軽蔑して。権力志向を疎んじて。

あぁ、それでも、全能の天主イエズス・キリストは、私たちのために少しは何かしらなさりたかったのではないでしょうか?

やさしい言葉をかけたり、おてつだいをしたり、教えてあげたり、などなど。でも幼子イエズス・キリストにはそれすらできなかったのです。

十字架の上でも同様でした。手も足も自由に動かすことができませんでした。

愛する兄弟姉妹のために何かしらして差し上げたい、あれをやりたい、しかし、手も足も縛られて何も出来ずに終わってしまう、私たちの主イエズス・キリストの思いを黙想しています。

か弱い嬰児となられた天主!しかし、ネロも、ディオクレチアヌスも、いかなる武力も、その他諸々の迫害者もそのか弱い幼子イエズス・キリストの教会をこの地上から消し去ることができませんでした。

天使たちは羊飼いたちに言います。おまえたちは幼子を見るだろう、と。

私たちの主イエズス・キリストは、愛らしい幼子として、優しさに溢れた幼子として、喜びに満ちた幼子として産まれました。力強い天主は、弱い私たちの直ぐ近くに来られます。

この世の権勢を持たないで、私たちの主はこの世を征服するのです。か弱い幼子イエズス・キリストこそ、この世を支えている天主。全てはこの幼子によって創られたのです。

天主の子が人間となって産まれる時、天主は全ての富を放棄して産まれます。天主にはこの世の富も権勢も必用ではなかったのです。

私たちの主イエズス・キリストとともにいる時、弱さも貧しさも恥ずかしいことではなくなります。私たちの主イエズス・キリストにこそ、本当の幸福が見出だされます。心の貧しい人は幸いなるかな。

私たちのために人となった天主イエズス・キリストよ、我らを憐れみ給え!

聖母の無原罪の御宿りよ、我らのために祈り給え!

愛する兄弟姉妹の皆様の上に天主様の祝福が豊かにありますように!!



トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

ソウルでは初雪

2010年12月09日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

今日は無原罪の御宿りの祝日でした。マニラの私たちの教会では、静かな良き休日でした。テレビ局がミサ聖祭を中継する予定もあったのですが、キャンセルしました。おかげさまで、ほっと一息、デオ・グラチアス!!

ソウルでは初雪だそうです。ソウル大司教区もそうですが、朝鮮は聖母の無原罪の御宿りに奉献されているのです。

聖母の無原罪の御宿りよ、我らのために祈り給え!

聖ヨゼフ、我らのために祈り給え!

聖ピオ十世、我らのために祈り給え!


愛する兄弟姉妹の皆様の上に天主様の祝福が豊かにありますように!!



トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

生命と家庭に関する天主の掟が尊重されるため:現在1204環のロザリオが集まりました

2010年12月08日 | ロザリオの十字軍
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 無原罪の御宿りの祝日、おめでとうございます!

 生命と家庭に関する天主の掟が尊重されるため、フィリピンにおける「出産健康法」が廃案となるためのロザリオの報告をご紹介いたします。

 2010年11月1日から11月31日までの分として、生命と家庭に関する天主の掟が尊重されるため、フィリピンにおける「出産健康法」が廃案となるため:2010年12月8日現在日本から、

 ロザリオ 1204 環

 が報告されています。

 フィリピンでの総集計は2010年12月8日現在ロザリオ 8034 環(そのうち1204 環が日本から)です。

 まったく個人的な話ですが、今日のミサで、天主様のお恵みにより、司祭叙階以来6670回の聖伝のミサを捧げるお恵みをいただきました!天主様に深く感謝します。聖母マリア様の御取り次ぎに感謝します。

【報告】
十 主の平安

トマス小野田圭志 神父様
新しい意向によるロザリオのご報告です。

11月2日から11月30日までに

ロザリオの祈り 123環 です。



【報告】
フランシスコ・パウロ

ロザリオの祈り

いよいよ待降節を迎えました。このところロザリオの一連ごとの意味を深く黙想出来るようになりました。主の御降誕と主の十字架の御苦しみが重なります。
11月のロザリオは30回、少ない祈りです、12月はもっと励みます。

【報告】
アヴェ・マリア

小野田神父様

フィリピンのロザリオの十字軍のお祈りは30環でした。

どうか神父様の今のフィリピンでの御活動が日本や他の国で役に立つ時が来ます様に。


【お便り】

トマス 小野田 神父様

 11/21の主日、早朝からお世話になりましてありがとうございました。

 小野田神父様以外の神父様が立てられる聖伝の御ミサは初めてです。朝から2回も御ミサに与れ、秘跡も授けていただき、神父様お二人の美しいヴェスペレのお祈りにも参加させていただき感謝です。

 ああよかったという思いがずっと続いています。

待降節です。フィリピンでお忙しくお過ごしのことと思います。
 
 ブログの記事からは神父様が生き生きと様々なことにチャレンジしておられるようで嬉しく思います。

 くれぐれもお身体を大切になさってください。
 それでは12月の聖伝の御ミサを楽しみにしています。
 お世話になりましてありがとうございました。


【報告】
十主の平安!♪

アヴェ・マリア!!♪♪  

待降節!♪に入りましたね♪

フィリピンの「出産健康法」案が1日も早く廃案になりますように!等の意向に依ります聖なるロザリオの!♪の御報告です♪
11月7日から30日までです。

*シスター 72環
*パウロ夫妻  46環
*ヨゼフ・パウロ 48環
*マリア 202環(頑張れました!と思います♪御祈り有り難うございました!)
*マリア 19環
*マリア 144環
*バルナバ 1環
*テレジア  65環
*マリア 43環(何カ月か前までは修道院じゃないのだから、日に1環は無理!思っていたのに、唱えられるようになったよ♪と言って下さいました、火曜、金曜は3環!唱えて下さっています♪)
*マリア 19環(前に、癌の手術をされていますので、冬は体調が悪くなられるそうです、、御祈りお願い致します。)
*マリア 42環
*アンナ 23環(お元気になさっておられました♪秋田は!♪まだ雪は降っていないそうです♪)
*バルナバ 追加、1環
*エリザベト  24環(まだまだかなり痛むそうです、1年間は痛いのだそうです)

日本は、かなり寒くなりましたので、どうぞ、冬服でお帰り下さいませ!
フルーガー神父様も厚着をなさいまして!

デオ・グラチアス!!

我らの主なるお待ち致しております幼きイエズス様!!!♪♪♪
聖なるロザリオの聖母マリア様!!♪♪
聖ヨゼフ様!!♪
聖なる司祭トマス小野田圭志修道院長様!♪を
御護り下さいませ!


【報告】
主の平安。小野田神父様、11月のロザリオの報告をいたします。
フランシスコ  30環
テレジア   140環
モニカも毎日必ずロザリオ3環は唱えているそうです。前回のロザリオの集計に、毎月の母の分も加えていただけたら幸いです。

天主様からの祝福とお恵みが小野田神父様と聖ピオ十世会の皆様の上に豊かにありますように、祈りのうちに。

【お返事】
モニカお母様のロザリオの分、90環を付け加えさせて頂きます。感謝します。

【報告】
Thank you Fr. for sharing these letters w/me - I remember fondly your pilgrimage group from Japan [maybe also Korea?] -especially the tall lady perhaps from Hokkaido who sang in the choir under Fr. Couture's direction.

I continue to say 2 fifteen decade Rosaries 5 days/wk and 1 the remaining 2days/wk. AMDG!!

【お返事】
Thank you! So, I add 12 rosaries for the month of November.

+ + +


愛する兄弟姉妹の皆様の上に天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

聖ピオ十世司祭兄弟会 (FSSPX) 創立者 ルフェーブル大司教 伝記 目次

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無原罪の御宿り

2010年12月08日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

12月8日は聖母の無原罪の御宿りの祝日です。フィリピンではカトリック教会の守るべき祝日です。

今日はクチュール神父様とともに一日を過ごしました。ミーティング、話し合い、相談などなど充実した一日でした。

来年度の日本と韓国とのミッションの計画も話し合いました。来年度は、
1月はマックファーソン神父様、
2月はクチュール神父様、
3月、クチュール神父様、
4月はマックファーソン神父様、
5月の秋田巡礼は小野田神父、ミッションはマックファーソン神父様、
6月、7月、8月は小野田神父、
9月、10月はクチュール神父様、
11月は小野田神父、
12月はマックファーソン神父様、
と以上のように予定されました。私の番が取り敢えず5回ですが、機会があれば、何とか日本に行く回数を増やしてみたいと思います。

6月、7月、8月、9月、また11月は、少しイレギュラーな予定になる可能性が有ります。例えば、後ろから二番目の主日の代わりに最初から2番目の主日、あるいは最終主日、などになると思われます。詳しい予定は、後程、改めてお知らせします。御不便をおかけします。

では良き無原罪の御宿りの祝日をお過ごしください。

愛する兄弟姉妹の皆様の上に天主様の祝福が豊かにありますように!!


トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

大斎

2010年12月06日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 明日は聖母の無原罪の御宿りの前日、聖ピオ十世会の大斎小斎の日です。

 こちらマニラでは、クチュール神父様を迎えております。愛する兄弟姉妹の皆様、良き祝日の準備をなさってください。

愛する兄弟姉妹の皆様の上に天主様の祝福が豊かにありますように!!

聖母の汚れなき御心よ、我らのために祈り給え!

無原罪の御宿りよ、我らのために祈り給え!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

フルーガー神父様

2010年12月05日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

フルーガー神父様とマニラにいる司祭たちはともに時を過ごしました。ヨーロッパの異常気象、猛吹雪のために飛行機が遅れました。
フルーガー神父様は、フィリピンのダバオに行かれ、シスターたちまたベタニアの修道生活志願者たちのために黙想会を指導される予定です。愛する兄弟姉妹の皆様のお祈りをお願いいたします。

修道院長の責務も受けて、百日以上になりました。愛する兄弟姉妹の皆様のお祈りを感謝します。

日本では、12月8日に新しい口語の天使祝詞「アヴェ・マリアの祈り」が発表されるそうです。この新しい口語訳の寿命は何年でしょうか?3年以上もつでしょうか?藁についた火のようにあっという間に消えてしまいそうです。主よ我らを憐れみ給え!

愛する兄弟姉妹の皆様の上に天主様の祝福が豊かにありますように!!


トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

誘惑

2010年12月02日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

今日は初木曜日、マニラの私たちの修道院では一日中聖体礼拝をする日です。

 たくさん祈りたい、御聖体の前に留まりたい、思いは強いのですが、ついうっかり、あの仕事、この用事、電話、あの訪問者、思うように礼拝の時間が取れず、ようやく一時間ちょっと。責任ある仕事をするがゆえにかえって、もっともっと祈りの時間が必要なのに…。

明日は、聖フランシスコ・ザビエルの祝日。今日できなかった分を取り返さないと、と思います。

主よ、我らを憐れみ給え!我らを憐れみ給え!

愛する兄弟姉妹の皆様の上に天主様の祝福が豊かにありますように!!


トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

アンジェルス誌に掲載されたフルーガー神父様とのインタビューをご紹介します

2010年12月02日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア!

 愛する兄弟姉妹の皆様、こんにちは!
 今月の聖伝のミサの際には、聖ピオ十世会の総長第一補佐のフルーガー神父様が来日されます。そこで、アンジェルス誌に掲載されたフルーガー神父様とのインタビューをご紹介します。

2010年10月に行われたフルーガー神父とのインタビュー

<>内は訳者による補足

1) 聖ピオ十世会の第一総長補佐として神父様は随分と旅行をされておられますね。そこでどのくらいの頻度で旅行をし、どのくらい本部に、つまりスイス本部の建物におられるかについてお考えを頂けますか?

 実際に、総長<フェレー司教>様の両補佐<フルーガー神父とネリ神父>はかなり頻繁に出張をします。2006年の総会から最初の数年間、私たちは司祭たちや、支部修道院<プライオリー>、そして彼らが統轄する世界の至る所にある共同体<特設のミサ会場や巡回ミッションなど>をよく知るようにならなければなりませんでした。ここ数年、私たちは三分の二の時間、本部に不在でした。例えば、2008年に、ネリ神父様などはメンツィンゲン<本部>に111日、そして私自身は112日いただけでした。

2) 神父様は一年に黙想会を何回、そして誰に指導されますか?

 毎年6回から8回の間で黙想会がありますが、今年は実に九回の予定です。四回の黙想会は様々な管区(イギリス、カナダ、アメリカ、そしてメキシコ)にいる本会の司祭たちの為で、さらにもう一つのものはフランスにある私たちと提携する司祭共同体の為で、やはり私が指導する事になっています。残る四つは女子修道会の為で、名前を挙げれば、女子カルメル会や、女子ベネディクト会、そして<聖ピオ十世会の>献身会の為です。

3) 聖ピオ十世会は進展しているという印象をお持ちですか?

 人数に於いては確かにそうです。印刷物とインターネット上でのカテケーシス<教理解説>による使徒職に加えて、学校や宣教区での使徒職は世界規模で発展しています。一部の地方では、信徒の数が増加しています。それはアメリカ合衆国や、フランス、イタリア、アジア、そしてアフリカです。この二年間で平均以上の司祭叙階を行いました。最終的に、新しい支部が毎年開設されています。それが意味するのは司牧活動がその度を増さなければならないと言う事です。

 著しい発展は家族から、つまり、子供たちや若者たちから来ているのです。その上、2007年のスンモールム・ポンティフィクム以降、多くのカトリック信徒たちはノヴス・オルドから聖伝と聖伝ミサにやって来たのです。これは<滞在中の>8月に幾つもの聖堂を訪問する事が出来たアメリカで特に私の心を打ちました。さらにそこには、私たちと働く為に新しいミサを捧げるのを止めた無所属の司祭たちもいらっしゃいました。

 公教会と社会に存在する危機の結果であるこの荒廃は毎年進行しています。だからこそ聖ピオ十世会にとって、踏み込むべきより広範囲の領域が存在しているのです。その結果として、私たちはより多くの司祭、修道者の召命を、特に宣教区で必要としています。

4) この進展の質に関しては如何ですか?

 一つの非常に別の進展とは、公教会の中でますます増大している聖ピオ十世会の影響力です。これは単に世界中でトリエント・ミサを捧げ始めた、多くの若く保守的な司祭だけではありません。彼らにとって、聖ピオ十世会は真の希望の印であり、現代の神学的かつ司牧的な大混乱にあって安定性を提供してくれるのです。

 ローマとの神学的討論は特に、何と言っても、動機が何であれ、教皇聖下が私たちの事を真剣に受け止めて下さっている事を証明しています。五年前なら、公式に第二バチカン公会議を検討すること、ましてや疑問視することなどありえなかったでしょう。ローマは後退し、第二バチカン公会議を救い出す為に新しい解釈を定めようと試みているのです。過去において問題にさえされなかった公会議とその成果が、突如として正当化されなければならなくなっているのです。これは新しい事なのです。聖ピオ十世会がなかったら、つい最近までこれは考えられなかったでしょう。聖ピオ十世会は常に邪魔者でした。ですが今や私たちは真剣に受け止められなければならないし、私たちを無視する事はもう出来ないのです。

 最近数ヶ月の出来事や、特にヨーロッパでの昨年の出来事は、近代主義者である司教方がもはや私たちを無視出来ないという事を証明したのです。時々彼らの一部が、私たちと聖伝とを嫌悪しているなという印象を与えています。つまり、彼らは私たちの事を畏れているはずなのです。メディアが時あるごとに私たちを攻撃するという事は‐‐‐‐フランスで放送されているテレビ番組のレ・インフィルトゥレ(Les Infiltrés)、あるいは2009年の新聞による世論操作宣伝活動のことを私は考えていますが‐‐‐‐‐‐もはや私たちを無視出来ない彼らを証しています。彼らはむしろ私たちと真剣に向き合わなければならなくなっているのです。

 また大事な事を言い残しました。通常はそれについて言及しませんが、世界中には聖性の途上にあって天主の恩寵と共に歩む修道者や一般信徒たちなど、聖ピオ十世会の会員が大勢いるということです。これは現代に天主がお与えになった特別な賜物です。

5) 聖ピオ十世会にとって一番困難な職務とは何でしょうか?

 堅忍ですね。つまり強さと忍耐の気迫を維持する事です。主たる脅迫はしばしば外部から来るのではなく、むしろ私たちが時として自分自身の行く手を阻んでしまっているのです。教会の危機は続いていますし、いっそう激しいものになっているところです。疲れさせるものがあります。そうなると二重の危険が生じるのです。つまり友輝と希望とを失い、あきらめと敗北主義が蔓延してしまうことです。人々は契機と動機付け、そしておそらく自分たちの“初恋”さえも失ってしまい、その結果として時おり“私たちには何をしても無駄だ”というような意見を耳にするようになってしまうのです。

 あるいは、その上もっと悪いことは、<この状況に>慣れ、順応しようと試みることです。どんな犠牲を払っても和解をし、何らかの妥協に甘んじるのです。ですから、私たちが‐‐‐‐司祭および一般信徒が同等に‐‐‐‐‐自分たちの義務を意識し、聖ピオ十世会の創立時から続く信仰の精神と創立者のそれを発見することが重要となります。私たちは、公教会の業なのですから!ただ自分自身の為だけに<聖伝の>御ミサや信仰を救っているのではありません。私たちには公教会に於ける任務と公教会の為にそれをする任務があるのです。私たちは使徒的です。ですから公教会と霊魂にとって恐ろしいこの状況は、私たちのことを無関心のままに放っては置きません。

(続く)


Lumière… et ombres dans le livre-entretien de Benoît XVI

2010年12月02日 | カトリック・ニュースなど
Lumière… et ombres dans le livre-entretien de Benoît XVI par l’abbé Gaudron

L’abbé Matthias Gaudron, de la Fraternité Sacerdotale Saint-Pie X, a été ordonné prêtre par Mgr Tissier de Mallerais en 1990. Il a dirigé durant douze ans le Séminaire international du Sacré-Cœur à Zaitzkofen (Bavière). Il est actuellement en poste au prieuré Saint-Pierre de Berlin. Auteur du Catéchisme catholique de la crise dans l’Eglise (éd. du Sel), il est consulteur auprès de la commission de la Fraternité Saint-Pie X chargée des discussions doctrinales avec le Saint-Siège. Nous publions ici la recension qu’il a faite de l’ouvrage de Benoît XVI, dès sa publication en Allemagne, mise en ligne le samedi 27 novembre sur le site du district d’Allemagne.

Une fois de plus parmi les faits et gestes du Pape, des déclarations isolées, pas même centrales, sont montées en épingle et menacent de faire oublier tout le reste. Tout comme ses propos critiques envers l’islam – lors du discours de Ratisbonne – et ses paroles sur le préservatif – lors du voyage en Afrique – furent retransmis d’une manière déformée et souvent bien peu fidèle à la vérité, c’est sur le même ton que la presse mondiale claironnait ces jours derniers, que le Pape avait enfin permis le préservatif, et qu’elle solennisait cet événement comme un revirement historique dans l’univers de la morale catholique.

Le Pape a-t-il permis l’utilisation du préservatif ?

Dans les faits, le Pape a simplement dit que l’on pouvait voir dans l’utilisation du préservatif par un prostitué avec l’intention d’empêcher la transmission du sida, un premier pas vers sa propre moralisation et responsabilisation. On pourrait dire dans le même sens, que la décision prise par un voleur meurtrier, de restreindre dans le futur ses activités au larcin, afin de ne plus attenter à la vie du prochain, pourrait être regardée subjectivement comme un premier pas vers sa moralisation. En conclure que le larcin deviendrait pour autant moralement défendable, est tout aussi déloyal que les assertions de certains évêques et théologiens, selon lesquelles Benoît XVI aurait enfin ouvert la porte aux moyens de contraception.

Il faut cependant remarquer que la référence du Pape à « des cas particuliers » fournit un certain fondement à ces interprétations. Il aurait dû, en effet, profiter de la question de Peter Seewald qui lui demandait si l’Eglise n’est pas « par principe contre l’utilisation du préservatif » pour lever tout doute. Mais il répond simplement, que l’Eglise ne considère pas le préservatif comme « une solution véritable et morale », quoique dans « l’un ou l’autre cas » cependant, il pourrait « constituer un premier pas sur le chemin d’une sexualité vécue autrement, une sexualité plus humaine. » (p.161) [1] Pour parler poliment, c’est faible. Que la sexualité ne puisse être vécue d’une manière conforme à la volonté de Dieu et digne de la nature humaine que dans le mariage uniquement, et qu’ici le préservatif ou tout autre moyen de contraception artificiel soit à rejeter moralement, cela n’est bien entendu pas nié par le Pape, mais cela n’est pas non plus affirmé clairement, ce qui pourtant serait bien nécessaire aujourd’hui. De ce fait, et en raison de sa volonté d’aller le plus possible à la rencontre du monde laïcisé et de ne blesser personne, il partage avec les media une certaine responsabilité dans la confusion et la déception que les informations de ces derniers jours ont provoquées parmi les catholiques fidèles.

Il faut également noter, dans l’affirmation selon laquelle l’Eglise catholique approuverait la régulation naturelle de la fécondité (p.194) une certaine atténuation de la morale catholique. Il est certes moralement défendable qu’un couple utilise les périodes non fertiles du cycle féminin pour espacer un peu les naissances ou même pour en limiter le nombre, mais dans le cas seulement où un accroissement de la famille, pour des raisons de santé, des raisons économiques ou autres raisons similaires et graves ne serait pas moralement responsable.[2] L’affirmation du Pape peut laisser l’impression que les époux seraient autorisés à utiliser la régulation naturelle là où d’autres personnes recourent aux moyens de contraception artificiels, c’est-à-dire dans le but de n’avoir aucun ou tout au plus qu’un nombre restreint d’enfants. Or cela ne correspond pas du tout à la morale catholique, étant donné que la procréation est le but principal du mariage. (...)


La crise de l’Eglise

La crise de l’Eglise, surtout en ce qui concerne l’Europe et l’Amérique du nord, est souvent évoquée. En raison de l’origine du Pape (et de Peter Seewald) la situation particulière de l’Allemagne fait l’objet d’une attention spéciale. Benoît XVI est conscient « qu’il existe dans l’Allemagne catholique un nombre considérable de personnes attendant, en quelque sorte, le moment où elles pourront s’en prendre au pape » (p. 169). Il ne peut pas s’expliquer pourquoi en Allemagne, où chaque enfant suit entre neuf et treize ans d’instruction religieuse, « cela laisse aussi peu de traces » (p. 186). Voilà bien un euphémisme ! Le Pape ne peut pas ignorer que les livres officiels de l’enseignement catholique transmettent tout autre chose que la foi catholique, et que la plupart des professeurs de religion, malgré la mission canonique donnée par l’évêque, ne sont pas aptes à transmettre la foi. Par conséquent, son exhortation aux évêques « de réfléchir sérieusement à la manière dont on peut donner à la catéchèse un nouveau cœur » doit probablement être comprise comme une critique implicite.

Pour conclure

Dans ce nouveau livre, Benoît XVI reste fidèle à sa ligne. Il demeure ce Pape enseignant et pacifique, qui s’efforce de tout comprendre, d’éviter les extrêmes et de concilier dans l’Eglise les raisonnements modernes avec la Tradition. C’est en ce sens qu’il se qualifiait lui-même dès 1985, dans son livre-entretien Entretien sur la Foi avec Vittorio Messori : « J’ai toujours voulu rester fidèle à Vatican II, cet aujourd’hui de l’Eglise », sans « échappées solitaires en avant », mais également sans anachronique « nostalgie pour un hier irrémédiablement passé » (p. 17 de l’édition française, Fayard, 1985).

Ce livre pourra bien déciller les yeux de tous ceux qui ne connaissent pas grand chose ou même rien du tout de l’Eglise catholique, sur les déformations et les erreurs propagées par la presse. Dans ses introductions aux différentes questions, Peter Seewald rétablit plusieurs fois les faits, ce qui donne une image bien différente de celles répandues dans le public. Peut-être ne peut-on rien attendre de plus actuellement. La Fraternité Sacerdotale Saint-Pie X est cependant d’avis que l’Eglise ne pourra pas connaître de renouveau, sans une condamnation claire des développements faux survenus depuis Vatican II et sans un rattachement à sa Tradition pérenne.

(Traduction DICI)

[1] Les citations sont extraites de l’édition française : Lumière du monde, Bayard, novembre 2010.
[2] Pie XII, dans son Allocution aux sages-femmes, en 1951, s’était exprimé clairement sur le sujet. N. du T.

L’Eglise catholique en Chine, appel de Benoît XVI

2010年12月02日 | カトリック・ニュースなど
L’Eglise catholique en Chine, appel de Benoît XVI

Intention de prière du pape

ROME, Mercredi 1er décembre 2010 (ZENIT.org) - Benoît XVI demande aux catholiques de se mobiliser dans la prière pour l'Eglise en Chine, spécialement les évêques.

Le pape a lancé un appel pour les catholiques de Chine, ce mercredi matin, au terme de l'audience générale, en la salle Paul VI du Vatican.

« Je recommande à vos prières et à celle des catholiques du monde entier, l'Eglise en Chine qui, comme vous le savez, est en train de vivre des moments particulièrement difficiles ».

Le pape demande spécialement la prière pour les évêques : « Demandons à la bienheureuse Vierge Marie, Secours des chrétiens, de soutenir tous les évêques chinois, qui me sont si chers, afin qu'ils témoignent de leur foi avec courage, en plaçant toute leur espérance dans le Sauveur que nous attendons ».

« Confions aussi à la Vierge, a insisté Benoît XVI, tous les catholiques de ce bien-aimé pays, afin que, par son intercession, ils puissent vivre une existence chrétienne authentique en communion avec l'Eglise universelle, en contribuant ainsi également à l'harmonie et au bien commun de ce noble pays ».

L'ordination d'un évêque sans le consentement de Benoît XVI a en effet ouvert une crise entre Pékin et le Saint-Siège, le samedi 20 novembre 2010. Le P. Joseph Guo Jincai a été ordonné illicitement évêque du diocèse de Chengde, dans la province du Hebei.

Une ordination publiquement désapprouvée par le Saint-Siège le 18 novembre (cf. Zenit du 18 novembre 2010), parce qu'elle nuit aux bonnes relations avec Pékin, et qu'elle blesse la communion non seulement dans l'Eglise chinoise, mais aussi avec le Successeur de Pierre et avec l'Eglise universelle.

Depuis le début de l'année 2010, dix ordinations épiscopales ont eu lieu en Chine continentale, a rappelé « Eglises d'Asie », et chacune d'entre elles a concerné un évêque «officiel » qui était à la fois reconnu par Rome et approuvé par les autorités chinoises.

Mais Pékin voulait que le P. Guo, ordonné prêtre en 1992, proche du régime en tant que secrétaire général adjoint de l'Association patriotique des catholiques, et représentant catholique de l'Assemblée nationale populaire (soumise au Parti Communiste Chinois),
devienne évêque.

Or le Saint-Siège avait indiqué que le jeune prêtre n'avait « pas reçu l'approbation du Saint-Père pour être ordonné évêque de l'Eglise catholique ».

Anita S. Bourdin

聖ヨゼフに感謝

2010年12月01日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 フィリピンでは「出産健康法」の話題で持ちきりです。今日は第二回目の公聴会がありました。今回は、プロライフの方々が優勢でした。愛する兄弟姉妹の皆様のお祈りを感謝します。

 ロザリオの御報告をいただいております。深く感謝します。

 愛する兄弟姉妹の皆様の上に天主様の祝福が豊かにありますように!!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

聖伝のミサについて黙考 --- 教会のため私たちに何が出来るでしょうか

2010年12月01日 | カトリックとは

聖伝のミサを通して
無数の聖人達が
天主に対する信心を豊かに養ってきた

「ローマ・ミサ典礼書は、さきに、、トリエント公会議の教令に基づき、1570年、私の先任者聖ピオ五世によって公布されたものでありますが、それが同じ聖なる教会会議を通じて、キリストの全教会に広く行き渡った多くのすばらしい成果の一つであることは、衆人の認めるところであります。
 四世紀に亘って、ラテン典礼の司祭が、聖体のいけにえをこれを基準として捧げてきたばかりでなく、福音の宣布者は、地球のほとんど至る所に、これを携えていったのであります。また教皇グレゴリオ一世がその大部分を企画編集したローマ・ミサ典礼書にある聖書朗読と祈願を通して、無数の聖徒が、天主に対する信仰心を豊かに養ってきたのであります。」

  パウロ六世 1969年4月3日使徒座憲章「ミサーレ・ロマーヌム」
聖伝のミサ


聖伝のミサの典文(=カノン)は、誰も変更廃止することは出来ない
ミサの典文と聖変化の言葉は低い声で唱えなければならない
自国語だけでミサをささげるべきではない

トリエント公会議のミサ聖祭についての規定
6条。ミサの典文は誤りを含んでいるので廃止すべきであると言う者は排斥される(DzS1745参照)。
9条。低い声で(ミサの)典文と聖変化の言葉をとなえるローマ教会の儀式は排斥すべきであるとか、自国語だけでミサをささげるべきであるとか(…)と言う者は排斥される(DzS1746、1748~1749参照)。


聖伝のミサ



現在の教会の危機は
典礼改革の結果(=新しいミサ)である典礼の崩壊が原因

私たちが今日経験している教会の危機は、「あたかも神が存在していないかのような」(etsi Deus non daretur)の原則に従って行われた改革の結果である典礼の崩壊が原因であると、私は確信しております。
(ベネディクト十六世 ヨゼフ・ラツィンガー著 里野泰昭訳『新ローマ教皇 わが信仰の歩み』春秋社 164ページ



古代教会の聖体秘跡書以来、何世紀も綿々とつづいてきたミサ典書の使用禁止は、典礼の歴史における断絶を意味するものであり、その影響は計り知れないものです。
(ベネディクト十六世 ヨゼフ・ラツィンガー著 里野泰昭訳『新ローマ教皇 わが信仰の歩み』春秋社 162~163ページ)



第二バチカン公会議後の典礼改革は、
捏造された典礼、平凡で、その場しのぎの産物

第2バチカン公会議後に起こったことは、全く違うことだった。発展の実りとしての典礼の場所に、捏造された典礼が来た。私たちは、数世紀にわたる成長と発展のオーガニックな生きている過程を捨てさり、その代わりに、丁度制作過程で起こるかのように、作り上げられたものを、平凡でその場しのぎの産物を置いた。
ラッツィンガー枢機卿の書いた「序言」---モンシニョール・クラウス・ガンバーの「ローマ典礼の改革」のフランス語版のため



聖伝のミサは神聖で偉大なものであり続ける
わたしたちは皆この聖伝のミサという富を守り
教会においてそれにふさわしい場を与えなければならない

過去の人々にとって神聖だったもの(=聖伝のミサ)は、わたしたちにとっても神聖であり、偉大なものであり続けます。それが突然すべて禁じられることも、さらには有害なものと考えられることもありえません。わたしたちは皆、教会の信仰と祈りの中で成長してきた富を守り、それにふさわしい場を与えなければなりません。
教皇ベネディクト十六世の全世界の司教への手紙


「教皇様は聖伝のミサを世界中の全ての小教区で望んでおられる」
カストゥリオン・オヨス枢機卿

聖伝のミサ

--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様をお待ちしております
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