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エキュメニズム関連情報 【韓国カトリックと儒教】

2006年06月08日 | エキュメニズム関連情報

アヴェ・マリア!

エキュメニズム関連情報

【韓国カトリックと儒教】


 儒教では「祭祀」と呼ばれる先祖の霊に対する礼拝がある。韓国の多くのカトリック信徒は、これを拒んで殉教していった。


その祭祀というのは虚しく無益なことです。真理に従うためには、虚しいこと無益なことを捨てなければならないということは明白な事です。眠った親に食べ物を調えて差し上げて眠りに入ったままそれを召し上がりなさいと言ったら、それは愚かな事ではないですか。だから親が亡くなった後に食べ物を召し上がるなどと思っているなら、それはもっと愚かではないですか? 霊魂はそれが行くところに行き、肉体は力無いしかばねに過ぎなくなるのです。 霊魂は霊体(神霊体)のため物質的な食べ物を食べて生きているのではありません。また天主の戒律は素晴らしいものであり, それを守れば功徳になります。国王のために自分の生命を捧げる人を逆賊だとは言わないでしょう。まして天地と天主なる人と万物を主宰し給い、王の中の王であり、全人類の普遍な父親であり、雨と露を思いのままに降らせ給い、一番微弱な草木から大木までも皆育つようになさるお方です。その恩を被らないものは存在しないのであり、天主を裏切るよりはかえって自分命をかけるという人を、いったい何故逆賊だと罵るのですか?」


(韓国の百三位聖殉教者の一人、イ・ホヨン・ペトロ(1838年11月25日殉教)が、儒教式の祭祀を捧げないので逆賊だと刑吏から言われて答えた言葉)



 ところが今では???? 
 儒教の礼拝もOK? 枢機卿が儒教礼拝の手本を見せる??


 東亜日報(2000年5月23日)より



金枢機卿儒学者墓地で "禮" を捧げる

心山賞 受賞後 24日 告由祭


「祭祀は孝実践のため」と規定

 天主教と儒教との意味深い出会いが行われる。金壽煥枢機卿は、23日、第13回 心山賞 受賞において、24日現代儒林の偉大なる先人として尊敬を受けている心山 金昌淑(1879 - 1962)先生の墓地に行って「禮」を捧げる。


 心山賞 受賞を知らせる告由祭で進行する今回の行事で、金枢機卿は祭主である金時業 心山思想研究旧会長に続いて墓地で焼香し酒を捧げた後、「禮」を捧げることになった。・・・


 金枢機卿の秘書である金ユスティナ修道女は、これに対して「天主教の典礼方式と食い違うことがない」と言った。


 金枢機卿はこれに先立つ22日ソンキュン館に宛てた受賞演説文を通して「私は天主教の聖職者ではあるが、韓国人であるので、私の体の中もどこかに儒教の血が流れていると言っても過言ではない」と言った。


 枢機卿は「18世紀末葉、李スンフン、鄭ヤクヨンなど新進儒学者などが、儒教思想と天主教を調和させようとした補儒論は、世界天主教史に類例がない進取的な姿勢」であると高く評価しながら、天主教会の祭祀禁令(1939年になると撤回)に対して「朝鮮国民全ての階層の瞳を突き刺すこと」であるとフランスのダレ(Dallet)神父の表現を引用し、遺憾なことであると表現した。


 金枢機卿は「先祖祭祀は迷信ではなく、父母の死後に孝を実践し続けるためのもの」と規定しながら、「儒教が父母に対する孝を通して天に対する大孝で上げられる上向式であるなら、キリスト教は父なる神様にたいして大孝を材料に、父母に孝をしようとする下向式であるという差異があるだけ」と言った。金枢機卿はまた「儒教の仁の思想、仏教の大慈大悲の思想、キリスト教の愛の精神で、生命の文化を回復させよう」と力説した。


 心山賞は、ソンキュン館大設立者で、抗日独立闘争と反独裁統一運動の先駆けとなった、金チャンスク先生の偉大な志を讃えるために、86年に制定された賞だ。




 上の写真は東亜日報2000年5月25日号より
(儒教の礼拝をしている金壽煥枢機卿)



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(’’)? 儒教の礼拝が許されるのに、何故、聖伝のミサは禁止されているのかな? ミサ聖祭こそ「天主教の典礼方式と食い違うことがない」はずなのに?

 


 枢機卿様、御言葉ですが先祖祭祀は迷信です。何故なら、天主御父の心に適う犠牲であり祭祀は、ただ一つしかないからです。それは、儒教式祭祀ではなく、私たちの主イエズス・キリストが十字架で捧げた犠牲であり祭祀です。何故なら、ミサ聖祭は、天主の光栄と、生ける人と死せる人々の霊魂の利益ために捧げられ、煉獄にいる霊魂たちを天国へと解放することが出来るからです。死せる父母の霊魂にとって、墓前に捧げられた大量の食事は全く役に立たず、何の益もないからです。


 枢機卿様、儒教の仁の思想も、仏教の大慈大悲の思想も、キリスト教の愛の精神も全く次元も内容も異なるものです。枢機卿様の言い方は、ただ混乱を与えるだけの言葉遊びです。


 孔子は「天」についていささかも明解な答えを与えていません。そのため、李朝時代に強要された「孝」の実践とは次のようなものでした。例えば


「平安道監司の李元翼が報告します。
 泰川居住の科挙未合格者の金麟祥は、誠孝(孝行の精誠)が天にぬきんでています。母親が生前病気の時に、キジが食べたいと思うと、キジが自然に部屋に入ってきました。母の死後、喪に服して、骨が砕けるほど哀しみ、墓を守って三年、昼夜号泣しました。
 保人の李夢龍は、その父の病を治そうと、香をたき、どうか自分を身代わりにしてくれよ、と祈りました。父の糞を嘗め吉凶をしらべました。
 両名の孝行もやはり故人に恥じません。・・・」(「宣祖実録」巻四七)
(「朝鮮民族を読み解く」101-102ページより孫引き)



 こうして李朝は、「宗族」という血縁集団しか自らを守るもののない世界を人為的に作っていったのです。だから今でも韓国では、宗族利己主義、地域分裂主義に陥っているではないですか。韓国は世界でも希な単一民族の国でありながら、儒教のせいで、その内実はバラバラの宗族の集合体でしかすぎなくなっているのです。だから韓国では汚職が蔓延しているではないですか。


 だから朴正煕は「我々は李朝史を、四色党争、事大主義、両班の安逸な無事主義的生活態度によって後代の子孫に悪影響を及ぼした民族的罪悪史であったと考える。時に今日のわれわれの生活が辛く困難に満ちているのは、さながら李朝史の悪遺産そのものである。」(「朝鮮民族を読み解く」より孫引き)と言ったのではないですか。



 儒教の束縛から解放されることによって韓国の人々は、死者のために大御馳走を準備するという、甚大な金と労力の労使から解放されるではないですか。食べ物は生きている人のためではないですか。死者の霊魂の永遠の安息のためには、ミサ聖祭があるではないですか? 何故それを教えないのですか? 




(ー_ー )主よ、憐れみ給え! 聖母マリア様、憐れみ給え!



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【韓国の儒教のことを知らないと、何のことかよくわからないかもしれないので、説明を付け加えたい。】


【一言メモ】 祭祀とは?


 韓国語では「祭祀」というと Sacrificium という意味である。これは韓国語の伝統的な天主教用語が中国語の影響を受けていることから由来している。(中国語では sacrificium の訳語として「祭祀」或いは「祭献」という。)


 尹 亭重 神父著の『詳解 天主教 要理』(上)京郷雑誌社1960年発行(168ページ)によれば、次のようにある。

===以下引用開始==


 キリストにおかれては十字架上で血を流して亡くなることは、司祭として天主に祭祀を捧げたことだ。では、祭祀とは何なのか?

 祭祀は、合法的祭官が、唯一天主に感覚物を奉献し消滅することにより、その至尊無對であられる権能を承服する心情を表現する公式敬神行為である。

「合法的祭官」=祭祀は、元来、公式的敬神行為であり、故に公衆の代表が捧げるもので、これを祭官あるいは司祭と言い、この祭官は誰であれ私的に出しゃばってその職に就くことは出来ないのである。聖パウロのヘブライ人への手紙5:1。

「感覚物」=祭祀は公式行為であるために、他人が見ることの出来ない内的心情だけではダメであり、この心情を表現する感覚出来るような物件がなければならない。旧約時代にこの感覚物は穀物や、羊、牛のような動物であった。これを「犠牲」と言った(創世記4:3-4など)。この中で、メルキセデクはパンとブドウ酒を祭献した事実は、有名だ(創世記14:18)。

「奉献し消滅すること」=感覚物の奉献と消滅に祭祀の本質がある。ところで、奉献だけでは祭祀が成立せず、必ず消滅がなければならない。液体ならばこぼし流され、火に焼かれるようなものであれば燃やされ、動物であればされなければならない。これにより天主におかれてのみ持っておられる生死に関する大権を承服することにもなり、罪深い私たちは当然ならば死ななければならない命ではあるが、そうすることは出来ず、代わりに犠牲を殺してしまうのだ。

 このような犠牲物の一部分を、祭祀に参与していた人たちが、その場で受けて食べた。天主に祭献され聖化された祭物を食べることにより、或る程度、天主と相通することになり、天主の神聖さに参与することにより天主と親しくなるという意味だ。これは祭祀の本質ではないが、祭祀を完全にさせる(構成部分ではなく)完成部分だ。

「唯一天主に」=このような祭祀は、1、天主を欽崇(=礼拝)するために、2、罪の赦しを祈り、3、受けた恩恵を感謝し、4、必要な恩恵をこいねがうために、天主にのみ捧げていたのだ。・・・

 キリストは祭官であると同時にまた祭物であり、十字架上でこの祭物を天主に祭祀されたのだ。祭物(=Oblatio)、犠牲(=Hostia)、祭殺(=Immolatus)などは、祭祀の専門用語だ。


===以下引用終わり==


 同 神父著の『詳解 天主教 要理』(下)京郷雑誌社1960年発行(272ページ)によれば、次のようにある。


===以下引用開始==


「祭祀」= 祭祀は、合法的祭官が、唯一天主に感覚物を奉献し消滅することにより、その至尊無對であられる権能を承服する心情を表現する公式敬神行為である。・・・

 祭祀は、天主恭敬の最高儀式ゆえに、人類と共に久遠なる歴史を持っていたし、人類と共に普遍的である。即ち、どの民族であっても祭祀を持っていた。祭祀は、元来、天主のみに捧げるものではあるが、未開の非キリスト教的社会においては、道を誤り、亡霊だとか種々の神々に祭祀を捧げた。北京には天壇がある。天子が民衆のために天に祭祀を捧げていたところである。韓国でも、干ばつが起こったりすると、ブタや犬を捕まえて山に登り祭祀を捧げる風習がまだ残っている。以前にはオーストラリアのある原始民族は、実際に人間を殺して鬼神に祭祀を捧げていた。韓国の『沈清伝』が実話では勿論ないけれど、船員たちが沈清という人を海に投げて殺そうとすることも、沈清という人を犠牲にして鬼神に祭祀を捧げるのだ。

 旧約を見ると、アベルは子羊を捕まえて天主に祭祀を捧げたし、ノエは野獣と鳥を祭祀に捧げ、メルキセデクはパンとブドウ酒で祭祀を捧げた。

===以下引用終わり==

 


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