tetujin's blog

映画の「ネタバレの場合があります。健康のため、読み過ぎにご注意ください。」

赤い靴

2008-04-27 22:39:47 | プチ放浪 都会編

”赤い靴 はいてた 女の子 異人さんに つれられて 行っちゃった・・・・・”

童謡「赤い靴」は、野口雨情が作詞。1921(大正10年)「小学女生」12月号に発表され、本居長世が作曲したのは翌年1922年8月のことだ。

「雲になりたや空飛ぶ雲に 気随気ままな白雲に」という自作句を好んだ野口雨情は、田園詩と自ら名付けたたくさんの童謡、流行小唄、新民謡を書き残し、大正・昭和の人々の心に深い感銘を与えた。「兎のだんす」「あの町この町」「黄金虫」「赤い靴」「七つの子」「十五夜お月さん」「青い眼の人形」などは、今も歌いつがれている。昭和20年(1945年)1月27日、疎開先の宇都宮市鶴田町で62歳で逝去。
 
”横浜の 埠頭(はとば)から 船に乗って 異人さんに つれられて 行っちゃった”

大正7年(1918年)に終結した第一次世界大戦後は、アメリカ文化模倣時代で「アメリカ」という言葉自体に神秘的な響きがあった。当時、アメリカから来た”青い眼の人形”は時代の先端をゆくアイドルだったのだろう。情報網や海外旅行が一般化した現代では想像もできないが、当時は、見知らぬ異国の地への憧れと、そして、明治初年から始まった日本人の海外移民の永遠に等しい別れを背景に、異国情緒の「赤い靴」と「青い眼の人形」はエキゾチシズムにマッチして広く庶民に流行したことは容易にうなずける。

インターネットで見ることのできる、早稲田大学図書館サイトの野口雨情と児童たちの写真。おそらく、大正時代に撮られたものと思われるが、当時の子供たちは大正ロマンで形容されるかすりの着物と袴、足元は下駄のいでたちだ。男の子の服装がそうだから、幼い女の子の服装も同様だったに違いない。だからこそ、スカートをはいた赤い靴の女の子のイメージは、当時は、庶民の憧れの的であったのだろう。

童謡「赤い靴」には、清水市出身の「岩崎きみ」ちゃんという実在のモデルがいたとする説がある。3歳の彼女は、米国人牧師の養女にもらわれることになったのだが、その米国人牧師が、日本での任期を終え本国に帰ることになった時、彼女が結核におかされていることが判明。結局、彼女は渡米できず、当時麻布十番にあった鳥居坂教会の孤児院に預けられ、3年後に9歳で亡くなったという説だ。明治44年の話。
国産の靴は、明治36年に、ようやく京橋のトモエヤで我が国で初の機械製一般紳士靴が売り出れた状況で、彼女がもらわれていった当時は、国産の幼い女の子用の赤い靴は、まだ売られていなかったと思われる。また、あったとしても、そうとう高価な手縫いの外国人の子女用のものだったに違いない。だから、もし、仮に彼女がこの歌のモデルだとしたら、海外をあちこちまわった米国人牧師が外国で買い求めた靴を履いていたのかもしれない。

歌のモデルが彼女じゃなく実在の人物ではないとしても、遠いかなたへ行ってしまった”赤い靴の女の子”のイメージは、今もなお、ぼくらの心に強く訴える。そして、週末にはたくさんの人が訪れる山下公園で、赤い靴の女の子の銅像は今日も一人、静かに横浜港を見つめている。


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