Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

【訃報】キンジェのベルナデッタさんの霊魂が天主様に召されました。お祈りをお願いいたします。

2015年05月21日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 たった今、連絡を受けたのですが、韓国のキンジェというところに住むベルナデッタさんが、お亡くなりになりました。彼女の霊魂の安息のためにお祈り下さい。R.I.P.

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

Veni Creator Spiritus 日本語訳 "創造主なる聖霊よ、来たり給え"

2015年05月21日 | カトリックとは

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 来る主日は聖霊降臨の主日です。VENI CREATOR SPIRITUS の日本語訳をご紹介します。

 4月には、グレゴリオ聖歌復興委員会(旧称「グレゴリオ聖歌に親しむ会」)の練習会に参加した方々とこれを練習しました。ラテン語、日本語訳、フランス語訳、スペイン語訳を付けました。(フランス語とスペイン語はWikipediaから引用しましたので、必ずしも正確であるとは限りません。) 日本語も文章の構造のために、意味はそうですが、行が対応していない部分もあります。

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

Veni Creator Spiritus

Veni Creator Spiritus,

創造主なる聖霊よ、来たり給え、

Viens, Esprit Créateur,

Ven Espíritu Creador;

Mentes tuorum visita,

御身の[信者らの]心を訪れ給え、

Visite la pensée de tes fidèles,

visita las almas de tus fieles.

Imple superna gratia,

上からの聖寵で満たし給え

Emplis de la grâce d'En-Haut

Llena de la divina gracia los corazones

Quae tu creasti, pectora.

御身が創造し給うた[彼らの]心を。

Les cœurs que tu as créés.

que Tú mismo has creado.

Qui diceris Paraclitus,

御身は慰め主、

Toi qu'on nomme le Consolateur,

Tú eres nuestro consuelo,

Altissimi donum Dei,

いと高き天主のたまもの、

Le don du Dieu très-Haut,

don de Dios altísimo,

Fons vivus, ignis, caritas,

活ける泉、火、愛、

La source vivante, le Feu, la Charité,

fuente viva, fuego, caridad

Et spiritalis unctio.

霊的注油、と言われてまします。

L'Onction spirituelle.

y espiritual unción.

Tu septiformis munere,

御身は、七つのたまものにより、

Tu es l'Esprit à la septuple forme,

Tú derramas sobre nosotros los siete dones;

Digitus Paternae dexterae,

聖父の右手の指、

Le doigt de la droite du Père,

Tú el dedo de la mano de Dios,

Tu rite promissum Patris,

聖父の由緒正しき御約束、

Tu es sa solennelle promesse,

Tú el prometido del Padre,

Sermone ditans guttura.

[御身の]言葉によって[私たちの]喉を豊かにする[お方]。

Enrichissant notre gorge par la parole.

pones en nuestros labios los tesoros de tu palabra.

Accende lumen sensibus,

五官に光をつけ給え、

Fais jaillir la lumière dans notre intelligence,

Enciende con tu luz nuestros sentidos,

Infunde amorem cordibus,

心に愛を注ぎ給え

Répands l'amour dans notre coeur,

infunde tu amor en nuestros corazones

Infirma nostri corporis

我らの体の弱さを

Soutiens la faiblesse de notre corps

y con tu perpetuo auxilio,

Virtute firmans perpeti.

とこしえの力で強め給いつつ。

Par ton éternelle vigueur !

fortalece nuestra frágil carne.

Hostem repellas longius,

敵を遠くに押しやり、且つ

Repousse au loin l'Ennemi,

Aleja de nosotros al enemigo,

Pacemque dones protinus;

素早く平和を与え給え。

Donne-nous la paix sans délai ;

danos pronto tu paz,

Ductore sic te praevio,

御身を前途の導き手として、

Que sous ta conduite qui nous ouvre la voie,

siendo Tú mismo nuestro guía

Vitemus omne noxium.

我らは全ての害悪を避けよう。

nous évitions toute nuisance.

evitaremos todo lo que es nocivo.

Per te sciamus da Patrem

御身によりて我らは聖父を知り、

Fais que par toi nous connaissions le Père

Por Ti conozcamos al Padre

Noscamus atque Filium;

且つ聖子を知り、

Et découvrions le Fils,

y también al Hijo y que en Ti,

Teque utrius que Spiritum

そして聖父と聖子からの御身を

Et qu'en toi, leur commun Esprit,

que eres el Espíritu de ambos,

Credamus omni tempore.

常に信じる[恵み]を与え給え。

Nous croyions en tout temps.

creamos en todo tiempo.

Deo Patri sit gloria,

聖父に栄光あれかし

Gloire soit à Dieu le Père,

Gloria a Dios Padre

Et Filio, qui a mortuis

死によみがえられ給いし聖子に

Au Fils ressuscité des morts,

y al Hijo que resucitó de entre los muertos,

Surrexit, ac Paraclito

そして慰め主なる聖霊に栄光が、

À l'Esprit Saint Consolateur,

y al Espíritu Consolador,

In saeculorum saecula.

代々とこしえにあれよかし。

Dans les siècles des siècles.

por los siglos de los siglos.

Amen.

アメン

Amen.

Amén.

 


2015年秋田巡礼 SSPX Akita Pilgrimage 霊的講話3 「聖母マリアが、私たちの母、元后(女王)であること」

2015年05月21日 | お説教・霊的講話
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 2015年5月3日の秋田巡礼で行われた、シュテーリン神父様霊的講話その3をご紹介いたします。

 シュテーリン神父様のご自分が幼少だった頃の体験談を交えて、大変、おもしろくわかりやすく聖母マリアさまが、私たちの母であり、女王であると言うことの意味を教えてくれます。

 神父様のお話を聞くと、私たちが聖母の子供として、聖母のしもべ、奴隷となることがどれほどイエズス・キリストのお望みであるかが理解できます。

 どうぞお読み下さい。

 シュテーリン神父様の講話を書き起こして下さった姉妹には心から感謝します。

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


2015年5月3日 秋田巡礼 シュテーリン神父様霊的講話3
「聖母マリアが、私たちの母であること、元后(女王)であることの意味」




同時通訳:小野田圭志神父


 私たちは、マリア様が御母であるという、お母様であるという事の神秘を一緒に黙想する事をすすめました。マリア様が私たちのお母様である、という事を以前よりも深く理解できた、という事を期待します。

 もしも、マリア様の忠実な、従順な、愛する子供であろうとする為には、ではどうしたら良いでしょうか?そのような子供はいつも、常にマリア様に依存します。そのような子供は、決して絶望する事はありません。そのような子供は、敵の罠にはまって滅びてしまうような事は決してありません。いつも保護され、いつも導かれているからです。イエズス様、真の天主様は、私たちが全く弱々しい、という事をよくご存知です。ですから、マリア様を私たちに下さいました。

 天に上る道というのは、皆さん見て下さい、高い連峰の、山脈の、高い山を登る道なのです。考えてもみて下さい、この高い高い高い、山の山の山の上の山の上の所に、黄金の大宮殿がある、という事を。「あぁ、そこに綺麗な建物のお城が私たちを待っている。あぁ、そこに行きたい!」

 天主様は私たちに、終わりのない、喜びの大海原の様な、限りの無い喜びを私たちに与える為に、私たちを創りました。そのために私たちを創造しました。人類が、罪を犯して天主様に逆らった、天主様に遠ざかったとしても、天主様は、私たちを決して見捨てる事はありませんでした。御父は、天主御父は、御子ご自身をこの世に遣わし給うて、私たちが天国に行く事ができるようにして下さいました。

 でも、私たちの地上の生活は、非常に険しいものになりました。イエズス様は私たちを罪から解放して、悪魔の罠から解き放って下さいます。でも、私たちは原罪の結果、傷を負っているので、非常に弱い者となってしまいました。私たちは内部的な弱さ、或いは怠惰、怠け心などがあるのです。

 悪魔は既に、第一の戦いで勝利を収め、アダムとエヴァを突き落としましたので、今悪魔たちは、悪は、ものすごい勢力をこの地上にもっています。私たちを霊的に殺そうと大きな力を持っています。悪魔は、自分がものすごい力を持っているだけではなくで、その友を、多くの悪い友を持っていて、それが軍隊のように、イエズス・キリストの敵だ、という事を宣言して、私たちを全て、イエズス・キリストの手から奪い取り、地獄の底に投げ落とそうと戦いを挑んでいます。

 では、私たちの今置かれている状況はどんなものでしょうか?私たちは、小さい、かよわい、病気の、弱々しい子供に過ぎません。高い山の美しい大宮殿を私たちは見ています。イエズス様はそこから私たちに、大きな微笑みと笑顔で、「さあ、子よ。いらっしゃい。さあ来るんだ。」と、私たちを招いています。「主よ、私のこの邪悪さとこの弱さにも関わらず、私を招いて下さるのですか?」「そうだ、さあ、来なさい。早く来なさい。」するとその招きに応じて、喜びに満ちて、大きな微笑みをたたえて、そのイエズス様のいらっしゃる大宮殿の山の内に向かって、こう走ります。

 ところで、6歳の子供は、山を、どれほどの時間、長さ、走る事ができるでしょうか?もう、すぐ疲れてしまいます。すぐお腹が減ってしまいます。「あんなに遠くまでどうやって行ったら良いんだろう…。」と。この子供が疲れて、ハア、ハア、ハア、とちょっとスピードを緩めると、盗賊の様なものがやって来て、「ここは通る事ができない。」と、言ってきます。このよく見ると、盗賊の様な悪者たちがいるのみならず、道は石ころだらけで険しく、道も途中で途切れていたり、崖っぷちであったりして、子供がとても通る事ができないような道である事が分かります。

 「イエズス様、私はイエズス様のいらっしゃる宮殿にまで行きたいのですけれども、私には力がありません。もう弱くて、道は険しくて、とってもダメです。」

 すると、イエズス様は私たちに、母を送って下さいます。何と素晴らしいお母さんでしょうか。マリア様がやって来て、「子よ、いらっしゃい。」手を取って、子供を連れて行きます。子供が、皆さんが、「お腹が減った。」と言えば、食べ物を与えます。マリア様は、皆さんが、「疲れた。」と言えば、おんぶして背負って、こう、もうお母さんの背中で寝ても、私たちは進む事ができます。

 突然道が途絶えていて、ものすごい崖っぷちがあって、もう行き止まりです。でもお母さんは、ヒュッとこうそれを登って、そのまま道を続けます。すると、もう獣の怪物のような一味たちがたくさんやって来て、襲ってきます。余りにもものすごい形相をしていて、恐ろしい姿で、見るも醜い、もう恐ろしくて恐ろしくて、化け物屋敷だ!と思っていると、「子よ、何も心配をしなくていい。何も恐れる事はありません。」マリア様は、「出て行きなさい。」その獣や怪物たちが、あっという間に姿を消して、それで彼らの仕事は終わりです。

 皆さんが若い子供であろうが、年寄りの老人であろうが、皆さんは男であろうが、女性であろうが、皆さんが賢かろうが、あのちょっと頭の抜けた方であろうが、黒人であろうが、白人であろうが、どんな方でも、天国に行こうと思うのならば、一つしかチャンスはありません。それは、マリア様に手を出して、マリア様の手をギュッと握って、その手を絶対離さない事です。

 私たち司祭にとって、私たちが死ぬまで司祭であり続ける、司祭職を全うする為には、マリア様を除いてはありえません。マリア様を失っては、司祭職を続けて死ぬ事はできません。続けて続ける事はできません。

 もしも皆さんが、家庭生活を続けて、ご結婚生活をしているならば、今現代では、家庭を破壊させようとするものすごい勢力がたくさん攻撃しているので、良い家庭のカトリックの生活、カトリックの家族であっても、壊れてしまったり、バラバラになってしまったりする危険があります。

 私は今までの司祭生活で、多くの壊れた家庭を見てきました。しかも良いカトリック信者であったにも関わらず、壊れてしまった家庭を見ました。しかし、マリア様に対する信心があった家庭で、それがそのまま粉々になって、別れ別れになってしまった、という家庭は一つもありません。

 私たちの巡礼のこのメインのテーマは、『私たちはマリア様の子供である、奴隷であって、騎士である』と、いう事です。今までの話で、マリア様が私たちの本当のお母さんであって、私たちがこの良き子供となる、という事を話をしました。では、マリア様が私たちの女王様、元后である、という事について、一体どんな意味なのかを、ちょっと考えてみます。

 マリア様が、もちろんこの私たちの人生に於いて、マリア様は私たちの本当のお母さん、霊的母となる事は、非常に重大な事です。しかし、それだけではありません。この公教会祈祷文をよくお祈りされていると思いますが、そのお祈り文の中で非常にしばしば、私たちはマリア様の事を、「御母よ」と言うのみならず、「我が元后よ」と言います。

 ところで、今日はポーランドの元后のマリア様の祝日ですけれども、マリア様が私たちの女王である、という事は、とても重要なものです。13年前に私は初めて日本にやって来て、長崎に巡礼に行って、そこに日本の元后の聖母、「日本の元后の聖母」という浦上天主堂のマリア様の像がありますけれども、そこの写真を頂いて、いつも私はマリア様の像を、いつも持っています。

 では一体マリア様はいつ、私たちの女王、元后となったのでしょうか?イエズス様は私たちに、マリア様を母として与えて、それを十字架の上で、そう宣言しました。では、イエズス様は本当に、マリア様が私たちの元后となる事を御望みになったのでしょうか?もちろん。では、いつ?では一体どういう理由で、イエズス様は、マリア様が私たちの元后となる事を望んだ、という事を今から説明します。皆さん、私たちがお祈りの中で、「おおマリアよ、我が元后よ。」と言った、その意味を深く知って下さい。

 イエズス様は私たちの王です。ところでマリア様は、贖いの業に於ける、イエズス様の助け手であります。ですからマリア様は、イエズス様が王なので、女王とならなければなりません。

 マリア様は私たちに、全面的な天主への依存を教えてくれる、と朝の説教で申し上げました。もちろん、天主様は最高の権威でありますから、私たちは完璧に天主様の下に従属しています、服従しています。私たちは、全て天主から頂いた、というこの事実から、天主様は私たちの全てに於いて最高の権威を持っている、という事実が導き出されます。私たちは、自分の意志ではなく天主の御旨を果たす、という事だけに、真理があります。

 もしも皆さんが、自分の思いの通り、自分の考えだけに従う、というのであれば、皆さんは自分自身が王となり、自分自身が教皇となります。これこそが、アダムとエヴァに伝えられた悪魔からの誘惑です。「さあ、この食べてはいけない、と言われた木の実を取って食べなさい。そうすれば目が開けて、完全に独立して自立して、天主の言う事を聞かなくても良いし、天主のようになるだろう。」

 天主様が権威の根源である、という事は、全ての権威を持っている、という事はどういう事かというと、今朝申し上げましたように、天主様から私たちが来て、全てのものは天主様を源として、天主を究極の目的とする。全ては、天主に依存して、天主に行かなければならない、という天主に対する完璧な依存を意味しています。天主様は、皆さんが今ここに生きてこうして存在しているのも、天主様が皆様を、全ての瞬間において在らしめて下さっているからです。もしも天主様が、ちょっとふっと忘れて、「あっ」と、私たちの事を存在させることを思わなかったら、私たちは無に帰してしまいます。

 イエズス様は、創造主であり天主でありますから、全ての存在するもの、天使であろうが、人間であろうが、あらゆる全ての被造物に対する、絶対の主権を持っています。イエズス様の王権のその権威という事は、私たち全ての被造物が、そのイエズス様の権威を認めて、全て私たちは創られたものであって、全てはイエズス様から来て、全てはイエズス様に依存している事を認める事にあります。

 イエズス様は、単なる純粋な天主のみならず、完全完璧な人間でもあります。人間としてもイエズス様は、人間として最高の王権を獲得されました。どうやって?何故ならばイエズス様は、この地上この世の征服者である悪魔と戦って、私たちを勝ち取ったからです。十字架の上に死ぬ事によって、悪魔の権威を権力を打ち砕いたからです。悪魔の手から私たちを買い戻し、贖ったからです。贖った、という事はつまり、私たちを悪、元の主人であった悪魔から、私たちを買い戻したという事です。

 私たちは、この地上に生きている間に、必ずどちらかの主人に付かなければなりません。イエズス様がこの地上に来られる前には、この地上の主人は悪魔でした。イエズス様が来られた後は、イエズス様はご自分の王国を造られました。それは天主の御国であり、それは悪魔の国に対立するものです。これは聖アウグスティヌスが言うように、「天主の国と悪魔の国は、二つに分かれた。」私たち全ては、この二つの国のどちらかに属さなければなりません。悪魔の暴君の下にいる者たちは、皆地獄に行きます。この地上における天主の御国である、イエズス・キリストの王国にいる者だけが、天国に導かれます。

 もしも私たちが、イエズス・キリストの王国に属する、市民であるならば国民であるならば、その王であるイエズス・キリストに従わなければなりません。皆さん、明日朝、御聖体を拝領する時に、イエズス様、その御聖体に在すイエズス様に仰って下さい、「イエズス様、主よ、御身は二重の意味で王であります。何故ならば御身は天主であり、創造主であるからです。創造主として、私は被造物として、創造主であるあなたに全く属しています。もう一つの意味では、御身は天から下って人となり、私の救霊の為に、命の救いの為に、十字架に於いて血を流され、命を捧げ、私の霊魂を贖って下さいました。御身は、私の人間として王となられました。」

 もしも、皆さんが天国に行きたいと思うならば、天国の主人を選ばなければなりません、イエズス・キリストを選択しなければなりません、イエズス様を、「御身こそが私の主です。」と、言わなければなりません。

 もしも、この地上でどなたかが、イエズス・キリストの王国に属していない、或いは属するのを望まない、とするならば、彼は誤りのうちにいますし、嘘のうちにいますし、幻想のうちに生きています。

 全ての宗教が全く同じだ、などというのは、イエズス様に対する恐るべき冒涜です。イエズス様の不変の王権を認めない、という事は、イエズス様に対する恐るべき涜聖です。誰でも自分の好きな宗教を勝手に選んで、それを適当に信じれば良い、つまり信教の自由、というのは全くの嘘です。私たちカトリックは、この国に於いて、イエズス・キリストのみが、最高の真理の権威を持っている、という事が認められるのを望まなければなりません。

 では、この地上に於いて、ある人がある別の人間に、全く依存して生きている、と言う事を上手く表す単語は何があるでしょうか?それが「奴隷」です。奴隷というのは、しもべではありません。奴隷というのは、もはや自分のものは全く失ってしまっています。実は主人は、奴隷の命、生きるか死ぬかの権威さえも持っています。主人は、奴隷をどのように取り扱っても良い権力を持っています。もしも人間同士の事であれば、このような奴隷制度は悪です。何故かというと、いかなる被造物も人間も、他の人間の生命に対する権威を持っていないからです。ですから教会は常に、人間同士に於ける奴隷制度を排斥してきました。しかし、天主と人間との関係に於いて、「奴隷」という事が、最高の関係を表す事ができています。実は、カトリック教会はこの関係を、天主と人間との関係が奴隷関係である、という事をはっきりと、トリエント公会議の公教要理で言っています。

 では、マリア様はご自分の事を何と表現したか知っていますか?大天使聖ガブリエルがマリア様にお告げをした時に、自分の事を何と仰ったでしょうか?英語では、"Handmaid" 主の婢女である事を言います。ところでラテン語では、「ancilla」という言葉を使って、"我は、主の「アンチラです」"、これは「奴隷」という言葉と翻訳する事ができます。でもギリシャ語では、マリア様が答えた言葉のギリシャ語も、奴隷という意味があります。カトリックの大聖人たちは皆、このマリア様に倣って、教会の教えに従って、「はい、私は主に属するもの、所有物であって、全く御身の御旨のままに使う事ができる道具です、」という事を、奴隷という言葉で表現してきました。

 考えてもみて下さい。イエズス王たるキリスト、その王たるキリストが、全世界を、その天主の救いの為に栄光の為に、霊魂の救いの為に、全世界に行って霊魂を、救霊の為に勝ち取る、その為に私たちは王たるキリストに従う、というものすごい魅力のあるテーマではないでしょうか。私たちは大きな声で、「キリストは勝利された!キリストはしろしめし給う!」と、「王たるキリスト!」と、歌うのではないのですか。男性にとっては、王たるキリストに従う、といのは、何という力ある魅力的なアイディア、理想であるという事でしょうか。その王たるキリストの御影とか、或いは御像とか、その王たるキリストを賛美する様なマーチの様なその歌とか、とても魅力的です。でも私たちの中で、本当にイエズス様が王である、という事を認め、それを受け入れる人は誰がいるでしょうか?

 皆さん、一日の生活の中で、イエズス様に王として、何か意見を、何かアドバイスを求める事がありますか?イエズス様が本当に私たちの王である、という事を確信していたならば、私たちはイエズス様がないような生活を送る事はできません。もしかしたら皆さんは、イエズス様が存在していないかのように、イエズス様は王ではないかのように、自分自身が実は王様であるかのように、自分のやりたい通りの事をやりたい、と言って一日を送っているのではないでしょうか?もしも皆さん、休暇をどのように過ごすかとか、一日をどのように過ごすかという時に、王であるキリストに何か、その思し召しを伺った事がありますか?

 もしも、皆さんがこの人生に於いて、ある決断をしなければならない、この決定をしなければならない、というような時に、私たちはイエズス様に、王として何かお伺いをたてますか?それとも、自分の思い通りにしますか?でも、イエズス様が私たちの主ではないのですか?王ではないのですか?イエズス様にアドバイスを受ける、という口実で、「あぁイエズス様、私は休暇であそこに行って遊びたいのですけれども、その為にはお金が必要で、その為にはいくらいくらのお金で、もちろんイエズス様はお金を下さいますよね?さあ、すぐに。」と。私たちは本当に、「主の御旨は一体どこにあるのですか?主の御旨のままになりますように。」と、本当にお祈りしているのでしょうか。もしも、そうやってお祈りしていないのならば、私たちはイエズス様を、私たちの王として認めていない事になります。イエズス様が王だ、というのはその祈祷書の中に、この紙きれの中に、或いはこのきれいな歌のみにあって、実際生活には全然それがのってきっていないのではないでしょうか。でも、もしも皆さんがイエズス様を、本当の王として、私たちがそのように行動しないならば、それは私たちが間違っている事になります。イエズス様の御旨を果たしていない事に、つまり天国の道を歩いていない事になります。

 私たちが、イエズス様の王という権限を、イエズス様の王であるというこの権威を、私たちが上手く簡単に受ける事ができるように、イエズス様は私たちにマリア様を送ってくださり、「マリア様は私たちの女王だ。」イエズス様は、私たちに女王である元后であるマリア様を送って下さるというのは、何と素晴らしい女王であるのでしょうか。何故かというと、王たるキリストの王権と言うのは、戦いの、悪との戦いの王国です。でもマリア様は、愛と、謙遜と、親切の女王です。ですから聖人たちはマリア様の事を、「私たちの心の女王、心の元后」と、言います。

 では、マリア様の女王権の一番大切な部分はどこでしょうか?皆さん恐れないで下さい。イエズス様の王国と、マリア様の王権というのは、互いにこういがみ合って、互いにこう領土を取り合う、という事はありません。イエズス様は王であり、私たちの最後の審判官であるので、イエズス様について恐れを抱く事も有りうるかもしれません。もちろんイエズス様は私たちを愛して、私たちに対する憐れみの深い、憐れみに満ちた方であると知っています。でも私たちはもちろん、イエズス様に全て服従して、イエズス様のお望み通りにしたい、という望みはあるのですけれども、私たちは非常にしばしば、弱く、それができない事があります。

 私(シュテーリン神父様)は毎日、毎晩、実は告白します。毎晩、御聖櫃の前で跪いて、「イエズス様、私は御身の司祭です。御説教の時に他の皆に言っている様な事を、私自身がしませんでした。あぁ、本当にあの時もあの時も、あたかも自分が王であるかのように、自分の思いをやってしまって、御身のアドバイスを聞きませんでした。毎日、毎日、同じ事の繰り返しです。」と、告白しています。

「私は御身の、あなたの司祭であって、あなたの望みの通りにしようとして、いつもやっているつもりですけれども、コロッとできなかったり、アッと忘れてしまったり、弱くてできません。できないという事がよくあります。」

 そんな時にイエズス様は、大きな微笑みを浮かべて、王であるイエズス様は、「女王であるマリア様をご覧。」と、指し示して下さいます。
「このマリア様を知っていますか?」「はい、イエズス様もちろん知っています。マリア様は私のお母様です。」

 もちろん、お母さんがどういう事か分かりますね?もうたくさん話しました。もちろんイエズス様は、私たちがイエズス様に対して、王であるイエズス様に対して、私たちがどのような態度を取らなければならないか、という事を教える為に、モーゼを遣わして、或いは大預言者を遣わして、「さあ!お前ら人間たちよ!王であるイエズス様にはこうしなさい!さあ愚か者!こうだ!さあさあ!」と、教える事もできます。ところが、その代わりにイエズス様は私たちに、どうやったら良いかを教える為に、マリア様を女王として下さいました。そうすると、マリア様を通すと、イエズス様の御旨に、イエズス様の下に全てを従わせる事が、どれほど簡単になる事でしょうか。何故かというと、マリア様は絶対私の事を怒りませんし、叱りません。

 もしも、もしも私がマリア様を愛しているならば、それよりももっと酷い事が起こりますね。何故かというと、愛するマリア様を、私たちは泣かせてしまうからです。私の父は、本当に忍耐強い男でした。私はこの父の全生涯の中で、子供の頃からずっと見ていましたけれども、その中で怒った事をほとんど見た事がありません、三回だけ、あります。私がその父を怒らせたのですけれども、その父がその父が怒った時に、真っ白になって私を怒りました。私を蹴飛ばしました。今でもその怒られた事を覚えています。私は、子供の頃は非常に悪ガキでした。ある日、私は覚えています、ある日ちょっと悪い事をして、母をちょっと心配をかけた時に、そしたら母は涙を流しました。母が料理をする時にスープをかき混ぜるしゃもじを持って私の後ろをパーン!と叩いてくれた方がまだ良かったのですけれども、その代わりに母は涙を流したのです。これには耐えられませんでした。ですから私は、「お母さん、泣かないで下さい、泣かないで下さい。何をしたら良いですか、教えて下さい、泣かないで下さい。」と、お願いしました。もしも皆さんも、マリア様を愛しているならば、マリア様が泣いているのを見て、そのもう見てもいられなくなります。

 明日、マリア様の元に一緒に行きます。明日マリア様の御像の前に行って、私たちが跪いてお祈りすると、突然、マリア様の目から涙が出たと思って下さい。マリア様に、「あなたの為に泣いていますよ。何故なら、あなたは私の言う事をきかないからです。泣いています。私の心に気に入ろう、と考えた事も無いのです。」この時皆さん、皆さんその涙を見ると、「あぁ、マリア様!この事を、こんな生活をいつまでも続ける事はできません。マリア様を泣かせる様な事はできません。」と、二度三度、考えます。皆さんはきっと、ポケットからハンカチを持って、「お母さん、マリア様、どうぞ泣かないで下さい。もうマリア様の思し召しのままにします。私の女王様となって下さい、私の元后となって下さい。もうマリア様の御望みの事をします。」と、言うに違いありません。

 このマリア様を元后として、私たちがその奴隷となるという事こそ、聖グリニョン・ド・モンフォールは、「まことの信心」と、呼んでいます。「聖母に対するまことの信心」は、私たちがマリア様の子供として、その奴隷として、どうしてあるべきか、という事を教えています。この聖母のまことの信心を、この一生涯をかけて学ばなければなりません。私たち自身を奴隷として、マリア様が女王となる事ができるように、全く全生涯、命を全てマリア様に委ね、奉献する事です。何故なら、この事をイエズス様が望んでいるからです。だから私たちも望みます。

 イエズス様御自身もこの地上にいる時に、全く同じ事をしました。イエズス様はこの地上にいる間、30年間、あたかも奴隷がその女王様に従っていたかのように、従っていました。イエズス様が従ったその程度というのは、この地上に於ける最高の奴隷が従ったよりも、更によく従っていました。イエズス様は、亡くなられる前にこう言います、「私は、お前たちに模範を示した。私がしたように、お前たちもせよ。」

 だから私たちも、マリア様の奴隷にならなければなりません。マリア様が女王であるという事、マリア様が母であるという事はつまり、保護であり、教育であり、愛です。マリア様が女王であるという事は、私たちに命令を下す、という事です。私たちの上に権威をもっている、という事です。女王様は国を守り、その為に戦います。ですから聖書の中にも、「整列を整えた恐るべき軍隊」と、描写されています。

 マリア様は全能だ、と教会は表現していますが、全能のお願いをする力を持っているからだ、と言います、「omnipotentia supplex」

 「もしも、私に全て属したいと思うのならば、」イエズス様は言います、「もしも、私に属したいのならば、マリア様の奴隷として、マリア様を女王として仕え、全てを捧げろ。」

 私は将来日本で、マリア様の黙想会を開きたいと思っています。その時には皆さん是非来て下さい。マリア様について24の話をします。フィリピンのダバオでは、5月の終わりに、このマリア様の黙想会をします。24の話の詰まった黙想会をしますが、出席者の予約でもう空席がありません。このマリア様の黙想会では、聖グリニョン・ド・モンフォールの「まことの信心」に従って、奴隷とは一体何なのか、という事を詳しく黙想します。

 このお話を終る前に、皆さんには確信を持ってもらいたいと思っています。「やはり、今日のお話を聞いてよく分かった。マリア様、御身は私の母であります。私の女王であります。私は御身の子供となりたい、奴隷となりたい、その事によってイエズス様に全く、イエズス様の王国の一員となりたい。」と、いう事に確信を持ってもらいたいと思っています。

 時間が来ました。

--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
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