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歴史散策まち歩きの記録
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「ちい散歩」最後の谷根千を行く

2012-07-29 00:00:01 | 東京散策
谷根千を行く
               

谷根千(やねせん)とは、谷中・根津・千駄木の頭文字をつなげたもので、この名の地域の情報誌が発行され、いつしかこの界隈を指す総称となったと聞く。
この地域は、戦災を受けず、大規模な開発から免れ、一昔前の街並みの情緒を今日に残こし、東京の下町のひとつとしてスポットを浴びている。


日暮里駅
「谷根千」の紹介はJR日暮里駅南の改札口からスタート。
メインと思われる改札口はビルの中に入っていて絵にならないのでこの場にした。ここは京成本線の連絡架橋の中央にある。
          

御殿坂
以前は、谷中への上り口に当たる急坂を「御殿坂」と呼んだが、日暮里駅や JRの路線ができた際に消滅したため、その名残である坂の上の部分をこう呼ぶようになったと考えられる。俗に御隠殿(寛永寺輪王寺宮の隠居所)がこの先にあったからといわれるが、根拠は定かではない。   (台東区教育委員会)
    

本行寺  西日暮里3-1-3
景勝の地であったことから通称「月見寺」とも呼ばれていた。太田道灌の道灌丘碑。種田山頭火の句碑「ほっと月がある東京に来てゐる」がある。
    

紅葉坂
坂道周辺の紅葉が美しかったので「紅葉坂(もみじざか)」と命名されたのであろう。別名「幸庵坂」ともいう。
江戸後期の国学者がこの坂の名を記しており「幸庵坂」の名は江戸時代すでにあったことが知られる。
  
     
           
        年代物のコンクリート製防火用水 "防火用水""天王寺町會"と右から書かれている    

天王寺五重塔  谷中7-5
この五重塔は、1908(明治41)年に天王寺より当時の東京市に寄贈されたもので、震災にも戦災にも遭遇せず谷中のランドマークになっていたが、1957(昭和32)年7月6日早朝、残念なことに心中による放火で紅蓮の炎に包まれ焼失してしまった。その五重塔は1791(寛政3)年に再建されたもので、高さ34m余で、関東一の高さを誇っていた。その再建の際のエピソードが幸田露伴の小説『五重塔』となった。塔跡には、花崗岩製の中心礎石と四本の柱礎石などが残っている。 
    

幸田露伴居宅跡 谷中7-18-25
露伴は、1891(明治24)年1月からほぼ2年間、この地(当時の下谷区谷中天王寺町21番地)に住んでいた。ここから直ぐ近くに天王寺五重塔があった。露伴は居宅より日々五重塔を眺め、1891(明治24)年11月に清兵衛をモデルに『五重塔』を発表した。傍らに植わっているサンゴジュは、露伴が居住していた頃からあったという。
           

谷中霊園
谷中霊園の面積は、約10万平米で東京ドーム2個余の面積を持ち、およそ7,000基の墓がある。ひとつひとつの墓地は大変余裕を持っている。その中に、徳川家十五代将軍慶喜や鳩山家(和夫、一郎、威一郎・乙8-4)、横山大観(乙8-4)、渋沢栄一(乙11-1)、宮城道雄(乙4-7)、森繁久彌(乙4-1)、河内桃子(乙2-1)、高橋お伝(墓碑のみ・甲2-1)、川上音二郎(甲2-3)など多くの著名人も眠っている。
 
     徳川十五代将軍慶喜の墓

初音小路  谷中7-18-13
マーケット風の飲み屋街、17店舗が営業している。
昭和の香りが焼き鳥の煙と一緒にただよってくる気がする。
 
谷中初音町
初音町(はつねちょう)という町名は、谷中初音町三丁目から四丁目にかかったところに「鶯谷」と呼ばれるところがあったことから、鶯の初音にちなんでつけられた。初音とは、その年に初めて鳴く鶯などの声のことである。
この付近では生姜がつくられていた。その後、ここの生姜は全国的に広がり、いつしか「谷中生姜」と呼ばれるようになった。                                      (下町まちしるべ)

夕やけだんだんと谷中銀座  谷中3-13-1
「夕やけだんだん」という変わった名前の坂である。
御殿坂の緩やかな傾斜道を上りきると、車道が突然階段に変わる。それほど急でも長くもない階段だが、その先の谷中銀座商店街に続いている。都内有数の夕焼けの名所で、夕日の当たる時間にここから見下ろす風景は、東京の原風景を思わせるという。 しかし、谷中銀座のはるか向こうに、今では高層マンションが数棟そびえていて、西の空の眺望を遮っている。調べると、この石段の辺りには、いわゆる谷中猫(野良猫)が多数生息していて、昼間には観光客にエサを求めたり、ひなたぼっこをする姿が多数見受けられる。とある、そういえば谷中霊園にも猫の写真をネットに載せると霊園が野良猫の天国のように思われるので自粛して欲しいような立札があった。
石段には野良猫はいなかったが、TVの録画どりが行われてテレビ局のスタッフとタレントがいた。



  
 
延命地蔵尊
よみせ通りの中ほどに安置されている地蔵菩薩は長野県南佐久より、1928(昭和3)年にこの地に移った。毎月24日の延命地蔵縁日には法要が行われ、露店が出るという。たまたま訪れた日が縁日当日であったのだが暑いので露店が出る時刻を遅らすという貼り紙があった。
    
「よみせ通り」の名のいわれは、
大正期に藍染川が暗渠となり、幅8mのとおりとなった。その通りに朝市がたち、生活必需品が揃う便利な通りとなった。人通りが盛んになったことで露店の夜店が軒を並べ、大道芸が口上おかしく黒山の集まりとなり、下町風情たっぷりで、買い物値引きのかけあいなど元気な呼び声が景況を盛り上げて夕涼みの夏の風物詩豊かな心憩う通りとなった。人の波で歩くこともままならないほどで、その盛況は夜更けまで続き、大変評判とな
り、誰いうとなく夜店通りと呼ばれるようになった。(延命地蔵内の掲示物より)

ひみつ堂  谷中3-11-18
「夕やけだんだん」を下りきって左側の道を少々進むと「ひみつ堂」の店がある。漢字を当てはめると「氷蜜堂」と書くようだ。天然氷を昔ながらに手動の氷かきを使って、旬の果実の純粋蜜をかけてお客に出し行列ができるこだわりの店である。
ということを1ヶ月後の新聞でしり追加掲載をした。
あの日、よみせ通り商店街から再び谷中銀座に戻ってきて「ひみつ堂」の前の道を歩いてゆくと、「夕やけだんだん」で見かけた録画撮りのテレビ局のグループがこの店から出てきた。『まだ谷中銀座を散策していたのだ。ところでこの行列をつくっているこの店は何なのか?』と店内を覗くと単に甘味処と思い行列の訳が分からず載せなかった。
        

岡倉天心記念公園  谷中5-7-10
日本美術の発展に多大な貢献をした岡倉天心の邸宅兼日本美術院跡に作られた公園。公園奥には写真のような六角堂が作られ、岡倉天心像が安置されている。公園なので幼児の乗物もある。
                   

蛍坂
近くの宗林寺周辺は江戸時代には蛍の名所「蛍沢」として知られており、その蛍沢に下る坂であることから「蛍坂」という名前になったと伝えられている、カギの手状の坂のようで、よみせ通りを歩いている時に自転車に乗った親子連れの母親が「きついけれど蛍坂を上がるからね」といった会話を聞き歩いてみた。この坂を上がると、観音寺の築地塀の通りとなる。


観音寺  谷中5-8-28
慶長年間(1596~1615)の創建で、もと本所弥勒寺末である。
赤穂浪士の近松勘六と奥田貞右衛門が、当時の和尚と兄弟であったことから、討ち入りの会合に寺が頻繁に使用され、討ち入り後に赤穂浪士供養塔が建立された。
谷中のシンボルのひとつ、築地塀(ついじべい)は観音寺の正面ではなく、左手を入った二間にも満たない狭い路地に沿ってのびている。築地塀は、補強のため層状に板や瓦を何層にも埋め込まれている。関東大震災で一部崩壊したものの、戦災を免れることができた。長さ37.6m、高さ2.06mの築地塀は、1992(平成4)年に「台東区まちかど賞」を受賞している。以来、谷中のシンボルのひとつとして、人々に親しまれる。
    

           

長安寺  谷中5-2-22
鎌倉時代の板碑3基、室町時代の板碑1基がある。開基より400年も前であることから、長安寺開基以前に真言宗の寺があったと伝えられておりで、そのころの板碑と思われる。谷中七福神の寿老人が祀られている。


喫茶店「乱歩」  谷中2-9-14  
地下鉄千代田線・千駄木駅から地上に出た団子坂三崎坂商店街にある。千駄木のあたりは江戸川乱歩が職業作家として世に出た「D坂の殺人事件」の舞台となったゆかりの場所だそうで、D坂で起きた密室殺人事件を"私"と"明智小五郎"が追及していくストーリだそうだ。D坂とは団子坂をもじったもののよう。D坂の途中の「白梅軒」という喫茶店が登場するといい、江戸川乱歩の作品に惚れ込んだマスターが、喫茶店の名前を「乱歩」としてしまったようだ。ドアにはやたらと猫の写真や絵が飾ってあるのが目につく。
                

指人形笑吉工房  谷中3-2-6 
千駄木駅に通じる三崎坂通りにあるせんべい屋裏の路地を入ってゆくと似顔指人形の店がある。。テレビや雑誌などで紹介されたことがきっかけで購入希望者が増え、評判も上々で出来上がりは、注文後2~3ヶ月ということのようだ。店内には、寅さん、プレスリー、八代亜紀などの有名人の指人形も飾られている。
           

千代田線・千駄木駅
           

根津神社 根津1-28-9
根津神社の由緒書きによれば、この神社を創建したのは日本武尊だと伝えている。祭神は須佐之男命・大山咋命・誉田別命の三体で、元は千駄木の別の社地に祀られていた。それを現在の地に遷座させたのは、徳川幕府の五代将軍・綱吉とのこと。 綱吉は、世継が定まった際に、自分の屋敷地を献納して、諸大名に命じて天下普請で権現造りの本殿・幣殿・拝殿・唐門・透塀・楼門を造営させた。神社の造営は1706(宝永3)年に完成した。そのときの建物は全てが現存し、国の重要文化財に指定されている。


根津神社はツツジの名所としても知られている。ツツジ苑の中を乙女稲荷の小さな鳥居の列が続いていて、それをたどっていくと六代将軍家宣公の胎盤が納められている 胞衣塚(えなづか)がある。
           

根津教会 根津1-19-6
1919(大正8)年に建てられ文化庁の登録有形文化財に指定。
            

千代田線・根津駅
「谷根千を行く」もこの駅でゴール。暑い中、右足首の痛みも発生して大変だった。
            

散策の道筋に見つけた一昔前の家
谷中岡埜栄泉(やなかおかのえいせん)  谷中6-1-26
          
            1900(明治33)年創業の和菓子屋

蒲生(がもう)家 谷中7-17-6

        以前は酒屋で、建物は明治のもの           "蒲生"の文字を焼いた瓦が屋根に

丁字屋 根津2-32-8 
     
 屋号は丁子巴の家紋から。神田鍛冶町で昔は紺屋(染物屋)だった。分家して1895(明治28)年創業

串揚げ処はん亭 根津2-12-15
                 
                     総ケヤキ造り木造3階建てで明治の建設         


「谷根千」は6月29日に行く予定を最初はしていた。
このBlogの内容は「谷根千」だけに絞ったが、計画では湯島に始まり、上野の山を巡って谷根千にはいり、東大を回って地下鉄・本郷三丁目駅を終点とした。初めて回るおのぼりさんの状態なので、資料を集めて、そこもここもと調べていくうちに散策場所が増えていった。そのためにコースが決まらず残念ながら29日には行くことが出来ずに後日となった。

そんな中、6月29日に「ちい散歩」の地井武雄さんが亡くなられた。翌日、遺作となった「大崎郁三の事件散歩」がテレ朝で特番として放送された。
10日ほどしてこの番組を観て鳥肌が立った。そのドラマの舞台が「谷根千」だからである。
それでなくても「ちい散歩」の番組が終わる1年ほど前から、放送数日前にちいさんの散策地を私が訪れていることが数々あったからである。〈 【追悼】「ちい散歩」の先取り散歩参照
地井さんが亡くなった日に遺作の舞台となった「谷根千」を予定していたなんて偶然すぎる偶然だと感じる。


そして、29日に回らなかったことについては、地井さんがこんなことを私にささやいたのではと思ってしまう。

「ヨー、ちい散歩の先取り散歩だか何だか知らないけれど、最後の谷根千だけは俺が先に案内するから、それを観ってからゆっくり回わってもいいだろ。
ヨー、そうしな」って。


その「大崎郁三の事件散歩」を紹介する。


故地井武雄さん遺作「大崎郁三の事件散歩」
ドラマの内容は、人情味あふれる元刑事・大崎郁三(地井さん)が街の人々とふれあいながら事件を解決する。

スタートは日暮里駅南の改札口の前。
「ちい散歩」よろしく
「みなさ~ん 最近歩いていますか。さあ、今日は東京の下町・谷根千という場所をのんびりと歩いてみたいと思います。」
と、「下町路地 ミステリーツアー」の旗を持って数人の参加者を連れて谷根千のガイドが始まる。
                    

ドラマの中に登場した場所を今回いくつか辿る。

へび道 谷中二丁目
不忍池に注いでいた藍染川を1922(大正12)年に暗渠にした道のこと。くねくねした川がそのまま道となったためへび道と呼ばれている。
      

大名時計博物館 谷中2-1-27 
館内は、陶芸家の上口愚朗が生涯をかけて収集した大名時計が、四方の壁に沿って展示されているという。月曜日休館ということで火曜日に伺ったのだが夏の3ヶ月間は全日休館。ガックリである。
ドラマでは、稲森明という近所の青年が事件に関係していないのかと正すシーンに使われた。
   

昔せんべい大黒屋 谷中1-3-4
手焼きせんべい店。
ドラマでは、キヌばあちゃんがせんべいを売っている。それが犯人のアリバイくずしのヒントとなり、事件解決へと進んでいく。
                    

フリップフラッペ
娘・可奈子が経営している「カフェド ヌーベル」の店兼郁三親子の住居。この店はGoogle地図で探した。
          


乙女稲荷神社 根津1-28-9
根津神社の一角に祀られている神社。
ドラマでは、犯人である柳瀬志保が犯行の全容を話す場面に使われた。


「ちい散歩」に登場した谷根千
番組の中で、地井さんは谷中銀座も回っているが、そのほかで印象に残った場所は

>ヒマラヤスギ 谷中1-6 
巨大なヒマラヤスギの下、駄菓子屋に近いレトロなパン屋。関東大震災にも戦災にも免れた長屋の建物。谷中のシンボル的なヒマラヤスギは戦前、鉢植えからの成長で80年以上の歴史がある。、米のとぎ汁が栄養とか。
「ちい散歩」では、この風景は街角の景観を形成している"まちかど賞"を受賞と解説し、地井さんの「今日の1枚の絵」で、ヒマラヤスギとみかどパン店を描いている。
          
          
ヒマラヤスギの前の小路はドラマにも登場している。

>玉林寺脇の路地にある井戸
みかどパン店の裏の道をしばらく進んで最初の右手の路地を入り、くねくねと道なりに進んでゆくとこの井戸がある。路地を挟んで向かい側の方が持ち主のようで所有者の札が貼ってある。
井戸ポンプは更新されているようで新型のようだ。
地井さんは井戸ポンプの場所を上から下りてきて、このようなことを語っている。
「昔の日本の景色みたいだ。本当にこんな景色があったな。」と。
       

この井戸を通って言問通りに面した玉林寺の門前で写真を撮っていると、現役のサラリーマン風の人が声をかけてきた。ヒマラヤスギから私の後をつけてきて本通りに出てきてホッとしたというである。それを聞いて私はゾッとした。地図は持ってはいるものの"感"で路地を歩いてきたので正解で良かった。間違って行き止まりに入っていたら・・・?
その人は絵地図的なものをあてに歩いているようで谷中ぎんざにはどのように行くのかと聞いてきた。
私はこのあと、昔せんべい大黒屋にむかう。

地井さんは昔の下町の風景が残っている「谷根千」が好きだったようである。


                                       《故地井武雄さんの月命日によせる》