モノトーンでのときめき

ときめかなくなって久しいことに気づいた私は、ときめきの探検を始める。

ときめきの植物雑学 :その3 17世紀の絵画の値段

2007-12-16 10:09:56 | ときめきの植物雑学ノート
その3: 17世紀の絵画の値段

その2では、
絵画の主役となった花の値段について書いたが、
17世紀は如何に人件費が安いとはいえ、
ユリの花1本の値段が、役人一人の年間給与に当たるというから
“記憶”だけでなく、 “記録” にとどめておきたくなって当然だ。

しかも、自己顕示欲を満足させる感動的な“記録”でなければならないはずだ。
感動的な記録となるためには、メモ的なスケッチデッサンではだめで、
絵画でなければならなかったと思う。

“記録”にとどめるには、描きたい衝動だけでは後世に継承することは出来ない。
そこには必ず、社会の仕組みとリンクしたファシリティ(装置)があるはずで、
“役に立つ”“美しい”“見せたい”“商売にしたい”などの社会・経済的なモチベーションがあるはずだ。

こんな近代人の欲求を持った金持ちが出現するか、
描きたいという欲望を持った絵描きと、
これを広める流通・広告代理店的な機能を持ったファシリティがなければ、
自然物を主役とした静物画の中で、花に絞り込んだ花卉画は成立しない。

わき道にそれるが、この当時の価値観として、“花は美しい”という概念はなかったようだ。
ユリ=聖母の純潔というような宗教的物語の中での象徴として描かれており、
ヤン・ブリューゲルからファシリティが整い、突然変わったとも言えそうだ。

17世紀初頭のオランダには、
16世紀からの商業・軽工業の発展で、富が蓄積してきており、
専門特化されていく画家と、その作品を受容するパトロンが存在していた。
17世紀オランダのパトロンは、
個々の裕福な市民、各種の同業者組合、宗教関係の同信会、市庁舎、自警団の役割の市民隊、
養老院・病院などの施設の理事会などであり、王侯貴族・教会が支えている他国と大きく異なる。

また、これまでの絵画の取引は、
画家のアトリエで直接取引、宿屋・額縁屋で展示販売というのがルートだったが、
1630年代には、パトロンと専門特化した画家をつなぐ機能としての専門画商が出現した。

専門画商の新しい機能は、絵画制作の“プロデューサー”であり、
画家との1年契約で、画商のいうとおりの絵を描くことで、
年間1,200ギルダーという報酬を支払った。というから
完成した作品の取り扱いだけではなく、顧客が求めるものを制作するプロデューサーともなった。

当時のフェルメールが生まれ育ったデルフトの町の賃金水準は、
大工仕事の手間賃が1日当たり1ギルダー、年間で200~300ギルダー、
陶器工場の経営者の年間収入が800ギルダーというから、
画家の収入水準は非常に高いといえる。

では、絵の値段はいくら位したのだろうか?
フェルメールが死亡し、その後の借金返済のために1696年に競売にかけられた
作品でみると
『牛乳を注ぐ女』(アムステルダム美術館) 175ギルダー
『デルフト眺望』(ハーグ マウリッハイム美術館) 200ギルダー

アムステルダムの市民隊から注文を受け制作したのが
レンブラントの大作『夜警』であり、この絵の値段は1600ギルダーだった。

当時の超一流画家の絵の値段はやはり高かった。
頂点が高ければ、裾野が広くなるのはモノゴトの基本構造であり、
これを維持できるパトロンがいたので、植物の中での花に特化した絵の分野が成立した。

宮崎県串間市の沖合いに幸島(こうじま)という無人島があり、
ここのサルは、砂が付いたサツマイモを海水で洗い、塩の調味料をつけて食べたサルがいることで有名だ。
この新しい習慣が、同時多発的に他府県のサルでも観察され、
幸島のサルが脱走し、塩水で洗ったサツマイモはおいしいという普及活動をおこなったとしか考えられない。
しかし、幸島は無人島であり海を渡らないといけないない、
相当のスピードで全国行脚をしなければならないなど
新しい文化の普及活動を幸島のサルが実施するのは困難であり、
ある一定の環境が整うと、同時多発的に文化が花開くと考えると納得するところがある。

花卉画(かきが)は、オランダだけでなく、
17世紀初頭のヨーロッパ各国で同時に花開いており、
“花の美しさ”に気づいたのではないだろうか。


前編はこちら
<ときめきの植物雑学>
その1:花卉画の誕生

その2: 花の値段

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