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おどろおどろしい夏の京都へ

2016-09-26 14:11:14 | 観光

京都の夏といえば鴨川にかかる「納涼床」や貴船川の「川床」と言うのだが、おどろおどろしい怪奇な京都を夏にツアーする紹介もあり、TVでも取り上げている。
それは、江戸で云えば怪談ツアーだが、京都では代わりに陰陽道ツアーであり、一般的に名の知れ渡った安倍清明を中心としたツアーである。
と、云うことで、我々も今回の京都はこれまでと違ったコースを周った。


長仙院
六角通を西に入った繁華街に建つ長仙院へ予約をして拝観に伺う。対応された年配のご住職から木像の説明を伺う。
ここは安倍晴明((あべ の せいめい/ はるあき/ はるあきら、921~1005年9月26日・偶然にも今日が命日)の木像が安置される寺。本堂の片隅に3体の木像が置かれている。廃仏毀釈に伴い、1877(明治10)年、本尊の阿弥陀如来像など5体と共に、清円寺から譲り受けられたものと言う。 清円寺は、松原通大和大路西入ルの場所のあって、境内にかつて、晴明を祀る社があったという 。



安倍晴明像


3体の木像は、前面左手が束帯姿の座像の晴明。右手の僧形像は蝉丸と住職が説明された。我々が知る蝉丸像は、百人一首に描かれているこんな姿である()。
                   

晴明神社
          
強力なパワースポット。平安中期の天文学者安倍晴明を奉る。当時の天文暦学から独自の陰陽道を確立。朝廷の祭政に貢献した。1007年一条天皇がその功績をしのび創祀した。ここは、晴明の屋敷跡でもある。

晴明像
晴明様が夜空の星をみて遠く天体を観測し、手を衣装の下で印を結ばれている様子をあらわしております。
陰陽師は、星の動きで吉凶を予測し、呪術をつかっての厄除けや怨霊を鎮める役職にあった
           

晴明の家紋
家紋は、桔梗の花を図案化した桔梗紋の変形で、「晴明桔梗(せいめいききょう)」と言い、五芒星とも言う。
            
五芒星は、陰陽道では魔除けの呪符として伝えられている。印にこめられたその意味は、陰陽道の基本概念となった陰陽五行説、木・火・土・金・水の5つの元素の働きの相克(そうこく=相いれないふたつのものが、互いに勝とうとして争うこと)を表したものであり、五芒星はあらゆる魔除けの呪符として重宝された。
              
大日本帝国陸軍の軍帽には五芒星が刺繍されていた。桜花の萼(がく)の形を模しているとも、弾除け(多魔除け)の意味をかついで採用されていたとも言われている。
            
晴明井
五芒星(晴明紋)が描かれた「晴明井」と称せられる井戸がある。
安倍晴明が霊力によって湧き出させたと伝えられ、この地が晴明邸であった時代には、洛中名水のひとつとされる。湧く水は「晴明水」と呼ばれ無病息災にご利益がある。
また、神社地付近は千利休が聚楽屋敷を有し、この水を茶の湯に用い、豊臣秀吉もその茶を服したと言う。 
            
厄除桃
古来、陰陽道では、桃は魔除、厄除けの果物といわれているという。 自身の厄をこの桃に撫で付けて厄を除く。
「桃」と云う字は、「木」に「兆」と書くこともあり、陰陽道では、厄除け、魔よけの果物とされている。
                   
境内末社・斎(いつき)稲荷社
1872(明治3)年に発布された「陰陽道禁止令」により陰陽道は社会的に抹殺されてしまう。
更に明治期の廃仏毀釈で廃社間近にまで追い込まれたという。
長仙院で頂いた資料によると、
『晴明神社は昔は晴明御霊と呼ばれた。晴明御霊神はあまねく貴賎の崇拝を受けたが、明治維新の際、廃仏毀釈でひどい目にあった。(中略)晴明神社は村社にも入れてもらえず廃社となる運命であったが、近くの紫野斎院(810~1212)の「斎宮」を主神とする神社をつくり、その社を前面に出すことで生き延びた。晴明神社はその傍らに、「稲荷神社」としてやっと残すことが出来た。その名残が摂社・斎稲荷である。(梅原猛著作)』(㊟清明の母は信田の森に住む狐とされている)
          
復元の一条戻橋
19995(平成7)年に一条戻橋を架け替えした際、使用されていた欄干の親柱を利用して、境内に縮小した戻り橋を復元した。
                     

一条戻橋・死者が蘇る橋
794年平安遷都と共に一条通の堀川に架けられた橋。
918年、修験道を極めた浄蔵貴所が父の臨終に間に合わず、この橋で葬列に出会う。父に一目合いたいと一心で祈ると法力が届き、父は一時的にこの世に戻ることを許された。それ以来、「土御門橋」から「戻橋」と呼ばれるようになった。
 
安倍晴明の式神は十二体の人形(ひとがた)で、あまりに醜く恐ろしい顔をしていて、晴明の妻は怯えていた。 そこで、晴明は十二体の人形を普段は、一条戻橋に置いた石櫃に閉じこめておき、必要なときだけ橋に向かって手を打ち呼び寄せたという。
また、式神を使って門扉を開閉させたり、お茶を運ばせたりしていた。また、ミカン16個をネズミ16匹に変えてしまった等の伝聞がある。

晴明神社の式神像

一条戻橋にはその他、幾つかの伝承がある。
同じく平安時代中期では、源頼光の四天王のひとり、渡辺綱が鬼女の腕を切り落とした場所。
安土桃山時代には豊臣秀吉により千利休がさらし首されり、キリスト教禁教令のもと、日本二十六聖人が、ここで見せしめに耳たぶを切り落とされ、殉教地・長崎へと向かわされた。
また、嫁入り前の女性は嫁が実家に戻って来てはいけないという意味から、この橋に近づかないという慣習がある。逆に太平洋戦争中、応召兵とその家族は無事に戻ってくるよう願ってこの橋を渡りに来ることもあった。

一条戻橋の下を流れる堀川(橋の上流を写す)

安倍晴明公嵯峨墓所
平安時代1005年9月26日安倍晴明は85歳で亡くなり、嵯峨の地に葬られたという。ただ、実際には室町時代に数多く造られた「晴明塚」のひとつとみられている。
墓所は天龍寺が所管し、塔頭・寿寧院の境内にあった。その後荒廃したため、現在は晴明神社の飛び地境内のこの地に移転した。
 

六道珍皇寺
地元では「六道さん」で知られる、臨済宗建仁寺派。京都の盆はこの寺の迎えの鐘で開かれると言う。昔、この寺が鳥辺野の入口にあったことから、ここが、現世と冥界の接点、つまり「六道の辻」と考えられ、今昔物語にも出てくるが、当寺の梵鐘の迎え鐘によって精霊がこの世によみがえってくると信じられた。
本堂裏には、小野篁(おののたかむら・802年〜852年)が冥土へ通った「黄泉がえりの井戸」という伝説の井戸がある。
篁は昼間は朝廷に勤め、夜は冥界で閻魔大王の副官をし、夜ごとこの井戸を利用して地獄に通い、閻魔大王のもとで裁判の補佐をしていたという。
篁が冥土へ通い始めたのは、亡くなった母に会うためといわれる。
また、こんな逸話もある。
篁が参議となったある時、上司が重病となり他界し閻魔の前で裁かれる際、助けて欲しいと閻魔に掛け合い上司は蘇生した。
このことによって、篁が地獄の冥官であるという話が世間に広まり、篁を恐れたという。
篁は、遣隋使で知られる小野妹子(飛鳥時代)の子孫であり、孫に書家の小野道風がいる。また、美人の代名詞である小野小町も篁の孫という説もある。
また、身長六尺二寸(約188㎝)の巨漢でもあった。





綱を引いて鐘を撞く なんとも云えぬ響きが聞こえる
          《精霊迎え》
            綱の先には 冥土
            その綱を引けば鐘の音が響く
            遥か彼方のあの世まで届くと言われている
            京のお盆 人々はこの世に先祖の霊を
            迎えるため 「迎え鐘」を撞く



衆病悉除(しゅびょうしつじょ・心身安楽 病気が治るよう薬師如来に祈る)


閻魔堂に閻魔大王像と小野篁像が合祀


冥界への入口・篁が通った入口の井戸

篁は歌人としても知られており、百人一首に参議篁の名で選ばれている。
                 

嵯峨薬師寺
平安初期の818年、世に蔓延する悪病を憂慮した嵯峨天皇が、弘法大師に薬師如来像の彫刻を命じた。この像が本尊の薬師如来坐像である。大覚寺に属していたが、明治以降清凉寺の塔頭となっている。寺宝に嵯峨天皇像、阿弥陀三尊僧などと付近にあった福生寺の遺仏と伝えられる地蔵菩薩像や小野篁像を安置している。
「生六道」」と称された福生寺(明治期に廃寺)は、小野篁が冥土から帰り着いたところと伝えられ、冥土の出口という7基の井戸が発掘された(現在はない)。
境内には「生の六道 小野篁公遺跡」の碑が建つ。
珍皇寺の井戸は冥土の入口なので、「死の六道」、これに対して薬師寺は冥土の出口、つまりはこの世に戻ることを指し、生まれると考え「生の六道」と言われる。
                  

送り地蔵盆
生六道のまつり、地蔵盆が毎年8月24日に行われる。生御膳と呼ばれるお供えを供える。
            

          
本堂内の地蔵尊の前には、かぼちゃの舟に湯葉の帆が供えられている。
京都では16日に行われる「五山の送り火」によって精霊を送るのだが、その送り火で冥土に戻れない精霊、京都では「お精霊(しょらい)さん」を経木(水塔婆)の送り火で送るのが薬師寺の「地蔵盆」である。この火が京都最後の送り火となる。
この送り火は檀家に限らず一般の方も参加できる。残念ながら今回は時間の都合で送り火までは立ち会えなかった。
2年ぶりの送り地蔵盆の薬師寺である。あの日は、ここについて大雨に会い、その後の予定を中止して雨宿りをしたのだが、今回もいみじくも、薬師寺を向かう道で雨に見舞われた。濡れるほどではなかったが、嵯峨を歩いている時間帯は降り続いていた。ここは雨に縁があるようだ。

地蔵盆
嵯峨薬師寺の地蔵盆での法要に合わせて、京の町では町内の地蔵尊を囲み子供達の祭りが開かれる。私の姪が京都人と結婚しているが、その彼も地蔵盆のことを話すと懐かしがっていた。
今回、たまたま縁あって薬師寺から地下鉄の駅まで送って頂いた方との車内の会話にも地蔵盆の話題が出た。
40代の物静かに話されるライターを職業にする方で、NHKの番組も手掛けている。関東人の私が地蔵盆に興味を持っていることに驚いていた。何せ2年前にはある自治会の地蔵盆に密着取材させてもらった程であったから。
そして、私に地蔵盆に代わる行事が関東にあるのかと尋ねられた。
地蔵盆が子供のまつりと言う所だけをとってみると、地蔵盆の代わりは私にとっては「初午」であった。
それは、子供の頃の地域的な風習だったのかも知れぬが、初午前日に近くの屋敷稲荷の祠の前にトタン板で小屋が建てられ、中央にいろりが設けられる。夕刻になると三々五々子供たちが集まり、料理や赤飯、握り飯、お菓子などが持寄せられる。親たちは稲荷無尽講で席が設けられる。夜になると子供達は太鼓をたたきながら祭りの寄付やお菓子を募り近所を周る。その日、子供たちの一番の喜びは、曜日によるが一晩中起きてても良いことだった。小屋の中は炭火で汗がでるほどの暖かさであった。
これが地蔵盆に代わる私の子供時代の行事であった。
車内の会話に戻すが、「ふごおろし」という2階からくじ引きの景品を駕籠で下ろす風習が、現在京都では全く見られなくなってしまったことを嘆いておられ、「京都の地蔵盆」について掘り下げてみたいことも話された。
      
 ふごおろし(京都新聞):今は2階のベランダからだが昔は1階は出格子が虫籠窓(むしこまど)のある京町屋の2階から下ろしたのだろう

そして京都人についても祇園祭の宵山には行くのだが、山鉾巡行を見たことがない人が半数いるほどいt、京都人は京都に興味を持たなくなったとも話している。
京都の小中学校の遠足(社会見学)は寺巡りばかりだとのことだ。この教育が京都人を京都嫌いにしてしまったのかも知れない。私も修学旅行で訪れた時は、「またお寺かよ。」と思った(意見には個人差があるが・・・)。一方では観光客が増加していることも話された。
それは、承知する。清水寺では、日本人と同じ顔をしてるのに飛び交う言葉は訳もわからない。金閣や銀閣では白色系外国人が目立っていた。つまりは、観光客増加は外国人が支えているのである。
世界遺産・京都、「日本人の心」を味わって頂きたい。

訪れた日:2016.8.23,24