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聖伝のミサ(トリエント・ミサ、ラテン語ミサ、旧典礼のミサ)の報告:10月7日 聖霊降臨後第20主日 ロザリオの聖母の記念日

2018年10月15日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 10月15日から20日までフィリピンのイロイロで司祭黙想会があります。どうぞお祈り下さい。それに伴い、大阪でのミサがキャンセルになりました。ご理解下さい。

 10月21日(主日)の東京のミサは予定通りです。

 11月4日(主日)は、第一主日ですので、東京ではミサの後に聖体降福式があります。
 11月は日本でのミサの予定がイレギュラーになっております。最後のミサは最終の主日(11月25日)の前後です。

 12月1日(土)は、東京でも午後の6時から「命のための祈りの日」としてミサがあります。12月には、新しいアジア管区長のサマース神父様も来日されます。

 12月2日(主日)も、第一主日ですので、東京ではミサの後に聖体降福式があります。
 12月の二回目のミッションは、クリスマスの前後です。

 2019年2月3日(主日)には、シュテーリン神父様が東京にミサに来られます。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

【報告】
Dear Fr Onoda:

今日の東京でのミサの参列者数は下記の通りです。

ミサの参列者数
男: 24人(内、子供2人)
女: 26人(内、子供4人)
計: 50人(内、子供6人)


【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

聖霊降臨後第20主日のごミサをありがとうございました。
ロザリオの聖母の記念の日でもあるので、ごミサに与ることができましたこといっそう、うれしく思いました。

この日は、この福音書で読まれる王官が子どもが死んでしまわないように、イエズス様にお願いする場面を黙想しました。

王官とは私たちのことで、子どもとは霊魂であること、そして王官が死を迎える前にこの子どもつまり霊魂が生きかえらなければならないとのお話でした。

その願いは聴き入れられ、イエズス様は御聖体をもって降りて来てくださる、それどころか、ご聖体拝領によりイエズス様は私たちの霊魂の内にまできてくださり共にいてくださることを、教えていただきました。

私が今生きているのは追放されてきた場所の天国へ戻るためであることを、イエズス様である司祭様がこんなふうに思い出させてくださらなければ、地上での営みだけにすっかり心を奪われてしまいがちになると思います。外から押し寄せてくる情報は、刺激的で扇動的で気を奪われるものばかり、あるいは眠らせようとするものです。

王官という方は自分には子供がいて死にそうだとわかった、だから身分を王官として描かれているのかなとふと思いました。 心の内側に潜む霊魂の存在を気づくことがないままに、その一生が終わってしまう人もたくさんいるでしょう。霊魂の存在に気づくということは、高貴な身分だということなのかも知れません。ミサに与るとき、その人は気づかなくても子どもは(霊魂は)息を吹き返そうとするのかもしれません。

そしてまた、ロザリオの月の10月・ロザリオの記念日の7日のこの日、ロザリオを祈ることが、どんなふうにわたしを天への帰還のために必要な恵みを与えてくださるかを教えていただきました。

喜びの玄義では、・・天主が人となってくださった。

苦しみの玄義では、・・天主が私たちのために苦しんでくださりどれほど愛してくださったか支払いが高かったか。

栄えの玄義では、・・私たちも天国へ行かなければならない。

ロザリオの玄義は私たちの救いのために必要なことを黙想するように整えられていることを再確認することができました。

イエズス様がミサの中でご聖体を通して、マリア様がロザリオをとおして、私たちを間違いなく天国へ導いてくださろうとしているということを、あらためて心に留めることができましたことを感謝いたしました。

世界遺産に登録された隠れキリシタンのことの報道を見たり読んだりする機会がとても多いこの頃です。ちょうど国士舘大学博物館でのキリシタン史展を拝観する機会もいただきましたが、そこでもやはり、ロザリオの玉や御聖体のメダイなどの、遺品などが、印象に残りました。

遺跡からわかったこととして、小銭のようなものを御聖体のメダイに見立てて、口に含んで殉教されたカトリック信者もいたようでした。高価なメダイが誰でもいつでも簡単に手に入らなかったとのこと。 日本の先祖のカトリック信徒は、確かにロザリオと御聖体で、信仰を守り通そうとしたことが伺えました。 当時の要理の本の古いものも展示されていて、基礎の要理を学ぶことを大切にしたことも伝わってきました。

この日のお説教でも確かに同じこと(御聖体・ロザリオ・公教要理)を教えていただいたことを思うと、私たちは聖フランシスコ・ザビエルが伝えた時のままの最初から伝承された信仰を受けているのだということを感じられます。 彼らが与っていたごミサもこの聖伝のミサだったでしょう。

未来においては、『日本では一時期ノブスオルドミサしか上げることの許されない危機に陥ったが、聖ピオ十世会の尽力によって伝統的なミサが禁止されたものではないことが知られるようになった。やがて日本の各地でもトリエント・ミサがささげられうようになり、よみがえった隠れキリシタンとふたたび同じ信仰がつながるようになりました』と、キリシタン史に残るのではと想像しました。

その時は 最初の迫害は外からの迫害だったけれど、二度目の迫害は内側にはいり込んだ敵の画策によるものだったとも、紹介されると思います。これまで日本でキリシタンの方々は、どれほど迫害を堪え忍んでいたことでしょう。

今の日本で伝統的カトリック信仰を求めることも厳しいですが、日本人はあまりにもひどい迫害の歴史をもっていることを思うと、聖母マリア様と大天使聖ミカエルと聖なる殉教者の取次によって、なんとかこの内側にはいり込んだ敵からによるカトリック信仰への迫害がなくなりますようにと思います。

小野田神父様、いつも素晴らしい聖伝のミサをお捧げ下さいまして、まことにありがとうございます。


【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

公教要理のご報告です。

この日のテーマは、とても難しかったです。

325年の二ケア公会議では、
異端のアリウス派・・イエズス・キリストは人間であり天主ではない
正統のアタナシウス派・・イエズス・キリストはまことの天主でありまことの人間である

この時聖書以外の専門用語が、カトリック信仰を見出すために使われた。
この時はホモウシオス homoousios(同じ「実体」、同じ本性)という用語が使われた。
ホモ=同じ
ウシア=実体

イエズス・キリストは、聖父と同じ本性である、同じ「実体」である、と使徒信経で言われるようになった。

実体というのは、ラテン語でスブスタンチアsubstatia(下にたつもの)と訳された。
偶有(たまたまあるものの性質)の《根底にあるものということ》。

この実体という言葉を知らないと誤解してしまうことがある。意味を間違えやすい言葉の一つ。

最初に《有る、在る》ということに気づいて学問を立てたのは、アリストテレスという人。

実体(ウシア、有るもの)には、この二種類の意味がある。
1)第一の実体という、今ここに目の前で存在している「この或る馬」、「この或る人」
2)抽象的な「馬」「人」一般、この意味では「本性」「本質」と通じる意味になる。

431年のエフェゾの公会議では

ネストリウス派の異端のために開催された。ネストリウスは「ヒュポスタシス」という言葉を誤解してしまったのかもしれない。

カトリック教会の教え:イエズス・キリストは天主の本性と人間の本性とを、唯一の天主のヒュポスタシスにおいて合一させている。これを「ヒュポタシスにおける合一 hypostatic union」という。

ヒュポタシスとは、ウシアよりももっと深い「知性あるもの、意志あるものの根本にある」「わたしの中核にたつもの」
ラテン語では、この意味では、ペルソナとか、subsistentia(自立存在するもの)と訳される。

天主の本性と人間の本性この二つの本性がヒュポタシスにおいて一致している。
知性あるもの意志あるものの根本にある・わたしの中核にたつもの=ラテン語でペルソナ、自立存在するもの

でも直訳すると、ヒュポ=下・隠れてる、スタシス=立つという意味。だからヒュポスタシスは substantia とも訳されかねない。しかしそう訳してしまうと誤解を招きやすくなる。何故なら、substantia は「本性」「本質」という意味をも持つから。

ネストリウスは、イエズス・キリストにおいてヒュポタシスが二つあるとした。つまり、天主のヒュポタシスと人間のヒュポタシス。

ネストリウスは、
「イエズス・キリストにおいて二つのヒュポスタシスがあり ー天主のヒュポタシスと人間のヒュポタシスー その二つが、ペルソナ(プロソポン)において一致している」と主張した。

しかし、カトリック教会の教えは、
「イエズス・キリストにおいて二つの本性があり ー天主の本性と人間の本性ー その二つが、ペルソナ(ヒュポスタシス、あるいは subsistentia)において一致している。」
感想です。イエズス様が、人であり天主ではないという考えをする異端・カルトはいつの時代にも現れてきてしまうのは、このペルソナとか実体とかいう根本のところの存在のありかたということを理解するのが、人間にとってどれだけ難しいことなのかということかと思いました。

また、人間は誰でもペルソナを一つ持っていて、生まれてくる命はだれでも一つのペルソナをもっているもので、それはけっして消えることもないと伺うことができました。それゆえ輪廻などないということを確認できました。人間に命の尊厳があるのは、このペルソナがあるゆえなのでしょうか。あまりに難しいお話でしたので、この深淵な知識を完全に理解することはできないと思いましたが(理解したいと思ってもできないので)、でも可能ならほんのちょっとでも頭の片隅に入れていたほうがよいと感じました。それは、教義上の重要なことを理解するために、どうしても必要になることだということだけは感じられたからです。

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