Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

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信仰と愛のどちらかを選ぶのではありません、その両方を抱擁しなければなりません!

2011年08月03日 | カトリック・ニュースなど
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

2011年6月29日、エコン(スイス)で行われた叙階式に於いてアルフォンソ・デ・ガラレッタ司教様がされたお説教を日本語に訳して下さった方がおられるので、感謝しつつ、愛する兄弟姉妹の皆様にご紹介します。
天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


信仰と愛のどちらかを選ぶのではありません、その両方を抱擁しなければなりません!


2011年6月29日、エコン(スイス)で行われた叙階式に於いてアルフォンソ・デ・ガラレッタ司教様がされた説教


司教様、
そして親愛なる神父様方、
親愛なる叙階候補者の方々、
親愛なる兄弟の皆様、

 私たちはこの年に再び、助祭職と司祭職を授ける為、またそれを通して本会が持つ召命及び使命の遂行の為に、ここ聖ピオ十世司祭兄弟会の母体なるエコンの神学校に集っています。信仰とカトリック教会の存続を保証する為、カトリック司祭職を伝え、守り、それを生きる事が問題となります。

 司祭は Alter Christus、つまりもう一人のキリストです。彼は in persona Christi、即ちキリストの位格<聖三位一体の第二の位格>に於いて行動します。ですから、実に私たちの間にあるキリストの司祭職なのです。私たちの間にあるキリストの現存なのです。司祭は私たちの聖主の御託身と、その御生涯、教え、聖成の恩寵、さらに贖いが持つ様々な利益の継続を保証してくれます。その上それは不可欠なのです。この危機‐信仰の危機と公教会の危機‐を通して、自分たちの置かれた状況、特に聖なる公教会の状況から距離を置きそれを無視する事が私たちには出来ないのは明らかです。正直申しますと、本質的なところは何も変わっていません。本質的なところは、何一つ変わっていないのです。

自由主義は、カトリック信仰と1789年思想との和解を試みる

 ルフェーブル大司教様は私たちの時代と社会の悪、また何よりも公教会内に存在する全ての悪を完全に理解すると共にそれを明らかにして下さいました。この悪は全く単純に自由主義と呼ばれます。それこそがこの和解、つまり公教会と世俗、またカトリック信仰と自由主義原理、さらにこの、カトリック宗教と1789年に生まれたあの思想との和解の試みなのです。全てはそこにあります。全ての問題はそこに横たわっているのです。残りの全ては、第二バチカン公会議と当局によって為された、フランス革命から生じた世界に対する、つまり自由主義世界に対するこの適応の正当化を目的とする現代神学の、理論的で、捕らえ難く、極めて複雑な立証でしかありません。

 そこで私たちは、当時ラッツィンガー枢機卿だった方による幾つかの発言を引用したいと思います。その中で彼は簡略かつはっきりとそれを正確に言明しているのです。忠実さ及び正確さに配慮して私はそれを皆様にお読み致します。かなり短いものです。

「公教会と世俗の関係の修正を求める要望に関して第二バチカンは正しいものでした。仮に公教会の外で生じたにせよ、 [世俗に対する] 公教会の展望には‐もし浄化と修正を受けるならば‐その地位を見出せる価値観は実際に存在します。」(ラッツィンガー枢機卿とヴィットリオ・メッソーリ(Vittorio Messori)、『信仰について』)

「60年代の課題とは、二百年に亘る自由主義文化により表現された最高の価値観を獲得する事でした。」(ヴィットリオ・メッソーリとのインタビュー、1984年11月発行の月刊誌Jesus掲載文、p. 72。)

 現教皇のベネディクト十六世は、ラッツィンガー枢機卿<時代>同様、現代世界憲章 Gaudium et spes が「公会議の遺言書」である理由を説明しています。彼は当憲章の意向と特色を次の言葉で表現しているのです:

「この[文書]全体の分析を提供する事が望ましいならば、(信教の自由と世界の諸宗教に関する[当文書]に関連して)それはピオ九世による シラブス の修正、つまり . . . . . 対立シラブスであると言うでしょう。この文書は反シラブスとして役立ちますし、1789年に幕が切って落とされた新時代との公教会による正式な和解の試みを象徴するのです。」(ヨゼフ・ラッツィンガー枢機卿、カトリック神学の諸原理<Principles of Catholic Theology>[イグナチオ出版、1987年]、pp. 381-382)

 今引用したものは非常に分かり易い文書と発言です。これは根本にまで及び、権威ある決定的な重要性を持つのみならず、これらの文書を分析するという面倒を私たちに掛けないで済ましてくれる自白なのです。もし彼ら自身がそれはこうですと告白するなら、もはや私たちにはそれを分析する必要性などありません。第二バチカンは、完全にカトリック宗教、つまり公教会の信仰と、自由主義、つまり革命及びフランス革命原理との和解であるどころか‐教皇様が別のところで述べておられる様に‐信仰の思想と啓蒙思想との和解なのです。以上の発言は幾つもの不名誉と噂話をもたらします。

 先ず初めに‐これについて納得するには、公会議後の教会に目を向けるだけで十分なのです!‐これほど自然及び超自然の秩序の双方にたっぷりと影響を与える価値観が存在し得るのでしょうか、また何故これらの価値観が公教会の外で生じ得るのでしょうか? そうなると公教会は真理の保管所ではないのですか? カトリック教会こそが真の教会ではないのでしょうか? さらに真理は、歴史や時勢、さらに文化や場所に翻弄されて発展して来たのですか? 公教会の外で生じた価値観があると言う事は適切ではありません。数十年も前に、<英国>作家のチェスタートンは、フランス革命思想は常軌を逸したカトリック思想だと言っていました。そして私たちにはもっと正確に、この思想は不当なやり方で自然の秩序に置き換えられたカトリックの諸真理、つまり、超自然の秩序に於いては、ある程度まで真実でありながら、あからさまに自然の秩序に置き換えられた思想である、と言えるのかも知れません。

 もしも第二バチカン公会議が本当の意味で自由主義の価値観を取り入れ、それを修正し、浄化し、また修正したとしても、これらの価値観はキリスト教の歪められた真理なので、全く単純にカトリックの絶えざる真理だけを再発見したことでしょう。自由主義というものは、その起源に関して言うなら、キリスト教の、つまりカトリックの異端なのです。

 一方で、教皇たちによる、二百五十年に亘る、不変の教導権がこれらの想定される「価値観」を排斥した時、つまり教皇たちが卸売りと小売りとを排斥した時期に、この和解を試みるのはやはり向こう見ずな事でした。この様な和解の可能性のみならず、この様な和解を宣言する必要性さえ排斥されたのです。これはシラブスであり、そしてこれはピオ九世なのです。

 今皆様は公会議が持つ様々な原罪を経験しています。非常に頻繁にそれは私たちの目前に教導権と教会当局を提示します。しばしばそれは、たった一つの彼らが持っている論拠でしかありません。ただ一方で、彼らは二百五十年に亘る教導権を取り除き、正確にこの教皇たちが前もって排斥された事を行う事から始めます。それは向こう見ずを通り越しています。


 次に彼らは世俗、つまり天主から遠く離れ、この天主と対立する世俗との和解を探し求めるのです。世俗を御覧下さい、どんな種類の世俗かを理解するには見回すだけで十分ですよ。今となっては聖書は非常に明快なものです。聖ヨハネは私たちに説明してくれます:「世にあるもの全てとは、肉の欲、目の欲、そして生活の驕りだからである。」(ヨ第一 2:16)さらに使徒聖ヤコブはキリスト教徒たちに言います:「姦通者よ、この世の友が天主の敵であると知らないのか? 従ってこの世の友となる者は皆、天主の敵となるのだ」(ヤ4:4)

自律の精神は人間の神格化へと導く

 最後に、一体何が自由主義思想の本質、それとも趣旨、又は核心でしょうか? 教皇たちを初めとして、十九世紀と二十世紀の偉大な著作家たちは既にそれを完全に言い表しました。それは先ず第一に自然主義であって、云わばそれは超自然の秩序や天啓、恩寵の否認でありまして、その結果としてこの<自然の>秩序に位置する公教会とキリスト、さらに天主の否認なのです。首尾一貫した自然主義は、究極的に無神論へと導きます。また共産主義はその点で私たちにこの事を思い起こさせるのです:このような恐怖は人類史上今だかつて経験されたことはなかったと。第二に、それは独立と反抗の精神です。あらゆるものからの独立、それは真実からの理性の独立や、善に対する意志の独立、天主と権威からの人間の独立であります。そして第三に、人間の神格化です。既に聖ピオ十世はこれを指摘しています:人間は自ら天主に取って代わると、神となり栄光と創造を自分自身に<帰されるよう>注文すると。

 この様に彼らは企てたのです。つまり「カトリック信仰と完全かつ根本的に相容れないものでありただ単に自然の秩序、即ち現実に反したこれらの思想」との和解を試みたのです。もちろん、それは和解の試みだったので、彼らはこれらの原理をそれ自体では主張しませんでした。彼らは超自然の秩序を否認はしませんが、それを弱めて自然の部類に入れてしまうのです。

 彼らは公教会を否認しませんでしたが、公教会を世界の奉仕に、そして地上に於ける天の御国を世界と人間中心主義的計画に、要するに依然として自然の秩序にある人類の一致と平和の奉仕者としてしまいました。例えば、そのようなものとして提示されているアシジやアシジⅢを御覧になって下さい。

 彼らはキリストを否みはしませんでしたが、キリストを人間の支配下に置きました。キリストは全ての人間と結合し、彼は人間を人間に啓示し、その恩寵を以って人間を完全な者とする、としました。これが彼らの教えです。

 彼らは天主に対して人間の完全な独立を主張したりはしませんが、客観的秩序を主観的秩序へと変えています。彼らによれば、確かに、客観的に言えば、ある神が存在し、真の宗教があり、真実がある、だから人間はそれを固守する道徳上の義務を持つことだろう、しかしいずれにせよ、何であろうとも、人間は自分の良心と自分の信じる真理に従う事を通して、それもとりわけ自分の自由を行使する事を通して救われる、何故なら、そこにこそ、人間が持つ侵す事の出来ない存在論的尊厳があるからだ、従来の意味に於ける自由(つまり善に於いて動く自由)ではなく、善と悪との間から選ぶという自由を行使することにこそ、人間は自らの完成と救いを見出す、と言うのです。

 彼らは人間の神性を宣言しませんでした、しかし、ペルソナ主義によって、共通善、それもありとあらゆる共通善を、個々の人間への奉仕のための道具とし、人類学的な逆転を行いました。そして最後に彼らは、普遍的で至上の天主なる共通善をつまり天主ご自身を---- 何故なら天主こそが至上の共通善ですから -----人間の奉仕のためのものとしてしまったのです。だからこそ、人間とは天主が<御自身の為ではなく>それ自身の為にお愛しになる唯一の被造物だと公会議は宣言しました。天主が<御自分の為ではなく>それ自身の為にお愛しになる、と!そして天主は、人間が天主に帰する栄光の内にではなく、人間の栄光の内に、つまり人間の賞賛の内にのみ御自分の栄光を見出すというのです。

 そうなると、私たちは自由主義者や人間中心主義者、そして革命論者たちと同じ目的を持つことになります。もう問題は無いことになります。私たちは皆、人間の栄光化を求める事で天主の栄光になることでしょうから。彼らの神もまた、人間の栄光により満足させられて完成されるのです。それ以外の何物でもないのです!

現代の悪を癒す為に「全てをキリストに於いて復興する事」

 以上が、この和解がどれほど不可能かということです。彼らはこの原理を適用し、それが持つあらゆる結論にまで至りました。ルフェーブル大司教様は私たちにこう言いました。彼らはキリストから王位を剥奪した、と。
 そうです、彼らは神権、天主の権利、つまり私たちの聖主の至上権と王権とを組織的に無視したのです。彼らは人権を擁護しています。それは人間の権利の宣言による、天主の権利の拒絶です。彼らは良心の自由や、思想の自由、罪を犯す自由、さらに宗教を実践する自由や信教の自由で、天主御自身とその権利に於いて私たちの聖主から王位を奪いました。実際に聖主は王位を剥奪されたのです。その上彼らは、キリストが王ならば、その教会は女王だからという理由から、エキュメニズムを通じて、聖主からその教会に於ける王位を奪う事もしたのです。最後に彼らは、司教団体主義と、究極的にはあらゆる権威の破壊を通じて、聖主からその代理者<教皇>や司教たちに於いて持つ王位を奪ってしまいました。

 以上が、公会議が和解を試みようと用いた思想です。さらに、もちろんですが、今や「和解の和解」が存在します。つまり(ベネディクト十六世の言う)「継続の解釈法」です。さらに聖ピオ十世会のような人々、或いは聖ピオ十世会に属していたけれどもはやそうではなくなった人々で、「和解の和解の和解」を試みている人々もいます。

 しかしそれは無駄な努力なのです。この計画は予め失敗する運命にあります。何故なら、bonum ex integra causa, malum ex quocumque defectu. 善は完全に良い完璧な原因に由来し、悪は何であれ原因に於ける何らかの欠陥に由来するからです。

 ただしここで私たちがお話しているのは根本的な欠陥の事です。何故なら、自由主義思想にある根本的要素は、完全かつ根本的にカトリック信仰に反しているからです。まさに彼らが和解する為に探し求めているものは、相反するものなのです。円を正方形にする事は出来ません。不可能です。想像さえ出来ないものです。それが常識というものです。永遠の都ローマと啓蒙の都パリへと同時に旅行する事は可能なものか、マルティニの方に聞いてみて下さい。(訳者注:マルティニは、スイスのエコンの隣の町でローマとパリとを結んだ直線上のほぼ中心に位置する。)この二つの目的地に至るのに同じ道を選ぶ事は出来ますか、と彼に聞いて見て下さい! スペインなら、それは一本のローソクを天主に、もう一本を悪魔に捧げる事と同じだと人々は言います。使徒聖パウロは程度の差こそあれ次の言葉で同じ事を言いました:「不信仰者と共に重荷を担うな」(コリ後6:14)。何しろ、正義と不正の中間にはどんな組織が存在し得ますか? あるいは光と闇の中間には、どんな和解があり得ますか? そして信仰者と不信仰者の間に? 天主の神殿と偶像の神殿の間にはどうですか? そこで聖パウロは言います。天主の神殿とは公教会であると。となれば、そこにはどんな和解が存在しえますか? 何もありません。

 確かにルフェーブル大司教様はこの悪を正確に指摘されましたが、彼は正確かつ鋭い見識でその解決策を指し示しても下さいました。彼はこの解決策を指摘した。つまりそれは私たちの聖主イエズス・キリストです。もっと正確には、大司祭なるキリストと王たるキリストなのです。司祭職と私たちの聖主イエズス・キリストを除くなら、個人であれ社会であれ、決して救い、贖いは存在し得ません。何故なら、彼はその司祭職と王権の両方を以って御自分の使命を成し遂げるからです。「置かれている土台、即ちイエズス・キリスト以外のものを誰も土台に置く事は出来ない。」と聖パウロは言明します(コリ後3:11)。さらに聖ペトロは、同じやり方で、家造りに捨てられた石が隅の親石となったと話しています。他の陣営には、つまり私たちの聖主イエズス・キリスト以外の人物の内には一切の救いはないからであります。さらにこの世には、私たちの聖主イエズス・キリストの御名の他に、人々が救われ得る他のの名前など一つとしてないのです。(使4:11-12参照)

 エフェゾ人への手紙に於いて、私たちの希望の堅固な礎を聖パウロが作ろうとした時、彼は私たちの聖主を死から蘇らせ、彼を御自分の右側に座らせ、おのおのの権天使、能天使、主天使、座天使を、さらにはこの世と来世に於いて任命され得るもの全てをも同様に御自分の権威下に就かせる事により、御父なる天主が如何に御自分の権威と権勢という力を誇示されたかについて私たちに思い起こさせています。天主はこの世と来世のあらゆるものを御自分に服従させるのです。天主は何一つ御自分の帝国、そして御自分の王権の外に置き去りにしなかったので、oportet illum regnare、つまりキリストは君臨すべきです(コリ前15:25)。ここに於いて、私たちは司祭の、そして司祭職の理想を見出します。即ち、私たちの聖主イエズス・キリストにあらゆるものの基礎を据えて、キリストの内に全てを確立し、全てを復興するだけではなく、私たちの聖主イエズス・キリストに全てを結びつけ、全てを要約し、また彼に向かって全てを配置するという事なのです。

 すべてあなたたちのものである。しかしあなたたちはキリストのものであって、キリストは天主のものである。(コリ前3:23)これが永遠から存在する天主の御計画なのです。それは全てをキリストに於いて復興し、結びつけるという事です。また、彼の司祭職と王権を除くなら、人の生涯は目覚めることのあり得ない悪夢となるのです。私たちには自分たちの生活する社会にいてそれがはっきりと見えますし、そこには真理も聖徳も、そして悲しいかな、救いも贖いも正義も存在しません。今申し上げた事全ては、私たちの聖主を通して、その司祭職を通して、その王権を通して私たちのところにやって来ます:「私は道、真理、命である」(ヨ14:6)。

 従いまして、親愛なる司祭の皆さん、親愛なる叙階候補者の皆さん、司祭の生涯とは、厳密に言ってあらゆる人を、真理であらせられる私たちの聖主イエズス・キリストに、またあらゆる意志を命であらせられる私たちの聖主イエズス・キリストに、そして私たちの聖主イエズス・キリストという唯一の救いの道をあらゆる人々に提供する事なのです。

何故ローマに行くのか?

 もし事態がこのようなものであれば、ある人は私にこう言うかもしれません。では何故これらの方々と接触するのか、そして何故ローマに行くのか? と。 原理として誰も彼らとの接触を一切すべきではないと思われる、と。

 よろしいですか、しかしそれは全く反対です。つまり原理として、私たちは接触すべきですし、ローマにも行くべきなのです。それから、言うまでもなく賢明<の徳>は状況を判断すると共に、ある特定の場合に於いて実際に何を行うべきか決定してくれるでしょう。ただ私たちが原理としてそこに行くべきだというのは、何よりも先ず私たちがカトリックで使徒的、そしてローマ的だからです。次に、ローマがカトリック教会の頭にして中心であるならば、この危機は必ずローマにおいて、そしてローマによってこそ、その解決策を見出すだろうし、危機が解決されるだろうと私たちは考えるからです。結果として私たちがローマで行う僅かながらの善は、私たちがどこか他の所で行う多くの善よりも大きいからです。

 一方、caritas Christi urget nos、即ち、キリストの愛は私たちを締め付けるのです(コリ後5:14)。あなた方は、誰でも過ちの内に生活している場合に、この過ちを放棄する事が如何に難しいかを理解しなければなりません。自然の秩序に於ける一連の執着全てを、またそれに充てられた全生涯を、そして当局による認可の紋章が付いた全ての教えとそれによる様々な影響力から離れるのに必要な光と力を受ける事はとても難しいのです。それは簡単な事ではないという事を認め、彼らに対する憐れみを持とうではありませんか。何故なら、結局のところ、彼らはただ単に私たちが無償で受けたものを必要としているからなのです。それは光と恩寵です。何故なら、私たちは受けなかったものを何かを持っているでしょうか?(コリ前4:7)。そうです! 彼らには、天主の御憐れみと寛大さによって私たちが頂いた恩寵が彼らにただただ必要なのです。愛によってそうすることが私たちの責務となります。

 猛烈に、かつ原理として、近代主義者たちとの一連の接触に反対する人々は福音の一節を私に思い起こさせてくれます。かつて私たちの聖主がある町に於いて歓迎を受けなかった時、‐雷(いかずち)の子らと呼ばれた‐ヤコブとヨハネは、もしお望みならば、あの町を破壊する為に天から火を降らせましょうと彼に申し出ました。すると聖主は‐御自分の問題を解決する上でまるで彼らを必要としているかのように!‐この使徒たちの酷いものではありながらも無邪気な思い上がりを大目に見ると、「自分たちがどんな精神を持っているかを貴方たちは分かっていない」(ル9:51-56)とお答えになりました。そうです、彼らは人々の心に愛徳を注ぐ聖霊を受けていなかったので、自分たちが果たしてどんな精神を持っているのかを知らなかったという訳です。彼らは苦い奮発心に陥ってしまいました。

「私たちは愛を信じた」

 ではこの<聖霊がお注ぎになる>精神とは一体何ですか? それは私たちの聖主イエズス・キリストの精神なのです。そんなに難しい事ではありませんが、私たちの聖主が御自分の敵である相手方と如何に対峙したかに注目する事が必要となります。聖ヨハネと聖パウロの両者は教えてくれます。これによって、実に私たちは、御父が私たちを愛し、また私たちが罪人であった時、さらに私たちが彼の敵であった時に、キリストがそんな私たちの為に御自分の命をお捧げになられたという事を、つまり天主の愛を知りました。天主の愛がどこよりも表明されるところとはそこでであって、私たちはこの愛を信じたのです。ですから、私たちも同じ事をしなければならないのです(ヨ4:9-16とエ2章)。

 如何にして天主の愛は表されましたか? 戦争や排斥、断罪を通して、さもなければ天から火を降らせる事を通してですか? とんでもない!この愛の業は、謙遜を通して、屈辱を通して、従順、忍耐、御受難、死、それどころか御自分の敵を十字架上で赦す事を通して成し遂げられました。その全生涯に亘り、私たちの聖主はファリサイ人たちに真理を認めさせると共に、彼らに救いと赦しを提供する為にありとあらゆる可能性と手段を御利用になったのです。この模範こそが、全く単純に、私たちの従わなければならないものなのです。

 教義的堅固さというものが、どれだけ柔軟さや巧妙さ、さらに愛の衝撃性にさえも反しているのか私は知りません。分かりません。何故に教義上の頑固さが憐れみの情に反するのか、さらに愛徳である宣教師的であって使徒的な熱意に反するのか私には分かりません。信仰と愛のどちらかを選ぶのではありません、その両方を抱擁しなければなりません。更に申し上げるなら、例え私が山をも動かせる信仰を持っていたとしても、愛がなければ私は無なのです。もし私に愛がなければ、私は無です。仮に私が貧しい人々の為にと自分の命を捧げても、愛がなければ私は無なのです。(コリ前13:3参照)

 コリント人への第一の手紙に(13章参照)聖パウロが書き記した愛を讃える賛歌をお読みになり、私たちの聖主の生涯にそれを当てはめて下さい。そうすれば皆さんは間違いなくカトリック精神が何であるかを理解する事でしょう。愛は忍耐深く、愛は親切で、嫉まず、愛は利己主義ではなく、恨みを抱かず、悪に対して善を返し、愛は全てを赦し、全てを信じ、全てを希望し、全てを辛抱します。それこそが、信仰の復興に於いて、またキリストに於ける全ての復興に於いて本当に私たちが協力出来る方法なのです。さらにもしキリスト、司祭職及びキリストの王権がその救済策であるならば、この救済策は必然的に私たちの御母、聖なる童貞マリアの御心を通過します。

 私たちの聖主は、童貞マリアの、そしてマリアの御心の実でありましたし、彼だけが永遠にそうあり続けるでしょう。彼女はキリストの御母であり、天主の御母であり、全人類の御母であり、人類の共贖者であって、全ての恵みの仲介者なのです。彼女こそがあらゆる恩寵を分配しお授けになります。実に彼女は全被造物の元后、即ち天地の元后なのです。聖ベルナルドが言うように、童貞マリアを通してこそ私たちは一切のものを頂いているのですから、熱烈さ、信心、そして必要な恩寵を獲得する為に、熱情と信心、そして粘り強さを持ってマリアの御心へと向かわなければなりませんが、何よりも先ず、信仰と希望と愛に於いて強靭な人生を得るよう努めなければならないのです。何故なら私たちは力強く愛さなければならないからです。従いまして、適当な時に必要な支援を得る為、また最後の決算に於いて真のキリスト教徒かつ私たちの聖主の真の司祭である為、忠実かつ頻繁に、真の内的信心を通して、マリアの御心へと、つまりあの恩寵の玉座へと向かいましょう。アーメン。




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