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亀戸七福神+αをめぐる

2015-05-28 11:52:52 | 東京散策
フジの花見物で亀戸天神に参ったが、1カ所だけでは往復の時間をかけてもったいないと、七福神が奉られていることを知り「亀戸七福神」を加え、尚且つプラスアルファのコースを設定し亀戸地域を歩いた。

JR総武線・錦糸町駅北口に降り立つ。横浜から乗り換えなしで来れるから便利。
はじめて降り立つ駅であるが、錦糸町と言うと、藤圭子さんの「♪昔恋しい下町の 夢が花咲く錦糸町 よってらっしゃい よってらっしゃい お兄さん♪」と歌う、『はしご酒』のイメージになってしまうのだが、駅を出てもそんな雰囲気はなかった。
          

駅前の広い公園の一角に神社が奉られていたので、一日の安全祈願をした。
千種神社(錦糸公園)  墨田区錦糸4-15-1
千種(ちぐさ)稲荷神社の創建年代は不詳、徳川四代将軍・家綱の時代(1651~81)に治水工事が行われその後、このあたり柳島村の守護神として祀られたと伝えられる。
明治時代に入り、当地が旧陸軍兵器廠錦糸堀倉庫となった際にも、火除けの守護神として残された。
             
奥の手水舎(ちょうずや)には4体の変わったポーズをした狐が鎮座している。奉納者の気持なのか。
          

          

 
横十間川を渡ると、江東区に入る。

銭座跡モニュメント(亀戸2丁目団地)  江東区亀戸2-6亀戸2丁目団地
1663(寛文3)年から1683(天和3)年まで、亀戸2丁目の住宅・都市整備公団団地の付近で、寛永通宝銭が造られ、「亀戸銭座」と称した。寛永通宝の裏面は無印のものが多いのだが、造られた場所の文字などが入ることがあり、この時造られた銅銭には「文」の文字が入っており、「背文銭」といわれている。
このモニュメントは、1668(寛文8)年に亀戸銭座で造られた「寛永通宝」をモデルにしたもので、1636(寛永13)から幕末までに造られた銅銭の「寛永通宝」の文字が打ち出されている。
          
          
                   銅貨製造工程の表面を磨く作業・平研(ひらとぎ)をしている図

ここから5分のところに亀戸天神社が奉られている。
亀戸天神社  亀戸3-6-1
亀戸天神社は、「亀戸天神の藤見物」にまとめたので省略。
                    

普門院 亀戸3-43-1
亀戸七福神の毘沙門天が祀られている。
真言宗の名刹で、1522(大永2)年、三股(現足立区千住)に創建され、1616(元和2)年、当地に移った。その時、過って梵鐘を隅田川に沈め、鐘ヶ淵(墨田区)の地名の由来になった。
 
       
                  毘沙門堂                      持経観音(じきょうかんのん)
          
                       絵本江戸土産・普門院境内御腰掛の松

光明寺  亀戸3-42-1
創建は、1555(弘治元)年の天台宗の寺院。
境内には、区内でも古い年号1628(寛永5)年をもつ宝篋印塔、1676(延宝4)年の庚申塔などが建つ。また、浮世絵の一人者、二世・歌川豊国(国貞・1786~1864)の墓がある。
          
  

入神明宮跡  亀戸3-41
昔、この一帯は海で、海上を往来する船の安全のため、小高く盛り上がった塚の上に、神明社が建てられた。
明治に天祖神社と改称し、昭和の末に香取神社に合祀された。
          
                      
                        江戸名所に描かれている入神明宮

龍眼寺  亀戸3-34-2
亀戸七福神のひとつ、布袋尊が祀られている。
1395(応永2)年創建の天台宗の寺院。
萩寺の名で知られ、江戸時代の地誌「江戸名所図会」には、萩を愛でる人々で賑わう様子が描かれている。
また、1659(万治2)年造立の庚申塔は区内最古とされる。
 
         
                      布袋堂と布袋尊                               三猿庚申塔
          
                          江戸名所図会・萩寺

天租神社  亀戸3-38-35
社伝によれば、推古天皇の治世(593~628)の創建で、その後、衰退したが1403(応永10)年に復興する。
天正年間(1573~91)に疫病が流行し、この時織田信長の使者が参向して流鏑馬を献じたところ、疫病が治まったと言われる。今日では、毎年秋に子供歩射が行われている。
 
 
                     境内には多くの双体道祖神が祀られている
 
   染色手ぬぐいが地場産業なのか境内におおくの手ぬぐいが飾られている

祐天堂・木下川道標  亀戸3-39先
元禄年間に祐天上人が千葉方面に向かう際に、この付近の川や岸に多くの水死体を見つけて、霊を回向された。その際に石にそれらの仏に戒名を刻んだ。のちに祐天堂を奉った。
それ以来、この辺りでは水死者がなくなったといい伝えがある。
1761(寶暦11)年建造の道標には、この境橋から、木下薬師堂(葛飾区東四ツ木1丁目)へ至る木下薬師道(現、仲堀通り)を示している。
刻銘が正面と左右側面の3面で、左側面には現存していない吾妻神社である「あつまもり」が刻まれている。
 
ここ境橋は逆さスカイツリーが映る北十間川に架かっている。北十間川は本所の北で、かつ横十間川の北に位置することから名付けられた。

梅屋敷跡  亀戸3-40、50~55
江戸時代は、江戸の東はずれで、亀戸天神と田畑ばかりであった。そこに伊勢屋の別荘があり、臥龍梅(がりゅうばい)が植えられていた。臥龍梅の名称は当時評判を聞き付け訪れた水戸光圀が名付けたという。また、徳川八代将軍・吉宗は、一旦土に入った枝が再び地上にはい上がる梅の姿を見て、「世継ぎの梅」と命名したとか。
そして臥龍梅は数百にも増え、別荘は梅屋敷となった。屋敷の広さは2町(218m)四方だと云う。
          
あとで知ったのだが、江戸時代に建っていた別荘・梅屋敷をモチーフにして、亀戸梅屋敷(亀戸4-18-8)が2年前に地域交流の拠点として建設されていた。事前に知っていれば寄ったのに、調査不足であった。
           

香取神社  亀戸3-57-22
亀戸七福神の恵比寿と大黒神が祀られている。
社伝によると、天智天皇の時代665年の創建で、藤原鎌足(614~669)が亀の島に船を寄せ、香取大神を勧請し、旅の安全を願ったことがはじまりとされる。
 
      
亀の島は亀の形をしており、そこから亀村が出来た。また、先ほどの臥竜梅の庭には、「亀井戸」があって、このふたつが混同して「亀井戸」と呼ばれるようになり、いつしか「井」がなくなって「亀戸」となったというようだ。
      
香取神社付近では、文久年間(1861~64)から明治時代にかけて、大根づくりが盛んに行われていた。長さが30cm程度の短いもので、明治のころは「おかめ大根」とか「お多福大根」といわれ、大正初期になって産地名の「亀戸大根」と呼ばれた。収穫時期が野菜の少ない早春のため、重宝がられ、江戸ッ子に喜ばれた。

東覚寺
亀戸七福神の恵比寿と弁財天が祀られている。
1531(享禄)4年の創建と伝えられる。
この寺の不動明王は、大山寺(神奈川県)の本尊と同木でつくられていることから江戸時代より亀戸不動として信仰を集めてきた。
 
     
         

石井神社  亀戸4-37-13
この神社は石器時代の石棒をご神体として祭り、「しゃくじん(=石神)」と呼び、それが「しゃくし」となり、俗に「おしゃもじ稲荷」と呼ばれる。また、石神が「せきじん」となって、咳の病をなおす神としても信仰されている。
神社からおしゃもじ(飯杓子)1本を借りて、自宅でこれを神体と祭る。病が治ると新しい飯杓子と共に返却する習わしがある。
元禄時代には、「石神社」と江戸の地誌・江戸鹿子に紹介されている。江戸鹿子は、江戸の名所ガイドと買い物ガイドの性格を合わせ持つもので、大ベストセラーとなった。このため同類のものが刊行されている。
     
             
                      封筒の中には持って帰るおしゃもじがはいっている

常光寺  亀戸4-48-3
亀戸七福神のひとつ、寿老人が祀られている。
常光寺は、江戸六阿弥陀巡礼のうち、第六番目の霊場として、彼岸詣でには庶民の信仰と行楽として賑わった。
                 
縁起によると、聖武天皇(724~749)の頃、武蔵国足立郡に沼田の長者がおり、熊野権現に詣でて授った一女を隣の郡に住む領主に嫁がせた。この娘は足立姫と呼ばれる程に美しく、仏を尊び生まれつき聡明であったが、領主の姑が辛くあたり悲しみ嘆いていた。里帰りの折りに思い余って沼田川(今の隅田川)に身を投げ、5人の侍女が姫のあとを追って川に身を投じた。
後日、諸国巡礼の旅に出た長者が熊野権現に詣でたところ、夢に権現が立ち、一女を授けたのは仏道に導く方便で、熊野山中にある霊木に6体の阿弥陀仏を彫み、人々を苦境から救いだせ言われた。夢の通りに山中で光り輝く霊木を得た長者は念を込めて霊木を海に流し、帰国してみると霊木は沼田の入江に流れ着いていた。
そして間もなくこれも夢のお告げの通りに諸国巡行の途でこの地に立寄られた行基菩薩に乞うて6体の阿弥陀仏を彫り、6女ゆかりの地にそれぞれの堂を建て、敬った。江戸時代に入り、この六阿弥陀巡礼が信仰と行楽で大いに賑わい江戸名所図会にも描かれている。
       
 
          
上の「江戸名所図会」は、常光寺と江戸六阿弥陀詣で賑わっている淨光寺前の通り・六阿弥陀道も描かれている。
江戸六阿弥陀詣とは、春秋の彼岸に六ヶ寺の阿弥陀仏を巡拝するもので、その巡拝地は、亀戸という地域的な限られた信仰であった。

水神社  亀戸4-11-18
創建年代は不詳だが、室町幕府十二代将軍足利義晴の享禄年間(1528-1532)で、新田開墾にあたって堤上に水神を勧請し水害を逃れるため祈願したことが創建とされる。祭神は弥都波能売神(ミズハノメノカミ)という水を司る女神。
 
                    

浄心寺・亀戸事件碑  亀戸4-17-11
『新編武蔵風土記稿』よれば、1615(元和元)年の創建で、寺誌によれば、江戸初期(1603(慶長8)年と推測)に正二位権大納言烏丸光広卿が江戸に下り、鷹狩りの折に、宝燈庵と称していたころの浄心寺に立ち寄り、和尚の法話、その姿に心服し朱塗りの門と、自家の菊花紋を寺に与え、それから赤門寺と呼ばれるようになった。
境内には、亀戸事件碑が建てられている。
1923(大正12)年、関東大震災の混乱のさなか、デマにとって在日朝鮮人や中国人を虐殺する事件があったが、一方では亀戸の労働組合員らが警察に不法検束され、数日後軍隊によって殺害された事件もあった。これを亀戸事件という。
            

          
亀戸には「亀戸あさくさ古道」という散策ルートがあったようで、この案内に沿って歩くことも、また違った歴史散策になったであろう。
帰りは、JR錦糸町駅のとなり、JR亀戸駅から錦糸町駅で快速に乗り換え帰宅する。

訪れた日:2015.04.24



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