2022年8月11日黙想会
ドモルネ神父による第二の講話
罪について黙想いたしましょう。
罪とは、天主のみ旨に背くことです。私たちは天主とその無限の御稜威を直接見ることは出来ませんから、罪がどれほど天主のお怒りを招くものなのか、常に気がつくというわけではありません。私たちはとても自己中心的ですから、罪がどれほど天主に対して恩知らずなものなのか、常に気がつくというわけではありません。
私たちは非常に多くの罪を犯しますから、その罪に慣れてしまい、ほとんど注意を払わないという傾向があります。その結果、私たちの痛悔はしばしば表面的なものに留まります。もう二度と罪を犯さないという私たちの決心は、弱いものです。真剣に自分を改めようとするところまではいかないのです。
このお話の目的は、罪とは何かというということを深く考えることによって罪の重さをもっとよく理解して、自分の罪を心から痛悔して、これ以上罪を犯さないようにと、堅くそしてより堅く効果的な決心を立てることにあります。
【天使の罪】
聖イグナチオは、天使の罪について考えてみることを提案しています。天主はまず天使を創造されました。
天主は天使をご自分の象り・似姿として創造されて、そして天使に知るための知性と愛するための意志をお与えになりました。知性によって、天主を知る能力を受けました。意志によって、天主を愛する能力を受けました。知性と意志とともに自由・意志つまり天主を愛するか愛さないかを選択する能力をも受けました。天主を愛することを選べば天使は報いを得ることができますけれども、天主を愛することを拒めば天使は罰を受けることになります。
天主は、永遠の幸福を与えようとお招きになるために天使を創造されました。この招きをなさる必要はありませんでした。なぜ必要ないかというと、天主には天使を完全に幸福な状態にする必要はないからです。天使に対する善意から、そうすることをお望まれになりました。天使は自分の力では天主のいのちと幸福にあずかることはできません。天使のいのちと幸福はその能力を超えているからです。そこで天主は天使に能力をお与えになりました。その能力は「成聖の恩寵」と呼ばれています。
この成聖の恩寵によって天主は天使に友情という愛と永遠の幸福の約束をお与えになりました。ですから、天主は存在・自然の善・超自然の善というすべてをお与えになりました。全く自由に、ただで、無償で。
ではそのお返しに何をお求めになったのでしょうか。感謝と愛をお求めになりました。天主へのまことの愛というのは、掟に従うことによって示されます。天国の永遠の幸せを与える前にその愛をテストしようとされました。
そこで天主は将来なさるおつもりのことを、天使たちには理解できない神秘を、明らかにされました。そしてこの神秘を信じて、主のみ旨に従うことに同意することで、信仰と謙遜の行ないをするようにお求めになりました。多くの天使たちは天主のみ旨に従うという謙遜の行ないをすることを拒みました。なぜ拒んだのか。傲慢のためにです。天使たちは自分たちが受けた賜物により非常に傲慢になっていて、それで天主から自分に天主御自身のようにすべてを理解することを与えてもらいたいと思っていました。自分の与えられた自由を濫用して、主のみ旨に服従するのを拒みました。天主が与えられた神秘を信じることを、服従することを、拒みました。この天使たちの忘恩について私たちは考えるべきです。
罰はたちまちに下されました。天主の正義によって、反乱のそのまさにその瞬間に、天主は打ちました。恩知らずは非常に悪質で、傲慢は非常に愚かだったので、罰はすぐでした。その瞬間に天主は地獄を創造しました。大天使聖ミカエルによって反乱の天使たちはその中に投げ込まれられました。天主が天使たちに与えたその愛またすべての賜物、自然のお恵み、超自然のお恵みがあっても、でも天主の完全な正義のために、天使たちを罰することを止めるものは何もありませんでした。天使たちは今でも永遠の地獄にいます。耐えがたい苦痛を受けて、怒りと絶望に満ちています。
この天使たちはたった一つの大罪だけを犯しただけです。そして、その犯した瞬間に、直後に罰せられました、永遠に。
天使たちの受けた罰は私達への教訓です。人間よりも天使たちの方がずっと完全で美しいものです。そのような素晴らしい天使たちを容赦されなかったのならば、人間はどれほど容赦されないことでしょうか。天使たちは人間よりも力があります。天使たちがそれでも地獄の苦しみに耐えることができないのならば人間はどれほど耐えることができないでしょうか。天主の正義がどれほど恐ろしいかを黙想しなければなりません。天主の正義を恐れなければなりません。
それでは、私たちの状況と天使たちの状況を比較してみましょう。私たちが存在するその最初から天主がどれほど私たちにとって善い御方であったかを思いだしてください。私たちのいのちや、持っているものや、私たちを取り巻くところにあるものは、すべて天主に由来しているものです。天主は私達を永遠の幸福へと招いておられて、そしてそれに到達するための手段もくださっています。聖寵、聖徳、ミサ、秘跡、イエズス様、マリア様、すべてをお与えになっています。天主はすべてをお与えになられているのに、一方で私たちはどれほど恩知らずでいることでしょうか。ちょうど反乱した天使たちのように天主のみ旨にしたがうことを拒んできました。わたしたちも罪のために天主の罰を受けるのにふさわしいものとなりました。天使たちよりももっと厳しい罰を受けるべきものです。天使たちはたった一回しか罪を犯しませんでしたが、私達は何度も罪を犯したからです。
天使は傲慢の罪をたった一回犯しただけです。しかし私たちは多くの傲慢や貪欲や不潔や嫉妬、憤怒、貪食、怠惰など多くの罪を犯してきました。イエズス・キリストは天使たちを救おうとするためには亡くなろうとしませんでした。しかし人間を救うためには、命を落とされました。天主が私たちのためにすべてをしてくださったにもかかわらず、私達は平気で罪を犯し続けて主の憐れみを軽蔑しています。悪魔たちの堕天使たちの反乱を私たちは真似したのですから、彼らよりももっと私たちは地獄に落とされて当然のものです。すぐにわたしたちは、自分の罪のためにいまは当然地獄にいるはずべき身のものであることを理解できます。しかし、いままでのところ、主が私達を地獄の火に罰せておられてないということを驚かなければなりません。
ですから、心のなかで例えばこのようなお祈りをしてみるのはどうでしょうか。黙想のあいだに、例えばこうです。『わが天主よ、どうしてまだ私を地獄で罰せられないのですか。これほど恩知らずで悪人の私を。私にはこの罰がふさわしい者です。わが天主よ、私は御身の正義をあがめます。御身は天使を裁かれたように私をも裁かれます。自分の罪を思い出して私は恐ろしくなります。力ある天使をこのような恐ろしい方法で罰せられたのならば全く力のない私などいったいどれほど罰せられるのでしょうか。わが全能の創造主よ、御身は今まで私に御身が憐れみ深い御方であられることを示してこられました。私を憐れんでください。私の罪を赦してください。私に相応しい地獄から私を救い出してください。』
【アダムの罪】
では二番目の罪であるアダムの罪について考えてみましょう。
私たちの人祖であるアダムとエヴァに対してどれほど天主がよい御方であったかを思いだしましょう。天主は二人を全くの善意から創造されました。天主は御自分で全く完全で幸福な御方です。ご自分が幸せになるために天使も人間も作る必要はありませんでした。しかし天主は、二人をご自分の象り・似姿にお造りになりました。人間にも、天主を知る知性や天主を愛する意志と愛することを選ぶ自由をお与えになりました。天主は、二人を楽園と呼ばれる素晴らしい庭に置きました。天主は、アダムとエヴァに賜物をふりそそぎ、二人に情欲もなく苦しみもなく死もなく、楽園で静かに幸せな生活を送るようにさせました。更には天主は、二人にいつか天国で天主の永遠の幸福にあずかれるようにということも招かれました。天使たちと同じように、二人に成聖の恩寵というかけがえのない賜物をも与えました。この賜物はアダムとエヴァにだけでなくて全ての子供たち・子孫にも与えられました。アダムとエヴァ、そしてその子孫たちに対してどれほど寛大で良さに満ちて行ったかをご覧ください。それ以上のことをどのように想像することができるでしょうか。そのお返しに天主は何を求めたでしょうか。愛です。天主のみ旨に従うことによってあらわされるまことの愛です。
そこで、アダムとエヴァに自分たちの愛がまことであるということを証明する機会をお与えになりました。非常に簡単な掟を与えました。ある木の実を食べないように、という掟を与えたのです。この掟を守ることはとても簡単なことでした。楽園にはそのほかにたくさんの美味しい実をつける樹があったのです。アダムとエヴァは何の不足も全くありませんでした。天主は彼らに何でも与えたからです。それにも関わらず、アダムとエヴァは背きました。みなさんご存じです。悪魔は、好奇心と傲慢でエヴァを誘惑し、エヴァは禁断の実を食べました。アダムは天主のみ旨よりも妻の意思に従うことを好みました。アダムも禁断の実を食べました。こうやってアダムは自分になされたすべてのことを軽んじました。この実を食べたらお前は死ぬ、という天主の厳しい警告をも軽蔑しました。天主が自分にして下さった全てのことで傲慢になっていたのです。天主からこれほど愛されているのだからおそらくまさかこのような罰をすることがないだろう、と思っていたのかもしれません。しかし恐ろしいやり方でアダムとエヴァに罰が下りました。
アダムとエヴァは楽園から追放されました。苦しみ、働き、死ぬことを宣告されました。更に悪いことには、二人は天主との友情を失いました。成聖の恩寵を失い、天国に行く可能性も失いました。それは、自分自身のみならず、そのすべての子孫たち、すべての人類に及びました。アダムの罪は、他の全ての人々の罪の発生源のようなものになりました。アダムはたった一つの大罪を犯しました。このたった一つの大罪のために、自分と全人類にどれほどの悪をもたらしかを考えてください。たった一度の大罪で、成聖の恩寵と天国へ行く可能性を全て全人類のために奪ったのです。なんと恐ろしい罰でしょうか。
しかし天主は正義のお方ですから、正義以上のことは罰することはできません。また天主は正義よりも憐れみをもって罰する方であられることを私たちは知っています。もしも天主がアダムをこのように罰したのならば、この罪がどれほど恐ろしいことかということがわかります。大罪がこの世で起こる最悪のものであるということを理解しなければなりません。大罪によって私たちは成聖の恩寵、天主との友情を失ってしまいます。永遠のいのち、永遠の幸せを失ってしまいます。大罪一つで、私達はすべての聖徳と功徳をも失ってしまいます。大罪は、私達に永遠の地獄を宣告します。大罪のせいで、この世で苦しむことにならねばなりません。真理において大罪はこの世で最も悪であるといわなければなりません。
ですから猛毒の蛇から逃れるように私たちは罪から逃れなければなりません。聖霊が聖書の中で語っている言葉に耳をかたむけてください。
集会の書からの引用を申します。
「子よあなたは罪を犯したのか。
もう二度とするな。
以前犯した過ちの免赦を願え。
蛇を避けるように罪を避けよ。
それに近寄るとあなたはまた噛まれる。
その歯は致死の歯で人の命を奪う。
法の違反は諸刃の剣でその傷は治らない。」
引用を終わります。
では、アダムと私達を比較してみましょう。アダムのように私たちは天主の掟に逆らいました。アダムが天主のみ旨に従うよりも妻の望みを満足させる方を好んだように、私達も天主に従うよりも自分の傲慢・肉欲・憤怒・快楽への渇き・強情さを満足させる方を好んできたのです。アダムはたった一度の罪を犯しただけですけれど、どれほど恐ろしい罰を受けたか見てください。私達は何度も罪を犯しました。
では私たちにはどのような罪がふさわしいのでしょうか。この世の全ての悪と起こりうるすべての苦しみが私たちの上に降り掛かって、それでふさわしいのです。私達は、罪においてアダムの真似をしたので、償いにおいてもアダムの真似をしなければなりません。アダムは自分の罪を嘆いて残りの人生を生涯にわたって厳しい償いの生活をしました。生涯に渡っての償いの生活というのは930年生きた償いの生活でした。930年のあいだ自分の罪を嘆き続けました。長いですね。私達も生涯のあいだずっと罪を嘆き続けなければなりません。謙遜に忍耐強く寛大に一生のあいだ罪の償いをしましょう。
【たった一回の大罪】
では今たった一回の大罪を犯しただけで地獄に行くことを考えてみましょう。
想像で地獄に行ったと考えてみましょう。地獄には恐ろしい苦しみの中にいる人達がたくさんいます。その中にはたった一回の大罪を犯しただけでそのために地獄にいる人もいます。ある人々は不潔の罪のため、他の人は隣人に対する憎しみの罪のため、その他の人は盗みの罪のため不正義の罪のため、ある人は冒瀆の罪のため、などなど。そしてこのようなたった一つの大罪を犯しただけの人であっても、なかには、よいキリスト教信者の方もいます。ある時はよいキリスト教信者であったということもあります。洗礼を受けて、堅振も受けて、御聖体拝領もして、告解もしたという人です。しかし、冷淡になって大罪を犯してそしてその状態で死んでしまった、その罪を犯している最中に亡くなった、あるいはその直後に亡くなったので、償いをする時間あるいは痛悔をする時間がなかったのです。
では、このような人々と私達を比較してみましょう。このような人々に起こったことは私達にも起こりうることだったのではないでしょうか。私たちは今までどれほど多くの大罪を犯して来たでしょうか。何度地獄に落ちるにふさわしいものだったでしょうか。そして天主がそのような罪を犯した直後に私たちのいのちを取って私達に地獄の罰をうけさせるということが何度起こりうることだったのでしょうか。天主はこの人たちをたった一回の大罪のために永遠の地獄で罰せられるのになんで私はそうでないのでしょうか。わたしは彼らより良かったのでしょうか。いいえ。それではなぜ天主は私にそのような憐れみを見せてくださったのでしょうか。これは天主の秘密です。今までこのように地獄から救って守ってくださっていた天主には将来もそうしなければならないという義務はまったくないということです。もしも将来、たった一回でも大罪を犯した直後に命を落としてしまえば、私達もほかのあの人たちのように地獄に行かなければならなくなります。
つぎの最後のポイントで、これで終わります。
いわばもしも私たちが大罪を犯したその直後に死ななかったというのは、ある意味で私達が実は地獄に落ちていたのだけれどもそこから天主が引き出してくださって、そこから償いをするチャンスを第二のチャンスを与えてくださったことだ、と例えることができます。
もしもこの地獄に落ちた方々の中から天主が特別にひとりを選んでこの地上にもどして、そして、償いと天国に行くための悔い改めのチャンスを与えたのだとしたら、一度限りの最後のチャンスを与えたのだとしたら、どうでしょうか。このような人が今後どのような生活をするか想像してみてください。
天主の赦しを得るために、祈り、償い、行いを全て捧げるということを想像できます。どれほど注意深くたった一つでも罪を犯さないようにとどれほどするかということを想像できます。そして罪を犯すよりもどのような苦しみでも喜んで苦しむというようなことも理解できます。このような態度こそが私達が取らなければならない態度です。
私たちは今地獄にいるかもしれないようなものですが、しかし天主の憐れみによってそれがそうではないのです。天主はもう一度チャンスを与えてくださったために地獄にはいないのです。愚か者でないように、そして聖寵を無駄にしないようにしましょう。たった一つの大罪を犯すよりもむしろ死を覚悟するように準備しましょう。
天使の罪、アダムの罪、それに対する罰、そして私たちの罪にふさわしい罰についてもう一度黙想しましょう。
今からチャペルに行きます。私たちの心の中に罪への深い憎しみ、二度と罪を犯さないという固い決心をたててください。それから最後にどのようにして具体的に罪を避けるかという遷善の決心をたてることを忘れないようにしてください。この決心を童貞聖マリア様にお願いして、聖母の導きのもとに自らを置くようにいたしましょう。お御堂に行きます。