モノトーンでのときめき

ときめかなくなって久しいことに気づいた私は、ときめきの探検を始める。

メキシコのサルビアとプラントハンターの物語 No9

2010-07-12 13:21:20 | メキシコのサルビアとプラントハンター
No9:チェリーセージ(Salvia gregii)と米国西部のフロンティアマン、グレッグ

(写真)サルビア・グレッギー


日本でもチェリーセージはポピュラーな花になった。暑さ寒さに強く、四季咲き性があるこの小潅木は,葉からセージ特有の薬臭い香りがストレスを癒す働きがある。
しかしチェリーセージは、3種類の異なる種の総称として使われていて誤解が生じていることも否めない。

基本種でもある「サルビア・グレッギー(Salvia gregii)」は、メキシコ北東部の塩を意味するサルテヨ(Saltillo)で、アメリカ人の探検家・商人・医師・地図製作者のグレッグ(Josiah Gregg 1806 -1850)が1848年に発見・採取した。
サルティヨは、スペイン人が作った街で400年以上もたつ古い街であり、現在ではメキシコのデトロイトといわれるほど自動車産業が進出している。近くにはチワワ砂漠があるので乾燥した温暖なところのようだ。

ハーバード大学アーノルド植物標本館のデータには、グレッグは379種類の植物を採取しているようだが、サルビア属ではこの「サルビア・グレッギー」1種しか採取していない。というのも不思議だ。

「サルビア・グレッギー」に関してはここを参照

米国西部のフロンティアマン、グレッグの生涯
(写真)グレッグ

(出典)the Old Lewiston Schoolhouse Library and Museum
http://www.oldlewistonschoolhouse.org/web7.htm

グレッグに関しては、「サルビア・グレッギー」で以前に書いたものを加筆して紹介する。
グレッグは、多才な発展途上中の人だったようだ。
44歳でなくなっているが、彼が活躍していた時代は、日本では江戸から明治という激動の頃であり、米国では、東から西へというフロンティアスピリット真っ最中の時期でもあった。
彼を称して米国ではアメリカのフロンティアマンと呼んでいる。直訳すると「辺境の人」ということのようだが、イリノイ、ミズーリで育ち1824年彼が18歳の時に教師となったが、これ以降から「フロンティアマン(辺境の人)」として大きく人生が変わっていく。

彼は慢性消化不良と結核で病弱であり、1831年5月、彼が25歳の時に医者から自然の多いところで療養すると良いと言われ、学業をあきらめサンタフェ(Santa Fe、現在は米国ニューメキシコ州だがこの当時はメキシコの領土)行きの隊商に加わり貿易商になることを決意した。8週間で彼は完全に回復し、サンタフェで、貿易商サットン(Jesse Sutton)の帳簿係りの仕事を見つけ、そして、米国と北メキシコとの貿易商を目指した。

(地図)グレッギーが貿易商として活躍した地域(緑のピン)by google


1830年代に彼は、バン・ビューレンがあるアーカンソー州の北部にあるミズリーとサンタフェとの間での貿易取引に従事し、アーカンソーのバン・ビューレンからメキシコのチワワまでの新しい通商路のコースを切り開いた。
このコースの途中には、インディアンの居住地があり、西部劇で見る幌馬車に乗り点在する家々・村々を廻り、自然の脅威だけでなくインディアンにも襲われたようでありまさに西部劇そのものだったようだ。

このコースは、後にカルフォルニアの“ゴールドラッシュ”にあやかろうとする山師達のルートとなり西部開拓史のインフラとなるほどポピュラーになったという。
また、後の1849年からの米国陸軍マーシー大尉(Marcy ,Randolph Barnes 1812‐1887)の西部入植者の護衛通路でもこのルートが使われた。

グレッグの健康も回復し商いも順調に行き10年後にはかなり成功したという。しかし、彼が非凡なのは、38歳の時の1844年にサンタフェでの商売での経験をまとめた『Commerce of the Prairies(大草原での取引)』という博物誌を出版したことだ。斜め読みする限りでは、観察眼に優れ当時の情景が浮かんでくる読み物となっている。


この本は大成功を収め、米国だけでなくイギリス、フランス、ドイツでも翻訳され出版されたというから、商人から一躍著述業・文化人となり、地図、地質、木の種類、人々の生活、政治状況などの権威ともなる。いわば、米国南西部とメキシコの北部地域の博物学・文化人類学・植物学・政治経済学などの権威となったのだ。

米国南西部から北メキシコ地域は、それだけまとまった情報が無かった地域であり、1850年代後半には、米国国務省も西部への入植者の事故・死亡の多さへの対処を考えざるを得なくなり、マーシー大尉(Marcy ,Randolph Barnes 1812‐1887)を呼び寄せ西部移住のガイドブックをつくることになる。マーシー大尉は、西部への幌馬車隊入植者に付き添って護衛する任務をテキサス州などで行っていて、地図などを作っていたので適任者だった。

マーシーが1859年に作成したのが「大草原の旅行(The Prairie Traveler: A Hand-book for Overland Expeditions)」で、西部入植者のガイドブックとして実践に基づいたマニュアル本となっておりベストセラーとなった。

西部開拓史初期におけるグレッグそしてマーシー大尉の足跡の大きさがこれらからも伺える。

貿易商から探検家・植物プラントハンターへの変身と人脈
『Commerce of the Prairies(大草原での取引)』を出版した翌年の1845年に、グレッグは医学の学位をとるためにケンタッキー、ルイスビルの医科大学に入学し、1848年春まで一時医者をサルテヨ(Saltillo)で開業した。健康であれば学業をあきらめずに医学博士としてのコースを歩んでいただろうからこの果せなかった夢を実現したかったのだろう。

この医者時代に、ドイツ生まれで1833年のドイツでの学生主導での反乱・革命に破れスイス、パリなど逃亡生活を余儀なくされ、1835年に米国に移住した医師・植物学者・ナチュラリストのヴィスリゼヌス(Wislizenus ,Frederick Adolphus 1810‐1889)と知り合い、植物学にも興味を抱くことになる。

ヴィスリゼヌスは、1839年からセントルイスに転居し、1846年まで同じドイツ出身でミズリー植物園の創設者でもあるエンゲルマン教授(Engelmann, George 1809–1884)のもとで働き、1846年5月4日から1847年6 月8日までサンタフェ、エルパソ、チワワを通過してコアヴィラ(州都がサルテヨSaltillo).まで自費での探検旅行をした。しかし、テキサスへの領土野心を持った米国がメキシコに宣戦布告をしたのが1846年5月であり、スパイと疑われて6ヶ月拘留された。
この旅行では、帰国後の1848年に探検記を出版、また462種の植物を採取し、このことで彼を有名にした。

グレッグは、ヴィスリゼヌス、エンゲルマン教授と知り合うことで、プラントハンターとしての環境を整えたことになる。

この頃の米国とメキシコの関係
(地図)1847年までのメキシコの領土

(出典)ウィキペディア

米国は、現在の米国の中部全体に位置するルイジアナを1803年にナポレオン時代のフランスから1500万ドルという破格な安い値段で買収した。この時のルイジアナは、現在の米国全領土の1/4を占めほど広大な地域であり、この買収によって、太平洋岸の西部地域に進出する意欲が高まり多くのアメリカ人がメキシコ領北部そしてその先の太平洋側に流入してきた。

一方メキシコはといえば、1821年にスペインからの独立を宣言するが、この頃から現在のテキサス州に当たるコアウイラ&テキサス州(州都サルティヨ)にアングロサクソン系の入植者が来るようになり、1836年にはメキシコから分離独立してテキサス共和国をつくった。
ここが火種となり、1845年に米国はテキサス共和国を併合し、1846年5月にメキシコに宣戦布告をしアメリカーメキシコ戦争が勃発する。
この戦争はメキシコが敗北し、1848年2月のグアダルーペ・イダルゴ条約で、テキサス、カリフォルニアなどリオ・ブラーボ以北の領土を割譲し、メキシコは国土の半分ちかくを失った。

グレッグは、この戦争が起きた地域のことをよく知っているエキスパートであり、通訳・ガイド・通信員としてドニファン大佐(Doniphan, Alexander William 1808 – 1887))の隊に加わり、地図作成の情報を陸軍省のために収集した。
グレッグに植物学を教えたヴィスリゼヌスは、6ヶ月間メキシコ側に拘束されていたが開放された後は、ドニファン大佐の隊と共に行動しているので、ここでも二人は出会いがあった。
そして、「サルビア・グレッギー」は、この時に発見して採取したようだ。

グレッグ、サンフランシスコまでの新ルート開拓に向かう
メキシコとの戦争が終わった後のグレッグは、さらに未開拓地でありゴールドラッシュで沸いている米国西海岸のフロンティアにスイッチを切り替えることになり、1848年にメキシコ西部からカルフォルニア・サンフランシスコまでの探検旅行を行うことになる。

探検の目的は、太平洋に至るルートの発見とそのための地図作製、樹木・植物探索などで7人の探検隊を組織して出発した。道々緯度・経度を測ったり樹木植物の収集などを行ったので一日3~4km歩くのがやっとで、たちまち手持ちの食糧が底をつき飢餓との戦いでもあったようだ。ハーブといえば価値観があるが、野草を食べ飢えをしのいでいたという。
山を越え森林を抜け餓死直前に海に出会い、目的の太平洋に至るルート開拓が出来た。

がしかし、この探検隊はこの後仲間割れをして分裂してしまう。隊長グレッグと一緒に行動すると飢えてしまうということを知ったせいでもある。
グレッグはサンフランシスコに戻る途中に悪天候にあい落馬した。そして動けない彼は見捨てられ餓死した。1850年2月25日だった。

44歳の若さであったが、彼の名は、西部開拓史に残る探検家であり、採取した植物などは、セントルイスの著名な植物学者エンゲルマンに送っていたので、23種にグレッグの名前が残り、サルビア・グレッギーはそのうちの一つだが、米国の大植物学者グレイ(Gray,Asa 1810‐1888)によってその功績を讃えられ名付けられた。

さらに、サンフランシスコの南にフンボルト湾があるが、ここは1775年にスペイン人によって発見されたがそれ以降忘れられていた。グレッグ隊が再発見をしてそれを確認するために派遣されたモーガン将軍とローラヴァージニア達が1850年3月にフンボルト湾と名付けたという。

教師、行商の商人、雑貨屋の店主、医師、地図測量技師、探検家、ナチュラリスト、植物コレクター、作家などいくつもの顔を持つグレッグ。
好奇心がフロンティアを拡張しそれぞれに水準の高さを足跡として残していった。
「サルビア・グレッギー」は、フロンティアに咲いていた花であり、フロンティアをいくつも乗り越えていったヒトの花でもあった。
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