Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

2015年5月17日 聖ピオ十世会 大阪での聖伝のミサ (ラテン語ミサ) SSPX Traditional Latin Mass in Osaka

2015年05月18日 | お説教・霊的講話

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 大阪での聖伝のミサについて、次のような報告を頂きました。愛する兄弟姉妹の皆様にご紹介することをお許し下さい。レネー神父様のお説教についてはお知らせしましたが、もう一度掲載いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

【報告】

アヴェ・マリア・インマクラータ!

大阪での5月の主日の御ミサの報告です。

 
5月17日 御昇天後の主日の歌ミサには18名が、
5月18日 月曜日 殉教者聖ヴェナンチオのミサには12名が御ミサに与る御恵みをいただきました。 デオグラチアス!
 
主日の御ミサの後、聖霊降臨を迎える準備として聖霊の役割について公教要理をして頂きました。
月曜日は朝6時半からの早朝の御ミサでしたが、12名が与ることが出来て片づけも大変スムーズに終わりました。(12名は全てM.I の騎士たちでした!)
 
過酷なスケジュールのなか日本へ宣教 に来て下さる神父様がたに感謝いたします。
この度ふと思ったのですが、こんな少数の羊たちの為に大きな犠牲を払ってくださる神父様方のお姿を通して、イエズス様とマリア様は私達一人一人の霊魂の事を本当に愛して救おうとして下さっているのだなと感じました。ですから私達も頂いたおおきな御恵みを精一杯受けて、マリア様を通して全てをお返ししなければと思いました。
 
レネー神父様の主日のお説教と公教要理は以下のとおりです。
 
主の御昇天後の主日の説教―大阪
 
「私は父から出て世に来たが、
今や世を去って父のもとに行く」
(ヨハネ16章28節)
 
最後の晩餐の間に、私たちの主イエズス・キリストはこの言葉を言われました。これによって、主は御昇天を予言なさったのです。単純で理解しやすいように思えますが、これは偉大な神秘であり、黙想するのにふさわしい美しさがあります。
 
表面的に理解するのなら、故郷の町を離れて友を訪ね、そして故郷に帰る人のようだと考えられるでしょう。しかし、これはまさに世俗的な理解に過ぎません。実際、天主は霊的でどこにでもおられます。では、「私は父から出て」とはどういう意味でしょうか。また御父はどこにでもおられるのですから、「父のもとに行く」とはどういう意味でしょうか。
 
聖ヨハネ福音書(3章)の最初のニコデモとの会話の中にある、私たちの主イエズス・キリストのもう一つの言葉が、おそらくこの初めの「私は父から出て」という言葉を理解するのを助けてくれるでしょう。イエズスは言われました。「天から下った人のほか、天に昇った者はない、それは人の子である」(ヨハネ3章13節)。主はまた、後にファリザイ人に言われました。「あなたたちは下からの者であり、私は上からの者である」(ヨハネ8章23節)。
 
私たちは皆、天主によって造られましたが、私たちの主イエズス・キリストは、まったく違った方法で御父から来られました。私たちは「天主によって無から造られ」ました。私たちの主イエズス・キリストは、私たちが信経で言うように、「造られずして[御父から]生まれ」た天主の御子です。主の本性そのものは御父の本性から来ているのであり、その本性は造られたのではありません。さて、天主は本質的に霊的であり、「切り分け」られませんから、御父が天主の本性の「一部」を御子にお与えになることはできませんでした。つまり御父は御子に天主の本性全体をお与えになったのです。ですから、「御父から生まれ」たというのは、御父の天主の本性全体を受けたとい うことであり、ですから御父と等しいということです。これが、主が「私は父から出た」という言葉でおっしゃっていることなのです。私は父の愛する独り子、永遠において父から生まれたのである、ということです。
 
実際、天主にとっては時間というものはありません。永遠の中のある瞬間、常に現在であって過ぎ去ることは決してない安定したある瞬間、その瞬間において御父はみ言葉を発し給い、御子をお生みになり、御子は天主の本性をすべて所有し、御父と等しい者として、完璧にお生まれになったのです。聖パウロが言うように、キリストは、「天主と等しい」(フィリッピ2章6節)ことを固持しようとされませんでした。ファリザイ人たちはこのことをよく理解していましたから、「自分を天主と等しい者としたという理由で」主を石殺しにしようとしました。彼らは信じることを拒絶しましたが、主が言われたことをよく理解していたのです。ですから反対に、主は彼らに、ご自分のことを誤解しているとは言われませんでした。
 
御父は御子を物質的な方法ではお生みになりません。天主は純粋な霊です。御子は「天主のみ言葉」です。実際、霊の最初の活動は考えることであり、私たちでさえそうです。天主は私たちに知性をお与えになりました。私たちが考えるとき、心の中で自分に話しかけます。それを、「概念、英語ではコンセプト(concept)」、つまり考えを持つ、と言います。そのような考えを「コンセプト(concept)」と呼ぶのは、私たちがそれを孕む(英語ではconceiveという)からです。しかし私たちにとっては、私たちの考えが非常に小さいため、むしろ、英語で同じように「コンセプト(concept)」と呼ばれる小さな胎児のようなものです。ですから私たちは、私たちの周りの世界をもう少し理解するためにもたくさんの考えを必要とします。しかし天主は完全です。天主はすべてのものを一度に理解しておられ、天主が知っておられることのすべて、天主が天主であることのすべてを十分に言い表す一つの完全な言葉によって、天主の無限の知識全体を表現されたのです。これこそが天主のみ言葉です。この天主のみ言葉はまことに完全ですから、小さな「コンセプト」ではなく、完全に大人に成長した御子であって御父と等しい御者です。実際、天主が何者であるかを的確に表現しうるのは、天主をおいてありません。御子は永遠の知恵のみ言葉、それによってすべてのものが造られた 全能のみ言葉、すべてを包み込むみ言葉です。これが、イエズスが「私は父から出た」と言われた意味なのです。預言者は叫びます。「誰がその行く末のために悲しむだろう?」(イザヤ53章8節)。
 
天主は愛です。このことから、聖トマス・アクィナスが言うように、天主のみ言葉は「愛を呼吸するみ言葉」です。御父と御子はお互いを完全に愛するがゆえに、この燃え上がる火から第三のペルソナが、愛の炎、天主の愛の炎として発出するのです。これが聖霊です。聖霊は聖性の霊であり、実際、聖性はすべてを超えて天主を愛することにあるのです。ですから、その愛も永遠で全能であり、すべてを包み込むのです。
 
このように、天主の御子は御父のもとから来られました。この世に入って来られたのです。これがご托身です。御子は、童貞聖マリアのいとも清らかなご胎内で、聖霊の御働きによって肉体をお取りになりました。「み言葉は人となって、私たちのうちに住まわれた。(私たちはその栄光を見た。それは、御独り子として御父から受けられた栄光であって、)恩寵と真理に満ちておられた」(ヨハネ1章14節)。これを書いた人は祝されて直接の証人になり、私たちの主イエズス・キリストを見て、声を聞いて、お体に触れることさえしました。彼は書簡で言います。「初めからあったこと、私たちの聞いたこと、目で見たこと、眺めて手で触れたこと、すなわち命のみ言葉について―そうだ、この命は現れた、私たちはそれを証明する。御父のみもとにあっていま私たちに現れた永遠の命をあなたたちに告げる―、あなたたちを私たちに一致させるために、私たちは見たこと聞いたことを告げる。私たちのこの一致は、御父と御子イエズス・キリストのものである。私たちの喜びを全うするために私はこれらのことを書き送る」(ヨハネ第一1章1-4節)。これがご托身です。ご托身の目的は次のように美しく述べられます。天主との友好関係、つまり「御父と御子のものである一致」を回復させるためである、と。
 
この目的を達成することが、まさに贖いのわざなのです。イエズスは救うために来られました。「彼は罪から民を救う方だからである」(マテオ1章21節)。イエズスは十字架によって私たちをお救いになりました。またこれは、「今や世を去って」という一節が意味するところでもあります。実際、私たちは「世を去った霊魂」と言います。死はこの世を去る確実な方法です。このことは、ご自分の死を支配しておられた私たちの主イエズス・キリストにずっとよく当てはまります。ですから主は言われました。「私が命を再び取り戻せるよう自分の命を与えるからである。その命は私から奪い取るものではなく、私がそれを与える。私にはそれを与える権威があり、また取り戻す権威もある。それは私が父から受けた命令である」(ヨハネ10章17-18節)。
 
しかし、主はその死のすぐあとの三日目に復活されましたから、「いまや世を去って」という言葉を御昇天にも適用できるのではないでしょうか。実際、御昇天の日は、使徒たちが肉体の目で主を見た最後の日でした。主は使徒たちを祝福しながら天に昇られ、雲に包まれ、使徒たちはもう主を見なくなりました。ですから、主はこの世を去られたのです。
 
聖トマス・アクィナスは、御昇天は多くの点で私たちに有益であったと教えています。第一に、御昇天は私たちの心を天のものに引きつけてくれます。「あなたの宝のあるところには、あなたの心もある」(マテオ6章21節)。私たちの宝は私たちの主イエズス・キリストであり、今や主は天におられます。ですから、私たちの心は天にあるべきです。聖パウロは言います。「あなたたちがキリストと共によみがえったのなら、上のことを求めよ。キリストはそこで、天主の右に座し給う。地上のことではなく上のことを慕え。あなたたちは[罪に/この世界に]死んだ者であって、その命はキリストと共に天主の国の中に隠されているからである」(コロサイ3章1-3節)。
 
第二に、御昇天は信仰に対するより大きな功徳を与えてくれます。もし、私たちが地上のどこかへ行って、復活してまだ生きておられるキリストを見ることができるとすれば、私たちの信仰が受ける功徳は今よりずっと小さくなることでしょう。しかし、今は「私を見ずに信じる人は幸いである」(ヨハネ20章29節)。
 
第三に、御昇天は私たちのキリストに対する崇敬を増加させます。それは、主が今「全能の御父である天主の右に座し」ておられるからです。そのため、主に対する愛をも増加させるのです。
 
第四に、主が「私はあなたたちのために場所を準備しに行く。そして、行って場所を準備したら、あなたたちを共に連れていくために帰ってくる。私のいる所にあなたたちも来させたいからである」(ヨハネ14章2-3節)と言われたように、主は私たちのための場所を準備なさっているからです。
 
最後に大切なことですが、御父の右で、主は聖パウロが言うように「私たちのために取り次ごうとして常に生き」(ヘブライ7章25節)ておられるからです。
 
このように、「今やこの世を去って、父のもとに行く」(ヨハネ16章28節)というのは、御昇天を表しています。しかし、御昇天には二つの側面があります。一つはこの世からの出発であり、これは目に見え、理解しやすいものです。もう一つは到着です。これは理解するのは簡単ではありません。実際、天主はどこにでもおられるのですから、「私は父のもとに行く」とはどういう意味でしょうか?
 
聖トマス・アクィナスがすでに説明したように、私たちの主イエズス・キリストは天主の本性ばかりでなく、人間の本性においてもすべての被造物、最も高位の天使たちをも超えておられるということを意味しているのは確実です。これが「全能の父なる天主の右に座し給う」ことの意味していることです。主の栄光は、主の犠牲に対する報いであり、贖いのわざへの報いです。聖パウロはいいます。「死ぬまで、十字架上に死ぬまで、自分を卑しくして従われた。そこで天主はキリストを称揚しすべての名にまさる名を与えられた。それはイエズスの御名の前に、天にあるものも、地にあるものも、地の下にあるものも皆ひざをかがめ、すべての舌が父なる天主の光栄をあがめ、『イエズ ス・キリストは主である』と宣言するためである」(フィリッピ2章8-11節)。
 
しかし私は、この「父のもとに帰る」にはさらに意味があると思います。聖パウロはコリント人へ言います。「すべての人がアダムによって死ぬように、すべての人はキリストによって生き返る。そかしそこに順序があり、まず初穂であるキリスト、次に、来臨の時キリストの者である人々が続く。そして終わりが来る。そのときキリストはすべての権勢、能力、権力を倒し、父なる天主に国を渡される。キリストはすべての敵をその足の下に置くまで支配せねばならぬ。最後の敵として倒されるのは死である。『天主は、すべてをその足の下に置き給うた』からである。…すべてのものがその下に置かれるとき、子自らもすべてをご自分の下に置いたお方に服従するであろう。それは天 主がすべてにおいてすべてとなるためである」(コリント第一15章22-28節)。
 
この「初穂」という言葉そのものが、いけにえの意味を背景にしていることを示しています。すべての木や動物の初穂は、旧約においては天主に捧げられねばなりませんでした。今ここで聖パウロが言うのは、キリストは(その人間の本性において)天主に捧げられた人類の「初穂」として最初に復活し、その後、キリストの神秘体のメンバー、そしてほかのすべての人々が復活するということです。その後、キリストは「父なる天主に国を渡される」のです。これも捧げものをすることであり、キリストがこの世から御父のもとへお戻りになるのは、お一人だけでなく、天主の栄光への捧げものとしてキリストの神秘体のメンバーと共にお戻りになるのです。実際、イエズスはニコデモに言われました 。「天から下った人のほか、天に昇った者はない、それは人の子である」(ヨハネ3章13節)。これは、誰も天に昇る者はいないという意味でしょうか? 聖アウグスティヌスは言います。「主はお一人で天から下って来られたが、天に戻られるのはキリストの神秘体、すなわち教会のメンバー、その良きメンバーと共にである。その前に主は、世の終わりの大審判において、ご自分の国から恥ずべきことをすべて洗い流される」。
 
ですから、天の聖人たちは「御父に渡され、捧げられ」ています。聖人たちは永遠に生きますが、自分たちのためではなく、いとも聖なる三位一体の栄光のために生きるのです。ここにこそ、聖人たちの至福、終わりなき幸いがあるのであり、至高なる善(である天主)における喜びがあるのです。自分たちのために生きるのではなく、天主のために生き、天主において喜ぶのです。
 
御昇天においては、この側面が大変重要だと私は思います。キリストはその任務を果たされ、御父のもとに戻られます。しかし、お一人だけではありません。その戦利品である聖人たちと共に戻られます。そして、彼らを御父にお捧げになるのです。主は彼らを祝福し、御父と顔と顔を合わせて見るように、み言葉を聞くように、聖霊の愛と共に永遠に燃えるようにさせてくださるのです。このように、御昇天が完成するのは、キリストの神秘体全体がそのかしらと共にいるようになるときです。主が、次の驚くべき祈りをなさったように。「父よ、あなたの与え給うた人々が、私のいる所に、私と共にいることを望みます。それは、あなたが私に与え給うた光栄を、彼らに見せるためであります。あな たは、世の始まるよりも前に、私を愛し給いました」(ヨハネ17章24節)。
 
親愛なる兄弟の皆さん、キリストにおける贖いという天主のご計画を理解しましょう。そして、地上のものごとすべてを忘れ去ることよって、また心のすべてでこの天の目的を追求することによって、キリストと共にあり、永遠にその栄光を見るというこのご計画に完全に入っていきましょう。そのために、王の右にいる王妃(詩篇44章参照)として、すでにそこにおられる童貞聖マリアに乞い求めましょう。私たちが主イエズス・キリストとその掟に忠実に生き、信仰を守り実践するために全力を尽くし、その結果、天国でのこの究極の目的に到達することができますように。アーメン。


御昇天後の主日の 5月17日 大阪 公教要理
 
親愛なる信者の皆さん、
 
御昇天の後、教会は聖霊降臨を待ち望んでいます。聖霊はいとも聖なる三位一体の第三のペルソナです。聖霊はまことの天主であります。実際、人は天主に捧げる神殿しか建てることが許されていません。ところで、聖パウロは言います。「あなたたちが天主の聖所であり、天主の霊はその中に住み給うことを知らないのか」(コリント第一3章16節)。その少しあとで、聖パウロはこれをさらにはっきりとさせます。「あなたたちの体はその内にある天主から受けた聖霊の聖所であって、自分のものではないと知らないのか。まことにあなたたちは高値で買われたものである。だから、その体をもって天主に光栄を帰せよ」(コリント第一6章19-20節)。
 
私たちの主イエズス・キリストは言われました。「子が何者かを知っているのは父のほかになく、父が何者かを知っているのは、子と子が示しを与えた人のほかにはありません」(マテオ11章27節)。しかし聖パウロは言います。「霊は天主の深みまですべてを見通す」(コリント第一2章10節)と。聖霊はまことの天主であって、御父と御子に等しい者であるがゆえに、天主としてのすべての知識を持っておられるのです。
 
教会の完全に一致した教えによれば、聖霊は愛によって、愛の炎として御父と御子から発出するとされてます。聖霊は御父と御子の霊です。聖霊は御父によって、そして御子によって送られます。私たちの主イエズス・キリストは、言葉にしがたい聖霊の発出について次のように教えてくださいます。「父のものはすべて私のものである。だから私は、彼[すなわち聖霊」が私のものを受けて、それをあなたたちに知らせると言ったのである」(ヨハネ16章15節)。聖霊は言葉にしがたい方法で御父と御子をつなぐ唯一の愛なのです。
 
この天主の愛が、天主のみわざすべての原理です(天主が私たちをお造りになったのは、天主が善であり、愛のゆえなのです)。またこの天主の愛が、天主のみわざすべて、特にその最も偉大なみわざであるご托身と贖いの究極の目的です。ですから、童貞聖マリアが私たちの主イエズス・キリストを受胎なさったのは聖霊によってであり、これがイエズスの地上での生涯の始まりでした。その生涯の終わりには、また聖霊によって、主はご自分を十字架上でお捧げになりました。聖パウロは言います。「ましてや永遠の[聖]霊によって、けがれのないご自分を天主に捧げられたキリストの御血が、私たちの良心を死のわざから清めて、生きる天主に奉仕させえないであろうか」( ヘブライ9章14節)。
 
聖霊は聖性の霊です。聖霊は私たちの心を聖性への望みで燃え上がらせてくださいます。聖性は本質的に愛です。「あなたはすべての心、すべての霊、すべての力、すべての知恵をあげて主なる天主を愛せよ。また隣人を自分と同じように愛せよ」(ルカ10章27節)。
 
聖霊は「真理の霊」(ヨハネ14章17節、15章26節、ヨハネ第一4章6節)です。すなわち、聖霊は真理へのを私たちにお与えになります(従って、誤謬は真理を台無しにするがゆえに、聖霊は誤謬への嫌悪をも、私たちにお与えになります)。聖霊は新しいことを教えることはなく、むしろ「弁護者すなわち父が私の名によって送り給うた聖霊は、すべてを教え、あなたたちの心に私の話したことをみな思い出させてくださるだろう」(ヨハネ14章26節)。聖霊は新しいことを明らかにされるのではなく、むしろ、私たちの主イエズス・キリストがすでに明らかになさり、使徒たちとその後継者たちが私たちの主イエズス・キリストから継承してきたこと、つまり聖伝を、私たちが思い出し、保持するのを助けてくださるのです。教皇ピオ九世が教皇の不可謬権を定義したとき、「聖霊がペトロとその後継者たちに約束されたのは、聖霊の啓示によって新しい真理を明らかにするためではなく、聖霊の援助によって、使徒たちが伝承してきた啓示と信仰の遺産を彼らが聖なるものとして保護し、忠実に説明するためである」(デンツィンガー1836)と述べました。
 
聖霊の恩寵があるため、真理に苦さはなく、隣人を攻撃するために真理を使うことはありません。むしろ、隣人が真理の光に向かうようやさしく助けるのです。実際、聖パウロは言います。天主は「すべての人が救われて真理を知ることを望まれる」(ティモテオ第一2章4節)のですが、すべての人が真理を知るわけではなく、一部の人は「たえず聖霊に逆らっています」(使徒行録7章51節)。しかし、天主は彼ら全てが真理を知ることを望んでおられ、そのため多くの人々をお助けになるので、天主の恩寵によって多くの人が真理を知るに至るのです。ですから宣教師が必要です。聖霊の炎を至る所で燃え立たせる宣教師です。ルフェーブル大司教は、公会議前には最大の宣教会だった「聖霊修道会」の一員でした。教会の宣教師の召命のために祈りましょう。
 
聖霊が私たちになされる素晴らしいみわざは、私たちの霊魂に天主の愛を注いでくださることです。「私たちに与えられた聖霊によって、この心に天主の愛が注がれた」(ローマ5章5節)のです。この愛は霊魂の命です。実際、「義人は信仰によって生きる」(ローマ1章17節)のですが、どんな信仰でもいいのではなく、「愛によって働く信仰」(ガラツィア5章6節)によってです。実際、「善業のない信仰はむなしいもの」(ヤコボ2章20節)なのです。ですから、聖霊は「命の与え主」であり、私たちに愛を与えてくださるので、その愛によって私たちは霊的に生きており、律法を守っているのです。実に、「したがって愛は律法の完成である」(ローマ13章10節)。
 
あまりにも多くの人々が、愛とはただ愛するというような良い感情だとか、慈善の行いにすぎない、と思っています。これは大変な誤りです。聖ヨハネが「天主は愛である」(ヨハネ第一4章8節)と言うことができたのなら、明らかに愛はそんな感情をずっと超えたものです。私たちの心にある愛は、人を根本から変えてしまうエネルギーであって、聖霊降臨のときのはげしい風のように聖霊から来るのであり、全生涯をかけるところまで霊魂を燃え上がらせ、キリストのために殉教し、命を捧げるほどの用意を私たちにさせるのです。
 
聖霊は霊的な全生涯にわたって私たちと共にいてくださいます。それは「水と聖霊によって」(ヨハネ3章5節)新たに生まれたときに始まり、そのとき、命の与え主である聖霊はキリストの命にこうして参加させてくださるのです。
 
愛が私たちの心に及ぼす最初の効果は、私たちが天主に対して自分の心の中で第一の場所をお与えし、すべての活動をこの究極の目的に向けることです。この愛の最初の段階は、「禁欲[、あるいは『浄化』]の生活」にあります。これは、私たちの主イエズス・キリストをおよろこばせしないあらゆるものから、霊魂を浄化するためです。罪とその悪への傾きに対する戦いは愛するための必要条件の一つです。もし人が罪を憎んでいないなら、もし罪の機会を避けることに忠実でないなら、本当に天主を愛してはいません。実際、「人は二人の主人に仕えるわけにはいかぬ。一人を憎んでもう一人を愛するか、一人に従ってもう一人をうとんずるかである。天主とマンモンとにともに仕 えることはできぬ」(マテオ6章24節)。
 
私たちは、聖霊の促しに進んでお応えしなければなりません。この聖霊の促しは、どのようにしたら分かるのでしょうか?その促しが私たちを罪から離すのなら(私たちを罪から離そうとしない促しは、聖霊からのものではないのは確実です)、その促しが私たちを私たちの主イエズス・キリストの道に従わせようとするなら、特に謙遜、貞潔、清貧、忍耐など、この世が愛さない主の徳に従わせようとするなら(、それは聖霊の促しです)。
 
このことを本当に理解した人なら、キリストのためにすべてを捧げるのをためらいません。主は言われました。「イエズスは彼をじっと見つめ、慈しんでこういわれた。『あなたには一つだけ足りない。帰って自分の持ち物をみな売り、貧しい人々に与えよ。そうすれば天に宝を積む。それから私についてくるがよい』」(マルコ10章21節)。このため教会は、修道生活はキリスト的生活の完成であると教えています。
 
愛の第二段階は、「照らし(照明)の生活」にあります。照明の生活においては、習慣となった罪を断ち切って、いつも成聖の状態で生き、私たちの主イエズス・キリストをさらに知りさらに愛することに集中します。また徳の実践において主をまねるのです。つまり、主が望まれることを、主が望まれるように、主が望まれるから、行うのです。この水準になると、私たちは「霊の実である愛、喜び、平和、忍耐、寛容、親切、善意、柔和、信仰、節度、節制、貞潔」(ガラツィア5章22-23節)を持つようになります。
 
愛の第三段階は、「一致の生活」です。一致の生活においては、私たちの主イエズス・キリストをもっと完全に愛することに集中し、すべてを通して、特に黙想によって愛を強めるのです。アヴィラの聖テレジアのような偉大な黙想家たちは、この水準で生きていました。聖パウロは、そのような黙想について述べています。「そこで私たちはみな覆いを顔に垂れず、鏡に映すように、主の光栄を映し、霊なる主によってますます光栄を増すその同じ姿に変わる」(コリント第二3章18節)。聖霊は、私たちが望むよりずっと高い聖性を私たちが持つよう望んでおられます。聖霊に従いましょう。
 
聖霊とミサの聖なるいけにえの間には特別な関係があります。実際、愛には二つの側面があります。与えることと一致することです。自分自身を天主へのいけにえとするところまで完全に与えることと、また永遠に天主と完全に一致することです!私たちは、この二つの側面をミサの聖なるいけにえの中に見いだします。いけにえが捧げられる聖変化のとき、私たちは主イエズス・キリストと共に自分自身を捧げます。また聖体拝領のとき、私たちの霊魂は最も深く天主と一致するのです。この一致は人を根本的に変えてしまうもので、永遠において完成することになるのです。
 
最後に大事なことですが、聖霊と童貞聖マリアの間には大変深い一致があります。「聖霊があなたに下り、いと高きものの力の影があなたを覆うのです」(ルカ1章35節)。そして実際、聖霊は聖母と共におられます。聖母がエリザベトの家に到着して挨拶されると、「なんとしたことでしょう。あなたの挨拶のみ声が私の耳に入ると、私の子は胎内で喜びおどりました。―エリザベトは聖霊に満たされた」(ルカ1章44、41節)。聖母が奉献のため神殿に行かれたとき、聖霊の導きで聖シメオンは聖母に会いました(ルカ2章27節)。ですから、聖霊が来られるのにふさわしく準備するために、使徒たちや最初の弟子たちは、御昇天から聖霊降臨の間の九日間、聖母の周りに集まっていたのです。
 
「霊妙なる器」いや、むしろ「聖霊の器」である童貞聖マリアのお助けによって、私たちが聖霊のことをもっとよく知り、豊かな聖霊の賜物を得、聖霊の愛に満たされ、ついには天国へ行くことができますように。
 
アーメン。
 

 


[1] Mt. 10:20, Jn. 14:26, 15:26, Act. 2:33, Rom. 8:11.
[2] Mk. 2:8, Act. 16:7, Rom. 8:9, Gal. 4:6, Phil. 1:19, 2 Thess. 2:8, 1 Pet. 1:11.
[3] Jn. 14:16, 14:26

[4] Jn. 15:26, 16:7


2015年5月17日 聖霊についての公教要理 レネー神父様 SSPX Osaka Fr Laisney's catechism instruction

2015年05月18日 | お説教・霊的講話
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 昨日2015年5月17日の大阪で、レネー神父様がなさって下さった公教要理のお話をご紹介します。

 特に、今回は、聖霊について、聖霊とは何か、聖霊が天主の愛であるとどう言うことか、についてお話があります。


 聖性の霊、「真理の霊」である聖霊の、私たちの心に及ぼす影響、霊的生活の段階、愛の段階についてお話し下さいます。

 また、聖霊とミサの聖なるいけにえとの特別な関係、聖霊と童貞聖マリアの間の深い一致についてもお話しされます。

 どうぞお読み下さい。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


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御昇天後の主日の公教要理(大阪)

 親愛なる信者の皆さん、

 御昇天の後、教会は聖霊降臨を待ち望んでいます。聖霊はいとも聖なる三位一体の第三のペルソナです。聖霊はまことの天主であります。実際、人は天主に捧げる神殿しか建てることが許されていません。ところで、聖パウロは言います。「あなたたちが天主の聖所であり、天主の霊はその中に住み給うことを知らないのか」(コリント第一3章16節)。その少しあとで、聖パウロはこれをさらにはっきりとさせます。「あなたたちの体はその内にある天主から受けた聖霊の聖所であって、自分のものではないと知らないのか。まことにあなたたちは高値で買われたものである。だから、その体をもって天主に光栄を帰せよ」(コリント第一6章19-20節)。

 私たちの主イエズス・キリストは言われました。「子が何者かを知っているのは父のほかになく、父が何者かを知っているのは、子と子が示しを与えた人のほかにはありません」(マテオ11章27節)。しかし聖パウロは言います。「霊は天主の深みまですべてを見通す」(コリント第一2章10節)と。聖霊はまことの天主であって、御父と御子に等しい者であるがゆえに、天主としてのすべての知識を持っておられるのです。

 教会の完全に一致した教えによれば、聖霊は愛によって、愛の炎として御父と御子から発出するとされています。聖霊は御父と御子の霊です。聖霊は御父によって、そして御子によって送られます。私たちの主イエズス・キリストは、言葉にしがたい聖霊の発出について次のように教えてくださいます。「父のものはすべて私のものである。だから私は、彼[すなわち聖霊」が私のものを受けて、それをあなたたちに知らせると言ったのである」(ヨハネ16章15節)。聖霊は言葉にしがたい方法で御父と御子をつなぐ唯一の愛なのです。

 この天主の愛が、天主のみわざすべての原理です(天主が私たちをお造りになったのは、天主が善であり、愛のゆえなのです)。またこの天主の愛が、天主のみわざすべて、特にその最も偉大なみわざであるご托身と贖いの究極の目的です。ですから、童貞聖マリアが私たちの主イエズス・キリストを受胎なさったのは聖霊によってであり、これがイエズスの地上での生涯の始まりでした。その生涯の終わりには、また聖霊によって、主はご自分を十字架上でお捧げになりました。聖パウロは言います。「ましてや永遠の[聖]霊によって、けがれのないご自分を天主に捧げられたキリストの御血が、私たちの良心を死のわざから清めて、生きる天主に奉仕させえないであろうか」(ヘブライ9章14節)。

 聖霊は聖性の霊です。聖霊は私たちの心を聖性への望みで燃え上がらせてくださいます。聖性は本質的に愛です。「あなたはすべての心、すべての霊、すべての力、すべての知恵をあげて主なる天主を愛せよ。また隣人を自分と同じように愛せよ」(ルカ10章27節)。

 聖霊は「真理の霊」(ヨハネ14章17節、15章26節、ヨハネ第一4章6節)です。すなわち、聖霊は真理への愛を私たちにお与えになります(従って、誤謬は真理を台無しにするがゆえに、聖霊は誤謬への嫌悪をも、私たちにお与えになります)。聖霊は新しいことを教えることはなく、むしろ「弁護者すなわち父が私の名によって送り給うた聖霊は、すべてを教え、あなたたちの心に私の話したことをみな思い出させてくださるだろう」(ヨハネ14章26節)。聖霊は新しいことを明らかにされるのではなく、むしろ、私たちの主イエズス・キリストがすでに明らかになさり、使徒たちとその後継者たちが私たちの主イエズス・キリストから継承してきたこと、つまり聖伝を、私たちが思い出し、保持するのを助けてくださるのです。教皇ピオ九世が教皇の不可謬権を定義したとき、「聖霊がペトロとその後継者たちに約束されたのは、聖霊の啓示によって新しい真理を明らかにするためではなく、聖霊の援助によって、使徒たちが伝承してきた啓示と信仰の遺産を彼らが聖なるものとして保護し、忠実に説明するためである」(デンツィンガー1836)と述べました。

 聖霊の恩寵があるため、真理に苦さはなく、隣人を攻撃するために真理を使うことはありません。むしろ、隣人が真理の光に向かうようやさしく助けるのです。実際、聖パウロは言います。天主は「すべての人が救われて真理を知ることを望まれる」(ティモテオ第一2章4節)のですが、すべての人が真理を知るわけではなく、一部の人は「たえず聖霊に逆らっています」(使徒行録7章51節)。しかし、天主は彼ら全てが真理を知ることを望んでおられ、そのため多くの人々をお助けになるので、天主の恩寵によって多くの人が真理を知るに至るのです。ですから宣教師が必要です。聖霊の炎を至る所で燃え立たせる宣教師です。ルフェーブル大司教は、公会議前には最大の宣教会だった「聖霊修道会」の一員でした。教会の宣教師の召命のために祈りましょう。

 聖霊が私たちになされる素晴らしいみわざは、私たちの霊魂に天主の愛を注いでくださることです。「私たちに与えられた聖霊によって、この心に天主の愛が注がれた」(ローマ5章5節)のです。この愛は霊魂の命です。実際、「義人は信仰によって生きる」(ローマ1章17節)のですが、どんな信仰でもいいのではなく、「愛によって働く信仰」(ガラツィア5章6節)によってです。実際、「善業のない信仰はむなしいもの」(ヤコボ2章20節)なのです。ですから、聖霊は「命の与え主」であり、私たちに愛を与えてくださるので、その愛によって私たちは霊的に生きており、律法を守っているのです。実に、「したがって愛は律法の完成である」(ローマ13章10節)。

 あまりにも多くの人々が、愛とはただ愛するというような良い感情だとか、慈善の行いにすぎない、と思っています。これは大変な誤りです。聖ヨハネが「天主は愛である」(ヨハネ第一4章8節)と言うことができたのなら、明らかに愛はそんな感情をずっと超えたものです。私たちの心にある愛は、人を根本から変えてしまうエネルギーであって、聖霊降臨のときのはげしい風のように聖霊から来るのであり、全生涯をかけるところまで霊魂を燃え上がらせ、キリストのために殉教し、命を捧げるほどの用意を私たちにさせるのです。

 聖霊は霊的な全生涯にわたって私たちと共にいてくださいます。それは「水と聖霊によって」(ヨハネ3章5節)新たに生まれたときに始まり、そのとき、命の与え主である聖霊はキリストの命にこうして参加させてくださるのです。

 愛が私たちの心に及ぼす最初の効果は、私たちが天主に対して自分の心の中で第一の場所をお与えし、すべての活動をこの究極の目的に向けることです。この愛の最初の段階は、「禁欲[、あるいは『浄化』]の生活」にあります。これは、私たちの主イエズス・キリストをおよろこばせしないあらゆるものから、霊魂を浄化するためです。罪とその悪への傾きに対する戦いは愛するための必要条件の一つです。もし人が罪を憎んでいないなら、もし罪の機会を避けることに忠実でないなら、本当に天主を愛してはいません。実際、「人は二人の主人に仕えるわけにはいかぬ。一人を憎んでもう一人を愛するか、一人に従ってもう一人をうとんずるかである。天主とマンモンとにともに仕えることはできぬ」(マテオ6章24節)。

 私たちは、聖霊の促しに進んでお応えしなければなりません。この聖霊の促しは、どのようにしたら分かるのでしょうか?その促しが私たちを罪から離すのなら(私たちを罪から離そうとしない促しは、聖霊からのものではないのは確実です)、その促しが私たちを私たちの主イエズス・キリストの道に従わせようとするなら、特に謙遜、貞潔、清貧、忍耐など、この世が愛さない主の徳に従わせようとするなら(、それは聖霊の促しです)。

 このことを本当に理解した人なら、キリストのためにすべてを捧げるのをためらいません。主は言われました。「イエズスは彼をじっと見つめ、慈しんでこういわれた。『あなたには一つだけ足りない。帰って自分の持ち物をみな売り、貧しい人々に与えよ。そうすれば天に宝を積む。それから私についてくるがよい』」(マルコ10章21節)。このため教会は、修道生活はキリスト的生活の完成であると教えています。

 愛の第二段階は、「照らし(照明)の生活」にあります。照明の生活においては、習慣となった罪を断ち切って、いつも成聖の状態で生き、私たちの主イエズス・キリストをさらに知りさらに愛することに集中します。また徳の実践において主をまねるのです。つまり、主が望まれることを、主が望まれるように、主が望まれるから、行うのです。この水準になると、私たちは「霊の実である愛、喜び、平和、忍耐、寛容、親切、善意、柔和、信仰、節度、節制、貞潔」(ガラツィア5章22-23節)を持つようになります。

 愛の第三段階は、「一致の生活」です。一致の生活においては、私たちの主イエズス・キリストをもっと完全に愛することに集中し、すべてを通して、特に黙想によって愛を強めるのです。アヴィラの聖テレジアのような偉大な黙想家たちは、この水準で生きていました。聖パウロは、そのような黙想について述べています。「そこで私たちはみな覆いを顔に垂れず、鏡に映すように、主の光栄を映し、霊なる主によってますます光栄を増すその同じ姿に変わる」(コリント第二3章18節)。聖霊は、私たちが望むよりずっと高い聖性を私たちが持つよう望んでおられます。聖霊に従いましょう。

 聖霊とミサの聖なるいけにえの間には特別な関係があります。実際、愛には二つの側面があります。与えることと一致することです。自分自身を天主へのいけにえとするところまで完全に与えることと、また永遠に天主と完全に一致することです!私たちは、この二つの側面をミサの聖なるいけにえの中に見いだします。いけにえが捧げられる聖変化のとき、私たちは主イエズス・キリストと共に自分自身を捧げます。また聖体拝領のとき、私たちの霊魂は最も深く天主と一致するのです。この一致は人を根本的に変えてしまうもので、永遠において完成することになるのです。

 最後に大事なことですが、聖霊と童貞聖マリアの間には大変深い一致があります。「聖霊があなたに下り、いと高きものの力の影があなたを覆うのです」(ルカ1章35節)。そして実際、聖霊は聖母と共におられます。聖母がエリザベトの家に到着して挨拶されると、「なんとしたことでしょう。あなたの挨拶のみ声が私の耳に入ると、私の子は胎内で喜びおどりました。―エリザベトは聖霊に満たされた」(ルカ1章44、41節)。聖母が奉献のため神殿に行かれたとき、聖霊の導きで聖シメオンは聖母に会いました(ルカ2章27節)。ですから、聖霊が来られるのにふさわしく準備するために、使徒たちや最初の弟子たちは、御昇天から聖霊降臨の間の九日間、聖母の周りに集まっていたのです。

 「霊妙なる器」いや、むしろ「聖霊の器」である童貞聖マリアのお助けによって、私たちが聖霊のことをもっとよく知り、豊かな聖霊の賜物を得、聖霊の愛に満たされ、ついには天国へ行くことができますように。

 アーメン。

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 Sermon on 17th May 2015, Sunday after the Ascension

My dear brethren,

After the Ascension, the Church is expecting the coming of the Holy Ghost. He is the Third Person of the Most Holy Trinity; He is true God: indeed one may build a temple only to God, now St Paul says: “Know you not, that you are the temple of God, and that the Spirit of God dwelleth in you?” (1 Cor. 3:16). And a little later he is even clearer: “Or know you not, that your members are the temple of the Holy Ghost, who is in you, whom you have from God; and you are not your own? For you are bought with a great price. Glorify and bear God in your body” (1 Cor. 6:19-20).

Our Lord Jesus Christ had said: “no one knoweth the Son, but the Father: neither doth any one know the Father, but the Son, and he to whom it shall please the Son to reveal him” (Mt. 11:27). Yet St Paul tells us: “the Spirit searcheth all things, yea, the deep things of God” (1 Cor. 2:10). The Holy Ghost has that thorough knowledge of God only be because He is true God, equal with the Father and the Son.

The unanimous teaching of the Church is that He proceeds from the Father and the Son by way of love, as a flame of love. The Holy Ghost is the Spirit of the Father and of the Son . He is sent by the Father and by the Son . Our Lord Jesus Christ tells us about that ineffable procession of the Holy Ghost in these words: “All things whatsoever the Father hath, are mine. Therefore I said, that He [the Holy Ghost] shall receive of mine, and shew it to you” (Jn. 16:15). He is the One Love binding them in an effable way.

This Divine love is the principle of all His works (God created us because He is good, out of love), and the ultimate goal of all His works, especially the greatest of all works, the Incarnation and Redemption. Thus it is by the Holy Ghost that the Blessed Virgin Mary conceived our Lord Jesus Christ, at the beginning of the life of Jesus on earth; and at its end, our Lord offered Himself on the Cross also by the Holy Ghost, as St Paul says: “How much more shall the blood of Christ, who by the Holy Ghost offered himself unspotted unto God, cleanse our conscience from dead works, to serve the living God?” (Heb. 9:14).

The Holy Ghost is the Spirit of Holiness; He inflames our heart with the desire for holiness, and holiness essentially consists in charity: “Thou shalt love the Lord thy God with thy whole heart, and with thy whole soul, and with all thy strength, and with all thy mind: and thy neighbour as thyself” (Lk. 10:27).

The Holy Ghost is the “Spirit of Truth” (Jn. 14:17, 15:26, 1Jn 4:6), that is, He gives us the LOVE of the Truth (and hence the detestation of error, since error destroys truth); He does NOT teach NOVELTIES, but rather “the Paraclete, the Holy Ghost, whom the Father will send in my name, he will teach you all things, and bring all things to your mind, whatsoever I shall have said to you” (Jn. 14:26). He does not reveal novelties, but rather helps us to remember and keep that which our Lord Jesus Christ has already revealed, that which has been handed down from our Lord Jesus Christ by the Apostles and their successors: Tradition! When Pope Pius IX defined the infallibility of the Pope, he said that “the Holy Ghost was promised to Peter and his successors, not so that by his revelation new truth may be revealed, but that by His help they might guard sacredly the revelation transmitted through the apostles and the deposit of faith, and might faithfully set it forth” (Dz 1836).

With the grace of the Holy Ghost, there is no bitterness in truth, one does not use truth to crush one’s neighbour, but rather to gently help our neighbour to come to the light of the truth. Indeed St Paul says that God “will have all men to be saved, and to come to the knowledge of the truth” (1 Tim. 2:4), not that all men actually come, some “always resist the Holy Ghost” (Acts 7:51). But God wants them all to come to the truth, and He does help and through His grace many do come. There is need of missionaries, to kindle everywhere the flames of the Holy Ghost: Archbishop Lefebvre was a member of the “Holy Ghost Fathers”, the largest missionary order before the Council. Let us pray for missionary vocations in the Church.

The great work of the Holy Ghost for us is to pour divine Charity in our souls: “the charity of God is poured forth in our hearts, by the Holy Ghost, who is given to us” (Rom. 5:5). This charity is the life of the soul; indeed “The just man liveth by faith” (Rom. 1:17), but not any faith, rather “faith that worketh by charity” (Gal. 5:6); indeed “faith without works is dead?” (Jac. 2:20); therefore the Holy Ghost is the “Life-giver”, giving us charity by which we are spiritually living and fulfil the law, indeed “Love therefore is the fulfilling of the law” (Rom. 13:10).

Too many people think that charity is just a certain nice feeling of love, or certain alms-giving and nothing more. This is a great error! If St John could say: “God is charity” (1 Jn. 4:8), it is evident that charity is much more than such feeling. Charity in our heart is a transforming energy that comes from the Holy Ghost like the great wind of Pentecost, and inflames the soul to the point of taking over our whole life, and makes us ready even to suffer martyrdom and give our life for Christ!

The Holy Ghost accompanies us through our whole spiritual life: it all starts with the new birth “from the water and the Holy Ghost” (Jn. 3:5), in which He, the Life-giver, gives us this participation in the life of Christ.

The first effect of Charity in our heart is to give to God the first place in our heart, and direct everything activity to that ultimate goal. The first degree of that charity is in the “ascetic life”, to clean up our soul from anything that would displease our Lord Jesus Christ: the fight against sin and its evil inclinations is a requirement of charity. One does not really love God if he does not hate sin, if he is not faithful to avoid the occasions of sin. Indeed “No man can serve two masters. For either he will hate the one, and love the other: or he will sustain the one, and despise the other. You cannot serve God and mammon” (Mt. 6:24).

We must respond with generosity to the promptings of the Holy Ghost. How to recognise these promptings? If they detach us from sin (any prompting that does not detach us from sin is surely NOT of the Holy Ghost), if they make us follow the path of our Lord Jesus Christ, especially His virtues that the world does not love, such as humility, chastity, poverty, patience…

The one who has really understood this does not hesitate to give up everything for Christ’s sake, as He said: “Jesus looking on him, loved him, and said to him: One thing is wanting unto thee: go, sell whatsoever thou hast, and give to the poor, and thou shalt have treasure in heaven; and come, follow me” (Mk. 10:21). Hence the Church teaches that religious life is the perfection of the Christian life.

The second degree of charity is in the “illuminative life”, when one has already cut off the habits of sin, and lives habitually in the state of grace, and focuses on knowing and loving better our Lord Jesus Christ, and imitating Him in the practice of virtue: doing what He wants, as He wants, and because He wants it. At that level, we develop “the fruit of the Spirit: charity, joy, peace, patience, benignity, goodness, longanimity, Mildness, faith, modesty, continency, chastity” (Gal. 5:22-23).

The third degree of charity is in the unitive life, when one focuses on loving more perfectly our Lord Jesus Christ, intensifying charity through all, especially in contemplation. Great contemplatives such as St Theresa of Avila were living at that level. St Paul says of such contemplation: “we all beholding the glory of the Lord with open face, are transformed into the same image from glory to glory, as by the Spirit of the Lord” (2 Cor. 3:18). The Holy Ghost wants for us heights of holiness much more than we want it: let us be docile to Him!

There is a special relation between the Holy Ghost and the Holy Sacrifice of the Mass. Charity indeed has two aspects: to give and to unite. To give oneself to God totally to the point of sacrifice of self, and to unite also totally with God for eternity! We find these two aspects in the Holy Sacrifice of the Mass, with the consecration where the Sacrifice is offered – and we offer ourselves to God with our Lord Jesus Christ – and the Communion in which we enter into the most intimate union of our soul with God, a transforming union that will be consummated in eternity!

Last but not least, there is a very intimate union of the Holy Ghost and the Blessed Virgin Mary: “The Holy Ghost shall come upon thee, and the power of the most High shall overshadow thee” (Lk. 1:35). And indeed, the Holy Ghost accompanies her: she arrives at Elisabeth’s house and salutes her, and behold “behold as soon as the voice of thy salutation sounded in my ears, the infant in my womb leaped for joy - And Elizabeth was filled with the Holy Ghost:” (Lk. 1:44,41). When she goes to the Temple for the presentation, the Holy Ghost led St Simeon to meet her (Lk. 2:27). Thus in order to prepare themselves properly for the coming of the Holy Ghost, the Apostles and first disciples were gathered around our Lady for these nine days between the Ascension and Pentecost.

May the Blessed Virgin Mary, “Spiritual Vessel” – or rather “Vase of the Holy Ghost”, help us to know better the Holy Ghost, and obtain for us an abundance of His gifts, to be filled with His charity, so that we may go to Heaven!

Amen.




2015年5月17日 聖伝のミサ説教 レネー神父様 SSPX Osaka Latin Traditional Mass Fr Laisney's sermon 

2015年05月18日 | お説教・霊的講話
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 昨日2015年5月17日の主日にレネー神父様が大阪で聖伝のミサを捧げて下さいました。天主様に感謝!

 レネー神父様のお説教をご紹介します。

 イエズス・キリストが天主聖父から生まれたとはどのようなことでしょうか?
 聖父が聖子を「生む」とはどのようなことでしょうか。
 イエズス・キリストの昇天の意味は何でしょうか? 私たちにとってどれほど有益なものだったのでしょうか?
 イエズス・キリストが「聖父のもとに帰る」とは、天主に捧げられた人類の「初穂」として最初に復活し、キリストがこの世から御父のもとへお戻りになるのは、お一人だけでなく、天主の栄光への捧げものとして、キリストの神秘体のメンバーと共に聖父のもとにお戻りになるのです。

 初穂であるキリストと共にいる天の聖人たちは、キリストと共に「御父に渡され、捧げられ」、自分たちのためではなく、いとも聖なる三位一体の栄光のために、生きています。天主のために生き、天主において喜ぶのです。

 御昇天においては、キリストは、お一人だけではなく、戦利品である聖人たちと共に聖父の元に戻られます。そして、彼らを御父にお捧げになるのです。

 どうぞ、この素晴らしいお説教をお読み下さい。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

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主の御昇天後の主日の説教―大阪

 「私は父から出て世に来たが、
今や世を去って父のもとに行く」
(ヨハネ16章28節)


 最後の晩餐の間に、私たちの主イエズス・キリストはこの言葉を言われました。これによって、主は御昇天を予言なさったのです。単純で理解しやすいように思えますが、これは偉大な神秘であり、黙想するのにふさわしい美しさがあります。

 表面的に理解するのなら、故郷の町を離れて友を訪ね、そして故郷に帰る人のようだと考えられるでしょう。しかし、これはまさに世俗的な理解に過ぎません。実際、天主は霊的でどこにでもおられます。では、「私は父から出て」とはどういう意味でしょうか。また御父はどこにでもおられるのですから、「父のもとに行く」とはどういう意味でしょうか。

 聖ヨハネ福音書(3章)の最初のニコデモとの会話の中にある、私たちの主イエズス・キリストのもう一つの言葉が、おそらくこの初めの「私は父から出て」という言葉を理解するのを助けてくれるでしょう。イエズスは言われました。「天から下った人のほか、天に昇った者はない、それは人の子である」(ヨハネ3章13節)。主はまた、後にファリザイ人に言われました。「あなたたちは下からの者であり、私は上からの者である」(ヨハネ8章23節)。

 私たちは皆、天主によって造られましたが、私たちの主イエズス・キリストは、まったく違った方法で御父から来られました。私たちは「天主によって無から造られ」ました。私たちの主イエズス・キリストは、私たちが信経で言うように、「造られずして[御父から]生まれ」た天主の御子です。主の本性そのものは御父の本性から来ているのであり、その本性は造られたのではありません。さて、天主は本質的に霊的であり、「切り分け」られませんから、御父が天主の本性の「一部」を御子にお与えになることはできませんでした。つまり御父は御子に天主の本性全体をお与えになったのです。ですから、「御父から生まれ」たというのは、御父の天主の本性全体を受けたということであり、ですから御父と等しいということです。これが、主が「私は父から出た」という言葉でおっしゃっていることなのです。私は父の愛する独り子、永遠において父から生まれたのである、ということです。

 実際、天主にとっては時間というものはありません。永遠の中のある瞬間、常に現在であって過ぎ去ることは決してない安定したある瞬間、その瞬間において御父はみ言葉を発し給い、御子をお生みになり、御子は天主の本性をすべて所有し、御父と等しい者として、完璧にお生まれになったのです。聖パウロが言うように、キリストは、「天主と等しい」(フィリッピ2章6節)ことを固持しようとされませんでした。ファリザイ人たちはこのことをよく理解していましたから、「自分を天主と等しい者としたという理由で」主を石殺しにしようとしました。彼らは信じることを拒絶しましたが、主が言われたことをよく理解していたのです。ですから反対に、主は彼らに、ご自分のことを誤解しているとは言われませんでした。

 御父は御子を物質的な方法ではお生みになりません。天主は純粋な霊です。御子は「天主のみ言葉」です。実際、霊の最初の活動は考えることであり、私たちでさえそうです。天主は私たちに知性をお与えになりました。私たちが考えるとき、心の中で自分に話しかけます。それを、「概念、英語ではコンセプト(concept)」、つまり考えを持つ、と言います。そのような考えを「コンセプト(concept)」と呼ぶのは、私たちがそれを孕む(英語ではconceiveという)からです。しかし私たちにとっては、私たちの考えが非常に小さいため、むしろ、英語で同じように「コンセプト(concept)」と呼ばれる小さな胎児のようなものです。ですから私たちは、私たちの周りの世界をもう少し理解するためにもたくさんの考えを必要とします。しかし天主は完全です。天主はすべてのものを一度に理解しておられ、天主が知っておられることのすべて、天主が天主であることのすべてを十分に言い表す一つの完全な言葉によって、天主の無限の知識全体を表現されたのです。これこそが天主のみ言葉です。この天主のみ言葉はまことに完全ですから、小さな「コンセプト」ではなく、完全に大人に成長した御子であって御父と等しい御者です。実際、天主が何者であるかを的確に表現しうるのは、天主をおいてありません。御子は永遠の知恵のみ言葉、それによってすべてのものが造られた全能のみ言葉、すべてを包み込むみ言葉です。これが、イエズスが「私は父から出た」と言われた意味なのです。預言者は叫びます。「誰がその行く末のために悲しむだろう?」(イザヤ53章8節)。

 天主は愛です。このことから、聖トマス・アクィナスが言うように、天主のみ言葉は「愛を呼吸するみ言葉」です。御父と御子はお互いを完全に愛するがゆえに、この燃え上がる火から第三のペルソナが、愛の炎、天主の愛の炎として発出するのです。これが聖霊です。聖霊は聖性の霊であり、実際、聖性はすべてを超えて天主を愛することにあるのです。ですから、その愛も永遠で全能であり、すべてを包み込むのです。

 このように、天主の御子は御父のもとから来られました。この世に入って来られたのです。これがご托身です。御子は、童貞聖マリアのいとも清らかなご胎内で、聖霊の御働きによって肉体をお取りになりました。「み言葉は人となって、私たちのうちに住まわれた。(私たちはその栄光を見た。それは、御独り子として御父から受けられた栄光であって、)恩寵と真理に満ちておられた」(ヨハネ1章14節)。これを書いた人は祝されて直接の証人になり、私たちの主イエズス・キリストを見て、声を聞いて、お体に触れることさえしました。彼は書簡で言います。「初めからあったこと、私たちの聞いたこと、目で見たこと、眺めて手で触れたこと、すなわち命のみ言葉について―そうだ、この命は現れた、私たちはそれを証明する。御父のみもとにあっていま私たちに現れた永遠の命をあなたたちに告げる―、あなたたちを私たちに一致させるために、私たちは見たこと聞いたことを告げる。私たちのこの一致は、御父と御子イエズス・キリストのものである。私たちの喜びを全うするために私はこれらのことを書き送る」(ヨハネ第一1章1-4節)。これがご托身です。ご托身の目的は次のように美しく述べられます。天主との友好関係、つまり「御父と御子のものである一致」を回復させるためである、と。

 この目的を達成することが、まさに贖いのわざなのです。イエズスは救うために来られました。「彼は罪から民を救う方だからである」(マテオ1章21節)。イエズスは十字架によって私たちをお救いになりました。またこれは、「今や世を去って」という一節が意味するところでもあります。実際、私たちは「世を去った霊魂」と言います。死はこの世を去る確実な方法です。このことは、ご自分の死を支配しておられた私たちの主イエズス・キリストにずっとよく当てはまります。ですから主は言われました。「私が命を再び取り戻せるよう自分の命を与えるからである。その命は私から奪い取るものではなく、私がそれを与える。私にはそれを与える権威があり、また取り戻す権威もある。それは私が父から受けた命令である」(ヨハネ10章17-18節)。

 しかし、主はその死のすぐあとの三日目に復活されましたから、「いまや世を去って」という言葉を御昇天にも適用できるのではないでしょうか。実際、御昇天の日は、使徒たちが肉体の目で主を見た最後の日でした。主は使徒たちを祝福しながら天に昇られ、雲に包まれ、使徒たちはもう主を見なくなりました。ですから、主はこの世を去られたのです。

 聖トマス・アクィナスは、御昇天は多くの点で私たちに有益であったと教えています。第一に、御昇天は私たちの心を天のものに引きつけてくれます。「あなたの宝のあるところには、あなたの心もある」(マテオ6章21節)。私たちの宝は私たちの主イエズス・キリストであり、今や主は天におられます。ですから、私たちの心は天にあるべきです。聖パウロは言います。「あなたたちがキリストと共によみがえったのなら、上のことを求めよ。キリストはそこで、天主の右に座し給う。地上のことではなく上のことを慕え。あなたたちは[罪に/この世界に]死んだ者であって、その命はキリストと共に天主の国の中に隠されているからである」(コロサイ3章1-3節)。

 第二に、御昇天は信仰に対するより大きな功徳を与えてくれます。もし、私たちが地上のどこかへ行って、復活してまだ生きておられるキリストを見ることができるとすれば、私たちの信仰が受ける功徳は今よりずっと小さくなることでしょう。しかし、今は「私を見ずに信じる人は幸いである」(ヨハネ20章29節)。

 第三に、御昇天は私たちのキリストに対する崇敬を増加させます。それは、主が今「全能の御父である天主の右に座し」ておられるからです。そのため、主に対する愛をも増加させるのです。

 第四に、主が「私はあなたたちのために場所を準備しに行く。そして、行って場所を準備したら、あなたたちを共に連れていくために帰ってくる。私のいる所にあなたたちも来させたいからである」(ヨハネ14章2-3節)と言われたように、主は私たちのための場所を準備なさっているからです。

 最後に大切なことですが、御父の右で、主は聖パウロが言うように「私たちのために取り次ごうとして常に生き」(ヘブライ7章25節)ておられるからです。

 このように、「今やこの世を去って、父のもとに行く」(ヨハネ16章28節)というのは、御昇天を表しています。しかし、御昇天には二つの側面があります。一つはこの世からの出発であり、これは目に見え、理解しやすいものです。もう一つは到着です。これは理解するのは簡単ではありません。実際、天主はどこにでもおられるのですから、「私は父のもとに行く」とはどういう意味でしょうか?

 聖トマス・アクィナスがすでに説明したように、私たちの主イエズス・キリストは天主の本性ばかりでなく、人間の本性においてもすべての被造物、最も高位の天使たちをも超えておられるということを意味しているのは確実です。これが「全能の父なる天主の右に座し給う」ことの意味していることです。主の栄光は、主の犠牲に対する報いであり、贖いのわざへの報いです。聖パウロはいいます。「死ぬまで、十字架上に死ぬまで、自分を卑しくして従われた。そこで天主はキリストを称揚し、すべての名にまさる名を与えられた。それはイエズスの御名の前に、天にあるものも、地にあるものも、地の下にあるものも皆ひざをかがめ、すべての舌が父なる天主の光栄をあがめ、『イエズス・キリストは主である』と宣言するためである」(フィリッピ2章8-11節)。

 しかし私は、この「父のもとに帰る」にはさらに意味があると思います。聖パウロはコリント人へ言います。「すべての人がアダムによって死ぬように、すべての人はキリストによって生き返る。しかしそこに順序があり、まず初穂であるキリスト、次に、来臨の時キリストの者である人々が続く。そして終わりが来る。そのときキリストはすべての権勢、能力、権力を倒し、父なる天主に国を渡される。キリストはすべての敵をその足の下に置くまで支配せねばならぬ。最後の敵として倒されるのは死である。『天主は、すべてをその足の下に置き給うた』からである。…すべてのものがその下に置かれるとき、子自らもすべてをご自分の下に置いたお方に服従するであろう。それは天主がすべてにおいてすべてとなるためである」(コリント第一15章22-28節)。

 この「初穂」という言葉そのものが、いけにえの意味を背景にしていることを示しています。すべての木や動物の初穂は、旧約においては天主に捧げられねばなりませんでした。今ここで聖パウロが言うのは、キリストは(その人間の本性において)天主に捧げられた人類の「初穂」として最初に復活し、その後、キリストの神秘体のメンバー、そしてほかのすべての人々が復活するということです。その後、キリストは「父なる天主に国を渡される」のです。これも捧げものをすることであり、キリストがこの世から御父のもとへお戻りになるのは、お一人だけでなく、天主の栄光への捧げものとしてキリストの神秘体のメンバーと共にお戻りになるのです。実際、イエズスはニコデモに言われました。「天から下った人のほか、天に昇った者はない、それは人の子である」(ヨハネ3章13節)。これは、誰も天に昇る者はいないという意味でしょうか? 聖アウグスティヌスは言います。「主はお一人で天から下って来られたが、天に戻られるのはキリストの神秘体、すなわち教会のメンバー、その良きメンバーと共にである。その前に主は、世の終わりの大審判において、ご自分の国から恥ずべきことをすべて洗い流される」。

 ですから、天の聖人たちは「御父に渡され、捧げられ」ています。聖人たちは永遠に生きますが、自分たちのためではなく、いとも聖なる三位一体の栄光のために生きるのです。ここにこそ、聖人たちの至福、終わりなき幸いがあるのであり、至高なる善(である天主)における喜びがあるのです。自分たちのために生きるのではなく、天主のために生き、天主において喜ぶのです。

 御昇天においては、この側面が大変重要だと私は思います。キリストはその任務を果たされ、御父のもとに戻られます。しかし、お一人だけではありません。その戦利品である聖人たちと共に戻られます。そして、彼らを御父にお捧げになるのです。主は彼らを祝福し、御父と顔と顔を合わせて見るように、み言葉を聞くように、聖霊の愛と共に永遠に燃えるようにさせてくださるのです。このように、御昇天が完成するのは、キリストの神秘体全体がそのかしらと共にいるようになるときです。主が、次の驚くべき祈りをなさったように。「父よ、あなたの与え給うた人々が、私のいる所に、私と共にいることを望みます。それは、あなたが私に与え給うた光栄を、彼らに見せるためであります。あなたは、世の始まるよりも前に、私を愛し給いました」(ヨハネ17章24節)。

 親愛なる兄弟の皆さん、キリストにおける贖いという天主のご計画を理解しましょう。そして、地上のものごとすべてを忘れ去ることよって、また心のすべてでこの天の目的を追求することによって、キリストと共にあり、永遠にその栄光を見るというこのご計画に完全に入っていきましょう。そのために、王の右にいる王妃(詩篇44章参照)として、すでにそこにおられる童貞聖マリアに乞い求めましょう。私たちが主イエズス・キリストとその掟に忠実に生き、信仰を守り実践するために全力を尽くし、その結果、天国でのこの究極の目的に到達することができますように。アーメン。

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 Sermon at Seoul on the Ascension – and Osaka on Sunday.

“I came forth from the Father,
and am come into the world:
again I leave the world,
and I go to the Father”
(Jn. 16:28).

During the last supper, our Lord Jesus Christ said these words. Thereby he prophesised His Ascension. It seems simple and easy to understand, yet it is a great mystery, beautiful to contemplate.

A superficial understanding would give the idea of someone leaving his home-city and visiting a friend, and then returning home. But this would be a very material understanding. Indeed, God is spiritual and is everywhere! So what does that mean “I came forth from the Father”? And what does that mean: “I go to the Father”? since the Father is everywhere!

Perhaps another phrase of our Lord Jesus Christ, at the very beginning of St John’s gospel in his talk with Nicodemus, helps to understand this one. Jesus said: “no man hath ascended into heaven, but he that descended from heaven, the Son of man who is in heaven” (Jn. 3:13). He also said later to the Pharisees: “You are from beneath, I am from above” (Jn. 8:23).

We have all been created by God, but our Lord Jesus Christ comes from the Father in a very different way. We are “made by God out of nothing”; our Lord Jesus Christ is the Son of God, “born [of Father], nor made” as we say in the Creed: his very substance comes from the substance of the Father, it is not a created substance. Now God’s nature is spiritual, it cannot be “cut in parts”: the Father could not give a “part” of his Divine Substance to His Son: the Father gave to His Son His whole Divine Substance; hence to be “begotten from the Father” means to receive the whole divine substance from the Father, and hence to be equal to the Father. This is thus what our Lord means when He says: “I came forth from the Father”: I am the only-begotten beloved Son of the Father, born of the Father from all eternity.

Indeed in God there is no time: in the one moment of eternity, stable moment which is always present and never passes, in that one moment the Father says His Word, begets His Son, and the Son is perfectly begotten, possessing the full Divine Nature, equal with the Father. As St Paul says, for Christ it was not robbery to be “equal with God” (Phil. 2:6). The Pharisees had understood it well, who wanted to stone Him “because He made Himself equal with God”. They refused to believe, but they had understood well what He meant; and our Lord did not tell them that they misunderstood Him, on the contrary.

The Father does not beget the Son in a material way: God is a pure spirit. The Son is the “Word of God”. Indeed the very first activity of a spirit is to think; even ourselves, God gave us an intelligence, and when we think we speak to ourselves in our mind: we say that we have “concepts”, ideas. We call them “concepts” because we conceive them. But for us, our ideas are so little, tiny, that they are more comparable to small foetuses, “concepts”. And we need many ideas to understand a little more the world around us. But God is perfects; He understands all things at once, and expressed His whole infinite knowledge in one perfect word, that fully says all what He knows, all what He is: His Word. This Word of God is so perfect that it is not a small “concept”, but rather a full-grown Son, equal with the Father. Indeed nothing less than God can adequately express what God is! He is the Eternal Word of Wisdom, Almighty Word by which all things were made, all-encompassing Word. This is what Jesus meant, saying: “I came forth from the Father”! The prophet exclaims: “who shall declare his generation?” (Is. 53:8).

God is Charity; hence the Word of God is a “Word breathing love”, as St Thomas Aquinas says . The Father and the Son love one another so perfectly that from this burning fire there proceeds a third Person, as a Flame of Love, of Divine Charity: the Holy Ghost! He is the Spirit of Holiness, and indeed holiness consists in loving God above all things. And that love too is eternal, almighty, all-encompassing.

So the Son of God came forth from the Father. And He is come into the world. This means the Incarnation: He took flesh in the most pure womb of the Blessed Virgin Mary by the operation of the Holy Ghost: “And the Word was made flesh, and dwelt among us, (and we saw his glory, the glory as it were of the only begotten of the Father,) full of grace and truth” (Jn. 1:14). The one who says that was blessed to be first-hand witness, who had seen, heard and even touched our Lord Jesus Christ, as he wrote in his epistle: “That which was from the beginning, which we have heard, which we have seen with our eyes, which we have looked upon, and our hands have handled, of the word of life: For the life was manifested; and we have seen and do bear witness, and declare unto you the life eternal, which was with the Father, and hath appeared to us: That which we have seen and have heard, we declare unto you, that you also may have fellowship with us, and our fellowship may be with the Father, and with his Son Jesus Christ. And these things we write to you, that you may rejoice, and your joy may be full” (1 Jn. 1:1-4). This is the Incarnation! And its goal is beautifully said: to restore the friendship with God, “fellowship with the Father and the Son.”

To fulfil this goal is the very work of Redemption: Jesus came to save: “he shall save his people from their sins” (Mt. 1:21). He saved us by His Cross. And this is also what is meant by the next member of phrase: “again I leave the world.” Indeed we speak of “departed souls”: death is a certain way to leave the world. This is so much more true for our Lord Jesus Christ who was in control of His death, as He said: “I lay down my life, that I may take it again. No man taketh it away from me: but I lay it down of myself, and I have power to lay it down: and I have power to take it up again. This commandment have I received of my Father” (Jn. 10:17-18).

But since He rose shortly after His death, on the third day, we may apply these words to His Ascension: “again I leave the world.” Indeed the day of the Ascension was the very last day that the Apostles saw Him with the eyes of the body: He went up, blessing them, and was caught up in the clouds and they did not see Him anymore. So He left then this world.

St Thomas Aquinas teaches us that the Ascension was useful for us in many ways. First it draws our heart to the heavenly things: “For where thy treasure is, there is thy heart also” (Mt. 6:21). Our treasure is our Lord Jesus Christ, who now is in Heaven, therefore our heart ought to be in heaven, as St Paul says: “Therefore, if you be risen with Christ, seek the things that are above; where Christ is sitting at the right hand of God: Mind the things that are above, not the things that are upon the earth. For you are dead [to sin/to the world]; and your life is hid with Christ in God” (Col. 3:1-3).

Secondly, it gives us a greater merit for faith: if we could go somewhere on earth and see Christ risen and still living, our faith would have much less merit; but now “blessed are they that have not seen, and have believed” (Jn. 20:29).

Thirdly, it increases our reverence for Christ, since He is now “sitting at the right hand of God the Father almighty!” And therefore it increases our love for Him also.

Fourthly because He is preparing a place for us, as He said: “I go to prepare a place for you. And if I shall go, and prepare a place for you, I will come again, and will take you to myself; that where I am, you also may be” (Jn. 14:2-3).

And last but not least, at the right hand of the Father He is “always living to make intercession for us” as St Paul says to the Hebrews (Heb. 7:25).

Thus “I leave the world, and I go to the Father” (Jn. 16:28) signifies the Ascension. But there are two aspect to the Ascension: the departure from the world, which was visible and is easy to understand; and the arrival: and that is not easy to understand. Indeed, since God is everywhere, what does that mean “I go to the Father”?

As St Thomas explained above, it certainly means that our Lord Jesus Christ, not only in His Divine nature, but even in his human nature transcends all creatures, even the highest angels. This is what is meant by “sitting at the right hand of God the Father almighty”. His glorification is the reward of His sacrifice, the reward of the work of Redemption, as St Paul wrote: “He humbled himself, becoming obedient unto death, even to the death of the cross. For which cause God also hath exalted him, and hath given him a name which is above all names: That in the name of Jesus every knee should bow, of those that are in heaven, on earth, and under the earth: And that every tongue should confess that the Lord Jesus Christ is in the glory of God the Father” (Phil. 2:8-11).

But I think there is more to this “return to the Father”. St Paul says to the Corinthians: “as in Adam all die, so also in Christ all shall be made alive. But every one in his own order: the first-fruits Christ, then they that are of Christ, who have believed in his coming. Afterwards the end, when he shall have delivered up the kingdom to God and the Father, when he shall have brought to nought all principality, and power, and virtue. For he must reign, until he hath put all his enemies under his feet. And the enemy death shall be destroyed last: For he hath put all things under his feet… And when all things shall be subdued unto him, then the Son also himself shall be subject unto him that put all things under him, that God may be all in all” (1 Cor. 15:22-28).

The very word “first-fruits” shows that we are in a sacrificial context: the first fruits of all trees and animals had to be offered to God in the Old Testament. Now here St Paul says that Christ (in His human nature) rose first, as the “first-fruit” of mankind offered to God; then the members of Christ, and then everyone else. Then Christ shall “deliver the kingdom to God the Father”: this again is an offering, Christ came back from this world to the Father, not alone but with the members of His Mystical Body as an offering to the glory of God. Indeed Jesus said to Nicodemus: “no man hath ascended into heaven, but he that descended from heaven, the Son of man who is in heaven” (Jn. 3:13) Does that mean that nobody would go to Heaven? St Augustine says: He descended alone, He returns to Heaven with the members of His Mystical Body, the Church – the good members, after He would have cleansed His kingdom from all the scandals in the Great Judgement at the end of the world.

So the Saints in Heaven are “delivered to, offered to the Father”: they live for ever not for themselves, but for the glory of the Most Holy Trinity – and in this consists their beatitude, their unending happiness, to delight themselves in the Supreme Good: not living for themselves but living for Him and rejoicing in Him.

I think this aspect of the Ascension is very important: Christ has fulfilled His mission, He returns to the Father, but not alone: He returns with the Saints – his trophies! – and offers them to the Father. He beatifies them by making them see the Father face to face, hear the Word, and burn with the Love of the Holy Spirit for all eternity. In this way, the Ascension will be fully complete when the whole Mystical Body of Christ will be there with its Head, as our Lord prayed in his marvellous prayer: “Father, I will that where I am, they also whom thou hast given me may be with me; that they may see my glory which thou hast given me, because thou hast loved me before the creation of the world” (Jn. 17:24).

My dear brethren, let us understand this divine plan of Redemption in Christ, and fully enter into this plan, by leaving behind all earthly things and pursuing with our whole heart this heavenly goal, to be with Christ and see His glory for ever! And for this, let us ask the Blessed Virgin Mary, who is already there, as the Queen on the side of the King (see Ps. 44), to help us to live faithfully to our Lord Jesus Christ, to His law, keeping the faith and practicing it to our best, so that we may reach this ultimate goal in Heaven. Amen!


2015年秋田巡礼 SSPX Akita Pilgrimage 霊的講話2 「マリア様が私たちにとって母である」とは

2015年05月18日 | お説教・霊的講話
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 秋田巡礼でのシュテーリン神父様霊的講話 その2をご紹介します。

 聖母マリア様が私たちにとって母であるとは、何を意味しているのでしょうか?
 イエズス様が十字架の上でマリア様に命じて、マリア様がイエズス様を愛したのと同じ愛を以って、私たち一人一人を愛する事を要求しましたが、それは何を意味しているのでしょうか?
 マリア様の私たちに対する愛は、どれほど偉大なものでしょうか?
 マリア様の母親としての質、特徴、役割、とは、何でしょうか?
 マリア様が私たちに、超自然の命を伝えたということはどう言うことでしょうか?
 私たちにとって、聖母マリア様が私たちの超自然の命を与えた母であるとは、具体的に何の意味があるでしょうか?
 ちょうど赤ちゃんが、自分の栄養分を全てお母さんの乳から頂くように、私たちが超自然の恵みを全てマリア様から受けているとは、どう言うことでしょうか?
 マリア様はどうやって御自分の母としての役割を果たしているのでしょうか?
 マリア様が母である、という事は、もしも、マリア様が私たちの全ての必要、全ての大切な全てを解決する事ができる、という事であると知っていたでしょうか?
 マリア様が、御自分の子供を霊的な敵から守ることが出来ると知っていたでしょうか?
 聖母マリアは、良き母として、私たち子供を教育されると知っていたでしょうか?

 どうぞお読み下さい。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

2015年5月3日 秋田巡礼 シュテーリン神父様霊的講話2




同時通訳:小野田圭志神父

 昨日、私たちは、マリア様の母である事の玄義を、神秘を、黙想し始めました。このような素晴らしい母を私たちが受ける、という事が天主様の御旨であります。小さな子供でも、今はカトリック信者であれば、マリア様は私たちのお母様である、という事を知っています。

 しかし、マリア様が私たちにとって、本当の意味で母である、という事がどのような事を意味しているのか、という事を深く理解している人は、非常に稀にしかいません。十字架の上でイエズス様は、私たちの一人一人に於いて、マリア様が母親である、という事を任命されました。イエズス様はマリア様に、マリア様がイエズス様を愛したのと同じ愛を以って、私たち一人一人を愛する事を命じられました。マリア様が、私たちの事をこれ程までも愛しておられるという事は、信じる事が非常に難しいほどです。イエズス様の代わりに私たちの様な、罪深い、ろくでもない、ヤクザの様な、とんでもないゴロツキが与えられた、という事は、マリア様にとってどれほどの多くの苦しみだったのか、という事を深く理解しなければなりません。

 聖マリア・グリニョン・ド・モンフォールはこう言っています、「マリア様は、私たちの事を深く、優しく、愛しています。それは、全てのこの世の中のお母様たちを集めたよりも遥かに、優しく私たちを愛しています。では、この世にいる全ての母親の、自分の子供に対する愛を集めて、総計を見て下さい。この全てのその総計の愛を集めて、一つのお母さんの心に入れて、その一人のお母さんが、全ての母親の愛情を総合を全て込めて、一人の子供を愛したとします。それでも、マリア様の私たちに対する愛に比べれば、何でもありません。」

 この巡礼の目的は、私たちが、マリア様が一体どのような方なのか、つまり、私たちにとって、マリア様が母親であり、元后であり、女王であり、指揮者であり、総指揮官である事を深く理解する事です。そうする事によって、私たちの取るべき態度、すなわち、私たちがマリア様の子供であり、マリア様のしもべであり、マリア様の騎士であり、兵士である事を知る事ができるからです。

 では、マリア様の母親としての質、その特徴、マリア様の母としての役割、というものを深くみてみる事にします。

 まず、私たちの内にお母さんとなる方がいます。それはなぜ母親になったかというと、子供が生まれたからです。お母さんは子供に命を与えました。母親の役割とは、命を伝える事です。命は、子供の命は、胎内から与えられています。

 マリア様が母であるという事の役割の第一は、命を伝える事です。皆さん、私たちには二つの命がある、という事をご存知のはずです。つまり自然の命と超自然の命です。自然の命というのは、私たちがお母さんの胎内に宿って、それから死の迎える時までの事です。この自然の命は、肉体的なお父さんと肉体的なお母さんから来ます。超自然の命とは、天主様御自身の命の事です。この命は永遠の命で、決して終わる事がありません。自然の命と超自然の命を比べると、一滴のほんのちょっとした水滴と、大洋の大海原の水と比較できるかもしれません。

 この私たちが生きている間に、この超自然を受けた者だけが、永遠の命、永遠に生きる事ができます。この超自然の命は、洗礼を受ける事によって、初めて受ける事ができます。イエズス様の仰った通り、「もしも、私たちが永遠の命に至りたいのならば、洗礼を受けなければなりません。」

 マリア様がこの母である、というのは、この超自然の命に於ける意味での母であって、このマリア様が超自然の命の母親である、というのは、この地上の全ての母親よりももっと深い意味で、母です。

 天主様の命がどうやって、どんな方法で、私たちの所に来るのでしょうか?超自然の命は、天主様だけが、私たちに与える事ができるので、被造物が私たちに与える事は絶対にできません。イエズス・キリスト様が、この地上に人となって来られて、十字架の上で贖いの業を成し遂げて、この命を与える事ができます。ですから、イエズス・キリストの聖心こそが、そこから私たちへと出る超自然の源だ、と言う事ができます。ちょうど、イエズスの聖心から血と水が出て、超自然の命を私たちに伝えるのです。言いかえると、天主様の命と言うのは、十字架の木の果実であり、その実りなのです。それによって、私たちを聖とするのです。

 ところで、イエズスの聖心から御血が湧き出て、天主様の命が噴き出た時に、それを受けた方が十字架の足下にいます。この超自然の命のことを、成聖の恩寵、とも言います。恩寵とか寵愛という漢字の意味は、タダで、偉い方が与えて下さる、という無料のお恵みの事です。

 皆さん、毎日何千回、何百回とお祈りする、この天使のマリア様への挨拶、「めでたし、聖寵満ちみてるマリア、」この聖寵の満ちみてる、という事は、マリア様は、十字架の下でやはり、イエズス様の聖心から湧き出る全ての命を、それを受けた、ということです。無原罪の御孕りでは、既に、確かに、聖寵の充満を、満ちみてる聖寵を受けましたけれども、それは御自身の為だけでした。ところが、十字架の上ではイエズス様は、私たちの為に、その聖寵の充満をマリア様に与えたのです。

 では、皆さんにとって私たちにとって、これは一体具体的に何の意味があるでしょうか?

 皆さんの超自然の命は、二人の方に由来している、という事です。

 私たちがその方から依って受けた、超自然の生命の、その第一の恩人は、イエズス・キリストです。

 母親としての、副次的な、しかし決して欠く事の出来ない恩人は、マリア様です。

 私たちがしばらくしたら、修道院にマリア様の御像を訪問しに行きますけれども、秋田の市内を通って行きます。その市内に住んでいる人のほぼ全ては、洗礼を受けておらず、超自然の命を受けていない方々です。そのような超自然の命を受けていない様な人々が、私たちの周りにたくさんいるのを見て、そのような人々が、ものすごい大金持ちであったとしても、百万長者であったとしても、超自然の命がない事を見て、私たちはどれほど感謝しなければならないでしょうか。このような一般の人々は、たった一滴の水しか受けていないのに、私たちは大洋の大海原を受けたのです。そのような恵みを受ける、どこに功徳があったというのでしょうか。それは何故かというと、誰かが、皆さんの為にお祈りしていたからです。マリア様は2000年の間、私たちの為に、皆さんが超自然の命を受ける事ができるように、祈って下さっていたのです。

 マリア様が私たちの母となる、という特別のお恵みを、私たちは受けた、という、信じられないほどの恵みを受けた、という事を記憶して下さい。私たちは昔、たった水の一滴でしかありませんでした。確かに、この一滴の水さえも、天主様からの特別の贈り物でした。例え、その一滴の水だったとしても、原罪に依って犯されている為に、毒が付いている為に、永遠の命を受ける事ができませんでした。ところが、皆さんはイエズス様と出会い、その超自然のお恵みを受けましたが、どうやってイエズス様とお会いしたのでしょうか?何故かというと、イエズス様と私たちが出会う事ができたのは、その出会うもっと前から、イエズス様が私たちに、御自分のお母さんをおくって下さったからです。マリア様は、多くの色んな境遇や色んな出来事を使って、皆さんの心に働きかけて、触って、動かしてきているのです。

 ここに、洗礼を受ける求道者の方がいます。この求道者の方は、もしかしたら本を読んで、或いはインターネットから、或いは友達を通じて、イエズス様や、マリア様や、私たちの事を知ったのかもしれません。或いは、もしかしたらまた別の方は、良いカトリック信者の男性と出会って、その男性の信仰に非常に感銘を受けて、洗礼を受けて結婚に至った、その良い方と出会った為に、洗礼を受けた、という方もいるかもしれません。

 ところで、このようなインターネット、或いは良い本、或いは良い友達、などというのは手段に過ぎません。その手段を通して、それを動かして、それを使っていた、その作者がいます。その作者は、マリア様です。マリア様は、ただ単に、私たちが洗礼を受ける、その最初の瞬間だけお母様であって、後は知らないよ、というものではありません。マリア様は、いつも、いつまでも、ずっと私たちの世話をする母親です。

 皆さんが、今日、今この瞬間、秋田に居て、こうやってマリア様の元に行く、という事も、イエズス様から特別の恵みをたくさん今頂く事ができる、というのも、実は、マリア様が皆さんをここに呼んだのです。この世では、マリア様を通して、母であるマリア様を通して、イエズス様から私たちが頂かないような恵みは一つもありません。全てのお恵みはマリア様を通して、私たちに与えられるのです。皆さんは子供です。ちょうど赤ちゃんが、自分の栄養分を全てお母さんから頂くように、お母さんの乳から頂くように、皆さんは全て、マリア様から全ての恵みを受けています。

 ですから、マリア様を置いて、マリア様なしにミサに与ってはいけません。もしも、皆さんがマリア様と一緒に、マリア様を招いて、マリア様と共にミサに与るのならば、もっと熱烈にミサに与る事が出来て、もっとマリア様を通して、母としてのマリア様を通して、たくさんのお恵みを頂く事ができます。天主様が、私たち二人をその特別な司祭として、恵みを与えて下さいました。でもこの、その司祭の恵みは、マリア様から頂いたのです。マリア様なくては、私たちは今こうあるようにできていません。私たちが受ける全ての秘跡は皆そうです、マリア様から来ます。ですから私たちは、この事をよく自覚しなければなりません。私たちが毎瞬、毎時間、全ての出来事を、事件を通してお恵みを受けているのは、マリア様を通してのみ、という事です。

 もしも皆さんがマリア様を本当の母として、確かにお母さんだ、と思えば思うほど、マリア様はもっと皆さんに多くの恵みを与えます。もしも皆さんが、もっと良い子供でありたい、良い子供として立ち振る舞う、という事であればあるほど、マリア様はもっともっとお恵みを与えて下さいます。私たちはミサを捧げる前に、「おおマリア様、私たちの我が母よ、この私の口をどうぞ導いて下さい。私の手を導いて下さい、私の心を導いて下さい。ミサを良く捧げる事ができるように助けて下さい。」と、祈ると、私たちのミサは、もっと実りの多くなると感じています。何故かというと、マリア様には、もう与えても与えても、もう与え尽くす事のできない程のものすごい巨大なお恵みを持っていて、私たちも、受けても受けても受けても受けても、もっとマリア様は、それを十分与える事ができる御方であるからです。

 皆さん、例えばカルメル山の茶色のスカプラリオとか、或いは不思議のメダイとか、色々なこのマリア様の信心、これは一体何を意味するのでしょうか?このようなスカプラリオや、或いはメダイを身に付ける、という事は、いつもマリア様が私たちの母である、という事を思い出して、これをしるしとして、この私たちが子供として生きている、という事なのです。フィリピンのレイテ島のタクロバンという所では、今年の2月にメディカルミッションがありました。4000名の病気の方々を、無料の治療を施して、不思議のメダイも配りました。その方々に、スカプラリオやメダイを与えながら、「これをいつも身につけて覚えて下さい。マリア様は、あなたのお母さんですよ。」もしかしたら、ほとんどの人々は、洗礼を受けたけれども、信仰について深い知識を持っていないかもしれません。しかし、マリア様に属している、マリア様の子供だ、という事を思い出させるメダイとスカプラリオが与えられました。

 でも、このメディカルミッションを受けた人々に比べて、皆さんは特別のお恵みで、マリア様のついての深い知識を与えられました。ですから、皆さん朝起きて最初にスカプラリオに接吻する時に、「あぁマリア様、私のお母さん、あなたは本当に私のお母さんで、私に超自然の服を下さいました。」

 一日どんな時でも、或いは誘惑の時、或いは暗闇の時、或いは恐れの時、その時にスカプラリオを手に取って、ぜひ接吻して下さい。「マリア様、私はあなたの子供です。」

 もしも、そうなさったら、そのスカプラリオを通してマリア様は、もっともっともっとたくさんのお恵みを下さいます。

 皆さんは、毎日毎日もっともっと良くなろうと思っています。もっと良くなるとはどういう事でしょうか?もっと良くなるという事は、ますます天主様に満たされて生きる、という事です。私たちの命を、超自然の命を壊す罪から解放されて、罪のない生活をますます送る、という事です。マリア様は実は、この事を与えようとして待っているのです。マリア様の元に私たちが行って、「マリア様、お母さん、この超自然の命をもっと増やして下さい、この超自然の生命を守って下さい、これを失う事がないようにして下さい。」と、お祈りするのを、ただ待っているのです。

 では、第二のポイントとして、マリア様はどうやって御自分の母としての役割を果たしているのでしょうか?

 お母さん、子供がいるお母さんを見て下さい、いつもお母さんは子供の事をよく見て、子供が、あっ、と、これが必要だな、と思う時には、それを与えます。子供はそういう事にも関わらず、何か遊んで、こうやって転んで、お尻をついて、「お母さ~ん!」と、泣きます。もしも、皆さん想像して下さい、皆さんの中に可愛い赤ちゃん、子供が転んで「お母さ~ん、お母さ~ん!」と、言った時に、「また転んだの!?一人で立ちなさい!!さあ!!」と、言う人はいるでしょうか。皆さん、皆さんでさえもなさらないようであれば、マリア様はどうしてする事ができるでしょうか。私たちは小さな子供のように、超自然の命では、何度も罪を犯したり、倒れてしまう事があります。その時に私たちは、「お母さん!マリア様!」と、呼ばなければなりません。

 私は、子供の頃の事はよく覚えていないのですけれども、一つだけ忘れないで覚えている事があります。私の家は農家で、牛や豚をたくさん飼っていました。牛や馬が食べた後にその出す何かをお父さんと私が、父の手伝いをして、それを集めるのを手伝いました、子供の頃。英語とか日本語で何という名前がつくか知らないのですけれども、そういう肥溜めというのでしょうか、そういうものをたくさん近く山のように積んでいました。やっぱりその肥溜めでそういう汚い汚物がたくさん入っているこの池のような所にその父の手伝いをして入れるんです。ある日、父の手伝いをしていて「あっ」と転んで、その中にボチャッと入ってしまいました。これはちょうど底なしの沼のようにズズズッと、もうそのままズブズブズブッと入って、もう深いのです。そこでもうズブズブッと入って、もうこれで出られないようなすぐ落ちてしまったら、「お母さーん!!助けてー!!」と、叫びました。お母さんはその時に台所で料理をしていたのですけれども、その私の声を聞いてものすごい形相で走って来てその肥溜めにドボーン!と入って、私をそこから出してくれました。そのあまりにも臭かったので、三日間学校を休みました。しかし他の事は全部忘れたのですけれども、お母さんが、こうシューッと走って来て、もう一瞬たりとも遅れまいと走って来てその肥溜めにドボン!と入って、私をかき出してくれたのは覚えています。もしも、この地上の母でさえもこれをするならば、天の母親はもっとしない事があるでしょうか。

 「お元気ですか?」と私が尋ねると、こんな答えが来るかもしれません。

「色んな問題があり過ぎて、もう、ダメです。」「夫はもう飲んだくれで、子供は不良で、隣の人は極悪で、職場の人はこんなに悪く…」「この世間は本当に恥知らずで、こんな悪い人がいて、もう、もうダメです。」「問題だらけで大問題でもう解決もありません。」

 私は言います。「じゃあ何でマリア様の所に行かないんですか?マリア様には全て解決があります。」

 もしも、マリア様が私たちの全ての必要、全ての大切な全てを解決する事ができる、という事を信じて信頼しないなら、皆さんはマリア様が母である、という事を分かっていません。

「おお神父様、いつも同じ罪を犯してばかりいます。」「もうやってもやってもダメです。もうダメです。もう忘れた方が良いです。」

 何故かというと、マリア様にお願いしないからです。この小さな子供を見て下さい、転んで倒れてしまったら、お母さんを呼ぶじゃないですか。マリア様は、マリア様は私の母よりももっと早く、この恐るべき臭いのする罪から私たちを救ってくれます。

 皆さん、マリア様が本当の母である、という意味を知らなければなりません。罪を犯した後だけではありません、罪の前に誘惑を受けるかもしれません。ちょっと考えてもみて下さい、子供がお母さんのいる台所に居て、「あ!おもしろいおもちゃがある!」と言って近づくかも知れません。この面白そうなおもちゃだ、と思った物は、お母さんの使っている危ない包丁です。包丁を持ってこうやって、「きれいだなあ~。」皆さんが、そんなような子供の、包丁をおもちゃにしているような子供のお母さんだと考えて下さい。皆さん、「おお、我が子や、包丁で遊びなさい、さあさあさあ、傷を付けなさい。さあ、どんどん。」と、言うでしょうか、現代の教育はこうです。良い母は、「おお、子供よ、これは危ないのよ。危ない危ない! 危ない危ない。」

 皆さん、子供がそこらへんで遊んでいるとします。その3メートル先はものすごい崖っぷちで、もうそこには何百メートルもの、それはそれはすごい谷底があり、ヒューッと落ちてしまいそうです。お母さんはその子供が危ない崖っぷちの方にチョロチョロと行っているのを見るのです。霊的な生活においても私たちはしばしば、もしかしたら罪の危険、或いは誘惑の危険について、全く気が付いていないかもしれん。でももしも、私たちがマリア様をいつもこう見て、「お母さん、お母さん、アドバイスを下さい。お母さん、お母さん、ここは大丈夫ですか?」とすると、マリア様は、「あぁ、子よ。ここは崖っぷちですから危ないですよ、ここは誘惑の危険がありますよ、ここは近寄ってはいきませんよ。」と、必ずアドバイスをくれるに違いありません。

 皆さん、もしかしら動物園でライオンとかご覧になった事がありますね。ものすごい凶暴で、「ウオオー!」と、啼きます。ライオンのメスライオンが、そのまだ子供の頃を見た事がありますか?例えばサファリとか野生の王国に行って、ライオンの子供が、像によって踏みつけられるとか、パンサーがやって来てライオンの子供の命を狙おう、食べてしまおう、という時に、メス・ライオンがどうやって、どういう態度を取るか知っていますか?このメス・ライオンは、この自分が殺されたとしても、自分の命をかけて子供を、子供のライオンを守ります。これは野生の動物に過ぎません、単なる動物です。マリア様が、どうやって悪魔から私たちを守るかのモデルです。

 もしもマリア様が、御自分の子供が、霊的な敵から、もう死の危険を迫られて、攻撃を受けている。この子供が、「お母さん!」と、救援を求めている。マリア様は、そのメスライオンの千倍の力を凶暴さをもって戦います。もしも私たちの前に何千何万という悪魔がこう命を狙って、攻撃したとします。単なる誘惑を受けるだけではなくて手はもう喉元まで来てもう息ができずに死の直前だ、という所まで迫ってきたとしても、もう弱って弱って力尽きて、もうこれ以上もう何もできない、と思ったとしても、誰も助けに来ない時でも、全く一人で孤立したとしても、その時にマリア様を、「お母さん!」と、呼んで下さい、「サタンの頭を踏み砕いて下さい!助けに来て下さい!」マリア様はすぐにやって来て、その何千何万という悪魔を踏み砕いて、何も残りません。

 マリア様は、全ての被造物の最高に強い、最強の母です。マリア様は、その御自分から悪魔たちを、全て恐れさせて逃げおおせさせる全ての権力と力をもっています。これこそ、マリア様の母としての役割、子供を守り、擁護する。特にこの現代、マリア様の役割は、最も重要な役割の一つとなっています。何故かというと現代は、私たちの霊魂の、超自然の命の敵が私たちを取り囲んで、天主様を私たちから奪い、地獄に直行させるように働きかけているからです。もしも私たちがろくでもない、もしもまさに私たちがマリア様を忘れてしまって、マリア様にお祈りしない事があったとしたら、私たちはもう、失われたも同然です。マリア様こそが、最後の究極の救いです。

 また良き母は、子供を教育します。ちょうど、このミサの時の御説教で申し上げましたように、マリア様は、天主様と私たちの正しい関係、正しい、私たちが天主様に取るべき対する態度について教えてくれます。皆さん、マリア様はそれだけではありません、全ての事を教えようと思っています。何故かというと皆さん皆、馬鹿だからです、愚かだからです、何も知らないからです。動物さえ知っている様な私たちの日々の義務、恩務というのを、私たちは分かっていません。

 つまり、マリア様は私たちが、その教育を受けるように、学校に行くように望んでいるのです。その学校というのは、実はすごい学習期間が短いのです、1日15分です。先生の前に跪いて、先生は、皆さんの前に15分間、信仰の神秘を教えてくれます。その15分間で私たちが為すべき義務、職務という事が何であるかを教えてくれます。この学校というものは、黙想の事です。15分間毎日、マリア様の足下に跪いて黙想します。マリア様は、私たちに何をするか知っていますか?マリア様は私たちを連れて行って、「子よ、私と一緒に来なさい。私はあなたに素晴らしい事を教えてあげる。」マリア様は私たちに、今までそんな事が存在していた、という事すら思いもよらなかった素晴らしい事を、私たちに教えてくれます。もしかした皆さんは、公教要理を通して、ちょっとはそれをかじった事があるかもしれませんが、その深い意味をまだ分かっていないかもしれません。でもマリア様が、この私たちの人生の一番大切なものの深みの意味を、深い意味を教えてくれます。

 マリア様のまた別の、最も非常に重要な役割は、私たちを導いて下さる、という事です。私たちは何をして良いか分かりません。ちょうど人生の分かれ道で、「右に行くのかなあ?左に行くのかなあ?」と、思う時があります。「私にとって一番良いのはどっちなんだろう?」でもマリア様は、私たちにとって一番良いのは何かを知っているので、導いて下さいます。

 私たちは非常にしばしば、決心しなければ、選択しなければなりません。選択をして、こう決定を下さなければならないのですけれども、決定を下した後に、「あぁ、いやいやいやいや、こんなまた変な事を決めてしまった。変なものを選んでしまった。」と、後悔する事がよくあります。何故かというと、皆さんは一人で決めたからです。だから間違ったのです。皆さんは、自分の欲望とか野心とか、自分の都合とか感情に流されてそれを選んでしまったからです。選択をする前に、マリア様に尋ねて下さい。『善き勧めを給う御母』。マリア様の称号です。善き勧めを、マリア様はいつも給うのです。マリア様は善い勧めを下さりつつ、天国まで導いて下さいます。マリア様は私たちの母ですから、特に私たちを、御子イエズス様まで導いて下さいます。イエズス様と共にマリア様は、御父まで導いて下さいます。

 マリア様が皆さんを天主様の前にお見せする、紹介する時に何をするか知っていますか?皆さん、天主様の前に、何か自慢する様な何か持っていますか?新しいミサの様に、「主よ、私はあなたに、この人間の労働の実りと大地の恵みを捧げます。」と、言うのですか?皆さんの人間の尊厳と、それを、その何かあたかも何か凄い物のように差し出すのですか?私たちは、天主様に差し出せるものが何かあるのでしょうか?皆さん、皆さんが天主様の御前に、非常に心強い、純粋な愛を、熱烈な祈りを、一つでも捧げた事がありますか?私はありません。

 ちょうど私たちは比較してみると、例えてみると、御稜威の高い天皇陛下の前に、或いは王様の前に、どこかの国王様に、「捧げ物をしたい。」と、言って一生懸命差し上げたのが、腐ったリンゴだった、と。

 でも、マリア様が私たちを王様に提示する時には、マリア様には、ものすごい綺麗な素晴らしい果物がたくさんあります。何故かというと、マリア様はインマクラータで、汚れの無き、無原罪の御孕りであるからです。マリア様は自由に天主に王に会う事ができます。マリア様は天主の御母です。マリア様は天主御父から最も愛された愛娘です。マリア様は聖霊の淨配です。マリア様は天地の、全ての天使たちの、人類の元后です。

 この元后は、私のお母さんです。この母であるマリア様は、全能の天主の前にいて、私について話をします、「天主、全能永遠の御父よ、私は子供がいます。この地上の下の方にいます。この小さな子は、問題がたくさんあります。助けて下さい。」

 もしもマリア様が、ちょっとでもお願いすれば、天主は必ずその願いを聞き入れます。

 12時になりましたので、ご飯に行きます。


--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
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