アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様、
レネー神父様の霊的講話 「結婚について」(日本語訳)をご紹介いたします。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
親愛なる兄弟の皆さん、
秘蹟の勉強を続けましょう。今回は最後の秘蹟である聖なる婚姻です。結婚とは、一人の男と一人の女の生涯にわたって続く結合であって、聖なる家庭で子どもを持つという目的があります。婚姻というこの結合は、アダムとエバの創造の時から存在しています。エバがアダムの脇から造られるやいなや、エバはこの聖なる絆によってアダムと一つになりました。「だからこそ、男は父母を離れて、女とともになり、二人は一体となる」(創世記2章24節)。聖トマスはこう説明します。エバは、男を支配することのないようにアダムの頭からは造られず、男が女を踏み砕くことのないようにアダムの足からも造られず、互いに忠実に愛し合うようにアダムの脇から造られた、と。旧約では、イサクとリベカの結婚や、大天使ラファエル自身に導かれたトビアとサラの結婚といった有名な結婚がいくつか見られます。
結婚は、私たちの主イエズス・キリストがカナの婚礼に出席して水をぶどう酒に変えるという奇蹟によってそれを聖化されたとき、主によって秘蹟のレベルまで高められた、というのが信仰の教義です。実際、この奇蹟はまず、旧約から新約に変わることを表しており、またご聖体、すなわち、主のご生涯の終わりに当たって聖木曜日に主が行われたことである、ぶどう酒を主ご自身の御血に変える、ということも表しています。さて、ご聖体は、のちに説明するように、キリストと彼の教会の婚礼の秘蹟そのものであるのです。
結婚それ自体は、絆で結ばれた生活の始まりを置く契約です。その儀式は短いものですが、全生涯にわたって続く効力を与えます。結婚は、「同意の交換」、すなわち夫と妻がお互いを与え、お互いを受けることから成っています。この契約によって、夫と妻は「結婚行為」のための相手の体に対する権利をお互いに与えるのです。話のついでに言いますが、教会の言葉遣いは常に慎み深いものであることに気を付けてください。聖パウロはこう言います。「妻は自分の体を随意にすることはできぬ、妻は夫のものである。同様に夫も自分の体を随意にすることはできぬ、夫は妻のものである。互いに拒んではならぬ。ただ合意の上で、祈りに従事するためにしばらくやめても、再び共になるがよい。それはあなたたちを誘うサタンを肉欲に乗じさせないためである」(コリント前書7章4-5節)。天主は聖なる結婚において子どもが生まれるべく制定されましたが、それは子どもには父親と母親が必要であることから子ども自身の善のためであるとともに、良き子どもは良き両親への最上の報いであることから両親の善のためでもあるのです。結婚生活以外で子どもを持つことは正しくありません。それは子どもから父親を奪うのですから。
結婚は本質的に生涯にわたって続く結合です。結婚は解消できず、離婚をすることは許されません。主は非常に明確にこう言われました。「人は天主が合わせられたものを離してはならぬ」(マテオ19章6節)。このことはまず第一に、子どもの善のために必要です。実際、人間と動物を比較すれば、動物は人間よりずっと早く大人になることに気付きます。鳥やウサギといった多くの動物は、一年もたたないうちに大人になります! ライオンのようなもっと大きな動物は二、三年かかりますが、それ以上時間がかかるのは非常にまれです。しかし人間では、十年たっても、子どもはまだ大人になっていません! その理由は、人間は盲目的な本能によって導かれるのではなく、その知性によって自らを導かなければならないからです。でも、そのためには、人が自分の生活のためだけでなく全家族のために責任を持つことのできる段階にまで、学ぶための時間、自分の知性を伸ばすための時間がかかります。それゆえに、子どもが両親を多年にわたって必要とするのですから、両親は何年も何年も一緒に暮らさなくてはならないのです! これらの年月の間に、両親はさらに子どもを持つこともあるでしょう。最後の子どもが大人になったあとでさえ、両親はその子どもたちに忠実という良き模範を示す必要があります。ですから両親は、子どもたちが幼い年月だけでなく、全生涯にわたって一緒に暮らすべきです。
旧約では、民の心が強情だったため、離婚が許されていました。それについて主はこう言われます。「あなたたちの性質が強情だから、モーゼは妻を去らすことを許したのだ。だが初めからそうではなかった」(マテオ19章8節)。私たちの主イエズス・キリストは、結婚をその本来の状態の聖性にまで回復なさったのであり、離婚して再婚することを非常に厳しく禁じられています。「自分の妻を離縁して他の女と結婚する人は姦通を犯し、夫から離縁された女と結婚する人も姦通を犯すのである」(ルカ16章18節)。例外的な場合、例えば家庭内での暴力や暴行があるときは、司教に対して「別居」、すなわち離れて生活することの許可を求めることが許されますが、これは決して離婚ではありませんし、決して再婚を許すのでもありません。
結婚は本質的に独占的なものです。結婚以外で関係を持つことは決して許されません。そうするならば、それは姦通であって非常に重い罪です。初期の教会では、背教、殺人、姦通という三つの罪に対して大きな公的な悔悛が求められました。これは、それらの罪がいかに重いものであるかを示しています。聖パウロは非常に明確に言っています。「淫行の者、好色な者、情欲の者はみな―これは偶像崇拝者と同じである―、キリストと天主の国を継げない」(エフェゾ5章5節)。良き家庭は聖性と純潔の雰囲気を持つべきであり、それは、子どもたちがあらゆる聖徳において花を咲かせ、成長するために必要なのです。
結婚は本質的に子どもの出産のためにあり、結婚行為に自然の効果が伴うことを妨害することは許されません。いかなる形態であれ避妊は天主の法に反しており、重い罪です。さらに悪いものは妊娠中絶です。これは命を完全に拒否することであり、それには四つの大罪と、三つの罪を重くさせる事情が含まれています。命の伝達を究極的に拒否することですから、第六戒に反します。罪のない者を殺すことですから、第五戒に反します。子どもに対する究極の虐待であり、子どもに対する親の義務に反しますから、第四戒に反します。子どもから洗礼の機会を奪い、子どもに必要なものを与えるべき親の重い義務に反しますから、第一戒に反します。そして、三つの罪を重くさせる事情とは、被害者に罪がなければないほど殺人は悪いものであること、被害者が弱ければ弱いほど殺人は悪いものであること、そして殺人が残酷であればあるほど殺人は悪いものであるということです。おなかの中の赤ん坊以上に罪のない者がいるでしょうか? 赤ん坊以上に弱い者がいるでしょうか? もしおなかの赤ん坊に対してなされることを大人に対してするならば、その残酷さに対して非難が巻き起こるでしょう。
結婚は、決して貞潔に反するあらゆる種類の罪を許可することではありません。結婚行為は、結婚の内では良きかつ聖なるものですが、その倒錯行為は結婚においてさえも悪いものです。ですから、自然に反する性的行為はどのような形態であれ、結婚においてさえも重い罪です。聖パウロはこう言います。「みな婚姻を尊び、寝床をけがすな。淫行者と姦通者は天主に裁かれる」(ヘブライ13章4節)。
ですから、結婚の第一の善は子どもであり、結婚の祝福はたくさんの子どもに恵まれるという祝福です。「あなたが、子どもと子どもの子ども、また三代、四代のちまでも見るように。あなたの子孫が、永遠に統治し給うイスラエルの天主の祝福を受けるように」(トビア9章11節)。でも、子どもに命を与えるだけでは十分ではなく、子どもには教育が必要です。子どもに良きカトリック教育を受けさせることは、両親の大きな任務です。その教育は、子どもの体や知性、気質を伸ばすという自然のレベルにとどまらず、とりわけ霊的な命を伝達することです。その方法は、子どもに出来るだけ早く洗礼を授け、最も感じやすい若いころから信仰についての教育をし、キリスト教のすべての聖徳について、特に愛徳と貞潔についての教育をするのです。良き子どもは良き両親の最上の報いですが、それには努力が必要です!
結婚の第二の善は、相互に支え合うことです。「主なる天主は仰せられた、『人間が一人きりでいるのはよくない。私は、彼に似合った助け手を与えよう』」(創世記2章18節)。また、賢者はこう説明します。「一人きりより、二人でいる方がよい。働く場合も能率が上がる。どちらかが倒れれば片方がそれを助け上げる、だが、一人きりで倒れたら不幸なことだ、助け上げてくれる人がいないのだから。また、二人一緒に寝るとどちらも暖かいが、一人きりで、どうして暖かくなるだろう。一人の場合は倒されても、二人でなら抵抗できる」(コヘレット4章9-12節)。愛し愛されることは大きな慰めであり支えです。この相互の愛が、結婚を自然のレベルにおいて最も深い友情関係とするのです。
忠実であることによって、年ごとにこの友情関係が深まります。私の祖父が、結婚五十周年に私にこう言ったのが思い出されます。「おまえたち、自分が結婚五十周年にもなったと考えてごらん、喜びは結婚したころと同じとは言えないよ、でも人生を振り返って五十年間忠実であったのなら、その喜びは結婚したころよりも大きいよ!」。
結婚の第三の善は秘蹟です。これは、カトリックの結婚における一人の男と一人の女の結合が、キリストと彼の教会、すなわちカトリック教会の結合を表しているという事実です。この神秘的結婚は、この世における結婚の模範であり、結婚している全てのカップルにたくさんの恩寵を与える源なのです。実際、キリストと彼の教会の結合が永遠に続くものであり、天国において永続するものであり、死によってさえ解消されないものであるがゆえに、この結婚の神秘的次元は結婚の不解消性を、より強くするのです。さらに言えば、この結合は最も聖にして貞潔であり、すべての聖なる愛の源です。この結合は、霊的に実りの多いものであり、その実りである数えきれないほどの聖人たちを生み出すのです。
まことの愛は、「キリストが教会を愛し、そのために命を与えられたように」、犠牲に至るという段階まで自分を捧げるものであるということを、この模範は明確に示しています。そして、「キリストが命を捨てられたのは、水を注ぐことと、それに伴う言葉によって教会を清め聖とするためであり、またしみもしわもすべてそのようなもののない、輝かしく清くけがれのない教会をご自分に差し出させるためであった。そのように夫も妻を愛さねばならない」(エフェゾ5章25-28節)のです。
アダムの開かれた脇から造られたエバがアダムと結婚したように、教会は十字架上のキリストの開かれた脇から生まれ、まさにそこ[十字架上]でキリストと結婚したのです! キリストの脇が十字架上で開かれたとき聖心から流れ出た水と血は、洗礼とご聖体を表しており、これらによって教会[のメンバー]が集められ、聖化されるのです。十字架の下で立っておられる聖母は、教会全体のことを表しています。カナのときのように、主は聖母を「母よ」ではなく「婦人よ」と呼ばれ、さらに主は聖母に「婦人よ、汝の子を見よ」(ヨハネ19章26節)と言って子どもをお与えになるのです。福音書は、その子どもが「ヨハネ」だとは言わず、「愛する弟子」だと言います。ですから、この子どもは、キリストと彼の教会のこの聖なる結合から生まれる愛する弟子たち全員なのであり、これは十字架上で起きたことです。十字架は愛の神秘であり、多くの子どもたち、つまり諸聖人を最も豊かに生み出す神秘的結婚なのです。
十字架の犠牲がキリストと教会の実際の結婚であるならば、ミサにおいてこの犠牲を、血を流さずに更新することは、すべてのカトリック信者の結婚について結婚の恩寵を更新するのに最も適切です。そこ、祭壇の下で、結婚している夫婦はお互いに自分を捧げ合う約束を更新するのです。彼らは相手のために、子どものために、自分を犠牲にすることを学びます。彼らはキリストと教会の結合から、忠実という恩寵を引き出すのであり、相互の愛の恩寵と、子どもたちのために必要なすべての恩寵を引き出すのです。
結婚の質料と形相は、夫婦の同意の交換です。ですから、この秘蹟の役務者は夫婦自身です。 自分たち自身を結婚させるのは彼らなのです。司祭がそこにいるのは、教会の名によって彼らを祝福し、彼らの契約の証人となるためです。また他の二人の証人が必要であり、それは「二人か三人の証人の言葉を借りてことを片付け」(マテオ18章16節)るようにするためです。
実際、結婚は、社会の基本的要素である家庭の基礎ですから、決して私的なことではありません。結婚は、世俗社会にとっても宗教社会にとっても、公的な善なのです。それゆえに、結婚は国家の権威の下にあるとともに、とりわけ教会の権威の下にあるのです。世俗の国家には、結婚とその不解消性を保護する義務があり、結婚をあらゆる種類の不自然な結合と同じレベルに置かないようにする義務があります。カトリック教会は、結婚の忠実な保護者であり続けてきています。カトリックは、結婚の不解消性を完全に保護する唯一の宗教です。プロテスタントのセクトはすべて離婚を受け入れていますが、これは驚くことではありません。なぜなら、これらのセクトは自らがキリストから離婚し、教会から離れたからなのです。
教会は、結婚に関する法を定める権利を持っています。特に教会は、結婚と家庭の聖性を保護するために、婚姻障害をいくつか定めています。婚姻障害は、結婚の有効性または適法性を妨げる事情です。ですから、性的不能、近親血縁関係、既婚歴、司祭叙階、ある種の犯罪は、結婚の有効性を妨げる婚姻障害です。
この秘蹟の効果は、二つのレベルにあります。第一の効果は、結婚の絆、死に至るまで全生涯にわたって続く霊的な絆です。この絆は、二人がお互いに与え合う指輪によって表されます。この絆はキリストと教会の間の絆を表し、第二の効果である恩寵の源です。適切に受けるならば、結婚の秘蹟は、聖性の恩寵を増加させ、結婚生活全体にわたって多くの助力の恩寵を与え、天主が夫婦にお与えになった使命を彼らが実現するのを助けます。これらの助力の恩寵を豊かに受け続けるための素晴らしい手段の一つは、家族での祈りです。毎日、家族全員が一緒に祈るために集まります。規則的に続けることが鍵です。短い祈りであったとしても、たまにロザリオの祈り全体を祈るよりも、毎日祈る方が重要です。私の家庭では、私たちが幼い子どもだったとき、毎日ロザリオ一連だけしか祈りませんでしたが、欠かすことなく祈っていました。私たちが成長したとき、父は四旬節の機会にもう一連を加え、次の年にはさらに一連を追加しました。しかし、私たちがロザリオの祈り全体を祈るようになったのは、私たち全員が成長してからでした。この家族での祈りが、この秘蹟の恩寵を豊かに受け続けるための非常に重要な手段なのです。
若い人々は、信仰と純潔によって、良きかつ聖なる結婚に対する準備をすべきです。これらが、聖なる結婚のための良き準備を構成する二つの最も重要な要素です。結婚前の純潔と童貞性は、その後の完全な忠実のための準備となり、それゆえに大きな喜びと平和の源であるのです。信仰は肉体的レベルだけでなく霊的レベルの結合も与えますが、それは夫婦が命の目的、子どもたちの教育、彼らの生活におけるまことの礼拝の重要性などについての単一の見方を持つようにするためです。たくさん祈ることも必要ですが、それは主が若いトビアに良き妻を見つけるよう指示なさったように、主が皆さんに指示なさるようにするためです。
結婚しているすべての人々のために祈りましょう。彼らが忠実でありますように、天主に忠実でありかつお互いに忠実でありますように。彼らがまことの命とまことの愛の豊かな恩寵を受け、そうすることで、マリアとヨゼフに忠実に倣うことによって天国に行くことができますように! アーメン。
愛する兄弟姉妹の皆様、
レネー神父様の霊的講話 「結婚について」(日本語訳)をご紹介いたします。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
2017年7月9日主日 公教要理
結婚について
結婚について
親愛なる兄弟の皆さん、
秘蹟の勉強を続けましょう。今回は最後の秘蹟である聖なる婚姻です。結婚とは、一人の男と一人の女の生涯にわたって続く結合であって、聖なる家庭で子どもを持つという目的があります。婚姻というこの結合は、アダムとエバの創造の時から存在しています。エバがアダムの脇から造られるやいなや、エバはこの聖なる絆によってアダムと一つになりました。「だからこそ、男は父母を離れて、女とともになり、二人は一体となる」(創世記2章24節)。聖トマスはこう説明します。エバは、男を支配することのないようにアダムの頭からは造られず、男が女を踏み砕くことのないようにアダムの足からも造られず、互いに忠実に愛し合うようにアダムの脇から造られた、と。旧約では、イサクとリベカの結婚や、大天使ラファエル自身に導かれたトビアとサラの結婚といった有名な結婚がいくつか見られます。
結婚は、私たちの主イエズス・キリストがカナの婚礼に出席して水をぶどう酒に変えるという奇蹟によってそれを聖化されたとき、主によって秘蹟のレベルまで高められた、というのが信仰の教義です。実際、この奇蹟はまず、旧約から新約に変わることを表しており、またご聖体、すなわち、主のご生涯の終わりに当たって聖木曜日に主が行われたことである、ぶどう酒を主ご自身の御血に変える、ということも表しています。さて、ご聖体は、のちに説明するように、キリストと彼の教会の婚礼の秘蹟そのものであるのです。
結婚それ自体は、絆で結ばれた生活の始まりを置く契約です。その儀式は短いものですが、全生涯にわたって続く効力を与えます。結婚は、「同意の交換」、すなわち夫と妻がお互いを与え、お互いを受けることから成っています。この契約によって、夫と妻は「結婚行為」のための相手の体に対する権利をお互いに与えるのです。話のついでに言いますが、教会の言葉遣いは常に慎み深いものであることに気を付けてください。聖パウロはこう言います。「妻は自分の体を随意にすることはできぬ、妻は夫のものである。同様に夫も自分の体を随意にすることはできぬ、夫は妻のものである。互いに拒んではならぬ。ただ合意の上で、祈りに従事するためにしばらくやめても、再び共になるがよい。それはあなたたちを誘うサタンを肉欲に乗じさせないためである」(コリント前書7章4-5節)。天主は聖なる結婚において子どもが生まれるべく制定されましたが、それは子どもには父親と母親が必要であることから子ども自身の善のためであるとともに、良き子どもは良き両親への最上の報いであることから両親の善のためでもあるのです。結婚生活以外で子どもを持つことは正しくありません。それは子どもから父親を奪うのですから。
結婚は本質的に生涯にわたって続く結合です。結婚は解消できず、離婚をすることは許されません。主は非常に明確にこう言われました。「人は天主が合わせられたものを離してはならぬ」(マテオ19章6節)。このことはまず第一に、子どもの善のために必要です。実際、人間と動物を比較すれば、動物は人間よりずっと早く大人になることに気付きます。鳥やウサギといった多くの動物は、一年もたたないうちに大人になります! ライオンのようなもっと大きな動物は二、三年かかりますが、それ以上時間がかかるのは非常にまれです。しかし人間では、十年たっても、子どもはまだ大人になっていません! その理由は、人間は盲目的な本能によって導かれるのではなく、その知性によって自らを導かなければならないからです。でも、そのためには、人が自分の生活のためだけでなく全家族のために責任を持つことのできる段階にまで、学ぶための時間、自分の知性を伸ばすための時間がかかります。それゆえに、子どもが両親を多年にわたって必要とするのですから、両親は何年も何年も一緒に暮らさなくてはならないのです! これらの年月の間に、両親はさらに子どもを持つこともあるでしょう。最後の子どもが大人になったあとでさえ、両親はその子どもたちに忠実という良き模範を示す必要があります。ですから両親は、子どもたちが幼い年月だけでなく、全生涯にわたって一緒に暮らすべきです。
旧約では、民の心が強情だったため、離婚が許されていました。それについて主はこう言われます。「あなたたちの性質が強情だから、モーゼは妻を去らすことを許したのだ。だが初めからそうではなかった」(マテオ19章8節)。私たちの主イエズス・キリストは、結婚をその本来の状態の聖性にまで回復なさったのであり、離婚して再婚することを非常に厳しく禁じられています。「自分の妻を離縁して他の女と結婚する人は姦通を犯し、夫から離縁された女と結婚する人も姦通を犯すのである」(ルカ16章18節)。例外的な場合、例えば家庭内での暴力や暴行があるときは、司教に対して「別居」、すなわち離れて生活することの許可を求めることが許されますが、これは決して離婚ではありませんし、決して再婚を許すのでもありません。
結婚は本質的に独占的なものです。結婚以外で関係を持つことは決して許されません。そうするならば、それは姦通であって非常に重い罪です。初期の教会では、背教、殺人、姦通という三つの罪に対して大きな公的な悔悛が求められました。これは、それらの罪がいかに重いものであるかを示しています。聖パウロは非常に明確に言っています。「淫行の者、好色な者、情欲の者はみな―これは偶像崇拝者と同じである―、キリストと天主の国を継げない」(エフェゾ5章5節)。良き家庭は聖性と純潔の雰囲気を持つべきであり、それは、子どもたちがあらゆる聖徳において花を咲かせ、成長するために必要なのです。
結婚は本質的に子どもの出産のためにあり、結婚行為に自然の効果が伴うことを妨害することは許されません。いかなる形態であれ避妊は天主の法に反しており、重い罪です。さらに悪いものは妊娠中絶です。これは命を完全に拒否することであり、それには四つの大罪と、三つの罪を重くさせる事情が含まれています。命の伝達を究極的に拒否することですから、第六戒に反します。罪のない者を殺すことですから、第五戒に反します。子どもに対する究極の虐待であり、子どもに対する親の義務に反しますから、第四戒に反します。子どもから洗礼の機会を奪い、子どもに必要なものを与えるべき親の重い義務に反しますから、第一戒に反します。そして、三つの罪を重くさせる事情とは、被害者に罪がなければないほど殺人は悪いものであること、被害者が弱ければ弱いほど殺人は悪いものであること、そして殺人が残酷であればあるほど殺人は悪いものであるということです。おなかの中の赤ん坊以上に罪のない者がいるでしょうか? 赤ん坊以上に弱い者がいるでしょうか? もしおなかの赤ん坊に対してなされることを大人に対してするならば、その残酷さに対して非難が巻き起こるでしょう。
結婚は、決して貞潔に反するあらゆる種類の罪を許可することではありません。結婚行為は、結婚の内では良きかつ聖なるものですが、その倒錯行為は結婚においてさえも悪いものです。ですから、自然に反する性的行為はどのような形態であれ、結婚においてさえも重い罪です。聖パウロはこう言います。「みな婚姻を尊び、寝床をけがすな。淫行者と姦通者は天主に裁かれる」(ヘブライ13章4節)。
ですから、結婚の第一の善は子どもであり、結婚の祝福はたくさんの子どもに恵まれるという祝福です。「あなたが、子どもと子どもの子ども、また三代、四代のちまでも見るように。あなたの子孫が、永遠に統治し給うイスラエルの天主の祝福を受けるように」(トビア9章11節)。でも、子どもに命を与えるだけでは十分ではなく、子どもには教育が必要です。子どもに良きカトリック教育を受けさせることは、両親の大きな任務です。その教育は、子どもの体や知性、気質を伸ばすという自然のレベルにとどまらず、とりわけ霊的な命を伝達することです。その方法は、子どもに出来るだけ早く洗礼を授け、最も感じやすい若いころから信仰についての教育をし、キリスト教のすべての聖徳について、特に愛徳と貞潔についての教育をするのです。良き子どもは良き両親の最上の報いですが、それには努力が必要です!
結婚の第二の善は、相互に支え合うことです。「主なる天主は仰せられた、『人間が一人きりでいるのはよくない。私は、彼に似合った助け手を与えよう』」(創世記2章18節)。また、賢者はこう説明します。「一人きりより、二人でいる方がよい。働く場合も能率が上がる。どちらかが倒れれば片方がそれを助け上げる、だが、一人きりで倒れたら不幸なことだ、助け上げてくれる人がいないのだから。また、二人一緒に寝るとどちらも暖かいが、一人きりで、どうして暖かくなるだろう。一人の場合は倒されても、二人でなら抵抗できる」(コヘレット4章9-12節)。愛し愛されることは大きな慰めであり支えです。この相互の愛が、結婚を自然のレベルにおいて最も深い友情関係とするのです。
忠実であることによって、年ごとにこの友情関係が深まります。私の祖父が、結婚五十周年に私にこう言ったのが思い出されます。「おまえたち、自分が結婚五十周年にもなったと考えてごらん、喜びは結婚したころと同じとは言えないよ、でも人生を振り返って五十年間忠実であったのなら、その喜びは結婚したころよりも大きいよ!」。
結婚の第三の善は秘蹟です。これは、カトリックの結婚における一人の男と一人の女の結合が、キリストと彼の教会、すなわちカトリック教会の結合を表しているという事実です。この神秘的結婚は、この世における結婚の模範であり、結婚している全てのカップルにたくさんの恩寵を与える源なのです。実際、キリストと彼の教会の結合が永遠に続くものであり、天国において永続するものであり、死によってさえ解消されないものであるがゆえに、この結婚の神秘的次元は結婚の不解消性を、より強くするのです。さらに言えば、この結合は最も聖にして貞潔であり、すべての聖なる愛の源です。この結合は、霊的に実りの多いものであり、その実りである数えきれないほどの聖人たちを生み出すのです。
まことの愛は、「キリストが教会を愛し、そのために命を与えられたように」、犠牲に至るという段階まで自分を捧げるものであるということを、この模範は明確に示しています。そして、「キリストが命を捨てられたのは、水を注ぐことと、それに伴う言葉によって教会を清め聖とするためであり、またしみもしわもすべてそのようなもののない、輝かしく清くけがれのない教会をご自分に差し出させるためであった。そのように夫も妻を愛さねばならない」(エフェゾ5章25-28節)のです。
アダムの開かれた脇から造られたエバがアダムと結婚したように、教会は十字架上のキリストの開かれた脇から生まれ、まさにそこ[十字架上]でキリストと結婚したのです! キリストの脇が十字架上で開かれたとき聖心から流れ出た水と血は、洗礼とご聖体を表しており、これらによって教会[のメンバー]が集められ、聖化されるのです。十字架の下で立っておられる聖母は、教会全体のことを表しています。カナのときのように、主は聖母を「母よ」ではなく「婦人よ」と呼ばれ、さらに主は聖母に「婦人よ、汝の子を見よ」(ヨハネ19章26節)と言って子どもをお与えになるのです。福音書は、その子どもが「ヨハネ」だとは言わず、「愛する弟子」だと言います。ですから、この子どもは、キリストと彼の教会のこの聖なる結合から生まれる愛する弟子たち全員なのであり、これは十字架上で起きたことです。十字架は愛の神秘であり、多くの子どもたち、つまり諸聖人を最も豊かに生み出す神秘的結婚なのです。
十字架の犠牲がキリストと教会の実際の結婚であるならば、ミサにおいてこの犠牲を、血を流さずに更新することは、すべてのカトリック信者の結婚について結婚の恩寵を更新するのに最も適切です。そこ、祭壇の下で、結婚している夫婦はお互いに自分を捧げ合う約束を更新するのです。彼らは相手のために、子どものために、自分を犠牲にすることを学びます。彼らはキリストと教会の結合から、忠実という恩寵を引き出すのであり、相互の愛の恩寵と、子どもたちのために必要なすべての恩寵を引き出すのです。
結婚の質料と形相は、夫婦の同意の交換です。ですから、この秘蹟の役務者は夫婦自身です。 自分たち自身を結婚させるのは彼らなのです。司祭がそこにいるのは、教会の名によって彼らを祝福し、彼らの契約の証人となるためです。また他の二人の証人が必要であり、それは「二人か三人の証人の言葉を借りてことを片付け」(マテオ18章16節)るようにするためです。
実際、結婚は、社会の基本的要素である家庭の基礎ですから、決して私的なことではありません。結婚は、世俗社会にとっても宗教社会にとっても、公的な善なのです。それゆえに、結婚は国家の権威の下にあるとともに、とりわけ教会の権威の下にあるのです。世俗の国家には、結婚とその不解消性を保護する義務があり、結婚をあらゆる種類の不自然な結合と同じレベルに置かないようにする義務があります。カトリック教会は、結婚の忠実な保護者であり続けてきています。カトリックは、結婚の不解消性を完全に保護する唯一の宗教です。プロテスタントのセクトはすべて離婚を受け入れていますが、これは驚くことではありません。なぜなら、これらのセクトは自らがキリストから離婚し、教会から離れたからなのです。
教会は、結婚に関する法を定める権利を持っています。特に教会は、結婚と家庭の聖性を保護するために、婚姻障害をいくつか定めています。婚姻障害は、結婚の有効性または適法性を妨げる事情です。ですから、性的不能、近親血縁関係、既婚歴、司祭叙階、ある種の犯罪は、結婚の有効性を妨げる婚姻障害です。
この秘蹟の効果は、二つのレベルにあります。第一の効果は、結婚の絆、死に至るまで全生涯にわたって続く霊的な絆です。この絆は、二人がお互いに与え合う指輪によって表されます。この絆はキリストと教会の間の絆を表し、第二の効果である恩寵の源です。適切に受けるならば、結婚の秘蹟は、聖性の恩寵を増加させ、結婚生活全体にわたって多くの助力の恩寵を与え、天主が夫婦にお与えになった使命を彼らが実現するのを助けます。これらの助力の恩寵を豊かに受け続けるための素晴らしい手段の一つは、家族での祈りです。毎日、家族全員が一緒に祈るために集まります。規則的に続けることが鍵です。短い祈りであったとしても、たまにロザリオの祈り全体を祈るよりも、毎日祈る方が重要です。私の家庭では、私たちが幼い子どもだったとき、毎日ロザリオ一連だけしか祈りませんでしたが、欠かすことなく祈っていました。私たちが成長したとき、父は四旬節の機会にもう一連を加え、次の年にはさらに一連を追加しました。しかし、私たちがロザリオの祈り全体を祈るようになったのは、私たち全員が成長してからでした。この家族での祈りが、この秘蹟の恩寵を豊かに受け続けるための非常に重要な手段なのです。
若い人々は、信仰と純潔によって、良きかつ聖なる結婚に対する準備をすべきです。これらが、聖なる結婚のための良き準備を構成する二つの最も重要な要素です。結婚前の純潔と童貞性は、その後の完全な忠実のための準備となり、それゆえに大きな喜びと平和の源であるのです。信仰は肉体的レベルだけでなく霊的レベルの結合も与えますが、それは夫婦が命の目的、子どもたちの教育、彼らの生活におけるまことの礼拝の重要性などについての単一の見方を持つようにするためです。たくさん祈ることも必要ですが、それは主が若いトビアに良き妻を見つけるよう指示なさったように、主が皆さんに指示なさるようにするためです。
結婚しているすべての人々のために祈りましょう。彼らが忠実でありますように、天主に忠実でありかつお互いに忠実でありますように。彼らがまことの命とまことの愛の豊かな恩寵を受け、そうすることで、マリアとヨゼフに忠実に倣うことによって天国に行くことができますように! アーメン。