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柳家小満ん著「江戸東京落語散歩」

2010-02-04 18:11:27 | その他
                    
                    

 この本は小満ん師匠が演芸情報誌「東京かわら版」に5年間連載記事を本に纏めたのである。
この本の江戸近郊・2の章で川崎大師を訪れ落語『大師の杵』を取り上げている。空海上人と19歳の娘との話である。

この落語『大師の杵』は「地噺」と云って演者(落語家)が語りでストーリーを進めるもので、先代の三平師匠の『源平盛衰記』や昨年他界された円楽師匠のこの『大師の杵』が「地噺」の代表的な作品だと云う。
落語『大師の杵』ストーリーを追ってみると・・・

 空海上人25歳の年に、武蔵の国・橘郡(たちばなごおり)平間村の名主源左衛門宅に宿をとり、加持祈祷によって次々に訪れる病人を治した。その宿のひとり娘で19歳のおもよが上人に惚れ、ある日懐剣を手に言い寄る。上人は嘘も方便と今宵寝所に忍んで来るように約束をする。

 おもよが寝所に忍び込むと上人の代わりに餅つきの杵(きね)が置いてあった。これは上人が残した何かのナゾではないかと思い、一人娘と出家の身だから「想いきれ(杵)」と言うのかしら、はたまた「ついてこい(搗いてこい)」と言っているのか解らなかった。しかし惚れた弱み、上人を追いかけたが半狂乱となり杵を抱えて六郷の川に身を投げてしまった。

 翌朝、上人はおもよの骸(むくろ)に対面した。上人はその死を悲しみおもよの菩提を毎日弔い庵を造った、その庵の名を「おもよ堂」。それが人々の寄進によって徐々に大きくなり、今の川崎大師になった。伝説では、大師堂の奥には今も「弘法身代わりの杵」が安置されていると言う。


 そして、落ちになり噺は終わる。
この落ちは小満ん師匠著「落語散歩」を読むか落語『大師の杵』を聞いてもらうことにしよう。

 空海上人には23~29歳が空白の約7年間と言われおりこの時期上人の足跡が解っていない。その空白の7年間での出来事が落語『大師の杵』であり、平間村の伝承である。
その伝承について裏付けるようなおなじ話がある。それは江戸末期・松亭金水の人情本『閑情末摘花』の中に出てくる。

 それがどんな内容なのか。
人情本『閑情末摘花』は全五編巻からなっており、このうちの第三編巻之中に同じ話が載っている。
 少々長いが落語『大師の杵』と同じ話の部分をそのまま記すると、

 こゝに東海道川崎の宿のこなたなる、大師河原平間寺の本尊、厄除弘法大師の霊験、殊に新にして、貴賎道俗の男女この所に歩み運び、偈仰(かつごう)の首を垂れ身の災厄と穰(はら)はんと欲するもの。年中日毎に引きもきらず抑(そもそも)この大師の謂(いわれ)を尋ぬるに弘法は諡(おくりな)にて、生前(まえ)の名は空海といえり。桓武天皇の延暦23年に唐土(もろこし)へきたり、其後帰朝して紀の国高野山を開き給へり。かくて空海真言宗弘法の為、諸国を遍歴して42歳のとき、武州橘の郡に至り、一庄官(あるしょうや)の家に宿りけるに、其家に一人の女児(むすめ)あり。
空海に恋慕して旦暮(あけくれ)口説ともいえども、空海に出家堅固の人なれば敢えてその心に従はず女児はますます思い焦れ、命をかけていひ寄ほどに、空海ほとんど当惑して今宵人の寝定(ねしずまり)しとき我閨(ねや)へ来よいふ。女児は大きに悦びてその夜の更るを待つほどに、空海はそれよりにして家の内を見まはすに農家の事あれば麥(むぎ)をつく杵ありけり。これを屈竟(くっきょう)のものと思いわが閨へ持帰りたゞ宵の間に己れが像をかの杵に刻みつけ、横の内に押しいれて密かにここを脱出(ぬけいで)たり。
 かくとも知らで夜も深けたれば女児は髪をあげ化粧して空海が閨へ忍びゆき、見ればその人はあらずして、横の内には麥搗杵(むぎつくきね)に剋みたる像のみなれば、餘りの事に来れ果てしか忽地(たちまち)狂気の如くなり、彼杵に刻みたる空海の像を抱きツヽ、其処ともなく迷ひ出て、矢口の渡の漲(みなぎ)る水に身を投げて死にけり。夫(それ)より年経て漁人の、網にかけて引きあげしが、牡蠣殻多く着て有、是を本尊として平間寺を建立なしツヽとかの女児の菩提を弔いしと、後人の、傳ふる処は啌(うそ)か眞言(まこと)か、夫(それ)をば知らねと俚俗(ところのひと)の如此(しか)いへり。


 空海上人は没後90年近く経たのちに大師の呼称を贈られた。これを謚号(しごう)と云う。それ以降民間信仰の対象となり北海道を除く各地に五千以上の伝承が生まれた。
わが郷土、平間村の伝承もそのひとつであろう。


                

 
 


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