モノトーンでのときめき

ときめかなくなって久しいことに気づいた私は、ときめきの探検を始める。

ときめきの植物雑学 その15: 地殻変動から知殻変動になった?

2008-01-15 09:17:14 | ときめきの植物雑学ノート
その15: 地殻変動から知殻変動になった?

16世紀、「草本書の時代」までの知殻変動
16世紀~17世紀中頃までを「草本書の時代」という。
なじみがない言葉のようでもあるが、“草本”つまり植物についての
“これまで”と大きく違う研究成果の発表=著作物が多発された時代でもある。

それでは、“これまで”とは何時のことを言っているのだろうか?
さかのぼることなんと、西ローマ帝国崩壊の476年からともいえそうだ。
或いは、紀元1世紀のディオスコリデス『薬物誌』以来と言い切ってもよさそうだ。
西欧社会での植物への関心は、西ローマ帝国崩壊から1000年以上も
ディオスコリデスの上で足踏みをしていたようだ。

この眠りに入り16世紀に覚醒した要因には、知の移動という大きな地殻変動があった。

最初の地殻変動はローマ帝国の崩壊だ。
ローマの文化は、独創性がないがリアリティがあり実用性に優れていると言われている。
異民族・蛮族などとの戦いで勝利し領土を拡大できたのは、
戦うシステムのロジカルな構築と命を投げ出す兵士の処遇でのロイヤリティ管理に優れていたからといいたい。

塩野七生さんの『ローマ人の物語』では、
これを、“高速道路とハブ&スポーク”および“サラリーと市民権”というように表現していたと思う。
「全ての道はローマに通じる」といわれた道路の幹線ネットワークを構築し、
ケルンのような軍団駐屯地(ハブ)から、高速で兵士・武器・兵糧・指令を移動させ、
命を投げ出す兵士には、給与と定年後にはローマ市民権を与え開拓農民とするなど
征服した民と領土をも生かすシステムまでも構築し、
防衛ライン内の広い領土を、安い税金で効率的に治める統治技術を磨いていた。

ローマ人は、このような社会システムとか建築での現実の課題解決能力に優れていた。
しかし、哲学・芸術などの思考の対象は苦手みたいで、
ギリシャ文化及び国籍にかかわらず知識人・技術者を受け入れる政策を実行した。
このオープンマインド、言い換えれば、実利性・公平性などが
ギリシャの思索・創造性とあいまって、西欧文明のマザーになりえたと思う。

1000年以上もまわり道したのは?
4世紀からのゲルマン人の侵入などで、これまでの覇権システムが内部崩壊し、
身内に取り込んだゲルマン人の傭兵隊長に止めを刺され、西ローマ帝国は滅亡した。
ギリシャ・ローマの世界は、ビザンツ帝国が継承し、ギリシャ古典文化を保護した。
西ローマ帝国という身体は、分割され変遷していくが、
ギリシャ文明を継承できなかったのには何かしら理由がありそうだ。

それは、どうもギリシャ文明が難しかったからのようだ。
現実性・実用性のない学問はどうしたらよいのかわからない。
ということで、意思を持って引き継がなかったのではなく、
引き継げなかったのだと思う。
だから、原典の保存も気にせず、発展させようとすることもなく、
完成されたものとして、検証もせずに丸写ししていたのだろう。

さらに、
キリスト教がローマ帝国及びその後の時代で浸透・拡大するなかで、
文化を担っていたギリシャ人・ユダヤ人などの異教徒の知識人が、迫害を避けるため、
東方の都市に安住の地を求めて逃げ出していったことがあげられる。
異教徒排除のクローズドシステムが、1000年もの眠りにつくベットを用意したとも言えそうだ。

東方(イスラム圏)へ逃げた知殻変動
ヒトが逃げるということは、Know Who・ノウハウそのものがなくなることであり、
重要な書物なども持って行ったので、
イラン南部にあるジュンディシャープールが、イスラム以前からのギリシャ・インドの
学術が研究されており、ヘレニズム化したギリシャ学術の継承者となっていた。
9世紀には、サラセン人がこれらの文献を組織的にアラビア語に翻訳し、発展させることになる。
ギリシャ・ローマ時代の知識の成果は、ヨーロッパではなくイスラム世界で熟成されることになる。

残された
ギリシャ人のように知識を純粋に突き詰め体系化させることが苦手なローマ人、
その後を蛮勇で切り取ったが文明化されていないゲルマン民族国家にとって、
純粋知識よりも世俗での生きる知恵の方が重要であったのだろうか、
上書きされ評価される知識が生産された痕跡が少ない。

脱け殻の西欧社会での小さな光
芯がなくなり脱け殻になってしまった西欧の知の世界では、
1000年以上もの眠りに付くことになるが、
わずかに科学の火をともしていたのが、修道院でありそのネットワークであった。
本業が神に仕える業であるため、科学・芸術全般にまで手を染めるわけにも行かず、
その中では、医学・薬学などは維持された方だと思う。
しかし、ギリシャ・ローマ時代の科学成果を超えるレベルには至らず、
筆写・写本というコピー文化での誤字・脱字なども生産付加して行ったようだ。
アラビア語に翻訳されたギリシャの原典にふれるのは、なんと11~13世紀まで待たねばならなかった。

科学革命をもたらす近代の知の理解
この知識を今度は、アラビア語からラテン語に翻訳し、
ヨーロッパにブーメランのように戻ってくるのが11世紀から13世紀後半であり
ルネッサンスの原動力となった。

ルネッサンスは、
このような誤字・脱字・書き換えされ伝承されたコピー文化に対して、
1000年以上も前の、ギリシャ・ローマ時代のオリジナルに触れ、
これを理解できるレベルに達しているから起きた感動が
ここに戻って、ここからやり直そうと動機付けられたとも解釈できる。
1000年以上もの時間をかけてきたものを捨てようという勇気であり、
懐かしさや懐古趣味でおきたことではなく、オリジナルとの誤差の大きさ、
或いは間違った認識に気づき、科学的な思考を取り戻したのだろう。

植物に関してこれを言えば、
“自然を詳しく見て、正確に記述する。”というスタンスが成立した。
これは、文章でも絵でも同じスタンスだ。
レオナルド・ダ・ヴィンチの植物画のデッサンは、リアリティに描かれており、
画家・科学者ダ・ヴィンチの視線が現代と変わらないことが伺える。
この“見えたことを正確に記述する”ということについては、改めてふれてみたい。


<<ナチュラリストの流れ>>
・古代文明(中国・インド・エジプト)
・アリストテレス(紀元前384-322)『動物誌』ギリシャ
・テオプラストス(紀元前384-322)『植物誌』植物学の父 ギリシャ
・プリニウス(紀元23-79)『自然誌』ローマ
・ディオスコリデス(紀元1世紀頃)『薬物誌』西洋本草書の出発点、ローマ
⇒Here 地殻変動 ⇒ 知殻変動【その15】
・イスラムの世界へ
⇒Here 西欧初の大学 ボローニアに誕生(1088)【その13】
⇒Here 黒死病(ペスト)(1347)【その10】
・レオナルド・ダ・ヴィンチ(1452-1519)イタリア
⇒Here コロンブスアメリカ新大陸に到着(1492)【その4~8】
⇒Here ルネッサンス庭園【その11】
⇒Here パドヴァ植物園(1545)世界最古の研究目的の大学付属植物園【その12】
・レオンハルト・フックス(1501-1566)『植物誌』本草書の手本で引用多い、ドイツ
・李時珍(りじちん 1518-1583)『本草網目』日本への影響大、中国
⇒Here 花卉画の誕生(1606年) 【その1~3】
⇒Here 魔女狩りのピーク(1600年代)【その14】


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