Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

アウグスティヌスの言葉を直接お聞き下さい。

2006年07月07日 | 聖アウグスティヌス

アヴェ・マリア! 初金曜日、司教証聖者聖チリロとメトディオの祝日にて


「ですから私たちの心は、あなたのうちに憩うまで、安らぎを得ることができないのです。」聖アウグスティヌス


 アウグスティヌスの言葉を直接お聞き下さい。
(日本語訳は中央公論社の世界の名著14 「アウグスティヌス」告白 山田晶訳を参考にしました。この名訳を推薦します。)


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 十九から二十八才に至る九年間、私たちは様々な情欲のままに、迷わされながら迷わし、騙されながら騙していました。
per idem tempus annorum novem, ab undevicensimo anno aetatis meae usque ad duodetricensimum, seducebamur et seducebamus, falsi atque fallentes in variis cupiditatibus, ...
AUGUSTINI CONFESSIONUM LIBER QUARTUS 4.1.1
http://www.thelatinlibrary.com/augustine/conf4.html


 この時代、私は修辞学を教えていました。・・・その年ごろ、私は一人の女性と同棲するようになっていました。・・・私が彼女一人をまもり、彼女に対して閨の真実を尽くしました。
docebam in illis annis artem rhetoricam, ... in illis annis unam habebam ... unam tamen, ei quoque servans tori fidem, ...
AUGUSTINI CONFESSIONUM LIBER QUARTUS 4.2.2


 勉学の仲間に大変親しい友人ができました。彼は私と同い年で、ともに青春の花盛りでした。・・・ 私たちの友情は、同じ勉学の熱に暖められて、まことに甘美なものになっていました。・・・ すると見よ、天主よ、あなたは友人をこの世から取り去ってしまわれたのです。それは当時の私の生活をあらゆる甘美なことに優って甘美であった友情のうちに一年を過ごすか過ごさないかの時のことです。
comparaveram amicum societate studiorum nimis carum, coaevum mihi et conflorentem flore adulescentiae.... sed tamen dulcis erat nimis, cocta fervore parilium studiorum. ... ecce abstulisti hominem de hac vita, cum vix explevisset annum in amicitia mea, suavi mihi super omnes suavitates illius vitae meae.
AUGUSTINI CONFESSIONUM LIBER QUARTUS 4.4.7



 友人は熱病に苦しんで、長い間、意識を失って死の汗を流して寝ていました。絶望と見られたので、本人の知らない間に、洗礼が授けられました。・・・友人は回復して元気になりました。そこで、枕元で、彼も一緒にそうするだろうと思いながら、彼がまったく無意識、無感覚のままで受けた洗礼のことを嘲笑しようと試みました。彼は自分が洗礼を授けられたことをもう知っていました。そして、まるで私が敵であるかのように恐れ、驚くほど思いがけないほどあけすけに、もしも友人でありたいなら自分にそう言うのは止めろと忠告しました。・・・数日後私のいない間に熱がぶり返し、亡くなってしまったのです。
cum enim laboraret ille febribus, iacuit diu sine sensu in sudore laetali et, cum desperaretur, baptizatus est nesciens... nam recreatus est et salvus factus, statimque, ... temptavi apud illum inridere, tamquam et illo inrisuro mecum baptismum quem acceperat mente atque sensu absentissimus, sed tamen iam se accepisse didicerat. at ille ita me exhorruit ut inimicum admonuitque mirabili et repentina libertate ut, si amicus esse vellem, talia sibi dicere desinerem. ... post paucos dies me absente repetitur febribus et defungitur.
AUGUSTINI CONFESSIONUM LIBER QUARTUS 4.4.8



 この悲しみによって、私の心はすっかり暗くなり、目につくものは全て死になってしまった。私にとって故郷は責め苦となり、父の家はわけのわからぬ不吉なものとなり、友人と共有していたすべてのものは、彼なき今、おそろしい苦痛に変わった。私の目は至るところに彼を捜したが、どこにも見あたらない。何もかも肉らしくなった。何故なら、どこにも彼は不在であって、何ものも私に「待て、すぐに来るから」と言うことができなかったから。
quo dolore contenebratum est cor meum, et quidquid aspiciebam mors erat. et erat mihi patria supplicium et paterna domus mira infelicitas, et quidquid cum illo communicaveram, sine illo in cruciatum immanem verterat. expetebant eum undique oculi mei, et non dabatur. et oderam omnia, quod non haberent eum, nec mihi iam dicere poterant, 'ecce veniet,'
AUGUSTINI CONFESSIONUM LIBER QUARTUS 4.4.9



 私はみじめでした。死すべきものへの友情に縛られている心は皆みじめです。このような心は、死すべきものを失うと引き裂かれます。その時悲惨を感じますが、実は失う以前から、同じように悲惨なのです。しかもその苦さのうちに安らっていました。それほど私はみじめだった。・・・生への剣をは極めてひどかったにもかかわらず、同じほどひどい死への恐怖が起こりました。私は友人を深く愛していただけに、それだけ一層彼を奪い去った死を、凶悪無残な敵でもあるかのように憎しみ恐れ、死が突然、全ての人間を滅ぼし尽くすのではないか、と思いました。死は友人を滅ぼすことができたのですから。・・・私は、他の諸々の死すべきものが生きながらえているのを不思議に思いました。何故なら、まるで死なない者のように愛していた友人は死んでしまったのですから。また第二の彼であったこの私が、彼は死んだのに生きているのを、一層不思議に思いました。友人について「自分の霊魂の半分」と言った人がありますが、うまいことをいったものです。実際、私は、自分の魂とその友人の魂とは、二つの身体の中の一つの魂だったと感じました。生がおそろしくなったのは、半分で生きるのがいやだったからであり、それにもかかわらず、死を恐れたのは、あんなに愛していた友人の全体が死なないためであったのかもしれません。

miser eram, et miser est omnis animus vinctus amicitia rerum mortalium, et dilaniatur cum eas amittit, et tunc sentit miseriam qua miser est et antequam amittat eas. sic ego eram illo tempore et flebam amarissime et requiescebam in amaritudine. ita miser eram... et taedium vivendi erat in me gravissimum et moriendi metus. credo, quo magis illum amabam, hoc magis mortem, quae mihi eum abstulerat, tamquam atrocissimam inimicam oderam et timebam, et eam repente consumpturam omnes homines putabam, quia illum potuit. ... mirabar enim ceteros mortales vivere, quia ille, quem quasi non moriturum dilexeram, mortuus erat, et me magis, quia ille alter eram, vivere illo mortuo mirabar. bene quidam dixit de amico suo: 'dimidium animae' suae. nam ego sensi animam meam et animam illius unam fuisse animam in duobus corporibus, et ideo mihi horrori erat vita, quia nolebam dimidius vivere, et ideo forte mori metuebam, ne totus ille moreretur quem multum amaveram.
AUGUSTINI CONFESSIONUM LIBER QUARTUS 4.6.11



 おお、人間を人間らしく愛することを知らない狂気よ! おお、人間の定めを節度を持ってたえることのできない愚かな人間よ! 当時の私は、まさしくそれでした。それゆえ、荒れ狂い、ため息をつき、泣き、乱れて、安息も思慮もありませんでした。まことに私は、引き裂かれ、血まみれになった魂を持ち運んでいましたが、魂は持ち運ばれるのにたえきれなくなり、私はどこに自分の魂をおいてよいやら分からなくなってしまいました。・・・楽しい森の中にも、遊びや歌の中にも、快い香りのする場所にも、盛りだくさんの宴会にも、閨の快楽にも、はては読書や詩作のうちにも、魂は憩いを見いだしませんでした。すべてのものが、光までが厭わしくなりました。友でなかったものはことごとく、嘆きと涙を除いて、不愉快で厭わしくなりました。ただ嘆きと涙のうちにのみ、いくらかの安息がありました。しかし、そこから魂が引き裂かれたとき、悲惨の大きな重荷が私の上にのしかかってきたのです。主よ、あなたに向かって魂は高められ、あなたにおいて癒されなければなりません。
o dementiam nescientem diligere homines humaniter! o stultum hominem immoderate humana patientem! quod ego tunc eram. itaque aestuabam, suspirabam, flebam, turbabar, nec requies erat nec consilium. portabam enim concisam et cruentam animam meam impatientem portari a me, et ubi eam ponerem non inveniebam. ... non in amoenis nemoribus, non in ludis atque cantibus, nec in suave olentibus locis, nec in conviviis apparatis, neque in voluptate cubilis et lecti, non denique in libris atque carminibus adquiescebat. horrebant omnia et ipsa lux, et quidquid non erat quod ille erat improbum et odiosum erat praeter gemitum et lacrimas: nam in eis solis aliquantula requies. ubi autem inde auferebatur anima mea, onerabat me grandi sarcina miseriae. ad te, domine, levanda erat et curanda,...
AUGUSTINI CONFESSIONUM LIBER QUARTUS 4.7.12

 



友情が真の友情となるのは、あなたが与え給うた聖霊によって、私たちの心に愛を注ぎ、それでもってあなたに寄りすがる人々の間の友情を固めて下さる場合に限られているのですから。
uti est vera amicitia, quia non est vera nisi cum eam tu agglutinas inter haerentes tibi caritate diffusa in cordibus nostris per spiritum sanctum, qui datus est nobis.
AUGUSTINI CONFESSIONUM LIBER QUARTUS 4.4.7

 


ここから、愛し合う友人が死ぬと、あの悲嘆と苦しみの闇が生じ、甘さが苦さに転じ、心は湿り、死者の失われた生から、生ける者たちの死がおこるのです。あなたを愛し、あなたにおいて友人を、あなたのために敵をも愛する人は幸いなるかな。まことに、失われることのない御者において万人を愛する人だけが、親しい友を一人も失わなくてもすむのです。その失われることのない御者とは、私たちの天主でなくて誰でしょう。それは天地を創り、天地を満たしたもう天主です。あなたを棄てる者だけがあなたを失います。あなたを失うものはどこに行き、どこに逃げてゆくのでしょうか。優しいあなたから去って、怒りのあなたのもとへ行くのではないでしょうか。
hinc ille luctus si quis moriatur, et tenebrae dolorum, et versa dulcedine in amaritudinem cor madidum, et ex amissa vita morientium mors viventium. beatus qui amat te et amicum in te et inimicum propter te. solus enim nullum carum amittit cui omnes in illo cari sunt qui non amittitur. et quis est iste nisi deus noster, deus, qui fecit caelum et terram et implet ea, quia implendo ea fecit ea? te nemo amittit nisi qui dimittit, et quia dimittit, quo it aut quo fugit nisi a te placido ad te iratum?
AUGUSTINI CONFESSIONUM LIBER QUARTUS 4.9.14



万軍の天主よ、我らを御身に向け給え、御顔を示し給え、されば我らは救われん。実に、人間の霊魂は、あなたに向かわない限り、どちらに向いても、他のどこにおいても、悲しみに釘付けされるだけです。例え美しいものにおいてにせよ、それがあなたの外のもの、自分の外のものである限りは。しかも、それらの美しいものも、あなたから出るのでないならば、無でありましょう。・・・必ずしもすべてのものが老いるわけではないけれど、すべてのものは滅びます。
deus virtutum, converte nos et ostende faciem tuam, et salvi erimus. nam quoquoversum se verterit anima hominis, ad dolores figitur alibi praeterquam in te, tametsi figitur in pulchris extra te et extra se. quae tamen nulla essent, nisi essent abs te. ... et non omnia senescunt, et omnia intereunt.
AUGUSTINI CONFESSIONUM LIBER QUARTUS 4.10.15

 


ですから私たちの心は、あなたのうちに憩うまで、安らぎを得ることができないのです。
quia fecisti nos ad te et inquietum est cor nostrum donec requiescat in te.
AUGUSTINI CONFESSIONUM LIBER PRIMUS 1.1.1
http://www.thelatinlibrary.com/augustine/conf1.html

 

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ふーん、聖アウグスティヌスって、そんなことがあったのか、と思われましたらクリックして下さいね。↓
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ですから私たちの心は、あなたのうちに憩うまで、安らぎを得ることができないのです。

2006年07月07日 | 聖アウグスティヌス

アヴェ・マリア! 初金曜日、司教証聖者聖チリロとメトディオの祝日にて



「ですから私たちの心は、あなたのうちに憩うまで、安らぎを得ることができないのです。」聖アウグスティヌス
quia fecisti nos ad te et inquietum est cor nostrum donec requiescat in te.



 以前、こんなコメントを下さった方がいました。


「自分の本当の片割れ、本当の相手に出会ったときの驚き、そして、その人を愛したときの歓びは、筆舌には尽くせません。心の底からの感謝、溢れ出す愛情…この世のすべての者がいとおしく、その存在がありがたく思えるものなのですよ。自分が本当に幸せだからこそ、当たり前のようにすべての人の幸せを願うことができます。何も努力することなく、すべての人を愛することができるのです。」


 このコメントを書いて下さった方は、実際にそう体験されたのでこう書いて下さったのだと思います。そしてそのことを私たちに教えて下さったことを感謝します。おそらくその出会いの歓びと感謝から、私たちへの愛の表現としてコメントを書いてくれたのだと思います。


 実はこれを読んで、聖アウグスティヌスを思い出しました。何故なら、彼も同じことを体験し同じように思ったことがあったからです。彼は後にそれを『告白』の中に書いています。私は、なかなかそれについて書く時間を見つけることができなかったのですが、天主の御計らいによって、今、彼の体験について兄弟姉妹の皆様にお伝えしようと思っています。


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 当時、アウグスティヌスはまだ十六才で、故郷のタガステを離れカルタゴに遊学し、ある女性との同棲生活に入りました。十八歳のころには、彼女との間に長男アデオダトゥスをもうけています。(彼は、三十一才になって彼女と離別せざるを得なくなるまで彼女との忠実を守っています。)


 アウグスティヌスは、そのころマニ教に入信します。マニ教とは、元来、光と闇(陰と陽)との二元論をとく宗教で、善いもの、精神的なもの、霊的なものは光に属し、悪いもの、物質的なもの、肉体的なものは闇に属する、と説いていました。これはグノーシス派の変形であり、その一形態でした。またキリスト教をも取り込んで、キリストは人間の霊魂を肉体から救うためにきた「光の子」であるが、旧約聖書のヤーウェは、ユダヤ人の拝む悪魔であって、キリストとは関わりがないとし、旧約の天主と新約のキリストとは同一であるとするカトリック教会を非難していました。


 さてそんな青春の花盛りで若気に溢れるアウグスティヌスが、二十才になって学業を終え、故郷のタガステに戻り修辞学を教えだしている頃、ある友人と出会います。私にコメントをくれた方は「自分の本当の片割れ」に出会ったと言いますが、アウグスティヌスは、ホラティウスの『歌集』の表現を借りて「自分の霊魂の半分」と言った人(ホラティウスのこと)があるけれども、うまいことをいったものでだ、と言い、オウイディウスの『哀歌』を引用して、「自分の魂とその友人の魂とは、二つの身体の中の一つの魂だった」と感じたともいって、彼との友情を表現しています。


 ところが、そんな彼が突然の病に倒れ急死してしまったのです。その時、アウグスティヌスにとって彼のいない生の全てが悲しみに変わりました。この悲しみによって、心は暗くなり、目につくものは全て死になり、故郷は責め苦、家はわけのわからぬ不吉なもの、友人と共有していたすべてのものは、おそろしい苦痛に変わったのでした。


 荒れ狂い、ため息をつき、泣き、乱れて、安息も思慮もなく、引き裂かれ、血まみれになった魂を持ち運びつつ、光までが厭わしくなり、友でなかったものはことごとく、嘆きと涙を除いて、不愉快で厭わしくなったのです。彼はみじめで、心は引き裂かれ、まるで死なない者のように愛していた友人を奪った死を恐れ、「第二の彼」である自分がまだ生きているのを不思議に思い、「半分で生きるのがいや」になったので生をおそろしく思い、同時に、自分がまだ生きていることは「友人の全体が死なない」ことのように思え、死を恐れたのでした。愛し合う友人が死ぬと、悲嘆と苦しみの闇が生じ、甘さが苦さに転じ、心は湿り、死者の失われた生から、生ける者たちの死がおこる、と言います。



 そこで、後に『告白』を執筆しながら(四十三から四十六歳の間)、その時のことを思い起してアウグスティヌスは、人間を人間らしく愛する、とはそして、友情が真の友情となるのは、天主の愛が必要だ、と言います。天主を愛し、天主において友人を、天主のために敵をも愛する人は幸いなるかな、失われることのない天主において万人を愛する人だけが、親しい友を一人も失わなくてもすむ、と言います。


 苦しみにのたうち回った経験から、アウグスティヌスはこう悟りました。人間の霊魂は、天主に向かわない限り、どちらに向いても、他のどこにおいても、悲しみに釘付けされるだけだ、と。何故なら、天主以外のすべてのものは滅びるからです。私たち人間の心は、天主のうちに憩うまで、安らぎを得ることができないことを悟ったのです。


 アウグスティヌスは、イエズス・キリストが教えてくれたこの超自然の愛:「天主をすべてに超えて愛せよ、そして天主を愛するために、隣人を我が身の如く愛せよ」の秘密を悟ったのです。天主に対する愛は限りがないものだけれども、隣人に対する愛には秩序があること、隣人は私たちにとって近しい人から秩序よく、天主のために愛さなければならないことを。


 だから、アウグスティヌスは『告白』の巻頭言としてその最初に、自分の書こうとすることの総括をこう書いているのです。


「私たちの心は、あなたのうちに憩うまで、安らぎを得ることができないのです」と。


 願わくは私たちにコメントを書いて下さったこの方と私たちが、聖アウグスティヌスのように、ついには天主のうちに憩い、安らぎを得ることができますように。そして私たちが聖アウグスティヌスとともに天主にいつもこう言うことができますように。


「私たちの心は、あなたのうちに憩うまで、安らぎを得ることができないのです」と。


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--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
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