Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

「バビロンの川のほとり、そこに私たちは坐って涙した、シオンを思い出しながら」この詩篇は何を意味するか?

2016年10月10日 | お説教・霊的講話
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

2016年10月2日(主日)に東京で聖伝のミサを捧げました。その時のお説教をご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

2016年10月2日 聖霊降臨後第20主日のミサ
小野田神父説教


日本の聖なる殉教者巡回教会にようこそ。

今日は2016年10月2日、聖霊降臨後の第20主日のミサをしております。

今日の14時30分から、いつものように公教要理をしようと思います。
今日からは、今までのやっていた続きをしようと思いますが、たまたま以前は聖伝と聖書について勉強していたが、一昨日の9月30日は聖ヒエロニモの祝日でもありましたから、聖ヒエロニモのやった事、聖書についてまた話しを戻すのがとてもよい機会ではないかと思っています。14時30分から聖ヒエロニモのを業績について考察しましょう。

16時から第2晩課があります、主日の第2晩課です。

明日の朝は7時からミサがあります。幼きイエズススの聖テレジア、宣教師の守護の聖人の大祝日です。

10月1日から、10月は聖なるロザリオの月です。どうぞロザリオをたくさん唱えて下さい。聖ピオ十世会では、5月と10月には聖母の連祷をロザリオに付け加えますけれども、皆様もよろしかったらそうなさって下さい。ロザリオの十字軍も始まっていますので、皆さんのご報告も大変期待しております。

ファチマの100周年の巡礼が来年8月に企画されています、予定されています。アジア管区では8月17日から10日間、ファチマとローマに行くという予定を立てていますけれども、その締め切りが11月30日です。どうぞ皆さんたくさん、皆さんが来れるようにご計画を立てて下さい。

次のミサは10月16日、2週間後の主日です。



“Super flumina Babylonis illic sedimus et flevimus, dum recordaremur tui Sion.”
「バビロンの川のほとり、そこに私たちは坐って涙した、シオンを思い出しながら」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、今日このミサの奉献の祈りは、その詩篇136から取られた、今引用したものを歌います。このミサの、今日のミサを眺めると、このバビロンに流されたイスラエルのユダヤの人たちが、「早くシオンの山にあるエルサレムの神殿に戻って、主を讃美したい」という思いが伝わってくるように思われます。

そこで今日まず私たちは、ミサの中でこの「シオンに戻りたい。エルサレムの神殿でいけにえを捧げたい」という事は私たちに何を意味しているのか、このミサの書かれているテキストを黙想しながら、私たちに訴えている事を黙想したいと思います。それで、ではその為には一体何が一番の手段なのかを黙想して、遷善の決心を立てる事にしましょう。

皆さんもご存知のように、ユダヤの人々は北と南に分断されて、北はイスラエル、南はユダ、最後には北はアッシリアに負け、南はバビロニアに負けてユダヤの人々はバビロンに捕虜になり、この地上からユダヤの人々の国は無くなってしまいました。

バビロンの川のほとりに連れて来られた多くのユダヤの人々が、「主を讃美しよう」と集まって座っているのですけれども、エルサレムの神殿にのみ捧げる事ができるとされたいけにえを捧げる事もできない、そのすばらしい神殿と、その儀式と、シオンを思い出して、祖国を思い出して、悲しく涙を流して、「早く帰りたい」と思っている、その様子が歌われます。

私たちも、「もしもこんな事があったら」と想像してみて下さい。

もしもいきなり北朝鮮のスパイがやって来て、私たちを拉致して北朝鮮に連れて行ってしまった。惨めなご飯を食べて、自由もなく、強制労働をさせられたり、嫌な事をさせられたり、「早く家に帰りたい。両親の顔を見たい。お友達もどうなっているか知りたい」としても帰れない。

或いは、ISにさらわれて、いつ皆の前でYouTubeで公開されて殺害されるか分からない。「さぁ、身代金をよこせ」などと要求されて、「帰れるのか帰れないのか」「ここで命を落とすのか」「それとも殺害されるのかズタズタにされるのか」などと思っているような事を想像なさって下さい。

その時に、「あぁ、祖国では今どうしているだろうか」と思い出す私たちの姿を考えてみて下さい。

教会はこのバビロンに流されたユダヤの人たちの姿を、私たちに当てはめています。
「実はこれは私たちの姿なのだ。私たちは本当の祖国は天国にあるのだけれども、天国の宴会で本当は喜んで楽しくて、悲しみの涙も一切なく、本当ならそこにいるべきなのだけれども、しかし今は流されの身で、今周りは天国とは程遠く、ほとんど遠い事を考えて、全く天国の事も知らないようなバビロンにいる。全く私たちはここで異邦の民で、外国人であって、もう疎外されている。周りは私たちに、天国の事を忘れさせようと色々な甘い約束をする。でも私たちに今ここにあるのは、苦しみと、悲しみと、辛い苦々しい思いだけだ。」

周りの人は、「あぁ、天国の事は忘れて、さぁこの甘い酒でも飲め。」「あぁ、この快楽に酔いしれよ。」或いは、「この悪をすれば面白おかしいよ。」「さぁ、こんな楽しい事があるから、天国の事とか永遠の事とか忘れたらいいんじゃないか。」「この世で、この世の事で一番じゃないか。この世に楽園を建設するのが一番じゃないか」と甘い誘いを投げかけています。

私たちは時々にして、それにうっかり引っかかってしまい、後であるのは、酔いの冷めた頭痛や、或いは孤独感、或いは虚無感です。
「一体何だったのだろうか。」「インターネットゲームで1番になって、アイテムを集めて、一体それが何なのだろうか。」「ポケットモンスターを道端で見つけて、それが何なのか。何の為に時間が使われてしまったのか。」

私たちが今ここで苦しんでいるのは、辛い思いをするのは、確かにこれは当然な事だ。何故なら私たちは罪を犯したからだ。でも私たちはいつも天国を求めている。天国を望み、天国に行きたいと思っている。

これが今日のミサのテーマです。ちょうど入祭誦でも、「今私たちがこうやってこの地上で苦しむのは、全く当然な事だ。何故なら罪を犯したからだ。でも主の憐れみにより頼んで、遂には天国に行きたい。」

何故これが入祭誦で歌われるかというと、ミサが「天国のイメージ」であって、「シンボル」であるからです。「ミサに与りたい。ミサのいけにえに与りたい。天国のそのイメージに与りたい」というそれがあるから、これが入祭誦で歌われました。

一体なぜ私たちはこんなに天国を思い偲んでいるのでしょうか?

何故かというと、私たちは天国のすばらしい結婚式の晩餐会に、婚宴の式に招待されているからです。私たちには特別のすばらしい婚宴の席が準備されていて、その素晴らしい食卓の数々、美味しいパン、この世のものとは思われないようなブドウ酒、或いはこれほどやわらかい美味しい肉があるのかというほどの料理、野菜が準備されて、王の王が私たちの為に準備して、「さぁ、この宴会に来てほしい。私の子供が後継ぎが王子が婚姻した。その結婚式に来てほしい」と私たちが招かれているからです。

しかもこの招かれた時には、婚宴の式に与るべき美しい服さえも与えられました。「これを着て来なさい。」多くの人々はその服を汚さずにきれいにして、更に聖徳の、或いは愛徳の実践で、きれいな宝石や首飾りや、王の名誉の為に、王に敬意を表する為に美しく着飾って、きれいな姿で婚宴の席に与って、多くの聖人聖女、聖なる方々がそこの素晴らしい席に与っているのを、私たちが招かれているからです。

もちろん私たちは、この最後の天国の席に行くまで、この洗礼の時に受けた成聖の恩寵を保たなければなりません。私たちがこの婚宴の席に与る事ができるように、私たちには既に、天使たちのパンである御聖体が授けられ、天主御子の御血が飲み物として与えられております。天主の子羊の御肉を私たちが食べるように、既に食べて、天国への道路の糧とするように招かれているからです。

今日の書簡は、このイメージと繋がっているのです。聖パウロは言います、「私たちは今追放された身であって、ちょうど高山右近が今から400年前に島流しになって、祖国を離れて、祖国の財産を全て奪われて、遠くに流されたものと同じだ。だから私たちはここに、ここに外国にいる者として、ここの地の異邦人として注意深く歩め。この今の時は非常に悪いので、周りは天国の事を忘れさせようとしているので、時を贖い、時をよく使え。時を天国に行く為に使いなさい。」

「愚かな者のようではなく知恵ある者として、不賢明ではなく知性のある者として行動しなさい。酒に酔いしれるのではなくて聖霊に満たされて、聖霊に酔いしれるように。スピリッツやリキュールではなくて、ホーリー・スピリットに満たされるように。」聖パウロもその書簡の中で私たちに言っています、「そうではなくて、聖霊に満たされて歌を歌え。心から、私たちの心から天主に歌を歌え。酒に満たされて、冒涜や、酩酊や、不潔や、その他の悪にではなくて、天主の讃美歌を歌え」と言うのです。

何故かというと、「私たちの目はいつも天国に、私たちに善をくださる天主に向かっていられるから。」

ですから、それに答えるようにアレルヤ誦も、「私の心はもう準備ができている。主に歌を歌おう」と言っているようです。

福音では、その「私たちが今流されの身であって、追放の身であって、逐謫の身である」という事を意識させて、「この追放の身であるにもかかわらず、私たちが身を御して慎みんで、清く天国へと道を歩まなければならないのだけれども、私たちの祖国に帰らなければならないのだけれども、しかしそれが今できなくなっている、病で苦しんでいる。今健康を失っている。汚れてしまった時にはどうしたら良いか」という事を教えているようです。

カファルナウムに来られたイエズス様を、王の王官が見て、「どうぞ、私の息子を治して下さい」と言います。ちょうど教会は私たちに、「主よ、私の霊魂は今死なんとしています。どうぞ来て下さい、来て治して下さい」と言うように招いているかのようです。

何故かというと、すぐにこの御聖体、聖変化の部分、イエズス様は私たちのもとに本当に来られるからです。聖体拝領で、イエズス様は私たちの心に本当に来られて、私たちを癒そうとされるからです。

福音ではイエズス様は、「帰れ、行け。お前の子供は生きている。さぁ、お前はしるしを見ないと信じないのか。さぁ、行け」と言ったのですけれども、言ってその王官の家に行かなかったのですけれども、私たちの所には、あまりにも信仰が弱いと知っているので、本当に来て下さいます。この祭壇の上にも来て下さいますし、私たちの霊魂にも来て下さいます。私たちを、直々に来て治そうとして下さいます。私たちが天の国に帰る事ができるように。

「バビロンのほとりで坐って、がっかりして涙を流して、シオンの事を思い出した」とユダヤの人々が歌いましたが、この詩篇を読む終わりには、このミサの所には載っていないのですけれども、終わりの方には、「もしもシオン、お前の事を忘れるような事があったら、私の手など萎えてしまえ、もうカラカラに乾いてしまえ。」或いは、「私の舌べらは、もしもお前の事を忘れてしまうならば、もう舌べらが上に喉顎にくっついてもう話せなくても良い」とさえも言っています。それほどシオンの事を、「エルサレムの神殿の事は忘れられない。早く帰りたい。」

私たちの思いも天国への思いも、いつもこれでなければなりません。

では、私たちがこの天国の思いを決して忘れる事なく保つ為に、天国に必ず到達する事ができる為の最大の手段は何でしょうか?

イエズス様は、「さぁ、行け」と言って、「この子は生きている、お前の子は生きている。行け、家に帰れ」と言って、この王官は素直に従いました。確かにそのイエズス様の仰った通りになったからです。では私たちにはイエズス様は何を仰るでしょうか?

私たちにはマリア様を通して仰るようです。マリア様は今から100年前に、私たちのもとに来られて、「この世の霊魂の救いの為に、今、最後の2つの手段がある」と仰いました。「今、悪魔は私たちの霊魂を汚そうとして、天国の事を忘れさせようとして、最大の力を尽くしている。選ばれた人たちでさえも、もしかしたら天国の事を忘れ去ってしまうかもしれない。この地上の事だけで頭がいっぱいになってるかもしれない。しかしそれを防ぐ為に2つの手段がある。」「1つは『ロザリオ』である。第2に『マリア様の汚れ無き御心に対する信心』である。」

何故ロザリオかというと、ロザリオには「喜びの玄義」と「苦しみの玄義」と「栄えの玄義」があるからです。

「喜びの玄義」で、私たちの本当の喜びが、もうこの人類始まって以来、これ以上の贈り物がないというほどの喜び、これ以上のものがもうあり得ないというほどの贈り物をもらった喜びを私たちが受けた、その喜びを教えるからです。天主が人類と一致して、天主の本性が人間の本性とあたかも結婚して1つになったかのように、イエズスの、天主の第2のペルソナにおいて、天主の本性と人間の本性が位格的に結合している、その特別の喜びを私たちが黙想するからです。

「苦しみの玄義」では私たちに、この天主の御子が私たちを天国へ連れて行く為にこれほど苦しんだ十字架の苦しみを、屈辱を受けた、という事を黙想させるからです。「私たちが苦しみを受けるのは当然だ」と思わせてくれるからです。

「栄えの玄義」では、私たちの本当の祖国は天国にあるのだ、復活して天国に行く事にあるのだ、という事を教えてくれるからです。

マリア様の汚れ無き御心が救いの手段であるというのは、マリア様が、「私の汚れ無き御心は天国への道であり、避難所となるでしょう」と約束されたからです。ここを通る方は必ず、間違いなく天国に辿り着くし、悪から必ず守られるからです。

では私たちは今日、どのような遷善の決心を取らなければならないでしょうか?

天国への高い熱い思いを、いつも心に占める事ができますように、ロザリオの祈りを、特に10月によく唱える事を提案します。ロザリオの喜び・苦しみ・栄えの玄義をよく黙想なさって下さい。マリア様の特別の助けを以て、この希望をいつも保ち続けて、世が与える偽りの約束に惑わされないで、私たちがそれに汚されないで、私たちの霊魂をいつも清く保つ事ができますように、ロザリオをお祈りする事に致しましょう。

“Super flumina Babylonis illic sedimus et flevimus, dum recordaremur tui Sion.”
「バビロンの川のほとり、そこに私たちは坐って涙した、シオンを思い出しながら」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
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