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上野のお山あたりを巡る

2012-07-31 00:00:02 | 東京散策
上野のお山あたりを歩く
上野のお山は桜の名所として有名であり、博物館、美術館それに家族連れの動物園もある。
が、それ以外にも史蹟、名所など楽しめる場所がたくさんある。今回は、地下鉄千代田線の湯島駅に降りて不忍池や上野のお山周辺を周ってみた。


湯島天満宮  湯島3-30-1
湯島天満宮の参道は男坂と女坂がある。男坂の坂下には復興地蔵が祀られている。
1923(大正12)年9月1日に発生した関東大震災で被災された人々の冥福とこの地の復興を祈る地蔵である(右)。また、左の地蔵尊は戦後の復興時にある朝突然に出現し、その顔立ちから幸せを呼ぶ地蔵尊として親しまれているという。
 
湯島天満宮は、通称湯島天神。旧称湯島神社。古来より江戸・東京における代表的な天満宮であり、学問の神様として知られる菅原道真公を祀っているため受験シーズンには多数の受験生が合格祈願に訪れる。

境内の梅の花も有名で、この地の梅を歌った「湯島の白梅」(1942年)は戦中時の歌として大ヒットした。
              


旧岩崎邸  池之端1-3-45
    
旧岩崎邸は1896(明治29)年に三菱創設者・岩崎家本邸として建てられた。
英国人ジョサイア・コンドルによって設計されたもので、現存するのは洋館・撞球室(どうきゅうしつ・ビリヤード場)・和館の3棟である。
木造2階建・地下室付きの洋館は、本格的なヨーロッパ式邸宅で近代日本住宅を代表する西洋木造建築。
別棟として建つコンドル設計の撞球室(どうきゅうしつ・ビリヤード場)は当時の日本では非常に珍しいスイスの山小屋風の造りの木造建築で、洋館から地下道でつながっている。
洋館と結合された和館は書院造りを基調にされていて、広間には、橋本雅邦が下絵を描いたと伝えられる日本画などが残っている。

1961(昭和36)年に洋館と撞球室が重要文化財に指定。1969(昭和34)年に和館大広間は洋館東脇にある袖塀とともに、1999(平成11)年に煉瓦塀を含めた屋敷全体と実測図がそれぞれ重要文化財に指定された。室内の撮影が禁じられているので画像がないのが残念である。

岩崎家の家紋である「重ね三階菱」の意匠は三菱の社章となった。
  

境稲荷神社・弁慶ヶ井戸  池之端1-6-13
境稲荷神社の創建年代は不明だが、当地の伝承によれば、文明年間(1469〜1486)に室町幕府第九代足利義尚が再建したという。「境稲荷」の社名は、この付近が忍ヶ丘(上野台地)と向ヶ丘(本郷台地)の境であることに由来し、かつての茅町(現、池之端1、2丁目の一部)の鎮守として信仰を集めている。

社殿北側の井戸は、源義経とその従者が奥州へ向かう途中に弁慶が見つけ、一行の喉をうるおしたと伝え、『江戸志』など江戸時代の史料にも名水として記録がある。一時埋めたが、1940(昭和15)年に再び掘り出し、特に1945(昭和20)年の東京大空襲では多くの被災者を飢えとかわきから救った。
        


不忍池
               
不忍池(しのばずのいけ)は上野恩賜公園(東京都台東区)の中に位置する天然の池である。
弁天島に建つ石碑によれば、「不忍池」の名は、かつて上野台地と本郷台地の間の地名が忍ヶ丘(しのぶがおか)と呼ばれていたことに由来するとのことである。
現在の不忍池は、その中央に弁才天を祀る弁天島(中之島)を配している。15世紀頃には既に「不忍池」という名で呼ばれていた。また、池は遊歩のための堤で3つの部分に分かれており、それぞれ、一面が蓮で覆われる蓮池、ボートを漕いで楽しむことのできるボート池、上野動物園の中に位置しカワウが繁殖している鵜の池の3つである。
ところで、不忍池周回の競馬(上野不忍池競馬場)が行われたことがあったと、以前NHK-TVの「ブラタモリ」の番組で知った。
その競馬は、1884(明治17)年から1892(明治25)年まで春、秋の年2回開催されていた。1周1600mの長さがあり、観覧席もあった立派なもののようである。馬券の発売がなかったことで経営難となり中止となった。



不忍池弁天堂  上野公園4-17
不忍池を琵琶湖に見立て、竹生島の弁財天を模したのが不忍池弁天堂である。



西郷隆盛像  上野公園1-59
上野恩賜公園正面入口、石段を上った山王台広場に立つ西郷隆盛像は、武士・軍人・政治家である西郷隆盛(1828~1877)の1868(慶応4)年に江戸城を無血開城させ、江戸を戦火から救った功績によって1898(明治31)年に建立された。
愛犬をつれ、腰にわらの兎のわなをはさんで兎狩りに出かける姿である。そこには、西郷の高い人気があるために、反政府的機運を生み出さぬように、軍服姿ではなく、犬を連れて歩く庶民に親しまれる的姿にと政治的意図が働いていたと見られる。作者は、彫刻家高村光雲(詩人・高村光太郎の父)。
                      


彰義隊墓碑  上野公園1-59
寛永寺境内(現在の上野公園)で争われた上野戦争(戊辰(ぼしん)戦争の一部)で新政府軍と戦った彰義隊士の慰霊碑。
彰義隊は、鳥羽伏見の戦い(戊辰戦争の一部)で江戸へ逃亡した徳川慶喜の警護を担当していた藩士や新政府への不満武士、変革期に世に出ようとする人々が集まり「彰義隊」と名乗り、やがて上野の山を拠点として新政府軍と対峙し、1868年7月4日(慶応4年5月15日)上野戦争となった。新政府軍はアームストロング砲などで攻撃。当時の寛永寺建設物は消失。半日で彰義隊は新政府軍に激破され、残党は逃亡し、会津戦争へと移る。
 


上野大仏  上野公園4-8
1631(寛永8)年に造られ、度重なる震災によって数回首が落ち、今は顔だけが置かれている。これ以上落ちないということで、受験生の間では密かなお参りスポットとなっている。
          


摺鉢山
上野の山にこじんまりとした山がある。標高24.5m。この山はおよそ1500年ほど前の前方後円墳の古墳だったという。また、かっては清水観音堂が鎮座していた。
               


上野東照宮  上野公園9-88
正式名称は東照宮であるが、他の東照宮との区別のために鎮座地名をつけて上野東照宮と呼ばれる。徳川家康(東照大権現)・徳川吉宗・徳川慶喜を祀る。1627(寛永4)年)、藤堂高虎が上野の高虎の敷地内に創建した。社伝によれば、1616(元和2)年、危篤の家康から自分の魂が末永く鎮まる所を作ってほしいと高虎と天海に遺言されたという。現在の社殿は1651(慶安4)年に家康の孫である徳川家光が改築したものである。社殿は2009年1月から2013年まで修復工事が行われている。旧社格は府社。


寛永寺清水観音堂  上野公園1-29
                  
1631(寛永8)年に天台宗東叡山寛永寺の開山、慈眼大師天海大僧正によって創建された。寛永寺の堂舎のひとつ。京都東山の清水寺を模した舞台造りのお堂で、1631(寛永8)年、天海大僧正により建立された。また、御本尊も清水寺より恵心僧都(えしんそうず)作の千手観音(せんじゅかんのん)像を迎え秘仏として祀られている。



花園稲荷神社
古くは、上野の山の石窟の上にあったといわれ、「穴稲荷」とも呼ばれれ、江戸時代より庶民の信仰が篤き神社である。特に縁結び、子授けのご利益、効果で知られてきた。
                                  
創祀は大変古く細かくははっきりしないが、上野の山の守護神として晃海僧正が1654(承応3)年、社を再建されたと伝わる。
1873(明治6)年に花園稲荷と改名さるが、「忍岡稲荷(しのぶがおかいなり)」が正式名称である。
 

              


五條天神社
五條天神社は薬祖神としての信仰をあつめた神社で、室町時代中期には上野山に鎮座していることが明らかな区内でも有数の古社である。
主神に大己貴命(おおなむじのみこと)と少彦名命(すくなひこなのみこと)二柱の薬祖神を、相殿には菅原道真を祀っている。
縁起によると、今から1900年ほど前の第十二代景行天皇の御代、日本武尊(やまとたけるのみこと)が東夷征伐のため、上野忍が岡を通られた際、薬祖神2柱の大神に御加護を頂いたことを感謝されて、この地に両神をお祀りしたのが創祀だという。



森鴎外居宅跡  池之端3-3-21
1889(明治22)年3月、森鴎外(1862~1922)は海軍中佐の長女と結婚し、根岸からこの地(下谷区上野花園町11)に移り住んだ。その家は現在もホテルの中庭に残っている。家庭には恵まれず、長男が生まれると1890(明治23)年9月に離婚、翌年に転居している。
   


暗闇坂  池之端四丁目
文京区本郷から台東区上野に向かう清水坂の別名。
坂の途中にはNHK-TV「ブラタモリ」で放送された、旧都電の変電所で現在上野動物園のグッズを保管するレンガ造りの倉庫がある(画像左手の建物)。
       


東叡山寛永寺護国院(大黒天)  上野公園10-18
1625(寛永2)年、寛永寺の最初の子院として創建された。開基は生順。当初は寛永寺本坊の裏手、現在の東京国立博物館北側の寛永寺墓地の位置にあった。
1630(寛永7)年、天海によって釈迦堂が建立されると、その別当寺(管理寺院)となった。護国院は徳川家霊廟の建立に伴い2度にわたり移転し、現在地に移ったのは1709(宝永6)年のことである。釈迦堂は1717(享保2)年に焼失し、1722(享保7)年再建された。
             




東叡山寛永寺  上野桜木1-14-11
寛永寺は、京の都における比叡山延暦寺になぞらえて、江戸の鬼門・上野の忍岡に建立された。
徳川家の祈祷所・菩提寺として強大な権勢を誇り、徳川歴代将軍15人のうち6人(家綱、綱吉、吉宗、家治、家斉、家定)がここに眠っている。
寛永寺は天台宗の関東総本山で、山号を東叡山(とうえいざん)、すなわち「東の比叡山」と号し、京の宮都の鬼門(北東)を守る比叡山にあやかって、江戸城の鬼門を守る寺として建立された。創建は1625(寛永2)年、そのため当時の元号をそのまま寺号としている。
寛永寺を開いたのは、徳川家康・秀忠・家光の三代の将軍が帰依していた天台宗の僧・天海である。 17世紀半ばからは、皇族が寛永寺の歴代住職を務め、また日光山や比叡山をも管轄する天台宗の本山として機能したため、近世には寛永寺は強大な権勢を誇った。
その寛永寺も幕末の1868(慶応4)年、彰義隊の戦(上野戦争)の戦場となったことから、根本中堂をはじめ主要な堂宇を失い壊滅的打撃を受けた。 現在の堂は、寛永寺の子院・大慈院のあった敷地に、1879(明治12)年、川越喜多院の本地堂を移築したもので、寛永寺本来の建物ではない。この根本中堂の内陣には、秘仏本尊薬師三尊像が厨子内に安置されている。五重塔は1631(寛永8)年に建立された。しかし、8年後の1639(寛永16)年に焼失したので同年ただちに古河城主・土井利勝によって再建された。それが現在上野動物園の敷地内にある旧寛永寺五重塔(重要文化財)である。
 

               


東叡山浄名院  台東区上野桜木2-6-4
「言問通り」を挟んで寛永寺の反対側に道路面から一段低く寺の山門がある。「東叡山浄名院」の札がかかった享保年間(1716~35)建立の木造の門である。浄名院は天台宗の寺で、1666(寛文6)年、圭海大僧都によって創建された。当初は浄円院という山号で、東叡山寛永寺三十六坊のひとつとされ、四代将軍家綱の母・寶樹院の菩提寺である。東叡山と山号を冠しているが、1723(享保8)年に浄名院と改名し、寛永寺とは独立した寺として存続してきた。 この寺は、八万四千体地蔵の寺として知られている。その名の通り、一歩境内に入ると、左手に青銅製の巨大な地蔵菩薩座像がそびえ、その奥におびただしい数の地蔵菩薩の石造が、整然と並べられている。



ひとむかし前の建物・元居酒屋おせん  上野桜木1-14-25
BS-TBSの番組でも取り上げられた、おでんが売りの居酒屋のようで、女将が高齢で3年前に店は閉めたようだ(当時88歳)。
           



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