Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

聖母マリアが天主の御母であることの意味

2023年04月25日 | お説教・霊的講話

2023年1月1日 大阪ミサ 説教

愛する兄妹姉妹の皆さん、新年のお慶びを申し上げます。

まず、心から旧年のあいだ受けた多くの皆様のサポートと寛大なご援助を感謝申し上げます。侍者の方々、聖歌隊の方々、この教会を維持・掃除などしてくださって陰で働いてくださっている方々、公教要理を教えてくださっている方々、そんな多くの有形無形の形でサポートをしてくださっている、お祈りあるいは経済的にサポートしてくださっている方々、感謝いたします。

クリスマスの特別献金には、多くの方々が寛大なサポートをしてくださって、今までに138万6千円の現金が集まりました。非常に感謝しています。クリスマスから続けて今朝の東京でのミサまで8回、感謝のために皆様のためにミサを捧げました。このミサは、更に皆さんのためのミサを捧げています。心を合わせてお祈りください。主が何十倍にもして、何百倍にもして、皆さんのお仕事や寛大な愛徳に報いてくださりますようにお祈り申し上げます。

幾つかお知らせがあります。一つは、昨日現地時間で午前9時36分に名誉教皇であるベネディクト16世が亡くなりました。東京の第二回目のミサでもその永遠の安息を、という意向でミサを捧げました。

1月5日にも、修道院で葬儀のためのミサを捧げる予定です。どうぞ皆さんも、ベネディクト16世の霊魂のためにお祈りください。なぜかというと、教皇という役職は地上で最も責任のある最も高い役職ですから、主の厳しい裁きを受けなければなりません。主の憐れみを請い求めたいと思っています。…

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟姉妹の皆様、今日は2023年1月1日、主の御降誕の八日目です。新年のお慶びを申し上げます。

主の御降誕祭では、人間としてお生まれになった天主の神秘について一緒に黙想しました。
ところで今日、主の御降誕の八日目のミサの集祷文をみると、今度は、教会はイエズス様をお産みになった聖母にスポットライトを当てて、こう祈っています。引用します。
「天主よ、御身は、聖マリアの実り豊かな童貞性により、人間に永遠の救いの報いを備え給うた。この同じ聖母を通して、われらは、生命のつくり主である御子われらの主イエズス・キリストを受けることができた、願わくは、この聖母が私たちのために取次ぎ給うことを我らが知るを得んことを。」引用終わります。

ですから、教会がスポットライトを当てている聖母に、特に聖母が天主の御母であるということを一緒に黙想いたしましょう。

キリストの神秘の究極の結論、イエズス様を正しく理解するならば、これに当然たどり着かなければならない「天主の聖母である」というこの神学的な結論、これを黙想致しましょう。もしも、イエズスさまのことを正しく理解しないならば、このことも否定されてしまいます。このイエズスさまの神秘とマリア様の神秘がわかちがたく調和して、一致していて、一方を否定すれば他方も否定される、ということを一緒に黙想いたしましょう。

では、まず第一に、割礼と聖母の関係を黙想致しましょう。
主は聖母とともに割礼を受けました。イエズス様は、御降誕の八日目に、割礼によって最初の贖いの御血を流されました。そのとき、聖母もおられました。もっと正確に言うと、聖母が主をお連れになって主は割礼を受けました。聖母が主に割礼を受けさせた、といってもよいでしょう。これは、イエズス・キリストにとっても、マリアさまにとっても、贖いのための最初の流血の犠牲でした。このすでに人間として産まれたばかりの天主が苦しみの生活をはじめてあられた、ということを意味しています。聖母とともに、私たちの贖いの業をすでに産まれて八日目にされた、ということを意味しています。割礼というのは、第二のアダム、イエス・キリストの犠牲の始まりでした。聖母は、主の犠牲の初穂を主と共にお捧げになります。ところで 幼きイエズスの体内に流れている御血は聖母の体内から受けたものでした。ですから、聖母は割礼の時もまた十字架の時も立ち止まって、捧げておりました。割礼の時には、どうしてもマリアさまがおられなければなりませんでした。

主が御血を流されたことに、どうして贖いの価値があったのでしょうか。第二の点は、この意味をよく知ることです。
主イエズスが御血を流されてその流血に贖いの価値があったというのは、ただひとつ、この理由があるからです。それは主イエズス・キリストが、同時に、まことの天主でありまことの人間であったからです。イエズス様が流された御血は、天主の御血でもあったからです。
イエズス様が贖われた人類の人祖つまり第二のアダムであるためには、単なる純粋なアダム、人間だけでは不足でした。主は、「まことの人となったまことの天主」です。言いかえると、天主の本性――ラテン語ではnatura――天主の本性と人間の本性のこの二つが、天主の御子の唯一のペルソナにおいて固く結合して、イエズス・キリストが存在し始めたのです。これが御托身の玄義といいます。
ですから近代主義者が言うように、次のようなことを言っては異端です。例えば「イエズス・キリストは単なる人間として懐胎されてお生まれになって、後に天主の子となった」、これは異端です。フォティヌス(376年没)という人が主張していた異端です。

カトリックの信仰はこうです。天主の御言葉のぺルソナ、ギリシャ語ではヒュポスタシス、これだけに、唯一のペルソナに置いて、人間の本性が受けとられて、天主の本性と人間の本性とが天主のペルソナにおいて合体した、これです。このような理解と説明だけが、イエズス・キリストの行動が同時に天主の行動であって人間の行動であると説明することができる、可能にするものです。

では第3の点。では、天主の御母ということとキリストの御托身とはどういう関係があるのでしょうか。これは切っても切れない関係があります。
今日の典礼は、聖母が天主の御母であり同時に終生童貞であると祝い、祈っています。何故かというと、天主の御母であるということは、イエズス・キリストの御言葉のペルソナにおいて、天主と人間の二つの本性が合体していることから論理的に導き出される神学的な結論であるからです。

説明します。主の懐胎の最初の瞬間から、人間の本性が天主のペルソナによって、受け取られました。ですから、マリア様の胎内において、天主が懐胎されて、そして、天主が童貞女からお産まれになった、と言わなければならないからです。  
なぜかというと、ある女性が誰かのお母さんであるというのは、たとえばヨゼフさんのお母さんであると言われるのは、その女性がヨゼフさんを懐胎して、そのヨゼフさんをお産みになったからです。
ところで、マリア様は天主イエズス様を懐胎して、最初の瞬間から天主のペルソナを懐胎して、そしてその方をお産みになったのですから、まことに天主の御母と言わなければなりません。
マリア様が人間を懐胎して、その人間があとで天主となったのではないからです。
つまり、マリア様こそが、天主の最初からの天主の御母だと言わなければなりません。

もちろん、マリア様が「天主の本性」というものを生み出した方ではありません。なぜかというと、天主の御言葉、御子は、御父なる天主の実体からお産まれになった永遠の天主であるからです。聖母が天主の御母であるといわれるのは、天主の本性を生んだ母ではなくて、そうではなくて、天主の本性と人間の本性との両方を有しているペルソナを、人間の本性に従ってお産みになったお母さまであるからです。ここで天主の御母ということの「天主」というのは、御子のペルソナのことを意味しています。

天主の御母になったということは、まったく男性の介入なしに母親になったということです。イザヤの預言の通り、マリア様は童貞のまま母となりました。天主の御力によって、聖霊の働きによって、懐胎しました。ですから、マリア様は童貞女のまま天主の母となり、そしてその童貞性を終生守られました。マリア様は終生童貞です。モーゼは、かつて、燃えるやぶが、炎にめらめらと燃えながらも、青々とした緑を保つのを見ました。これは聖母の前兆でした。マリア様という方が来られるということの前兆でした。なぜかというと、御母でありながらも純潔な童貞性を御守りになったからです。聖母において、様々な旧約の前兆が成就しました。

古代からも、西方教会も東方教会も声を合わせて、マリアさまが天主の御母である、そして終生童貞であると宣言して、信仰宣言しています。特に431年のエフェゾ公会議というのは、この信仰の記念碑です。

いったいどんなことがあったかというと、あるクリスマスに、ネストリウスという司教が、コンスタンチノーブルの司教が、マリア様は天主の御母ではない、テオトコスではなく、キリストの御母だと言い出したのです。すると、信者たちはそんなことはないと大騒ぎになりました。そしてその直後にエフェゾ公会議が開かれて、ネストリウスが断罪されたのです。ネストリウスの主張によると、天主のペルソナと別の人間のペルソナとがふたつが合体してひとつのペルソナとなった、と言っていたのです。これはカトリックの正統の教えではありません。ギリシャ語では、彼は天主のヒュポスタシスと人間のヒュポスタシスのふたつのヒュポスタシス、これはペルソナのことです、これが、ふたつがひとつになって、プロソポン、これもペルソナという意味です、となった、と主張して、だから、キリストは、最初は人間としてのペルソナを持っていたと言ったので、マリア様は天主の母ではなくてただのキリストの母に過ぎないと言いました。しかし、それはすぐに断罪されて、そうではない、古代からも、キリストのご托身の玄義を正しく理解すればするほど、私たちは、マリア様は天主の御母であると言わなければならない、と荘厳に宣言されました。

「天主の御母」、これは人間が持つ最高の尊厳です。聖トマス・アクィナスによれば、無限の尊厳だと言います。何故かというと、「天主の御母」というのは、無限の善である天主に由来する尊厳を持っているからです。(Summ. Theo., III. a.6.) これ以上の尊厳はあり得ません。「天主の御母」。ですから、すべての天使たちよりも、セラフィムやケルビムよりも、よりもっと卓越していることで、素晴らしいということです。

マリア様以上の清さと聖なる御方は見出せないほど、清く聖なるおかたです。天主の御母であるということは、聖人がたが受けるようなすべての特権を、マリア様はお持ちになっていたということです。

では最後に遷善の決心を立てましょう。

マリア様を通してイエズス・キリストとともに御父に 私たちをこの一年を奉献いたしましょう。
イエズス様とマリア様とは分かちがたく密接に一致しています。マリア様に関する信仰を深めれば深める程、イエズス様の真理をますます深めることができます。正しく理解することができます。ですからイエズス様に近づくためには、マリア様を理解するのが最もふさわしい方法です。
また、イエズス様のことを深く知れば知るほど、イエズス様に倣ってマリア様をお愛しして、自分をすべてマリア様に委ねたいと思うようになります。マリア様のことを深く知るようになれば、するとまた、イエズス様のことをより良く深く知ることになります。
プロテスタントの方は誤解して、マリア様はイエズス様に向かう障害物であると、主張するかもしれません。その正反対です。聖母こそが私たちにイエズス・キリストを正しく理解させ、近づけてくださる、私たちに、イエズス様をくださる私たちの御母です。
では最後に、マリア様の御取り次ぎで、天主の御母の取り次ぎで、主の神秘に深く入るお恵みを請い求めましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。



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