アヴェ・マリア!
Da amantem et sentit quod dico
「愛する者を与えよ、されば彼は私が言っていることが分かる」
毎年のことであるが、今日、聖霊降臨の水曜日の朝課の読書で、ヨハネによる聖福音の第6章「私を遣わした聖父が引き寄せなければ、誰も私のもとに来ることはできない」に関する聖アウグスチヌスの説教(tract. 26 in Ioannem, post initium)を唱えた。
Da amantem et sentit quod dico : da desiderantem, da esurientem, da in ista solitudine peregrinantem, atque sitientem, et fontem aeternae patriae suspirantem : da talem, et scit quid dicam. Etc.
【日本語訳:愛する者を与えよ、されば彼は私が言っていることが分かる。望む者を、飢えている者を与えよ。その孤独においてさまよっている者を、渇く者を、そして永遠の祖国の泉を知ったっている者を。そのような者を与えよ、されば、彼は私が言うようなことを知っている。】
「愛する者を与えよ、されば彼は私が言っていることが分かる」というのは、「私が言っていることは、愛する者でなければ分からない、愛する者であれば、それが何であるかを直ぐに感じ取る」と言う意味だ。
そして朝の黙想で、ガブリエル神父様の『神との親しさ(7) キリスト・イエズス』を使って、34章「償い」を見ると、イエズス・キリストの私たちへのお嘆きの御言葉が載せられていた。
「人々をかくも愛したこの聖心を見よ! この無限の愛に対する答えとして、私は何の感謝も受けないばかりか、かえって、忘恩、冷淡、侮辱をもって報いられ、しかも特に私を愛する義務のある人々からさえ、たびたびそうされる!」
イエズス・キリストの無限の愛を前にして、世界の人々はそれを嘲り、馬鹿にし、そして主を罵る小説を書き、大金をかけて映画を作り、おもしろおかしく商売をし、人々はそれをおもしろおかしく見て喜んでいる!
ダ・ヴィンチ・コードでの冒涜、全世界に広まる共産主義、天主の制定を無視するジェンダー・フリーやフェミニズムの運動、図書やインターネットでの、映像、映画、動画で青少年の霊魂を腐敗させるポルノの氾濫、これらの悪を前にして、カトリックの私たちは、いったい何をしていたのか?
ガブリエル神父様は言葉を続ける。
「聖心のこのようなお嘆きを聞くと、主を愛する心はじっとしてはいられない。償いたい、主をお慰めしたいのである。」
私たちは、(1)私たちの罪が天主に加えた侮辱を償うため、また(2)イエズスの聖心を慰めるために、主を愛する心はじっとしてはいられない。償いたい、主をお慰めしたいと思うのだ。
ピオ11世教皇様は、回勅『ミゼレンティッシムス・レデンプトール』の中で「このような償いの行為が、天国の王位についているキリストを、どうして慰めることが出来るのか?」と自問し、聖アウグスティヌスを引用してこう答えている。
「愛する者を与えよ、されば彼は私が言っていることが分かる」と。
愛するものは、苦しい嘆きの言葉をイエズスに言わせないために償いの業に励もうとますます駆り立てられる思いがするのだ。
「私は、あざけりに心を打ち砕かれ、・・・いたわってくれる者を探したが、一人もなく、慰めてくれる者も見つけることが出来なかった。」(詩篇69)
この聖アウグスティヌスの有名な言葉「愛する者を与えよ、されば彼は私が言っていることが分かる」Da amantem et sentit quod dico は、別の所にも引用されている。それが「アウシュビッツの聖者コルベ神父」聖母文庫56ページだ。【ただし残念なことには、訳が必ずしも正確ではなかったと言うこと】
【因みに同じ「アウシュビッツの聖者コルベ神父」の258ページには「受け容れられるものごとは、受け取るやり方によって受け容れられる」という意味のラテン語があるが、スペルのミスがある。本当は、次の通り。Quidquid recipitur, secundum modum recipientis recipitur. 印刷の中では、pがdになったり、qになったりしている。残念】
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兄弟姉妹の皆様、ダ・ヴィンチ・コードの冒涜の償いのために多くの祈りをお願いいたします。日本の司教様や教会の指導者の方々のためにお祈りをお願いします。
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