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Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

全ての歴史的な出来事はイエズス・キリストがほんとうに復活したことを示している:キリストの復活の事実から論理的に導き出される結論とは?

2024年04月23日 | お説教・霊的講話

2024年3月31日 東京 10時30分ミサ 説教

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟姉妹の皆様、
今日は主の御復活の主日です。イエズス・キリストはまことによみがえられました。私たちの主の御復活の喜びを申し上げます。

【1:復活は現実に起こった】
主は、ご自分が死者の中から復活することを何度も予告して、約束しておられました。実際その通り、約束の通り、本当に今日よみがえられました。つまり、御自分の天主の力で、肉体を伴って、死からよみがえりました。
主の御死去と御復活、これは、確実で客観的な歴史的な事実です。これは盲目的なものでも感傷的な思いこみでもありません。私たちがもし主が復活したと断言するのは、これには、極めて高い信憑性があるからです。全ての歴史的な出来事、これは、主がほんとうに復活したということを指し示しています。もしもイエズス様が復活したのでなければ、歴史の中では、説明できないことだらけになってしまいます。

まず、ユダヤ当局の要請によって、ローマ総督ポンシオ・ピラトはローマ兵らを送って、主の墓の警備をさせました。しかもユダヤ人たちはファリザイ人たちは、墓の入り口の岩に封印をするほど警戒していました。使徒たちといえば、逃亡し、隠れていました。主の復活など頭にもありませんでした。敬虔な婦人たちは、死後三日目の今日、朝まだきに、主の葬りの続きをするつもりで墓に行きます。しかし、婦人たちが発見したのは、空になった主の墓だけでした。マリア様をのぞいて、誰一人、主の復活のことは想定もしていませんでした。

しかし、そのような婦人たちに、またマリア・マグダレナに、イエズス様はお現れになります。昨日、復活の徹夜祭で読んだマテオの福音には、主が復活して墓を出た時には、墓の入り口を封印していた巨大な岩は動いていなかった、ということを知らせています。少し引用します。
「安息日を終えて、週のはじめの日の夜明けごろ、マグダラのマリアと他のマリアとが、墓をおとずれて来た。すると大地震が起こり、主の天使が天からくだって石をわきにころばし、その上に座った。その姿はいなずまのように輝き、その服は雪のように白かった。番兵たちはおそれおののいて死人のようになった。そのとき、天使は婦人たちに向かって、『おそれることはない。私は、あなたたちが、十字架につけられたイエズスをさがしているのを知っている。しかし、かれはもうここにおいでにはならない。おことばのとおり、復活された』」(マテオ28:1~6←追加)。

使徒たちは、マグダレナのマリアからこのことを聞いて非常に驚きますが、たわごとだと思っていました。しかしそのなかでもペトロとヨハネの二人は確認をしに行きます。墓に行ってみると、たしかに墓は空です。残っていたのは、主の御体を包んでいた布だけでした。それを見てようやく、使徒聖ヨハネは、主の御復活を信じるに至ります。

【2:復活の現実を前にした弟子たち】
では、復活の現実を目の当たりにした使徒たちは、どのような態度を取ったでしょうか。イエズス・キリストは、旧約の全ての預言と全ての前兆を一つ一つすべて成就させました。それだけではありません。主は、多くの奇跡をなさりました。特に御復活によって、御自分が約束された救い主であって、人間となったまことの天主であるということを証明しました。さらに、ご昇天までの40日間、主は、使徒たちに何度も現れてご自分の傷痕を示したり「共に語ったり、共に食し」(ルカ 24:39-43)たりして、御自分が本当に肉体をもって復活したことを証明します。

信じようとはしなかった弟子たちは、ついには、キリストの復活が現実である、疑うことができない、否定することができない、と結論づけざるをえませんでした。あまりにも確実な証拠を目の前に突きつけられていたからです。「これこそ事実だ。これこそ現実だ。本当だ。イエズスは本当にキリストだ。イエズス・キリストこそ約束された救い主だ」と。この復活の現実を受けて、御受難の時には、恐怖の余り、恐れおののいて怯えて隠れていた臆病な弟子たちは、態度を突然がらりと変えます。イエズス・キリストの御復活を力強く宣教しだします。その結果なにがあったかというと、予想されていた通り、迫害と困難とそして殉教の生活でした。

もしも、もしも万が一、イエズス様の復活が、弟子たちによる詐欺だったとしたら、命がけの詐欺だったとしたら、それが弟子たちにとっていったい何の利益があったでしょうか?もしもキリストが復活していなかったと知っていたならば、つまりキリストは弟子たちを欺いた、約束を果たしていなかったということになるので、キリストは天主でもないし何でもなかった、と知るに至ります。そうなったら、いったい何のための宣教だったのでしょうか?偽りの復活の宣教、これでいったい彼らは何を儲けることができたでしょうか?迫害、苦労、そして良心の呵責。それよりも、キリストの復活を何も言わないほうが、どれほどかれらにとって、利益になったでしょうか。もしも、大司祭のもとに行って、「ああ、キリストに騙されたよ」といえば、多額の報酬が入ったに違いありません。ですから、聖アウグスチヌスの言う通りです。聖アウグスチヌスはこう言っています。もしもキリストの復活が事実でなかったならば、数人のガレリアの漁師が全世界をキリストに信仰に回心させたということであり、これは、キリストの復活よりももっと大きな奇跡だ。あり得ない。

【3:復活の現実を前にする私たち】
では、復活の現実を直前に、わたしたちはいったい何を考えるべきでしょうか。わたしたちは特に恵まれています。なぜかというと、たとえイエズス・キリストのその御復活を目の当たりに見なかったとしても、トリノの聖骸布というようなキリストの御受難とそして復活の科学的な証拠さえも持っているからです。この秘密は21世紀に生きる私たちのために、特別に隠されて取っておかれました。すべては、イエズス・キリストが本当にまことに復活された、ご自分は天主である、ということを、証ししています。

【信仰】
これは、私たちにとっていったい何を意味しているでしょうか。キリストの復活の事実からいったい論理的にどんな結論が導き出されるでしょうか。わたしは三つあると思っています。それは、ひとつは、イエズス・キリストこそが、そしてイエズス・キリストだけが、まことの天主にしてまことの救い主であるという真理です。もしもキリストがまことの天主であれば、わたしたちを騙しもしませんし、間違いもありません。イエズス・キリストのおっしゃることすべて、真理です。つまり、イエズス・キリストが聖ペトロの上に立てた教会、つまりカトリック教会こそが、唯一の本当の宗教であるという真理です。
真理はいつでもどこでも同じで変わることがありません。イエズス・キリストは昨日も今日もいつまでも同じ天主であり救い主であります。つまり、カトリック教会が2000年間の間、信じ、愛し、行い続けてきたこの聖伝の信仰と教え、聖伝の秘跡、これは間違うことがないということです。キリストの真の教会がそれを確証しているということです。つまり、わたしたちの宗教は本物であるということです。これが、イエズス・キリストが復活したということから導き出される第一の結論です。

【希望】
第二は、イエズス・キリストが墓からお一人で復活したように、私たちも最後の日にイエズス・キリストの力によって復活します。イエズス・キリストのご復活は私たちの復活の保証です。主は、私たちの信仰を完成させたのみならず、希望の土台となりました。イエズス・キリストの御受難・御死去また御復活は、すべて私たちのためだったのです。茨の冠は、栄光の冠に変わります。わたしたちの涙も至福の喜びに変わります。これが、イエズス・キリストが復活したということの第二の論理的な結論です。

【愛徳】
第三は何でしょうか。イエズス・キリストの御復活は、私たちの霊的な復活の模範であり、お恵みの源です。主は、私たちの罪のために死を受けました。そして私たちが聖となるために、永遠の命のために、復活されました。ですから私たちも、もはや、霊的に墓から復活しなければなりません。これはどういうことかというと、罪の機会から抜け出し、冷淡や無関心の状態から抜け出して、イエズス・キリストの愛に燃えて、新しい生活を生きるということです。主はもはや死も苦しみもなく新しい命に生きておられるからです。私たちの生活ももはや罪を避け、罪を忌み憎み、イエズス・キリストへの愛のために燃える生活とならなければならない、復活の生活を生きる、これがわたしたちに示されているということです。主がまことに復活したということは、わたしたちにこれをも、示しています。キリストへの愛による生活です。

【4:遷善の決心】
では最後に選善の決心を立てましょう。ユダヤ人たちによって、キリストの墓は厳重に封印されました。それにもかかわらず、キリストは復活しました。そしてこの信仰のために、初代の弟子たちは命をかけました。ローマ帝国をはじめとする世界各地でのおそろしい暴力とそして迫害、また何世紀にもわたる異端や誤謬などが広がったにしても、まことの信仰は勝利をおさめました。今でも、この信仰のために世界中に生きている多くの人々がいます。何億という人々がいます。

現代世界も、ファリザイ人と同じようなやり方で、イエズス・キリストを墓に封じ込めようと試みているかもしれません。イエズス・キリストがなさったこと、教えた信仰、秘跡、ミサ聖祭を全て取り消そうとしたり、あるいは使徒継承の聖伝の真理を墓に閉じ込めようと、封印しようと、そしてこの墓に番兵さえも立てようとするかもしれません。そのキリストの信仰に反対するために、科学技術やあるいはいろいろなイデオロギーが作り出されるかもしれません。民主主義、共産主義、人権宣言、環境主義、エキュメニズム、キリストのないような自由・平等・博愛、などなど。しかし、イエズス・キリストが、かつてそれらに打ち勝ったように、いつでもキリストは勝利をおさめます。なぜかと言うと、イエズス・キリストは全世界の創造主であって、まことの天主であるからです。カトリックの信仰は、昨日も今日も変わらず真理です。私たちにご自分の復活の命を与えるために、主は今日復活されました。

復活祭の今日、マリア様に主への信仰と、復活への希望、またイエズス・キリストの愛を、ますます燃え立たせてくださるように、そしてこれをいつも保ち続けることができるようにお祈りいたしましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


2024年2月12日 ファイファー神父様のお言葉:ドモルネ神父様のための謝恩会にて

2024年04月23日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど

2024年2月12日 ドモルネ神父様のための謝恩会でのファイファー神父様のお言葉

今回、アジア管区長の命令で私は日本に聖母の騎士のミッションのために来ましたが、明日、同じ命令で韓国に行きます。日本には今回初めて来ました。韓国にも初めて行きます。
私は、今、フィリピンのダヴァオというところで働いています。その前はインドで働いていました。その前はアメリカで働いていました。

とにかく司祭は行って、また出かけなくてはなりません。しかし、新しいところに来るときには、いつも楽しいことがあります。なぜかというと、新しい人と出会ったり、新しいことを学んだり、これから何が起こるかということで、興味がたくさんあるからです。特にエチエンヌ神父様のように頭のよい素敵な方であれば、そうに違いありません。

わたしたちは、天主様への愛のために一生懸命働いて、私たちに任された人々を愛し、そして愛するので、自然と、自然の法則に従ってその人々を愛して愛されて、そして愛着がわいてしまいます。
それでも司祭は、来て、また行かなければなりません。なぜかというと、私たちがここに来るのは、誰かによって任命を受けたからです。“日本に行きたいんだ~”と言って来るのはボランティアで、そうでない限り任命を受けてきます。誰かに任命をされて、ある時“さあ出発の時が来た”という日が来ます。

司祭は、従順によって、それに従います。神父様は、日本を去って、そして新しくマニラに行かなければなりません。マニラは、日本とは本当に違うところです。

私は、フィリピンにもう何年もいて、フィリピンのことを愛しています。フィリピンが大好きですが、日本には初めて来ました。日本については映画でしか見たことしかありませんでした。

日本は、神父様にとってとてもぴったりしたところだと思います。なぜかというと、日本の人々は非常に知的で神父様に似て、そしてすべてが神父様のように整理整頓されていて、とても清潔なことが好きなところなので、まさに神父様にぴったりです。ですから、そのようなところで子供たちは、知的に学びすべてを整理整頓してそれをきれいにするのを学ばなければなりません。わたしは日本に来て“ほかに車も誰もいないにもかかわらず信号が赤なのでずっと待っている”というのを日本で見ました。初めて見ました。でも、マニラに行かれると、日本とはまったく違います。

日本のところがこうだというのかとかはわたしのこんな感じかたですけれども、フィリピンにはちょっとまた別の秩序があります。でも、神父様は、天主がそれをお望みなので、すべてを捨てて、すべてをそのまま残して、その命令に従おうとされています。とても良い模範を示されています。

誰もが、ここに来て、そして出ていかなければなりません。その例外はありません。
ドモルネ神父様は日本に来られて、また日本を出て行く。ファイファー神父も日本に来て、また日本から出て行きます。小野田神父も日本に来ていて、また日本から出て行く時が来ます。
司祭は、天主のためにすべてを棄て、ここを出て行きます。ドモルネ神父様は、天主様のためにすべてをやって、ここを出て行きます。小野田神父も同じです。

誰もが、この世界にやって来て、そしてこの世界を出て行かなければなりません。そのときに、わたしたちは天主の御前にいったい何を報告するでしょうか。“私は主のためにすべてをしました”と言うことができるでしょうか。でも、この世の人々は、天主のために何もせずに生きて、この世を出て行きます。まったくゼロです。この世に住んでいる皆さん、お父さんお母さんそして子どもたちは、すべてを天主様のためにやらなければなりません。司祭がやって来て、出てきて、みんなやって来て出て行って、その次はだれがこの仕事を天主様の仕事をするのでしょうか。若い人々は、このことをよく考えてください。そしてわたしたちは、この世から出て行ったときに、主に、この世でのことを報告しなければなりません。“主のためにこうしました。”と。

神父様はときどき私にEメールを送ってくださって、このEメールの交換をするときに、「日本語の勉強どうですか?」と尋ねると、こう答えがありました。
「はい、一生懸命やっています。何時間も何時間も勉強しています。今日本語の勉強をこんなにもしていました。」
それにもかかわらず
「さあ日本を離れて別なところに行きなさい。」・・・・・・

でも、神父様はそれをすべてそのまま残して、主の命令に、み旨に従って、日本を発ちます。
なぜかというと、神父様には離脱の心がある。被造物に愛着していません。そこで、これが天主様に奉仕するために必要なことで、どうして主のために仕事をする人、奉仕する人がこんなに少ないかというと、離脱の心を持っている人がいないからです。ほんとに少ないからです。日本の人はとても携帯で何時間も画面を見ているということで有名です。任天堂も有名です。

それでも、もしも主が、「おまえ、わたしのために仕えないか。」「仕えて欲しい。」と言ったときに、それらをすべて離脱して、すぐに、「ハイ!主よ、私はすぐにそうします!」と、神父様にならって仕えることができるでしょうか。

皆さんは、もしかしたらマリア様の御像の前で跪いてお祈りしたかもしれません。いったいどんなお祈りをしますか。
「マリア様、試験に合格しますように!」とお祈りするでしょうか。
「マリア様、デザートにシュークリームが食べられますように!」とお祈りするでしょうか。
それとも、みなさんは、
「マリア様、マリア様はわたしが何をすることがお望みですか?」
「マリア様、わたしはマリア様のために何をすることができるでしょうか?」
とお祈りすることがあるでしょうか。

もしも、そういうお祈りをするとしたら、それらは全く別なことです。もしも、主のみ旨がわかったら、「ハイ!そうします!」と言ってください。なぜかというと、それが離脱だからです。
そうしなければ、日本に司祭がいなくなってしまいます。
日本には、日本人のために働く司祭が必要です。修道者の召命がたくさん必要です。離脱の心を持つ若い人たちがたくさん必要です。

ご清聴ありがとうございました。


--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
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