Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

2017年2月17-20日の聖伝のミサの報告(続き):聖ピオ十世会 SSPX JAPAN Latin Traditional Mass

2017年02月27日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

前回のミサの報告を更にいただきましたので、レポートの続きをご紹介いたします。ご報告を書いて下さった方々に心から感謝します。


【報告】
+Ave Maria! Immaculata!

2/17-18の御ミサでの所感をご報告申し上げます。

【所感】
小野田神父様のお説教で「ファチマ100周年の四旬節をマリア様の汚れ無き御心のお望みのとおりに過ごすためには、
苦しみや犠牲をマリア様の汚れ無き御心の見方によって、汚れ無き御心の考えられるように考える事によって、この四旬節がより効果的に、
より意味が深く、意義のある四旬節になる。」とおっしゃられたことがとても心につきささりました。

天主様から送られる十字架を愛し、受け入れ、喜んで担うこと。その苦しみを自分と隣人の救霊のために捧げること。

特に「イエズスよ、これは御身への愛のため、罪人の回心のため、聖母の汚れ無き御心に加えられる冒涜を償うためです」といって苦しみを
お捧げすることこそ、ファチマ100周年に生きるカトリック信者の任務だと思いました。

でも私を振り返ると、天主から送られる小さな十字架に文句をいったり、たびたび良く担えないのだろう!と反省いたします。

私たちの真の母でいらっしゃり、私たちの永遠の生命のために、最善の方法しかとられない御方、マリア様の汚れ無き御心のお考えに
全く信頼し、イエズス様とマリア様に倣って、全てを「フィアット」と申し上げ、子の忠孝さで従うことを決心しました。
またその御助けをお願いいたしました。

ファチマのマリア様は、天主を無視し、侮辱し、地獄に落ちようとしている罪人のために、自分の全てをその「償い」のために犠牲として捧げるようにおっしゃいました。

「償い」について少し黙想してみました。

「償い」こそがカトリックの真髄だと思います。

イエズス様こそが、天主でありながら、人となってご自分を十字架上の死に至るまで、御血を一滴残らず流し尽くして、私たちに代わって「贖われ」ました。おびただしい聖人がた、殉教者がたは、みなイエズス様に倣って、自分を天主に捧げつくして、天主に栄光を帰しました。

レネー神父様の「悔悛の秘蹟について」の霊的講話でおっしゃったお言葉が思いだされました。
「イエズス様の『償い』は、私たちの『償い』に価値を与え、イエズス様を愛するならば、イエズス様おひとりだけ苦しませていることはできず、十字架(苦しみ)を避けずに、イエズス様と共に苦しむことを望む。」と

カトリックは、自分だけが救われれば良いのではなく、自分が好きな人達が救われれば良いのではなく、
天主を愛するがゆえに、自分に害を為す人のためにも、全ての人の救霊を祈り、天主に対してなされた罪を自分と自分以外の人の代わりにも、
天主に赦しを願い、償うのだと思いました。

「あなたが天主を信じ愛することを、あなたのために天主に願う。あなたが天主の永遠の生命に入るように、そのために私たちが苦しみを代わりに捧げる。自分の命までも捧げる。」と言ってくれる宗教がほかにあるでしょうか?

フェレイラ神父が棄教したときにも、公教会はその償いのために、どれほど多くの祈り、犠牲を天主にお捧げしたことでしょうか?

フェレイラ神父と一緒に穴吊るしにされて殉教した福者ジュリアン中浦神父様も、「フェレイラ神父の回心のために自分の命を献げる」とおっしゃったそうです。天主様はこれらの多くの祈りと償いによって、フェレイラ神父に回心と殉教の憐れみをお与えになられました。
これをカトリックでは「諸聖人の通功」と言います。

フェレイラ神父は、自分が天主を否んだ同じ穴吊るしで自分の命をお捧げすることになって、
その壮絶な苦しみの中にあっても、心はどれほど痛悔と感謝と平安に満たされていたことだろう・・・と想像しました。
最期には殉教者なったにもかかわらず、その栄誉が史実から隠され、その棄教だけが歴史に残っているのは
「棄教」の重い償いでもあったように思えました。

乱文をお赦しください(^_^;)

聖母の汚れ無き御心よ、我らのために祈りたまえ。
ファチマの聖母、ロザリオの聖母よ、我らのために祈りたまえ。


【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

こんばんは☆・゚:*:(*´∀`人

今回、マリア様の観点から「苦しみ」というものを見る、という御説教をして下さりありがとうございます!!
聖人方は皆このようにマリア様の観点から苦しみを見ておられたので、「苦しむ事を愛する」「苦しむ時に喜ぶ」「苦しむ事を望む」ということを口を揃えて仰っておられますね!

本当に私は弱い者ですので、マリア様の汚れなき御心に入る事によって、苦しみ、十字架の本当の価値を理解する事ができるお恵みが頂けますように!

ファチマ100周年のこの四旬節は、とても貴重なボーナスバーゲンの時期という事で、罪の償い、祈りと犠牲、霊魂の救いの為に、苦しみが来ると、「ヨォォシ!キタ━━ o(゚∀゚o)━━!!」という風に思って御捧げする事ができますように!
何か俗的な文章になってしまってすみません…(‥;)

デオ・グラチアス!


【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

こんばんは!

六旬節の主日の御ミサをありがとうございました。
聖フランシスコが「宣教のため仕事に行き夜帰ってきたとき、修道院長から閉め出されて寒さのために苦しむ、これが至福だよ」と兄弟レオに答えた、「キリストのために苦しむこと これが喜びだよ」と答えた、というお話が胸に浸みました。

入祭文の「主よ あなたは寝ているのですか?起きて私たちを助けてください。」という問いかけのその答えを 使徒聖パウロのコリント第二の書簡で見てみましょうと 神父様はお説教の中でお話しくださいました。そのなかで先ほどの「キリストのために苦しむ」という答えが与えられました。書簡の中の使徒聖パウロは宣教の中で受けた数々の苦しみや艱難を述べています。 

いったい問いと答えがどのように結びつくのか その答えの意味が何のことか 簡単には腑に落ちないままでしたが、一晩も二晩も寝ておきたあとで、ようやく 私の心に浮かんできたことがありました。

イエズス様が困っている者を敵の手から救い出してくださらず黙って何もなさらないでいるかのようにも思えるのは、私たちがキリストのためにお捧げする小さな犠牲があわさり 主から恩寵が注がれるようになるためなのかもしれません。まるで ミサの時に 一滴の水が加えられた葡萄酒が御血に変えられるかのようです。

小さな犠牲・苦しみをお捧げすることは 至福のご聖体拝領のように聖寵恩寵をいただくことと、どこかつながるのでしょうか。

本当は 四旬節のまえの準備段階として 七旬節・六旬節・五旬節があるのです、というお話でしたが、しっかりウオーミングアップして四旬節にお捧げする苦しみと犠牲には特別な価値がつけられていますよというお話でしたが、そしてそれは永遠の命という朽ちぬ栄冠をいただくためとのこと。そのためにそれではどうやって走るかということについてこの六旬節では詳しく述べられているとのことでした。人間的な喜びや楽しみを得るためにではなくキリストのために苦しむことを求めて走るなんて、普通に人が考えることとは まったく逆のことです。  

そういえば 午後の公教要理の時の、「沈黙」の映画(小説)のことに関連して 天主様がなぜ沈黙しているのかという問いへの答えは (苦しむという)十字架の木のことだよという神父様の以前のミサでのお説教のお話も思い浮かびました。 

一見何の関係もなかったようにおもわれたその日のミサ典書の内容と 午後の公教要理が こんなふうに結びついてきて とても不思議です。

フェレイラ神父が背教したという知らせを受けた後に、ヨーロッパではたくさんの祈りや犠牲がささげられたのだそうです。なかでもマストリッリ神父のお話は格別に感動しました。聖フランシスコ・ザビエルから奇跡的治癒を受け.フェレイラ神父を回心させるためのお恵みとともに、イエズス様からも日本に必要なお恵みのためにお前が殉教しろと告げられ、その言葉どおりに日本にやってこられて残酷な拷問により殉教されたマストリッリ神父。

ただ その命をお捧げするためだけに日本にやって来られて、奇跡的に助かった命を捧げて苦しむためだけに遠い日本にやって来られたのですから。そして あえなくむごたらしい残虐な拷問を受けて命を落としたのですから。そのマストリッリ神父のみならず、それ以後にも幾人もの神父様たちがフェレイラ神父の回心のために命を捧げたり直接相見まえ(つまりフェレイラ神父は通訳として間に立たされた)説得されたりしたのですというお話でした。

フェレイラ神父が背教後に回心してもう一度天主様の子として信仰をもって亡くなるという恵みは たくさんのカトリック信者と殉教者の祈りと犠牲が天主の恩寵を呼び寄せて起こった天主の御業なのだと 教えられました。

神父様が丁寧の説明してくださったことにたいする私の理解は不十分だと思いますが、それでも天主様の計り知れない愛が 私には はっきり伝わってまいりました。愛徳とはこのような理解を超えた美しいものと思いました。何の意味も持たない犬死にのようなただ殺されるためだけに洗礼を授けることもなく宣教をすることもなくむごたらしさしか見えなかったマストリッリ神父の殉教! そこには深い祈りと犠牲があったということ。そしてそのほかの当時の数々のたくさんの殉教のなかに、ようやくそこにある天主様の恵み働き恩寵聖寵をみることができるようになりました。

神父様 ありがとうございます。

私には どうしても 日本で殉教した人の血が日本の土地に蒔かれたということにどんな意味があるのかわからなかったのです。当時のあれほどの悲惨な残虐な痛ましく人間の尊厳をも損なうほどのひどい出来事の悪い面しか見えなかったのです。ただ苦しむだけ苦しんだカトリック信者がいただけなのかと。

しかし 殉教者の功徳が合わさっていたからこそ、250年間の厳しい弾圧と宣教師もいないなかカトリック信仰が続いたと教えられ 当時の人達の血と苦しみには そのような意味があったのだということに 目が開かされました。

その殉教者の方々が流した尊い血と苦痛がもたらしてくださった恵みは もう尽きてしまったのでしょうか。いま 私たちが曖昧なカトリックの姿勢のなかで本当のカトリック信仰を求めるという苦しみとその中で自分の信仰をどのように育て守っていったらよいかわからなくて苦しんでいるたくさんの人へも お恵みがもたらされますように。

でも今 この今というときに 恩寵を呼び寄せるために私たち自身の苦しみをお捧げするように ファチマのマリア様が祈るよう教えてくださったのでしょう。

その「苦しみの中にある計り知れない価値があるその宝」とは 「超自然の恵み(恩寵)」であると信じる、それがカトリック信仰である、ときっぱりと神父様が説明をしてくださり、とても感動しました。

神父様 ありがとうございます。

デオ・グラチアス!


【お返事】

聖フランシスコ「完全な喜び」の逸話を、興味深く受け止めて下さって嬉しく思います。このお話を、日本語でご紹介いたします。次の英語を参考にしました。HOW ST FRANCIS, WALKING ONE DAY WITH BROTHER LEO, EXPLAINED TO HIM WHAT THINGS ARE PERFECT JOY

冬のある日、聖フランシスコは兄弟レオと共に、ペルジアから天使の聖マリア修道院へ向かったが、大変な寒さでひどく苦しんでいた。

少し前を歩いていた兄弟レオを呼んで言った。

「兄弟レオよ、小さい兄弟ら(=フランシコ会の修道者たち)が全ての地で、聖性の偉大な模範を示して人々を聖徳に導くことを天主が嘉し給うたとしても、--- 良く書き留めておきなさい ---、これは完全な喜びではないのだ。」

少し行くと、聖フランシスコはもう一度彼を呼んだ。

「兄弟レオよ、小さい兄弟らが歩けぬ人を歩かせ、背骨が曲がった人をなおし、悪魔を払い、眼の見ぬ人を見えるようにし、耳の聞こえぬ人を聞こえるようにし、口の聞けぬ人に話させ、さらにもっと偉大な事でさえある、死人を4日後に生き返らせたとしても、これは完全の喜びではないのだ、と書きなさい。」

少し行くと、聖フランシスコはまた叫んだ。

「おお!兄弟レオよ、たとえ小さい兄弟らがあらゆる言語を知ったとしても、たとえ彼らがあらゆる学問に精通したとしても、たとえ彼らが全聖書を説明できたとしても、たとえ彼らが預言の賜物を持ち、彼らに未来のことを全て明らかにすることができるばかりか、全ての良心の秘密と全ての霊魂の秘密を暴くことが出来たとしても、これは完全な喜びではない、と銘記しなさい。」

数歩さらに行くと、聖フランシスコは大きな声でまた叫んだ。

「おお 兄弟レオよ、天主の小さな子羊であるおまえ! たとえ小さい兄弟らが天使の言葉を話せたとしても、たとえ彼らが星々の動きを説明することが出来たとしても、たとえ彼らが全ての植物の効果を知っていたとしても、たとえ地上のあらゆる宝が彼らの前に明らかにされたとしても、たとえ彼らが全ての鳥、全ての魚、全ての動物、人間、木々、石、根、水の様々な性質に深く熟知していたとしても、これは完全な喜びではない、と書きなさい。」  

少し後に、彼はまた叫んだ。
「おお 兄弟レオよ、たとえ小さい兄弟らが説教の賜物を持っていて、全ての未信者らをキリストの信仰へと改心させたとしても、これは完全な喜びではない、と書きなさい。」  

さて、このような話しは2マイルを歩く間ずっと続いたが、兄弟レオはひどく不思議がった。ついに聖人に尋ねて聞いた。

「父よ、お願いです。では一体どこに完全な喜びがあるのか、教えて下さい。」

聖フランシスコは答えた。

「私たちが、雨でずぶ濡れになり、寒さに震え、泥にまみれ、飢え、疲労し尽くして、天使の聖マリア修道院に到着するとしよう。修道院の玄関を叩くと、門の当番が怒って私たちにいったい誰だ尋ねるとしよう。私たちが、兄弟の二人です、と答えた後、門番は怒って、おまえが言うことは本当ではない、おまえたちは偽物だ、世間をだまし、貧しい人々から施しを取り去るためにうろつき回っている輩だ、出て行け、と言うとしよう。門番は、私たちに門を開くことを拒否し、私たちを、外に閉めだしたまま、雪と雨に晒されたまま、寒さと飢えに苦しむまま、夜がくるまでほっぽり出すとしよう。その時、私たちがこのような不正を受け入れ、怒ったり、ぶつぶつ言ったりせずに、謙遜と愛徳とを持って、この門番は私たちのことをよく知っていて、天主がそのように私たちに反対することを言わせておられるのだと信じて、忍耐強くこのような残酷と軽蔑とを受け入れるなら、おお、兄弟レオよ、これこそが完全な喜びだ、と書きなさい。

もしも、私たちがまた戸を叩くと、門番は怒って出て来て、私たちを呪って、殴って、私たちをあたかも悪しき偽物であるかのように追い出してこう言ったとしよう、出て行け、あわれな泥棒どもよ、扶養施設に行け。だがここではおまえらに食わせも泊めもせぬからな!と。もしも私たちがこれを全て忍耐強く、喜びと、愛徳とを持って受け入れるとするなら、おお、兄弟レオよ、これこそ実に完全な喜びであると銘記しなさい。

そしてもしも、寒さと飢えとにどうしても堪えられず、もう一度戸を叩き、門番を呼び、多くの涙を流しながら門を開けて私たちに身を寄せるところをくれるように、天主への愛ゆえに懇願するとしよう。こんどは彼が以前に増してさらに怒って叫んでこう言うとする、これらは、うるさいごろつきだ、やつらにふさわしいように取り扱ってやろう!彼はごつごつした棒を手にとって、私たちをずきんを持って捕らえ、私たちを地面に投げ倒し、雪の中を転がし、節くれた棒で私たちを殴り傷つけるとしよう、もしも私たちがこれらの仕打ちを全て忍耐強く、喜びを持って、私たちの聖なる主キリストの御受難を思い、キリストへの愛ゆえに私たちがその受難を分かち合うと考え、全てを堪え忍ぶなら、書きなさい、おお、兄弟レオよ、ここに、ついに、完全な喜びがあるのだ、と。
さあ、兄弟よ、結論を聞きなさい。

キリストがご自分の友人らに与える聖霊のあらゆる聖寵と全ての賜物よりもさらに上にあるものは、自分に勝ち、キリストへの愛ゆえに喜んで全ての苦しみと不正と、不快と軽蔑とを受け入れる聖寵である。何故なら、天主のその他の全ての賜物においては、私たちは何も誇ることが出来ないからだ。何故なら、それらは私たちからではなく、天主から来るものだからだ。使徒聖パウロの言葉の通り、いったいあなたのもっているもので、天主から受けなかったものがあるだろうか、もし、それを受けたのなら、なぜ受けなかったかのようにして誇るのか(コリント前4:7)。

しかし、私たちは、艱難と苦しみの十字架において、誇ることが出来る。何故なら、使徒聖パウロがまた次のように言っているとおり、私たちの主イエズス・キリストの十字架においてでなければ、私は誇らない(ガラ6:14)、と。」アーメン。

以上が、聖フランシスコの「小さき花」という逸話集に載っている話です。

えっ?聖ピオ十世会のようですって?えっ?何故ですか?

「私たちが、主イエズス・キリストの御聖体を信じ、礼拝し、愛し、主の真の御体を崇敬と愛と信心を持って捧げ礼拝したいと望み、カトリック教会が二〇〇〇年間捧げ続けてきたやり方で、聖伝のミサを捧げたい、と言うと、教会の門番である司祭が怒って私たちにいったい誰だ尋ねる。

私たちは、カトリック教会の信徒です、ピオ十二世の教皇使節だった大司教から叙階されたカトリック司祭です、と答えると、門番は怒って、おまえらが言うことは嘘だ!おまえたちは偽物だ、コスプレだ、世間をだまし、カネを奪うためにうろつき回っている輩だ、出て行け、だいたい昔のミサは廃止されたのだ、禁止されている、と言う。

そこで私たちが、聖伝のミサは禁止されていません、今でも有効です、歴代の教皇様たちの聖伝のミサが禁止されるわけがありません。私たちは、歴代の公会議の教えと、カトリック教会の不可謬の教えと歴代の教皇様の教えを全て信じています、昔からの教えをそのまま変えずに信じています、過去のキリシタンたちと同じ信仰を持って、天主の御恵みによってその信仰を保ったまま死ぬお恵みを求めています、と言うと、門番は怒り狂って、問答無用、私たちに門を開くことを拒否し、外に閉めだしたまま厳しい顔をして睨みつけ、雪と雨に晒されたまま、寒さと飢えに苦しむまま、ほっぽり出す。

私たちを軽蔑とあざけりの目で睨みつけたまま、それと同時に門番は、カトリック教会を信じないばかりか批判して反対している人々には極めて大きな笑顔で微笑み、イスラム教を信じている人も、ユダヤ教を信じている人々も、仏教を信じている人々も、無神論者も救われている、さあ、教会はあなたたちのものです、さあ入ってきて下さい、使って下さい、禅を一緒にしましょう、あなたたちの祈りを私たちも一緒にお祈りをしましょう、と言う。

もしも、私たちがまた戸を叩くと、門番は怒って出て来て、聖ピオ十世会と聖伝のミサとを呪って、あかたも悪しき偽物であるかのように追い出して、出て行け、あわれなカトリック教会の過去よ、という。聖体におけるイエズス・キリストの現存を信じていない分かれた兄弟姉妹を傷つけてはならぬ、聖体はただの食事であるかのように立って受けるべきだ、カトリック教会の外に救いが無いなどと言うと分かれた兄弟達が傷つく、教会は人類の一致のための原秘蹟だ、と言う。

どうしても堪えられず、もう一度戸を叩き、門番を呼び、多くの涙を流しながら、そうではありません、カトリック教会の不可謬の教えを説明し、歴代の教皇様たちの教えを述べて、過去の公会議はカトリック教会の外に救いが無いと何度も宣言しています、と天主への愛ゆえに懇願すると、こんどは以前に増してさらに怒って叫んで、うるさいごろつきどもよ、おまえらを破門にしてやろう!と叫ぶ。

それにも関わらず、イエズス・キリストの創立した真の教会であるカトリック教会を愛するため、カトリック教会に最高の奉仕をするために、私たちは、永遠のミサ聖祭を捧げ続けます、聖伝のミサは、私たちだけの所有物で自分の自由になるものではなく、カトリック教会の永遠の宝だからです、人間は真理においてでなければ一致できません、と私たちは言う。

すると門番はますます怒りに燃えて蔑みながら、他人の痛みを和らげるために、過去の教会の信仰や道徳など捨ててしまえ、おまえたちのような者がいるから、人々は同性愛者は結婚できないし、重婚者は聖体拝領が出来ないのだ、おまえたちは邪魔者だ!おまえたちのような者がいるから人類は一つになれないのだ、という。

ですから、私たちは、天主の御恵みと御助けと御憐れみにより、聖母の汚れなき御心の御取り次ぎにより、ただただ、全て忍耐強く、喜びと、愛徳と謙遜とを持って受け入れ、怒りもせず、ぶつぶつ言ったりもせずに、私たちの聖なる主キリストの御受難を思い、キリストへの愛ゆえに私たちがその受難を分かち合うと考え、残酷と軽蔑と不正とを堪え忍ぶことができるように聖母に祈り求め、それに努めているのです。」

あれっ?ホントだ。私たちにはふさわしくないけれど、似てる感じがしますね。


【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

おはようございます\(^-^)/

神父様 「沈黙」の小説・映画について 聖アグネスの祝日のごミサの大阪でのお説教の中で詳しくお話しくださいましてありがとうございました。
私も「沈黙」を読んだ記憶があります。そして それはとても後味の悪い小説だったという印象でした。

それで、何もカトリックの知識のないものが読むのですから、カトリックとはそのようなものなのか?という感覚的な印象が心に強く残ったかもしれません、私はずっと日本の殉教のことを読むとか 見たりするのが嫌でした。長崎に巡礼に行くことになった時も、その気持ちはずっとあったように思います。日本の殉教者に対するイメージがたぶん損なわれていたと思います。最近も「沈黙」の話題を聞くことも嫌でした。心の底にある嫌な感じのイメージがなかなか払拭できないままだったようです。

神父様のお説教を読み 蛇の声と天主の声の違いをはっきりと説明していただいたように感じました。ありがとうございました。ようやくスッキリした感じがいたします。 

「自分で善とか悪を決めれば良い」という考えは、「善と悪の知識の木の実から取って、自分で好きなようにすれば良い」という蛇の声と 同じなのですね。 

また蛇の沈黙と天主の沈黙とは違うということ・・。
十字架の木を取る・・・蛇を足元に踏むマリア様のもとに駆け込む・・・いろいろ黙想します。

遠藤周作氏は晩年の最後の作品で「深い河」を書きました。もうどの宗教でも同じところにいくというように現代は変化しているのだから、自分で好きなものを選んで進んでいけばよいんだよ、という声に従ってしまったのでしょうか。そして そのあとには、どのような死を迎えられたのでしょうか。

もしも 司祭に「そうではない、その考えは間違っている、イエズス様のおっしゃることとは違う」と、はっきりと教えてくれる人がいたなら、そしてそのようなことを教えてくれる人が本当の司祭だと思うことがあったら、回心されていたかもしれませんね。
一人の小説家の作品がこんなにも多くの人に影響を与えるなんて、難しい時代と思います。

どの宗教でも同じところへ導かれるとしたら、どこがよいのか? そういう怖ろしい思考に取り囲まれていたこと、思い出します。その「沈黙」という小説とともに、今も、蛇の声は世間の中で 囁いているのだとおもいます。

私はマリア様に助けられて守られて回心させていただいたと思っています、マリア様の「私の汚れなき御心は避難所であって、天主へと導いている道です、道となるでしょう。」という言葉は、本当ですね!


【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

映画「サイレンスー沈黙」に描かれなかった真実を色々更新して下さってありがとうございます!過去のお説教も典礼に合わせてアップして下さってありがとうございます!

七旬節・六旬節・五旬節の意義を分かりやすく説明して下さってありがとうございます!
このファチマ100周年の四旬節という大穴場の馬券を、祈りと犠牲を以て買って、イエズス様の愛と光が全て集まる焦点であるマリア様の汚れ無き御心に合わせて御捧げする事ができますように!

デオ・グラチアス!


【参考資料】

聖ピオ十世会司祭による聖伝のミサ(ラテン語ミサ トリエント・ミサ) 2015年1月、2月の報告

アヴェ・マリア・インマクラータ!愛する兄弟姉妹の皆様、 こんにちは!今回、日本での聖伝のミサにおいて多くの兄弟姉妹の皆様とお目に掛かれて幸福でした。 東京での主日のミサ......


そこにはユダヤ人のきよめのために準備されている石がめが六つあった 【ヨハネ2章】 四旬節への準備

アヴェ・マリア・インマクラータ!愛する兄弟姉妹の皆様、 2015年2月18日は灰の水曜日、四旬節に入ります。イエズス・キリストは、構成勝に入る直前に40日の断食を荒野で行い......


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