阪急嵐山線・嵐山駅から桂川の渡月橋を渡り、JR山陰本線を渡り、府道を何処までも直進して歩くこと20分、清涼寺の二階二重の山門(仁王門)に突き当たる。
嵯峨薬師寺はこの清涼寺境内西側に位置する。
お盆も終わった8月24日嵯峨薬師寺で「送り地蔵盆」が行われる。
ここは「生六道(しょうろくどう)」があった福生寺から数百mほどのお寺である。
「生六道」とは、平安時代、小野篁(おののたかむら・802〜853年)という人物が毎夜、東山・六道珍皇寺(ろくどうちんのうじ・大和王子通り四条下ル)の空井戸から冥土の閻魔様の元へ通っていた。「死の六道」である。そして、この世へ戻ってくる出口としていた空井戸が福生寺にあった。つまりは「生の六道」である。この福生寺は残念ながら明治の初めに廃寺となってしまい、井戸も現存していない。その福生寺の仏事や仏具などは嵯峨・薬師寺が受け継ぎ、それ以降「生の六道」となった。その際、小野篁作と伝わる「生六道地蔵菩薩像」もここに移されている。
小野篁は平安朝廷に仕えていた学者であり、歌人であり、陰陽師である。陰陽師といえば、安倍晴明(921〜1005年)が知られるが、晴明より遡ること約100年前にも陰陽師が存在していた。
「送り地蔵盆」当日は4本の竹が本堂前に建てられている。
この日だけ、本堂はご開帳である。
本堂前には「生の六道・小野篁公遺跡」と刻まれた石柱がたっている。
本堂に上がると、堂内は冷房が利いていて心地よい。「今年の夏はカラッとした暑さではなくムシムシしてますねェ」とタクシーの運転手が話していたが、本当に歩いていると汗で衣服が絡み着いてくる。
「写真 ご自由に」の貼り紙が掛かっている。板の間には椅子が並べられている。法要の準備も済んでいるようだ。
堂内の写真を撮っていると、予想より早い雨が降ってきた。時折強くもなった。1週間前の京都は道路のマンホールから水が吹いていたり、鴨川があと数十センチで溢れる映像が報道されていたが、今日はそれほどまでにはならないだろうが、予定を中断して、心地よい堂内で時を過ごすことにした。
ご開帳の堂内は、
中央にご本尊「心経秘鍵薬師如来」が鎮座されている。
嵯峨天皇の勅願による弘法大師・空海の作という。開眼供養を薬師寺で行ったところ、たちまち霊験が顕れ、万民は疫病から救われたといわれる勅封(=勅命によって封印する)の秘仏である。
明治に入るまで薬師寺は、嵯峨天皇勅願所として嵯峨御所(大覚寺)の保護を受け、さらに本尊・薬師如来像の厨子の開閉も大覚寺の手で行われ、薬師寺の住職には開けることすら許されなかったという。
本堂の向かって右側は「船上阿弥陀三尊像」
中央が阿弥陀如来像、左が勢至菩薩像、右が観音菩薩像の3体。いずれも平安時代の比叡山の恵心僧都(えしんそうず・源信・942~1017年)の作とされる。
縁起によれば、恵心僧都が、清涼寺に七日間参籠し、満行の日に高貴な尼僧が現れた。その尼僧の導きによって僧都は、紫の雲の中に船に乗った阿弥陀三尊が現れ、西の空へと向かっていくのを拝することができ、その感動を後世に伝えようと、阿弥陀三尊像を彫り、薬師寺に遺したと伝えられている。現在は船はなく、阿弥陀三尊像だけが遺されているとのこと。
堂内向かって左側に「生六道地蔵菩薩」或いは「生六道地蔵尊」が安置している。小野篁自身の作と伝えられている。
その左わきが小野篁木像、右わきの合掌している像は聖徳太子木像。
「生六道地蔵菩薩」は、地獄の亡者たちを救うために、亡者たちの代わりに地獄の炎で焼かれる地蔵菩薩の姿に感動した小野篁は、地蔵菩薩の像を創って祀ったと伝えられている。
また、小野篁像は、袖が上の方にまくり上がったような形をしているが、「地獄へ降りていく際にその風圧で袖がまくり上がった」ことを表しているのだとか。
地蔵菩薩の前の供え物は、「生御膳(なまごぜん)」という船。
「湯葉でこさえられた帆の立っている七種(なないろ)の野菜の船(かぼちゃの舟に湯葉の帆)」が供えられている。これはお盆に訪れるお精霊(しょうろう・お盆の時にあの世から来た死者の魂)さんをこの船に乗せて、彼岸へ送りだすという信仰である。
本堂の並びにある「日夕門」を潜ると三地蔵尊と数々の地蔵尊が安置されている。
三地蔵尊は、生六道地蔵尊の分身、夕霧地蔵尊、瑠璃地蔵尊である。
生六道地蔵菩薩の法要が檀家の参列で行われた後、本堂前では一年間に回向した経木が焚かれる。
我々、一般者もお焚き上げに参加できる。
「京の送り火」といえば五山の送り火であるが、この送り火で彼岸に戻れずこの世の残ってしまったお精霊さんを送る最後の送り火が、この薬師寺の「送り地蔵盆」という。
この火が尽きるて、七種の帆掛舟に乗ったお精霊さんがお帰りになり、京のお盆の行事も幕を閉じようとしている。
そして、暑い京都の夏も過ぎて行く。
嵯峨薬師寺はこの清涼寺境内西側に位置する。
お盆も終わった8月24日嵯峨薬師寺で「送り地蔵盆」が行われる。
ここは「生六道(しょうろくどう)」があった福生寺から数百mほどのお寺である。
「生六道」とは、平安時代、小野篁(おののたかむら・802〜853年)という人物が毎夜、東山・六道珍皇寺(ろくどうちんのうじ・大和王子通り四条下ル)の空井戸から冥土の閻魔様の元へ通っていた。「死の六道」である。そして、この世へ戻ってくる出口としていた空井戸が福生寺にあった。つまりは「生の六道」である。この福生寺は残念ながら明治の初めに廃寺となってしまい、井戸も現存していない。その福生寺の仏事や仏具などは嵯峨・薬師寺が受け継ぎ、それ以降「生の六道」となった。その際、小野篁作と伝わる「生六道地蔵菩薩像」もここに移されている。
小野篁は平安朝廷に仕えていた学者であり、歌人であり、陰陽師である。陰陽師といえば、安倍晴明(921〜1005年)が知られるが、晴明より遡ること約100年前にも陰陽師が存在していた。
「送り地蔵盆」当日は4本の竹が本堂前に建てられている。
この日だけ、本堂はご開帳である。
本堂前には「生の六道・小野篁公遺跡」と刻まれた石柱がたっている。
本堂に上がると、堂内は冷房が利いていて心地よい。「今年の夏はカラッとした暑さではなくムシムシしてますねェ」とタクシーの運転手が話していたが、本当に歩いていると汗で衣服が絡み着いてくる。
「写真 ご自由に」の貼り紙が掛かっている。板の間には椅子が並べられている。法要の準備も済んでいるようだ。
堂内の写真を撮っていると、予想より早い雨が降ってきた。時折強くもなった。1週間前の京都は道路のマンホールから水が吹いていたり、鴨川があと数十センチで溢れる映像が報道されていたが、今日はそれほどまでにはならないだろうが、予定を中断して、心地よい堂内で時を過ごすことにした。
ご開帳の堂内は、
中央にご本尊「心経秘鍵薬師如来」が鎮座されている。
嵯峨天皇の勅願による弘法大師・空海の作という。開眼供養を薬師寺で行ったところ、たちまち霊験が顕れ、万民は疫病から救われたといわれる勅封(=勅命によって封印する)の秘仏である。
明治に入るまで薬師寺は、嵯峨天皇勅願所として嵯峨御所(大覚寺)の保護を受け、さらに本尊・薬師如来像の厨子の開閉も大覚寺の手で行われ、薬師寺の住職には開けることすら許されなかったという。
本堂の向かって右側は「船上阿弥陀三尊像」
中央が阿弥陀如来像、左が勢至菩薩像、右が観音菩薩像の3体。いずれも平安時代の比叡山の恵心僧都(えしんそうず・源信・942~1017年)の作とされる。
縁起によれば、恵心僧都が、清涼寺に七日間参籠し、満行の日に高貴な尼僧が現れた。その尼僧の導きによって僧都は、紫の雲の中に船に乗った阿弥陀三尊が現れ、西の空へと向かっていくのを拝することができ、その感動を後世に伝えようと、阿弥陀三尊像を彫り、薬師寺に遺したと伝えられている。現在は船はなく、阿弥陀三尊像だけが遺されているとのこと。
堂内向かって左側に「生六道地蔵菩薩」或いは「生六道地蔵尊」が安置している。小野篁自身の作と伝えられている。
その左わきが小野篁木像、右わきの合掌している像は聖徳太子木像。
「生六道地蔵菩薩」は、地獄の亡者たちを救うために、亡者たちの代わりに地獄の炎で焼かれる地蔵菩薩の姿に感動した小野篁は、地蔵菩薩の像を創って祀ったと伝えられている。
また、小野篁像は、袖が上の方にまくり上がったような形をしているが、「地獄へ降りていく際にその風圧で袖がまくり上がった」ことを表しているのだとか。
地蔵菩薩の前の供え物は、「生御膳(なまごぜん)」という船。
「湯葉でこさえられた帆の立っている七種(なないろ)の野菜の船(かぼちゃの舟に湯葉の帆)」が供えられている。これはお盆に訪れるお精霊(しょうろう・お盆の時にあの世から来た死者の魂)さんをこの船に乗せて、彼岸へ送りだすという信仰である。
本堂の並びにある「日夕門」を潜ると三地蔵尊と数々の地蔵尊が安置されている。
三地蔵尊は、生六道地蔵尊の分身、夕霧地蔵尊、瑠璃地蔵尊である。
生六道地蔵菩薩の法要が檀家の参列で行われた後、本堂前では一年間に回向した経木が焚かれる。
我々、一般者もお焚き上げに参加できる。
「京の送り火」といえば五山の送り火であるが、この送り火で彼岸に戻れずこの世の残ってしまったお精霊さんを送る最後の送り火が、この薬師寺の「送り地蔵盆」という。
この火が尽きるて、七種の帆掛舟に乗ったお精霊さんがお帰りになり、京のお盆の行事も幕を閉じようとしている。
そして、暑い京都の夏も過ぎて行く。