Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

カトリック教会は「全実体変化」というドグマを宣言し信じているが、これは理論ではない。

2006年08月26日 | ミサ聖祭

アヴェ・マリア!


 聖ピオ十世の公教要理に従って御聖体の秘蹟について見てみましょう。



【御聖体の秘跡とは何ですか】

 御聖体とは、パンの全実体がイエズス・キリストの御体に、そしてぶどう酒の全実体がイエズス・キリストの尊い御血にそれぞれ変化することによって、パンとぶどう酒の外観のもとに、主イエズス・キリスト御自身の御体・御血・御霊魂・御天主性が、真実に、実体的に、実際にまします秘跡で、私たちの霊的な糧となるものです。



【この地上において聖母マリアからお生まれになり、今は天においでになるイエズス・キリスト御自身が御聖体に現存しておられますか】

 地上において聖母マリアからお生まれになり、今は天においでになるイエズス・キリスト御自身が御聖体に実際に現存しておられます。


【何故イエズス・キリストが実際に御聖体の秘跡に現存しておられることを信じますか】

 イエズス・キリストが実際に御聖体の秘跡に現存しておられることを信じるのは、イエズス・キリスト御自身がおおせになり、聖なる教会もそのように教えているからです。

 


【聖変化の前のホスチアは何ですか】

 聖変化の前のホスチアは単なるパンです。


【聖変化のあとのホスチアは何ですか】

 聖変化のあとのホスチアは、パンの外観のもとにまします主イエズス・キリストのまことの御体です。


【聖変化の前のカリス(聖杯)の中味は何ですか】

 聖変化の前のカリス(聖杯)には、ぶどう酒と数滴の水が入っています。


【聖変化のあとのカリスには何が入っていますか】

 聖変化のあとのカリスには、ぶどう酒の外観のもとにまします主イエズス・キリストの御血が入っています。


【パンとぶどう酒とがそれぞれ御体と御血に聖変化するのはいつですか】

 パンとぶどう酒とがそれぞれ御体と御血に聖変化するのは、司祭がミサ聖祭において聖変化のことばを唱えた瞬間です。


【聖変化とは何ですか】

 聖変化とは、イエズス・キリストが最後の晩餐のとき、「これは私の体である」、「これは私の血である」とおおせになり、パンとぶどう酒をそれぞれ尊い御体と御血に奇跡的に変えられたことを司祭を通して再現(現実化)することです。


【パンとぷどう酒がイエズス・キリストの御体と御血に奇跡的に変化することを教会は何と呼びますか】

毎日祭壇で行なわれるこの奇跡的な変化を教会は、全実体変化と呼びます。


【聖変化のことばにこれはどの力をお与えになったのはどなたですか】

 聖変化のことばにこれほどの力をお与えになったのは、全能の天主であるイエズス・キリスト御自身です。


【聖変化のあとにもパンとぶどう酒が残っていますか】

 聖変化のあとには、パンとぶどう酒の外観(「形色」とも言う)しか残っていません。


【パンとぶどう酒との外観とは何ですか】

 パンとぶどう酒との外観とは、形・色・味など五感によって感じられるものをさします。


【どうしてパンとぷどう酒の外観のみが、その実体なしに残るのですか】

 パンとぶどう酒の外観のみが、その実体なしに残るのはすべて全能の天主の御力によるのです。


【パンの外観のもとにはイエズス・キリストの御体のみ、そしてぶどう酒の外観のもとにはイエズス・キリストの御血のみが現存しますか】

 主イエズス・キリストは、パンとぶどう酒とのいずれの外観(形色)のもとにも、御体・御血・御霊魂・御天主性をもって現存しておられます。


【何故ホスチアにも、カリスの中にも、イエズス・キリスト全体が現存しておられるのですか】

 ホスチアにも、カリスにもイエズス・キリスト全体がおられるのは御聖体のイエズス・キリストは、天国におけると同じように、生きておられ不死だからです。そのために、御体のいますところには、御血・御霊魂・御天主性が共に、また、御血のいますところには、御体・御霊魂・御天主性がともにおられます。イエズス・キリストにおいてはつねに御体・御血・御霊魂・御天主性が共においでになります。


【イエズス・キリストがホスチアに現存しておられるとき、天国にはおいでになりませんか】

 イエズス・キリストはホスチアに現存しておられても、同時に天国にもおいでになります。


【イエズス・キリストは、世界中で聖変化されたすべてのホスチアにおいでになりますか】

 イエズス・キリストは聖変化後のすべてのホスチアにおいでになります。


【何故イエズス・キリストは聖変化後のすべてのホスチアに現存することがおできになるのですか】

 全能の天主に不可能なことはありません。この全能の力でイエズス・キリストは聖変化後のすべてのホスチアに現存することがおできになるのです。


【ホスチアをさくとき、イエズス・キリストの御体もさかれますか】

 ホスチアをさくとき、その外観(形色)が割れるだけで、イエズス・キリストの御体はさかれません。


【さいたホスチアのどの部分にイエズス・キリストがおられますか】

 イエズス・キリストの御体全体は、さいたホスチアのどの部分にもおいでになります。


【イエズス・キリストは、大きなホスチアにも、ホスチアの一片にも同じようにおられますか】

 大きなホスチアにも、ホスチアの一片にも、同じイエズス・キリストがおられます。




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 だから、私たちはカトリック教会とともに大胆に、聖体が本当に主の体であり、血であると公言しているのです。

 私たちは、率直に主の体を食べ、血を飲むことについて話しているのです。

 カトリック教会は「全実体変化」と呼ばれるドグマを宣言し信じてきました。(これは「理論」ではありません!)



トリエント公会議はこう宣言しています。

1651(883)1条
 いとも聖なる御聖体の秘跡において、真に、現実に、そして実体的に、私たちの主イエズス・キリストの御体と御血が御霊魂と御神性とともに、すなわちキリスト全部が含まれていることを否定し、この秘跡には、しるしまたは象徴あるいは効力においてのみある、と言う者は排斥される(DzS1636、1640参照)。


1652(884)2条
 至聖なる御聖体の秘跡において、パンとブドー酒の実体が私たちの主イエズス・キリストの御体と御血とともに残ると言い、パンとブド一酒の形色だけを残し、パンの全実体が御体に、ブドー酒の全実体が御血に変わるかの素晴らしい特異な変化(この変化をカトリック教会は全実体変化という全く適切な表現で呼ぶ)を否定する者は排斥される(DzS1642参照)。


 カトリック教会は、聖変化した御聖体が私たちの主イエズス・キリストの本当の体であるということを極めて重要に考えてきました

 「思い起こすということ」つまり「救いの歴史のある出来事を思い起こそうとする」という意味で「実際に現在のことになる」のではないし、そう言う意味で「再現すること、現存させること」ではありません

 たしかに、イエズス・キリストは「私の名前によって2人、3人が集まっているところに私もいる」とご自分の霊的現存について言われました。しかし御聖体の秘蹟とは、「聖体祭儀のうちに」キリストが私たちと共にいることを信じているのではなく、御聖体のそれ自体の中に、真に、現実に、そして実体的に、私たちの主イエズス・キリストの御体と御血が御霊魂と御神性とともに、すなわちキリスト全部がましますことを信じているのです。


 だから、聖体は「あなたがたの間にいるわたしであるパン」とか、「私たちと共にいるキリスト」というよりも、私たちがいなくても、ミサ以外でも、御聖体の外観のうちに真にましましたもう私たちの主イエズス・キリストなのです。


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 だから私たちは「カトリック新聞」の聖福音の説明を読むとびっくりするのです。 


体を食べ、血を飲む

 しかし明らかに、初代のキリスト者たちは私たちほど控えめではなく、聖体が本当に主の体であり、血であると公言していました。後に私たちが「現存」と呼ぶようになるこのことは、当時の(当時の!)キリスト者にとってあまりに現実的だったため、彼らは率直に主の体を食べ、血を飲むことについて話していたのです。

 キリスト者たちは何世紀にもわたって、どうしてパンとぶどう酒に見えるものが主の体であり血であり得るのかについて説明を試みてきました。中世以来、カトリックでは「実体変化」と呼ばれる理論(理論!)が支持されてきました。しかしこの説明も、古代ギリシャの物理学に基づいた理論に頼っていたところがあったため、説得力を失ってきました(!!)。

 究極的には、重要なのは聖体がどうであるかではなく(!!!)、主がご自分の体と血がまことの食べ物だと言われたこと、聖体のパンとぶどう酒がその体と血であること、そして主の弟子である私たちが聖体を分かち合うことで主を記念しているという事実なのです。

 聖書では、何かを思い起こすということはそのことを再現すること、現存させることです。救いの歴史のある出来事を思い起こそうとするなら、そこに入るのです。それで実際に現在のことになります。

 ですから、イエスが私たちに「わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われる時、イエスは、「わたしと共にいて、わたしと向き合い、あなたがたの間にいるわたしであるパンを食べ、ぶどう酒を飲みなさい」と言われているのです。私たちが分かち合う聖体は、実際に、私たちと共にいるキリストで、私たちを支えてくださるキリストなのです。

 外部の人には理解できないことです。私たちも理解してはいません(!!!)。私たちは信じているのです。私たちは、聖体祭儀(!)のうちにキリストが私たちと共にいることを信じています。私たちは、キリストご自身が私たちのうちにおられ、それは私たちがキリストのように生き、世界のための神の愛を告げ知らせ体現していくためであることを信じています。

 (ウイリアム・グリム=メリノール宣教会司祭)

全文を読みたい方は次をご覧下さい。
http://www.cwjpn.com/kiji/hikari/hikariold/hikari3871b.htm


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「やっぱり、御聖体とは、パンの全実体がイエズス・キリストの御体に、そしてぶどう酒の全実体がイエズス・キリストの尊い御血にそれぞれ変化することによって、パンとぶどう酒の外観のもとに、主イエズス・キリスト御自身の御体・御血・御霊魂・御天主性が、真実に、実体的に、実際にまします秘跡なんだ!」と思われた方はクリックをお願いいたします。↓↓↓
http://blog.with2.net/link.php?269452



「でも何故、カトリック新聞編集長ともあろう方が、公教要理やトリエント公会議の排斥文とは離れた説明を書いたんだろうか???」と思われた方もクリックをお願いいたします。↓↓↓
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 ベネディクト十六世教皇様のための霊的花束ですが、たとえ少しであったとしても、数日だけだったとしても大歓迎ですので、是非、メールで私あてに提出なさって下さい。よろしくお願いします。感謝します。



 何故、カトリック新聞編集長ともあろう方が、公教要理とは離れた説明を書いた理由は、これではないかと思うところがあったら是非、コメントに書いて下さい。私も後日、その理由はこうではないか、というその何故に答える理由を書きたいと思っています。

 


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1 コメント

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御聖体 (桜花)
2013-12-30 04:19:02
私は信者ですが、御聖体についてはっきり明確に良く説明されていて、気持ち良い爽快感を味わいました。全実体変化は重要な信仰箇条であり、人間の理論をはるかに越え神が介入している事柄で、カトリックの歴史の中でも、御聖体にまつわる、科学的には到底説明なし得ない奇跡が沢山有ります。
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