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Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

4月29日(月曜日:昭和の日)には、名古屋で午前10時半から聖伝のミサが捧げられます

2024年04月26日 | 聖伝のミサの予定

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

2024年の良き牧者の主日にはアジア管区の神学生たちのために
東京では、41900円の特別献金が集まりました。
大阪では、69500円でした。
日本からは、計111400円が集まりました。ありがとうございます。

日本に司祭が常駐し毎日聖伝のミサが捧げられ、東京にも固定の聖堂が与えられたことに感謝して、日本から司祭の召命がたくさんありますよう祈りましょう。毎日ロザリオの祈りと犠牲をお捧げしましょう。

4月29日(月曜日:昭和の日)には、名古屋で午前10時半から聖伝のミサが捧げられます。多くの方々がミサに与かることができますように!

 


旧約に登場する多くの羊飼いの太祖らと深いつながりがある主イエズス・キリスト:善き牧者

2024年04月26日 | お説教・霊的講話

旧約に登場する多くの羊飼いの太祖らと深いつながりがある主イエズス・キリスト:善き牧者

2014年4月14日 善き牧者の主日の説教 東京および大阪

レネ神父 

親愛なる兄弟の皆さん、

私たちの主イエズス・キリストは善き牧者、善き羊飼いです。さて、この偉大な真理をもっとよく理解するためには、旧約に登場する多くの羊飼いを思い起こすことが有益です。

【旧約に登場する羊飼い】
アベルは羊飼いでした。彼は天主に嘉せられるいけにえを捧げましたが、彼を殺した兄によって、自分自身がいけにえとなりました。ですから、アベルは、ご自身をいけにえとして捧げられる、司祭としてのキリストの像であり、かたどりなのです。

アブラハム、イサク、ヤコブは羊飼いであり、聖なる民の父祖でした。彼らも多くの羊のいけにえを天主に捧げました。

モーゼは羊飼いでした。義父エトロの羊の群れの世話をしていましたが、ヘブライ人をエジプトの奴隷状態から救い出すという使命のために、天主に選ばれました。彼は、羊の群れを率いていたことから、民を率いる者となり、また民を救う者となりました。このように、彼もまた、キリストの像であり、かたどりでした。

ダヴィドがイスラエルの王になるために選ばれたとき、彼もまた羊飼いでした。

さて、これは、まさにその通りのことなのです。ヘブライ語で「王として支配する」という言葉がまさに、「群れの羊飼いとなる」という意味なのですから。それゆえ、詩篇の「天主はわが牧者」は、「天主はわが支配者、わが王」と訳されることもあります。

【羊飼いの役割】
羊飼いは群れに餌を食べさせて養い、群れを良い牧場に導き、狼やその他の敵から群れを守ります。羊飼いは羊を世話し、羊の名前を、羊飼い自身が羊につけた名前を知っています。

【主イエズス・キリストは養う】
私たちの善き羊飼いである私たちの主イエズス・キリストは、その善き教えで私たちを養ってくださいます。「人はパンだけで生きるのではない。天主の口から出るすべての言葉によって生きる」(マテオ4章4節)。最高の教師である私たちの主は、最高の預言者であり、モーゼの預言で約束された預言者です。「主はおまえの民の中から、おまえの兄弟の中から、私のような預言者をおまえたちのために立てられるであろうから、その者の言うことを聞け。…私は彼らの中におまえのような預言者を立て、その口に私の言葉を置く。私がその預言者に命じたことをすべて、彼が語る」(第二法の書18章15、18節)。この預言は、使徒行録で二度引用されています。ペトロによって一度(3章22節)、聖ステファノによって一度(7章37節)。

私たちの主はまた、ご聖体におけるご自身の肉と血で私たちを養ってくださいます。「私の肉はまことの食べ物であり、私の血はまことの飲み物である。私の肉を食べ、私の血を飲む者は、私に宿り、私もまたその者のうちに宿る。生きてまします御父が私を遣わし、その御父によって私が生きているように、私を食べる者も私によって生きる」(ヨハネ6章56-57節)。

【主イエズス・キリストは良い牧場に導き守る】
私たちの主は、まずご自身の模範によって、また新しい法を与えることによって、ご自身の掟の道で導いてくださいます。「あなたたちの天の父が完全であるように、あなたたちも完全な者になれ」(マテオ5章48節)。「私はあなたたちに新しい掟を与える。あなたたちは互いに愛し合え。私があなたたちを愛したように、あなたたちも互いに愛し合え」(ヨハネ13章34節)。天国への道で最高の導き手である私たちの主は、王の中の王であり、羊飼いの中の羊飼いなのです。

【主イエズス・キリストは汚れなき小羊といういけにえであり、自分を捧げる】
そして最後に、私たちの主は、ご自身のいけにえを捧げられます。主は、汚れなき小羊といういけにえであると同時に、「将来の恵みの大司祭」(ヘブライ9章11節)として、いけにえを捧げるお方でもあります。

【主イエズス・キリストは司祭であり預言者であり王】
私たちの主イエズス・キリストは、司祭であり預言者であり王です。これら三つの役割は、キリストのかたどりである旧約の偉大な羊飼いたちによって行われていました。注目すべきなのは、これらの三つの役割には、聖香油を注ぐことも必要だったことです。

アロンはモーゼによって、エリゼオはエリアによって、ダヴィド王はサムエルによって油を注がれました。ヘブライ語では「メシア」、ギリシャ語(とラテン語)では「キリスト」という言葉は、聖香油を意味する「クリスマ」に由来します。私たちの主イエズス・キリストは「油を注がれた者」です。物質としての油を注がれたのではなく、ご托身そのものによって、主の神性が人性に完全に浸透していき、唯一無二の方法で聖別されたのです。「あなたは正義を愛し、悪を憎んだがために、天主は、あなたの天主は、あなたの同胞の誰にもまさって、あなたに喜びの油を注がれた」とメシア詩篇の44篇(8節)は言います。

【三つの霊印の刻印】
さて、三つの秘跡が、司祭、預言者、王としてのキリストと私たちを一致させる霊印を刻印し、このしるしは、その秘跡を執行する際に聖香油を使うことによって示されます。その三つの秘跡とは、洗礼、堅振、司祭職です。洗礼志願者は、洗礼水で洗われる前、最後に「洗礼志願者用の聖油」を塗られることで洗礼の準備をし、洗礼水で洗われた後、司祭は新たな受洗者の頭頂部に聖なるクリスマを塗ります。また堅振の秘跡は、本質的には、司教の言葉とともに聖なるクリスマを塗ることにあります。司祭叙階においては、司教は司祭の両手に「洗礼志願者用の聖油」を塗って、親指と人差し指に特別な方法で聖油を塗ります。また、司教の聖別式では、モーゼがアロンに行ったように、聖別する司教が、司教となる者の頭の上に聖なるクリスマそのものを注ぎます。

洗礼の霊印は、人を、私たちの主イエズス・キリストの賜物を受けることができるようにします。ですから、新たな受洗者は、王たるキリストの導きを受け、その御国の市民となり、キリストの法、すなわち永遠の命へと至る命の法に従うのです。また、新たな受洗者は、聖ヤコブが言う(1章21節)ように、「あなたたちの霊魂を救うことのできる言葉を、(最高の教師であるキリストから)素直に受け」るのです。そして、新たな受洗者は、個人的な犠牲(「毎日の小さき犠牲」)を捧げ、大司祭たるキリストからご聖体を受けることができる能力を受けるのです。

次に、堅振を受けた信者は、堅振の霊印によって、大司祭であり預言者であり王であるキリストから受けたものを守ることができるようになります。この信者は、王たるキリストの兵士となり、最高の預言者たるキリストの真理の証人となり、大司祭たるキリストとともに殉教して自分の命を捧げる用意があるのです。

【主イエズス・キリストは役務者を通して群れの世話をされる】
そして、司祭であり預言者であり王であるキリストと共にあずかる最高のものは、叙階の霊印によって受けるものです。人は、王たるキリストの役務者となり、善き羊飼いであるキリストの御名によって群れの世話をします。人は、預言者たるキリストの真理の教師となります。また、人は、大司祭たるキリストの役務者となり、最高のいけにえを、十字架上の私たちの主イエズス・キリストという天主の小羊のいけにえを捧げます。その段階においては、人は司祭であり預言者であり王であるキリストの賜物を、実際に与えるのです。

ですから、私たちの主イエズス・キリストが、ご自身の群れの世話をされるのは、預言者エゼキエルによれば、特に役務者を通してです。「主なる天主はこう仰せられる。私は自分で群れを心にかけ、世話をしよう。羊飼いがその散っている羊とともにいるとき、群れを心にかけているように、私は自分の羊を世話し、霧と闇のときに散ったところから救い出す。私は、もろもろの民の中から彼らを引き揚げさせ、各地から寄せ集め自分の地に導きかえし、イスラエルの山々の上、水の豊かな谷の中、その国のすべての草原で牧する。私は肥えた牧場(まきば)に彼らを導く。その住まいは、イスラエルの高い山の上となる。彼らはここで、良い檻(おり)の中に住み、イスラエルの山々の上に豊かな牧草を見いだすだろう。私は自分で羊を牧し、彼らを休ませる、と主なる天主は仰せられる。私は失ったものを捜し出し、迷ったものを連れ帰り、傷ついたものを巻き、弱ったものを強め、よく肥えた強いものを守り、よろしく彼らを牧そう。私の群れよ、あなたたちについて、主なる天主はこう仰せられる。見よ、私は羊と羊の間の、雄羊と雄山羊の間のことを裁く」(エゼキエル34章11-17節)。

よき羊飼いであるキリストの使命を継続させるためには、刈り入れの主がご自身の刈り入れに働き人を送ってくださるように、また、聖職者全員が真に善き羊飼いになるように、抜きん出た善き羊飼いである私たちの主イエズス・キリストの役務者になるように、多く祈る必要があります。「私たちをキリストの役務者、天主の奥義の管理者だと考えよ。管理者に要求されるのは忠実である」(コリント前書4章1-2節)。この「忠実」という言葉は、聖パウロがキリストの役務者に要求しているすべてのことを要約しています。天主の御子ご自身によって啓示された不変の真理であるキリストの教えに対して忠実であること、キリストの聖性の模範に対して忠実であること、私たちの主イエズス・キリストの道徳に対して忠実であること、キリストの霊に対して忠実であること、一言で言えば、カトリックの聖伝に対して忠実であることです。これこそが、聖ピオ十世会の戦いなのです。皆さん、私たちが忠実であるように、私たちのために祈ってください! これは、自動的に与えられるものではなく、皆さんの祈りと私たちの努力が必要なのです。忠実であるためには、私たちの主イエズス・キリストの恩寵が私たち全員に必要であり、それによって私たちは、皆さんが「満ち満ちる天主によって満たされる」(エフェゾ3章19節)ために、皆さんに対する天主の奥義の管理者となるのです。

【善き牧者の御母に祈る】
善き牧者の御母に、特に祈りましょう。キリストの霊を持つ人がいるなら、それは童貞聖マリアです。聖母は大司祭の御母であり、すべてのカトリック司祭の母です。私たちが、良き牧者として、また天主の奥義の忠実な管理者として、御子に忠実であるように、童貞聖マリアが私たちを助けてくださいますように。それによって皆さんが、また私たちも皆さんとともに、天国に行くことができますように。アーメン。


復活したキリストの弟子たちへの御出現を黙想する。私たちに対するキリストの憐れみ深い愛、人間としてのキリストを見てキリストの見えない神性を信じたトマス

2024年04月26日 | お説教・霊的講話

2024年4月7日 東京 10時30分ミサ 説教

トマス小野田圭志神父

愛する兄弟姉妹の皆様、
今日は2024年4月7日、主の御復活の八日目、白衣の主日です。
では、今日は一緒に今日の福音を黙想いたしましょう。特に、キリストの私たちに対する深い愛、そしてそれにイエズス・キリストに対する信仰について、わたしたちにどのような信仰が求められているかということを黙想して、今日の福音から霊的な利益を引き出すことにいたしましょう。

【1:キリストの最初の御出現】
御復活の主日の夕方、キリストは、部屋の扉が閉じられていたにもかかわらず、使徒たちに現れました。使徒トマスは、その時不在でした。戸が閉じられていて夕方だったのにもかかわらず、主が来られたというのは、神秘的な理由として、聖トマス・アクィナスによると、主がこの世の夕暮れに、もう一度栄光あるお姿で来られるということを暗示しているといいます。主がなさった譬えのなかにも、「日暮れになったので、ぶどう畑の主人は、会計係に、"はたらく人を呼んで、あとの人からはじめて、最初の人まで、賃金をはらえ"といいつけた。」(マテオ20:8)ともありますし、また別の譬えには、「夜半に、"さあ、花むこだ。出むかえよ!"と声がかかった。」(マテオ25:5)という譬えもあります。主を迎える準備をしていた花嫁たちは、主と「いっしょに宴席にはいり、そして扉は閉ざされ」(マテオ25:10)ました。また、使徒たちに現われて、主が言ったことは、慰めの言葉と憐みの言葉以外の何物でもありませんでした。
「あなたたちに平安!」これを二回も繰り返されます。弟子たちの弱さや逃亡・裏切りなどをなじる言葉は一切ありませんでした。それどころか、弟子たちに息を吹きかけて「聖霊を受けよ」とおっしゃいながら、罪を赦すという特別の権能さえも委託されます。なんという憐れみでしょうか。

【2:キリストの二回目の御出現】
復活の主日から八日の後、主はまた弟子たちのところに来られます。八日の後、これは聖トマス・アクィナスによると、神秘的な意味で、この世の第八の時代に、つまりこの世の終わりに、死者のうちから人々が復活したその時代に、イエズスが来られるということを暗示しているといいます。
イエズス様が来られる必要があったのは疑っていたトマスでした。しかし主はトマスだけではなく、弟子たち皆に現れました。これは、私たちが愛徳のうちに、一致のうちに生活することを望んでいるということを表しています。また、将来、世の終わりには、一人も不在する者がないように、全ての人々を集めるということを神秘的に暗示しているといいます。主は世の終わりについてこうも言いました。「はげたかは、体のある所に集まってくる。」(マテオ24:28)また世の終わりについてこうもおっしゃいました。「らっぱの高いひびきとともにつかわされた天使たちが、天のこの果てからあの果てまで、地の四方から選ばれた人たちを集めるだろう。」(マテオ24:31)と。
ですから八日目に弟子たちが集まっているところにイエズス様はもう一度あらわれました。かれらに何とおっしゃったかというと、また「あなたたちに平安!」とおっしゃいます。これだけをおっしゃいます。これは、イエズス様が、将来の、永遠の平和、不死の死ぬことがない平和、また愛徳の一致の平和を約束されたということです。もちろん、信じなかった、疑ったトマスに対する嫌味や皮肉などは一切ありませんでした。

【3:トマスの不在と不信】
イエズス様が最初にご出現になったときに、トマスは不在でした。「トマス」というのは、この語源によると、双子【ヘブライ語でトアム】、あるいは深淵【アラマイ語でトマ、ヘブライ語でタオム】つまり深みという意味があります。ディディモというのは、ギリシア語で双子という意味です。トマスというのはつまり、深淵であって、深みですが、この深みや深淵には闇があります。暗闇があります。確かにトマスには、深淵には、深い不信の信じないという暗闇がありました。このトマスに現われたキリストには、さらに深い憐れみの深さがありました。「Abyssus abyssum invocat. (Ps 41:7)」と詩篇にあります。「深淵は深淵を呼び求める」と。キリストの憐れみの深さは、トマスの不信仰の深みに呼びかけて、その深みから、キリストの信仰の深みへと呼び出されようとしたかのようです。
聖グレゴリオによると、トマスの不在は偶然ではありませんでした。主の御摂理によるものであって、憐れみの計画によるものでした。つまり、主の肉体の傷に触れることによって、疑っていた使徒が、私たちの不信仰の傷を癒すことを望んでいたから、だといいます。つまり聖グレゴリオによると、トマスが信じなかったこと、疑ったことは、信じていた弟子たちの信仰よりも、私たちの信仰にとってはもっと利益があったと言っています。ここに主の憐れみの深さが、またあらわれています。主はわたしたちの信仰を強めること、深めること、これをお望みになり、使徒の疑いを許されたのでした。わたしたちの利益のために、主は選ばれた義人であっても、苦しみを経験することをお許しになります。ですから、私たちの利益のために、使徒あるいは預言者あるいは殉教者たちが苦しむことが許されるのです。
聖パウロはこうも言っています。「私たちが患難を受けるとしても、それはあなたたちの慰めと救いのためである。」(コリント後1:6)。ですから時には、私たちの教訓のために、聖なるダヴィド王に起こったように、義人でさえ過失を犯すことをお許しになることさえもあります。それは私たちに、警戒していつも謙遜であるようにと教えるためです。また同時に、わたしたちが不幸にして倒れてしまったとしても、また立ち上がるように努力せよと教えるためです。聖パウロもこう言っています。「立っているとみずからおもう人は、倒れないように注意せよ。」(コリント前10:12)

さて 疑っていたトマスは、二つの条件を要求します。そうしないと信じない、と。まずそれは、主の手の釘の跡を見ること。次に、自分の手を主の脇に入れること。視覚と触覚。この二つでした。イエズス様が二回目に現われたときに、憐れみ深くこの二つの条件を一つ一つ満たされようとされます。「あなたの指をここに出して、私の手を見なさい」、また「あなたの手を出して、私の脇におきなさい」と。確かに復活された栄光体は完成されたからだですから、不具や欠陥などはありえません。ですから、傷がついているという欠陥がありえないはずですけれども、どうして、なぜ、復活したキリストには傷口がついていたのでしょうか?聖アウグスチヌスによると、確かにイエズス様は傷跡を取り除くこともできたけれども、理由があってわざと残しておいた、と。その理由は何かというと、トマスに見せるためだった、といいます。またもうひとつ理由があります。それは、最後の審判の時にこの傷口を見せて、キリストを信じなかった人々、あるいは罪人たちを叱責するためです。「わたしは、おまえたちが十字架に付けた者だ。おまえたちが痛めつけた傷を見よ。おまえたちが罪を犯すことによって、刺し貫かれた脇腹を見よ。おまえたちのために大きく開かれたけど、しかし、おまえたちはここから入ることを拒んだ。わたしを信じることを拒んだ。」と、主がおっしゃるためです。同じように殉教者たちの傷跡も、復活した後の栄光体でも、けっして醜いものではなく、彼らを美しく飾る尊厳として勲章のように燦然と輝き出ることでしょう。

【4:トマスの信仰】
この二つの条件を満たされたトマスは、「私の主、私の天主」と信仰宣言します。これは呼びかけではありません。断定です。文法的な言い方をすると、トマスは、呼格ではなくて、「主よ」と言ったのではなくて、主格で言いました。つまり「わが主なり、わが天主なり」と断定したということです。
トマスが「私の主」と言った時に、キリストがまことの人間であるということを宣言しました。何故かというと、イエズス様は御受難の前にこう言われたからです。「あなたたちは私を、先生または主という。それは正しい。そのとおりである。」(ヨハネ13:13)
またトマスが「私の天主」と言った時、キリストの神性を、天主であるということを、宣言しました。キリストが天主であるということを宣言したのは、トマスの前はペトロだけでした。「あなたはキリスト、生ける天主のみ子です」(マテオ16:16)とペトロは言いました。のちに、使徒聖ヨハネは、キリストについて手紙をこう書いています。「それは真実の天主であって、永遠の命である。」(1ヨハネ5:20)と。
トマスは、確かに肉体を持ったキリストとその傷を見て、復活したお方がまことの天主であると信じました。つまり、信仰というのは、真理を信じることです。真理にかかわることです。しかも、目に見えない真理を信じることです。では、なぜイエズス様は、「あなたは私を見たから信じた」とおっしゃったのでしょうか。なぜならば、それは、人間としてのキリストを見て、キリストの見えない神性を信じた、という意味です。
また、主は続けてあたかも私たちにおっしゃっているかのように、こうもおっしゃいます。「私を見ずに信じる人は幸いである」と。つまり、イエズス様が人間として地上に生きておられるということを見ずに、たしかにイエズス・キリストが、私たちを友として愛してくださっておられる天主である、イエズス様が本当にわたしたちを憐れみ深く愛する天主である、まことの人となったまことの天主であると信じる人は幸いであると、おっしゃるのです。信仰というのは、ただ、算数や幾何学の無機質な真理を信じるということではありません。生ける天主が、人格をお持ちの天主が、私たちを子どもとして、友として、憐れみ深く愛しておられるということを、そういう真理を信じることです。イエズス・キリストを信じることです。またさらに言うならば、この天主なるイエズス・キリストが、わたしたちに対して友としての愛を持ってくださっているというこの真理を信じないところには、またそのようなことなどありえないという希望のないところには、天主に対する本当の愛徳もありえない、ということです。

イエズス様はわたしたちのことを、「私を見ずに、イエズス・キリストを見ずに信じる人は幸いである」とおっしゃっていますが、この理由は、私たちがどれほど大きな天国での至福を受けるか否かのその程度は、どれほどの功徳を積むかによっています。功徳が大きければ大きいほど、わたしたちの受けるべき幸せも大きくなるからです。ですから、見ずに信じるというのは、見て信じる人よりも、大きな信仰の功徳を積むことができる、のです。わたしたちにはより大きな幸せが準備されているということです。
聖ヨハネは今日の書簡で、こうも言っています。「世に勝つ勝利は、すなわち私たちの信仰である。イエズスが天主の子であると信じる者以外に、だれがこの世に勝てるだろうか。」(1ヨハネ5:4-5)

【5:遷善の決心】
では最後に遷善の決心を立てましょう。わたしたちの人生の目的、わたしたちが信じる目的、それは何なのでしょうか。聖ヨハネは、今日の福音の最後にこう書いています。「イエズスが天主の子キリストであるということを、あなたたちに信じさせるため、そして信じて、そのみ名によって生命を得させるために、この福音を書いた」と。まさに、ここにわたしたちの人生の目的、信仰の目的があります。
旧約・新約の全聖書は、イエズスがまことに天主の子であり、キリストである、救い主であるということを、信じるために、この信仰のために、そしてそれを信じて、生命を得させるという目的のために存在しています。イエズス様はこうもおっしゃいました。「あなたたちは、聖書をさぐりそのなかで永遠の生命を得ようと思っている。その聖書が、私を証明している。」(ヨハネ5:39)福音は、生命を得させるという実りを生み出します。この世では義人として信仰によって生きることによって、正しい生命を生みださせます。また来世では栄光によって至福直感の永遠の生命を生みださせます。そしてこの両者の生命には、キリストの名前によってのみ、存在します。
聖ペトロはこう断言したからです。「全世界に、私たちが救われるこれ以外の名は、人間にはあたえられませんでした」(使徒行録4:12)。

愛する兄弟姉妹の皆様、ですから、今日このミサに与りながら、特にミサの聖変化の時、司祭が聖体を奉挙する時に、トマスのように一緒に言いましょう。「これこそわが主なり、これこそわが天主なり」と。するとイエズス様はわたしたちにこうおっしゃってくださるでしょう。「見ずに信じる者は幸せである」と。

最後にマリア様に祈りましょう。マリア様の御取次によって、イエズス・キリストに対する、復活したキリストに対する信仰、憐れみ深いキリストに対する信仰がますます深まり固まり、そしてこの信仰が、ますます愛で満たされますように。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
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