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教皇グレゴリオ十六世 回勅『ミラリ・ヴォス Mirari Vos』 -自由主義と宗教無差別主義について 1832年8月15日

2019年02月12日 | カトリックとは
回勅『ミラリ・ヴォス』

教皇 グレゴリオ十六世

-自由主義と宗教無差別主義について

1832年8月15日

訳者 聖ピオ十世司祭兄弟会

Copyright (C) Society of Saint Pius X, 2001

All rights reserved

教皇グレゴリオ十六世 回勅

ミラリ・ヴォス

Mirari vos

自由主義と宗教無差別主義について

1832年8月15日

カトリック世界の全ての総大司教、首座大司教、大司教、司教たちに宛てて

1830年の革命によってこれを書くことが出来なかった

1.あなた達は驚いているとおもいます (Mirari vos arbitramur)、尊敬する兄弟たちよ、全教会の統治という重荷が弱い私に課せられてから、まだあなた方に教会の最古の時代からの習慣どおりに書状を送っていないという事に、きっと驚いておられるに違いありません。私があなた方に抱いている愛情を思えば、当然すでにそうしているのが至当なことのはずですから。事実、[就任して間もなく]私が最も強く望んだことは、私の心をいち早く示し、また私の精神の伝達を通じてあなた方が聖ペトロのペルソナにおいて私が受けた『兄弟たちの信仰を固めよ』という命令の声を聞くことが出来るようにするということでした。しかしながら、あなた方は教皇就任直後からどれほどの害悪と災いとが押し寄せてきたかをよく御存知です。また、私が言わば突然、嵐の只中に巻き込まれ主の右腕が奇跡的に救ってくださるたのでなければ、危うくのみ込まれてしまい敵方の恐るべき謀略の犠牲となるところだったと言うことを。

この革命から解放されたことを天主に感謝する

2.私はここでかくも多くの危機の陰惨なありさまを想起して、敵たちがもたらした悲しみを新たにしようとは思いません。[ただ]私はあらゆる慰めの与え主である御父に感謝いたします。主は不忠実なもの達を打ち散らし、私を迫り来る危険から救い出し、そして恐るべき嵐を静めてかくも大きな恐怖のあとに、やっと息をつくことが出来るようにしてくださいました。私はすぐさま「イスラエル」の受けた傷を癒すための計画をあなた方に知らせようとしたのですが、公共の秩序の復興についての配慮という重責にとらわれ、その望みを実現するのにまたしても手間取ってしまいました。

私は厳しい鞭をもって当たらざるを得なかった

3.今日までみなさんに手紙を送るのが遅れたもう一つの理由は、反旗を翻そうと再度試みた若干の派閥の不敵な挙動にあります。彼らの歯止めを欠いた憤激が弱まるどころか、長引く背徳と、私の父としての寛容さとによってますます悪意を含み、その度を強めるのを目の当たりにし、このような頑迷さに対しては、悲しみに心を砕かれながらも、天主から託された権威により、厳しい鞭をもって当たらざるを得ませんでした。その時から、―あなた方もよくお察しになるところでしょうが―私の労苦および精神的な気遣いは日毎に増していったのです。

私はこの聖母の祝日についに書き上げた

4.しかし、先に述べたのと同じ理由によって遅れを余儀なくされながらも、ラテラン大聖堂での教皇着位を果たして後、前任者たちの慣習としきたりに従い、ようやくあらゆる遅延[の原因]をひとまず横に置いて、あなた方尊敬すべき兄弟たちのもとに急ぎこの手紙を私のあなた方への思いのしるしとして送ります。この手紙は聖母の勝利と天国への凱旋を荘厳な祝祭をもって祝うこの喜びの日、すなわち8月15日に書かれました。最も激しい嵐の只中にあって私が体験した聖母の保護と力とが、あなた方に対する責務の遂行を助け、また天より、キリストの群れにとって最も有益な考えと手段とを私の心に注いでくださいますように。

今は暗黒の時代であり、世界中が腐敗している

5.深い嘆きと悲しみに沈んだ心で私はあなた方のもとに近づきます。あなた方の宗教に対する熱意と、それを取り囲む大きな危険によって心中に催された非常な憂慮をよく心得ているからです。なぜなら今はまさに、選びの子らを「麦の穂のようにふるいにかける」べく「闇の勢力」にゆだねられた時だからです。地はそこに住む者らによって汚され、真に悲嘆に沈み、やせ衰えてゆきます。なぜなら、人々は法を破り、正義をねじ曲げ、そして永遠の契約を解いてしまったからです。

不道徳と反乱が教会と世界を粉々にしている

6.尊敬すべき兄弟たちよ、私がここで話しているのはあなた方が自分の目で目撃している諸々の害悪のことであり、私たちが共に憂慮していることです。背徳、自己抑制を欠いた科学、際限なしの放縦は、熱情と横柄な精神とにみなぎり働いています。聖なる奥義をただ軽蔑するのみで、また天主に対する礼拝の威光を―――これは人の心が抗いまたは排除してしまうことの出来ない力ですが―――倒錯した人々は、弾劾・冒助Kおよび助K聖的な嘲笑の的としています。したがって、健全な教えは変えられ、あらゆる種類の誤謬が喧伝されてつまずきを生んでいます。聖なる祭儀、教会の儀礼および制度、最も聖なる規律といったものの中で、彼らの邪悪な舌が吐き出す恐れを知らぬ発言の対象となっていないものがあるでしょうか。ローマにおける私の教皇座、つまりキリストがその上に御自分の教会の礎を置かれた至福なる聖ペトロの座は甚だしく迫害され、そして一致の絆は日に日に弱められ、あるいは手荒に引き裂かれています。教会の天主に由来する権威は攻撃され、権利が剥奪されています。また教会は全く地上的な思惑の下に置かれ、そして不正な暴力により、恥ずべき隷属状態にいたるまで弱められ、諸国の軽蔑の的となっています。司教達に対する従順は完全に損なわれ、彼らの権利は踏みにじられています。大学や高等な研究機関は、数知れぬ新奇で法外な説であふれかえり、これらはもはや秘密裡に、ないし目立たない仕方ではなく、または公然とカトリック教会に対して恐るべき、不敬な戦いを挑んでいます。このようにして教師らの教えと模範とは青少年の心を変節させているのです。それゆえ宗教が被る災禍は甚だしく増し、最も恐るべき不道徳が勢いを得て広がっています。このように、宗教の聖なるる絆―――この絆のみが国々の福利に貢献し、権威の力と強さとを保つものなのですが――― が一旦軽蔑の念をもって打ち捨てられると、公の秩序は消滅し、主権は潰え、あらゆる正当な権力は迫り来る革命の脅威にさらされています。謀略をたくらむ組織が主として掘ったこの底なしの災苦の淵の中に、異端とセクトとは彼らが内に抱くあらゆる放縦、助K聖、冒助Kをまるで下水に流し込むかのように、吐き出しています。

主の群を安全な牧草地に導かなければならない

7.尊敬すべき兄弟たちよ、これらのこと、及びおそらくより重大なものかもしれませんが、ここで詳しく述べるにはあまりに数の多い他の事柄は、あなた方皆に周知の事実です。これらは、使徒の頭の座に着き、他の誰よりも天主の家に対する熱意によって喰い尽くされるべき私の心に、はげしく絶えることのない悲しみを生み苦渋で満たします。しかし、私が占めるまさにこの地位自体が、ただこれら数え切れない不幸災苦を嘆くばかりではなく、あらゆる手段を用いてその源泉を取り除くよう強いるので、私はあなた方の信仰の助けを願い、また天主の群れの救うために燃え立つあなた方の熱意に訴えます。尊敬すべき兄弟たちよ、あなた方の広く知られた徳と敬虔、秀でた賢慮とたゆまぬ注意深い配慮とが私の勇気を増し、そのように多くの災悪によって打ちひしがれた私の心に慰めの香油を注いでくれますように。森からきたイノシシがブドウ園を蹂躙するのを、また狼が主の群れを荒らすのを、声を上げて一致した努力によって防ぐのは私たちの責務です。そして私たちは、害となる草のおそれのない、健全な牧草をはぐくむ牧場へと羊たちを導かねばなりません。ですから尊敬すべき兄弟たちよ、困難災苦、幾多の迫り来る危険のさ中にあっても、私たちは決して自分たちの羊を見捨ててはならず、世話するものを無くした羊の横で致命的な居眠りに沈む羊飼いの無関心さと怖れとを抱くことがありませんように。したがって私たちは、共通の目的のために一致した心、いえ、と言うよりもむしろ天主の心をもって行動し、共通の敵に対して、また全ての人の救いのために私たちの警戒と努力とを一つにあわせることとしましょう。

教会には改革が必要ではない、単語の一つも変えてはならない。

教会に必要なのは聖ペトロの座に忠実であると言うことである

8.このことを完全に果たすためにあなた方は次のようにすべきです。あなた方の職務が義務付けるところに従って自分たち及び自分たちが信じている教理を省みること、あらゆる新奇なことは普遍的教会に害を及ぼすということ、また聖なる教皇アガトが警告するように『正式に定義されたことがらの何一つと言えど、削除されたり、変えられたり、あるいは増し加えられたりすることは許されず、また意味あるいは言葉上のいかなる変更も受け付けない』ということを絶えず思い起こすことです。このようにすれば、ペトロの座を基盤とした一致が強固で揺らぐことのないものとして保たれます。またさらに、そこから全ての地方教会へとカトリック的交わりの聖なる諸権利が流れ出る中心が同時に全ての者にとって、防御壁、避難所、難破から救う港、ならびに彼らを計り知れない善をもって富ませる宝庫となることでしょう。

したがって、あるいは聖座の権利を無に帰そうと画策する、あるいはそれが支え生命を与えているところの諸々の地方教会を、聖座から引き離そうと画策する者たちの大胆不敵な挙動を抑えるため、信徒らの心に聖座への信頼と尊敬の深い念を絶えず刻み込み、その耳に聖チプリアノの次の言葉を響かせるようにしてください。すなわち『教会の基であるペトロの座を打ち捨てる者が教会の中にいると信じるのは誤りである。』と。

教会は信仰の遺産を忠実に守らなければならないが、

これは教会の位階制度に従順であることによって果たされる

9.ですから、あなた方の尽力の目的かつ弛まぬ警戒の対象とするところは、天主を敬わぬ者らによるこの広大な謀略のさ中にあって、信仰の遺産を守り抜くことです。このような人たちが信仰の遺産を打ち散らし、滅ぼそうと結束するのを目の当たりにし、激しい悲しみを感ぜずにはいられません。信徒がそれをもって養われるべき健全な教義とはいかなるものかについての判断、および教会全体の統治と管理は、ローマ教皇にのみ属するということを皆が思い起こすようにしましょう。なぜなら、フィレンツェ公会議が明白に宣言したとおり、我らの主イエズス・キリストによって教皇には公教会を牧し、統治し、管理する全権能が託されているからです。特に司教たちについて言うと、彼らはペトロの座に不断の忠誠を示し、聖なる遺産を細心の注意をもって忠実に保ち、そして自らの力のおよぶかぎり天主の群れを養う義務があります。

司祭については、彼らは自分たちの司教に従属する者でなければならず、聖ヒェロニモの勧めにしたがって、彼らを自らの霊魂の父として敬わねばなりません。また司祭は、司教の許可なしに、自らにゆだねられた聖役に含まれるいかなるものを執り行うことも、また教え、説教をなす権能を自らのものとすることは初代からの教会の法規範により禁じられているという事実を決して忘れてはなりません。なぜなら司教にこそ信徒の世話が任され、その(信徒の)霊魂について主に報告をする立場にあるからです。ですから司祭たちはつまるところこの秩序をどのようにであれ乱そうとする者は、彼らの力の及ぶ範囲で教会の組織を揺しているのだということを確実で議論の余地のない事実として認めなければなりません。

教会の構造と規律とは守られなければならない

10.教会は荘厳に採可した規律によって聖なることがら、および信徒の行動がしかるべく規定され、また教会の諸々の権利およびその職務に伴う義務が定めます。しかし、教会が裁可した規律を、常軌を逸した言論の自由によって非難し、およびかかる規律が自然法の特定の原理にもとるとか、それ自体がはらんでいる不完全さにより、有効に機能し得ない、あるいはこれが国家の権威に服さねばならないなどと公言することは一つの犯罪であり、教会法に対して示すべき敬意をあからさまに欠くことです。

教皇だけが、直に適った変更をするか否かを判断しうる

11.更にトリエント公会議の教父たちの言葉を借りるならば、教会がキリストと使徒たちによって教え導かれたことは確実であり、また聖霊は日々の助力によって常に私たちに誤ることなく全ての真理を教えてくださるのですから、まるで教会がか弱さ、暗黒、あるいはその他これに類した変化を被り得たかのように、教会の存続と発展のためにその復興ないし再生が必要となったと主張することは愚鈍のきわみです。そしてこれらの大胆不敵な改革者たちが追い求めるのは、ただこうして単なる「人間の業」とされた制度の存在意義として新たな根拠付けを考え出すことのみとなります。こうして聖チプリアノが心から忌み嫌ったこと、すなわち全く天主的なものである教会を人間的なものと化するということを実現してしまうのです。このような計画を立てる者どもは、聖レオ教皇の証言に従って「教会法の適応が委ねられた」のは教皇だけにであると言うこと、そしてそれ以外の個人にではなく、教皇のみに「古くから伝わる規律について発言し」そして聖ジェラシオ教皇の言うように「教会の法令の重みをはかり、自分の前任者の規律を認定し、和らげ、相応しい調査の後に、時代の必要と教会の利益が要求する緩和を与えることが出来る」ということをよく考えなければなりません。

司祭の独身制について誰も攻撃してはならない

12.ここで私は私たちの宗教のために、聖職者の独身制に反対する者たちに対してあなた方がたゆまぬ熱意を燃やしてくださるよう呼びかけます。彼らは忌むべき同盟を結成し、日々異議をあおり立て、その手を広げてゆきます。かかる同盟は現代の最も厚顔無恥な哲学者たち、さらにはあろうことか聖職者階級をなげうった多くの者らをも交えて規模を増してゆきます。この中、特に後者は自分の身分と職分とを忘れ、魅惑的な情欲にほだされて、多くのところで諸侯に対して公にまた再三、この聖なる規律の箇条の廃止を請願するほどの身勝手ぶりを見せています。しかし、私はこのようなあさましい試みにこれ以上目を注ぎたくありません。ですから、私はあなた方に、かくも際立った重要性を有した制度である司祭の独身制を聖なる教会法の規則にもとづいて力のかぎり、これを完全に保護し、最も恥ずべき情念にかられた人々によって四方から浴びせられる攻撃の矢をはじき返す務めを、あなた方の宗教[に対する熱意]に全く信頼して委ねます。

婚姻の秘跡の不可解消性を擁護しなければならない

13. キリスト教徒達の結ぶ尊敬すべき結合を聖パウロは「イエズス・キリストと教会とにおける偉大な神秘」であると呼んでいますが、この婚姻の絆の聖性と不可解消性が、あまり正確ではない意見や様々な努力や行為によって傷つけられることのないように私たちの共同の注意が必要です。素晴らしい思い出をとどめる前任者のピオ7世は、ご自分のいろいろな手紙の中であなたたちに既に絶えずそのことを勧めていました。しかし同じ不穏な策略が常に新たにされています。「規定に従って一度結ばれた婚姻は解かれ得ないこと、天主はそのようにして結ばれた者達が常に結ばれたままでいる義務を負わせ給うこと、この絆は死による以外には解き放つことが出来ないこと」を人民は注意深く教えられなければなりません。彼らが婚姻が聖なることの一部と数えられ、従って教会に従属することであると言うことをよく記憶しますように。願わくは彼らがこのことに関して教会が制定した法を常に眼前に思い出しますように。又彼らが婚姻の契約の力と効力がそこによって立つところのことに敬虔に正確に従いますように。彼らが聖なる教会法の命令と公会議の規定とに反したいかなることも、どのような関係においても、認めることがないように警戒しますように。そして、彼らが婚姻は教会の規律に反して結ばれるとき、或いは天主が引き合いに出されないとき、或いは夫婦が秘蹟やそれの意味する神秘を夢にも思うことなくただ熱烈な情念だけによって結ばれるとき、それは不幸な結果になると言うことをよく納得しますように。

宗教無関心は霊魂に害を与える危険な誤謬である

14.さて、今私は現在教会を苦しめ、私の心を嘆かさずにはおかないもう1つ別の、そして最も「多くの実を結んでいる」諸悪の原因について話さなければなりません。それは「宗教無差別主義」、ないしは邪悪な人々の策略によりいたるところに広まっている破滅的な言説、すなわち「人はその生活が正義と誠実に適ったものであるならばどのような信仰を持っていたとしても永遠の救いを得ることができる」という見解です。しかしこれほど明白かつ判然とした問題について、あなた方司教たちの世話に任されている人々の間からこのように有害な誤謬を取り除くことはもちろん容易なことでありましょう。使徒パウロは私たちに「唯一の天主、一つの信仰、一つの洗礼」と述べてこのような考え方に警戒するよう促しています。したがって、あらゆる信条が至福の港へと容易に至らせると夢想する者は怖れにふるえ、私たちの救い主ご自身の次の証言を深く心に思いめぐらすように。すなわちキリストの側につかない者はキリストに反対する者であり、キリスト共に集めない者はまさにその事実によって甚だしく散らすのであるということ、したがってまた、彼らはカトリックの信仰を抱き、その全体を(何一つ)変えることなしに保つのでなければ疑いもなく彼らは永遠の滅びを招くということを。また聖ヒェロニモその人の次の言葉を心して聞くように。聖人は教会が3つに分かれてしまっている時代に生き、自分たちの側につけようと接近を試みる者たちに対していつもこう言って答えたのです。「誰であれ、ペトロの座に一致している者は私の仲間である」と。このように聖ヒェロニモを味方につけようとした者たちはまた「あなた自身も水によって再生されたのでしょう」と言って欺こうとしましたがこれも無駄に終わりました。なぜならそれに対して聖アウグスチヌスはこう明確に答えているからです。「切り落とされた枝はブドウの木の形をしている。しかし根を持っていないならその形は何の役に立つだろうか。」と。

良心の自由から生じることは、教会と国家の崩壊である

15.宗教無差別主義のこの毒を含んだ泉からは「すべての人に対して良心の自由が確立され、保証されるべきだ」という誤りかつ愚かなというよりむしろ突拍子もない原則が流れ出ます。これはきわめて伝染しやすい誤謬ですが、教会と国家を亡ぼすべく広がる無条件かつ無制限の言論の自由はこれを助長します。そしてこのような言論の自由が教会にとって有利なものであるかのように厚顔にも吹聴する者たちがいるのです。聖アウグスチヌスはこう言っています。「誤りの自由ほど人々の霊魂に確実な死をもたらすものがあるだろうか!」と。このように、人々を真理の道にとどめておくべき歯止めを彼らから取り除き、[原罪の結果]自然的に有している悪への傾きに、さらに拍車をかけて突き進むままに任せるならば、そこには、聖ヨハネが、太陽を暗ませる煙と地を荒らすイナゴの群れとがそこから立ち上るのを見た、かの深淵の穴が口を開いていると真実言うことができます。事実、ここから精神の不確かさとますますひどくなる青少年の堕落とが生まれ、又同じく、ここから人々の中に[教会の]聖なる権利およびこの上なく聖なる法規および事物への軽視が生じ、更にここから、一言で言うと国家を荒廃させる厭うべき災厄が出てくるのです。

なぜなら、経験に則して、また歴史上最も古い時代からの教訓に従えば富・権勢・栄華において抜きん出た幾多の都市国家がこのただ一つの悪によって滅んだからです。そしてこの悪とは制限なしの言論の自由・公の場での言論の放任・変化への熱狂的な望み他なりません。

報道の自由は誤謬の大洪水に全世界を巻き込んでいる

16.これにさらに付け加わるのが報道の自由ですが、これについてはいくら怖れても、怖れすぎるということはありません。しかしある人々はそれを方々で声高に、かつ熱心に要求し、いたる所に広げようとしています。尊敬すべき兄弟たちよ、圧倒せんばかりに押し寄せてくる真に恐るべき教説、驚嘆すべき誤謬の数々を目の当たりにして、私は身を震わせずにはおけません。これらの謬説は途方もなく多数の本、小冊子、その他の出版物によって広くかつ遠くまで広められ、サイズは小さくとも、その無法さのかげんはこの上なく大きく、地の面を覆うのろいの元となって、私の心を涙で満たしています。

報道の自由から得るかもしれない少しばかりの善は、

報道の自由から受ける損害を償いきれない

17.しかし、なんということでしょう。厚顔無恥にも、制限なしの言論の自由から流れ出るこの誤謬の洪水が、この邪悪の大海の中で真理と宗教とを擁護すべく出版されるいくつかの本によって充分に補われうると頑迷に主張する人がそれでもいるのです!熟慮の上で確実に悪いことであると分かっている大きな悪を、もしかすると何か善いことがそこから結果として出てくるという期待によって行うことは疑いもなく犯罪であり、しかもどんな種類の法律でも罰の対象となる犯罪です。一体、分別のある人で毒をあちこちに置き、あるいはそれを人前で売ったり、配って歩いたりすることが、いやそればかりではなく、それを飲んでしまった人をかろうじて死から救ったことのある治療薬が存在するという口実の下に、その毒をごくごくと飲むようなことを合法的とみとめる人がどこにいるでしょうか。

教会は害を与える書籍を焚書した

18.しかし、すでに使徒たちの時代から、悪書の抹消に関する教会の規律はこれとは非常に異なったものでした。聖書の記述によれば使徒たちは大量の本を公の場で焼いたのです。教会が常にこのような態度を取ってきたという事実の確認のためには、第5ラテラノ公会議において定められた関連する法規、および思い出深い私の前任者レオ10世教皇がその後すぐに出した規則を注意深く読めばよいでしょう。これらの規定は信仰の増進、および有益な諸学芸の伝播のために発明されたもの[即ち書物]が、その全く逆の実りをもたらし、信者の救霊の妨げとなることのないよう公布されたのでした。

教会は禁書目録によって悪書を排斥する

19.また、このこと[信仰の妨げとなる書物の出版]はトリエント公会議の教父たちがきわめて注意深く配慮した点であり、これほど甚だしい害悪を取り除くべく、悪い教えを含んだ本の禁書目録を準備するようにとのきわめて有益な法令が出されたのでした。思い出深いクレメンテ13世教皇は、危険な書物の出版禁止についての回勅の中で次のように述べています。『私たちは勇気をもって戦わねばなりません。奏すべき機会が現れるたびに私たちは勇気を出して戦い、全力を挙げてこれほどの数に上る有害な書物を根絶せねばなりません。腐敗を生む犯罪的要素が火で燃やし尽くされないかぎり、誤謬のもとは決してなくならないでしょう。』

教会は書籍を検閲する権利を持つ

20.聖なる使徒座があらゆる時代において疑わしい、あるいは危険な書物を排斥し、人々の手から取り上げるべくたえず熱心な配慮を持って務めてきたことを見るとき、本の検閲があまりにも面倒かつ抑圧的であるとしてこれを拒否するばかりでなく、検書が正義の原則に反するものであると恥じ気もなく公言し、教会にはそれを制定し、実施する権利がないと言う者たちの説がいかに聖なる使徒座に対して欺瞞に満ち、性急かつ中傷的であり、またキリスト教国家にとって大きな不幸をもたらすものであるかは明らかとなります。

君主の権威は守らなければならない

君主の権威は天主に由来する

21.また私の知り及んだところによると、公然と売られている書物を通して君主に対する忠誠と服従を損なう教説が広められ、いたるところで反乱の煽動者をたきつけています。人々がこういった教えに惑わされて正しい道から逸れてしまうことのないよう、かかる動きには慎重に警戒しなければなりません。使徒パウロの警告のとおり『天主から出ない権威はなく、それ故権威に背く者は天主の定めに背く。背く者は天主の裁きを招く』ことを皆が注意して考えるように。

君主を玉座からおろそうとする反乱的な革命は排斥される

22.したがって天主ならびに人間の法は、反乱と蜂起を恥ずべき狡猾な計略によって君主に対する忠誠を破壊し、王座から引きずりおろそうと企てる者らに対して立ち上がり、彼らを断罪します。

宗教に反しないことには全て、キリスト教徒は常に従順であった

23.まさしくこの故に初代のキリスト教徒は激しさをきわめる迫害のさ中にあって、なおも皇帝ならびに帝国によく仕えたのでした。彼らはこのことを[自らが抱く]宗教に反しないかぎり、全ての命令を厳格、かつ迅速に果たす忠実さのみならず、確固不抜な忠誠、および戦場での命を賭けた武勇によって示しました。聖アウグスチヌスは次のように述べています。『キリスト教徒の兵士は異教徒の皇帝たちに仕えたが、彼らがキリストの大義を攻撃するにいたっては、もはや天におられる支配者の他は認めなかった。彼らは永遠の主人と一時的な主人とを区別したのであるが、しかし永遠の主人のために、当の一時的な主人に仕えたのであった。』

テーベ軍団の指揮官であり、不屈の信仰をつらぬきとおして殉教者となった聖マウリチオもまたこの原則をよく理解していました。聖エウケリオの伝えるところによれば、聖人は皇帝に次のように答えました。『皇帝閣下、私たちは閣下に仕える兵士ですが、同時に天主の僕であることを臆することなく公言いたしております。さて、今閣下は私たちを生きるか死ぬかの窮地に追いやっておられますが、このことによって私たちは反乱をおこそうとは思いません。私たちは武器を手に持っていますが抵抗いたしません。それは、殺すよりも殺されることをよしとするからであります。』

たとえ国民の大多数がキリスト教徒であっても、自分の君主に従う

24.テルトゥリアヌスが伝えているように当時のキリスト教信徒は、もしそう望めば自分たちにあからさまに敵対する者らを駆逐するに充分なだけの数と兵力とを有していたことを考えるとき、古代キリスト教徒の君主に対する忠誠がどれほどのものであったかが察せられます。

『つい最近現れたと言うのに、私たちはどこにでも見かけられます。あなたの都市、あなたの島々、あなたの城塞、あなたの町々、あなたの衆議会、はては陣営の中にも、そして諸々の部族、十人組、宮廷、元老院、および公共の広場(フォールム)にいたるまで私たちのいない場所はありません。たとえ兵力において劣っていようとも、これほどた易く[殉教のために]殺戮されるのをゆるす私たちが、もし私たちが公言する信仰によって、死をもたらすよりもそれを被ることが良しとされているのでなかったなら、私たちが勇んで臨む用意のない戦いがあるでしょうか。これほどの数を誇る私たちがもし地球のどこか片隅に引き込もり、あなたたちの内から姿を消してしまったとしたら、これほど多くまたあらゆる階層にまたがる市民を失ってあなたの圧制は恥ずかしさに顔を赤らめたに違いありません。ただこの分離だけであなたへの充分な懲罰となったはずです。ぽつんと取り残されているのに気づき、あなたは怖れにとらわれるに違いありません。そうなれば、あなたは誰か命令を下してくれる人を求めたことでしょう。あなたのまわりには、市民よりも敵のほうが多くなったことでしょう。しかし実際は、キリスト教徒の数が多い分だけあなたの敵は少なくなっているのです。』

リベラル派は自由の名によって権威を犯罪的にも転覆させようとする

25.君主に対する忠実な服従を示すこれらの驚くべき事例はキリスト教のいとも聖なる戒律にその源を有しています。そしてこれらの事実はまた、自由を求める歯止めのない、気まぐれな情熱に燃え、主権を有する統治者のあらゆる権利を自由の名のもとに覆そうと全力を傾ける者たちの背徳と厭うべき反抗精神を誡めるものです。実際、人類の恥であり不名誉に他ならないウァルド派、ベグアルド派、ウィクリフ派といったべリアルの子らの常軌を逸した言動と悪辣な欲望は皆、かかる目的の実現に向けられていたのであり、このために使徒座からかくも度々、正当な断罪を受けたのでした。なぜなら、これらの狡猾な者たちは確かに、他でもないこの目的のために持てる全ての力を合わせたのであり、そしてそれをより容易にかつ速やかに達成するため、またルターと共にあらゆるものからの自由を勝ち得た喜びにひたるために、彼らは臆面もなく最も劣悪な犯罪をさえ犯すのです。

リベラル派はしかも教会と国家との分離を要求する

26.教会と国家の分離および教会位階と帝国との間の和合の断絶をかくも熱心に求める者たちの欲するところからは、宗教と国家権力双方にとっての良い結果は望み得ません。実際、放縦きわまる自由をかち得るためにはたらく者たちは何物にもまして、この和合を恐れています。しかるにかかる和合は教会と国家にとって常に有益かつ良い結果を生んできました。

秘密結社はこれらの自由のために戦ってきた

27.しかし、私の痛切な憂慮と払い切れない悲しみの元となっているこれらのことに、さらにある種の組織ならびに集会をつけ加えて述べねばなりません。それらの組織は規則を定めて一種の軍団を結成し、あらゆる種類の偽りの宗教ならびに礼拝を奉ずる者たちを含みます。こういった組織は、たしかに宗教に対する献身をよそおっていますが、実際それらの意図しているのは[伝統から離れた]新奇なことおよび反乱をいたるところに広げ、あらゆる種類の自由を主張し、聖なる[教会の]権力および[国家の]世俗的権力とに対して騒動をまき起こし、かつ最も聖なるものをも含め、全ての権力を否定することです。

司教達は、良い戦いを戦い、理性を信仰に従わせよ

28.悲しみに心を痛めながらも、風にお命じになり、凪にお戻しになる主に全く信頼して、私はこれらのことを書き送ります。尊敬する兄弟たちよ、それはあなた方が信仰の盾で身を固め、主の戦いを勇敢に戦いつづけることができるようにです。あなた方は、殊に天主の叡知に対して身をそそり上げようとする全ての高台(塔)に対して砦のように立ちはだからねばなりません。天主の霊の剣―――これは天主のみ言葉に他なりません―――を抜き、また正義に飢えかわく者たちが、あなた方からその望みを満たす機会を受け取ることができるようにしてください。主のぶどう園の勤勉な栽培者として選ばれたあなたたちは、任された土地から苦渋の根をすべて抜き取り、そして悪徳の種がみな摘み取られて諸徳の喜ばしい実りが円熟に育つよう、この唯一の目的のために一致して働いてください。

 特に神学や哲学的問題に取り組む者たちを父親の愛情をもって抱きしめ、彼らが自らの理性の能力にのみ頼って、天主を敬わぬ者らの後にしたがうことのないよう諭しなさい。また天主こそが真理の道における導き手であり、知恵ある者の知恵を完全なものと成す方であり、御自分のみことばによって御自分がどのような方であるかを知らされる、この天主御自身の導きによるのでなければ、天主を知ることは不可能であるという事実を彼らに思い起こさせるようにしてください。傲慢な者、と言うよりむしろ頭のおかしくなった者は、あらゆる人間の感覚を超える信仰の諸々の奥義を人間の尺度ではかろうとし、まさに人間の自然本性上の条件によって弱く、もろいものである理性に信頼を置くのです。

君主達は自分の王国を守り、信仰を守れ

29.そして願わくはキリストにおけるいとも親愛な子らである君主たちが宗教と国家との栄えのために、私が彼らに対して望むところのことを、彼らの権能と権威によって成し遂げてくれますように。そして、彼らに権威が与えられたのは、世を統治するためだけでなく、教会を支援し、保護するために特に与えられていることを、彼らがよく考えますように。また、教会の保護のためになされることは同時に彼ら自身の安寧および彼らが有する権威の維持のためになるということをよく思いめぐらしますように。いや、むしろ信仰のためとなることがらが彼らの王国のためとなることがらよりも、はるかに大切に感じられるべきことであると君主らが確信し、また聖レオ教皇の言うように、主の手によって彼らの王冠に信仰の冠がつけ加えて置かれることが彼らの最大の関心事となりますように。国々の父および守護者として立てられた彼らは、もしその太腿に王の王、主の主と書かれている天主に対して、敬虔さをともなって宗教が栄えることを自らの第一に配慮することとするなら、平和と豊かさに満ちた真のゆるぎない幸福を確保するでしょう。

全ての異端を滅ぼした聖母よ、我らを守り給え

30.しかるに、これらことがみな良く成し遂げられるためには、ただ一人で全ての異端を滅ぼし、また私たちの信頼の主要な対象である、いやむしろ私たちが信頼を心に抱くことの理由に他ならぬ童貞聖マリアに目を上げます。主の群れの今差し迫った危機に際して、聖母おん自らが私たちの熱意、私たちの企図、ならびに私たちの行動のいとも幸いな成功を祈ってくださいますように。

使徒の頭である聖ペトロと聖パウロよ、我らを守り給え

31.また私は、謙虚な祈りをもって使徒の頭である聖ペトロおよびその使徒職における伴侶聖パウロに、あなた方皆が揺るぎない壁のようになり、天主によって置かれた礎以外のいかなる礎も置くことのないように祈り願います。この励みに満ちた望みに支えられて、私は私たちの信仰の創始者にして完成者である[主]イエズス・キリストが艱難の中にあって私たちを慰めてくださることを確信しています。尊敬する兄弟たちよ、天からの助けの印として、あなた方およびあなた方の世話に任された羊たちに使徒的祝福を送ります。  

ローマ 聖母大聖堂の傍らにて 

私たちの主の御托身1832年 私の教皇登位2年目

8月15日 聖なる童貞女マリアの被昇天の荘厳な大祝日にて

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