アヴェ・マリア!
愛する兄弟の皆様、
明治6年(1873年)3月14日、日本政府はキリシタン放還令を発しました。これは流刑のキリシタンたちを解放してよいという命令でした。放還令が発せられると、横浜のペティエ神父様は毎朝、ミサ聖祭の後で高札掲示場に行って高札を有無を確認していました。
ついに、キリシタン発見(1865年3月17日)から8年後、それと同じ日付の1873年3月17日、寛永15年から明治6年まで235年の間、無数の義人の血をすすっていた高札は、忽然とその姿を消したのです。デオ・グラチアス!天主様に感謝!プチジャン司教様始め日本のキリシタンたちは、どれほど喜んだことでしょうか!!
それまでは、イエズス・キリストを礼拝しているというこの一つのことのために、謀反人とレッテルを張られ、残酷な拷問に処せられたのでした。
嗚呼、しかし、高札が無くなったからすぐに迫害が止んだわけではありませんでした。役人たちは依然と棄教を命令していました。悪意と嫌悪と偏見と恐怖が蓄積されていました。キリシタンという名前は、汚され、嫌悪と排斥を呼び起こすほどでした。迫害は止まず、中傷と誹謗が続きました。キリシタンのせいで大雨で大水が出る、キリシタンのせいで普段より雷鳴が多い、麦が腐る、カラスが群れをなして不吉に鳴きたてる、これらは、将来の大災難の前兆だ、と。キリシタンたちは、差別され続けてきました。
しかし、キリシタンたちは、自らをキリシタンと呼ばねばならないのなら、キリシタンと呼ぼう。この名を恥じるどころかそれを栄光としようとしたのです。
だから、日本に落ちた一つぶの白米(というか、ブドウの種)である百八十八の殉教者が列福されたのは、私たちの大きい喜びでした。宗教はまず、信仰のことだからです。彼らは、真理を信じたがゆえに、邪悪な裁きを受け命を落とした、つまり致命したからです。このたび、列福調査という正義の審判がなされ彼らの聖なることが発表され、邪悪な裁きがむしろ彼らの栄光の原因となったからです。
約400年前の迫害のさなかの豊臣秀吉や徳川幕府は、まさか、将来この日本にカトリックの総理大臣が立ち、正にこの日本の地で188名が列福され栄誉を受けるべきだと、NHKという国の公共放送局がこの列福式を放映するなどということを夢にも思わなかったことでしょう。
2009年1月21日、バチカンは聖ピオ十世会の司教様たちの「破門」を無効と宣言しました。カトリック教会の2000年の聖伝に愛着していたカトリック信徒たちは、世界中で喜びました。デオ・グラチアス!天主様に感謝!天主の御母聖マリアに感謝!
日本の司教様たちは、沈黙しているかもしれません。もしかしたら、喜ばないのかもしれません。聖伝に対して差別と嫌悪とを続ける理由を探しているのかもしれません。次のレッテルを見つけようとしているのかもしれません。
ルフェーブル大司教様の名前は、どれほど汚され、嫌悪されてきたことでしょうか。
ルフェーブル大司教様は、そして聖伝に愛着するカトリック信徒たちは、イエズス・キリストだけが唯一の救い主である、イエズス・キリストが創立したカトリック教会だけが救いの唯一の方舟である、三位一体の天主だけが唯一の天主でありこの天主は御子イエズス・キリストのカトリック教会だけを通して霊魂の聖化と救霊をなさるのであって他の宗教を通してではない、天主なるイエズス・キリストは御自分の教会すなわちカトリック教会の頭に教皇を置き、教皇を含める司教団をも教会の頭としたのではない、と信じていたがために、迫害され、屈辱を受けてきました。
いわゆる「破門」が無効だ、と宣言されても、差別と嫌悪とはすぐにはなくならないことでしょう。細かい法律の話をし出すことでしょう。安息日に必要に迫られて麦の穂を取って食べた使徒たちが非難されたように、私たちも細かい法律に従って非難されるかもしれません。教会法は霊魂の救いのために、信仰のためにあるはずなのに。
私たちは、私たちの主イエズス・キリストの信仰の話をしましょう。イエズス・キリストの真理を宣言し続けましょう。蠅を漉してラクダを飲み込むことがないように。
私たちの主イエズス・キリストが御聖体にまことにましますことを暗に否定するかのように不敬に取り扱う人々、天主の御母聖マリアが終生童貞であることをはっきり断言せず暗に否定する人々、私たちの主イエズス・キリストの聖福音が史実であることを否定する人々、などなどが完全な交わりにいる「合法的」カトリックであり、《「カトリック教会以外の宗教も救いの手段だ」と主張しないなら、カトリックの完全な交わりにいるとは言えない》、と私たちは言われるかもしれません。
「カトリックであろうとなかろうと聖霊は全ての宗教をそれ自体として救いの手段として使う」この新しい第二バチカン公会議の教えを受け入れて、「カトリックだけが唯一の真の宗教であり、その他の宗教それ自体によってでは救われない」という聖伝の教えを否定し足踏みにしなければ、おまえたちはカトリックではない、「非合法」だ、完全な交わりにない、と言われることでしょう。さあ、さあ、この聖伝の教えの踏み絵を踏め!!と。
口では188名の殉教者の列福を祝いますが、カトリックであろうとなかろうと、実は誰でも、どんな宗教を手段にしてでも救われる、と主張して列福の意味を暗に否定しなければ、カトリックとは言えないかのようです。
ルフェーブル大司教様は、アシジの祈祷集会を見て、教会の緊急事態を理解しました。この踏み絵を踏むことを拒否したのです。
プロテスタント、仏教、その他に対しては、違いではなく、共通点を見つけよう、どんな宗教も結局はみな同じだ、と言い微笑みながらも、カトリックの聖伝に対しては「おまえたちはこれが違っているからダメだ、あっちに行け!」と睨んで言うかもしれません。
死刑制度は、冤罪の可能性があるから或いは人間の尊厳に反するから反対だ、と主張する一方で、いわば霊的「死刑」とも言える、聖伝の「破門」だけは、どんな理由をつけても続けるべきだというかもしれません。カトリック教会の過去と聖伝は死刑を受けるべきだと。
破門(ex-communiaction)が無効だ(ex は取れた、無効だ、無い)、だから、交わり(communio)の中にいるはずなのに!
キリシタンたちが差別され続けてきたように、聖伝も差別され続けるかもしれません。ルフェーブル派というレッテルで。
私たちは先祖の信仰に倣いましょう。私たちはルフェーブル大司教様の名前を誇りに思います。ベネディクト16世が指摘した通りルフェーブル大司教様がいなかったなら、今頃、聖伝のミサ聖祭はカトリック教会からなくなってしまっていたことでしょう。
しかし、カトリック教会の聖伝は、将来、必ず復活するでしょう。
その時、私たちが昨年188名の列福式を目撃したように、将来、必ずや私たちはルフェーブル大司教様の列福式を見ることでしょう。私たちはそれを信じています。モートゥー・プロプリオによる聖伝のミサ聖祭の公式な復活は、数年前まで不可能だと思われてきました。今回の「破門」の撤回も、誰が想像していたことでしょうか??天主様のおん助けを乞い求めます。
主よ、我らの弱さを哀れみ給え!我らを憐れみ給え!
私たちにキリシタンたちに倣う恵みを与え給え!キリシタンに倣い、日本の尊き殉教者たちに倣い、赦す心を与え給え。堅固なる信仰の徳を与え給え。私たちを守り給え。
私たちは、日本に行くためにフィリピンに来た至福なるペトロ岐部に取り次ぎを求めます。
フィリピンに追放された義人ユスト高山右近に取り次ぎを求めます。
日本人の初穂である日本26聖人に取り次ぎを求めます。
天主の御母、日本の元后聖マリアよ、我らのために祈り給え!
聖母マリアの汚れなき御心よ、我らのために祈り給え!
聖ヨセフよ、我らのために祈り給え!
聖フランシスコ・サベリオよ、我らのために祈り給え!
日本の26聖殉教者よ、我らのために祈り給え!
日本の尊き殉教者たちよ、我らのために祈り給え!
愛する兄弟の皆様の上に天主様の祝福が豊かにありますように!
文責:トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)ニュー・マニラ、フィリピンにて
愛する兄弟の皆様、
明治6年(1873年)3月14日、日本政府はキリシタン放還令を発しました。これは流刑のキリシタンたちを解放してよいという命令でした。放還令が発せられると、横浜のペティエ神父様は毎朝、ミサ聖祭の後で高札掲示場に行って高札を有無を確認していました。
ついに、キリシタン発見(1865年3月17日)から8年後、それと同じ日付の1873年3月17日、寛永15年から明治6年まで235年の間、無数の義人の血をすすっていた高札は、忽然とその姿を消したのです。デオ・グラチアス!天主様に感謝!プチジャン司教様始め日本のキリシタンたちは、どれほど喜んだことでしょうか!!
それまでは、イエズス・キリストを礼拝しているというこの一つのことのために、謀反人とレッテルを張られ、残酷な拷問に処せられたのでした。
嗚呼、しかし、高札が無くなったからすぐに迫害が止んだわけではありませんでした。役人たちは依然と棄教を命令していました。悪意と嫌悪と偏見と恐怖が蓄積されていました。キリシタンという名前は、汚され、嫌悪と排斥を呼び起こすほどでした。迫害は止まず、中傷と誹謗が続きました。キリシタンのせいで大雨で大水が出る、キリシタンのせいで普段より雷鳴が多い、麦が腐る、カラスが群れをなして不吉に鳴きたてる、これらは、将来の大災難の前兆だ、と。キリシタンたちは、差別され続けてきました。
しかし、キリシタンたちは、自らをキリシタンと呼ばねばならないのなら、キリシタンと呼ぼう。この名を恥じるどころかそれを栄光としようとしたのです。
だから、日本に落ちた一つぶの白米(というか、ブドウの種)である百八十八の殉教者が列福されたのは、私たちの大きい喜びでした。宗教はまず、信仰のことだからです。彼らは、真理を信じたがゆえに、邪悪な裁きを受け命を落とした、つまり致命したからです。このたび、列福調査という正義の審判がなされ彼らの聖なることが発表され、邪悪な裁きがむしろ彼らの栄光の原因となったからです。
約400年前の迫害のさなかの豊臣秀吉や徳川幕府は、まさか、将来この日本にカトリックの総理大臣が立ち、正にこの日本の地で188名が列福され栄誉を受けるべきだと、NHKという国の公共放送局がこの列福式を放映するなどということを夢にも思わなかったことでしょう。
2009年1月21日、バチカンは聖ピオ十世会の司教様たちの「破門」を無効と宣言しました。カトリック教会の2000年の聖伝に愛着していたカトリック信徒たちは、世界中で喜びました。デオ・グラチアス!天主様に感謝!天主の御母聖マリアに感謝!
日本の司教様たちは、沈黙しているかもしれません。もしかしたら、喜ばないのかもしれません。聖伝に対して差別と嫌悪とを続ける理由を探しているのかもしれません。次のレッテルを見つけようとしているのかもしれません。
ルフェーブル大司教様の名前は、どれほど汚され、嫌悪されてきたことでしょうか。
ルフェーブル大司教様は、そして聖伝に愛着するカトリック信徒たちは、イエズス・キリストだけが唯一の救い主である、イエズス・キリストが創立したカトリック教会だけが救いの唯一の方舟である、三位一体の天主だけが唯一の天主でありこの天主は御子イエズス・キリストのカトリック教会だけを通して霊魂の聖化と救霊をなさるのであって他の宗教を通してではない、天主なるイエズス・キリストは御自分の教会すなわちカトリック教会の頭に教皇を置き、教皇を含める司教団をも教会の頭としたのではない、と信じていたがために、迫害され、屈辱を受けてきました。
いわゆる「破門」が無効だ、と宣言されても、差別と嫌悪とはすぐにはなくならないことでしょう。細かい法律の話をし出すことでしょう。安息日に必要に迫られて麦の穂を取って食べた使徒たちが非難されたように、私たちも細かい法律に従って非難されるかもしれません。教会法は霊魂の救いのために、信仰のためにあるはずなのに。
私たちは、私たちの主イエズス・キリストの信仰の話をしましょう。イエズス・キリストの真理を宣言し続けましょう。蠅を漉してラクダを飲み込むことがないように。
私たちの主イエズス・キリストが御聖体にまことにましますことを暗に否定するかのように不敬に取り扱う人々、天主の御母聖マリアが終生童貞であることをはっきり断言せず暗に否定する人々、私たちの主イエズス・キリストの聖福音が史実であることを否定する人々、などなどが完全な交わりにいる「合法的」カトリックであり、《「カトリック教会以外の宗教も救いの手段だ」と主張しないなら、カトリックの完全な交わりにいるとは言えない》、と私たちは言われるかもしれません。
「カトリックであろうとなかろうと聖霊は全ての宗教をそれ自体として救いの手段として使う」この新しい第二バチカン公会議の教えを受け入れて、「カトリックだけが唯一の真の宗教であり、その他の宗教それ自体によってでは救われない」という聖伝の教えを否定し足踏みにしなければ、おまえたちはカトリックではない、「非合法」だ、完全な交わりにない、と言われることでしょう。さあ、さあ、この聖伝の教えの踏み絵を踏め!!と。
口では188名の殉教者の列福を祝いますが、カトリックであろうとなかろうと、実は誰でも、どんな宗教を手段にしてでも救われる、と主張して列福の意味を暗に否定しなければ、カトリックとは言えないかのようです。
ルフェーブル大司教様は、アシジの祈祷集会を見て、教会の緊急事態を理解しました。この踏み絵を踏むことを拒否したのです。
プロテスタント、仏教、その他に対しては、違いではなく、共通点を見つけよう、どんな宗教も結局はみな同じだ、と言い微笑みながらも、カトリックの聖伝に対しては「おまえたちはこれが違っているからダメだ、あっちに行け!」と睨んで言うかもしれません。
死刑制度は、冤罪の可能性があるから或いは人間の尊厳に反するから反対だ、と主張する一方で、いわば霊的「死刑」とも言える、聖伝の「破門」だけは、どんな理由をつけても続けるべきだというかもしれません。カトリック教会の過去と聖伝は死刑を受けるべきだと。
破門(ex-communiaction)が無効だ(ex は取れた、無効だ、無い)、だから、交わり(communio)の中にいるはずなのに!
キリシタンたちが差別され続けてきたように、聖伝も差別され続けるかもしれません。ルフェーブル派というレッテルで。
私たちは先祖の信仰に倣いましょう。私たちはルフェーブル大司教様の名前を誇りに思います。ベネディクト16世が指摘した通りルフェーブル大司教様がいなかったなら、今頃、聖伝のミサ聖祭はカトリック教会からなくなってしまっていたことでしょう。
しかし、カトリック教会の聖伝は、将来、必ず復活するでしょう。
その時、私たちが昨年188名の列福式を目撃したように、将来、必ずや私たちはルフェーブル大司教様の列福式を見ることでしょう。私たちはそれを信じています。モートゥー・プロプリオによる聖伝のミサ聖祭の公式な復活は、数年前まで不可能だと思われてきました。今回の「破門」の撤回も、誰が想像していたことでしょうか??天主様のおん助けを乞い求めます。
主よ、我らの弱さを哀れみ給え!我らを憐れみ給え!
私たちにキリシタンたちに倣う恵みを与え給え!キリシタンに倣い、日本の尊き殉教者たちに倣い、赦す心を与え給え。堅固なる信仰の徳を与え給え。私たちを守り給え。
私たちは、日本に行くためにフィリピンに来た至福なるペトロ岐部に取り次ぎを求めます。
フィリピンに追放された義人ユスト高山右近に取り次ぎを求めます。
日本人の初穂である日本26聖人に取り次ぎを求めます。
天主の御母、日本の元后聖マリアよ、我らのために祈り給え!
聖母マリアの汚れなき御心よ、我らのために祈り給え!
聖ヨセフよ、我らのために祈り給え!
聖フランシスコ・サベリオよ、我らのために祈り給え!
日本の26聖殉教者よ、我らのために祈り給え!
日本の尊き殉教者たちよ、我らのために祈り給え!
愛する兄弟の皆様の上に天主様の祝福が豊かにありますように!
文責:トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)ニュー・マニラ、フィリピンにて