閑谷学校
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閑谷学校(しずたにがっこう)は、江戸時代前期に岡山藩によって開かれた庶民のための学校。所在地は岡山県備前市閑谷。
岡山藩主池田光政によって開設された日本最古の庶民学校である。建築には32年の月日を費やしており、他に例をみない手間をかけた質とスケールを誇る。今から330余年前のことだ。
地方の指導者を育成するために武士のみならず庶民の子弟も教育した。また、広く門戸を開き他藩の子弟も学ぶことができた。
就学年齢は8歳頃から20歳頃までであった。頼山陽などの著名人も来訪し、幕末には徳川幕府の軍人である大鳥圭介も少年時代にここで学んだ。
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●校門
聖廟の正門として建てられたもので、閑谷学校の校門である。
中国最古の詩集である「詩経」の中の詩に因んで鶴鳴門とも呼ばれる。
両脇に花頭窓(火灯窓)のある付属屋をつけるなど中国の建築様式を模しており、1688(貞享3)年の造営である。
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●講堂
1701(元禄14)年の完成で、内部は10本の楠木の円柱に囲まれた内室と、その周囲の入側からなり外廻りを広縁(ひろえん・幅の広い縁側)でとりまいている。入側(いるがわ・いりかわ)とは、 書院造りで、濡れ縁と座敷の間にある1間幅の通路のこと。
屋根はしころ葺きと呼ばれている二段葺きで、備前焼の瓦を使った本瓦葺きとなっている。
四面とも中央に桟唐戸(さんからど)の出入り口を設け、その左右には火灯窓を配して明障子(あかりしょうじ)を入れている。
材料の吟味と施工が入念になされており、今日に至るまで一部のくるいもみられない。
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●小斎
1677(延宝5)年に建造されたもので、藩主臨学の際の御成の間である。
質素な財を用いた数寄屋造りで2室からなり、納戸、浴室、雪隠(せついん・せっちん)が付属している。
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●聖廟
儒教の始祖・孔子を祀っており、孔子廟または西御堂ともいう。
本殿にあたる大成殿は、1684(貞享元)年の完成で、内部の厨子には1701(元禄14)年鋳造の孔子像が安置されている。
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●閑谷神社
閑谷学校の創設者である岡山藩主・池田光政を祀るために1686(貞享3)年に建てられたもので、もとは光政の諡(おくりな)に因んで芳裂祠または西側に建つ聖廟(西御堂)に対して東御堂と呼ばれた。
1875(明治8)年神社格付けされ閑谷神社と改称した。
殿内には1704(宝永元)年に鋳造された光政の金銅製座像が安置されている。
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●石塀
校地の周辺には総延長およそ765mの石塀が巡らされている。そのうち505mはおよそ2m、幅およそ1.8mのかまぼこ型の石塀が築かれており、鶴鳴門(校門)、公門、飲室門、校厨門が設けられている。
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右側のこんもりとした山を火除山といい、これより奥にある学舎や学房(寄宿舎)からの出火が講堂などに及ばぬよう防火の目的で造られた人工の山である。
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●櫂
1915(大正4)年は中華人民共和国山東省曲阜(きょくふ)市の孔子墓の櫂の実を持ち帰り育苗したのが日本における最初のもの。
そのうちの2本が1925(大正14)年に閑谷学校に寄贈された。
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●資料館
この建物は、1905(明治38)年、私立中学閑谷學の校舎として建設されたもので、明治の中学校の建物の建物様式をよく留められている。
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●黄葉亭
来客の応接、教職員や生徒の憩いの場とするため、1813(文化10)年に建てられた茶室で、学校の東方450mのところにある。
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●石門
この石門は1697(元禄10)年に建てられたものである。
門柱の高さは3.8m、直径0.63mあり、建設当初は幅員2m余の道をはさんでそびえたっていたが、その後数次にわたって埋めたてられ、現在はおよそ、その3分の2が地中に埋もれている。
江戸時代はここから北が閑谷学校の校地であって、門の両側には柴垣が設けられていた。
この石門は現在の道のりで学校から1km余離れたところにあり、当時の学校は広大な敷地を所有していたようだ。
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20歳代にここを訪れたことがある。
今回、ここにたってその頃のことは思い浮かばないが、閑谷学校の全景をカメラで写そうと雑木林の傾斜地に入った。身体を支えようと幹につかまったら、手に油絵の具がたっぷりついたいやな思い出がある。
関連 : 岡山後楽園のお田植祭(瀬戸内を巡る1)
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閑谷学校(しずたにがっこう)は、江戸時代前期に岡山藩によって開かれた庶民のための学校。所在地は岡山県備前市閑谷。
岡山藩主池田光政によって開設された日本最古の庶民学校である。建築には32年の月日を費やしており、他に例をみない手間をかけた質とスケールを誇る。今から330余年前のことだ。
地方の指導者を育成するために武士のみならず庶民の子弟も教育した。また、広く門戸を開き他藩の子弟も学ぶことができた。
就学年齢は8歳頃から20歳頃までであった。頼山陽などの著名人も来訪し、幕末には徳川幕府の軍人である大鳥圭介も少年時代にここで学んだ。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5a/69/75103c3aea61d35b9147a35983fe1158.jpg)
●校門
聖廟の正門として建てられたもので、閑谷学校の校門である。
中国最古の詩集である「詩経」の中の詩に因んで鶴鳴門とも呼ばれる。
両脇に花頭窓(火灯窓)のある付属屋をつけるなど中国の建築様式を模しており、1688(貞享3)年の造営である。
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●講堂
1701(元禄14)年の完成で、内部は10本の楠木の円柱に囲まれた内室と、その周囲の入側からなり外廻りを広縁(ひろえん・幅の広い縁側)でとりまいている。入側(いるがわ・いりかわ)とは、 書院造りで、濡れ縁と座敷の間にある1間幅の通路のこと。
屋根はしころ葺きと呼ばれている二段葺きで、備前焼の瓦を使った本瓦葺きとなっている。
四面とも中央に桟唐戸(さんからど)の出入り口を設け、その左右には火灯窓を配して明障子(あかりしょうじ)を入れている。
材料の吟味と施工が入念になされており、今日に至るまで一部のくるいもみられない。
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火灯窓
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●小斎
1677(延宝5)年に建造されたもので、藩主臨学の際の御成の間である。
質素な財を用いた数寄屋造りで2室からなり、納戸、浴室、雪隠(せついん・せっちん)が付属している。
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●聖廟
儒教の始祖・孔子を祀っており、孔子廟または西御堂ともいう。
本殿にあたる大成殿は、1684(貞享元)年の完成で、内部の厨子には1701(元禄14)年鋳造の孔子像が安置されている。
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●閑谷神社
閑谷学校の創設者である岡山藩主・池田光政を祀るために1686(貞享3)年に建てられたもので、もとは光政の諡(おくりな)に因んで芳裂祠または西側に建つ聖廟(西御堂)に対して東御堂と呼ばれた。
1875(明治8)年神社格付けされ閑谷神社と改称した。
殿内には1704(宝永元)年に鋳造された光政の金銅製座像が安置されている。
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●石塀
校地の周辺には総延長およそ765mの石塀が巡らされている。そのうち505mはおよそ2m、幅およそ1.8mのかまぼこ型の石塀が築かれており、鶴鳴門(校門)、公門、飲室門、校厨門が設けられている。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2c/bf/a06eafae62cf673c0af6658d029f022a.jpg)
右側のこんもりとした山を火除山といい、これより奥にある学舎や学房(寄宿舎)からの出火が講堂などに及ばぬよう防火の目的で造られた人工の山である。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/46/a7/be870f14f51cb5fc9c8782654b1dba5d.jpg)
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●櫂
1915(大正4)年は中華人民共和国山東省曲阜(きょくふ)市の孔子墓の櫂の実を持ち帰り育苗したのが日本における最初のもの。
そのうちの2本が1925(大正14)年に閑谷学校に寄贈された。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/27/e1/d36351dbcc578500ac1adcda581ae2aa.jpg)
うしろは聖廟
●資料館
この建物は、1905(明治38)年、私立中学閑谷學の校舎として建設されたもので、明治の中学校の建物の建物様式をよく留められている。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/22/06/14fa4b9d08352392227dd65bc0dc10ff.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/79/fc/306be8e2e88fe14bd189baede39f0edd.jpg)
●黄葉亭
来客の応接、教職員や生徒の憩いの場とするため、1813(文化10)年に建てられた茶室で、学校の東方450mのところにある。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/24/4e/56c796e6655338261aecd5dd309d12a0.jpg)
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●石門
この石門は1697(元禄10)年に建てられたものである。
門柱の高さは3.8m、直径0.63mあり、建設当初は幅員2m余の道をはさんでそびえたっていたが、その後数次にわたって埋めたてられ、現在はおよそ、その3分の2が地中に埋もれている。
江戸時代はここから北が閑谷学校の校地であって、門の両側には柴垣が設けられていた。
この石門は現在の道のりで学校から1km余離れたところにあり、当時の学校は広大な敷地を所有していたようだ。
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20歳代にここを訪れたことがある。
今回、ここにたってその頃のことは思い浮かばないが、閑谷学校の全景をカメラで写そうと雑木林の傾斜地に入った。身体を支えようと幹につかまったら、手に油絵の具がたっぷりついたいやな思い出がある。
関連 : 岡山後楽園のお田植祭(瀬戸内を巡る1)