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Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

敬虔な同意(assensus relisiosus)が求められる「正真の(authenticum)教導権」とは?教皇ヨハネ二十二世、教皇ホノリウスの例。教皇は、誤りを教えることが出来るか否か?

2019年08月29日 | 質問に答えて
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛するM君、お元気ですか?
「O神父様によるセデヴァカンティズム批判論駁 第三回」を拝見させていただきました。

M君(Veritas liberabit vos!さん、と呼ぶのは、あまりによそよそしいので、いつものように霊名で呼びます)も忙しい中を書いてくれているので、私もできる限り時間を見つけて、体力の許す限りお返事をしようと思います。

M君によると、今現在、バチカンで教皇として世界中で認識されている人(つまり教皇フランシスコ)を教皇と認めることが「似非カトリック教会のメンバーと化す」ことであって、
彼を教皇ではないと個人的に判断することが、「真のカトリック教会へと方向転換」することだと主張していますね。

私の理解が正しければ、M君にとって、二つの点が問題になっているようです。

(1)なぜO神父は、「荘厳/特別教導権」にも「普遍通常教導権」に属さない、教導権の第三レベルである「正統[ママ]教導権(Authentic Magisterium)」のことに言及しないのか。例えこの教導権が不可謬性を有していないとしても、キリストの権威を有する性質上、カトリック教皇は、それを教える際「霊魂にとって有害な」発言や命令を公布する事が出来ないはずだ。何故言及を避けたのか?知りながらそれに言及しなかったとすれば、それは聖ピオ十世会の過ちを隠蔽する為だ。

(2)O神父が『教皇がかつて、発言したあるいは命令した言葉が、すべてがすべて不可謬で誤りがない、とは明らかに言えない場合が歴史上存在しているからです』と主張するなら、主張を擁護する歴史上の例をいくつか挙げるべきだった。しかし、例を挙げないのは、そうすることが出来ないからだ。何故なら『キリストの権威を有する教皇には、どんな形式であれ、霊魂にとって有害な教えを公布する事など不可能』だからだ。教皇の教えは、荘厳教導権以外では、全て「正統[ママ]教導権」であり、その教えは不完全であり得ても、決して霊魂を害する教えであり得えない。

【回答】
(1)の点については、Authentic Magisteriumについては、「第2バチカン公会議とは --- 第2バチカン公会議の権威 --- 」という論文の要旨を日本語にした時に、言及しました。ただし authentic(正真正銘・真正の)は、orthodox(正統の)という言葉を区別するために、「正真の(authenticum)教導職」と訳しました。

例えば、福者の列福がこれにあたります。そのとき、これに敬虔な同意(assensus relisiosus)をする必要があります。(Thesis 15. Salaverri, Sacrae Theologiae Summa, Tomus I: Theologia Fundamentalis, Madrid, BAC, 1962, p. 705)

「正真の(authenticum)教導権」には、敬虔な同意(assensus relisiosus)が求められますが、信仰(fides)ではありません。

信仰は対神徳で、信仰の同意(assent of faith)は絶対的です。

敬虔な同意(religious assent)は、従順の徳に属するもので倫理徳です。つまり、やり過ぎと欠如との間の中庸に成立する徳です。つまり、絶対的でもなければ無条件でもありません。

正真の教導者、つまり、教会において本当の権威を持っている者(すなわち教える権利と義務を持つ当局)が、自分が持っている権威の充満を行使せずに(つまり厳格な決定的な判断を下すことを意図せずに)、教える職務を行使する時、敬虔な同意が求められます。ただし、「敬虔な同意」という「従順の徳」だけです。

たとえば、第二バチカン公会議について、どのような「同意」が求められているか、と言う質問に、第二バチカン公会議の事務総長であったフェリチ枢機卿はこう言いました。

「第二バチカン公会議は、司牧公会議であり、教義決定の公会議ではないので、不可謬の公会議ではありません。総会の終わりに私たちはフェリチ大司教にこう質問しました。「神学者たちが公会議の "神学的性格" と呼んでいるものを私たちに与えてくれることができないでしょうか?」
フェリチ大司教はこう答えました。「過去、既に教義的に定義の対象になったものを、草案や章ごとに従って、区別しなければなりません。ところで、新しい性格を持った宣言については、私たちは留保しなければなりません。」
(ルフェーブル大司教「教会がどうなってしまったか分からなくなってしまったカトリック信徒たちへの手紙」第14章)

A non-dogmatic, pastoral council is not a recipe for infallibility. When, at the end of the sessions, we asked Cardinal Felici, “Can you not give us what the theologians call the ‘theological note of the Council?’” He replied, “We have to distinguish according to the schemas and the chapters those which have already been the subject of dogmatic definitions in the past; as for the declarations which have a novel character, we have to make reservations.”
Open letter chapt 14

(2)については、『キリストの権威を有する教皇には、どんな形式であれ、霊魂にとって有害な教えを公布』した例として、ヨハネ二十二世、ホノリウスを挙げます。

ここでは、以上、簡単に回答をするにとどめます。

「正真な教導権」が、教皇が誤りを教えることが出来るか否かについて、何を教えていたか、について
また、
教皇ヨハネ二十二世、教皇ホノリウスの例について、
などについては、時を改めて、詳しくご紹介いたします。

さらに「真正な教導権」についても、将来、紹介する予定です。

最後に、M君は、聖アルフォンソ・デ・リゴリオの言葉を引用していますね。

『もし何時の日か教皇が、個人として、異端に陥るとしたら、彼は直ちに教皇職から転落するだろう。しかしながら、もし悪名高く反抗的な異端者となる事を神が教皇に許す事となれば、彼はこの様な事実によって(自動的に)教皇ではなくなり、使徒座は空位となるだろう。』
“If ever a Pope, as a private person, should fall into heresy, he should at once fall from the Pontificate. If, however, God were to permit a pope to become a notorious and contumacious heretic, he would by such fact cease to be pope, and the apostolic chair would be vacant.”

これを見て、M君らしくないなと思いました。何故なら、

(1)聖アルフォンソのどの本の何ページから引用したのか、出典を出さないで引用しているから。

(2)「キリストの権威を有する教皇には、どんな形式であれ、霊魂にとって有害な教えを公布する事など不可能」と主張しておきながら、いきなり、「キリストの権威を有する教皇が、個人としてという形式で、異端に陥るなら」という可能性について話しているから。

M君は、教皇が、個人として、異端に陥ることが出来ると考えているのだろうか? 
それとも、教皇は、個人としても、異端に陥ることは出来ないと考えているのだろうか? 

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


栄えの玄義 第4玄義「聖母の被昇天」黙想 2019年8月3日(初土)御聖体降福式にて

2019年08月29日 | お説教・霊的講話
栄えの玄義 第4玄義「聖母の被昇天」黙想
(2019年8月3日(初土)御聖体降福式にて 聖ピオ十世会司祭 小野田神父)

今日は初土曜日ですので、15分間、ロザリオの15の玄義の1つを黙想致しましょう。
特にマリア様が受ける侮辱、冒涜、屈辱を償うという意向の為に、マリア様の汚れなき御心を慰めするという意向で、お捧げ致しましょう。

特に今回は、「聖母の被昇天」を黙想する事を提案します。

御聖堂のステンドグラスにもありますように、マリア様が天に上げられ、諸聖人天使の更に上に、天地の元后として、肉体も御霊魂も上げられ、人類が、人間が受ける事のできる最高の名誉、栄光をお受けになり、イエズス様のすぐその傍にお座りになって、坐されておられる、被昇天を黙想致しましょう。

マリア様に、私たちの人生の本当の意味、イエズス様に仕える事の素晴らしさ、イエズス様と共に苦しむ事の価値、この儚い命が終わった後に待つ栄光、マリア様と天使、聖人たちの喜び、私たちの喜び、この世の虚しい事、本当の栄光や本当の誉れがどこにあるのかを理解する事ができる御恵みを乞い求めましょう。

マリア様の威厳あるその美しい御姿、永遠の若さ、完璧な美しさ、マリア様の栄光の前では、大自然のどんな美しい花々も、山も、湖も、大自然の美しさも、オーロラも、夜の星々も、その前では霞んで、しおれてしまった花のように思います。輝くマリア様の御姿、イエズス様から受ける報いの数々、イエズス様から委ねられた権限の数々。

マリア様のお望み一つ一つは、イエズス様にとって、御命令であるかのように、イエズス様にとって、マリア様を喜ばせる事、これが永遠の楽しみ。

聖母の被昇天は、天主の大傑作、天における凱旋の大行進、天主の大勝利。マリア様は、これほどまでの名誉と、威厳と、力と、栄光を受けて、それを全て私たちの為に、母親として使おうと、今も、いつも、思っておられます。

マリア様は同じ栄光を、子供である私たちに与えようと、この栄光に導きたい、と待っておられます。私たちがマリア様の元に行く事は、マリア様にとっての大きな喜び。マリア様を離れてしまう事は、しかも永遠に離れてしまう事は、マリア様にとって大きな悲しみです。

「聖母よ、特に誘惑を受ける時、この地上の危険をくぐり抜けて巡礼をしている私たちが、その究極の目的地であるマリア様の事を忘れる事がないように、マリア様がいつも、私たちの辿り着くのを待っている事を思い出す事ができるように、マリア様の御取り次ぎで、私たちが誘惑や、罪の危険から逃れる事ができますように、地獄の悪の手からすり抜けて守られますように、私たちの肉体を、理性の下に支配する事ができますように、今も、私たちの死の時も、いつもお祈り下さい。」


聖母の被昇天は2つの事を教える。私たちは地上に永久に留まらない巡礼者であること、私たちのこの地上での人生の最終目的は天国であること。

2019年08月29日 | お説教・霊的講話
2019年8月3日(初土)聖母の汚れなき御心の随意ミサ
聖ピオ十世会司祭 小野田神父 説教

聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。
今日は2019年8月3日、聖母の土曜日、土曜日の聖母、そしてマリア様の汚れなき御心の随意ミサをしています。

初土曜日ですから、今日この御聖体拝領を、マリア様の汚れなき御心に対して犯される罪を償う為にお捧げ下さい。
ミサの後の感謝の祈りの後に、15分間、マリア様のロザリオの黙想を致しましょう。

特にこのロザリオを、この御聖体降福式を、教皇様の来日の為にもお捧げ致しましょう。
教皇様が今年の11月に日本に来られる、キリストの代理者が日本に来られるという事で、これは非常に特別な機会です。
「この機会に、日本の多くの方が、イエズス様の福音を知るきっかけとなりますように、イエズス様の事を知り、愛する御恵みが頂けますように」お祈り致しましょう。

そこで、8月から11月まで4ヶ月の間、私たちは特にこの意向で、教皇様の来日の意向で、ロザリオのお祈りをしたいと思っています。私たちが教皇様の為にどれほどお祈りしたか、というそのそれはもちろん数で測る事はできませんし、イエズス様のみが御存知の事です。

しかし私たちは非常に弱いものですから、励みになるものが必要で、目に見える何かが必要ですので、ぜひ私たちも、それによって私たちが、それが多いからそれだけ、その数でもちろん測る事はできません。
けれども、私たちの励みとして、ロザリオの報告を皆さんにお願いしたいと思っています。会長が準備をして下さると思うので、8月・9月・10月・11月、4ヶ月、11月の終わりまで、この意向でたくさんお祈り下さい。後で報告をお願い致します。

今日はもう1つお祈りのお願いをします。ワリエ神父様の膝の調子が非常に良くないそうです。手術を受けたのですが結果が良くなく、お医者さんの特別の審査や検査を受けている最中なのだそうです。もしかしたら、お医者さんのドクターストップがかかってですね、もしかしたら次の来たる8月10日・11日のこのミサに神父様がこれなくなるかもしれないという事で、今日その連絡があるとの事です。その時にはどうぞご容赦願います。


聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、

今日は8月の初土曜で、私たちは15分間の黙想をしようとするそのテーマとして、また8月15日には予定されていたミサが残念ながらできなくなってしまったので、既にこの8月15日の聖母の被昇天を祝う為に、その準備の為に、今日この御ミサの中で、「マリア様の被昇天について」一緒に黙想する事を提案します。

「マリア様の被昇天された」というのは、信仰の真理です。必ず私たちが信じなければならないという事実であり、真理であり、これは使徒から私たちに伝えられた、啓示の一部です。

このマリア様の被昇天は私たちに、2つの本当の事を教えてくれます。この2つの事は、私たちが今囲まれている嘘の仮面を暴いてくれます。「私たちは、天主様へと辿り着こうとする、天の国に行こうとする巡礼者である」という事を、もう一度教えてくれます。

2つの事というのはどういう事かというと、
1つは「私たちがこの地上で肉体を持って生きている」という事の意味についてです。
もう1つは、「私たちの人生の、この地上での人生の最終目的」です。


1つの最初の事について考えます。
「私たちの、この肉体を持ってこの地上で生きているという意味」は何でしょうか?

私たちの周りは、色んな嘘がたくさんあります、「私たちは、ただ物体だけだ。物質だけだ。だからこの体を、あたかも偶像のように、その体の要求の通りに、要求するがままにする事こそが良い事だ。だからこの体がどのような悪い事を要求しても、それを叶えてあげる事が良い事だ。」あるいは、「この体を肉体を偶像化させて、もっと美しく、もっと健康に、もっとかっこよくする事だけが良い事だ」であるかのように、色々な広告や、色々な宣伝がなされています。

大阪ではおそらく違うんじゃないかな、名古屋でも違うんじゃないかなと思うんですけれども、東京で電車に乗ると、大体あるのが、一年中続けてあるのが、「脱毛しよう」とか、「脱毛をするのは今非常に、人生で一番大切な事だ。男も女もそうするべきだ」と、何かそれだけが一番大切な事だと思っていて、それだけをすれば全てが解決するような感じのコマーシャルがたくさんあります。一年中あります。日本の人はそれほど毛深くて困っている、そういう事を思っているのかなぁ?と錯覚するほどです。

あるいは、「何とかを食べると健康になる」あるいは、「何とかをすると痩せる。驚くほど痩せる。あっという間に痩せる。」
そんなに日本に太ってる人がいるのかなぁ?と思うほどの広告があります。

そしてできる事ならば、面白おかしく、自由自在に、この体の要求するがままに、どんな事でも、それが罪に当たるような事でも、それを犯して、そして今、この今のこの地上を、この肉体の生活だけを、今ここで面白おかしく刹那的に生きるのが、一番大切であるかのように言っています。「それをそうすれば、楽しくなる、幸せになる」と約束しています。

ただそれには条件が付いていて、「私たちには永遠という次元がない。霊魂というものが、あたかもないという事を受け入れる」という条件の下で、それが約束されます。

でもマリア様の被昇天は「そうではない!」という事を私たちに教えてくれます。

「私たちのこの地上での生活というのは、限りがある。地上での私たちは、どうしても避ける事ができない『現実』というものがある」という事を教えています。それは、「年を取る」という事であり、そして「病」があり、そして「死」がある。「私たちの体は弱り、この地上にもはや生きて行かれる事ができなくなる」という事です。「この私たちの肉体は、遂には腐り果ててしまう」という事です。

「地上のこの生活だけを考えればいい。肉体だけを考えれば良い」という嘘は、この事実の前に、遂にその正体を現してしまいます。つまり、「もしもそうしたら、私たちに待っているのは、ただの絶望であり、これだけ拝め奉った肉体が、遂には不可避的に、どうしても避ける事がなく、どのような技術を使っても、どのような薬を使っても、大金を払っても、何をしても、遂には、腐って、無くなって、滅んでしまう」という事実を突きつけられるからです。


第2に私たちにこの教えている事は、「私たちのこの地上での生活の究極の目的は、この地上ではなくて、天国にある」という事です。「永遠の生命にある」という事です。

これもこの世のマスメディアや、あるいは新聞は、一切語らない事です。広告は一言も言わない事です。この地上だけが全てであって、それで全てが終わるかのように話しています。でもそれは、全くの嘘です。

「実は、私たちのこの地上での人生が終わった後には、永遠が待っている」という事を、マリア様が教えています。

しかも私たちの肉体は、ただこの腐ってしまう、年を取ってしまうというのが、実は本当のあり方ではなかったのです。罪の為にそうなってしまった、今、罪の結果を受けているだけだ、という事です。でも本当はこの肉体は、天主様の考えでは、「いつも若々しく、いつもみずみずしく、いつも健康で、永遠の命を持つように」望んでいるという事です。

しかしマリア様が、その天主の計画を私たちに実現させる道を知らせてくれています。もしもマリア様の通った道を私たちが通るならば、マリア様が示して下さる道を通るならば、つまりイエズス様といつも一致しているならば、イエズス・キリストの御旨を果たすならば、たとえ一旦は腐り果てて、一旦は見苦しくなった、この辱めを受けるこの肉体も、実はもう一度、復活の美しさを、若さを、健康を、命を、取り戻すという事です。「マリア様の被昇天が受けたその栄光に、私たちも与る」という事です。

でも一つ条件があります、「マリア様と同じ道を通る」という事です。つまり、「イエズス様と同じ道を通る」という条件です。

本当は私たちは、肉体も霊魂も、もう一度合わさって、「死」という肉体と霊魂の分離というのは、あまりにも不自然な、私たちが自然には受け入れる事ができない状態であって、実は肉体と霊魂はもう一度結合するのを待っている、「肉身のよみがえりを信じ奉る」という真理である、という事を私たちに教えています。

ではこの被昇天の時に、マリア様の栄光を少し想像してみる事に致しましょう。

マリア様のご生涯の重要な時には、天使たちがいつもその側におられました。御告げの時に、大天使は来ました。イエズス様をお生みになった時にも、天使が、天群の大天使たちが歌っていました。

諸聖人によれば教父たちによれば、「マリア様が被昇天を迎えた時にも、天使たちがマリア様を迎えに来た事だろう。天群の天使たちが、マリア様を天高くお運びになった事だろう。肉体も霊魂もお運びになっただろう」と言います。

「おそらく、そればかりではない」と言います。「イエズス様御自身が、マリア様を迎えに来ただろう」と。「ちょうどマリア様が、イエズス様の十字架を運んでいた時に、イエズス様が十字架をお運びになっていた時に、イエズス様に会いに行ったように、たった一人の、苦しまれた、捨てられた、私たちの為に血を流されておられるイエズス様を出迎えに行ったように、そしてマリア様も共に苦しまれて、悲しまれたように、栄光を受けたイエズス様が今度は、そのマリア様をお慰めに迎えに天から来られて、そしてマリア様をお連れして、天に昇られた。」まさに、ここに被昇天の神秘があります。

「もしも私たちも、イエズス様と共に苦しみや、悲しみや、あるいは辱め、その他十字架を担うならば、イエズス様とマリア様は、私たちを迎えに来られるだろう。そして天国に連れて行って下さるだろう。」

「そして世の終わりには(私たちはこの世の終わりまで待たなければなりませんが)、世の終わりには、遂には、イエズス様とマリア様と同じ栄光を分かち合う事ができる。そして永遠に喜ぶ事ができる。本当に私たちのこの人生の目的に到達する事ができる。巡礼の終わりを告げる事ができる」と教えています。

その為にも、そして私たちのみならず、私たちの知っている多くの方々が、この究極の目的を到達する事ができる為にも、今日御ミサと、御聖体降福式を御捧げ致しましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


聖アルフォンソ・デ・リグオリによるイエズス様の聖心についての黙想:イエズスが私たちの為にしなかった事が無いほど全てをした。それにもかかわらず、イエズスは愛されていない。却って軽蔑と侮辱を受けている

2019年08月29日 | お説教・霊的講話
2019年8月2日(初金)至聖なるイエズスの聖心の随意ミサ
聖ピオ十世会司祭 小野田神父 説教

聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。
今日は2019年8月2日、8月の初金曜日、イエズス様の聖心のミサをしています。

今日御ミサの後で、聖時間を行ないます。御聖体の前で1時間、イエズス様の聖心をお愛し致しましょう。特に、今世界で必要とされているたくさんの御恵みを乞い求めましょう。
日本に教皇様がいらっしゃる、その教皇様の訪問が、日本にとって恵みの多いのものである事を、特にお祈り致しましょう。

また教皇様の日本の来日の為に、皆さんからのロザリオの十字軍、祈りの十字軍をお願いしたいと思っています。


聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

今日、8月の初金曜日で、ちょうどアルフォンソ・デ・リグオリの祝日にも当たっています。
そこで、聖アルフォンソ・デ・リグオリは、イエズス様の聖心について何を教えていたのか?これを一緒に黙想致しましょう。彼は、イエズス様の聖心に対して、「9日間のノヴェナ」という本を書きました。特にその内容を、特にその最初の日に何を言っているのか?という事を一緒に黙想したいと思います。


その前に、聖アルフォンソ・デ・リグオリというその人はどういう人なのか?という事を少しだけお話させて下さい。

1696年、アルフォンソ・マリア・デ・リグオリ、聖アルフォンソは、イタリアのナポリのとても高貴な家に生まれました。長男でした。
小さな時に、イエズス会の聖フランシス・デ・イエロニモという方の元に連れて行かれると、この聖人は幼子を見て、ちょうどシメオンのように預言しました、「この子は、90歳以上まで生きるだろう。司教になるだろう。そして教会の為に、とても大きな善を為すだろう。」

教会の為に天主は、特に教会が危機に陥る時に天主様は、色々な聖人を送りました。中世にはアシジの聖フランシスコ、あるいは聖ドミニコ、という特別な聖人を送りましたが、近代にはアルフォンソ・デ・リグオリを送りました。

お父さんの願いで、非常に頭の良かった子供だったので、法律の勉強をしました。法律で非常に優秀な成績を収めて、大成功を収めるには全く問題がありませんでしたが、しかし法律家という、あるいは弁護士という仕事をするという事は、その弁護士の職務をするという事について、「もしかしたら、嘘をつかなければならないのか、顧客から頼まれた時に、偽証を頼まれるかもしれない。もしかしたらその法律を運用するにあたって、自分の救霊を危うくするかもしれない」という事を、真剣に悩みます。

そして、前途有望とされていた、その大成功を約束されていた職務でしたが、それを自分の救霊の為に放棄します。そしてお父さんから、父親から準備されていたとても素晴らしい結婚も相手がいたのですけれども、とても身分の高い素晴らしい女性だったのですけれども、それも放棄します。そして自分が長男であったので、家を継いで裕福な生活をする事を約束されていたのですけれども、それも放棄します。

家宝と自分の持っていた剣も、マリア様の祭壇に捧げて、そして司祭になろうとします。

30歳で司祭に叙階されて、特に貧しい人や農民たち、単純な人々に対して、特別の憐れみと愛情を注ぎます。

その後に、「至聖なる贖い主の修道会」を創立し、そして特に「多くの霊魂たちを、イエズス様の元に引き寄せよう、集めよう、自分の時間を全て使おう」という誓願を立てます。「霊魂たちを最も高い完徳まで引き寄せる為に、全てをしよう。」

イエズス様の為に特別の信心を持っていました。特に御聖体に対する、またイエズス様の御受難に対する信心を非常に持っていました。マリア様の信心についての熱さは非常に有名で、有名な「聖母マリアの栄光」という本を書きました。日本でも訳されています。

この聖アルフォンソ・デ・リグオリは、やはりイエズス様の信心についても知らされていました。聖マルガリタ・マリア・アラコックの事も知っていました。そしてこのイエズス様の聖心に対する信心を、皆に勧めていました。

第2に、聖アルフォンソ・デ・リグオリの言うには、「カトリック教会の最も中心は、イエズス様の、イエズス・キリストを愛する事にある。イエズス様が人となったのは、御自分を愛させる為である。御自分の愛に引き寄せる為である。」

「福音書を見るとこう書かれている。天主は、聖子を私たちが愛するが故に、私たちを愛する。私たちが聖子を愛するその度合いに対して、愛すればするほど、聖父も私たちを愛して下さる。なぜかというとイエズス様はこう言っているから、『聖父よ、御身は彼らを愛しています。なぜなら彼らは、私を愛したからです。』」

「あるいは聖父は、私たちがイエズス様の御名によって祈れば、イエズス様の御名により頼めば頼むほど、私たちの祈りを叶えて下さる。『今までお前たちは、私の名によって祈らなかった。しかし祈れ。そうすれば叶えて下さる。』あるいは私たちが恵みを受けるのは、イエズス様に似通った者であればあるほど、私たちは救われる事ができる。」

「聖パウロがローマ人への手紙に書いている。『キリスト教の核心は、イエズス様が人となって来られたのは、私たちがイエズス様を愛する為、私たちをしてイエズス様を愛させる為、聖子を愛させる為である。』ところが、イエズス様が私たちの為に、私たちが愛する事ができるように私たちの為に様々な事をして、それ以上しなかった事があるだろうか?これにもかかわらず、イエズス様は愛されていない。却ってそのお礼として、軽蔑と侮辱を受けている。」


もしも普通の人でありましたら、次のような態度をどう思うでしょうか。ここからは、私の考えたことです。

"はるばるやって来て、これだけ優しく教えてあげたのに、これだけ莫大なお金を尽くして、貧しい人の為には孤児院を、病気の人のためには病院を造り、学校を造り、そして技術も教えてあげて、色々な知識を伝達したのに、あれだけわがままを言ったにも関わらず「分かった分かった」と言って、「よしよしこうしてあげよう」とわがままを聞いてあげたのに、「お礼ぐらいを言うんじゃないか」と思ったけれども、お礼も言わなかった。"
普通なら、がっかりすることでしょう。

もしかしたら、お礼を言われなかったとしても「まぁ、仕方がないか」と思うかもしれません。お礼をしない代わりに、馬鹿にして、敵のように扱かったら、普通の人は、「一体何なんだ?」と思ってしまいます。これは普通の人の対応です。何も驚くに当たりません。

しかしイエズス様は、私たちに愛を込めて、そして色々御恵みを注いで、そして私たちから冒瀆や、侮辱や、罪を何度も受けて、そして裏切られて、そして馬鹿にされて、それにもかかわらず、私たちを変わらずに愛して下さって、御恵みを与え続けて下さいます。


聖アルフォンソ・デ・リグオリは、そのノヴェナの本の第1日目に、イエズス様の事を一般的に考察します。

「もしも誰かが、とても美しい人がいて、とても徳に溢れていて、そして謙遜で、優しくて、そして優雅であったとしたら、そのような素敵な人を私たちは愛さずにいられるだろうか。」

「例えば誰か、どこか遠くで外国で、立派な君主がいて、王子がいて、そしてその王子はとても優雅で、美しく、そして優しく、知恵が深くて、力があり、そして多くの善を行なっている。たとえその王子の事を私たちが直接知らなかったとしても、あるいはその王子様は私たちの事を直接知らなかったとしても、その素敵な方の事を聞いて、『あぁ、素晴らしい!』と、敬愛の念を抱かずにいられるだろうか。そのような素晴らしい人を尊敬せずにいられるだろうか。これが普通だ。」

「しかしイエズス様は、その全てを御自分で持っておられる。全ての聖徳と、全てを、私たちの愛を受けて当然の、そしてその私たちを惹き寄せるような全てのものを、魅力を持っているにもかかわらず、イエズス様は愛されていない。」

聖アルフォンソは言います、「多くの聖人たちが嘆いてるのはまさにこれである、『天主様の愛は、愛されていない。』『イエズス様は愛されていない。』」

聖アルフォンソの声に今日は耳を傾けて、聖アルフォンソが私たちに訴えたように、そしてイエズス様が私たちに訴えているように、イエズス様をお愛しする事ができるように、お祈り致しましょう。

私たちは今までイエズス様の愛を知りながらも、イエズス様の愛の呼びかけを聞きながらも、それにもかかわらず、すぐに生温くなって、すぐに冷たくなって、イエズス様を全く無視したような、あるいはイエズス様を悲しませるような言動や、考えや、その態度を取ってしまいました。

イエズス様のその愛に応える事ができませんでした。

今年は、この8月からは、イエズス様の愛を愛で返す事ができますように、聖アルフォンソ・デ・リグオリにお願い致しましょう。マリア様にお願い致しましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

主日のミサとは復活祭のミサのミニチュア版で、聖体拝領と洗礼とを荘厳に行う聖木曜日・聖金曜日・復活祭を毎週主日に記念している

2019年08月29日 | お説教・霊的講話
2019年7月21日(主日)聖霊降臨後第6主日のミサ
聖ピオ十世会司祭 小野田神父 説教

聖なる日本の殉教者巡回教会にようこそ。
今日は2019年7月21日、聖霊降臨後第6主日の御ミサをしております。

最初にお礼を申し上げます。
先週の主日には、フランスの二人の神父様たちの訪問の為に特別献金をさせて頂きました。
皆さんから、第2献金として、108,062円の温かいサポートを頂きました。今回の経費として大切に使わせて頂きたいと思っています。ありがとうございました。
今日は晩課が15時からあります。
明日も朝7時からミサがあります。

次のミサは、8月4日第1主日と、8月18日です。予定されていた大阪での黙想会は残念ながら今年はできなくなってしまいました、申し訳ありません。

それから私たちの姉妹の一人は、もうすぐ、その第3番目の赤ちゃんの予定日が近付いております、お母さんも子供も、健康に、安全な出産ができ、子供も元気に産まれてきますように、お祈り下さい。おそらく今度の8月の最初のミサの時には、洗礼式が待っているのではないかと期待しております。

8月5日のミサの後に、翌日月曜日に、ここでのミサの後に、私は岩国の海兵隊の所に行く予定です。そこでも赤ちゃんが産まれたという事で、洗礼を授けに行く事になりました。どうぞこの生まれた赤ちゃんの為にも、生まれつつ赤ちゃんの為にもお祈り下さい。多くの命が私たちに与えられて、本当に感謝致します。


“Misereor super turbam.”
「私は、この群衆を憐れむ。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、先週の主日は私たちは、非常に貴重な「荘厳ミサ」を行ないました。司式司祭、そして助祭、副助祭、そして侍者の素晴らしい奉仕の元で、そして素晴らしい聖歌隊の歌の元で、香を焚き、そして助祭が北を向いて福音書を読み、副助祭が書簡を読んだ。実はこれこそが、ミサの元々の形でした。

「ミサ」というのは、元々は司教様がなさって、そしてその下に司祭、副助祭などがこう奉仕して、一人で捧げました。共同司式というのはありませんでした。

これを見ると、この今の主日のミサというのは、この荘厳ミサのミニチュア版というのでしょうか、その荘厳ミサを本当ならしたいのだけれども、する事ができないのでその代わりに、助祭の代わりに、助祭や副助祭ができるような事を、侍者がやる、という事をしています。

ですから本当ならば助祭が、あるいは副助祭がこう準備しなければならないカリスを、あるいはブドウ酒や水を、侍者が今やっています。

これは何を意味しているかというと、「私たちはいつも毎週の主日で、本来ならばある荘厳ミサ、司祭、副助祭たちが集まってされる荘厳ミサのミニチュア版を、毎週やっている」という事です。

司祭や副助祭たちがそうやって集まる事ができるのは、特に聖週間です。特に聖木曜日、あるいは復活の徹夜祭、あるいは聖金曜日などは、他にはミサが捧げられない、一つの教会にたった一つなので、多くの聖職者たちが一堂に会して荘厳ミサをします。主日はその象りです。

今日の実はミサを見ると、まさに主日のミサというのが、復活のミサ、復活の徹夜祭と、復活祭のミニチュア版だ、そのミニチュア版を毎週主日にやっている、という事がよく分かります。

例えば聖福音では、イエズス様の元に群衆がやって来ます。これは何かというと、教会のイメージです。

「主日に、多くのキリスト教徒信者たちがイエズス様の元にやって来る」という、生き生きとしたイメージです。4000名がやって来ました。これを7つのパンとちょっとの魚でイエズス様は養います。

イエズス様はまず御説教をします。群衆はその話を、シーンと耳を澄まして聞いています。イエズス様は霊的な糧を、御説教を与えたのみならず、パンでも養います、「もしもこのまま家に帰ったら、彼らはお腹が減っているので、倒れてしまうかもしれない。遠くから来た者もいる。」

ミサでも聖福音を読み、そして書簡を読み、そして説教があり、そしてイエズス様の御言葉を聞き、私たちはイエズス様の御聖体によって養われて、帰路に着きます。なぜかというと、次のミサまで、まだ長い時間が待っているからです。私たちはこの家に、家の道を辿るまでの栄養分を、霊的にも、そして御聖体によっても養われます。

ところで私たちの「家」、つまり究極に至らなければならない家というのは何でしょうか?それは「天国」の故郷です。今日聖パウロの美しい書簡をぜひ何度もお読み下さい。どうぞこれを黙想なさって下さい。

復活祭の時に、普通は洗礼式があります。復活の徹夜祭に洗礼水を祝福して、復活のローソクによって祝福して、そして洗礼式がよくあります。霊的に復活するという事です。聖パウロはその事を思い出させます。

「私たちは、キリストの死において、キリストに接木されたものだ。私たちは新しい人を着ている。古い人を十字架に付けた。私たちはだから、新しい命を歩まなければならない。復活の命を歩かなければならない。キリストと共に行列をして、司祭を先頭にキリストに向かって行列しなければならない。天国に向かって巡礼の旅に出なければならない。罪には死んだ者として、天主にのみ生きる者として、歩まなければならない。」

主日のミサの時に、教会は“Asperges me”「灌水式」を行ないます。これも、「イエズス様の洗礼を受けた、イエズスに接木された、イエズス様と共に洗礼の中に入って葬られて、そしてキリストと共によみがえったものである」という事を意味しています。

聖水を作るのは、「水」と「お塩」です。
「水」は、人間の本性を、イエズス・キリストの「御人性」を表しています。
「塩」は、イエズス・キリストの「御神性」「天主性」を表しています。
その二つが結合して、「イエズス・キリスト」となります。

そして聖水で、キリストをシンボルとする聖水を、もう一度私たちは受けて、洗礼の約束を更新します。ですから詩編でも、“Miserere mei Domine”「主よ、私を憐れみ給え」と、罪を痛悔する詩編も唱えます。

私たちはキリストによって洗礼によって、主の民の一部となりました。主の遺産の一部となりました。これこそ今日入祭誦で歌われて、そしてこれこそ祈祷文で歌われているものです。

なぜ私が今、こういう事を申し上げたかというと、天主様の御恵みによりて、マリア様の御取次ぎによりて、そして皆さんの多くの世界中の方々からのご支援や、皆さんの寛大な支援によって、できれば聖ピオ十世会の修道院を、来年東京に造りたいと思っているからです。それが与えられるように願っているからです。そうすると、日本で最初の聖週間を、皆さんと共に祝う事ができる、と期待しています。

そしてその聖週間のその典礼こそが、この主日の典礼の頂点に立つものであって、そのカトリックの聖伝の典礼の原型であって、その最高の姿であるので、是非この聖週間の典礼に、皆さんにぜひ与って頂きたいと願っております。

ただ物理的に、あるいは肉体的に、ただ座ってボーッと見ているのではなくて、その聖週間の典礼、聖木曜日・聖金曜日・復活の徹夜祭・あるいは復活の日中のミサなど、そのなぜこういう儀式があるのか?何がどのような事が意味されているのか?そのシンボル、その象徴が意味するものは何なのか?この行動の深い意味は何なのか?なぜこうなのか?という事をしみじみと味わって、そしてその復活の神秘の中に深く入って頂きたいと思っています。

ちょうど先週荘厳ミサが行なわれたという事は、それの良い前兆であるかのように私は感じています。

まさに教会の全ての、最も芸術的な、天才的な、グレゴリア聖歌や、あるいは教会の建物、聖人、諸聖人の御像、あるいはステンドグラス、あるいは教会の絵画、全ては、このイエズス様の神秘を、ミサ聖祭の祭壇で行なわれている目に見えない神秘を表す為に、これを守る為に、これを私たちが生きる為に、私たちがこれによって養われる為に、作られました。

2000年間、天才たちが、大聖人たちが、そして歴代の教皇様たちが、博士たちが、神学者たちが、祈りを以て、学術を尽くして、そして聖霊に導かれながら完成させた、この典礼のその「花」である聖週間、これをぜひ私たち皆さんが深く味わう事ができますように、と願っています。

その為にも今日この主日、小さな復活祭の主日のミサの中に深く味わって下さい。イエズス様は私たちを見て仰るに違いありません、「あぁ、この群衆を憐れむ。彼らは遠くから来ている。何とかして養わなければならない。」

マリア様にお願い致しましょう。私たちのこの拙い願いが、しかし熱烈な願いが、聞き届けられますように。そしてマリア様の憐れみによって、イエズス様のその御憐れみによって、私たちに多くの、より多くの御恵みが与えられ、司祭の常駐が、聖伝のミサが毎日捧げられる事が、自由にこのミサが挙げられる事がなされますように、お祈り致しましょう。

“Misereor super turbam.”

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


聖ピオ十世会マニラ 近況報告

2019年08月29日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
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聖ピオ十世会のマニラ修道院では、フィリピンの修道院長のミーティングがありました。











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