「ロザリオの秘密」
十番目のバラの花:奇跡
聖ドミニコがカルカッソンでロザリオを説教していた時、ある異端者が、奇跡と聖なるロザリオの十五の玄義をバカにして、他の異端者が改宗するのを妨げていた。天主はその罰として、1万5千匹の悪魔をこの男の体に入れさせた。
両親は彼を、悪霊から解放してもらうためにドミニコ神父のもとに連れて行った。彼は祈り始め、そこにいた全員に一緒に大声でロザリオを唱えてくれるように頼んだ。聖母は、「めでたし」を唱えるたびに、異端者の体から100匹の悪魔を追い出し、それらは赤熱した炭の形になって出てきたという。
解放された後、彼はかつての過ちを捨てて回心し、ロザリオの信心会に入会した。彼の仲間の何人かは、彼の罰とロザリオの力に大いに感動して、同じようにした。
学者であるフランシスコ会のカルタヘナ【Juan De Cartagena, O.F.M., 1563-1618】をはじめとするいくつかの著者は、1482年に驚くべき出来事があったと述べている。それは次の通りである。ヤコブ・シュプレンゲル神父(Jacob Sprenger O.P. 1436 – 1495)をはじめとする修道士たちは、聖なるロザリオへの信仰を回復し、ケルン市に信心会を設立しようと熱心に活動していた。
不幸なことに、有力な説教によって有名であった別の二人の神父は、彼らがロザリオを説教することによって大きな影響力を発揮していることに嫉妬していた。この二人の神父は、機会があるたびにこの信心に反対の意見を述べ、非常に雄弁で評判が高かったので、多くの人々に信心会に参加しないように説得した。
神父の一人は、自分の邪悪な目的を達成するために、ロザリオに反対する特別な説教を書いて、次の日曜日に行なうつもりだった。しかし、説教の時間になっても彼は現れず、しばらく待った後、誰かが迎えに行くと、神父は死んでおり、彼は誰にも助けてもらえず、司祭にも会わずに孤独のうちに死んだことは明らかだった。
もう一人の神父は、彼が自然死であることを確信した後、友人の計画を実行して、別の日に同じような説教をすることにした。このようにして、ロザリオの信心会に終止符を打とうとしたのである。しかし、彼が説教をする日が来て、いざ説教をしようとすると、天主は彼を罰して、手足の動きと、言葉の力を失う麻痺に陥らせたのである。
ついに彼は自分と友人の罪を認め、すぐに心の中で聖母に自分を助けてくれるよう静かに祈った。彼は、もし聖母が自分を治してくれるなら、かつてロザリオに対して戦ったものと同じくらいの熱意をもって、聖なるロザリオを説教すると約束した。この目的のために、彼は聖母に彼の健康と言葉を回復するように懇願し、聖母はそれを実現した。そして、自分がすぐに治癒したことを知り、彼はもう一人のサウロのように立ち上がった。彼は自分の過ちを公に認め、その後も熱心に、そして雄弁に、至聖なるロザリオの素晴らしさを説教し続けた。
私は、現代の自由思想家や超批判的な人々が、彼らが常にほとんどのことを疑ってきたのと同じように、この小さな本に書かれている話の真実性を疑うことは間違いないと思っているが、私がしたことは、現代の優れた作家や、ほんの少し前に書かれた本からコピーしただけである。『神秘的なバラの木』(アントニン・トマス神父、O.P.)
誰もが知っているように、三つの異なる種類の話には、三つの異なる種類の信仰がある。
聖書の物語には、天主の信仰(fides divina)を持たなければならない。【天主の信仰(fides divina)とは、真理そのものである天主が私たちに語ったことであるから真理であると信じるという信仰のことである】
一方で、世俗の話で、常識に反しておらず、信頼できる著者によって書かれた物語には、人間的な信仰(fides humana)でそれを信じる。【人間的な信仰(fides humana)とは、理性に矛盾しない内容であることや、それを話す人の誠実さに信頼してその内容が真理であると信ずることである】
さらには、敬虔な著者によって語られ、理性、信仰、道徳に少しも反していない聖なる主題に関する物語には(たとえそれが時折、通常の事象を超えた出来事を扱っていても)、私たちは敬虔な信仰(fides pia)でそれを信じる。
あまりにも信じやすくてもいけないし、批判的すぎてもいけない、「徳は中庸にあり」ということを忘れてはいけないーー真理と聖徳がどこにあるのかを見極めるために、すべての物事の中庸を保つべきであると私は思う。しかし他方で私は、愛徳は、信仰や道徳に反していないものをすべて信じるように容易に導いてくれることもよく知っている。「愛は…すべてを信じ、」それと同じように、高慢は、信憑性の高い話であっても、聖書に載っていない、という理由で疑うように導くのだ。これは悪魔の罠の一つであり、聖伝を否定した過去の異端者たちもこの罠に陥っている。現代の過度に批判的な人々も、気付かないうちにこの罠に陥っている。この種の人々は、自分が理解できないことや、自分の気に入らないことは、高慢と自分の考えで十分だと思うために信じようとしないのだ。