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4. 5. 宣教師への召命 - 第2幕 (ルフェーブル大司教の伝記の続き)

2006年09月15日 | ルフェーブル大司教の伝記

第4章 郊外の教会の助任司祭(1930年-1931年)



宣教師への召命 - 第2幕


 ルフェーブル神父は、霊魂の牧者としてすべきことに全力を注いでいたが、自分の霊魂を疎かにしてはいなかった。1930年 11月末には、ウィスク大修道院で何日間か黙想会をする時間を見つけた 。また彼は家族を忘れたことはなかったので、毎週月曜日ごとに昼食をとりに自宅に戻った。彼の愉快なユーモアと使徒職の話は親にとって残酷な財政的難しさを乗り越えるのを助けてくれた。ルフェーブル神父の助言は、末っ子の弟や妹らの教育について両親の道標となっていた。神父の和平的な性格を持った見解は父親ルネ・ルフェーブルの過度な厳格さを和らげ、彼にほとんど目に見える効果を現わした 。


 両親を通して、マルセルは毎月、ガボンに宣教しに行った兄の「手紙」を読んだ。1930年 7月と続いて 1931年 2月に、ガボンにおける兄ルネの仲間の一人であるドフラヌル (Defranould) 神父がドクトル・ドウィン (Rue du Docteur Dewyn) を訪ねてきて 、宣教の最新の、少なくとも生き生きとした消息を伝えた。マルセルは耳を傾けて聞いていた。もしかしたら、繰り返されるアフリカからの呼びかけが若い助任神父をして「償いの年」において自分の聖職にあまり愛着しないためにも、必要だったのかも知れない。ルフェーブル婦人はこの障害を感じていた。彼女はこう書いていた。


「私の思うには、確かに年末に、ちょっとした離脱をしなければならないでしょう。...ともあれ、天主が彼を導いてくださるでしょう。私としては、祈るだけで満足しています 。」


 彼女はルネにこう打ち明けていた。「マルセルは、結局にはそれから離れなければならないということが分かっているにも関わらず、自分の仕事に心と魂を自分のできる限り、すべて捧げています。」


 ルフェーブル神父は安楽を感じていたし、その小教区教会の信者たちに極めて満足していた。彼は後にこう当時を振り返って語った。


「私は、熱心に自分の幼い羊の群れの面倒を見る主任司祭としての私自分を見ていました。布教活動は私に訴えるものを持っていませんでした。ジャングルや砂漠を駆け回る、しかもいったい何人の人を捜し出すために? それよりも私は小さな村で信仰を維持するために働く方がずっと良かった。 」


 ルフェーブル神父は自分の使徒職に味わいを見いだしていた。しかし彼はなによりも天主の御旨を行うことを望んでいた。彼はできればより高い司祭生活、少なくともより厳格で、もしかしたらより役に立つ、そして確実に自己放棄をより多くできる司祭らしい生活で導かれていることを感じていた。



 1931年の春、彼の母は、自分の息子の霊魂の状態を感知したように次のように描写した。「マルセルはずっと小教区にとどまってくれと強く要請されており、 (彼は私たちには言わないのですが) 他方で、自分の小教区の職務に対して極めて愛着しています。もしあの子が小教区の仕事を離れるとしたら、それはとても大きい功徳になるでしょう。修道生活が、あの子の主な理由のようです。」

 しかしここでルフェーブル婦人は間違っていた。宣教師になるためにこそ、マルセルは修道生活を受け入れたのだった。ただし、彼女がすぐにこう付け加えたのは正しかった。「彼は最善を探しています。彼の小教区教会はいつも夢見ていたものでした。責任がない小教区の主任司祭になることは、彼に言わせれば、それほど幸せなことは決してないとのことです。 」

 ルフェーブル神父は 「最善」を探していた。一年前に司教に手紙を書いたとき、彼はその方向に第一歩を踏みだしていた。しかしこの「最善」が何であるかは「自明」ではなかった。彼の母は、ルネにまた手紙を書いた。「お前にとっては、天主の御旨が目に見えるように明らかです!マルセルにとって天主の御旨があたかも書かれているとか、或いは語られているように、どちらでも同じことだけれども、明らかにされるように、私は毎日、天主に祈っています。 」


 しかし、ルネ神父が介入するようになると、天主の御旨はより一層明らかになってきた。彼はいつも自分の弟にガボンに来いと誘ったが、 1930-1931年には彼の手紙はもっと切迫になった。マルセルはこう言う。


「兄は私に手紙で集中攻撃していました。『来て、私たちをちょっと手伝ってくれ。私たちはここでの仕事が多すぎてすべての事を処理することができないでいる。教区には司祭が多すぎる。おまえは余分だ。』と言ってよこしました。兄の言うことは半分当たっていました。主任司祭は、私のことを余分だおっしゃっていたし、私がそのことを感じていました。理性的に私は教区を去ったのです。 」


 兄の筆になる手紙では理性と信仰との二つが表明されていた。あとはそれに従い、犠牲を捧げ尽くすだけだった。何故なら、これらは同じことだからだ。彼は絶対にそのことを後悔しないだろう。ルフェーブル大司教は後に、ダカールで愛するカルメル会の修道女たちに自分の宣教召命の秘密を打ち明けた。修道女らの日誌を引用しよう。


「1952年 9月 15日。 ルフェーブル司教の訪問。彼は宣教師である喜びを語ってくれた。何故なら、フランスではここまで自分を与え尽くさないからだ。彼は、若い時代にはそのことを理解していなかったこと、フランスで働くことも宣教国で働くことに劣らず同じことだと思っていたことを語った。布教活動をするように引っ張ってくれたのは、彼のお兄様だった。」


 自分をもっと与え尽くすこと、それこそがマルセル・ルフェーブルをして、布教生活に引きつけられたと言うよりも、宣教へと押しやった天主の愛徳の動きだった。そして使徒職に携わって 1年がたった今、ルフェーブル神父は聖霊司祭会に入会したいという彼の望みを司教に思い起させるためにペンをとった。直ちにドゥトワ神父が署名した 7月 13日付けの返信が来た。


「リールの枢機卿司教様は、あなたが 7月 20日付けでマレ-ド-ロームの小教区教会を離れることを許可するということを、あなたに知らせてくれなさいと私に命じました。あなたの後任司祭は次の教区会議で決定されるでしょう。」


 天主の御旨はこのように彼に対して確認され、ルフェーブル神父はパリのロモン通り(rue Lhomond)にある聖霊司祭会の本部に手紙を書いた。それは聖霊修道会の修練院に入る許可を求めるためであった。


(つづく)


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