Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

ドン・ショタール著「使徒職の秘訣」第二部 活動的生活と内的生活を一致結合させる 三、使徒的事業は、その土台も目的も手段もみな、内的生活に深く浸透していなければならぬ

2018年02月03日 | カトリックとは
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

今日は初土曜日で、大阪で「聖母の汚れなき御心」の随意ミサを行いました。救い主を待ち望んだシメオンとシメオンの預言を受けた聖母の汚れなき御心を刺し貫く剣に思いを馳せました。

救い主さえ見ればそれで良い、救い主に出会いたい、祈りに祈って聖霊から答えを得たシメオン!福者ユスト高山右近も同じ思いだったことでしょう。キリストを得ることだけがこの人生の全てだ、と。そのためにはお城も名誉も祖国も、さらば!と。
聖伝のミサに与りたい、聖伝のミサが捧げられる教会が立つのをこの目で見たい、という方々が多くいることにも思いを寄せました。



さて恒例のドン・ショタール著「使徒職の秘訣」L'Ame de tout apostolat
第二部 活動的生活と内的生活を一致結合させること
五、観想と活動の一致結合は、きわめてすぐれている
 をご紹介します。山下房三郎 訳を参考に、フランス語を参照して手を加えてあります。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


第二部 活動的生活と内的生活を一致結合させること
五、観想と活動の一致結合は、きわめてすぐれている

「観想的生活と活動的生活を、たがいに一致結合させる――これこそは、キリストの宗教の最も本質的な事業(Principalissum officium)であり、まことの使徒職なのである」(『神学大全』Ⅲa, q. 67, a. 2, ad 1 )と、聖トマスはいっている。

 “使徒職”というからには、一つの超自然的理想にむかって勇ましく突進する、奮発心(zèle)にもえた霊魂がなければならない。一つの真理に、人生の根本問題にかんする一つの不動の原理に、勝利をえさせたいと、そのためにおのれ自身をささげつくす霊魂がなければならない。だが、この理想の達成の過程においては、いっさいが、内的精神によって、超自然化されなければならぬ。

 奮発心は、その目的においても、それをはぐくむ母胎においても、その使用する手段においても、すべてがイエズス・キリストの精神から霊感され、いのちづけられていなければならぬ。この条件を具備するとき初めて、人はおのれのうちに、それ自体において最も完全な、最もすぐれた生活――すなわち、観想的生活を、身につけることができる。なぜなら、観想に、活動を加味する生活は、ただ観想一本だての生活よりも、いっそうすぐれているからである。

 観想の人が、ひとたび使徒職に手をそめると、両刃の剣よりも鋭いその言葉は、すべての人を征服し、天主から命ぜられたことを、どしどし実現する。救霊への奮発心は、火のようにもえる。罪人の回心、異教徒の改宗、それらはいちじるしい。(聖ボナヴェントゥラの言葉)

 観想家の使徒職――それは、信仰の熱火が、おのずから外に発して、救霊の実をゆたかに結ぶことである。Zelus, id est vapor fidei.(聖レオ教皇の言葉)

 聖人の使徒職――それは、全世界に、天主の教えのタネをまくことである。使徒は、人びとの霊魂に、天主のパンダネを投ずる。それはまた、全世界をなめつくす、もえさかる愛の炎である。地上のあらゆる民族の間にひろがっていく聖火、不可抗力的にひろがっていく聖霊降臨(ペンテコステ)の火である。

 「わたしは、火を、地上に投じるためにきたのだ。火がすでに燃えていたならと、わたしはどんなに願っていることか」(ルカ12・49)

 この使徒職は、偉大である。崇高である。
 それは、使徒自身を傷つけないで、他人の救霊をはかることにそんする。
 天主の真理を、人びとの心に浸透させる――これは、もはや、人間の仕事ではない。
 天使にふさわしい職務ではないか。
 真理を、独りで観想する。これは、よいことである。
 真理を、他人につたえる。これは、さらによいことである。
 真理の光りを静観し、黙想することは、真理の光りをただ受けることよりも、いっそうすぐれた何ものかである。
 光を燭台のうえにのせて、あたりの物を照明することは、それをマスの下にかくしておくことよりも、いっそうすぐれている。
 人は、観想によって、自分の霊魂をやしなう。
 人は、使徒職によって、おのれを他人にあたえる。
 「ただ独りで、光っているよりも、他のものを照明することが、いっそうすぐれているように、ただ独りで、真理を観想するよりも、自分で観想した真理を、他人につたえることは、さらにいっそう偉大である」(『神学大全』Ⅱa Ⅱae, q. 188, a. 6 )
 「Contemplata aliis tradere 」「自分で観想した真理を、他人につたえる」――この使徒職の源泉となるものが、念禱の生活なのである。聖トマスが、そう言明している。
 上の言葉は、前章の終わりに引用した、かれの他の言葉と同じように、まっこうからアメリカ主義を否定している。アメリカ主義の信奉者たちは、活動に観想を加味すれば、観想が活動を完全にマヒさせ、死滅させる、と考えている。これほど、まちがった考えはない。

 「活動に観想を加味した生活」――と、筆者はいったが、それには、二つの前提条件が必要だ。
 (一)――まず第一、霊魂はすでに、ふだんに、念禱の生活をいとなんでいなければならぬ。しかも、平凡な念禱生活ではなくて、そのあふれから、他人にも与えることができるほど充実したものでなければならぬ。
1° que l’âme vit déjà habituellement de l’oraison, et en vit assez pour n’avoir à donner que son surplus;

 (二)――活動が、観想をちっ息させ、死滅させるほど、過激であってはならぬ。また、霊魂が、たとえ活動のために、おのれの精力を使い果たすとしても、心の取り締まりの修業をまじめに実行することによって、活動に従事しながらでも、けっしてイエズス・キリストの影響力の外に出ない、という条件を具備していなければならぬ。
2° que l’action ne doit pas supprimer la vie d’oraison, et que, tout en se dépensant, l’âme doit si bien pratiquer la garde du coeur qu’elle ne coure aucun danger sérieux de soustraire à l’influence de Jésus-Christ l’exercice de son activité.

 イエズスの聖心を、家庭の王様とするために、天主から選ばれて使徒となったマテオ神父(R. P. Matheo Crawley)の下の美しい言葉は、まさしく聖トマスの前掲の思想を、表わしたものではないだろうか。マテオ神父はいっている。
 「まことの“使徒”とは、どんな人のことか。――いわく、イエズスのご生命に満ちみちたカリス(聖杯)であって、そのあふれを、人びとの霊魂のうえにそそぐ人のことである」
«L’apôtre est un calice plein jusqu’aux bords de la vie de Jésus-Christ et dont le trop plein se déverse sur les âmes.»

 奮発心にもえて、活動のために、心身のエネルギーを、ことごとく使い果たす。同時に、天主の崇高な奥義を観想して、内的生活をおのれのうちに充実させ、あふれさせる。このように、活動に観想を加味した生活は、じつに偉大な聖人を、数おおく作りだした、聖デニス、聖マルチノ、聖ベルナルド、聖ドミニコ、聖フランシスコ・アシジオ、聖フランシスコ・ザベリオ、聖フィリッポ・ネリ、聖アルフォンソ――かれらはみな、熱心な観想家であり、同時に、勇猛果敢な使徒だった。

 内的生活と活動的生活の一致結合――それは、いたってすばらしい。
 ああ、事業のさなかにただよう、聖徳の香りよ!
 ああ、ちから強い一致、みのりゆたかな結合よ!
 あなたは、どれほど驚嘆すべき、人びとの回心を生みだすことか!
 ああ、天主よ、あなたの教会に、数多くの使徒を、おあたえください。
 しかし、かれらの心に、――おのれをささげ尽くそうと、奮発心に火にもえているかれらの心に、念祷生活へのはげしい渇望を、おあたえください。
 あなたの使徒たちに、あなたの福音の働き手に、観想する活動を、活動する観想を、おあたえください。
 そのとき、あなたのご事業は、完成されるでしょう。
 そのとき、あなたの福音の働き手は、勝利をえるでしょう。――「地獄のちからも、それにうち勝つことはない」(マテオ16・18)と、あなたがご昇天にさきだって、かれらにお約束になった、あのかがやかしい勝利を!

(第二部  終了)


聖ピオ十世会の神学生たちが神学校入学後、必ず読まなければならない霊的読書の本
「使徒職の秘訣」Dom Jean Baptiste Chautard 著 山下房三郎 訳

目次
ベネディクト十五世教皇が著者におくられた手紙
聖ピオ十世教皇の推薦の言葉
トラピスト会総長の序文
訳者のまえがき

序説
第一部 天主は、外的活動も、内的生活も、お望みになる
1. 使徒的活動―したがって熱誠事業―を、天主はお望みになる
2. イエズスこそは、使徒的活動の生命―これが天主のお望みである )

3. 内的生活とは何か?
3. 内的生活とは何か?(後半)

4. 内的生活の価値は、おどろくほど誤解されている

5. 反対論に答える  (A) 内的生活は、無為怠慢な生活ではないのか
5. 反対論に答える  (A) 内的生活は、無為怠慢な生活ではないのか (後半)

6. 反対論に答える(つづき) (B) 内的生活は利己主義ではないのか
6. 反対論に答える(つづき) (B) 内的生活は利己主義ではないのか(後半)

7. 反対論に答える(つづき) (C) 人びとの救霊は何より大切なわざである。ゆえに、内的生活はあとまわしにしてもいいのではないか

第二部 活動的生活と内的生活を一致結合させること
1. 天主の御眼からみれば、内的生活は、活動的生活にまさっている
2. 使徒的事業は、内的生活のあふれから自然に、生まれでるものでなければならぬ
3. 使徒的事業は、その土台も目的も手段もみな、内的生活に深く浸透していなければならぬ
4. 内的生活と活動的生活は共存する
5. 観想と活動の一致結合は、きわめてすぐれている

第三部 内的生活が善徳への進歩を保証してくれなければ、活動的生活はむしろ危険である
1. 使徒的事業は、内的生活をいとなむ霊魂にとっては、聖性達成への手段であるが、そうでない霊魂にとっては、おのれの救霊に危険である
(A) 使徒的事業は、内的生活をいとなむ霊魂にとっては、聖性達成への有力な手段である
(B) 内的生活を放棄するとき、活動的生活は当人にとって、救霊の敵となる
2. 内的生活をいとなまない使徒的事業家の落ちていく運命
3. 福音の働き手の聖性―その土台は内的生活である
(A) 内的生活は、使徒的事業につきものの危険にたいして、霊魂を予防してくれる
(B) 内的生活は、使徒的活動によって消耗された、心身のエネルギーを回復してくれる
(C) 内的生活こそは、使徒的活動のエネルギーと功徳を増進する
(D) 内的生活は、使徒職にたずさわる人に、喜びと慰めをあたえる
(E) 内的生活は、純潔な意向をさらに純化する
(F) 内的生活は、事業の失敗から起こる失望・落胆にたいしての有力なタテである
第四部 内的生活をいとなめば、使徒的事業がゆたかに実を結ぶ
使徒的事業が、ゆたかな実を結ぶための条件―それは内的生活である
(a) 内的生活は、事業のうえに、天主の祝福をよびくだす
(b) 内的生活は、使徒をして、その良い模範によって、人びとを聖化する者となす
(c) 内的生活は、使徒に、超自然的照射能力をあたえる。この超自然的照射能力はどれほど効果に富むか
(d) 内的生活は、使徒に、まことの雄弁をあたえる
(e) 内的生活はまた、同じ内的生活を他に生むのであるから、その霊魂たちに及ぼす影響は深く、そして長続きがする
(f) 聖体による内的生活の中にこそ、使徒職のいっさいの結実性は包含されている
第五部 内的生活をいとなむための若干の原理と意見
1. 使徒的事業にたずさわる人は、内的生活をいとなむために何をすべきか。―かれらに与える若干の意見
2. 黙想は、内的生活の、したがって使徒職の、必要欠くべからざる要素である
(I) 朝の黙想に忠実であること―これは、わたしにとって義務なのか
(II) わたしの黙想は、どんなものでなければならないか
(III) どのように黙想しなければならないか
3.典礼生活こそは、わたしの内的生活を、したがって、使徒職を生かす源泉である
(I) 典礼とは何か?
(II) 典礼生活とは何か?
(III) 典礼の精神―三つの原理
(IV) 典礼生活の利益
(V) 典礼生活の実行
4. “心の取り締まり”は、内的生活の鍵である。ゆえに、使徒職には本質的な修業である
(I) 心の取り締まりの必要
(II) 天主の現存の意識―これこそは、心の取り締まりの土台である
(III) 聖母マリアに対する信心は、心の取り締まりを容易にする
(IV) 心の取り締まりの修業
(V) 心の取り締まりに必要な条件
5. 使徒は、無原罪の聖母に対して、熱烈な信心を持っていなければならぬ
結びのことば / p538


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