Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

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ドン・ショタール著「使徒職の秘訣」第二部 活動的生活と内的生活を一致結合させる 四、内的生活と活動的生活は共存する

2018年02月02日 | カトリックとは
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

ドン・ショタール著「使徒職の秘訣」L'Ame de tout apostolat
第二部 活動的生活と内的生活を一致結合させること
四、内的生活と活動的生活は共存する
 をご紹介します。山下房三郎 訳を参考に、フランス語を参照して手を加えてあります。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

第二部 活動的生活と内的生活を一致結合させること

四、内的生活と活動的生活は共存する

 天主への愛が、内的生活の行為によって、外部にあらわれるように、隣人への愛も、外的生活のわざによって、外部にあらわれなければならぬ。したがって、天主への愛と隣人への愛は、たがいに離ればなれになることができない。当然の帰結として、内的生活と活動的生活――この二つの生活様式は、一方が他方から切り離されては、もはや存続することができないのである。(聖イジドル Different. Ⅱ, XXXIV, n. 135)
Sicut per contemplationem amandus est Deus, ita per actualem vitam diligendus est proximus, ac per hoc, sic non possumus sine utraque esse vita, sicut et sine utraque dilectione esse nequaquam possumus (S. ISID., Différent,, lib. II, XXXIV, n. 135).

 そんなわけで、神学者スワレズもいっているとおり、「完徳に達するために、正しくそして規則的に秩序づけられた、いっさいの生活状態は、ある程度において、活動とI観想のいずれにも関与していないものはない」(スワレズ De Relig. track. I,c. v., n. 5 )
Concedendum ergo est nullum esse posse vitae studium recte institutum ad perfectionem obtinendam, quod non aliquid de actione et de contemplatione participet.

スワレズの上の言葉は、聖トマスの教えの教説にほかならない。

 天使的博士は、こういっている。
 「活動的生活に召されている人びとの中で、自分は召し出しによって、この活動的生活が義務となったのだから、もう観想的生活はやらなくともよい、と信じこんでいる者があったとしたら、それは大きなまちがいである。活動の義務は、観想の必要を、増しはしても、絶対に減らしたり、軽くはしない。それゆえ、この二つの生活は、たがいに排せきしあうどころか、かえってたがいに歩みより、たがいに共存する。たがいに助けあい、たがいに溶けあい、たがいに完成しあうのである。もし、この二つのうち、いずれがもっと大切であるかというに、それは観想的生活である。これこそは、いちばん完全で、いちばん大切な生活である」(『神学大全』ⅡaⅡae, q. 182, a. 1, ad 3 )
Cum aliquis a contemplativa vita ad activam vocatur, non fit per modum substractionis, sed per modum additionis.

 活動が、ゆたかな実を結ぶためには、どうしてもそれが、観想的生活に根ざしていなければならぬ。観想的生活が、おのれに充実し、しかるべき深度に達してさえおれば、おのずから活動的生活のうえにも、そのあふれの幾分かをそそぐものだ。そして、霊魂は、観想的生活によってこそ、天主のご生命から、じかに恩寵を汲みとるのだ。――活動的生活によって、他人の霊魂に、分配してやらなければならぬ恩寵を。

 そんなわけで、聖人たちの霊魂において、活動と観想は、一つの完全な調和のなかに微妙に溶けこみ、かれらの生活全体に、みごとな統一をあたえている。

 一例をあげれば、聖ベルナルドがそうだった。
 かれは、その世紀においては、最大の観想家であった。同時に、最大の活動家でもあった。かれの姿のこの側面を、当時かれの秘書だったゴッドフロアは、つぎのように描きだしている。
 「聖ベルナルドにおいて、観想と活動は、みごとに調和し融合していたので、外的事業に没頭している間でも、心は天主の愛と、天主の現存の意識に、すっかり浸りきっているのだった」(ゴッドフロア『聖ベルナルド伝』)

 「わたしを、あなたの心において、印のようにし、
  あなたの腕において、印のようにしてください」(雅歌8・6)
Pone me ut signaculum super cor tuum, ut signaculum super brachium tuum.

 セン・ジュール師(Père Saint-Jure)は、聖書のこの一句を解説して、活動的生活と観想的生活のあいだにそんする相互関係を、つぎのように、みごとに描写している。

 「“心”とは、内的生活・観想的生活のことである。“腕”とは、外的生活・活動的生活のことである。雅歌のテキストに、心といい、腕といっているのは、この二つの生活が、同一人物において、たがいに両立するものである、たがいに完全協調するものである、たがいに共存共栄するものである、ということを示したいためである。

 “心”が、最初に指名されている。
 心臓は、腕よりも、はるかに高貴な、はるかに大切な、器官だからである。
 同様に、観想は、活動よりも、いっそうすぐれており、いっそう完全である。 
 いっそうわれわれの尊重に、あたいする。
 心臓は、夜となく昼となく、胸の中に鼓動する。人間の生存に絶対になくてはならぬ、この大切な器官が、一瞬でも止まったら最後、人はすぐに死ぬ。
 腕は、ただ人体の完全さのためにのみ必要であって、これがなければ、人間は生存しえない、というほどに大切な器官ではない。そのうえ、しょっちゅう使われどおしでもない。
 これと同じように、われわれも、自分の外的活動には、ときどき暇をあたえて、休ませねばならぬ。これに反して、精神的・超自然的事物に、注意の焦点をしぼる観想的生活には、ただの一瞬間も、休止があってはならない。
 心臓は、おのれの送りだす血液の触媒によって、生命と力を、腕にあたえる。
 心臓からの、これらの供給がなければ、腕は死滅する。
 そのごとく、観想的生活――天主との一致の生活――は、霊魂が、天主との親睦から汲みとる光明と、そのたえまないお助けによって、外的活動――使徒的事業――を、超自然的に生かす。外的活動に、超自然的活動をしるし、同時にほんとうのみのりをあたえるものは、ただ観想的生活だけである。
 これがなければ、いっさいが枯渇する。いっさいが不毛であり、不完全にみちている。

 残念なことに、人間はあまりにしばしば、天主が合わせたものを、自分らの手で、バラバラに引き離す。それで、およそ完全な一致、完全な調和は、きわめてまれである。
 一致が完全となり、調和が完全となるためには、どうしても用心が――あまりにしばしば閑却されている、用心というものが必要である。自分の力にこえることは、一つとして企図してはならぬ。万事において、天主のみ旨だけを見る。それも、常時に、そして単純に。天主がお望みになる事業にだけ、手をだす。天主がお望みになる程度にだけ、これに身をゆだねる。そして、天主をお喜ばせするという、タッタ一つの動機からだけ、これに従事する。
 仕事の初めには、この仕事を、天主にささげる。仕事の間には、なにか聖い考えにより、また熱心な射禱によって、ただ天主のためにだけ働く、ただ天主の恩寵に霊感されただけ働く、という決心を、しばしば更新する。――このことさえ忘れなければ、どんなに仕事に夢中になっても、霊魂はいつも平静である。おのれ自身を、完全にコントロールしている。仕事の成功は、ひとえに天主のいつくしみ深いみ摂理に一任し、自分はただイエズス・キリストと二人きりになるために、あらゆる雑念をはらいのけて、仕事にたずさわる」――これが、天主との一致に達するために、霊生の大家たちが一致して推奨する、賢明なすすめなのである。

 使徒的活動に、ひじょうに多忙をきわめた聖ベルナルドは、おのれの一身において、観想的生活と活動的生活を、みごとに一致させ、融合させた。この一致融合をみて、ジュネーブの司教聖フランシスコ・サレジオは、たいそう感激して、次のようにいっている。

 「聖ベルナルドは、かれ自身あつく望んでいた、天主への愛の進歩を、その外的活動によって、すこしもはばなれなかった。……かれはよく場所をかえた。が、心は少しも変わらなかった。愛にもえる心も、天主なる対象にむかってもえるその愛も、場所の変化によって、すこしも変わらなかった。仕事をしていても、他人と話をしていても、これらとの接触から、自身にはなんの影響もうけなかった。ところ変われば、からだの色まで変わるカメレオンのようではなかった。
 かれはいつも、天主と一致して生活していたのだ。霊魂は、清浄の徳にかがやいて、いつも純白だった。愛徳にもえて、いつもくれないに光っていた。そして、いつも謙遜にみち満ちていた」(『聖フランシスコ・サレジオの精神』第十七部第二章)
"Saint Bernard, ne perdait rien du progrès qu’il désirait faire au saint amour... Il changeait de lieu, mais il ne changeait point de coeur, ni son coeur d’amour, ni son amour d’objet... ne recevant pas la couleur des affaires et des conversations, comme le caméléon celle des lieux où il se trouve ; mais demeurant toujours uni à Dieu, toujours blanc en pureté, toujours vermeil de charité et toujours plein d’humilité."

 活動的生活をいとなんでいると、時には仕事が、山のように積みかさなって、そのためにどうしても、心身のエネルギーをすっかり使い果たさねばならないような――荷をおろすことも、軽くすることもできず、どうにもなこうにもならないようなことが、よくあるものだ。このような時は、いったいどうしたものだろうか。
 そのような時は、天主との一致から生ずるあまい楽しみを、多少しばらくの間は奪われるものだが、この一致とて、各自の心がけしだいでは、実質において、けっして中絶するものではない。この苦しい状態が、もしながく続くなら、ただ独りで苦しみ、かつ嘆くよりほかに仕方なかろう。しかし、なにより恐れるべきは、この状態と妥協すること、これとすっかり慣れっこになってしまうことである。

 人間は弱い。かわりやすい。内的生活を、なおざりにすれば、まもなく、その興味まで失ってしまう。ただ物質的の仕事にばかり熱中し、あげくのはては、それが愉快でたまらなくなる。――これに反して、もし内的生活が、悲嘆と苦悶によって、その活力を、たとえかくれたままにせよ、発揮しているなら、このたえまない嘆きこそは、どんなにはげしい活動にどんなに夢中になっても、こころのやるせなさをいやされない心境から生ずるのであるから、それは活動のためにぎせいにされた観想の功徳ともなろう。いや、むしろ、こんなときにこそ、霊魂はおのれのうちに、内的生活と活動的生活を、みごとに、そして実りゆたかに、一致させ調和させるのである。

 こういう霊魂が、外面の世界に拉致されるとき、反動的に内的生活にむかって、はげしい渇きをおぼえる。それは、活動への熱中によっては、いやされない渇きである。祈りの生活が恋しくなる。かくて、熱烈な心をいだいて、ふたたび観想の生活へと、もどってくる。

 聖主は、この霊魂のために、ご自分と語りあう数刻を、いつも都合しておいてくださる。聖主のご要求はただ、霊魂が聖主のこのお招きに、忠実であるということだけである。天主のうちに溶け入る、この祈りのひとときこそは、たぐいなく幸福な瞬間である。だが、その時間は、いたってみじかい。祈りの熱烈さによって、そのうめあわせをしよう。聖主は、そのための恩寵を、めぐんでくださるだろう。

 以上述べてきた教えを、ひとまとめにしていいつくしている、聖トマスのみごとな一節を、左にかかげる。
 「観想的生活は、それ自体、活動的生活よりも、いっそう大きな功徳がある。とはいえ、ある人にとっては、外的事業をいとなむことによって、いっそう大きな功徳を立てることもありえる。たとえば、天主への愛があふれでるままに、天主のみ旨をなしとげるため、天主の光栄のため、時として、天主の観想の甘美をしばし離れて、がまんしなければならないときに、そうなのである」(『神学大全』Ⅱa Ⅱae, q. 18, a. 2 )
Vita contemplativa, ex genere suo majoris est meriti quam vita activa. Potest nihilominus accidere ut aliquis plus mereatur aliquid externum agendo : puta si propter abundantiam divini amoris, ut ejus voluntas impleatur, propter Ipsius gloriam, interdum sustineri a dulcedine divinae contemplationis ad tempus separari.

 さて、活動が、観想にまさって、功徳の多いものとなるためには、天使的博士が列挙している数々の要件を、くわしく吟味しなければならぬ。

 まず第一、霊魂を活動へとさそう、内心の動機――それは、“天主への愛の充満であり、あふれ”である。ゆえに、焦燥でもなければ、瞬間的の出来ごころでもない。まして、自己脱出の必要にせまられての気持ちからでもない。だからこそ、霊魂は、念禱の生活の甘美さを奪われて、“なやむ”のである。
 この状態は、“しばし”であり、長くは続かない。
 しかも、活動の目的は、純然として超自然的である。“天主のみ旨をなしとげるため、天主の光栄のため”
 そして、自分の時間の一部分は、いつも念禱のために取っておく。

 ああ、天主の道は、どれほど賢明、どれほど善良なことか! 天主は、霊魂を、内的生活によって、どれほどみごとに、おみちびきになることか!
 ――天主の事業に、これほどたくさんの時間をささげているのに、事業の天主にささぐべき時間は、こんなに少ないのか。
 活動のさなかにあって、こう考えるのは、心ぐるしい。
 だが、霊魂は、この深刻な悲しみを、よろこんで、大きな心で、天主にささげる。
 そしてそこに、活動的生活から奪われたものを、十分に取りもどす。
 観想的生活のうめあわせを、十分にする。

 活動のさなかに、心にただようこのやるせない悲愁のおかげで、霊魂は、活動的生活につきものの、いっさいの危険から除外される。精神の散漫から、自愛心から、そしてあまりに自然的な、あまりに人間的な感情から救われる。精神の自由も奪われず、活動そのものにも害をうけない。精神にも、活動にも、おちついた、静観的な特徴が加わる。霊魂のこの心がまえこそは、霊魂における天主の内住を意識して生きる、聖なる修業の一つである。

 なぜなら、霊魂は、いのちの各刹那に賜る天主の恩寵のなかに、実現すべき事業のベールの下にかくれて、ご自分を霊魂にお与えになるイエズス・キリストを、つねに見いだすからである。イエズスは、霊魂とともに、働いてくださる。霊魂を、助けてくださる。活動にたずさわっている、どれほどたくさんの人が、右にいった聖なるやるせなさのおかげで、――念禱に従事したい、もっと多く祈りたい、という願望を、やむをえずぎせいにする、だが、いつまでもそれを、心にもち続けているそのおかげで、聖櫃のそばに行って祈る時間を、もっと多く持てるように工夫することだろう。そのおかげで、どれほど多くの人が、その従事する活動にはゆたかな実を結び、霊魂には安全を保証され、善徳には長足の進歩をとげることだろう。


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