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ダブルスタンダード?! 聖伝主義に対する態度とエキュメニズム

2006年11月02日 | エキュメニズム関連情報

アヴェ・マリア!

兄弟姉妹の皆様、

日本でのエキュメニズム運動の一端をお知らせします。



 ●2001年2月25日大阪教区阿倍野教会で池長大司教は日本聖公会主教、日本基督教団牧師、バプテスト教会牧師らと23人で共同司式の「創立55周年記念の感謝ミサ」を行った。



大阪カトリック時報2001年4月1日号より転載

 

阿倍野教会創立55周年記念祭

「55年の歩みをふり返り、21世紀に生きる共同体」


 阿倍野教会では、二月十二日、創立五十五周年記念の感謝ミサと祝賀会がおこなわれ、三百五十人が参加した。テーマは「五十五年の歩みをふり返り、二十一世紀に生きる共同体」。

 阿倍野共同体は、ふだんからエキュメニカルな活動をたいせつにしている。当日も、池長潤大司教はじめ、カトリック司祭、近隣の日本聖公会主教、日本基督教団牧師、バプテスト教会牧師ら二十三人が祭壇を囲んだ


(諸宗教の指導者が最後の祝福を与えている)

 信徒のひとりは「なぜ五十五年?はんばな数字!何人かの信徒たちからこんな声があがりました」といい、「五十五周年」記念祭が決まった経緯や方針、当日の様子についてつぎのように話した。「五年前、五十周年のときは、阪神・淡路大震災の翌年でした。災害にあわれた方々と痛みを分かち合う意味でも、この 『五十五』という数字は私たちにとって貴重な数字です。この計画をたてたときから、たんなる昔をなつかしむだけでなく、この機をステップとして 『これからの教会』を模索しょうと決めました。

お祭り騒ぎはやめ、多くの信徒が参加できるよう考慮しました。それにはまず、子どもたちが生かされ、外国人たちと交わりがもてるミサ典礼を考えました。たとえば、奉納には、外国の文化を理解しょうとの試みから、子どもたちはバンプーダンスを披露(=写真)。

(外国文化理解の試み:これが日本文化へのインカルチャレーションになるのだろうか?)


 ほかに、パンとぶどう酒とともにお米・・・・これは、毎週、釜ケ崎に届けられるおにぎりから 『隣人愛』を表現。それから、麦の穂大地の恵みに感謝。

(天主に感謝ではなく、大地の恵みに感謝)


 そして、外国との関係から輸入フルーツ。阿倍野教会を拠点として、すでにはじまっている宣教活動をあらわす『古いサンダル』など。
 古いサンダルについては、ミサ後、あるかたから『なんできたないサンダルを祭壇の上にのせるねん。国によっては、牛や羊を奉納するところもあるんやから、祭壇の下でええねん』という忠言があり、大笑いの一幕もありました。


(大笑い??)


 全信徒が一丸となつて関わったこの日は、私たち阿倍野小教区の大聖年のテーマ 『交わりと証し』を実践する契機になつた、と確信できた記念祭でした」。(取材協力 杉田恭子氏)

 

●教会での禅


 教会での禅と称して、宗派を超えた交流の場としてカトリック北野教会様の御協力を得て、相国寺専門道場師家田中芳州老大師が、座禅と法話を開催し、カトリック神父との対談を致します。


http://www.shokoku-ji.or.jp/shokokuji/tatcyu/daitsuin-kyokai.html


 

▼何故、日本ではこのようなことが許されてしまっているのだろうか? 何故、池長大司教様は、日本聖公会主教、日本基督教団牧師、バプテスト教会牧師らにカトリック信徒の方々を祝福してくれと頼んだのだろうか? 日本のカトリック聖職者のうち何人がカトリック司祭職とは何か、ミサ聖祭とは何かをカトリック教会が常に理解してきた通りに理解し信じているのだろうか?

 何故、日本ではこのようなことが許されてしまっているのだろうか? この答えはあまりにも明らかだ。何故なら、ヨハネ・パウロ二世教皇様が、アシジの諸宗教の祈祷集会を開いて、「第二バチカン公会議を正しく理解する挿絵(イラストレーション)である」と言ったからだ。



 日本でエキュメニズム運動があり、諸宗教の指導者を招待して祈ってもらったり、他の宗教の施設に祈りに行くのは、第二バチカン公会議が望んだことだった。

 これらのことは第二バチカン公会議以前には、全く考えられないことだった。天主の十戒に全く反することだから



 だから、日本でこのようなことが起こっても誰も文句を言わなかった。ただヨハネ・パウロ二世教皇様の真似をしただけだったのだ。



 では、私たちはどうすればよいのか?

 レオ13世によって不可謬的に(ex cathedra)明らかにされた英国聖公会の司祭叙階が無効であることを信ずるか、あるいはパウロ六世やヨハネ・パウロ二世教皇様のエキュメニズムの風潮を信じるべきか?


 マルチン・ルターを不可謬的に(ex cathedra)排斥したレオ10世を選ぶか、ヨハネ・パウロ二世教皇様のエキュメニズムの風潮を選ぶべきか?

 「教会の外に救いなし」とする聖会の教義を信ずるか、それとも、非キリスト教さえも救いの手段であり、多神教さえも敬うべしとするヨハネ・パウロ二世教皇様の指針に従うべきか?

 《異端者》、あるいは/かつ、《破門されたもの》は「カトリック教会の外にいる」のか、それとも、「さまざまなキリスト教と呼ばれる団体」は「深さが」異なるのみで、全き交わりの中にいるのか。したがって、これらさまざまな異端の、あるいは/かつ、破門された党派も、パウロ六世やヨハネ・パウロ二世教皇様にならって「教会として、又は、教会的団体として」「尊敬すべき」なのか??

 

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ヴァチカンは、エキュメニズム追求に教会の資源とエネルギーをいつまで浪費しようとするのか?

2006年08月31日 | エキュメニズム関連情報

アヴェ・マリア!


また、次の「断末魔の苦しみにおけるエキュメニズム」記事もご覧下さい。


断末魔の苦しみにおけるエキュメニズム
http://www.d-b.ne.jp/mikami/fp0525.htm

 


バチカン最大のエキュメニズム推進者、ワルター・カスパー枢機卿でさえ、アングリカン「教会」がもし女性は「司教」であり得ると決定するならば、アングリカンたちとの「教会の交流」のためのすべての見込みは打ち砕かれるであろうということを認めた



ところが「英国の教会は、司教としての女性の叙階は神学的に正当化され得ると決定した。

一つの歴史的な動きにおいて、一般司教会議はその動きが『教会の信仰に一致する』と多数決で採決した。」(Telegraph)


「その採決は女性司教の叙階が二つの教会の間の一致を『到達不可能なもの』にするであろうというヴァチカンからの抗弁にもかかわらず採決された。カンタベリーの大司教、ローワン・ウィリアムズ師は採決の結果としてローマ・カトリック教会との関係にとって『一つの重大かつ深刻な』代価が存在するであろうと認めた。」(Telegraph)



このアングリカンの行為は、ヴァチカンの「エキュメニストたち」が『二つの教会[ママ]の間の一致が到達不可能である』ということを悟った最初の糸口であったのか?



われわれは、すでに司祭としての女性の叙階を承認し、中絶(少なくともある場合に)、避妊、離婚そして信仰に反する無数の異端を承認してきた「教会」との一致が「到達可能」であると信じるべきなのか?



ヴァチカンは、その総体において真正の福音を奉ずる何らの意図をも絶対に持たない他のすべてのプロテスタント諸派との「一致」という無益な追求に教会の資源とエネルギーをいつまで浪費しようとするのか?



エキュメニズム運動が出発点から失敗へと運命づけられているということを理解する前に、それは何を得るであろうか?



エキュメニズムが失敗へと運命づけられているのは、なぜか?


それは「すべてのキリスト教徒たちの一致をもたらす唯一の道はすべてのキリスト教徒たちをカトリック教会の中へ連れてくることである」ということ - なぜなら、他のいかなる教会も存在しないし、これからも存在することはないであろうから - をエキュメニズムの第一の原理として受け取らなかったからである。



「エキュメニズム運動」の運命づけられた断末魔の苦しみを認めることを拒否しつつ、エキュメニズム実行者たちは、永遠に後退し続ける幻覚に彼らの目を固定させて、何処へも到達しない道をゆるぎなく進み続けている。


http://www.d-b.ne.jp/mikami/fp0525.htm

 

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世界宗教者平和会議が京都市の国立京都国際会館で開催

2006年08月31日 | エキュメニズム関連情報

アヴェ・マリア!


エキュメニズム関係のニュースです。



【世界宗教者会議:京都で開幕 2000人が参加】


世界宗教者平和会議が京都市左京区の国立京都国際会館で26日に開催。


 これは世界宗教者平和会議(WCRP)の第8回世界大会で、100カ国・地域から約2000人が参加し、29日まで全体会議や個別テーマごとの小部会で対話を重ねたそうです。


 これは70年の京都大会以来、36年ぶりの日本開催だそうです。


http://www.mainichi-msn.co.jp/today/news/20060826k0000e040023000c.html?in=rssw



【世界宗教者会議には、教皇ベネディクト十六世もメッセージ】


http://blog.livedoor.jp/cjcpress/archives/50574508.html

 


【法務省は北朝鮮の参加者6人の入国を拒否】


 北朝鮮のミサイル発射に対する政府の制裁措置に盛り込まれている「北朝鮮からの入国審査の厳格化」を適用したとのことです。同省は「北朝鮮の公務員が含まれると判断した」としている。

http://www.mainichi-msn.co.jp/kokusai/afro-ocea/news/20060825k0000e040066000c.html



【世界宗教者平和会議日本委員会のホームページ】


 世界宗教者平和会議日本委員会のホームページは次にあります。
http://www.wcrp.or.jp/



 現在の国際委員長団のカトリックのメンバーは次のような名前が挙げられています。


リタ・バーリー修道女 イギリス/バチカン カトリック国際修道女連盟(カトリック)
ジョン・O・オナイケン大司教 ナイジェリア アブジャ大司教(カトリック)
白柳誠一枢機卿 日本 東京大司教、WCRP日本委員会理事長(カトリック)
オスカー・ロドリゲス大司教 ホンデュラス ラテンアメリカ司教会議会長(カトリック)
ウィリアム・キーラー枢機卿 アメリカ ボルティモア大司教、WCRPアメリカ委員会共同会長(カトリック)
ノルベルト・クレース博士 ドイツ ビュルツブルク大学教授(カトリック)
ハンス・キュング博士 ドイツ チュービンゲン大学教授(カトリック)
ゴッドフリード・ダネールス枢機卿 ベルギー メヘレン-ブリュッセル大司教(カトリック)



 また、(財)世界宗教者平和会議日本委員会の主な役員のうちカトリック関係者は次の通りだそうです。


理事長 白柳誠一 カトリック東京教区 大司教・枢機卿
評議員 平山高明 カトリック大分教区 司教
評議員 田中健一 カトリック司教
評議員 森 一    カトリック司教

http://www.relnet.co.jp/relnet/brief/r4.htm

 


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【ファチマ・パースペクティヴズ エキュメニズムの最終的な結末】


 これに関連して、クリストファー・A. フェララの記事をお読み下さい。
http://www.d-b.ne.jp/mikami/fp0523.htm



 エキュメニズムは、非カトリックの全ての諸宗教に対して友好と信頼と交流を促進させている。


 しかし、エキュメニズムは、カトリック信徒らをして教会からの離反を促しており、そのようなエキュメニズムを受け入れなかったルフェーブル大司教についてのみ、敵対的な態度を取らせている


 しかし、世界宗教者平和会議が設立されて、世界から本当に戦争がなくなったのだろうか? その反対ではなかっただろうか?


 世界宗教者平和会議は、世界平和というよりも、カトリックの背教へとのみ導くだろう。


 世界の本当の平和のためには、むしろファチマの聖母マリアのいうように、聖母の汚れ無き御心への信心をこの世に確立しなければならないだろう。私たちはそれを信じている。


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以下にそのポイントを列挙します。



エキュメニズムの最終的な結末は教会からの離反である。


エキュメニズムのために例えば、アメリカの聖ベネディクト・センターはカトリックであることをやめなければならなかった。


聖ベネディクトのシスターたちはヴァチカンに、カトリック修道会としての彼女たちの誓願からの適用免除を請願し、そしてその要求は叶えられた。


修道誓願を断念し、ローマによって認められたカトリック宗教共同体としてのその存在を終えた。


誓願とエキュメニカルな共同体とは基本的に相容れないのであり、そしてそれゆえに最後には出ていかなければならないのは誓願だったのである。


ルフェーブル大司教は、彼が彼の修道会を一つのエキュメニカルな共同体へと変えるために彼の聖霊会神父としての誓願を免除されるように求めたのではなかった。そのような場合にはヴァチカンは許可を与えたであろう。


むしろ、1988年に大司教は教会における無類の危機と混乱の時期の間、伝統的なミサ、諸々の秘蹟そしてカテケージスを守るために司教たちを叙階しようと努められたのである。そしてこれらの叙階のために(そのうちの一人の聖別に対してヴァチカンはすでに原則的に同意した。ただ聖別の日付だけが同意に達せずに残されていたにすぎない!!!)大司教は72時間以内に「破門される」と宣言された。


実際、教会の規律上の権威は厳格にそして迅速に機能しつづけていると思われる - しかしそれはただ教会の規律の破壊に反対し、それについて何かをなそうと努力している人々に対するときにだけそうであるが - 。

もし、エキュメニズムが「エキュメニズム」のためにカトリック教会の放棄へと導くならば、まず第一にそのような諸活動へとカトリック教徒たちをさらすのか?


エキュメニズムは、シスター・ルチアが第二ヴァチカン公会議以来の教会の「悪魔的な方向感覚喪失」と呼んだ精神的混乱の一形式である。



信仰と道徳に関するカトリック教会の最も基本的な教えを拒否するプロテスタントたちと共に、共同体において生活するために自分の誓願を放棄することは、客観的に言うならば背教としてしか見られ得ない。そのような背教が、今日教会をしっかりと捕らえているエキュメニカルな狂気の最終的な結果である。

http://www.d-b.ne.jp/mikami/fp0523.htm

 



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新しい「諸聖人の連祷」(?)  エキュメニズム関連情報:アメリカ

2006年06月22日 | エキュメニズム関連情報

アヴェ・マリア!


 エキュメニズム関連情報:アメリカ


 テイヤール・ド・シャルダン、ガンジー、マルティン・ルター・キング、ゴッホ、モーツアルトも入った新しい「諸聖人の連祷」(?)



 アメリカのベネディクト会の修道女 Mary Lou Kownacki は、新しい千年期のための新しい「諸聖人の連祷」を作った。このシスターは、第三世界とアメリカとの200のベネディクト会とシトー会とを連帯させる事務総長。

 新しい「連祷」には、イエズス会のテイヤール・ド・シャルダン、インドのマハトマ・ガンジー、マルティン・ルター・キング、画家のファン・ゴッホ、音楽家のモーツアルトの名前もあるそうだ。


http://www.kreuz.net/article.3398.html
(最後の記事です。イコン風のガンジーの絵に注目して下さい。)


 主よ、憐れみ給え!

 


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エキュメニズム関連情報 【韓国カトリックと儒教】

2006年06月08日 | エキュメニズム関連情報

アヴェ・マリア!

エキュメニズム関連情報

【韓国カトリックと儒教】


 儒教では「祭祀」と呼ばれる先祖の霊に対する礼拝がある。韓国の多くのカトリック信徒は、これを拒んで殉教していった。


その祭祀というのは虚しく無益なことです。真理に従うためには、虚しいこと無益なことを捨てなければならないということは明白な事です。眠った親に食べ物を調えて差し上げて眠りに入ったままそれを召し上がりなさいと言ったら、それは愚かな事ではないですか。だから親が亡くなった後に食べ物を召し上がるなどと思っているなら、それはもっと愚かではないですか? 霊魂はそれが行くところに行き、肉体は力無いしかばねに過ぎなくなるのです。 霊魂は霊体(神霊体)のため物質的な食べ物を食べて生きているのではありません。また天主の戒律は素晴らしいものであり, それを守れば功徳になります。国王のために自分の生命を捧げる人を逆賊だとは言わないでしょう。まして天地と天主なる人と万物を主宰し給い、王の中の王であり、全人類の普遍な父親であり、雨と露を思いのままに降らせ給い、一番微弱な草木から大木までも皆育つようになさるお方です。その恩を被らないものは存在しないのであり、天主を裏切るよりはかえって自分命をかけるという人を、いったい何故逆賊だと罵るのですか?」


(韓国の百三位聖殉教者の一人、イ・ホヨン・ペトロ(1838年11月25日殉教)が、儒教式の祭祀を捧げないので逆賊だと刑吏から言われて答えた言葉)



 ところが今では???? 
 儒教の礼拝もOK? 枢機卿が儒教礼拝の手本を見せる??


 東亜日報(2000年5月23日)より



金枢機卿儒学者墓地で "禮" を捧げる

心山賞 受賞後 24日 告由祭


「祭祀は孝実践のため」と規定

 天主教と儒教との意味深い出会いが行われる。金壽煥枢機卿は、23日、第13回 心山賞 受賞において、24日現代儒林の偉大なる先人として尊敬を受けている心山 金昌淑(1879 - 1962)先生の墓地に行って「禮」を捧げる。


 心山賞 受賞を知らせる告由祭で進行する今回の行事で、金枢機卿は祭主である金時業 心山思想研究旧会長に続いて墓地で焼香し酒を捧げた後、「禮」を捧げることになった。・・・


 金枢機卿の秘書である金ユスティナ修道女は、これに対して「天主教の典礼方式と食い違うことがない」と言った。


 金枢機卿はこれに先立つ22日ソンキュン館に宛てた受賞演説文を通して「私は天主教の聖職者ではあるが、韓国人であるので、私の体の中もどこかに儒教の血が流れていると言っても過言ではない」と言った。


 枢機卿は「18世紀末葉、李スンフン、鄭ヤクヨンなど新進儒学者などが、儒教思想と天主教を調和させようとした補儒論は、世界天主教史に類例がない進取的な姿勢」であると高く評価しながら、天主教会の祭祀禁令(1939年になると撤回)に対して「朝鮮国民全ての階層の瞳を突き刺すこと」であるとフランスのダレ(Dallet)神父の表現を引用し、遺憾なことであると表現した。


 金枢機卿は「先祖祭祀は迷信ではなく、父母の死後に孝を実践し続けるためのもの」と規定しながら、「儒教が父母に対する孝を通して天に対する大孝で上げられる上向式であるなら、キリスト教は父なる神様にたいして大孝を材料に、父母に孝をしようとする下向式であるという差異があるだけ」と言った。金枢機卿はまた「儒教の仁の思想、仏教の大慈大悲の思想、キリスト教の愛の精神で、生命の文化を回復させよう」と力説した。


 心山賞は、ソンキュン館大設立者で、抗日独立闘争と反独裁統一運動の先駆けとなった、金チャンスク先生の偉大な志を讃えるために、86年に制定された賞だ。




 上の写真は東亜日報2000年5月25日号より
(儒教の礼拝をしている金壽煥枢機卿)



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(’’)? 儒教の礼拝が許されるのに、何故、聖伝のミサは禁止されているのかな? ミサ聖祭こそ「天主教の典礼方式と食い違うことがない」はずなのに?

 


 枢機卿様、御言葉ですが先祖祭祀は迷信です。何故なら、天主御父の心に適う犠牲であり祭祀は、ただ一つしかないからです。それは、儒教式祭祀ではなく、私たちの主イエズス・キリストが十字架で捧げた犠牲であり祭祀です。何故なら、ミサ聖祭は、天主の光栄と、生ける人と死せる人々の霊魂の利益ために捧げられ、煉獄にいる霊魂たちを天国へと解放することが出来るからです。死せる父母の霊魂にとって、墓前に捧げられた大量の食事は全く役に立たず、何の益もないからです。


 枢機卿様、儒教の仁の思想も、仏教の大慈大悲の思想も、キリスト教の愛の精神も全く次元も内容も異なるものです。枢機卿様の言い方は、ただ混乱を与えるだけの言葉遊びです。


 孔子は「天」についていささかも明解な答えを与えていません。そのため、李朝時代に強要された「孝」の実践とは次のようなものでした。例えば


「平安道監司の李元翼が報告します。
 泰川居住の科挙未合格者の金麟祥は、誠孝(孝行の精誠)が天にぬきんでています。母親が生前病気の時に、キジが食べたいと思うと、キジが自然に部屋に入ってきました。母の死後、喪に服して、骨が砕けるほど哀しみ、墓を守って三年、昼夜号泣しました。
 保人の李夢龍は、その父の病を治そうと、香をたき、どうか自分を身代わりにしてくれよ、と祈りました。父の糞を嘗め吉凶をしらべました。
 両名の孝行もやはり故人に恥じません。・・・」(「宣祖実録」巻四七)
(「朝鮮民族を読み解く」101-102ページより孫引き)



 こうして李朝は、「宗族」という血縁集団しか自らを守るもののない世界を人為的に作っていったのです。だから今でも韓国では、宗族利己主義、地域分裂主義に陥っているではないですか。韓国は世界でも希な単一民族の国でありながら、儒教のせいで、その内実はバラバラの宗族の集合体でしかすぎなくなっているのです。だから韓国では汚職が蔓延しているではないですか。


 だから朴正煕は「我々は李朝史を、四色党争、事大主義、両班の安逸な無事主義的生活態度によって後代の子孫に悪影響を及ぼした民族的罪悪史であったと考える。時に今日のわれわれの生活が辛く困難に満ちているのは、さながら李朝史の悪遺産そのものである。」(「朝鮮民族を読み解く」より孫引き)と言ったのではないですか。



 儒教の束縛から解放されることによって韓国の人々は、死者のために大御馳走を準備するという、甚大な金と労力の労使から解放されるではないですか。食べ物は生きている人のためではないですか。死者の霊魂の永遠の安息のためには、ミサ聖祭があるではないですか? 何故それを教えないのですか? 




(ー_ー )主よ、憐れみ給え! 聖母マリア様、憐れみ給え!



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【韓国の儒教のことを知らないと、何のことかよくわからないかもしれないので、説明を付け加えたい。】


【一言メモ】 祭祀とは?


 韓国語では「祭祀」というと Sacrificium という意味である。これは韓国語の伝統的な天主教用語が中国語の影響を受けていることから由来している。(中国語では sacrificium の訳語として「祭祀」或いは「祭献」という。)


 尹 亭重 神父著の『詳解 天主教 要理』(上)京郷雑誌社1960年発行(168ページ)によれば、次のようにある。

===以下引用開始==


 キリストにおかれては十字架上で血を流して亡くなることは、司祭として天主に祭祀を捧げたことだ。では、祭祀とは何なのか?

 祭祀は、合法的祭官が、唯一天主に感覚物を奉献し消滅することにより、その至尊無對であられる権能を承服する心情を表現する公式敬神行為である。

「合法的祭官」=祭祀は、元来、公式的敬神行為であり、故に公衆の代表が捧げるもので、これを祭官あるいは司祭と言い、この祭官は誰であれ私的に出しゃばってその職に就くことは出来ないのである。聖パウロのヘブライ人への手紙5:1。

「感覚物」=祭祀は公式行為であるために、他人が見ることの出来ない内的心情だけではダメであり、この心情を表現する感覚出来るような物件がなければならない。旧約時代にこの感覚物は穀物や、羊、牛のような動物であった。これを「犠牲」と言った(創世記4:3-4など)。この中で、メルキセデクはパンとブドウ酒を祭献した事実は、有名だ(創世記14:18)。

「奉献し消滅すること」=感覚物の奉献と消滅に祭祀の本質がある。ところで、奉献だけでは祭祀が成立せず、必ず消滅がなければならない。液体ならばこぼし流され、火に焼かれるようなものであれば燃やされ、動物であればされなければならない。これにより天主におかれてのみ持っておられる生死に関する大権を承服することにもなり、罪深い私たちは当然ならば死ななければならない命ではあるが、そうすることは出来ず、代わりに犠牲を殺してしまうのだ。

 このような犠牲物の一部分を、祭祀に参与していた人たちが、その場で受けて食べた。天主に祭献され聖化された祭物を食べることにより、或る程度、天主と相通することになり、天主の神聖さに参与することにより天主と親しくなるという意味だ。これは祭祀の本質ではないが、祭祀を完全にさせる(構成部分ではなく)完成部分だ。

「唯一天主に」=このような祭祀は、1、天主を欽崇(=礼拝)するために、2、罪の赦しを祈り、3、受けた恩恵を感謝し、4、必要な恩恵をこいねがうために、天主にのみ捧げていたのだ。・・・

 キリストは祭官であると同時にまた祭物であり、十字架上でこの祭物を天主に祭祀されたのだ。祭物(=Oblatio)、犠牲(=Hostia)、祭殺(=Immolatus)などは、祭祀の専門用語だ。


===以下引用終わり==


 同 神父著の『詳解 天主教 要理』(下)京郷雑誌社1960年発行(272ページ)によれば、次のようにある。


===以下引用開始==


「祭祀」= 祭祀は、合法的祭官が、唯一天主に感覚物を奉献し消滅することにより、その至尊無對であられる権能を承服する心情を表現する公式敬神行為である。・・・

 祭祀は、天主恭敬の最高儀式ゆえに、人類と共に久遠なる歴史を持っていたし、人類と共に普遍的である。即ち、どの民族であっても祭祀を持っていた。祭祀は、元来、天主のみに捧げるものではあるが、未開の非キリスト教的社会においては、道を誤り、亡霊だとか種々の神々に祭祀を捧げた。北京には天壇がある。天子が民衆のために天に祭祀を捧げていたところである。韓国でも、干ばつが起こったりすると、ブタや犬を捕まえて山に登り祭祀を捧げる風習がまだ残っている。以前にはオーストラリアのある原始民族は、実際に人間を殺して鬼神に祭祀を捧げていた。韓国の『沈清伝』が実話では勿論ないけれど、船員たちが沈清という人を海に投げて殺そうとすることも、沈清という人を犠牲にして鬼神に祭祀を捧げるのだ。

 旧約を見ると、アベルは子羊を捕まえて天主に祭祀を捧げたし、ノエは野獣と鳥を祭祀に捧げ、メルキセデクはパンとブドウ酒で祭祀を捧げた。

===以下引用終わり==

 


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ローマの教会で献茶式がミサの一部としてささげられる

2006年05月25日 | エキュメニズム関連情報

アヴェ・マリア!

エキュメニズム情報

ローマで千玄室さんが献茶 欧州普及半世紀を記念

http://flash24.kyodo.co.jp/?MID=RANDOM&PG=STORY&NGID=home&NWID=2006052301004480

 【ローマ23日共同】茶道裏千家が欧州でのお茶の普及を始めて半世紀になるのを記念し、前家元の千玄室さん(83)がローマの聖アンセルモ教会で23日、献茶式を行った。

 献茶式は茶を神仏にささげて平和を祈る儀式で、この日はミサの一部として行われた。欧米各地から集まった約500人が息を潜めて見守る中、玄室さんはおわん2つに茶をたて祭壇に供えた。

 パリで茶を習っているという女性ボリアネ・クリスチャーナさんは「茶とカトリックは精神面で似ているところがあり、今日の体験は最高だった」と感激していた。

 昨年、国連親善大使に選ばれた玄室さんは、過去62カ国を歴訪し宗教施設などで献茶式を行い、茶を通じて平和を訴え続けている。25日には、ローマ大学から名誉学位を授与される予定。

 

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(’’)? ローマの教会で献茶式がミサの一部として許されるのに、何故、聖伝のミサは禁止されているのかな?


(ー_ー )主よ、憐れみ給え! 聖母マリア様、憐れみ給え!


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韓国カトリック教会では何が起こっているのか?儒教編その1

2006年05月08日 | エキュメニズム関連情報

アヴェ・マリア!

今、韓国カトリック教会では何が起こっているのか?

「慶州文化エキスポで "茶禮ミサ" 奉献」
(カトリック新聞1998年9月20日付けの記事より 拙訳)



一〇月一三日午後二時 オリュンデ殉教福者修道女会

 全世界四〇余カ国の有形無形文化を一つの場で見ることが出来る、98年慶州文化エキスポで、カトリック典礼と茶文化が接ぎ木された茶禮ミサが奉献される。

 韓国殉教福者修道女会のオリュンデ分院に属している韓国カトリック文化研究所傘下の「聖母茶山茶会」は、慶州文化エキスポの期間中である一〇月一三日午後二時に茶禮ミサを奉献、文化エキスポを訪れる国内外人たちに韓国カトリックを紹介する機会を持つ。この日のミサは、サムルノリ(注:銅鑼(ドラ)や鉦(ショウ)や鼓(ツツミ)や太鼓(タイコ)の四種の打楽器でけたたましい音響の中にいろいろなリズムを交錯させる韓国民族音楽)、みことばの典礼、聖体典礼、奉献、終わりの儀式、鶴の舞い、サムルノリの順で進行され聖母茶山茶会の指導司祭であるキム・ジョンピル神父(オリュンデ聖ベネディクト瞑想の家 院長)を始めとした司祭団で共同司式がなされる。

 来る一〇月の慶州エキスポ場で奉献される茶禮ミサは、国内に土着化したカトリック典礼の一典型として、ここを訪れる国民、外国人たちに東洋文化と密接した関係がある茶文化と接ぎ木された韓国カトリックの真価を見せてくれることができるだろうと期待を集めている。
・・・(以下略)


+++++++++
(’’)?  全世界四〇余カ国の有形無形文化を一つの場で見ることが出来る慶州文化エキスポで、二〇〇〇年のカトリック聖伝の典礼が開かれても良かったんじゃないかな?


(’’)? 最近発明された茶禮ミサはうまくいくかわからない実験だから良いんだよ。カトリック教会がずっとやり続けていた聖伝は実験が禁止されているようだね? 実験すると成功しちゃうからかな?


(ー_ー )主よ、憐れみ給え! 天主の御母聖マリアよ、憐れみ給え!


【韓国の儒教のことを知らないと、何のことかよくわからないかもしれないので、説明を付け加えたい。】




(’’)?  茶禮って何? 

【一言メモ】 茶禮とは。

 韓国において、儒教の「祭祀」と言われるものがある。

 儒教の年中行事として、正月(旧正月)や秋夕(中秋、旧暦8月15日)には、祖先祭祀(チェサ)を行う。これを茶禮(チャレ)という。

 お正月の祭祀は、茶礼(チャレ)と墓参りである。正月朝早くに、歳饌(朝作られた料理)と歳酒(未開封のお酒)トックを用意して祠堂に並べ祭祀を行うことを‘茶禮’と言う。

 茶禮は子孫たちが皆、一族の長の家に集まり進行される。茶禮が終われば大人に新年の挨拶をしその後、墓参りをする。墓参りは先祖の墓を尋ねて簡単な歳饌と歳酒を供えて辞儀をする。

 秋夕(チュソッ)にも、各地に散らばった家族はすべて故郷に集まり、一族全員が祭祀を執り行い、先祖のお墓参りをする。

http://www.seoultabi.com/content/basic.html?m_idx=2&s_idx=5&b_idx=39

 本来は、先祖に茶を供えたらしいのだが、儒教式の供物に置き換えられ、いわゆる「お茶」は用いられていない。

 韓国では、「緑茶」以外のものも「茶」と呼ばれているからだ。例えば、高麗人参を刻んでゆっくり煎じ濾した汁を「人参茶」といい、
ナツメを煎じた汁を「ナツメ茶」、クコの葉あるいは実を煎じたものを「クコ茶」、五味子(ゴミシ)を沸かさずに水に一日位つけてこした汁を「五味子茶」、柚子のシロップ漬け少々に熱い湯を注いだものを「ゆず茶」というが、日本語でいう「お茶」とは全く関係ないものだ。これらを「薬用伝統茶」という。

http://www.wattakatta.com/culture/custom/04-03.html




 韓国では高麗時代までは、いわゆる「茶葉」が仏教寺院だけではなく宮中における「進茶儀禮」にも欠かせないものであったが、李朝時代以降、仏教が次第に抑圧されるに従い、喫茶の風習は衰退した。
 また茶の国内への供給量がごく限られたものであることから、茶葉を用いた喫茶の習慣は上流階級や一部の寺院のみであった。このため朝鮮半島で「茶」と言う場合は、中国・日本などで言われる「茶」ではなく、木の根などを煎じた薬湯や、果実を湯に浸した物(柚子茶)等を指す場合が多い(韓国伝統茶)。また茶の代用として炒米に湯を注ぐ「こがし」も、日本同様に行われていた。


【ウィキペディアでは現在のところ「茶禮」(タレ)と読ませているがこれは「チャレ」と読むべきである。明らかな間違い。】

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8C%B6%E9%81%93

 



(’’)?  祭祀って何? 

【一言メモ】 祭祀とは。

 祭祀(さいし)これを韓国語では「チェサ」と発音する。

 韓国語の祭祀とは、日本語のニュアンスでは「神々に捧げる犠牲」という意味である。

 例えば尹 亭重 神父著の『詳解 天主教 要理』(上)京郷雑誌社1960年発行(168ページ)によれば、次のようにある。


===以下引用開始==


 キリストにおかれては十字架上で血を流して亡くなることは、司祭として天主に祭祀を捧げたことだ。では、祭祀とは何なのか?

 祭祀は、合法的祭官が、唯一天主に感覚物を奉献し消滅することにより、その至尊無對であられる権能を承服する心情を表現する公式敬神行為である。


「合法的祭官」=祭祀は、元来、公式的敬神行為であり、故に公衆の代表が捧げるもので、これを祭官あるいは司祭と言い、この祭官は誰であれ私的に出しゃばってその職に就くことは出来ないのである。聖パウロのヘブライ人への手紙5:1。


「感覚物」=祭祀は公式行為であるために、他人が見ることの出来ない内的心情だけではダメであり、この心情を表現する感覚出来るような物件がなければならない。旧約時代にこの感覚物は穀物や、羊、牛のような動物であった。これを「犠牲」と言った(創世記4:3-4など)。この中で、メルキセデクはパンとブドウ酒を祭献した事実は、有名だ(創世記14:18)。


「奉献し消滅すること」=感覚物の奉献と消滅に祭祀の本質がある。ところで、奉献だけでは祭祀が成立せず、必ず消滅がなければならない。液体ならばこぼし流され、火に焼かれるようなものであれば燃やされ、動物であればされなければならない。これにより天主におかれてのみ持っておられる生死に関する大権を承服することにもなり、罪深い私たちは当然ならば死ななければならない命ではあるが、そうすることは出来ず、代わりに犠牲を殺してしまうのだ。


 このような犠牲物の一部分を、祭祀に参与していた人たちが、その場で受けて食べた。天主に祭献され聖化された祭物を食べることにより、或る程度、天主と相通することになり、天主の神聖さに参与することにより天主と親しくなるという意味だ。これは祭祀の本質ではないが、祭祀を完全にさせる(構成部分ではなく)完成部分だ。


「唯一天主に」=このような祭祀は、1、天主を欽崇(=礼拝)するために、2、罪の赦しを祈り、3、受けた恩恵を感謝し、4、必要な恩恵をこいねがうために、天主にのみ捧げていたのだ。・・・


 キリストは祭官であると同時にまた祭物であり、十字架上でこの祭物を天主に祭祀されたのだ。祭物(=Oblatio)、犠牲(=Hostia)、祭殺(=Immolatus)などは、祭祀の専門用語だ。


===以下引用終わり==

 


 さらに、同 神父著の『詳解 天主教 要理』(下)京郷雑誌社1960年発行(272ページ)によれば、次のようにある。


===以下引用開始==


「祭祀」= 祭祀は、合法的祭官が、唯一天主に感覚物を奉献し消滅することにより、その至尊無對であられる権能を承服する心情を表現する公式敬神行為である。・・・


 祭祀は、天主恭敬の最高儀式ゆえに、人類と共に久遠なる歴史を持っていたし、人類と共に普遍的である。即ち、どの民族であっても祭祀を持っていた。祭祀は、元来、天主のみに捧げるものではあるが、未開の非キリスト教的社会においては、道を誤り、亡霊だとか種々の神々に祭祀を捧げた。北京には天壇がある。天子が民衆のために天に祭祀を捧げていたところである。韓国でも、干ばつが起こったりすると、ブタや犬を捕まえて山に登り祭祀を捧げる風習がまだ残っている。以前にはオーストラリアのある原始民族は、実際に人間を殺して鬼神に祭祀を捧げていた。韓国の『沈清伝』が実話では勿論ないけれど、船員たちが沈清という人を海に投げて殺そうとすることも、沈清という人を犠牲にして鬼神に祭祀を捧げるのだ。


 旧約を見ると、アベルは子羊を捕まえて天主に祭祀を捧げたし、ノエは野獣と鳥を祭祀に捧げ、メルキセデクはパンとブドウ酒で祭祀を捧げた。


===以下引用終わり==



 つまり、韓国語では「祭祀」というと Sacrificium という意味である。これは韓国語の伝統的な天主教用語が中国語の影響を受けていることから由来している。(中国語では sacrificium の訳語として「祭祀」或いは「祭献」という。)



「慶州文化エキスポで "茶禮ミサ" 奉献」の記事では、ミサを「犠牲」(聖伝による概念)としてではなく「会食」(新しいミサの概念)としてとらえているので、「祭祀」ではなく「茶禮」となっている点も興味深い。

 

(’’)?  韓国儒教の祭祀って?



【一言メモ】 人間の死後について四種類の態度を取る可能性があると思われる。
(1)天国あるいは地獄という別の場所に行く。(キリスト教など)
(2)生まれ変わって、この世に戻ってくる。(仏教などの輪廻転生説)
(3)死後も魂はそのままこの世に居残る。(儒教)
(4)死んだら何も残らない。全て無くなる。(唯物論)


 儒家の朱子は、死者の魂が全部居残るとこの世が霊魂でいっぱいになってしまって困るので、時間が経てば雲散霧消するとしたが、消えてしまえば祭る意味が無くなってしまうので、子孫がいればそれに感応して散ったものもまた集まる、とした。しかし何代目あたりで消えてしまうのかがわからず、朝鮮の儒者らは一七世紀頃まで論争をしていたが、一八世紀になると、四代まで祭ることで定着を見た。


 祖先の霊魂がこの世に留まるので、子孫は祭壇をもうけて、食べ物を捧げ、祖先が飢えて餓鬼にならないようにし続ける、これが儒教の祭祀の根本理念となった。祭祀の時には祭壇に山海の珍味を山と積み上げる。「生きて仕えること生に仕える如く、亡に仕えること存に仕えるごときは、孝の至りなり」(『中庸』)とあるように、子孫は祖先の霊に給仕する。つまり、儒教とは死者と共にこの世に暮らす宗教である。


 儒教では四代祖までその命日の夜中に祭る(忌祭祀、年間合計八回の法事)。元旦や秋夕の朝に本家に全員が集合して祭祀する(節祀)。陰暦の十月に子孫全員が墓参りをする。冬至より一〇五日後にご飯を墓に供える(寒食)。こうして毎年祭祀だらけで、その度にお供え物に饗宴が浪費される。


 李氏朝鮮(1392-1910)では、一八世紀に四代祖血族が堂内(チバン)を核として、門中(ムンチュン、分派祖血族)や、宗族(チョンチン、同本同性血族)という血縁組織が成立した。そして宗族という血族集団しか自らを守るもののないとし、宗族を信じ礼拝する宗教を作り上げた。韓国は、世界でもまれな単一民族の国だけれど、その内実はバラバラの宗族の集合体だという相反した事実が作られた。



(’’)?  李氏朝鮮では? その前は何を信じていたの?


【一言メモ】 韓国の儒教は、李氏朝鮮(李朝)の為政者による儒教教化の人為の産物だった。日本でも檀家制度などで江戸時代には仏教が保護されて国教となっていたが、維新後新政府の元でこれからは氏子制度で神道が保護されるようになったように、李朝は、高麗(918-1392)が国教としていた仏教を棄て、朱子儒教をその宗教とした。


 李朝の成立と共に儒者らは、高麗の伝統的な埋葬の風習を断固として処罰し、辺境に流配した。火葬者は百叩き、迷信故にすぐに埋葬しないものは斬り殺しを受け、シャーマンや僧侶は弾圧され、ソウルから駆逐され山野を彷徨した(いまでも韓国では仏寺は山の中にのみある)。十九世紀末に至るまで、朝鮮では僧侶は選民扱いでソウルにはいることは許されなかった。李朝の王と儒臣たちの儒教教化は、死者のために現実の生を捧げる誠意をひたすらに試した。


【参考資料:古田博司『朝鮮民族を読み解く』ちくま新書1995年】

 

(’’)?  儒教は、天主教に対してはどうしたの?


【一言メモ】 儒教は、今から約250年前に中国経由で入ってきた天主教にたいして迫害で及んだ。とくに天主信者が「祭祀」と呼ばれる先祖の霊に対する礼拝を拒んだからだ。そして韓国の多くのカトリック信徒は、これを拒んで殉教していった。


「その祭祀というのは虚しく無益なことです。真理に従うためには、虚しいこと無益なことを捨てなければならないということは明白な事です。眠った親に食べ物を調えて差し上げて眠りに入ったままそれを召し上がりなさいと言ったら、それは愚かな事ではないですか。だから親が亡くなった後に食べ物を召し上がるなどと思っているなら、それはもっと愚かではないですか? 霊魂はそれが行くところに行き、肉体は力無いしかばねに過ぎなくなるのです。 霊魂は霊体(神霊体)のため物質的な食べ物を食べて生きているのではありません。また天主の戒律は素晴らしいものであり, それを守れば功徳になります。国王のために自分の生命を捧げる人を逆賊だとは言わないでしょう。まして天地と天主なる人と万物を主宰し給い、王の中の王であり、全人類の普遍な父親であり、雨と露を思いのままに降らせ給い、一番微弱な草木から大木までも皆育つようになさるお方です。その恩を被らないものは存在しないのであり、天主を裏切るよりはかえって自分命をかけるという人を、いったい何故逆賊だと罵るのですか?」

(韓国の百三位聖殉教者の一人、イ・ホヨン・ペトロ(1838年11月25日殉教)が、儒教式の祭祀を捧げないので逆賊だと刑吏から言われて答えた言葉)



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今、韓国カトリック教会では何が起こっているのか?(仏教編 その六)

2006年05月05日 | エキュメニズム関連情報

アヴェ・マリア!

今、韓国カトリック教会では何が起こっているのか?

エキュメニズム関連 韓国情報(仏教編 その六)


韓国カトリック指導者らは、ブッダの誕生日に挨拶を送る


 ソウル(韓国)、ソウル大司教区のチョン・ジンソク・ニコラオ枢機卿は、ブッダの誕生日を記念して韓国の全ての仏教徒らにメッセージを発した。
http://www.buddhism.or.kr/news/speech/_board_view.asp?article_id=4414&page=11&search_key=&search_value=
http://www.buddhism.or.kr/news/order/_board_view.asp?article_id=659&page=1&search_key=&search_value=



 4月26日のそのメッセージにおいて枢機卿はこう言った。
「私は、この春、全てが新しくなる時、ブッダの誕生日を記念して全ての仏教徒の皆さんに祝賀を申し上げます。」今年は5月5日がその日に当たる。


 枢機卿は、今日、憎しみ、敵対、そして多くの種類の差別が世界中に幅をきかしていることを指摘し「そのために、私たちはブッダの教えがもっともっと必要です。私たちはブッダの慈悲にならい、愛を実践することによって多くの問題を解決することが出来る、これこそ全ての宗教の基本的な教えだ、と信じています。」と言った。


 枢機卿は、教皇ベネディクト十六世が、この多元主義の時代において諸宗教の対話と調和が必要であることを強調したと述べ、諸信仰の対話を活発にすることにより、平和な社会をつくることを助けたいという意向を持っていることを表明した。


 4月25日、韓国カトリック司教評議会は、例年のバチカンからのブッダ誕生日のメッセージを韓国語に訳して、曹渓宗に送った。曹渓宗は韓国語でもっとも大きな韓国仏教の一派である。このバチカン・メッセージ「共に人類に奉仕する仏教徒とカトリック信者」というタイトルで、教皇庁 諸宗教対話評議会 議長 マイケル・フィッツジェラルド大司教が、2月にエジプトとアラブ諸国の教皇大使として任命される前に、署名したものである。


 曹渓宗は、チョン枢機卿のメッセージと共に、このバチカン・メッセージの韓国語訳を自分のホームページ
http://www.buddhism.or.kr/news/order/_board_view.asp?article_id=657&page=2&search_key=&search_value=
に掲載している。

【以下は、日本語訳
 万物が新しい生命で生まれる春に仏様が来られた日を迎えたすべての仏者の皆さんに祝いのあいさつをします。

 仏様は無限な善意と自卑心を施しました。しかし私たちが住む世の中には今も絶え間ない紛争、憎悪と対立、多様な種類の差別が存在しています。 したがって今日私たちに仏様の教えることはより一層必要です。私たち皆が、仏様の慈悲にならい、すべての宗教の根本教えである愛を実践する時このような問題を解決することができるでしょう。 いつも自分の主張だけ打齣すのではなくお互いにお互いを尊重して気配りしながら持ったことを一緒に分ける時、私たちの住む世の中はまことに平和な世の中になるでしょう。

 教皇ベネディクト十六世は多元化時代の宗教間和合と対話を強調しました。 我が国もより一層活発な宗教間対話を通じて平和な社会を建設し、皆が人類の共同善の増進に寄与することができるのを希望します。

 もう一度仏様来られた日の喜びを一緒に分かち合って、私の枢機卿任命を祝ってくださった仏者の皆さんにこの機会を祈って感謝のあいさつをします。

仏紀 2550年仏様のいらっしゃった日
カトリックソウル大司教区
教区長ジョン・ジンソック枢機卿】


【バチカン・メッセージの日本語訳は、http://www.jbf.ne.jp/
にある。「灌仏会」お祝いメッセージ カトリック中央協議会より 2006/04/12 
 
「共に人類に奉仕する仏教徒とカトリック信者」

親愛なる仏教徒の皆さま

  1.灌仏会を迎える仏教徒の皆さま、また世界中の仏教共同体の皆さまに、教皇庁諸宗教対話評議会を代表して、私は心からのお祝いを申し上げます。皆さまが、喜びに満ちたお祝いの時を過ごされますよう願っております。

  2.今年も、この機会を拝借し、私たち双方の共同体の絆をいっそう強められるよう、いくつかの考えを皆さまと共に分かち合いたく存じます。今回は、教皇ベネディクト十六世が、世界中のカトリック信者に向けて発布した最初の回勅に基づいて考えてみたいと思います。それは、『神は愛』という書簡で、ラテン語では、『デウス・カリタス・エスト』という題がつけられており、愛の性質に関する考察です。教皇さまは、「愛」という言葉、頻繁に使われながら、多くの場合誤って解釈されているこの言葉が、再び本来の正しい意味合いを見いだし、日々の生活を導くものとなるべきことを確信しておられます。

  3.べネデイクト教皇は、二つのタイブの愛について語っておられます。一つ目は、「エロース(性愛)」、すなわち男性と女性の間の愛で、自分自身の幸せを求める愛です。二つ目は、「アガペー(愛徳)」で、相手のためになることを求める愛で、相手がそれを気に入らなかったり、それについて知らないという場合もあり得ます。カトリック信者にとって、この二つ日の愛は、神への愛、すなわち神が人間に対して示された愛に私たちが応えることにより初めて可能になります。このように神への愛と、同胞である人々への愛は、切り離すことができないもので、ただ一つの掟を形成します。「愛は愛によって成長します。愛は“神聖なもの”です。なぜなら愛は神から来るもの、私たちを神と一つに結ぶものだからです」(『神は愛』18)

  4.私たちカトリック信者は、「アガペー(愛徳)」の完全な現れは、生涯を通じ、言葉とわざもって神の愛のよきおとずれを説かれた神の子、イエス・キリストのうちにあるということを信じています。この愛は、イエスが全人類のために自らの命をお与えになったとき最高の形で示されました。また、とくにご聖体という形でご自分をお与えになったイエスは、いっそう「アガペー(愛徳)」の源であるといえます。カトリック信者は、この源から汲み取り、兄弟柿妹、とくに貧しい人、苦しんでいる人々に愛を示しながらイエスの足跡に従おうとしています。

  5.仏教徒の皆さまは、「メッタ(慈)」という概念の内に示されている愛を人々に与えておられますが、私たちはその大切さを皆さまとの対話を通して知ることができました。その愛は、所有欲のない、人々を助けようとする愛です。それは、人類の善のために、利己的な関心を犠牲にする覚悟をもった愛であると考えられています。仏教の教えによれば、「メッタ(慈)」は、単に善意を抱くというだけでなく、ひとりひとり、全ての人に仕えるために、慈善のわざを実践するところまで及びます。それは、真に普遍的な善意です。もう一つ忘れてならない功徳は、「カル- ナ(悲)」です。これを通して、生きとし生けるものに対する優しい慈悲が示されます。

  6.世間では、愛という言葉がよく使われ、また乱用されていますが、仏教徒とカトリック信者が、それぞれ自らの伝統を出発点として、この言葉の本来の意味を再発見し、それぞれ自らが理解したことを分かち合うならば、それこそ有益なことではないでしょうか。愛と真理に基づく関係を築き、相互の尊重を深めながら、対話と協力を促進させ、必要を抱えている人々のために奉仕し、一緒に働いていくことは、仏教とキリスト教、いずれの伝統に従う者にとっても励ましとなることではないでしょうか。

  7.これらのことを思い巡らしながら、私は最後に、この灌仏会のお祝いが、仏教徒とカトリック信者の友好をいっそう強め、「アガペー(愛徳)」と「メッタ(慈)」の精神のうちに、私たちの協力関係をますます深めてくれる時となるように願います。このような精神をもって、わたくしはあらためて皆さまに心から灌仏会のお喜びを申し上げます。

2006年2月14日
教皇庁 諸宗教対話評議会
議長 マイケル・フィッツジェラルド大司教

http://www.jbf.ne.jp/php.module/index.php?mode=detail&ct=jbf&id=377


 法頂僧侶は4月25日にブッダ誕生日のメッセージを発した。
「苦しみのうちに判別の鋭い目を開ける人々は、仏を見るだろう。愛のうちに贖いに気が付いている人々は、イエズスを見るだろう。」

 法頂僧侶は、人々が日々出会う全ての人々において生きている仏を見るように、と促した。彼によれば、サマンタバドラ・ボディサットヴァ(良く悟りを開いているもののもつみなぎる良さ)とマイトレーヤ(慈悲仏)はどこにでもある。

「"全てが仏である" という真理の中で、現実の本質は明らかにされ、私たち全ての前で無限の光が照らされる」と説明した。


Catholic leaders send greetings for Buddha's birth - Catholic Online
http://www.catholic.org/international/international_story.php?id=19634
より。

 

+++++++++
(’’)? 憎しみ、敵対、そして多くの種類の差別が世界中にある。「そのために、私たちはブッダの教えがもっともっと必要です。私たちはブッダの慈悲にならい、愛を実践することによって多くの問題を解決することが出来る、これこそ全ての宗教の基本的な教えだ」??


(’’)枢機卿様、お言葉ですが、キリスト教の「愛徳」と仏教の「慈悲」とは全く異なる概念です!

 (1)まず、キリスト教の愛徳は、全ての創造主、全ての善の源、全ての被造物の究極目的である天主への愛に基づいている。

「愛の源なる天主、主は限りなく愛すべき御者にましますが故に、われ、心を尽くし力を尽くして、深く主を愛し奉る。また主を愛するがために、人をもわが身の如く愛せんことを努め奉る。」

 この天主への愛は超自然のもので、全てを超えて、私自身さえも超える、限りのないものだ。

 私たちは被造物として天主の御旨を知り、これを愛を込めて話す義務を負う。それゆえ天主の十戒を遵守するのだ。
 また天主の御旨は「生めよ、増えよ、地に満ちよ。地の諸々の獣畜、天空の鳥、地に這う物、海の魚、おまえ達を恐れ、おまえ達におののく。これらはおまえらの手に与えられる。全ての生ける動物はおまえ達の食となるべし。」である。

 禽獣虫魚は人間とは全く異なる。人間は天主に似せて創られたが、他の動物たちには知性も意志もなく、永遠の霊魂を持たない。動物たちは、間接的に人間に使役されて創造の目的を達成する。そのために人間の善のために、食物となり、学術研究のために用いられることができる。こうして人間は万物の霊長となる。


(2)仏教の慈悲は、輪廻転生思想から由来している。この世で人間として生まれても、悪行の報いによって来世はその霊魂は地獄に廻ったり、畜生に廻ったり、するという説だ。

 だから行基菩薩の歌にも「ほろほろと、鳴く山鳩の声聞けば、父かとぞ思う、母かとぞ思う」とある。つまり、あわれ私のお父さん、お母さんが鳩に生まれ変わって鳴いているのかもしれない、と思っているのだ。だから、その山鳩を捕らえて殺すなら、自分の親を殺すかもしれない、家のニワトリは自分の祖父かもしれない、これを食べるのも祖父を食うも同然だ、だから仏教では殺生も肉食も出来なくなる。

 徳川第五代将軍の綱吉は、「生類憐れみの令」を発し、特に自分は戌年生まれなので犬を殺したものは斬罪に処した。イノシシ、狼、狐、狸が人民に害をなすようになり、人民を苦しめた。

 良く考えると仏教の絶対的不殺生は誰にも守ることは出来ない。何故なら、私たちの吸っている空気の中にも、飲む水の中にも、無数の微生物が生きており、もしかしたら彼らは私たちの親かもしれないからだ! 

 もしも人間と他の動物たちが同種類、同性質、同水準のものであり、多少の程度の問題でしかないとしたら、人間が他の動物を食用にすることが出来なくなる。この原理を受け入れた後に、未開の原始人が猿を食べるのを是認するなら、文明人が未開の野蛮人を食用にすることさえも是認しなければならなくなる。

 全ての人種が同等と主張するなら、一切の動物に、蚊にも蛇にも蚤にもシラミにも細菌にも先進諸国と同等の権利を与えなければならなくなる。この世は猛獣の天下となり、人間はその餌となるだろう。

 

(’’)? 「苦しみのうちに判別の鋭い目を開ける人々は、仏を見るだろう。愛のうちに贖いに気が付いている人々は、イエズスを見るだろう。」「"全てが仏である" という真理の中で、現実の本質は明らかにされ、私たち全ての前で無限の光が照らされる」??

 ほら、枢機卿様が「愛」も「慈悲」も同じだ、全ての宗教の根本だ、と曖昧なことを言うから、僧侶も同じことを言い始めている。つまりキリスト教も仏教も所詮は同じさ、と。


(’’)? 「共に人類に奉仕する仏教徒とカトリック信者」?

「愛の源なる天主、主は限りなく愛すべき御者にましますが故に、われ、心を尽くし力を尽くして、深く主を愛し奉る。また主を愛するがために、人をもわが身の如く愛せんことを努め奉る。」これが、キリスト教の愛だ。人間は、まず、天主に奉仕しなければならない。そうすることによって霊魂を救わなければならない。

 しかし、教皇庁の諸宗教対話評議会議長の大司教は、天主にではなく人類に(!)奉仕すると言っている。

 教皇ベネディクト十六世の回勅『デウス・カリタス・エスト』。教皇さまは「愛」という言葉が頻繁に使われながら、多くの場合誤って解釈されているというが、正に、自分でそう言っている先から誤った解釈へと導いているのではないだろうか?


(’’)? 残念ながら、これらのエキュメニズム運動は、私たちをして、天主のいない、超自然を否定する、キリストの不在の「宗教」へと導いてしまっている。


(’’)? 私たちは教会で洗礼を受ける時、教会からこう尋ねられた。
教会   「あなたは天主の教会に何を求めますか?」
洗礼志願者「信仰を
教会   「信仰はあなたにに何を与えますか?」
洗礼志願者「永遠の命を


(’’)? こんどから新しい教会で洗礼を受ける時、こうなるかも?
教会   「あなたは現代の教会に何を求めますか?」
洗礼志願者「エキュメニズム運動を
教会   「エキュメニズム運動はあなたにに何を与えますか?」
洗礼志願者「他宗教と共に人類に奉仕することを

 

(ー_ー )主よ、憐れみ給え! 聖母マリア様、憐れみ給え!


 兄弟姉妹の皆様、この五月の聖母聖月の間は、天主の御母聖マリアによくお祈りをお願いします。特に韓国のカトリック教会のために、お祈り下さい。

 

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韓国カトリック教会では何が起こっているのか?

2006年04月28日 | エキュメニズム関連情報

アヴェ・マリア!

今、韓国カトリック教会では何が起こっているのか?

エキュメニズム関連 韓国情報(仏教編 その五)


天主の御母聖マリアも観音も名前は違うが中身は同じだ?

「聖母そっくりの観音像」
(カトリック新聞2000年5月5日付けの記事より 拙訳)



「チェ・ジョンテ会長、仏頂僧侶と因縁
吉祥寺へ観世音菩薩像を造成
"文化芸術を通した宗教交流を期待」

「カトリックと仏教の芸術の美しい出会い」

 宗教間の和合と一致が、話の始まりとなっている新しい千年期に篤実なカトリック信者、彫刻家が一寺院に仏教彫刻像を作っているという話題だ。

 韓国カトリック美術家協会チェ・ジョンテ(霊名ヨゼフ、六八歳、前ソウル大、美術大教授)会長は、仏頂僧侶がたてたソウル・ソンブク区の吉祥寺に、高さ一八〇センチの花崗岩で出来た観世音菩薩を制作している。この彫刻像は仏教の観音祭日である四月二四日に吉祥寺説法展を前に、慎ましい行事と共に奉献された。

 これと共に、彼は個人的に所蔵したいと思う現代造形美を備えた高さ一二〇センチの青銅観世音菩薩を別に完成させた。チェ会長は二つの彫刻像を作り、一つを仏頂僧侶に贈り物をした。

 この青銅の観世音菩薩像と出会った仏頂僧侶は、最近彼に親筆の手紙を送り感謝と満足感を表明しつつ、「大慈大悲の象徴である者、衆生の災難と苦痛を救済して下さる観世音菩薩は、天主教の聖母マリア様のような方」と伝えた。

 チェ会長のこの度の観音像制作は、事実四〇余年以前から準備してきた結実である。日本の奈良の法隆寺にある「百済半跏思惟像」が彼の彫刻芸術に決定的な影響を与えたためである。すなわち、信仰はカトリックであるが、長い間着目してきた韓国的な芸術の根は仏教の影響を受けたこと。このようなところに、昨年秋、小説家ジョン・チェボン氏の紹介で会った仏頂僧侶が、その場で観世音菩薩像の制作を依頼してことが為し遂げられた。

 チェ会長は「観世音は、必ず制作しなければならない課業として考えてきた」とし「この度の仕事を機会に、カトリックと仏教間に文化芸術を通した交流も活発に成し遂げられなければならない」と素朴な望みを述べた。

 一九五八年に洗礼を受けたチェ・ジョンテ会長はソウル・シャルトル聖パウロ修道女会の聖母マリア像など、韓国的聖母像を制作しながら西洋芸術と韓国教会の土着化に献身してきた。

+++++++++

「聖母マリアと観世音菩薩は、お母さんのような姿」
(カトリック新聞2000年5月7日付けの記事より 拙訳)



「チェ・ジョンテ会長が制作 観世音菩薩石像 吉祥寺で奉安式」

 カトリックと仏教の出会いが、ソウル都心の一寺院で行われた。
 韓国カトリック美術家教会チェ・ジョンテ会長(霊名ヨゼフ、前ソウル大教授)が制作した観世音菩薩石像(本紙三月五日に報道)は、ソウル・ソンブク区の吉祥寺に建てられ、四月二八日午前一〇時に奉安式を執り行った。

 この日の奉安式には吉祥寺の信徒五〇〇余名を始めソウル大司教区広報室長ジョン・ウンモ神父と修道者、カトリック信者たちも共に参列し、芸術を通して宗教間の和合と理解を謀る場が出来た。

・・・・(中略)・・・・

 この日、奉安式で吉祥寺の会主仏長僧侶は法語を通して「聖母マリアや観世音菩薩は、名前が違うが、大慈大悲で、衆生の災難と苦痛を救済して下さる同じ姿のお母さん」と言い「荒々しく厳しい最近のような世界には、聖母様や観世音菩薩のような母性的愛が切実に必要とされているので、私たちもこの石像を仰いでお母さんの愛を育てていこう」と強調した。

 

+++++++++
(’’)?  「聖母マリアや観世音菩薩は、名前が違うが、大慈大悲で、衆生の災難と苦痛を救済して下さる同じ姿のお母さん」??? いや、聖母マリア様は、天主の御母です。今でも天国で三位一体の御許で私たちのために取り次ぎをして祈ってくださっているお方、人となった天主のみ言葉も従順したもう天主の御母です。カトリック新聞であれば、そのことをコメントしても良さそうなのに。


(ー_ー )主よ、憐れみ給え! 天主の御母聖マリアよ、憐れみ給え! 人々は混乱しています。憐れみ給え! 悲しい。

 


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今、韓国カトリック教会では何が起こっているのか?

2006年04月27日 | エキュメニズム関連情報

アヴェ・マリア!

今、韓国カトリック教会では何が起こっているのか?

エキュメニズム関連 韓国情報(仏教編 その四)


仏教典礼がカトリック・カテドラルで執行される。

 ソウル大司教区によって運営されている平和放送によると、4月19日に明洞聖堂敷地内のホールで仏教徒らがヨンサンジェの儀式をした。報道によると、明洞聖堂敷地内で仏教儀式が行われるのは初めてのこと。これを企画したソン・スクホ・ミカエルは5月5日のウェサク祭に合わせて為されたとのことだ。

 ソウルのボンウォン寺の仏頂僧侶であったデウン僧侶は、この儀式が執行される時に、ヨンサンジェは仏教文化の本質を見せており「仏教儀式の華」と呼ばれている、と説明した。ボンウォン寺はこの国民的文化財を保存し伝えるために指定されている。

 チェ・ホヤン・ヨハネ神父は韓国カトリック大学の音楽教授であるが「韓国仏教は長い歴史を持ち、ヨンサンジェは仏教文化を保存している。仏教儀式を体験することにより、カトリックは仏教のみならず韓国文化をより多く理解することが出来る」と語った。

 明洞聖堂でこの儀式を執行したウンボン僧侶は、仏教文化をカトリックに見せることが出来て非常に嬉しい、この機会が出来たのも「カトリック教会の広い心のおかげだ」と言った。「これは一回限りのものであってはならない。この種の出来事が定期的に行われることを期待する。

http://www.catholic.org/international/international_story.php?id=19563

 

Buddhist ritual performed at Catholic cathedral compound
4/24/2006
UCANews (www.ucanews.com)

SEOUL, South Korea (UCAN) The performance of a Buddhist dance ritual in the heart of the Korean Catholic Church added a new dimension to interreligious understanding and dialogue between the two communities.


+++++++++
(’’)? カトリック教会の聖伝によるラテン語ミサは、カトリック信仰の本質を見せている聖ピオ十世会はその「信仰の華」という遺産を保存し伝えているんだけれどなぁ。


(’’)?  聖伝のミサに与ることにより、カトリックは信仰のみならず西洋文化・音楽・芸術をより多く理解することが出来るのになぁ。


(’’)? カトリック信徒は、カトリックの聖伝のミサ聖祭を見ることさえ出来ずにいて非常に不幸だ。仏教宗教儀式については「広い心」を持っているんだけれどね。


(’’)? 私たちは教会で洗礼を受ける時、教会からこう尋ねられた。
教会   「あなたは天主の教会に何を求めますか?」
洗礼志願者「信仰を
教会   「信仰はあなたにに何を与えますか?」
洗礼志願者「永遠の命を


(’’)? こんどから新しい教会で洗礼を受ける時、こうなるかも?
教会   「あなたは現代の教会に何を求めますか?」
洗礼志願者「エキュメニズム運動を
教会   「エキュメニズム運動はあなたにに何を与えますか?」
洗礼志願者「定期的な仏教儀式の体験を。仏教のみならず韓国文化の理解を


(’’)? こんなことしてたら信徒らが混乱して、聖書よりも仏典を研究しよう、なんてことになるんじゃない?

 

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カトリック神父が何故仏教典を?
(カトリック新聞1997年6月22日付けの記事より 拙訳)


「般若心経」を翻訳、「行こう! 行こう!・・・」を発行したチョン・ホギョン神父


「般若心経」、これは大乗仏教の般若思想の核心を盛り込んでいる梵語一七〇余字の「マハバンヤバラミルタ心経」の通称を意味する。仏教の核心思想を盛り込んでいるこの本をカトリック神父が翻訳したら、世界の人々に毛並みの変わった興味を抱かせることだろう。


 80年代にカトリック農民会の指導司祭として活動し、現在、キョンブク・ピョンフヮで農業をしているチョン・ホギョン神父が、まさにその主人公だ。「因縁を悟った人間は、何ものにも束縛されない空になった人」という修業姿勢をもって生きている司祭チョン・ホギョン神父が翻訳した「行こう! 行こう! 一緒に行こう! 悟りのあの丘に」(ヘッピッ出版社)には、般若心経を易しい韓国語で理解できる喜びが染み込んでいる。


 例えばチョン・ホギョン神父は般若心経の結尾語句である「アジェ・アジェ・バラアジェ・バリスン・アジェ・ポリサバハ」を「来たなぁ、来たなぁ! 悟りのこの丘に一緒に来たなぁ。パタパタ翼が出来たんだなぁ! 新しい仏頂様に万歳、ホイホイ 良い良い! やったー! すごいぞ!」と翻訳、仏教の知識を欠く一般人たちが容易に理解することが出来るようにした。


 ここでチョン・ホギョン神父が直接描いた挿絵は、内容と合っており、一枚の絵はがきのような感じを醸し出している。


 「"簡単に簡単に" 理解を助ける」


 チョン・ホギョン神父は本の巻頭言で「釈迦牟尼やイエズス様は、底辺で苦しんでいる衆生たちにこうやって難しく話をなさることはない」とし「般若心経を文字の意味も文字の音で翻訳し、また学者たちよりも修行者が翻訳をしなければならないという考えで、より易しく、いや私の気ままに翻訳された」と明らかにした。


 またチョン・ホギョン神父はこの本を読む人たちに幾つかお願いをしている。まず本を読む前に身の持ち方を正しくし、目を閉じて深呼吸をし、茶禮をするのが良く、また一度にたくさん読まずに、一題目づつをゆっくり何回も読まなければならず、そしてしばし瞑想することが般若心経を心で受け止める姿勢だと忠告している。


(写真は、「行こう! 行こう! 一緒に行こう! 悟りのあの丘に カトリック神父が気ままに翻訳した般若心経」の本とチョン・ホギョン神父)

+++++++++
(’’)? 般若心経を読む前にいろいろと難しい忠告をしているようだけれど、御聖体拝領をする人たちにする幾つかお願い、たとえば、まず御聖体を拝領する前に、聖性の状態であること、御聖体を拝領する時にはひざまずいて目を閉じて口で聖体拝領すること、また一日に何度も聖体拝領するのではなく、一日に一回だけであり、そして御聖体拝領の後には一五分ほどは跪いて私たちの霊魂に来て下さった私たちの主イエズス・キリストに感謝の祈りと黙想をすること、それが私たちカトリック信者がイエズス様を御聖体拝領によって受ける姿勢だ、などという忠告はしているのかな? 関心もないかな?


(’’)? 今度聖ピオ十世会の発行する本の題名はこれだね?「行こう! 行こう! 一緒に行こう! 聖伝のミサのあの聖堂に


(’’)? 私たちは教会で洗礼を受ける時、教会からこう尋ねられた。
教会   「あなたは天主の教会に何を求めますか?」
洗礼志願者「信仰を
教会   「信仰はあなたにに何を与えますか?」
洗礼志願者「永遠の命を


(’’)? こんどから新しい教会で洗礼を受ける時、こうなるかも?
教会   「あなたは現代の教会に何を求めますか?」
洗礼志願者「エキュメニズム運動を
教会   「エキュメニズム運動はあなたにに何を与えますか?」
洗礼志願者「般若心経を


(’’)?? こんなことしてたら信徒らが混乱して、聖書なんかどうでも良いよ、仏典を研究しよう、なんてことになるんじゃない?


(’’)?? こんなエキュメニズムを見て、信徒の方々が「もう何も信じられない!」と涙を流しながら、カトリック教会を離れていったとしたら、いったいそれは誰の責任なんだろうか? 

 


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今、韓国カトリック教会では何が起こっているのか?

2006年04月26日 | エキュメニズム関連情報

アヴェ・マリア!

今、韓国カトリック教会では何が起こっているのか?

エキュメニズム関連 韓国情報(仏教編 その三)

 カトリックと仏教 これもNO Problem !


 枢機卿様が、仏教のお寺の祝福に参加。NO PROBLEM!


(東亜日報1997年12月15日付けの記事より 拙訳)

 「吉祥寺開院法会、金枢機卿祝辞」
「霊魂の休息の場のような道場になることを」


 14日(注:1997年12月14日)午後、ソウルのソンブク区ソンブク洞、昔の大院閣にて開かれた吉祥寺開院の法会は、仏教と天主教(=カトリック教)との「開かれた心」と「広い胸」とが交わった会合の一場面であった。


 吉祥寺の会主、仏頂僧侶の招待を受けて開院法会に参加した天主教のキム・スーハン(金壽煥)枢機卿が、僧侶と仏教信徒ら四〇〇〇余名の拍手の中で、吉祥寺の無窮の発展を祈願する祝辞をしたのだ。


 この日、開院の法会には施主者である金英韓女史(八一歳)と曹渓宗の宋月珠 総務院長を始め、観応、昔珠、菩成、玄虎などの僧侶らと天主教の春川教区長のチャン・イク司教、朴清秀 原仏教教務が同席した。


 金枢機卿は主日ミサのために開院法会に途中で法壇に立ち入った。仏頂僧侶は席を立って枢機卿を迎え入れ、後ろに並んで座り、手を取り合って親しい挨拶をしてから、枢機卿は合掌で礼を表示した。


 祝賀茶禮祭祀が為されると、金枢機卿は法壇に上り「喉風邪を引いた」と了解を求めた後、「平素、尊敬して止まない仏頂僧侶様の招待を受け、この意味深い席に参加するようになり心から嬉しい」と挨拶した。


 金枢機卿は「このように美しいお寺が、都心のすぐ近くに入り込んでいるいることを心から祝賀致します」とし「吉祥寺が清さと平安の香りが湧き出る泉の場として全ての人に霊魂の休息の場の道場となることを祈願する」と言った。


 法頂僧侶は挨拶の言葉を通して「金枢機卿様と遠く春川から来て下さったチャン・イク司教様に感謝申し上げる」と謝意を表した後「お布施をして下さった方の貴重な意向を受けて、吉祥寺を清らかな薫り高くも貧しい寺として育てていきます」と誓った。


 公式行事が終わった後、金枢機卿は吉祥寺内の禅院でお茶を飲みながら「山の中で無所有の心で生活しておられる仏頂僧侶様の生活を平素より憧憬して来た」とし「私も憧憬するがこのようなやり方で生活することは出来ないだろう」と言って惜しんだりもした。


 金枢機卿はまた、仏頂僧侶が「数年前にバチカンを訪問した時、チャン・イク司教様の推薦で、枢機卿様の宿舎で幾日か過ごしたことがあった」と言うやいなや、「ほら、良くなさった」と応答した。仏頂僧侶は、枢機卿のこの日の訪問に対して返礼として今年の聖誕節に祝賀するメッセージを「平和新聞(注:カトリック系の韓国の新聞紙)」に寄稿しようと約束した。


(記事の上方の写真には「14日、吉祥寺開院式には仏教界の人士は勿論、金壽煥枢機卿など他宗教の指導者と各界の人士など四〇〇〇余名が参列、正教を呈した。」とある。)

(記事の下方の写真には「吉祥寺をお布施した金英韓女史」とある。)

 



 「仏教と天主との "美しい出会い"」
(東亜日報1997年12月15日付けの記事より 拙訳)



 14日午後、ソウルのソンブク区ソンブク洞、昔の大院閣にて開かれた吉祥寺開院式には、天主教のキム・スーハン(金壽煥)枢機卿が来賓として参加、祝辞を述べるなど、暖かい話題を残した。左側は吉祥寺の会主である仏頂僧侶



「"愛" と "慈悲" とは一つの道だ」
(カトリック新聞1999年5月23日付けの記事に付いていた写真 拙訳)

1997年12月、仏頂僧侶(左側)の招待で、吉祥寺の開院式に参加した金壽煥枢機卿

+++++++++
(’’)? 「開かれた心」と「広い胸」とをお持ちの枢機卿様は、聖伝のミサの無窮の発展を祈願する祝辞をし、聖ピオ十世会の聖伝の聖堂について「このように美しい聖堂が、都心のすぐ近くに入り込んでいるいることを心から祝賀致します」とか「聖伝のミサが、清さと平安の香りが湧き出る泉の場として全ての人に霊魂の休息の場の道場となることを祈願する」とか言ってくれるかな?


(’’)? 枢機卿様が仏教のお寺に行っても良いなら、聖ピオ十世会の聖伝のミサに与って何がいけない?


(’’)? 「天主の十戒: 第一 われは汝の主なり。われを唯一の天主として礼拝すべし。」 これ、どうなっちゃったのかな?


(’’)? 「"愛" と "慈悲" とは一つの道だ」???? こんなこと言ったら、キリストも仏陀も同じだ、とか言い出すんじゃない ? 

 

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仏教のお坊さんがソウルのカトリックのカテドラルでお説教をしても NO PROBLEM!

 「今度は、法頂僧侶が明洞聖堂(注:カトリック教会のソウル・カテドラル)に行った」



(東亜日報1998年2月25日付けの記事より 拙訳)

"無所有の説法" 仏頂僧侶の説教の様子。参列者たちは僧侶のお話をメモするなど深い関心を見せながら笑いと拍手が突発するなど、和気藹々の雰囲気だった。(写真の説明より)

金枢機卿の吉祥寺参列に返礼、聖職者及び信徒、一五〇〇余名に講話

「天主教と仏教の、もう一つの美しい出会い」

「無所有」の法頂僧侶は、天主教の「友情こもる招待」により24日(注:1998年2月24日)午後、国内における天主教の象徴である明洞聖堂(ソウル大司教区の司教座大聖堂)にて招待講演会を持った。


 この日の講演会は、崔昌武司教と明洞聖堂の張徳弼主任神父を始めとする聖職者と修道女、一般信徒など一五〇〇余名が聖堂を一杯にするなどの活動を呈した。


 仏頂僧侶の明洞聖堂での講演は、昨年末、金壽煥枢機卿が、僧侶が会主とするソウル・ソンブク区の吉祥寺開院式に参列し、「真心のこもった祝辞」をしてくれたことに対する返答の意で行われたことである。明洞聖堂側は「仏教界の人士が、明洞聖堂で講演をすることは初めて」と明らかにした。


 今年、聖別されて一〇〇周年を迎える明洞聖堂は、過ぎた3日から毎週各界の人士を招待し「経済難国克服のための特別講演」を開いている。


 仏頂僧侶はこの日「国と同胞のための宗教者の姿勢」をテーマに一時間の間講演した。


 午後七時頃、明洞聖堂に来た仏頂僧侶は「金枢機卿の広い度量に報答するためにここに来た」とし「このような場所を準備して下さった "因縁" と "天主様の御旨" に感謝する」と話の切り出しを開くや、信徒たちは大きな拍手で歓答した。


+++++++++
(’’)? 聖ピオ十世会の司祭が「友情こもる招待」を受けて、カトリック小教区の聖堂で説教をしたらどうなるかな? 主任司祭が罷免される? 


(’’)? 私たちは教会で洗礼を受ける時、教会からこう尋ねられた。
教会   「あなたは天主の教会に何を求めますか?」
洗礼志願者「信仰を
教会   「信仰はあなたにに何を与えますか?」
洗礼志願者「永遠の命を


(’’)? こんどから新しい教会で洗礼を受ける時、こうなるかも?
教会   「あなたは現代の教会に何を求めますか?」
洗礼志願者「エキュメニズム運動を
教会   「エキュメニズム運動はあなたにに何を与えますか?」
洗礼志願者「経済難国克服と、国と同胞のための姿勢を



(’’)? 「経済難国克服のため」にあるのが宗教で、宗教はまず「国と同胞のための」のものだとしてら、こんどはキリストも仏陀も結局は同じだ、とか言い出すんじゃない ? 


(’’)? ピオ11世教皇の教えって当たってるよ。

この誤りは、宗教に関する本当の観念を歪め、同時にそれを拒む。

[どんな宗教でも同じだという]
宗教に関する誤った考え

↓↓↓↓↓
[真の宗教に関する問題よりもこの地上のことを重視する]
超自然否定主義(naturalism)
 <<====【今このあたりかな?】
↓↓↓↓↓
[結局、真の宗教も、真の天主も存在しないという]
無神論


へと歩んでいく。


(’’)? こんなことしてたら信徒らが混乱して、聖書よりも仏典を研究しよう、なんてことになるんじゃない?

 

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プロテスタントの牧師が信徒をカトリックの修道院に連れ、カトリックの聖体拝領

2006年04月23日 | エキュメニズム関連情報

アヴェ・マリア!

エキュメニズム関連情報

御復活のミサを捧げた後で、カトリックとプロテスタントの聖職者達が論争を開始。


 プロテスタントの牧師グラハム師が二〇人の信徒をカトリックのアウグスチヌス会の修道院に連れてきて、カトリックの聖体拝領をした。


 アイルランドのカトリックの総大司教、ブラディー大司教はこの出来事を詳しく調査する予定であると言った。


ブラディー大司教は言った。
「真のエキュメニズムは、そこに関わる人々の伝統や習慣、規律などを尊重して始めて役に立つ。さもなければますます広がる混乱をひき起こし、偽りの期待をいだかせ、誤解と操作に開かれた状況を創りだすという現実的な危険がある。」


ブラディー大司教は、イームズ大司教の言葉を引用しながらこう言った。
「不幸なことに、このような機会は誤解と間違った解釈へと導いている。しかも私たちの教会の間の関係が改善したその時に」

 


(´・ω・) エキュメニズムはどこまですすんじゃうのかなぁ?? 
でも、ルフェーブル大司教様の伝記の続きも読みたいからがんばって!!
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http://www.ewtn.com/news/index.asp

CONTROVERSY ERUPTS AFTER CATHOLIC, PROTESTANT CLERICS CONCELEBRATE EASTER MASS
BELFAST, April 20 (CNA) - Controversy in Ireland continues after a Protestant clergyman marked the 90th anniversary of the Easter Rising of 1916 and the Western Front by celebrating mass with three Catholic priests, reported the Belfast Telegraph.

Both the Catholic Church and the Church of Ireland have promised to launch investigations after it was revealed that the minister, Rev Michael Graham, had brought 20 members of his congregation to the Augustinian Priory in Drogheda, Co Louth, where they took Communion.

The Catholic primate, Archbishop Sean Brady of Armagh, said he intended to seek further details about the event, which drew about 1,000 people.

"True ecumenism is best served by initiatives that are respectful of, and sensitive to, the traditions, ethos and discipline of all those involved," he reportedly said. "Otherwise there is a real danger of causing widespread confusion, raising false hopes and creating situations that are open to misunderstandings and manipulation."

The head of the Church of Ireland also expressed concern about the implications this incident would have on ecumenism.

"Unfortunately, such occasions - while well intentioned - can lead to misunderstandings and misinterpretations at a time when relations between our Churches have improved so much," Archbishop Robin Eames was quoted as saying.

Fr. Iggy O'Donovan, one of the Catholic priests involved, told the Irish Times he had had no intention of defying Church rules, which strictly prohibit intercommunion.

 


韓国のカトリック教会では何が起こっているのか?(つづき)

2006年04月23日 | エキュメニズム関連情報

アヴェ・マリア!

韓国のカトリック教会では何が起こっているのか?

エキュメニズム関連 韓国情報(仏教編 その二)

 



カトリックの修道女も釈迦の誕生日の行事に参加。NO PROBLEM !

(カトリック新聞1999年5月23日付けの記事「愛と慈悲は一つの道だ」より)

「釈迦誕辰日を迎えて開かれた提灯行事に参加した、カトリックの三笑会の会員たち」とある。


+++++++++
(’’)? 釈迦の誕生日なら、聖伝のミサに与るのが許されるかな?
聖ピオ十世会の聖伝のミサに与った「十笑会」の会員たちとか・・・?

 

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 カトリックの修道者らは、お寺に行ってグレゴリオ歌を歌う。

「別もの」が出会って「一つ」になったよ。
大願寺「世界平和祈願 宗教音楽祝祭」で
オリヴェト会の修道士、修道女がグレゴリオ聖歌を歌う
(2002年5月19日付けのカトリック新聞より 拙訳)


 古めかしい山寺でグレゴリオ聖歌が響き渡った。
 修道士、修道女、僧侶たちが一つになった「世界平和祈願 宗教音楽祝祭」が5月5日午後4時、チョンナム・ボソンの天奉山の大願寺で開かれた。


 大願寺開山(設立)一五〇〇年を記念して開かれたこの日の行事には、オリヴェト聖ベネディクト修道会(注:一四世紀に福者ベルナルド・トレメオによって創立されたベネディクト会系の修道会で、イタリアのシエナ近郊にあるオリヴェト山ににある自会の修道院の名にちなんで会名を取った)(修道院長=イ・ヨナク神父)とオリヴェト聖ベネディクト修道女会(総院長=ソン・レオ修道女)の修道士、修道女三〇余名が共に、宗教の壁を越えた静かな感動の舞台が拡がった。


 一〇〇〇余名が参加した中で開かれた宗教音楽祝祭は、生活聖歌歌手のキム・ジョンシク(ロザリオ)氏の「平和の歌」と修道会の修道者たちが準備したミサ曲グレゴリオ聖歌合唱が引き続き、仏教にカトリック音楽を知らせる機会になった。


 仏教側では夕の礼仏儀式と霊山音楽演奏(注:霊山を「りょうぜん」と読んで、釈迦如来が説法した霊山会の仏菩薩を歌った歌曲)、人間文化財イ・エジュ教授(ソウル大 体育学課)と韓舞踊共同体が用意した鐃鑼踊り、法鼓踊り、サルプリ踊り(巫女が行う厄払いの儀式)の公演が続いた。


 この日、「統一は平和の歌」という題目で祝詞を朗誦したイ・ヘイン修道女は「仏様の慈悲とイエズス様の愛が、平和という名前で、一房の花になった」とし「人知れず大きく成長していた仏身がこの場を通して生かされて、理解と愛の心を抱くことが出来るようになった」と伝えた。


 大願寺の住職であるヒョン・ジャン僧侶は「隣りの宗教者達と共に共感し互いに心を分かち合うことができる良い機会だった」とし「東西の宗教が、調和を築く美しい感動の場になったようだ」と言った。


 公演を終えて、夕食とお茶を共にしたこの人たちは「互いに "別もの" と会って "一つとなること" を築いた祝祭を忘れることが出来ないことだろう」と言いながら、壁を越えて一つとなった心で全世界の平和を祈願した。

 

+++++++++
(’’)? オリヴェト会のブラザーやシスターたちを聖ピオ十世会の聖堂に招待したら「世界平和」のために、典礼の壁を越えてグレゴリオ聖歌を歌ってくれるかな? え? それは限度の壁を越えている?



(’’)? それもそうだけど、カトリックの聖堂の中でも、グレゴリオ聖歌を聞きたい?



(’’)? 私たちは教会で洗礼を受ける時、教会からこう尋ねられた。
教会   「あなたは天主の教会に何を求めますか?」
洗礼志願者「信仰を
教会   「信仰はあなたにに何を与えますか?」
洗礼志願者「永遠の命を



(’’)? こんどから新しい教会で洗礼を受ける時、こうなるかも?
教会   「あなたは現代の教会に何を求めますか?」
洗礼志願者「エキュメニズム運動を

教会   「エキュメニズム運動はあなたにに何を与えますか?」
洗礼志願者「礼仏儀式と霊山音楽演奏、鐃鑼踊り、法鼓踊り、サルプリ踊りに与ることを。互いに "別もの" と会って "一つとなること" を

 


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韓国のカトリック教会では何が起こっているのか?

2006年04月22日 | エキュメニズム関連情報

アヴェ・マリア!

韓国のカトリック教会では何が起こっているのか?

エキュメニズム関連 韓国情報(仏教編)



 仏陀の誕生日には「仏様のお誕生を心から祝賀します 天主教ソウル大教区」との祝福のメッセージを送る。
NO PROBLEM !



(カトリック新聞2001年4月29日号より 拙訳)

「仏様の来られる日」(5月1日)を前にして、司教会議は慶祝メッセージを発表し、ソウル大司教区から曹渓宗(注:韓国仏教の一派)に祝電を送るなど、宗教間の壁を超えて暖かい祝賀と和合の挨拶が行き来している。


 教会一致と宗教間の対話委員会は、委員長 チェ・キサン司教の名前で、5月1日、仏様の来られる日を迎える仏教界に韓国天主教(注:カトリック教会)を代表して慶祝メッセージを発表した。

 チェ司教は、「仏様の来られる日に、全国の仏寺の皆様に送る祝賀メッセージ」の中で、「仏教は韓民族の受難の歴史中に、常に民衆と共にし、喜びと悲しみを分かち合った」と言い「特にこの国の文化発展と民族の心身に甚大な影響を及ぼした」と言った。チェ司教はまた、国と民族のための仕事、特に「人を生かし社会正義を実現させる仕事に仏寺と共に力を合わせてきた」とし「特に仏教と天主教の聖職者たちとは深い友誼を交わしてきた」と強調した。

 天主教は南北の交流増進の喜びと経済的危機が交叉する今日、国民のありとあらゆる心配を和らげてくれ、特に苦痛を受ける人々に必要な助けを与えてくれる希望を吹き込む仕事に、仏者の皆さんと天主教の信者と共にする所望だ」と言いながら、もう一度祝賀の念を伝えた。

 ソウル大司教区長のチョン・ジンソク大司教(注:現在は枢機卿)は、曹渓宗の総務院が座している曹渓寺正門の前で「仏様のお誕生を心から祝賀します」と書かれた祝賀バナーをつるして祝賀の意を伝えようとした。チョン大司教はこれと共に曹渓宗軸へ「仏様のお誕生を祝賀し、仏様の慈悲がこの地に満ちることを共に祈願します」という趣旨の祝電を打った。



 曹渓宗は、昨年のキリスト聖誕の大祝日を迎える司教会義議長 パク・ジョンイル司教に祝賀メッセージを送り、総務院に祝賀プラカードを掲げもした。

 一方で、ソウル大司教区ポイ洞小教区教会(主任=パク・クンテ神父)は、祝賀の植木鉢をクリョン寺へ送る計画であり、毎年シンクンにあるマタ寺と典礼的な交流を持っているオクス洞小教区教会(主任=ハン・ヨンマン神父)も、司牧委員たちを派遣し祝賀の意を伝える予定である。また水原教区のデーチョン洞小教区教会(主任=パク・サンボク神父)は教会前に、仏様の来られる日を奉祝賀する4メートルの大きさの垂れ幕を掛け、宗教間の和解の様子を見せてくれている。

 ソウル大司教区広報室長チョン・ウンモ神父は「昨年、曹渓宗から聖誕祝賀プラカードを掲げるなど祝賀の意を相互に伝達してきた」とし「互いの和睦と協力の姿勢が生命運動など大社会運動をもより活性化しうるだろう」と語った。

 他方で、教皇庁は毎年、仏教の「仏様の来られる日」とイスラム教のラマダンの祝祭にあわせて慶祝メッセージを発表してきてもいる。

===(翻訳終わり)===


 次の写真は、曹渓宗の総務院がキリスト聖誕節を記念して掲げたプラカード。
(カトリック新聞2000年1月1日号より)
「曹渓宗の総務院からも、キリスト聖誕節を記念するプラカードを掲げた」


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(’’)? 聖伝のミサを心から祝賀致しますという典礼の「壁を超えた暖かい祝賀と和合の挨拶」メッセージとか「聖伝のミサを祝賀し、カトリック聖伝の荘厳さがこの地に満ちることを共に祈願します」などというメッセージとかは許されるかな?

 

(’’)? 私たちは教会で洗礼を受ける時、教会からこう尋ねられた。
教会   「あなたは天主の教会に何を求めますか?」
洗礼志願者「信仰を

教会   「信仰はあなたにに何を与えますか?」
洗礼志願者「永遠の命を

 

(’’)? こんどから新しい教会で洗礼を受ける時、こうなるかも?
教会   「あなたは現代の教会に何を求めますか?」
洗礼志願者「エキュメニズム運動を

教会   「エキュメニズム運動はあなたにに何を与えますか?」
洗礼志願者「国と民族のための仕事、特に人を生かし社会正義を実現させる仕事、国民のありとあらゆる心配を和らげてくれ特に苦痛を受ける人々に必要な助けを与えてくれる希望を吹き込む仕事を

 

(´・ω・)  韓国ってエキュメニズムがかなりすすんでいるんだなぁ、と思った方はクリック↓
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エキュメニズム関連 韓国カトリック情報 (プロテスタント諸教派と)

2006年04月21日 | エキュメニズム関連情報

アヴェ・マリア!


今、韓国のカトリック教会では何が起こっているのか?


エキュメニズム関連 韓国カトリック情報



カトリック司教会議とプロテスタント


 イエズス会のソガン大学で。
 カトリック司教会議が主催の共同祈祷集会



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('')? 韓国のカトリック信徒が、聖ピオ十世会の聖伝のミサで一緒に祈ると言ったら何と言われるかな?



 釜山のカトリック神父とプロテスタント
 こんなことをしても、問題は無い。NO Problem !



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('')? それなら、カトリックの聖堂に聖ピオ十世会の司祭を招待して、聖伝のミサを捧げてもらっても問題はないかな?



上に紹介したのは、大きな氷山のほんの一角


(´・ω・)  うぁー本当、韓国でもカトリック教会ではエキュメニズム運動がすすんでいるんだなぁ、
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