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ローズ胡美玉 著 『楽は苦に在り』 第二十七章 あらゆる涙は幼きイエズズ様への捧げもの

2011年11月11日 | カトリックとは
第二十七章 あらゆる涙は幼きイエズズ様への捧げもの

 クリスマスが近づくと、最も物質主義的な国であるアメリカでは、無数のカラフルな明かりが殆どの家の正面に掛かります。至る所で、いろいろな種類のクリスマスツリーと、とても多くの飾りが見られます。人々は日夜買い物するのに忙しいです。ユダヤ人を怒らせるのを避けるためか、私たちはクリスマスカードの上に「ハッピー・ホリディズ」とか、「シーズンズ・グリーティング」を見るばかりです。悪魔は懸命に働きかけています。彼らは私たちの救い主を、特に御降誕の日に、この世界から追い立てています。何と悲しいことでしょう!

 平和で静かな夜、私は自分の守護の天使に、私と共に歩んで時間と場所を超え、1960年代前半の地球のもう一方の端に私を連れ戻すように頼みました。そこは白湖農場でした。その時、あちらのクリスマスはどうでしたでしょう?

 すべてが完全にひっくり返された年の1961年のことでした。悪魔は猛然と働いていました。中国では、誰もクリスマスを祝うことができませんでした。誰かが、お互いにクリスマスキャロルを歌ったり、何かの飾りを持っていたり、または「メリークリスマス」と言ったならば、確実に政府から処罰を受けました。なぜなら彼らは法律に反すること行ったからであると、政府は言いました。労働改造所におけるものすごくストレスの多い状況の下では、私たちの大部分は、あえて飼葉桶の幼きイエズス様をほとんど夢にも見ないものです。もし、私たちがそうするならば、それは共産主義者である看守に報告する機会を他人に与えるでしょう。そして、私たちはおそらく批判されるか、自分たちの何年もの投獄を長引かさせたでしょう。

 実は、私たちの部隊には、十数人のカトリック教徒の女性がいました。私たちは、クリスマスが近づいており、自分たちの心に馬屋を建てるのにより多くの苦行とお祈りが必要なのを思い出させるために、お互いにささやきました。私は、何の苦行をするべきでだろうかと考えたままでした。私は本当に全く分かりませんでした。天主様は、既に私のために、特別な事を御計らいになっておられました。

 矯正官が私を事務室に呼んだとき、日付は1961年12月23日の正午でした。彼は手に既に開封された手紙を持っていました(私たちの手紙は、受け取る前にすべてチェックされなければなりませんでした)。そして、厳かに言いました。「ここにあなたの家族からの手紙がある。それを読んだ後、あなたは確実に次のことを守ること。一つ、泣いたり感情的な行動をしてはならない。二つ、時間通りに作業に出て、作業を止めるようなことをしてはならない」私は答えました。「時間通りに作業に出ると約束します。ですが、何が私の家族に起こったか知りませんので、泣くかどうか分かりません」私は答えてから、小屋に急ぎました。

 皆は食事をしていました。「私たちは私の綿の上着で食事を包みましたから、まず昼食をとってください」とテレサは私に言いました。私は、家族から手紙をめったに受け取りませんでした。役員は今日、私の家族に関して何かを暗示しました。私の家族の誰かが重病であるか、または死んでいるかもしれません。待降節であるとわかったとき、苦行をしなければならないのを知っていましたが、私は人間の本性において、すぐに手紙を読もうという精神的な争いをしました。天主様は、私たちが最も犠牲にしたくはないものを諦めるよう、私たちにお求めになられます。それは、私が天主様へお捧げものをするのに相応しい時でした。本当に昼食はわずかでした。食べ終えるのに、ほんの2、3分しかかかりませんでした。

 正直にいいますと、私は姪によって書かれた手紙を読むのを待つことができませんでした。私は彼女が書いた優美な字体を認めました。

「親愛なる叔母へ 私は長い間、あなたから連絡をいただいていません。今、私は悪い知らせをあなたに書きます。最初、私はあなたに知らせたくはありませんでした。でも、私は長いこと事実を隠すことは出来ないので、あなたに知らせるほうがよいと思いました。祖母は1958年12月22日、香港で亡くなりました。その臨終は安らかでした。叔父は、祖母はあなたが懲役15年の判決で、二番目の叔母が懲役7年の判決という消息を知ってから、ずっと寝たきりだったと語りました。医師は祖母が肝臓癌にかかっていたと診断しました。そして、3カ月後に亡くなりました。祖母の死のことで、そんなに悲しまないで下さい。人は死んだら生き返らないのですから。お体を大切に」

 この手紙を読むにつれ、涙が私の頬を流れました。どうして、1955年9月8日という自分たちのカトリックの信仰のために、共に逮捕された1日を忘れることが出来るでしょう? それは、私たちがイエズス様に従うことを選んだからでした。その時、母は洗礼を授かってはいませんでした。カトリックでない母が、2人の娘が逮捕されたのを知りながら、その大きな苦しみに耐えるために、どれほどの信頼が必要とされるでしょう? 母は断腸の思いだったに違いありません。そして彼女の目は、私たちが家に帰るのを心配しながら、ずっと見つめ続けました。私はよく、霊魂を救う唯一の方法は、迫害の間にカルワリオまで十字架を背負うことであると思っていました。しかし、私たちの両親にとって、自分自身の子供が苦しんで成す術がないのを見るよりもつらいことはありませんでした。

 母は亡くなりました。私には、母の病床で世話をする機会がありませんでした。それは私の悔むところです。ですが、天主様は他の誰よりも天主様を愛することをお求めになりました。諦めることは時には得ることです。私は良い娘になりたかったのですが、天主様と私の両親の間では、私は自分の両親の上に天主様を選びました。私には創造者における完全な信頼がありました。天主様の寛大さは常に私のよりも大きく、遅かれ早かれ確実に母に報いて下さいます。しかし、私は自分の弱い本性を抑える術がありませんでした。自分が既に親無しとなったのを知ったとき、私は泣き出しました。「おまえは今すぐ、作業に出なければならない」正面に立っている矯正官が、大声で言いました。突然、入り混じった感情が押し寄せてきて、この労働改造所では泣く自由すらないことに気が付きました。私は涙を拭いて、幼きイエズス様にこう語りました。「私はあらゆる涙をあなたにお捧げします。母はあなたと共にいます。母はこれ以上、私の心配を必要とはしません」

 私は母のことで、天主様に希望を置き続けました。1974年に私が上海を訪問した時、兄は母が死の1カ月前にハンガリー人のラダニー神父様から洗礼を授かったと私に語りました。また母は、堅信、御聖体そして臨終の秘蹟等も授かりました。デオ・グラチアス!

 何年も後、私は一度、クラスメートのヴェロニカに会ったのを覚えています。私たち二人は同時に洗礼を受けました。 次に、私はレジオ・マリエの会長になりました。彼女は副会長でした。私たちは同じ夜に逮捕されました。彼女はほんの二週間後に、自分自身を裏切ってしまいました。約30年間後、私たちは再会しました。彼女は、逮捕後に彼女の老いた母親が彼女を心配する必要がないように、共産党政府が求めることを全てしたと私に語りました。彼女は数カ月後に釈放され、彼女の母親は数年後に死にました。「あなたの母は、亡くなる前に洗礼を授かりましたか?」私は尋ねました。彼女の答えは非常に短いものでした。「どうしてそんなことがありえるでしょう?」ええ、彼女は自分の母親のために、自分のカトリック信仰を否定したのをとても明確に知っていました。たぶん、彼女は母親を愛していたつもりでしたでしょうが、結果は全く正反対でした。共産主義者の前で否定したために、少しずつ彼女は信仰を無くしていきました。母親が死にかけていた時、彼女は共にいましたが、母親の霊魂の救済について考えませんでした。これは非常に良い教訓を私に与えました。何よりも天主様を愛しているとき、私たちは思い残すことは何もありません。天主様が私に与えて下さった全てに感謝!



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