アヴェ・マリア!
愛する兄弟姉妹の皆様、
300名ほどのオーストリアのカトリック司祭たちは、オープンに教義や規律を拒否し、三位一体の主日(2011年6月19日)に「不従順への呼びかけ」(AUFRUF ZUM UNGEHORSAM)というウェブ・サイトを開始しました。それについて、聖ピオ十世会のアメリカ管区のウェブ・サイトが記事を載せており、それを日本語に訳して下さった方がおられるので、感謝しつつ日本語訳を紹介します。
このように助けて下さる愛する兄弟姉妹の皆様のおかげで大変に助かっております。ありがとうございます。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
オーストリアにおける離教の軌跡
オーストリアにおいて、4200人いる司祭のうち、300名を超える司祭が「不従順の宣言」に賛同し、6月に発起人を送り出すことを宣言しました。その文書を引用します。「ローマにおける遅すぎる教会改革と司教の怠惰について」これを支持する司祭らは、次のようなことを含む宣言文を支持しています。
・言論の自由を基礎とした、すべての典礼における教会の改革がなされるように祈ること
・聖体拝領を「善意を信じる人」にも提供すること。これには、カトリックではないキリスト教徒や、教会外で再婚した人が含まれる。
・「聖体の配布がある言葉の典礼」を、「司祭なしの聖体祭儀」と呼ぶこと。このようにして、私たちは司祭不足の時の主日の義務を果たす。
・説教をするのは聖職者だけに制限する教会法上の規定を「無視」すること
・司祭のいない小教区では、「男女を問わず」個人のリーダーたちを促進すること
・「既婚者がそして女性が司祭職に着くことが出来るように、オープンに賛成の意思を表明する機会を使う」こと
「この不従順の宣言は、私にとってショックでした」と、ウイーンのクリストフ・シェンボーン枢機卿は7月7日付の手紙に書きました。その手紙の中で、多くの専門職に就いている職員が不従順を宣言したら「とっくの昔に職を失っていたでしょう」。枢機卿は、司祭が叙階の時に司教に自由意思で従順を約束しましたことを思い出させて、司教様はこう問うたのです。「あなたを信頼して大丈夫ですね?」
本当に良心に従って階級制度に不従順しなければならないと信じている人々は、その結果として「ローマ・カトリック教会と一致して道を旅することはできない・・従順の原理を投げ出した人は一致を壊している。」枢機卿は「司祭なしの聖体祭儀」などその「非論理」を指摘しています。
このニュースについての私たち聖ピオ十世会アメリカ管区のコメントです。ヨーロッパで起きていること、オーストリアとオランダの状況は私たちを脅かすものです。しかし、アメリカでも既に似たようなことが起きています。例えば、ウィスコンシン州グリーンベイの司教は、最近、ある活動的な修道女を、小教区の管理者かつ典礼指導者かつ、特別聖体奉仕者などに指名しました。そして、司祭不足のため、このシスターは2つの小教区を担当することになりました。司祭たちは、他の秘跡が提供されているか確かめに、その教区に時々行くだけになりました。これは、普通のカトリックの小教区の生活の様相を一変させるかもしれない前例を作りつつあります。さて、この任命には、ローマの了解があったのでしょうか、少なくとも、アメリカ・カトリック司教協議会の了解があったのでしょうか?
私たちは、あからさまな攻撃を受けている司祭の独身性について、教会の階級制度について、使徒継承の唯一の原理について、対処を迫られています。言うまでもないことですが、私たちは近代主義の傾向という毒素が、教会のいわば血管にゆっくりと注射されていることを気づかされています。今、私たちはこういった革命的な過程の結果について急に証人になっていることに気付かされます。
これは、ド・リュバック de Lubac がその追憶『Mémoire sur l’occasion de mes écrits』において、不平を漏らしていたこととよく似ています。スクレーベクスやラーナーなどの急進派が世俗化と霊的砂漠化の推進者として「平行公会議(パラ公会議)-- オリンピックに平行するような形で開かれるパラ・オリンピックのように、正式な公会議とは別に準備された「公会議」のこと--」を創り上げていたことに言及してド・リュバックは抗議をしているのです。ド・リュバックとベネディクト十六世の言わんとしているメッセージは明らかです。「昔には戻らない、ただし、本当の公会議はまだ受け入れられていないのでその業を危険にさらしている進歩主義者たちから教会を守る必要がある」と。
この響きは、デジャブ(既視体験)に似ています。風の強い日に種をまいた人は、今になって、差し迫った嵐に文句を言っています。前衛的な司祭のやりたい放題とは、つまり、第二バチカン公会議があれほど強制的に促進したまさに自由の精神から導き出される論理的結論にほかなりません。
注:
*1 Henri de Lubac, Ed. Culture et verite, Namur 1989, p. 346-347.
愛する兄弟姉妹の皆様、
300名ほどのオーストリアのカトリック司祭たちは、オープンに教義や規律を拒否し、三位一体の主日(2011年6月19日)に「不従順への呼びかけ」(AUFRUF ZUM UNGEHORSAM)というウェブ・サイトを開始しました。それについて、聖ピオ十世会のアメリカ管区のウェブ・サイトが記事を載せており、それを日本語に訳して下さった方がおられるので、感謝しつつ日本語訳を紹介します。
このように助けて下さる愛する兄弟姉妹の皆様のおかげで大変に助かっております。ありがとうございます。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
オーストリアにおいて、4200人いる司祭のうち、300名を超える司祭が「不従順の宣言」に賛同し、6月に発起人を送り出すことを宣言しました。その文書を引用します。「ローマにおける遅すぎる教会改革と司教の怠惰について」これを支持する司祭らは、次のようなことを含む宣言文を支持しています。
・言論の自由を基礎とした、すべての典礼における教会の改革がなされるように祈ること
・聖体拝領を「善意を信じる人」にも提供すること。これには、カトリックではないキリスト教徒や、教会外で再婚した人が含まれる。
・「聖体の配布がある言葉の典礼」を、「司祭なしの聖体祭儀」と呼ぶこと。このようにして、私たちは司祭不足の時の主日の義務を果たす。
・説教をするのは聖職者だけに制限する教会法上の規定を「無視」すること
・司祭のいない小教区では、「男女を問わず」個人のリーダーたちを促進すること
・「既婚者がそして女性が司祭職に着くことが出来るように、オープンに賛成の意思を表明する機会を使う」こと
「この不従順の宣言は、私にとってショックでした」と、ウイーンのクリストフ・シェンボーン枢機卿は7月7日付の手紙に書きました。その手紙の中で、多くの専門職に就いている職員が不従順を宣言したら「とっくの昔に職を失っていたでしょう」。枢機卿は、司祭が叙階の時に司教に自由意思で従順を約束しましたことを思い出させて、司教様はこう問うたのです。「あなたを信頼して大丈夫ですね?」
本当に良心に従って階級制度に不従順しなければならないと信じている人々は、その結果として「ローマ・カトリック教会と一致して道を旅することはできない・・従順の原理を投げ出した人は一致を壊している。」枢機卿は「司祭なしの聖体祭儀」などその「非論理」を指摘しています。
このニュースについての私たち聖ピオ十世会アメリカ管区のコメントです。ヨーロッパで起きていること、オーストリアとオランダの状況は私たちを脅かすものです。しかし、アメリカでも既に似たようなことが起きています。例えば、ウィスコンシン州グリーンベイの司教は、最近、ある活動的な修道女を、小教区の管理者かつ典礼指導者かつ、特別聖体奉仕者などに指名しました。そして、司祭不足のため、このシスターは2つの小教区を担当することになりました。司祭たちは、他の秘跡が提供されているか確かめに、その教区に時々行くだけになりました。これは、普通のカトリックの小教区の生活の様相を一変させるかもしれない前例を作りつつあります。さて、この任命には、ローマの了解があったのでしょうか、少なくとも、アメリカ・カトリック司教協議会の了解があったのでしょうか?
私たちは、あからさまな攻撃を受けている司祭の独身性について、教会の階級制度について、使徒継承の唯一の原理について、対処を迫られています。言うまでもないことですが、私たちは近代主義の傾向という毒素が、教会のいわば血管にゆっくりと注射されていることを気づかされています。今、私たちはこういった革命的な過程の結果について急に証人になっていることに気付かされます。
これは、ド・リュバック de Lubac がその追憶『Mémoire sur l’occasion de mes écrits』において、不平を漏らしていたこととよく似ています。スクレーベクスやラーナーなどの急進派が世俗化と霊的砂漠化の推進者として「平行公会議(パラ公会議)-- オリンピックに平行するような形で開かれるパラ・オリンピックのように、正式な公会議とは別に準備された「公会議」のこと--」を創り上げていたことに言及してド・リュバックは抗議をしているのです。ド・リュバックとベネディクト十六世の言わんとしているメッセージは明らかです。「昔には戻らない、ただし、本当の公会議はまだ受け入れられていないのでその業を危険にさらしている進歩主義者たちから教会を守る必要がある」と。
この響きは、デジャブ(既視体験)に似ています。風の強い日に種をまいた人は、今になって、差し迫った嵐に文句を言っています。前衛的な司祭のやりたい放題とは、つまり、第二バチカン公会議があれほど強制的に促進したまさに自由の精神から導き出される論理的結論にほかなりません。
注:
*1 Henri de Lubac, Ed. Culture et verite, Namur 1989, p. 346-347.
http://hiwihhi.com/cjcpress/status/92887971228954624
http://blog.livedoor.jp/skjweekly/archives/51279827.html