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何故、新しい神学が過去の公教要理の教えを否定してまでも新しい教理を教えているのか?

2006年09月16日 | ミサ聖祭

アヴェ・マリア!



 今回は「贖い」について、何故、新しい神学が過去の公教要理の教えを否定してまでも新しい教理を教えているのか?? ということを考えてみます。

 


 何故、新しい神学が過去の公教要理の教えを否定してまでも新しい教理を教えているのかといえば、1969年の現れたこの新しいミサの総則の第7条は、次のようにミサを定義したからではないだろうか。


「主の晩餐、またはミサは、聖なる集会の儀、すなわち「主の記念」を祝うために、司祭を座長として、一つに集まった神の民の集会である。したがって、「二人または三人が私の名によって集まるところには、私もその中にいる」(マタイ18・20)というキリストの約束は、とくに教会が、それぞれの地域で集まる時に実現される。」



 つまり、新しいミサにおいては、

● 新しいミサの定義において、ミサはまず「集会」だからではないだろうか。(十字架の犠牲ということは重要な要素ではない。)


● そして復活の神秘(=過越の神秘)ということが強調され、十字架像のイエズス・キリストというよりも、復活のキリストが飾られたりしているからではないだろうか?



 また新しいミサでは、新しい教義上の観点からほとんど全ての典礼様式はそれに合わせて変更されているからではないだろうか。

 つまり、
● 新しい教えによれば、天主は、罪をもはや天主に対する正義を欠くことであるとは考えにならず、人が罪を犯しても天主の側からは決して人との契りを放棄し給わない。

 従って、私たち人間は罪故に当然受けることになった苦しみの赦しを天主に願い求めることもなく、天主が罪人たちに対してお怒りにならないようにと宥めることもなくない。

 従って、典礼改革はこれらの苦しみや天主を恐れると言うことを示すものをすべて取り除いた。


● 新しい神学によれば「贖い」は、聖父が私たちに持つ無償の溢れるばかりの愛を十全に啓示することである。

 従って、典礼儀式は、感謝とお願い以外の何ものでもありえない。

 従って、キリストが代理として天主の正義を満足させること、或いは、キリストの祈りにおける仲介は、特に必要ないものとなる。

 従って、それらに関することは大部分が新しいミサ典書、特に「奉献の祈り」から削除されている。

 


例えば、

聖伝のミサ典書では
「私たちの主イエズス・キリストのいとも尊き御血の祝日」(ピオ9世による制定、ピオ11世により1933年に1級祝日に昇格)の「集祷文」にはこうある。

「全能永遠の天主よ、御身は御身の聖子を唯一のこの世の贖い主とし、我らの贖いの値である、聖子の御血によって宥められることを望み給うた・・・」

つまり、天主聖父は、聖子の贖う御血によって正義がなだめられると言っている。



新しいミサ典書では、
「私たちの主イエズス・キリストのいとも尊き御血の随意ミサ」(1969年改革された典礼暦年のカレンダーでは削除されたが、その後多くの懇願により随意ミサとして再導入)の「集祷文」

主よ、御身は、御身の聖子のいとも尊き御血により全ての人々を贖い給うた。我らの救いの神秘を常に思い起こし、その実りを得んがため、我らのうちに御身の愛の業を保ち給え。」


つまり、聖子ではなく、聖父が愛によって普遍的な贖いを行ったことになっている。

 つまり、新しいミサの新しい概念は、贖いという古典的な概念の上になりたっている。

 従って、私たちは聖伝のミサと新しいミサとの2つのミサ典書の違いは、2つの異なった教義が典礼において反映された違いであるということが出来る。

 一方の聖伝のミサは、古典的な神学の観点に立ち、キリストの死の償いの価値を贖いの業にとって本質的なものと捉えている。

 他方で新しいミサは、新しい神学の観点で、キリストの死の償いの価値は、神学上の一意見であり、天主の善性と相容れないものであると考えている。


 新しいミサが、新しい神学を生みだし育てる土壌となったのだろうか? そして、新しいミサのために、伝統的な「贖い」の概念が風化していってしまったのだろうか?それとも、新しい神学が新しいミサを生み出したのか?



 何はともあれ、トリエント公会議は、こう教えている。
「ミサにおいて真実の固有のいけにえが天主に捧げられない」とか「捧げられるというのは、キリストが・・・私たちに与えられることに他ならない」と言う者は排斥される。
 また、
「ミサのいけにえはただ賛美と感謝のいけにえである、あるいは、十字架上で行われたいけにえの単なる記念であって、罪の償いのいけにえではない」と言う者は排斥される。



 だから、正しいカトリックの「贖い」の概念を守るためにも、私たちは聖伝のミサを守らなければならない。



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 では一体新しい神学の基礎になっている考えとは何なのだろうか? 新しい神学・新しい考え方がよって立つそれは何のか? 

 


--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

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