Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

カトリックの義化の効果:「成聖の恩寵」私たちの霊魂に常駐する聖寵があたえられ、私たちの霊魂は、天主の神殿となる。天主の友となる。功徳を積む事ができるようになる。天国の栄光の種を、成聖の恩寵として持つ。

2019年10月24日 | カトリックとは


2019年10月13日(主日)聖霊降臨後第18主日のミサ
聖ピオ十世会司祭 小野田神父 説教

聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。
今日は2019年10月13日、聖霊降臨後第18主日のミサです。明日もミサがあります。10時からです。祝日の為に少し遅くなり、10時から始まります。


「子よ、安心せよ、お前の罪は赦された。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、今日は、私たちの主が本当になさった、歴史の一コマを福音書で読みました。

ある半身不随者が、友人によって担架に担がれて来て、そしてイエズス様の元に近寄って、「何とか治癒して頂きたい」と思ってやって来ました。するとイエズス様は、彼らの信仰を見て、彼らが思っていなかった、更にもっと良い事をされます、「お前の罪は赦された。子よ、心配するな。安心せよ。」

今日この事実を見て、「イエズス様が本当に罪を赦される」、これをカトリックの言葉で、義人とする「義化する」と言いますが、この事について、

⑴一体カトリックは、カトリック教会は何を教えているのだろうか?罪を赦す、「イエズス様は罪を赦す」というのはどうやって?罪を隠すのではないのだろうか?

⑵あるいは、「罪を赦す」というのは、どうやって赦すのだろうか?聖寵を私たちの中に注ぐ事によって、罪を赦されますが、それはどうやって行なわれるのだろうか?

⑶次にそれの結果、一体私たちの心にはどんな変化が起こるのだろうか?

特に今回は3つの変化を黙想して、これほどの素晴らしい事を私たちに行なって下さる、半身不随者だった私たちが罪を赦された、その事が行なわれた、私たちにも行なわれたという事を見て、天主を讃美して、そして聖パウロと一緒に、このような御恵みを、聖寵を下さったイエズス様に、イエズス様において下さった天主に、感謝したいと思っています。


⑴ではまず第1に、「罪が赦される」というのはどういう事なのでしょうか?カトリックの教えによると、罪が赦されるというのは、ただ罪が、私たちが罪人であるというのはそのままで、天主と人間との関係だけが変わって、でも私たちは変わらないという事なのでしょうか?

違います。イエズス様は、天主は、私たちの中に最高の奇跡を起こします。「私たちの罪が赦されて、私たちはもはや悪魔の奴隷ではなくなって、天主の子供となる」という大奇跡が、罪の赦しが行なわれる時に生じます。

ただ単に、私たちのそのまま残って、ピカピカのカバーで隠して、というのではなくて、本当に、私たちの霊魂がピカピカになります。

聖トマス・アクィナスによると、「私たちが『義化される』というのは、ちょうど例えば、壁が白いというのには、何かの『白さ』があって、これは白い。それと同じように(その「白さ」というのを哲学用語で、「形相」と言いますけれども)、私たちを義とする『形相』が、義とするものが与えられて、私たちは本当に、義となる。本当に聖となる。単なる、単に隠されるのではない。覆われるだけではない。内部から、本当にそうなるのだ」と教えています。

イエズス様は、「私が罪を赦す事ができないと思っているのか。ただ隠すだけだと思っているのか」と言って、この半身不随の人を治します、「起きよ。さぁ、床を取って家に帰れ。」

その時に、「治れ。お前は健康だ」と言って、本当はまだ体が動かないのに、「健康だ」と、名前だけ付いたのでありませんでした。本当に健康が与えられて、本当にシャキッと立って、家に帰ってしまったのです。

それと同じように、私たちの霊魂も、本当に健康になり、本当に聖となります。義とされます。

⑵一体これはどうやって起こるのでしょうか?

聖トマス・アクィナスによると、「聖寵」が、天主の御恵みが、聖なる恩寵が、私たちの霊魂に注入されて、この「聖寵」という超自然の御恵みが、私たちの霊魂を動かして、天主を信じるように、そしてまた罪を忌み憎むように動かして、そして私たちの霊魂は、その聖寵の助けに協力して、そして罪の赦しが行なわれます。罪の赦しが成立します。一瞬の間に。

そしてその私たちが罪を赦されると、聖寵の中でも特別に、「成聖の恩寵」と言われる、私たちが大罪を犯さない限り私たちを離れる事のない、私たちの霊魂に常駐する、いつも留まる聖寵が、恩寵が、私たちに宿ります。私たちに存在し始めます。天主の命への参与です。超自然の御恵みで、私たちを聖とする特別の御恵みです。

これを私たちが受ける事によって、私たちは罪の赦しが完成します。もはや罪人ではなくなります。本当に聖なるものとなります。

⑶では、この結果は何でしょうか?

今日を取り上げたいのは、3点あります。

1つは、まず「この御恵みが、いつも私たちに常駐する、常に存在する御恵みだ」という事です。そこでこのこれは、この私たちがこの聖寵を常に持っているという事は、言い換えると、「特別なやり方によって、天主聖父・聖子・聖霊、三位一体が、私たちの霊魂に住まわれる」という事です。

つまり、私たちの霊魂は、天主の神殿となる。天主がそこにいつも在し給う、御聖櫃になる。天主がそこに住まわれる、天主の王宮になる。公教要理では「神殿」と言います。そして私たちが天主三位一体のまどいの中に入って、そして天主をますますよく知り、天主を愛し、そして天主との親しい、緊密な生活を送る事ができるように変わります。

イエズス様は言いました、「もしも誰かが私を愛するならば、私の聖父は彼を愛するだろう。そして私たちは(つまり聖父とイエズス様は)、彼のところにやって来るだろう。そして彼のところに、私たちの住まいを造るだろう」と、聖ヨハネの福音書にあります。

天主聖父が私たちの、私の霊魂に居て、聖子も私の霊魂に居て、聖霊も私の霊魂に居る。「私はお前に留まり、お前も私に留まる」と言った、そのイエズス様の言葉が実現します。

「天主の神殿になる。」よく私たちは何度も聞きますけれども、しかし「天主の神殿」という事をよく考えれば考えるほど、ものすごい御恵みです。

何という友が、何というお客様が、何という方が、私の霊魂に来られるのでしょうか! 三位一体の、聖父・聖子・聖霊が、常に留まり給う。天主はこれほどまで近くに在す、という事です。

「私たちの霊魂に天主が居る」というのは、たとえ目に見えなかったとしても、そして霊的なものだったとしても、本物です。本当に、実際に、起こっている事です。

「天主が私たちの霊魂に居る」というのは、天主の遍在と言われていて、創造主として、被造物の全てのものを在らしめているが故に居るという、「天主の遍在」とは違うものです。これを更に超える、超自然の御恵みで、知的な人間と天主のみが、霊魂の最も奥深くに、特別なやり方で、その住処を造るという、特別な在り方を、天主様は私たちの霊魂にされるのです。

これは単に、「あぁ、今日は教皇様の為にお祈りをするから、教皇様の事を考えよう」とか、あるいは、「今日は、私はお母さんの為に、お母さんを特に慕っているから、私の心にお母さんがいつも居る」というような、そういうようなやり方ではなくて、本当の本当に、実際に、「天主三位一体が、私たちの心に住まわれる」という現実です。

これが第1の結果です。

第2は更に、天主が私たちの心に住まわれる、私たちの心を住処とするのみならず、「私たちを友として取り扱う」という事です。

イエズス様は既に使徒たちに言いました、「私はお前たちを、しもべではない、友と言う。」

公教要理によるとやはり、「成聖の恩寵によって私たちは、天主の友となる。」

聖トマス・アクィナスは言います、「でも友となる為には、何らかの平等性がなければ、友達とは言えないんじゃないか?また友となるには何か、特別の何か共通、共同に何かを持っていないと、共通に持ってないものがないと、友じゃないんじゃないか?」

「例えば、いくら好きだと言っても、ローソクを友だ、と言う事はできない。しかし天主と人間の間には、人間とローソクとよりも更に、無限の差があるにも関わらず、何で友となるだろうか?あり得ない。」

聖トマス・アクィナスは言います、「いや、天主は聖寵によって、天主の命に私たちを参与させて、私たちを罪人から本当に、天主の聖の高みまで上げて下さるので、ある意味で、確かに天主と人間では無限の差がありながらも、私たちに与えられた御恵みによって、ある平等性が与えられる。天主の命を生きる、『成聖の恩寵にいる』という平等性にまで高められるので、天主は私たちを友とされる。私たちは天主を友とする事ができる。友達とする事ができる。そして同じ天主の命を共通に持つので、本当の友情が成立する」と言います。

天主はどれほど良い御方で、どれほど私たちを高めて下さるのでしょうか。

ですから私たちは、友達の為ならば、一肌二肌、火の中水の中、もしも友達がこれを望むなら、どんな事でもやってやろうと思うではないでしょうか。友達から頼まれたら、拒めないのが日本男児ではないでしょうか。

ですからイエズス様も私たちを友として、私たちもイエズス様を友とするならば、イエズス様の事を、どれほど御望みの事を私の望みとし、イエズス様の嫌なものを私たちも嫌だ、と思うようになるのではないでしょうか。

イエズス様は言います、「もしもお前たちに命じる事をするならば、お前たちは私の友だ。もしも私を愛するならば、彼は私の言葉を守るだろう。」

第3には、「この成聖の恩寵によって、私たちは功徳を積む事ができる」という事です。
成聖の恩寵によって私たちは、功徳を積む事の「原理」を獲得します。これは何かと言うと、「天主の命」であって、「天主との友情」であります。

でもイエズス様も仰ったではないでしょうか?私たちはイエズス様から言われた事を全てやったとしても、当然やるべき事をやったのだから、一体何で功徳とかを、褒美をもらう事ができるだろうか?

聖トマス・アクィナスはこう説明します、「動物や、あるいは命がないものは、天主の法則によって、ただ考えもなく、自由意志もなく、ただそのまま動く。動物も本能によって、自由意志のないまま動く。しかし人間の場合には、理解して、自発的に、自由意志で、愛が故に、それを成すので、そこに私たちの功徳の、報奨を受ける理由が存在するのだ」と。

そして、私たちが持っているその「聖寵」というのは、「御恵み」というのは、「天国での御恵み」、「天国での報いの種」なのです。と言っても、種であったとしても、全く同じものなのです。ちょうどリンゴの木が、リンゴの実がたくさん成っているリンゴの木が青々と茂っていると、種は違うように思えても、でも同じリンゴであると同じように、私たちもその栄光の種を、聖寵として、成聖の恩寵として持っています。いつも持っています。そしてこの種がますます大きくなって、実を結んで、永遠にそれを楽しむ事ができるように、私たちがそれを育つようにとされています。

天主は私たちに本当に、この種を下さいました。

今、今日この黙想を提案するのは、カトリックの教えによると、「イエズス様が私たちを本当に義化する」という事です。

「私たちを聖として、そして三位一体が私たちの霊魂にいつも住まわれている。そして友となるほど高めて下さる。天主の命を私たちが永遠に受ける事ができるようにと、もうその下準備を、もう心の中に下さっている、既に天国が始まっている」という事です。

何という御恵みでしょうか。お祈りをする時に、「天主は私たちの心に居る」という現実を思えば思うほど、どれほどお祈りがしやすくなるでしょうか。「天国が私たちの心で、もう始まっている」と思うと、どれほどそれが近くに感じるでしょうか。

今日はファチマのマリア様の日ですから、最後に現れた日ですから、マリア様は最後に、とても御悲しみの顔で御現れになりました。これほどの愛を、天主が私たちに全人類に与えたにも関わらず、私たちを友として、永遠の命に引き寄せようとしたにも関わらず、聖寵を与えようとするにも関わらず、多くの人はそれを拒んでいます。信じない人、礼拝しない人、希望しない人、愛さない人。そして人類は罪を犯す事によって、天主を侮辱する事によって、ますますその心を悲しませておられます。

ですからこの御恵みが、癒しの御恵みが得る事ができるように、多くの罪人たちをマリア様の元に担架で運ぶ事ができますように、祈りの担架で運ぶ事ができますように、お祈り致しましょう。

お祈りによって、私たちはこの聖寵を求める事ができます。ぜひ今日はこのマリア様に、私たちの天主の現存の神秘と共に、この御恵みが多くの方に与えられますように、お祈り致しましょう。

「子よ、安心せよ、お前の罪は赦された。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。




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