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ローズ・フーさんの「楽在苦中」 第3章 宝物を見つける

2011年09月01日 | カトリック・ニュースなど
第3章 宝物を見つける

 チェスをする時、チェスの駒を移動するたびにそれはゲーム全体に影響を及ぼし、勝ったり負けたりします。私たちの人生もそのようなものです。天主様は常に私たち見守って下さいます。私たちの日常生活では、何も偶然から生ずることはありません。天主様の摂理は私たちを完全にします。ただ一つ必要なのは、私たち人間は天主様に協力しなければならないということです。

 中国の共産主義者が中国を支配しようとしていた時、私が学んだ学校は真実を知るための手段を提供しました。空はとても暗く、嵐が近づいているようでした。カトリック教会は非常に深刻な迫害に直面しなければなりませんでした。当時、海外から上海に来ている何人かの神父様がいました。ヨセフ沈士賢神父様、マタイ陳哲敏神父様、そしてエダン・マグラス神父様です。

 沈神父様は彼等の中では最年少で、僅か33歳でした。彼は自分の招命に従って、18歳で家を出ました。それから彼は、アイルランド、イギリス、そしてイタリアの神学校で学びました。遂に彼は神学、哲学、政治学と3つの博士号を取得しました。彼は深遠で幅広い知識だけでなく、優れた知性をも持っていました。若かったにもかかわらず、彼は世界中で有名でした。私が最も驚いたのは、彼がローマの世界的に有名な大学から教授として迎えようという誘いを辞退したということでした。彼は中国に戻ることを決断したのです。私が初めて彼を見たとき、私はまだカトリック教徒ではありませんでした。私は、彼のユーモアのセンスと感じの良い人柄を好みました。私たちはよく神父様に、私たちが関心の無かった公教要理についてはあまり話さないようにと頼んだものでした。私たちはハリウッド映画や旅行が好きだったのです。

 神父様は私たちを導くのに特別な方法を持っていました。私たちが映画が好きであるのを知っていたので、私たちの学校のために映画「ベルナデッタの歌」を借りて、それを二度見たいかどうか聞きました。そして、誰かに映画をもう一度見せるように頼みました。神父様は時々ケーキ屋で私たちに御馳走しました。私は常に、最も高価なケーキかアイスクリームを注文しました。私は故意にそうして、「何につけても、私は最高のものが好きです」と言いました。神父様は、「日常生活の中で最高の物を選択するのは良いことです。後にあなたが聖書を読んだら、確実にマグダラのマリアを模倣するでしょう。常に天主様を喜ばせるために、最善の方法を選択するように」と躊躇することなく答えました。何と沈神父様は賢明だったのでしょう。彼は天主様に私たちを導くために、あらゆる方法を用いました。私は自分の生涯で、彼の言葉を心に留めています。

 一度、私は物理学のテストで高得点を取れずにとても落ち込み、自分の点が何人かのクラスメートよりも低いのは恥ずかしいと考えました。沈神父様は、私が何らかのことでうれしくなかったことを察し、私と個人的な会話をしました。私は正直に、自分の目標は最高点を取ることで、そうでなければテストで零点を取ったのも同然だと彼に言いました。否定的な言葉を使わずに肯定的な方法で私を導いた神父様は、実に心理学者でした。彼は、「私たちの主は、熱くなく冷たくも無い人は好きではありません。あなたは非常に強い性格を持っています。自分自身を制御することができるのは、あなただけです。いつかあなたは、とりわけ迫害の間には、ひとかどの人物になれるでしょう。私たちは信仰に於いて強くなければなりません。幼きイエズスの聖テレジアは、生涯で多くのことを為さなかったかのように見えますが、彼女は毎日100%の愛で天主様を愛しました」。私はこれらの言葉の奥義があまりよく分かりませんでしたが、この心の柔和な神父様により確信を得ました。その時点で、私はカトリックになることを希望したのです。

 1948年のある日の午後、私は要理の教室に入ろうとした時、沈神父様は、すでに教義に関する授業を始めていました。黒板にいくつかの言葉があり、「私たち一人一人には、天上の母親がいます」という言葉は私を魅了したので、すぐに席を探して腰を下ろしました。神父様は続けて言いました。「私たちにより明確に祝福された私たちの御母を知らしめるために、天主様は一人一人に地上の母親をお与えになりました。子供に対する母親の愛は、常に純粋で真実で、無私なものです。私たちのカトリック教会には、非常に優れた母親である童貞聖母マリア様がおられます」。それから神父様は、危険な時に聖母が彼を保護した方法を示すために、私達に彼自身の物語を話しました。一度、彼はイタリアからアイルランドへの飛行機に乗りました。天候はひどいものでした。視界は非常に悪く、最終的に飛行機は事故に遭いました。神父様は、幼子イエズスの聖テレジアの聖遺物を身に着け、しっかりと彼のロザリオを握りしめていました。神父様はとても熱心に聖母に祈りました。実際、彼は母親が彼が司祭に叙階されて中国に戻ってくることを期待した以外には、その瞬間に亡くなったとしても、後悔することは何もないと思っていました。飛行機は海に落ち、多くは亡くなったり、負傷したりしましたが、奇跡的に神父様は無事でした。

 その日以来、私は聖母マリアへの祈りを始めました。約一ヶ月後、私はカトリックの教えを受け入れて真実を守ろうと決心しました。

 1948年の終わりに、共産党の軍隊は揚子江を渡ることを計画していました。南京と上海は、彼らの次の目標でした。私は、間も無く重大な試練が来ることを知っていました。カトリック教会と共産主義の間には決して妥協というものはありません。沈神父様はどのような状況に陥るかをかなりよく知っていましたが、穏やかさと確信を以て危機に臨みました。彼は私たちが20世紀にいることを指摘し続けました。私たちの敵が私たちを迫害する方法は、古代ローマのそれとは全く違ったものになります。コロシアムや十字架への磔はないでしょう。彼らは、信仰のためにすぐに死なせようとはしません。彼らは虚偽と真実の混ぜ合せや人を操つる戦術を用い、長時間惑わせます。彼らは飴と鞭を両手に持っています。彼らの戦術は、まるで有毒ガスのようです。人々は、最初は自分たちがガスに覆われていることに気が付きません。次第に彼らは目がくらむのを感じます。いったん、彼らは何が起こっているか気が付いても、もう遅すぎます。彼らに窓やドアを開く力はもはやありません。共産主義者が行う最悪な行為は、私たちを分裂させるために、私たちの教会の弱い人々に付け込むことです。不一致の種をまくために、人々が自分たちの間で互いに信用しないように仕向けます。私たちの敵は、通常は親切さを装い、甘い言葉を用いて、「私たちは、あなたの宗教を放棄することを強制しませんが、彼ら帝国主義者を憎まなければなりません。あなたは彼らを非難し、彼らの犯罪を暴露しなければなりません」等と語ります。信仰が弱い傾向にある人々は、それが原因となって他の人を裏切り、彼らが逮捕されるようにします。共産主義者は、これらの行為を「愛国愛教」であると美化しました。

 洗礼の前に、私が逮捕されたとしても、信仰のために苦しむために準備ができているかと沈神父様が非常に真剣に尋ねたことを、はっきりと覚えています。彼は尋ねました。「なぜ、あなたはこの重大な時期にカトリックになるのですか。あなたは災いを求めています。信仰のために血を流す準備ができていますか?」私は簡潔にしっかりと答えました。「私は天主様を知って以来、どんな状況の下でも否定しません。もし、信仰のために死ぬことがあるのならば、私はそれを厭わないでしょう。私たちのカトリック教会はなんと素晴らしいことでしょう! 神父様、あなたはビング・クロスビーの歌「ゴーイング・マイウェイ」をよく歌います。私はきっとあなたに従います」神父様は、さらにもう一つ、私が迫害者たちを許しますかと私に尋ねました。彼に対する私の答えは「いいえ」でした。私は異教徒の家庭に生まれました。私が小さい頃、誰かが意図的ではなくても私の本を台無しにした場合、お返しにその人の練習帳に落書きをしていました。今、教会は敵を愛するように私に求めます。私は勇気と不屈の精神を持っていませんでしたが、いつかは神父様自身が敵への愛を示した場合、私は必ず彼を模範にすると確信していました。

 1949年4月16日、9人のクラスメートと私たちは、中国上海の聖心修道院でヨセフ沈神父様により、洗礼を受けました。神父様は私たち一人一人に絹製の非常に神聖なカードを記念品として下さいました。白い帆が付いている小舟が描かれ、帆には赤い十字架がありました。神父様は、私たちが向う岸へ進んでいる聖ペトロの小舟の上に座っていると説明しました。どんなに風が強くとも、またはどんなに大雨が降ろうとも、私たちはこの小舟の上では安全です。

 1950年に神父様が心臓病のため、上海の病院に入院しました。妹と私は彼を訪問しに行きました。それは、私たちが彼を見た最後でした。彼の話から、天主様が非常に早く彼をお呼びになることを知っているのが窺えました。彼は中国での宣教活動で働くという美しい夢を持っていましたが、さらに殉教者として死ぬことを願っていました。最後に、彼はどんな状況の下にあっても、いつも私たちのために祈ると約束されました。

 1953年に、私は香港の兄から手紙を受け取りました。それには、ジャン・ビヨーという名前のフランス人司祭が、神父様の殉教に関する記事を書いていたと記されていました。このようにして、私は沈神父様の死を知ったのです。

 ジャン・ビヨー神父様とは誰でしょう?彼は長年にわたり、中国は上海の孤児院で働いていたイエズス会士でした。彼は中国の共産主義者に逮捕されて約2年間投獄され、1953年に強制送還された最初の司祭でした。彼が香港の空港に到着したとき、彼はぼろを纏い、使い古した靴を片方しか履いていませんでした。入国管理官の一人は、彼が作成することのできなかった彼のビザを見せるよう彼に尋ねました。彼らは彼が香港に入ることを拒否しました。彼は自分が司祭であることを説明し続けました。遂に彼らは彼が香港のイエズス会の事務局に電話をかけることを許可しました。皆が驚いたことに、15分以内に多くの教会は大きな音で鐘を鳴らしました。これは、ビヨー神父様を歓迎する方法でした。すぐに何人かのイエズス会士は、ビヨー神父様に会いに、新しい服と靴を持参して、空港にやって来ました。

 神父様の記事によれば、彼が上海の刑務所の病院で病気だったとき、死の間際の司祭ヨセフ沈士賢神父様に会いました。彼に臨終の秘跡を施すために、沈神父様のベッドに努力して近づきました。彼は非常に穏やかで平安に満ちていました。彼の最後の言葉は、彼は誰も批判せず、誰かを傷つけるための何の情報も与えなかったということでした。彼は迫害者全員を許しました。それから彼は、十字架の印として両腕を開き、「私たちは6人です。皆、キリストの殉教者です」と言いました。(彼ら6人の司祭の中には、上海の天主教中央局で一緒に居住していたマタイ陳哲敏神父様と候之正神父様が含まれていました。彼らは全員逮捕され、全員が刑務所で亡くなりました。)

 沈神父様が言ったことは、本気でした。今度は私が彼を最高の模範とし、人生の最後の瞬間まで彼の足跡を辿る番です。


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